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2018年8月31日 (金)

言葉の移りゆき(132)

差別意識丸出しの高校野球報道

 

 ひとつの学校の硬式野球部の監督が身を引くことが、これほど大きなニュースになるとは思いませんでした。記事のスペースは大変なものですが、見出しだけを引用します。

 

 高嶋監督が勇退 / 智弁和歌山 甲子園最多68

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・夕刊、3版、1ページ。見出し)

 

 打撃優位の平成象徴 / 高嶋・智弁和歌山監督勇退

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・夕刊、3版、7ページ。見出し)

 

 「野球への情熱すごかった」 / 高嶋監督勇退 名将ら惜しむ

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月26日・朝刊、13版、14ページ。見出し)

 

 「ノックできなくなった」 / 智弁和歌山 高嶋監督引退

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月26日・朝刊、13版、31ページ。見出し)

 

 1面、社会面、スポーツ面に大きな見出しで、長文の記事を載せています。

 4本の記事のうち最後のものは「引退」になっています。

 「引退」とは、現役から退くことですが、特別の職業や地位から身を引くことに使われる言葉です。「勇退」とは、後進に道を開くために自分から進んで身を引くことです。監督本人の気持ちは、引退に近いのか勇退に近いのかはわかりませんが、4本目の記事の見出しの場合は、「ノックできなくなった」と「勇退」とは矛盾するように感じられますから、「引退」としたのでしょう。

 ところで、この日は、全国高等学校軟式野球選手権大会が明石市内と姫路市内の球場で開催中でした。硬式野球の場合は朝刊・夕刊を問わず、取るに足りないような内容でも大げさな記事にして連日、1面トップに掲載し続けたのに、軟式野球の場合は8月25日・夕刊には、それに関する記事は何一つ掲載されていません。8月26日・朝刊には、「野球への情熱すごかった」の記事の下部に、それよりも少ないスペースで、6試合の結果がささやかに掲載されているだけです。たったひとりの監督の引退の方が、軟式野球の全国大会に比べて、何倍ものニュース・バリューがあるのです。もちろん、それは新聞社が報道価値を決めているのです。

 ほとんど年がら年中、高等学校の硬式野球に記事を載せ続けおりながら、軟式野球は全国大会であっても軽々しい扱いにしています。年間を通じて見ると、軟式野球の報道スペースは、硬式野球の100分の1にも満たないことは明白です。これはいったいどういう考えに基づいているのでしょうか。突き詰めて言えば、高等学校のスポーツを、教育的な観点を含めて報道する姿勢に欠けています。硬式野球だけを新聞社の方針にして、センセーショナルに商業的に、そして勝利至上主義的に報道しているように思います。眼中にあるのは、特定の強豪校であり、注目を集める一握りの選手たちであるような報道姿勢です。あまりにも差別意識の強い報道姿勢です。もちろん、記事のひとつひとつは、綺麗な言葉に彩られていました。

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2018年8月30日 (木)

言葉の移りゆき(131)

「カリスマ」の量産

 

 世の中には「カリスマ」が大勢います。あまりにも多数ですから、「カリスマ」の価値は下落しています。それでも「カリスマ」を量産しています。

 よほどの変わり者でない限り、自分で自分のことを「カリスマ」などと言う人はいません。「カリスマ」を量産しているのは新聞や放送です。この言葉には、毎日のように出会います。

 

 サラダ主体の総菜店「RF1」を全国展開し、会社は調理済み食品を持ち帰って食べる「中食」市場を切り開いた。そのカリスマ創業者の岩田弘三氏から一度は託されたものの、経営環境が不透明になったとして差し戻しに。「この2年間の成長をみて機は熟した」(岩田氏)と、再登板を告げられた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・朝刊、13版、7ページ、「新トップ2018」、久保田侑暉)

 

 「カリスマ」は、英雄や支配者などが持っている、人々を心服させて従わせる資質や能力のことです。小型の国語辞典では、「人々を惹きつけ従わせる超人的な資質・能力」となっていて、英雄や支配者に限らず、どんな立場の人にも使えるらしいのです。だから、カリスマ美容師なども登場するのでしょう。

 そもそも、今では、他の人よりちょっとだけ抜きん出ていたら、「超人的」という言葉を使っていますから、一般の人と「超人の人」とは紙一重です。そして、一般の人と「カリスマ」も紙一重です。この言葉を使う人がカリスマだと思えば、それで「カリスマ創業者」は成立するのです。「人々を惹きつけ従わせる」ようなワンマンに近い姿勢があれば「カリスマ」の資格は具わっていることになるのでしょう。

 人々を驚かせるに足りる「カリスマ」という言葉は、もはや何の稀少価値も持ち合わせることかせなくなってしまったのです。さて、新聞や放送は、次はどんな言葉を使い始めるのか、興味のあるところです。

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2018年8月29日 (水)

言葉の移りゆき(130)

「普通車」と対になる言葉

 

 前回の「全車」に触発されて、書いておきたいことがあります。

 鉄道で、「普通車」という言葉があります。この言葉と対になる言葉は、どういう言葉でしょうか。「全車禁煙」は高松・岡山あたりの話題でしたが、「普通車」というのは姫路・神戸あたりの話題です。

 姫路から神戸までを結ぶ山陽電気鉄道は、神戸高速鉄道を経て、阪神電気鉄道の大阪(梅田)まで直通特急を走らせています。阪神の直通特急も、山陽の姫路まで乗り入れています。

 その山陽電鉄は、駅の電光掲示や、駅や車内のアナウンスで「普通車」という言葉を使っています。「この特急は、明石()で、姫路行きの普通車に接続します。」というアナウンスや、「東二見()までは普通車が先に着きます。」という電光掲示などです。普通電車のことを「普通車」と言っているのです。

 一般に言えば、「普通車」の対は「グリーン車」「座席指定車」などだろうと思います。ひとつの編成の中で、普通車と、その他の種類の車両とが分けられるというのが通常の考え方でしょう。ところが山陽電鉄には「グリーン車」などはありませんから、混乱は起こりません。

 また、山陽電鉄では特急電車のことを「特急車」と言っています。「普通車」の対は「特急車」なのです。「普通電車」「特急電車」と言えばよいのにと思いますが、ずっと昔から、「普通車」「特急車」のままです。

 別の見方をすれば、普通列車仕様の車両が「普通車」で、特急列車仕様の車両が「特急車」という区分けも成り立つと思いますが、山陽電鉄は、編成両数の違いはありますが、すべての車両は普通列車にも特急列車にも運用が可能です。設備などの仕様で普通・特急に分ける必要がないのです。

 というわけで、普通列車としてのダイヤで運行する電車が「普通車」です。私は、このような呼び方を他の鉄道で見聞したことがないのですが、類似の例はあるのでしょうか。

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2018年8月28日 (火)

言葉の移りゆき(129)

 

「全車禁煙」は珍しいか

 

 喫煙を禁止する言葉は、生活環境の至るところに見られます。ほんとうは、そんな禁止の言葉がなくても、人の多いところでは喫煙を遠慮するのが、現代人の感覚のはずです。ところで、こんな記事を見かけました。

 

 高松発岡山行きの快速「マリンライナー」に乗り、一息つきました。前方の電光掲示板に〈全車禁煙〉という文字が流れていきます。

 ふと、「この『全車』は国語辞典になさそうだ」と気づきました。

 「全車」とは「全部の車両」または「電車全体」のこと。いたって普通のことばです。一般人の注意をひくことはまずないでしょう。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 「一般人」の私ですが、「禁煙」を広く徹底させるために、「全」を使った言葉はあちらこちらにあることに気付きます。ホテルなどの「全室禁煙」、ビルディングなどの「全階禁煙」、レストランなどの「全席禁煙」などです。

 筆者が、「全車」が国語辞典になさそうだ、と気付いたということは、新しく載せる候補にしたいという気持ちなのでしょう。言葉の用例を収集することは、私も日常的に行っています。「全車禁煙」という言葉を見たことはありますが、ああそうか、全部の車両が禁煙か、という程度で見過ごしてしまっています。

 『明鏡国語辞典』を見ると、「全車」はもちろん、「全室」「全階」「全席」も載っていません。飯間浩明さんの編集する国語辞典の最新版には「全室」「全階」「全席」は載っているのでしょうか。もし、そのうちのどれかが載っていなければ、「全車」とともに他の言葉も一括して載せてほしいと思います。

 けれども、「全〇」という言葉を網羅しようとしたら、その数は大変なものになるでしょう。「全車」はあるのに「全室」はない、「全席」はあるのに「全階」はない、と言い出したらキリがありません。「全車」という言葉は当たり前すぎて、何の新しみもないと感じている私は、「全室」や「全席」が国語辞典になくても、不自由さは全く感じません。

 

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2018年8月27日 (月)

言葉の移りゆき(128)

京阪神と東名阪

 

 京都・大阪・神戸は比較的、近接した都市です。京阪神という言い方はしばしば目にします。京阪神という言葉は京都・大阪・神戸の3都市を指すこともあれば、京都から大阪を経て神戸までの地帯を指すこともあります。「京阪神に1箇所ずつ拠点を設ける」というは前者、「京阪神を強い揺れが襲った」というのは後者の意味です。

 芸能生活50周年を迎えた落語家の月亭八方さんが話題になっている記事がありました。

 

 「50年の節目はさすがにやり過ごせない」との思いもあり来月から東名阪で記念落語会も開催。次世代へのバトンの渡し方も意識している。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月28日・朝刊、13版、9ページ、「TV笑ケース」、中西正男)

