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2018年9月 6日 (木)

言葉の移りゆき(138)

勝手に自称する時代

 

 国鉄の時代には駅名の付け方にも厳格な決まりがあって、例えば兵庫県西脇市の加古川線・日本へそ公園駅を命名するときには、例外的な措置を加えてやっと決まったという話を聞いたことがあります。地名を入れていない駅名であったからです。

 ところが、JRになって後はかなり自由度が増したようです。これまでは考えられなかった駅名がどんどん生まれています。兵庫県内だけを見ても、播磨新宮駅(姫新線)に対して「はりま勝原駅」(山陽線)、姫路駅(山陽線)に対して「ひめじ別所駅」(山陽線)、西宮市内に「さくら夙川駅」(東海道線)があります。播磨や姫路を仮名書きにする理由が、私には納得できません。桜の名所だからそういう名付けをするとなると、全国で際限なく宣伝を意図した駅名が増殖していくでしょう。このような名付けには、目立ちたいという理由がありそうに思います。

 さらに百花繚乱であるのが、大学の学部名や学科名です。言いたい放題、つけたい放題と言っても過言ではありません。いちいち書いていたらキリがありませんから、書くつもりはありません。日本語(漢字)と外来語(カタカナ)とがごちゃ混ぜというものもあります。従来の呼称とどう違うのか、たぶん説明できないのが多いと思います。これも目立つための策略なのでしょう。

 人の肩書きにも同じような現象が現れています。次のような文章がありました。

 

 評論家にしても作家にしても、あるいはエッセイストにしても、別に免許が要るわけでもなく、自称して名詞の肩書きにそう書けば一丁上がり、です。肩書きといえば、〇〇研究家というのもあります。 …(中略)

 のみこみにくいのが、コメンテーターという肩書きです。テレビのワイドショーなどで、なんでもコメントします。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月29日・夕刊、3版、4ページ、「こころの水鏡」、多川俊映)

 

 この文章に、全く同感です。

 誰からも評論家であると認められている人、作家と認められている人、エッセイストと認められている人はいます。けれども今では評論家は無数に枝分かれして、家事評論家、おもちゃ評論家、駅弁評論家、文房具評論家、などなど。いったい評論とは何なのか、評論家というのはどういう働きをする人なのか、というようなことは置き去りにされて、自称「評論家」が跋扈しています。

 ライターというのもあります。ライターは肩書きになるのでしょうか。ライターとは文章を書くことを職業としている人たちの総称のはずです。作家やエッセイストも、ライターに属する職業のひとつです。何かひとつ文章を書いて、新聞に載ったからとて、ライターという肩書きを使うのはおかしいと思います。

 コメンテーターも同じです。番組に出て喋っている限りはコメンテーターですが、放送局から出ればコメンテーターという職業ではありません。

 野球の選手が打席に入ればバッターですが、そうでない場合は投手であったり、一塁手であったり、すなわち野球選手(あるいは、プロスポーツ選手)であるはずです。バッターは肩書きではありません。中学生でも高校生でもバッターになれます。

 ちょっとした文章を書いただけでライターと称するのや、数分間だけ喋ってコメンテーターと称するのは、ちょうどバッターと同類の言葉を使っているということでしょう。

 肩書きも、好き勝手に自称する時代が訪れてきているようです。

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