言葉の移りゆき(145)
新聞が言葉を公認してしまう
表現の自由がありますから、新聞が何を書こうと問題にされることはありません。けれども、日本語の表現ということに限って考えると、新聞にもいろんな問題があることは否定できません。
〈「はぴばー」気軽な敬意 / 天皇誕生日前後 投稿続々〉という大きな見出しの記事がありました。
「はぴばー!」。12月の天皇陛下の誕生日前後には、ツイッターに10代20代の若い世代によるお祝いの投稿があふれる。陛下の写真や模様や絵文字などでコラージュした画像もある。 …(中略)… 若者たちは皇室への関心をそれぞれの形で表現しているようだ。
(朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月10日・朝刊、13版、3ページ、「平成と天皇」、中田絢子・多田晃子・緒方雄大・島康彦)
若者と皇室の関係はどのようであってもかまいません。ほほえましい現象が起こっていると言ってもよいでしょう。また、ツイッターでどんな言葉が使われようと、それはまだ閉鎖的な社会での言葉であると言えましょう。
ところが、新聞がその言葉を取り上げて報道すれば、まして大きな見出しを付けて掲載すれば、その言葉が社会的に公認されたことになります。言葉を興味本位で、大げさに扱うと、日本語に影響を与えることになります。新聞にはそのような自覚が必要です。
「あけましておめでとう」を「あけおめ」と言ったり、「ハピー・バースデー」を「ハビバ(ー)」と言ったりすることは、知っています。若者用語でしょう。けれども、それを新聞が取り上げて記事にすると、その言葉を承認したような空気が漂います。限られた世界の言葉が、おおやけの言葉に昇格してしまうのです。まして、それに大きな見出しを付けたりすると、その言葉が一人歩きを始めます。
しかも、外来語由来のカタカナ表記の言葉であるはずの「ハピバー」を、平仮名で書くことを認めたことになります。
NIEを声高に主張するなら、一つ一つの言葉やその表記を、若い人たちが見ているということを忘れてはいけません。教育の現場で記事を使うことを勧めるのなら、用語も表記も文法(表現の仕組み)も、若者たちの基準になりうるものを心がけなければならないでしょう。
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