 

 道路名の東名高速や、鉄道(近畿日本鉄道)の名阪特急の名でわかるように、東名や名阪は2点間を結ぶものです。地帯を表しているのです。神奈川県下から静岡県下までの東名高速道路を利用することがあり、三重県下の駅から奈良県下の駅まで名阪特急を利用することもあります。

 東名阪を東京・名古屋・大阪の3都市と解釈することはできるでしょうが、その3都市は比較的、遠い位置にあります。京浜(東京と横浜) や阪和(大阪と和歌山)とは状況が違います。都市の頭文字を結んだ言葉を作ることが許されるなら、札東福(札幌と東京と福岡)などという言葉も成り立つことになります。

 月亭八方さんが、東京・名古屋・大阪の3都市で落語会を開くのか、東名阪(太平洋ベルト地帯)のあちこちで開くのかは、情報がないので、わかりません。

 

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2018年8月26日 (日)

言葉の移りゆき(127)

新聞の見出しは丁寧に

 

 新聞は小・中学生向けの国語教材を提供してくれます。新聞の見出しは、本文を読む前に情報を提供するものですが、見出しを読んで、頭が混乱することがあります。

 そこで、問題です。次の2つの見出しの「史上初2度目」と、「51年ぶり勝利お預け」というのは、それぞれどういう意味でしょうか。

 

 大阪桐蔭 春夏連覇 / 史上初2度目

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月22日・朝刊、13版、1ページ。見出し)

 

 東大出身・宮台 全力マウンド / 五回途中2失点 51年ぶり勝利お預け

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月24日・朝刊、13版、16ページ。見出し)

 

 第1例は、「初」と「2度目」の関係がわかりません。答えとして、〈「史上初」を「2度」も達成した〉、〈「史上初」と「2度目」とを達成した〉、〈「2度目」達成は「史上初」である〉、……、などが考えられます。もちろん理屈の通らない答えもありますが、そもそも見出し自体が、理屈の通らない表現なのです。

 第2例は、「宮台選手」と「51年ぶり」の関係がわかりません。主語が明確でないから、誰が「お預け」を食ったのかが謎です。答えとして、〈入団から「51年ぶり」に初めて「勝利」しようとしたが、それはお預けになった〉、〈前回の勝利から「51年ぶり」に再び「勝利」しようとしたが、それはお預けになった〉、……、などが考えられます。けれども宮台選手は51歳を超えたりはしていません。なんとも不思議な言葉遣いです。

 さて、第1例は、本文に、「史上初となる2度目の春夏連覇を達成した。」とあります。第2例は、本文に「東大出身投手が勝利すれば、これも1967年の井手峻(中日)以来、51年ぶりだった。」とあります。

 第1例は、助詞・助動詞などを省いて「史上初」と「2度目」という体言のような言葉を並べただけの、舌足らずな表現です。

 第2例は、離れた位置にある見出しの言葉、「東大出身」と「51年ぶりお預け」とが関係しているのです。こういう場合に「51年ぶり」と言うのが何とも不思議です。「お預け」を食ったのは、いったい誰なのでしょう。宮台選手でしょうか、それとも東大野球部(もしくは、東大OB選手)でしょうか、それともプロ野球ファンでしょうか。あいまいです。

 独りよがりの見出しは、読む人を混乱させます。もっと丁寧な言葉遣いが求められます。

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2018年8月25日 (土)

言葉の移りゆき(126)

「…しかない」という言い方

 

 「行くしかない」「読むしかない」という言い方は、そのような行動を避けることができないという意味です。

 この「…しかない」という言い方の例に、2つ出会いました。

 

 食べテツ&飲みテツに加え、鉄道がらみキャラクターを愛するキャラテツでもある私にとって、「これしかない!」と思える奴がいた。奥のとトロッコ鉄道(石川県能登町)のキャラ「のトロ」をフィーチャーしたカップ酒「清酒宗玄剣山」だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月29日・朝刊、be7ページ、「食べテツの女」、荷宮和子)

 

 「これしかない!」というのは、たぶん、最高の褒め言葉として使われているのでしょう。

 それでは、次のような表現をどう考えるべきでしょうか。明石商業高校が全国高等学校野球選手権大会の西兵庫予選で優勝したときの、応援団の様子を書いた文章です。

 

 七回には中軸の連打で3得点。応援団の嶋谷蒼君(1年)は「最高でしかない!」と跳びはねた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月28日・朝刊、第2兵庫()13版▲、24ページ、山崎毅朗)

 

 この記事の見出しは、〈七回「最高でしかない!」 / 明石商応援団〉となっていて、文章よりも前に見出しが目に留まるのですが、この言い方は理に叶っているのでしょうか。これも、最高の褒め言葉には違いありません。生徒の言葉を取り上げて記事にしているのですから、その言葉があったことは確かなのですが、それを見出しにして、言葉に市民権を与えたのは新聞社の判断です。

 この「…しかない」という言葉は、名詞、動詞、形容詞、形容動詞などに接続するようです。

 名詞の場合は、例えば「これしかない」のように、それが唯一の選択肢であることを表しています。褒め言葉のように使われることもあれば、二進も三進もいかなくなって残された唯一の道というような場合もあります。プラスとマイナスの両面を表すことができる言葉です。

 動詞の場合は、終止形に接続して、例えば「買うしかない」「逃げるしかない」のように、そうすることが唯一残された道であるという意味です。どちらかというとマイナスのイメージが伴います。

 形容詞の場合は、終止形に接続して、例えば「舞台の照明は、眩(まぶ)しいしかない」のように使われ、「舞台の照明は、美しいしかない」という表現には首をかしげます。すなわち、よくない評価を、強調して表現する場合には使われますが、望ましい評価を表現することには違和感を覚えるのです。プラスに使われることは少ない言葉だと思います。

 形容動詞の場合も、連用形に接続して、例えば「最低でしかない」のような、良くない評価には使われますが、「最高でしかない」には賛成できないのです。この場合も、よくない評価を、強調して表現する場合には使われますが、望ましい評価を表現することには違和感を覚えるのです。プラスに使われることは少ない言葉だと思います。

 というわけで、「最高でしかない!」という表現を認めることは、新しい使い方を認めるということになるのだろうと思います。

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2018年8月24日 (金)

言葉の移りゆき(125)

「もふもふ」は平仮名で書いてほしい

 

 例えば、毛糸で編んだものの手触りや目にした様子、動物の毛並みの手触りや目にした様子を、「ふわふわ」「ふんわり」「ふさふさ」などと言うのは昔からの言葉遣いです。「もこもこ」などと言うこともあります。

 そういう感触を表す言葉に「もふもふ」があることは、最近まで知りませんでした。

 NHKテレビに「もふもふモフモフ」という番組があり、それを紹介する記事がありました。

 

 犬や猫など、見た目が「ふわふわ」「もふもふ」している生き物たちを「もふもふ」と呼び、そんなもふもふの、かわいらしい姿や、面白い行動、うるっとさせてくれるエピソードが次々と登場する。

 全国の看板娘・息子として活躍する犬や猫を訪ねる「看板もふもふ」のコーナーでは、忍者の町・三重県伊賀市のお茶屋さんの看板娘が登場。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月10日・朝刊、13版、36ページ、「試写室」、鈴木友里子)

 

 難解な新語が多い中で、「もふもふ」は一見して、すぐに語感が理解できる言葉です。「もこもこ」と「ふわふわ」などが合わさった言葉のように感じますが、由来として正しいのかどうかはわかりません。先行する言葉とは無関係に、突如として湧き上がってきた言葉かもしれません。

 後日、この言葉を取り上げた記事がありました。

 

 犬や猫、ウサギ、アルパカ……。動物の豊かな毛並みの様子を、「モフモフしている」と表現しているのを見たことがありませんか? 毛足の長い動物をなでることを「モフる」、動物そのものをさして「モフモフ」と呼ぶこともあるようです。

 いかにも柔らかそうな雰囲気のあるこのことば、書籍の国語辞典にはまだ見当たりません。一方で、NHKでは動物番組のタイトルとして使われたり、SNSでは動物の写真に添えられていたりと、何かと目にする機会が増えています。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月25日・朝刊、10版、13ページ、「ことばの広場 校閲センターから」、市原俊介)

 

 けれども、「もふもふ」は平仮名で表記してほしい言葉です。「モフモフ」では外来語由来のようにも見えますし、やわらかさが損なわれます。

 余談ですが、〈書籍の国語辞典〉とは、ずいぶん寂しい表現です。まるで国語辞典の主流を電子書籍に奪われてしまったような印象が漂います。携帯電話の陰に隠れて、昔からあった電話機が「固定電話」になったり、ネットショッピングの隆盛によって、昔から長く続いてきた本屋さんが「リアル書店」と呼ばれたりと、言葉の変容は急激です。

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2018年8月23日 (木)

言葉の移りゆき(124)

公立高校が活躍する大会に

 

 100回を迎えた全国高等学校野球選手権大会は、何か月も前から全国の新聞で特集記事なども組まれて、お祭り気分に巻き込まれた感じでした。それが終わりました。

 今大会では、久しぶりに昔に戻ったような紙面に出会いました。

 ひとつは、秋田魁新報の2018年8月21日・電子版号外です。見出しは、〈金足農 準優勝 / 悲願の大旗に届かず〉です。誰がヒーローだなどという言葉はありません。先発メンバー9人の氏名・学年・出身中学校名が書かれています。全員が秋田県内の中学校の出身です。みんなで勝ち得た準優勝こそ称えるべきことです。ヒーローが生まれることが大会の目的ではないでしょう。

