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2018年8月10日 (金)

言葉の移りゆき(111)

ヒーロー主義と商業主義の高校野球

 

 ほぼ50年前の高校野球の報道に比べて、現在の紙面は豹変してしまっています。決勝戦を報ずる2つの紙面からも、それは感じ取れます。

 

 試合は津久見の先攻で始り、二回表四番吉近が四球を選び足立の犠飛で生還して先取点をあげ、さらに三回表にも三本の長短打と一失策で2点を加えた。柳井は八回裏、敵失に乗じて二本の安打をあびせ、1点を返し、最終回にも一死一、二塁と必死に迫ったが、津久見・水江投手を中心とした堅い守りにはばまれて無念の涙をのんだ。

 (朝日新聞・東京本社発行、1972年8月23日・夕刊、3版●●、1ページ)

 

 野球はチームプレイであることをきちんと理解して、記者は文章を綴っています。現在の紙面のように、試合経過はそっちのけで、特定のイニングの、特定の選手のはなばなしい活躍のみを報じる姿勢とはまるで違っています。

 この記事の見出しは、〈津久見が初優勝 / 3-1 柳井の追撃及ばず〉です。ヒーローがいたとしても、チームの陰に隠れています。

 その2年後の高校野球の決勝戦を、見出しだけ引用します。

 

 銚子商、出場8回目の快挙 / 6回、驚異の集中打 / 二死から一挙に6点 / 土屋完封 初陣防府商も健闘

 (朝日新聞・東京本社発行、1974年8月20日・朝刊、13版、15ページ)

 

 この記事には、〈救われた土屋 / バックスが強力な援護〉という見出しの文章と、〈敗戦にも淡々 / 防府商の井神投手 / 「欲持ったのが失敗」〉という見出しの文章とがあります。見出しだけで見ても、高校野球の純真さが読みとれます。チームとして戦っている様子も濃厚です。たった一人の選手をヒーローにまつりあげる、現代の記者たちとは精神が違うように感じます。

 この見出しには、投手の名前は出てきますが、打者を大袈裟な扱いにしていません。

 偶然かもしれませんが、この4つのチームはすべて公立高校です。学区で区切られた高校生でチームを編成して、教育の一環として戦っています。

 

 社会の出来事は、どんなに重要なことであっても、その場に記者がいなければ、伝聞の記事にならざるを得ません。それに対して、スポーツの報道は、出来事が起こるはずの場所へ記者が大挙して押しかけていますから、いくらでも記事が書けるようになっています。スポーツ記事の大袈裟さは、これからも拡大していくのでしょう。

 そして、スポーツが商業主義に組み入れられてしまっています。資金のある学校が強くなり、それをもとに発展を遂げていくことになります。新聞は、そんな仕組みに加担していることに気付いていないはずはありません。

 

 輝け、大垣日大! 第100回全国高等学校野球選手権記念大会

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月9日・朝刊、13版、16ページ、日本大学の広告)

 

 1ページの紙面の3分の1ほどを占めるカラー広告です。大会の途中に、このような激励広告が載っています。広告を載せるだけの効果があると判断しているのでしょう。公立学校にはこのようなことができるはずはありませんし、そんなことをする必要もないでしょう。

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