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2018年8月12日 (日)

言葉の移りゆき(113)

「人々が言っている」言葉と、「報道が勝手に作る」言葉

 

 とかく新聞や放送の世界では、大袈裟な言葉が大好きです。一見すると、それはテレビに多いように感じますが、新聞とて負けてはいません。「〇〇の神さま」「〇〇の王者」「〇〇の聖地」、名人、カリスマ、レジェンド、巨匠、メッカ、……。なんでもないものに対してそんな称号を与えています。新聞や放送は、毎日毎日、そのような人や物を作り出しているのです。

 どのように作り出すか。それは一見、遠慮がちに、自然な趣を装います。そして、あっと言う間にその言葉を表に押し出すのです。

 その具体例です。奈良県大和郡山市に、金魚を数える人がいるという話が載っていました。

 

 「片方の手だけ4匹とか3匹という場合もあります。そんな時は、次にすくうときに6匹のせたり、7匹にしたりして、数を読みながら調整するんです」。秒単位の動きの中でそんなことまでしてるなんて、いやはや「神の手」と呼べそうな技だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月11日・夕刊、3版、4ページ、「まだまだ勝手に関西遺産」、小滝ちひろ)

 

 熟練した技かもしれません。これまでならば「熟練」とか「ベテラン」とかの言葉で表現していたのでしょう。金魚すくいの金魚の話ですから、郡山の地方色のある話題なのかもしれませんが、これが「遺産」とは、大袈裟な取り扱いです。

 本文では、〈「神の手」と呼べそうな技だ。〉と少し遠慮がちな表現ですが、見出しになると、堂々と〈金魚数える「神の手」〉となっています。この「神の手」は、「いわゆる」というような(遠慮がちな)意味のカッコではなく、その言葉を強調するためのカッコになっているように思います。こんな風にして、大袈裟な言葉は作られていくのです。

 世間の人が口を揃えて「あの人は名人だ」と言えば、それは世間からの評価です。けれども、この記事の場合は、記者が〈「神の手」と呼べそうな技だ。〉と書き、見出しでは〈金魚数える「神の手」〉と断言しているのです。これは、報道機関が勝手に作り上げた言葉です。そして、世間には、その言葉が広がっていくのです。

 その広がり方も、人々がその言葉を認めて使い始めるということではないようです。新聞や放送がその大袈裟な表現を繰り返したり、それに輪をかけたような表現をして、定着させていくということが多いように思います。

 報道機関は、言葉に対して、もっと控えめで謙虚な姿勢を持たなければならないと思います。客観報道などという言葉が死語になって、書く人の言いたい放題になってしまってはいけません。

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