 もうひとつは、日本農業新聞の2018年8月21日・電子版号外です。見出しは、〈金農 殊勲の準優勝 / 感動ありがとう / 大阪桐蔭に2-13〉です。文章の末尾には「金農は、甲子園と農高に新たな伝説を刻み、次への扉を開いた。」と書かれています。全員のひたむきな努力が新しいページを開いていくのです。将来のプロ選手が生まれるかどうかということが大会の注目点ではないでしょう。人々は、強いものに感動しているわけではありません。

 けれども、新聞や放送の報道は、勝ち負けにこだわり、特定の選手の活躍ぶりを特筆します。観客や読者はほんとうに、そんなことだけを求めているのでしょうか。高校野球の精神はどこへ行ったのでしょうか。

 100年記念の記事は新聞にあふれていましたが、前身の全国中等学校野球大会がどのような目的や趣旨で生まれ、それが100年間どのように受け継がれてきたかということを詳しく報じる記事には出会いませんでした。第何回の大会でどの学校とどの学校が対戦し、どんな名勝負であったというような記事は数限りなくありましたが、この大会の教育的価値などが語られることは少なかったように思います。強い学校に注目し、ヒーローを称え上げるという姿勢に終始していました。その傾向は100回を迎えて、ますます大きくなっています。

 あるテレビ番組は、金足農業の18人の選手は全員が秋田県内の出身であるのに、大阪桐蔭の部員は北海道から沖縄に跨り、18人の選手のうち大阪府内の出身は5人だけだと伝えていました。勝つために全国から選手を集めることに、どのような教育的価値があるのでしょうか。かつては、熊本県の代表になった高校の18人に、熊本県出身者はゼロであるということが話題になりました。

 スポーツマンシップとかフェアプレイということが話題になりますが、高校野球にはフェアな精神が欠如しています。それは選手に欠如しているのではありません。大会関係者に欠如しています。学校の所在地だけで、その都道府県の代表校になるという慣行は改める時を迎えているでしょう。その都道府県の在住している生徒が、代表にならなければなりません。「スポーツマンシップ」や「フェアプレイ」は、言葉だけでなく、実質が伴わなければなりません。

 高校野球が大学野球やプロ野球に繋がり、商業主義に彩られたものであるのなら、野球部を柱にしている学校を集めて、全国私立高校野球選手権大会を、神宮や東京ドームで開催すればよいでしょう。その場合は、生徒の出身地などは問いません。どうぞ、全国から選手を集めて、チームを編成して戦ってください。

 金足農業のような公立高校が活躍できる大会がよみがえってほしいと願います。このようなチームが脚光を浴びるのが何年とか何十年とかに一度であってはなりません。

 それにしても、名だたる私立高校をなぎ倒して進撃した秋田県立金足農業高等学校の野球部はほんとうに立派でした。

 

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2018年8月22日 (水)

言葉の移りゆき(123)

「データ」とは何を指すか

 

 「データ(data)」という言葉の意味を『広辞苑・第4版』で見ると、次のように書かれています。新しい版では説明が加えられていったことだろうと思いますが、ともかく旧版ではこのようになっています。

 

 立論・計算の基礎となる既知の或いは認容された事実・数値。資料。与件。「実験-」

 

 ずいぶん簡単な説明でした。外来語としての「データ」は、客観的な事実とか、判断や推論の参考となる資料や情報とか意味を表す言葉から出発したのでした。

 ところが、現在では、パソコンに入力された文章や数値や図形なども「データ」と言いますし、映像として録画されたものや、音声として録音されたものも「データ」と言うように広がってきました。

 

 例えば、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の業務を巡る汚職事件を報じる記事の見出しに、〈接待 音声データ / 文科省汚職 元役員が録音か〉とあり、記事には次のような表現がありました。

 

 文部科学省前国際統括官の川端和明容疑者(57)が医療コンサル会社元役員の谷口浩司容疑者(47)から接待を受けた際の会話が、録音されていたことが関係者の話でわかった。東京地検特捜部はこうした音声データを入手しており、 …(中略)

 関係者によると、音声データは元役員が録音していたとみられ、接待の場で交わした会話が録音されていた。 …(中略)

 支払いにはクレジットカードが使われており、特捜部はカードの支払い記録などの関係資料から、前統括官が出席した接待の日付や参加者の特定を進めるとともに、接待の頻度や総額について詳しく調べている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月11日・朝刊、13版、29ページ)

 

 記事には、録音する行為は「録音する」と表現し、録音されたものを「音声データ」と表現するという、一貫した姿勢が見られます。昔は、録音されたものは「録音」とか「録音物」とか言っていたように思います。「録音テープ」という言い方も広く使われていましたが、テープが姿を消し、ITレコーダが使われるようになって「音声データ」という言葉が広まったのでしょう。

 この推移によって、「データ」の意味は、客観的な事実や、判断や推論の参考となる資料や情報、ということから拡大されて、録音されたものの内容が何であろうと「音声データ」と言われるようになったのだろうと思います。

 記事の後半に、〈カードの支払い記録などの関係資料〉という表現があり、これこそ原義に近い「データ」だと思いますが、それは「データ」と表現されていません。

 この現象は、「データ」という言葉の意味を拡大して使い過ぎていると考えるべきか、それとも、それを容認して、国語辞典の説明が追いついていないのだと考えるべきか、どちらなのでしょう。

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2018年8月21日 (火)

言葉の移りゆき(122)

「ありのまま」の欠如

 

 NHKテレビで放送された番組を評した記事がありました。「病院ラジオ」という番組のことです。

 

 患者さんや家族は赤裸々かつ淡々と、病気や家族への思いを語る。2人も笑ったり突っ込んだりうなずいたり。お涙ちょうだいにせず、普通に話すのが良かった。

 あおるようなナレーションもなく、心臓移植を待つ16歳の女の子が移植に成功した方の話に目を輝かせたり、リクエスト曲をBGMにリハビリで歩けた人の笑顔が弾けたり、院内をありのままに見せたのもよかった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月18日・朝刊、13版、14ページ、「TVがぶり寄り」、和田静香)

 

 大阪の国立病院の中庭に2日間だけラジオ局を開設し、患者さんや家族に話を聞いてリクエスト曲を流すという番組を取材したドキュメンタリーのことです。「2人」というのは、「サンドウィッチマン」という芸人さんのことです。

 「2人も笑ったり突っ込んだりうなずいたり。お涙ちょうだいにせず、普通に話す」、「あおるようなナレーションもなく」、「院内をありのままに見せた」という表現を読んでいて、現在のテレビ番組の多くが、その反対の位置にあるように思いました。

 つまり、出演者の喜怒哀楽の感情をおもてに出し、言葉はなるべく大げさなものを選び、あおりたてるような発音に終始し、画像は都合の良いところだけを切り接ぎして、しかも、何度も同じ場面やナレーションを流す……それがテレビの演出であるかのように誤解している人が多いのです。だから、その対極にある番組を見ると、心休まるのでしょう。

 大げさな、意図的な誇張は、ニュースのような客観姿勢を貫くべき番組ですら汚染されてしまっているように思います。テレビ番組を作っている人たちは、それに気付いていないのです。

 ラジオ番組にも誇張はあります。けれどもテレビほどには汚染されていません。「ありのまま」の度合いが、ある程度、保たれているのです。

 テレビの「汚染」の源はテレビ自体であり、テレビはその汚染の拡大再生産を繰り返しているように思います。宣伝効果を上げて、スポンサーからの収入を得ることが目的ですから、ますます、あらぬ方向へ突っ走っていくのでしょう。CMの部分だけでなく、番組自体が宣伝媒体そのものになり下がってしまっているのです。NHKですら、自己PRに血眼になっているのも気がかりです。

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2018年8月20日 (月)

言葉の移りゆき(121)

「個性」を分類する不思議

 

 ずっと昔、テレビの放送が始まった頃、まだNHKのテレビしかなかった頃、どこかの店や隣家などでテレビを見せてもらって喜んでいました。放送局がひとつしかなかった時は、落語もプロレスも自然風景もニュースも、放送される番組を食い入るように眺めていました。雑多と言えば雑多ですが、見る番組に広がりがあったのです。

 そして今、チャンネル数が膨張して、例えばゴルフ番組や競馬番組やアニメ番組だけを朝から晩まで見続けることが可能になりました。それによって、嗜好の狭まり(深化)が起こっています。

 読書も同じです。活字に飢えていた終戦直後、本であればもうそれだけで有り難く思った時代は、読書する範囲も広かったと思います。そして今、書物が氾濫する時代は、特定の分野だけでも、無数の本が手に入ります。読書対象の分野を狭めようとすれば、いくらでもそれが可能です。どちらが、ひとりの人間にとって望ましいことなのでしょうか。とりわけ、年若い世代が、興味・関心の対象を狭めてしまうことは良いことではないと思います。

 話題は変わりますが、「個性」というのは、個人または個々のものに備わっていて、他から区別されている固有の性質のことです。人間は、ひとりひとり異なった個性を持っています。そして、その個性がどのようなものであるかは簡単には識別できないのです。

 新聞で、〈個性にあった絵本お届け〉という見出しの記事を読みました。広告の記事ではありませんから、驚きました。記事は次のように書かれています。

 

 凸版印刷が7月から子どもの個性にあった絵本を選び、自宅に届けるサービスを始めた。 …(中略)

 子どもの知性を「視覚・空間」「音楽・リズム」「内省」「論理・数学」など八つに分類した「脳力指標」を開発。専用サイトで子どもの行動パターンに関する質問に答えると、子どもの知性の特徴を診断し、その子に合わせた絵本が自宅に届く。3~5歳の子どもが主な対象だ。 …(中略)

 記者も息子の個性診断を試してみた。44の質問に6段階で答えていく。その結果、息子が得意なのは「自然・博物学」「内省」「論理・数学」だった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月18日・朝刊、13版、7ページ、「ヒット!予感実感」、野口陽)

 

 本文にも「個性」という言葉が何度か使われています。会社側が商品名に「個性」という言葉を使っているのでしょうか、記者の判断で使っているのでしょうか。そもそも、行動パターンから、個性がわかるものなのでしょうか。しかもそれが8つに分類されていると言います。無数の個性を8つのうちのいくつかにあてはめるという、粗っぽい手法です。どうしてその8つに分類できるのか理解できませんが、それによって絵本を送りつけるというのは、指導というよりは商売の手法のように思われます。このようなものが「ヒット!」してよいのでしょうか。

 個性を育てるのなら、3歳や5歳の子どもには広い範囲の絵本を読ませるのが望ましいのではないでしょうか。この商売は、興味・関心や嗜好などの範囲を狭めていく働きをしているように思われてなりません。

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2018年8月19日 (日)

言葉の移りゆき(120)

「ミライトワ」と「ソメイティ」

 

 不思議な言葉に出会ったという印象が払拭できません。オリンピックとパラリンピックのマスコットの名前です。

 次のようなニュース記事を読みました。

 

 公式マスコットの名前が、五輪は「ミライトワ」、パラリンピックは「ソメイティ」に決まった。

 22日、大会組織委員会が発表した。

 ミライトワは、「未来」と「永遠」を結合。ソメイティは桜の「ソメイヨシノ」と英語の「so mighty(非常に力強い)」を掛け合わせた。

 小学生の投票で2月にデザインが決まった後、1998年長野冬季五輪のネーミングを手がけた業者が約30案を提示。英語、仏語など8言語で差別や中傷などの意味が含まれないかなどを確認し、大会組織委の審査会が投票で決めた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月23日・朝刊、13版、2ページ)

 

 名前を、ネーミングを手がける「業者」が提示するということを初めて知りました。どんな斬新なネーミングが約30案も提示されたのでしょうか。デザインは全国の小学生を総動員しておきながら、名前は大会組織委員会という密室の投票で決まるという、その落差にも驚きました。

 何よりもびっくりするのは、言葉の組み立て方です。現代語「未来」と、古語に近い「永遠(とわ)」を結び付ける神経、しかも類語を強引に一語にしてしまっています。

 更に驚くのは、桜の品種名である「染井吉野」と英語の「so mighty」を掛け合わせるという、どこの国の言葉だかわからない造語法です。

 国際的な大会だから、日本語もその伝統をうち破れということでしょうか。日本語の「ミライ」が、「非常に力強く」破壊されていくような危惧を持ちます。

 選ばれた言葉の音声的効果もよくありません。ミライトワは「未来とは?」と疑問を投げかけられているような感じで、「トワミライ」の方が耳には馴染みやすいように思います。「ソメイティ」は薬か何かの名前のような印象を持ちます。

 もう少し、音の印象が良く、ほんわかとしたネーミングにできなかったのでしょうか。もっとも、言葉というものは不思議なもので、連呼しているのを聞いているうちに耳に馴染んでしまうかもしれません。

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2018年8月18日 (土)

言葉の移りゆき(119)

「リアル」は本物か、本物に似たものか

 

 その記事にはたった一本の見出ししか付いていませんでした。〈リアルな星空見上げたら〉という見出しです。

 「リアル」はしばしば目にする言葉ですが、小型の国語辞典には、現実的であることという意味と、写実的であることという意味とが書かれています。

 『広辞苑・第4版』ですら、書かれているのは次のような意味です。

 

 ①実際に存在するさま。現実的。実在的。②真に迫ったさま。写実的。

 

 ここで、気になるのは、「リアル」という言葉は、現実に存在するもの自体を表しているのかどうかということです。現実的とか、写実的とか、実在的とか、「的」という言葉を使うと、そのものに近いけれども、そのもの自体でないような気がします。「実際に存在するさま」という説明も「さま」という言葉が曖昧で、現実に存在するもの自体にぴったり一致するとは言い難いような表現です。

 記事の見出しに戻ると、〈リアルな星空〉というのは、頭上に輝く星空そのもののことなのでしょうか。星空を忠実に再現した、例えばプラネタリウムで見る星空のことなのでしょうか。それとも、星空を写実的に描いて、現実の星空に近い雰囲気をそなえたものなのでしょうか。

 実は、この見出しは、記事を整理した人の勇み足のような表現です。記事には「リアル」という言葉は出てきません。その記事の見出しに、いろいろな意味に解釈できる「リアル」という言葉を使ったのが、よくないのです。

 記事の本文は、次のようになっています。関東地方に住む18歳の少女が、不登校となった中学時代に「ネット依存対策キャンプ」というものに参加したときの様子が書かれているのです。

 

 午後9時半の就寝前には皆で星座を数えた。「星ってこんなにあるんだ」。少女はいつまでも夜空を見つめていた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月18日・朝刊、13版、25ページ、「ネットネイティブ」、山田佳奈。見出しもこの記事)

 

 この記事はネット依存ということがテーマですから、「ネット」に対立する言葉として「リアル」を使ったのでしょう。けれども、「リアル」にはさまざまな意味があるということを忘れてはいけないでしょう。

 ついでながら、この記事には、上記の少女が「この春、東京六大学のひとつに合格した」と書かれています。東京六大学とは何なのでしょうか。野球の東京六大学に属する大学のひとつという意味でしょうか。彼女が野球部に入部するのなら、この表現に問題はありませんが、大学名を野球のリーグ名で分類するのは自然なことなのでしょうか。東都大学リーグの学校とか、首都大学リーグの学校に合格したなどという言い方はしないはずです。

 

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2018年8月17日 (金)

言葉の移りゆき(118)

「こと」ではもの足りない?

 

 前回の続きです。「事案」という言葉が、新聞の社会面にも現れました。「事案」が市民権を得たのなら、小型の国語辞典も、この言葉を掲載しなくてはならなくなるでしょう。

 山口県周防大島町で2歳児が行方不明であったのを、ボランティアの男性が発見しました。その男性への取材記事が掲載されました。

 

 また今回のような事案があれば、元気なうちはどこにでも飛んでいくつもりだ。「何事も、対岸の火事だとは思わずに行動できる人が、もっと増えてほしい」と願っている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月17日・朝刊、13版、30ページ、興野優平・原篤司)

 

 「今回のような事案」とありますが、これを事故と書くか、事件と書くか、それとも他の言葉を使うか、記者は迷ったのでしょうか。行政などが文章を公にするときも、言葉に迷うことがあるのでしょう。

 けれども、それをひとつひとつ、事故か、事件か、それとも他の内容かと、言葉を区別する必要があるでしょうか。社会面の記事で「事案」という言葉を見ると、仰々しいように感じます。「今回のようなこと」でじゅうぶんだと思います。記事を書く人は、それではもの足りないのでしょうか。何かに分類しなければという、記者の分析姿勢が現れたのでしょうか。

 しばらくは、「事案」という言葉がどのように現れるかということを見守りたいと思います。私にとっての「探究事案」の一つになりました。

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2018年8月16日 (木)

言葉の移りゆき(117)

内部で使うはずの「事案」という言葉

 

 8月15日に、「ひょうご防災ネット」からメールで、次のような文章が届きました。

 

 すでにテレビや新聞等で報道がされていますが、812日(日)に大阪府富田林警察署の留置施設から被留置者が逃亡する事案が発生しました。

 

 この件について、大阪府から兵庫県を通じて県内各市町村への注意喚起の協力依頼がありました。市民の皆様におかれましては、いつもにも増して、自宅等の戸締りを確実にしていただくとともに、不審な人物を見かけたら、すぐに110番通報をしていただきますようにお願いします。

 

 「事案」という言葉は、テレビ・ニュースなどで見る記者会見などで、これまでにも耳にした言葉です。けれども、なぜ「事件」でなく「事案」なのだろうと思います。「案」という文字が出てくることに違和感を感じていたのです。

 試みに小型国語辞典を見ると、『岩波国語辞典・第3版』『新明解国語辞典・第4版』『三省堂国語辞典・第3版』『現代国語例解辞典・第2版』『明鏡国語辞典』には出ていません。

 『広辞苑・第4版』には、次のように書かれています。

 

 (処理の対象とするしないにかかわりなく)問題になっている事柄そのもの。→案件

 

 ついでに「案件」を見ると、次のようにあります。

 

 処理されるべき事柄。議題とされる事案。「重要-を処理する」

 

 要するに、処理が終わっていないから「案」だと言うようです。事件が起きても、一定の処理が行われていない間は「案件」と言うのでしょう。

 この言葉は、組織の内部で使う言葉が、報道機関などを通じて一般社会に流れ出して、組織の側も一般向けに使ってもよい言葉だと考え始めたのかもしれません。

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2018年8月15日 (水)

言葉の移りゆき(116)

「くさい」という言葉の複合語

 

 「くさい」という形容詞は、鼻について嫌なにおいがするということが主な意味です。

 けれども、複合語として使う場合は、「焦げくさい」はにおいに関する言葉ですが、「邪魔くさい」「面倒くさい」「古くさい」「陰気くさい」となると、においのことではなくなります。それらに共通するのは、いかにもそれらしい感じがする、という意味でしょう。けれども、嫌な感じであることには変わりがありません。

 例えば、「おじんくさい」とか「年寄りくさい」とかは、老臭がするという意味よりは、老人っぽい行動や仕草や、ものの考え方などを指しているように思います。においのことに限定する場合は、「おじんくさい臭いがする」「年寄りくさい臭いがする」と表現するのが、私にとっての日常語の世界です。

 こんな記事を見ました。

 

 小6の娘から「パパったら何だかパパくさい」と言われるのだ、と40歳代後半の同僚が話す。「パパくさい」のアクセントが「低高高高低」なのだとか。ここにえも言われぬ残念さがあるような……。 …(中略)

 「くさい」には「いやなにおい」だけでなく、「いかにもそれらしい雰囲気がしていやな感じがする」という意味もある。もしかしたらオヤジくさいは、においだけではなく、その「生態」によるところ大かもしれない。「パパくさい」と可愛く言われているうちが花かもしれないね。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月18日・夕刊、3版、7ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 「パパくさい」も、私の日常語の感覚から言えば、(子どもの世界から離れて)いかにも父親っぽい言動などをしている、という意味です。記事で言うところの「生態」です。複合語として使われる場合は、「パパくさい」をにおいのことに限定する必要はないと思います。

 言葉の変化(変遷)を考えてみます。もともとは、「パパ」と「くさい」が別の言葉として使われて「パパは、くさい」であったのでしよう。この場合の「くさい」はにおいのことです。それが短く「パパ、くさい」となり、さらに短く(塾合して)、複合語としての「パパくさい」になったのではないでしょうか。

 このように考えなければ、「パパくさい」という複合語がにおいに限定して使われるということが説明できないように思えるのです。

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2018年8月14日 (火)

言葉の移りゆき(115)

番組欄のラジオ冷遇と、記事のいい加減さ

 

 災害が起こるとラジオの有り難さがわかります。けれども、普段はラジオを聴く人が少ないかもしれません。

 ラジオの価値は、災害時の放送だけに限りません。テレビが画面と音で即物的に表現するのに対して、音だけのラジオは想像力をかき立てる力を持っています。人間には創造力や想像力が必要だと声を大にして唱えても、テレビの画面や音に支配されている毎日では考える力もしぼんでしまうかもしれません。

 さて、新聞のテレビ欄に比べて、ラジオ欄は冷遇されています。例えば、6時間近くの長時間番組であるNHKラジオ第1放送の「ラジオ深夜便」の紹介は、こんな具合になっています。

 

 11.15 関西発深夜便 住田功一 列島エッセー▽アジア▽歌

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月10日・夕刊、3版、7ページ)

 

 11.15 関西発深夜便 住田功一 くらしのたより街は生き▽日本の歌▽ことば選

 (読売新聞・大阪本社発行、2018年8月10日・夕刊、3版、7ページ)

 

 たったこれだけの言葉で5時間近い番組の内容を紹介したことになるのでしょうか。ほとんど単語を並べているに過ぎないのです。この記事を初めて見た人は、番組を聞こうとする気持ちを持つでしょうか。

 駄弁を弄して視聴者を呼び寄せようとするような、テレビ欄の書き方とはまったく異なっています。ラジオを冷遇している、などという言葉で表現しても言い足りません。

 ところで、時々、ラジオ番組を紹介する記事が載ります。

 

 関西発ラジオ深夜便 ★NHK① 夜1115 日本列島くらしのたよりは、奈良市の話題を届ける。ほかに、明日の日の出などのコーナーを送る。アンカーは住田功一。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月10日・朝刊、13版、22ページ、「ラジオ」)

 

 わざわざの紹介記事ですが、テレビの場合なら、毎時の番組表に組み入れられるような文字数で、むしろそれよりも短い内容です。これでは番組全体の紹介にはなっていません。部分的な紹介ですらありません。「明日の日の出」というのは、札幌から那覇までの主要都市の日の出の時刻を並べあげるもので、たった2分間ほどでのものです。しかも、これは365日、毎日放送されているのです。わざわざ「日の出」のコーナーを紹介する必要はありません。番組を知っている人が読んだら、噴飯ものです。

 つまり、この記事を書いた人も、載せようと判断した人も、この番組を聞いたことなどない人でしょう。放送局の発表する番組表のうち、気の向いたごく一部をつまみ上げて、実にいい加減な記事を書いて載せているのです。ラジオ番組の冷遇はここまで進んでいるのです。

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2018年8月13日 (月)

言葉の移りゆき(114)

片言の文字遣いに馴らされてしまって

 

 (101)回に「固有名詞の『盛り合わせ』」ということを書きました。今回も似たような話題です。

 

 最近の教育のキーワードに「STEM(ステム)」がある。科学、技術、工学、数学の英語の頭文字を取った。AIをはじめ、テクノロジーがどんどん進化して新たな地平が生まれている。教育でもこの分野に力を入れて将来この道に進む人を増やそうというわけで、米国・オバマ前政権が打ち出した。要は、社会を変えるであろう最先端の分野、といえるかもしれない。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月9日・朝刊、10版、12ページ、「ザ・コラム」、秋山訓子)

 

 「社会を変えるであろう最先端の分野」ということに異論はありません。けれども、「STEM」などという言葉を使って、それを「教育のキーワード」と言って良いのでしょうか。

 新しい言葉、それもカタカナ語やアルファベット略語をいち早く使うのは報道機関です。まるで時代の先端を歩んでいるかのように、何の疑いもなく、これまで使われていなかった言葉を平気で使います。大体は、欧米追随の言葉です。

 「STEM」は、日本の社会から生まれた言葉ではありません。筆者も「米国・オバマ前政権が打ち出した」ことがわかっていながら、無批判にこの言葉を読者に提示しています。教育に対する考え方が間違っていると言っているのではありません。日本語に対する認識がおかしいと思います。

 アメリカで生まれた「STEM」などという言葉を、日本の社会に押しつける必要はありません。古風に見えるかもしれませんが、科学、技術、工学、数学の頭文字を連ねた「科技工数」の方が、うんと落ち着いた言葉です。それを古風だと感じるとすれば、「STEM」などというアルファベットばかりの略語の洪水の中に、人々が導かれていってしまったからに他なりません。人々は、そんな片言の文字遣いに馴らされてしまって、古来の日本語を奪われつつあるのです。

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2018年8月12日 (日)

言葉の移りゆき(113)

「人々が言っている」言葉と、「報道が勝手に作る」言葉

 

 とかく新聞や放送の世界では、大袈裟な言葉が大好きです。一見すると、それはテレビに多いように感じますが、新聞とて負けてはいません。「〇〇の神さま」「〇〇の王者」「〇〇の聖地」、名人、カリスマ、レジェンド、巨匠、メッカ、……。なんでもないものに対してそんな称号を与えています。新聞や放送は、毎日毎日、そのような人や物を作り出しているのです。

 どのように作り出すか。それは一見、遠慮がちに、自然な趣を装います。そして、あっと言う間にその言葉を表に押し出すのです。

 その具体例です。奈良県大和郡山市に、金魚を数える人がいるという話が載っていました。

 

 「片方の手だけ4匹とか3匹という場合もあります。そんな時は、次にすくうときに6匹のせたり、7匹にしたりして、数を読みながら調整するんです」。秒単位の動きの中でそんなことまでしてるなんて、いやはや「神の手」と呼べそうな技だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月11日・夕刊、3版、4ページ、「まだまだ勝手に関西遺産」、小滝ちひろ)

 

 熟練した技かもしれません。これまでならば「熟練」とか「ベテラン」とかの言葉で表現していたのでしょう。金魚すくいの金魚の話ですから、郡山の地方色のある話題なのかもしれませんが、これが「遺産」とは、大袈裟な取り扱いです。

 本文では、〈「神の手」と呼べそうな技だ。〉と少し遠慮がちな表現ですが、見出しになると、堂々と〈金魚数える「神の手」〉となっています。この「神の手」は、「いわゆる」というような(遠慮がちな)意味のカッコではなく、その言葉を強調するためのカッコになっているように思います。こんな風にして、大袈裟な言葉は作られていくのです。

 世間の人が口を揃えて「あの人は名人だ」と言えば、それは世間からの評価です。けれども、この記事の場合は、記者が〈「神の手」と呼べそうな技だ。〉と書き、見出しでは〈金魚数える「神の手」〉と断言しているのです。これは、報道機関が勝手に作り上げた言葉です。そして、世間には、その言葉が広がっていくのです。

 その広がり方も、人々がその言葉を認めて使い始めるということではないようです。新聞や放送がその大袈裟な表現を繰り返したり、それに輪をかけたような表現をして、定着させていくということが多いように思います。

 報道機関は、言葉に対して、もっと控えめで謙虚な姿勢を持たなければならないと思います。客観報道などという言葉が死語になって、書く人の言いたい放題になってしまってはいけません。

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2018年8月11日 (土)

言葉の移りゆき(112)

業界用語を、一般の人の日常生活に引っ張り出す人たち

 

 「ビジネスプランのフィジビリが、コンサバ過ぎると言われたので、リバイズしたものをマージしてデリバラブルにした」

 マーケティングやコンサルティングの業界では、こんなせりふが日常の会話に飛び交うとか。この意味、わかりますか?

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月11日・夕刊、3版、6ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 「この意味、わかりますか?」と尋ねられても、わかりません。わかるはずがありません。

 そして、もうひとつ、わからないことがあります。どうして、このような記事を書くのでしょうか。その理由が、わかりません。

 どのような業界にも、業界用語があるのは当然でしょう。「マーケティングやコンサルティングの業界では、こんなせりふが日常の会話に飛び交う」としても何の不思議もありません。その業界では、それが「日常の会話」なのです。

 わけのわからない業界用語を、一般の人の目に触れさせようと画策するのは放送や新聞・出版などに携わる人のやることなのです。まるでそれが報道の正しいあり方であるかのような装いで、一般の人の目に触れさせようとします。その結果、いくつかの業界用語が、一般の日本語の中でも使われるようになることがあります。それは、その言葉を報道した人の手柄になるのでしょうか。

 業界用語を無理に日本語全体の中に注入しようとすることは止めた方がよいと思います。わざと画策しなくても、望ましい言葉であれば、自然と日本語全体の中で使われ始めることがあるでしょう。けれども、その言葉は、片言のように聞こえるカタカナ語ではありません。

 業界用語は、業界の中にいる人たちが意志疎通のために使う言葉のはずです。その業界の人であっても、一般の人を相手にして、こんな言葉を使うことはないでしょう。業界内の能率のためにも、特殊な言葉が使われてもおかしくはないと思います。

 けれども、その内輪だけの言葉を、広く報道するのはどういう魂胆に基づくのでしょうか。その言葉を日本語の中に定着させてやろうと思っているのでしょうか。それは、思い違いです。業界用語は業界内で命脈を保っていればよいのです。

 不思議なことに、この同じ記事の中には、次のような表現があります。

 

 feasibility study(実現可能性の予備調査)をフィジビリ、conservative(保守的な、控えめな)をコンサバという具合に、外国語を省略することもある。この時点で、外国語は立派な日本語に変身している。いくらカタカナを使って外国語風を装っても、ことばはすれ違う。しかし、「うそっぽい話も外来語を交えると、なぜか本物らしく聞こえてしまう」と小嶋さん。

 (出典は、上記に同じ)

 

 「この時点で、外国語は立派な日本語に変身している。」という筆者の見解と、「うそっぽい話も外来語を交えると、なぜか本物らしく聞こえてしまう」という引用文。引用文は、筆者が同感するから引用しているはずです。このような考え方の人が、新聞を作っているのかと考えると、空恐ろしくなります。NIEの活動によって、新聞を教室で使うことにも警戒心を持たなければならないでしょう。

 この記事の見出しは〈飛び交う業界用語にやれやれ〉となっています。やれやれと思うような言葉を報道する価値はありません。

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2018年8月10日 (金)

言葉の移りゆき(111)

ヒーロー主義と商業主義の高校野球

 

 ほぼ50年前の高校野球の報道に比べて、現在の紙面は豹変してしまっています。決勝戦を報ずる2つの紙面からも、それは感じ取れます。

 

 試合は津久見の先攻で始り、二回表四番吉近が四球を選び足立の犠飛で生還して先取点をあげ、さらに三回表にも三本の長短打と一失策で2点を加えた。柳井は八回裏、敵失に乗じて二本の安打をあびせ、1点を返し、最終回にも一死一、二塁と必死に迫ったが、津久見・水江投手を中心とした堅い守りにはばまれて無念の涙をのんだ。

 (朝日新聞・東京本社発行、1972年8月23日・夕刊、3版●●、1ページ)

 

 野球はチームプレイであることをきちんと理解して、記者は文章を綴っています。現在の紙面のように、試合経過はそっちのけで、特定のイニングの、特定の選手のはなばなしい活躍のみを報じる姿勢とはまるで違っています。

 この記事の見出しは、〈津久見が初優勝 / 3-1 柳井の追撃及ばず〉です。ヒーローがいたとしても、チームの陰に隠れています。

 その2年後の高校野球の決勝戦を、見出しだけ引用します。

 

 銚子商、出場8回目の快挙 / 6回、驚異の集中打 / 二死から一挙に6点 / 土屋完封 初陣防府商も健闘

 (朝日新聞・東京本社発行、1974年8月20日・朝刊、13版、15ページ)

 

 この記事には、〈救われた土屋 / バックスが強力な援護〉という見出しの文章と、〈敗戦にも淡々 / 防府商の井神投手 / 「欲持ったのが失敗」〉という見出しの文章とがあります。見出しだけで見ても、高校野球の純真さが読みとれます。チームとして戦っている様子も濃厚です。たった一人の選手をヒーローにまつりあげる、現代の記者たちとは精神が違うように感じます。

 この見出しには、投手の名前は出てきますが、打者を大袈裟な扱いにしていません。

 偶然かもしれませんが、この4つのチームはすべて公立高校です。学区で区切られた高校生でチームを編成して、教育の一環として戦っています。

 

 社会の出来事は、どんなに重要なことであっても、その場に記者がいなければ、伝聞の記事にならざるを得ません。それに対して、スポーツの報道は、出来事が起こるはずの場所へ記者が大挙して押しかけていますから、いくらでも記事が書けるようになっています。スポーツ記事の大袈裟さは、これからも拡大していくのでしょう。

 そして、スポーツが商業主義に組み入れられてしまっています。資金のある学校が強くなり、それをもとに発展を遂げていくことになります。新聞は、そんな仕組みに加担していることに気付いていないはずはありません。

 

 輝け、大垣日大! 第100回全国高等学校野球選手権記念大会

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月9日・朝刊、13版、16ページ、日本大学の広告)

 

 1ページの紙面の3分の1ほどを占めるカラー広告です。大会の途中に、このような激励広告が載っています。広告を載せるだけの効果があると判断しているのでしょう。公立学校にはこのようなことができるはずはありませんし、そんなことをする必要もないでしょう。

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2018年8月 9日 (木)

言葉の移りゆき(110)

日本語を「ミミック」する表現

 

 昔、子どもの頃に、短くなった鉛筆を使うための、簡単な補助軸があって、使えなくなる寸前の短さまで使い続けたことがありました。ものの乏しい時代の、懐かしい思い出です。次の記事で紹介されているのは、同様のものの豪華版のようです。

 

 ミミックは、短くなった鉛筆を快適に使うための鉛筆補助軸だ。真鍮製の先端部分に、鉛筆を入れて固定すれば、全長3センチほどの鉛筆でもしっかり握れ、ストレス無く使うことができる。 …(中略)

 手作りのため、アイボリーと黒のマーブル柄は1本ずつ微妙に違っていて、同じものはないというプレミアム感もうれしい。 …(中略)

 ミミックとは、英語で「擬態者」という意味。つまりこの製品は、鉛筆やボールペンを万年筆に擬態させているのだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月24日・朝刊、13版、26ページ、「そばに置きたい」、納富廉邦)

 

 「ストレス」という言葉は深い意味を持つ言葉です。「ストレス無く使う」というのは、短くなった鉛筆をイライラせずに使うということでしょう。「プレミアム感」というは、同じものは他にないという嬉しさのことなのでしょう。

 日本語の中に、やや大袈裟な外来語を使うことによって、いかにも優れた品物であるということを、言葉の上で擬態させているように思われます。筆者は、ミミックという商品にふさわしい紹介文を書こうと心がけたのでしょうか。

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2018年8月 8日 (水)

言葉の移りゆき(109)

東京で勤める、東京に勤める、東京都に勤める

 

 「以前、東京で勤めていた」という表現があります。その場合、「東京で勤める」と「東京に勤める」とはどう違うのでしょうか。「で」と「に」という助詞だけの差です。

 「東京で勤める」は勤め先が東京であったというだけで、勤め先がどういう会社や官庁であってもよいと思います。「東京に勤める」は、勤め先がその会社の東京本店や支店であるかもしれませんが、ことによったら東京都庁であったかもしれません。「東京都に勤める」は、東京都庁である可能性が大きいだろうと思います。

 さて、次の場合は、どこに勤めていたのでしょうか。

 

 以前、「ビール王国」ドイツに勤務していた時のこと。ロシアのプーチン大統領(65)がまだ30代の頃に通ったという旧東独ドレスデンのバーに行ってみた。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年6月23日・夕刊、3版、9ページ、「憂楽帳」、篠田航一)

 

 このコラム欄はどういう立場の人が書くかということとは無関係に、この文を読んでみます。筆者は、「ドイツで勤務していた」のではなく、「ドイツに勤務していた」のです。しかも「ビール王国」という修飾語に引かれて「ドイツ国に勤務していた」という印象が強くなります。「で」という助詞一つで、筆者は国レベルの話をしているような気分に引き入れられます。

 この文章は、この後、プーチン氏が酒を傾けながら、客の様子をじっと観察していたという話になっていきます。

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2018年8月 7日 (火)

言葉の移りゆき(108)

ごちゃ混ぜ日本語

 

 新聞は、一部の編集者が勝手な言葉遣い(あるいは表記)を用い、それがいかにも先駆的な表現であるかのように誤解している面があると思います。新聞が日本語を壊したり、あらぬ方向へ誘導するような働きをしてはいけません。

 

 米国と中国の貿易摩擦が激しさを増している。第2次世界大戦前の保護主義政策の応酬を思い起こさせるような事態だ。世界は過去に逆戻りする……「バック・トゥ・ザ・近代?」なのか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月11日・朝刊、13版、13ページ、「耕論 オピニオン&フォーラム」)

 

 このページの見出しは〈バック・トゥ・近代?〉です。このページの趣旨は、わずか2行ほどの前書きでじゅうぶん理解できます。そして、3人の意見をそれぞれの聞き手が文章をまとめています。3人の意見のそれぞれに付けられた見出しは〈保護主義台頭 必然の流れ〉、〈自由貿易へ揺り戻し来る〉、〈日本の姿勢 問われる局面〉です。記事の中には「バック・トゥ・ザ・近代?」などという言葉は、どこにも出てきません。

 いい加減だなぁと思うのは、大きな見出しは「バック・トゥ・近代?」であり、リード文は「バック・トゥ・ザ・近代?」であり、イラストには「BACK ←…TO THE KINDAI」の文字が書き入れられています。「ザ」の有無、「?」の有無など、気まぐれのようです。

 それよりも何よりも、どうして「バック・トゥ・ザ」という外来語と「近代」という日本語とを混在させるのか、編集者の趣味以外の何ものでもないでしょう。見出しとリード文が、一ページ全体の中で浮き上がってしまって、3人の意見を茶化しているようにも見えます。

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2018年8月 6日 (月)

言葉の移りゆき(107)

「開校」と「創立」

 

 高校野球の代表校を短く紹介する記事を見ていて気付いたことが、もう一つあります。たいていの学校には「創立」という言葉が使われているのですが、「開校」という言葉もあります。

 

 長崎 創成館() 3年ぶり。1962年開校の私立。デザイン科がある。生徒は制服を選べる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月23日・朝刊、13版、13ページ)

 

 南埼玉 浦和学院(13) 5年ぶり。1978年開校の私立。OBに元西武の鈴木健ら多数輩出。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月24日・朝刊、13版、25ページ)

 

 南神奈川 横浜(18) 3年連続。1942年開校の私立。OBに中日の松坂大輔らプロ選手多数。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月30日・朝刊、13版、12ページ)

 

 「開校」と「創立」はどう違うのでしょうか。

 例えば、会社の場合は、会社を「設立」しても、実際の業務を始めるまでに時間がかかって、「営業開始」が遅れることがあるでしょう。

 学校の場合も、「創立」をしても、実際の「開校」(生徒の受け入れ)が何年か後になることが考えられます。けれども、学校の場合は、生徒を受け入れ始めた時を「創立」の時期と考えるのが通常だと思います。「創立〇〇周年」というような行事は、1期生を受け入れたときから起算しているのが普通です。

 上記3校のホームページで沿革を見てみましたが、「創立」と「開校」とを区別するような書き方はしていないようです。

 二つの言葉で書き分けた理由は、結局、わからないままでした。

 学校名の変更について触れている記事もありましたが、校名の変わった学校は実際にはもっとたくさんあったことと思います。例えば大学附属高校の創立が古く、大学創立の方が後になっている場合もあります。

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2018年8月 5日 (日)

言葉の移りゆき(106)

「スポーツ」の商業主義

 

 全国高等学校野球選手権大会の代表校を紹介する記事についての続編です。

 「〇〇年創立の私立」という言葉が次々と出てきます。ほとんどが「私立」ならば、それを省略して、そうでない場合だけを書けばよいでしょう。

 

 香川 丸亀城西() 13年ぶり。1918年創立の県立。93年に丸亀商から改称。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月23日・朝刊、13版、13ページ)

 

 秋田 金足農() 11年ぶり。1928年創立の県立。ウェートリフティング部は全国レベル。

 富山 高岡商(19) 2年連続。1897年創立の県立。OBに映画監督の滝田洋二郎さんら。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月25日・朝刊、13版、17ページ)

 

 三重 白山() 1959年創立の県立。自然に囲まれた立地。キャリア教育に力を入れる。

 佐賀 佐賀商(16) 10年ぶり。1907年創立の県立。94年夏の甲子園で優勝を果たしている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月26日・朝刊、13版、15ページ)

 

 徳島 鳴門(12) 2年ぶり。1909年創立の県立。県内でも珍しい阿波踊り部がある。

 高知 高知商(23) 12年ぶり。1898年創立の高知市立。OBに阪神の藤川球児ら。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月27日・朝刊、13版、17ページ)

 

 西兵庫 明石商() 1953年創立の明石市立。国際会計科と商業科があり、多彩な人材を育成。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月28日・朝刊、13版、21ページ)

 

 全56校のうち、公立高校は8校だけです。

 私が高校3年生であったとき(昭和35)、母校が全国大会に出場しました。何度も甲子園球場で応援をしました。兵庫県立明石高校の対戦相手は、1回戦が宮崎県立宮崎大淀高校、2回戦が福岡県立戸畑高校、準々決勝が佐賀県立鹿島高校でした。すべて九州の県立高校でした。残念ながら、ベスト4には進出できませんでした。

 今年の兵庫県は東・西にわかれましたが、西兵庫大会はベスト16に進出したのがすべて公立高校であり、最終的には明石市立明石商業高校が代表になりました。東兵庫大会は、尼崎市立尼崎高校が、決勝戦で報徳学園に敗れて代表を逸しました。兵庫県は公立高校が頑張っています。

 100年前の大会と言わないまでも、50年前とも代表校の色分けは変貌してしまっています。全国から野球少年を集める私立高校が強くなっていくのは当然でしょう。学区に制約のある学校を集めた、全国「公立高等学校」野球選手権大会も開催してほしいというような苛立ちも感じます。

 スターを育てて商業面で利益を得ようとすることが高校野球の目的ではないと思います。けれども、新聞の報道は、スター選手を特別視して、勝利第一主義で突っ走っているように感じられます。負けたチームをわずかにフォローしている文章もありますが、それがわずかな教育的配慮でしょう。それが済んだら注目する学校や選手を大々的に取り上げ続けています。

 国民の祝日「体育の日」が「スポーツの日」に変えられ、国の機関が「スポーツ庁」であり、勝つことが至上の価値のように喧伝されています。オリンピックは商業一色です。

 ほんとうの意味での「体育」はどこへ行ってしまったのでしょう。小中高校の教科である「体育」が「スポーツ」に変わる日が来れば、健全育成を目的にした体育は終焉を迎えることになるかもしれません。

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2018年8月 4日 (土)

言葉の移りゆき(105)

「輩出」から「OB」「OG」へ

 

 全国高等学校野球選手権大会は100回目の節目の年ですが、地方予選で次々に代表校が決まりました。その代表校を短く紹介する文章が、連日、掲載されました。

 朝日新聞には、昨年も同じような記事があって、「輩出」という言葉の使い方がおかしいと感じておりました。

 今年も、同様の記事がありましたが、それが、微妙に変化していきました。「輩出」の言葉の使い方に気づいたようです。その変化の跡をたどります。

 

 北北海道 旭川大() 9年ぶり。1898年創立の私立。女子柔道も盛んで五輪メダリストが出た。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月22日・朝刊、13版、10ページ)

 

 南北海道 北照() 5年ぶり。1901年創立の私立。ジャンプの船木和喜ら五輪選手が輩出。

 青森 八戸学院光星() 2年ぶり。1956年創立の私立。OBに巨人の坂本勇人ら。

 岩手 花巻東() 3年ぶり。1956年創立の私立。菊池雄星、大谷翔平らが輩出。

 熊本 東海大星翔() 35年ぶり。1961年創立の私立。プロゴルファーの古閑美保らが輩出。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月23日・朝刊、13版、13ページ)

 

 南埼玉 浦和学院(13) 5年ぶり。1978年開校の私立。OBに元西武の鈴木健ら多数輩出。

 北福岡 折尾愛真() 1935年創立の私立。OBに阪神2年目の投手、小野泰己。キリスト教系。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月24日・朝刊、13版、25ページ)

 

 富山 高岡商(19) 2年連続。1897年創立の県立。OBに映画監督の滝田洋二郎さんら。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月25日・朝刊、13版、17ページ)

 

 

 石川 星稜(19) 2年ぶり。1962年創立の私立。OBに元ヤンキースの松井秀喜ら。

 鳥取 鳥取城北() 3年ぶり。1963年創立の私立。相撲部が強く、大相撲力士が輩出。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月26日・朝刊、13版、15ページ)

 

 京都 龍谷大平安(34) 4年ぶり。1876年創立の私立。OBに米アカデミー賞受賞の辻一弘さん。

 和歌山 智弁和歌山(23) 2年連続。OBに日本ハム外野手の西川遙輝ら。

 高知 高知商(23) 12年ぶり。1898年創立の高知市立。OBに阪神の藤川球児ら。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月27日・朝刊、13版、17ページ)

 

 東愛知 愛産大三河() 22年ぶり。1983年創立の私立。OGにアーチェリーの蟹江美貴ら。

 愛媛 済美() 2年連続。1901年創立の私立。卒業生に楽天の安楽智大ら。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月28日・朝刊、13版、21ページ)

 

 西愛知 愛工大名電(12) 5年ぶり。1912年創立の私立。OBに工藤公康やイチローら。

 南大阪 近大付() 10年ぶり。1939年創立の私立。水泳部、テニス部なども全国レベル。

 東兵庫 報徳学園(15) 8年ぶり。1911創立の私立。元近鉄の金村義明らプロ選手が多く輩出。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月29日・朝刊、13版、13ページ)

 

 東東京 二松学舎大付() 2年連続。1948年創立の私立。82年選抜準優勝。OBに広島の鈴木誠也。

 南神奈川 横浜(18) 3年連続。1942年開校の私立。OBに中日の松坂大輔らプロ選手多数。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月30日・朝刊、13版、12ページ)

 

 西東京 日大三(17) 5年ぶり。1929年創立の私立。OBに元ヤクルト監督の関根潤三ら。

 北神奈川 慶応(18) 10年ぶり。明治時代にできた同普通部が前身の私立。OBに加山雄三さん。

 北大阪 大阪桐蔭(10) 2年連続。1983年創立の私立。OBにプロ野球阪神の藤浪晋太郎ら。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月31日・朝刊、13版、19ページ)

 

 「輩出」とは、優れた人物が次々と世に出ることです。自動詞でもありますし他動詞でもありますから、「…が輩出した」でもよいでしようし、「…を輩出した」でもよいでしょう。

 高等学校は公教育を行っていますから、どの学校も多くの優れた卒業生を輩出していることに間違いはありません。ただし、この紹介記事は、野球、スポーツ、芸能などの世界の卒業生を紹介しているようです。その場合に、野球、スポーツ、芸能などの世界の卒業生に著名人が多いかどうかということで「輩出」が使えるかどうかが決まってくるでしょう。その世界の著名人が3人とか5人とかの場合は、「輩出」は使えないでしょう。

 スペースの都合もあるのでしょうが、一人だけしか書いていない場合もあって、その場合は「…ら」という言葉で逃げている感じです。「多数輩出」という表現もありますが、「輩出」は「多数」の場合にしか使いません。

 「輩出」の正しい使い方をしているのは、「OBに元西武の鈴木健ら多数輩出」、「相撲部が強く、大相撲力士が輩出」、「元近鉄の金村義明らプロ選手が多く輩出」あたりでしょう。

 あとになるに従って「OB」「OG」「卒業生」という言葉が多くなるのは、「輩出」の使い方に気付いたからだと思います。

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2018年8月 3日 (金)

言葉の移りゆき(104)

「せんしゅう」という言葉の漢字は?

 

 さて、問題です。次の文章の「せんしゅう」という言葉を漢字に直してください。また、この「せんしゅう」というのはどういう意味でしょうか。

 

 日本語指導が必要な小中高校生らが9275人(16年5月1日)と全国で最も多い愛知県。国立の愛知教育大は昨年度、小学校の教員養成課程に日本語教育せんしゅうを設けた。今年度は「外国人児童生徒支援教育」を必修化。2年生約900人全員が前期に履修する。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月10日・朝刊、10版、29ページ、山下知子。ただし、せんしゅう は漢字で書かれている。)

 

 小学校教員養成課程に、日本語教育に関して、あるコースが設けられたということだろうと思います。日本語教育を専門に学ぶコースができたのかなぁと、漠然と感じ取りました。

 ところで、『広辞苑・初版』で見ると、「せんしゅう」は、千秋、先週、専修、泉州、撰修、撰集、選集、薦羞、の8語しか載っていません。このうち、「撰修」は、撰述すること、編集すること、という意味です。上の文脈で該当しそうなのは、専修ぐらいしか見当たりません。

 上の文章は、専攻コース(科目)のこととか、選択コース(科目)のことだろうと推測します。その場合、「せんしゅう」の「せん」は、それを専門にするという「専」か、それを選択するという「選」のどちらかでしょう。

 また、「せんしゅう」の「しゅう」は、それを学習するという「習」か、それを履修するという「修」のどちらかでしょう。

 結論を言います。この記事で使われているのは、「選修」です。国語辞典などには載っていない、学内の言葉なのでしょう。

 そうだったのか、と後になって納得するのは、「ひっしゅう(必修)」科目の反対語は、「選択」科目ではなくて、「せんしゅう(選修)」科目であったのかということです。特定の範囲(学内)だけで通用する言葉なのでしょう。

 これも、推測の域を出ませんが、日本語教育選修というのは、そのコースに属する学生を特定してしまうのではなく、いくつかの科目を履修していけば何らかの資格が得られるということなのではないかと考えました。間違っているかもしれません。

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2018年8月 2日 (木)

言葉の移りゆき(103)

大きいことは良いことだ

 

 昔、CMから生まれた「大きいことはいいことだ」というフレーズが流行語になったことがあります。そして、時が流れても、その言葉を信奉している人がいるようです。総じて、新聞や放送の世界では、数字は大きいものに価値があると思って、それを前面に出す姿勢があるようです。

 こんな記事がありました。

 

 仕入れた海苔を、高級贈答用から業務用までどの商品に使うかの判断を、その一手に委ねられている。店のブランドで売る全ての海苔が、必ず自身の目の前を通過し、全ロットからサンプルを抜き取って品質を判断する。一日に用途を決める海苔は、約30万枚に上る。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月30日・夕刊、3版、2ページ、「凄腕つとめにん 清水正望さん」、吉川啓一郎)

 

 嘘が書かれているわけではありません。添えられた写真の説明には、〈1回の判断にかける時間は平均1分弱。長くても2~3分だ〉とあります。ということは、判断する海苔は1時間に60枚程度。仮に1日にその10倍をこなすとしても600枚程度でしょう。記事の見出しは〈使い道を決める海苔 一日約30万枚〉とあります。検査する枚数が30万枚と書いているのではない、30万枚の使い道を決めると書いているのだと反論されたら、それまでです。嘘は書かれていなくても、どうして30万枚というような数字を前面に出さなくてはならないのでしょうか。

 清水さんの「凄腕」というのは、判断する枚数のことでしょう。抜き取ったサンプルを見て、判断する技能のことでしょう。

 例えば印刷業界で、1枚の原紙を1時間かけて厳密にチェックして、それを50万枚刷ったとすれば、50万枚の印刷物を1時間でチェックしたという理屈なのでしょう。新聞社が、勝手に数字を作り上げているように思えてなりません。読者を驚かすには、それぐらいのことをしなければならないと考えているのでしょうか。

 

 別の記事では、正真正銘、きちんと見る枚数のことが話題になっています。

 

 丹羽さんは毎日、午前9時から午後7時までの雨雲レーダー図と天気図をもとに予報を導く。1日に見るのは約300枚。16年間で見た雨雲レーダー図は約190万枚に上る。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月2日・夕刊、3版、2ページ、「凄腕つとめにん 丹羽祐久さん」、堀内京子)

 

 この記事の見出しは、〈16年間で見た雨雲レーダー図 約190万枚〉です。毎日の業務の積み重ねの数字ですから、何の違和感もありません。けれども、「1日に見る雨雲レーダー図 約300枚」と書いても、「凄腕」ぶりは同じことなのです。まるで、数字をこなすことが凄いことだと言わんばかりです。

 「凄腕」という言葉と結びつくのは「万」という数字なのでしょうか。10冊の本を読んだと言うよりは、30万字を読んだと言う方が、凄い数字のように見えるのでしょうか。

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2018年8月 1日 (水)

言葉の移りゆき(102)

「まわしよみ新聞」とは何か

 

 あちこちで使われ始めている言葉かもしれませんが、私が「まわしよみ新聞」という奇妙な言葉遣いを初めて知ったのは次の記事でした。「まわしよみ」とはどういう意味なのでしょうか。それが平仮名ばかりで書かれているのはどういう理由からでしょうか。「まわしよみ」という言葉を漢字交じりで書くと「回し読み」になるのでしょうか。その文字遣いが正しいのかどうかということすらわかりませんでした。

 

 気に入った新聞を切り貼りして壁新聞をつくる「まわしよみ新聞」が、学校の授業で広がりつつある。様々なニュースに触れて社会の動きを知ることに加え、グループで取り組むことで対話が促されることがポイント。自分の意見を伝えるとともに、相手の考えも理解するコミュニケーション力を育む効果が注目されている。 …(中略)

 この日は3年生23人が3~4人ずつの班に分かれ、15分間の「新聞まわしよみタイム」から開始。持ち寄った新聞を読み、「とっておき」の記事や広告、写真を1人二つ探してハサミで切り抜いた。 …(中略)

 こうしたまわしよみ新聞の活動は、イベント企画などを手がける陸奥賢さん(40)が大阪市西成区の喫茶店で地元の人たちと新聞を切り貼りする「遊び」で始めたのがルーツだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月3日・朝刊、13版、27ページ、渡辺元史、金子元希)

 

 「まわしよみ」という言葉の意味を理解したいと思い、その言葉が使われている部分を引用しました。(この言葉は、他にも3箇所で使われています。)

 「まわしよみ(回し読み)」という言葉から先ず頭の中に浮かぶのは「回覧板」という言葉です。一つの新聞を何人かで次々と読んでいくということから「まわしよみ」という言葉が生まれたのでしょうか。けれども、この記事を見る限りでは、「気に入った新聞を切り貼りして壁新聞をつくる」活動を指しているようです。そののちに議論することによって、「自分の意見を伝えるとともに、相手の考えも理解する」という効果があると述べられています。

 けれども、この記事では、テーマを決めて(あるいは、しだいにテーマを絞っていって)議論するということは話題になっていません。まさに、「新聞を切り貼りする遊びで始めた」こと(陸奥さんの言葉)が、学校の教室でも行われているということしか理解できませんでした。

 個人の興味で新聞記事を切り取って、それを貼り付けた新聞を作るというのが、この活動の眼目のようです。個人個人の関心の広がりは理解できますが、そのような関心を出発点にした場合、焦点が絞られていって議論が深まること、すなわち他の人とのコミュニケーション力の育成は期待できるのでしょうか。

 この記事では、小学校の実施例が紹介されていますが、小学校では目的を果たしているように思います。けれども、高等学校の実施例は、もっと綿密な指導案を作成しなければならないのではないかと思いました。

 NIEに限らず、新聞社はなんとか新聞を活用してもらって読者減に歯止めをかけようと躍起になっているようですが、もっと効果的な新聞活用の方法を提案してみてはどうでしょうか。

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