« 言葉の移りゆき(150) | トップページ | 言葉の移りゆき(152) »

2018年9月19日 (水)

言葉の移りゆき(151)

「ムラ社会」は忌避すべきものか

 

 地方創生が叫ばれて久しいのですが、それが思うように進まず、逆に東京一極集中が加速しているような気がしないでもありません。地方の町や村が明るいイメージをまとって、魅力ある姿を見せることが大切だと思います。

 ところが、その町や村に明るいイメージを付与するのとは全く逆のことが、文章に書かれています。しかも、肩書きが新聞社の編集委員となっている人の文章です。

 いろいろなスポーツ団体のパワハラなどの問題が大きく報じられています。そのうちの一つの論評です。

 

 「上」の意向がメンバーや代表の選考に直結するスポーツ団体は、排他的なムラ社会になりやすい。選手は指導者に従い、選手を国際社会に送り出す指導者は競技団体に従う。そうやって、独裁体制がつくられてしまう。 …(中略)

 有効な監視機能は必要だろう。ただ、その構築を含めた健全性確保への筋道は、国ではなく、スポーツ界が主体となってつくらなければならない。そのために、まずは脱ムラ社会である。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月15日・朝刊、13版、14ページ、「縦横無尽」、中小路徹)

 

 見出しまでもが〈スポーツ界健全化へ  まずは脱ムラ社会へ〉となっています。

 スポーツ界について、この文章で述べられている趣旨には賛成です。けれども、なぜ村のことを徹底的に貶す必要があるのでしょうか。

 ムラ社会とは、有効な監視機能も持たない独裁体制の社会である、と言っておいてから、スポーツ界が、そのムラ社会に陥っていると言っているように思われます。

 カタカナの「ムラ」と漢字の「村」とは違うのだというようなことは理由になりません。日本の村のことを、これほど悪く言った文章は少ないと思います。日本の村は忌避すべき体質を持った、救いようのないものに見えるではありませんか。地方の明るい未来というイメージを徹底的に崩し去る言葉遣いです。

 この文章を読んだあとに残るのは、スポーツ界が仮に健全化しても、日本の「ムラ社会」は救いようのない体質をそなえ続けているということに他なりません。

 学問の世界で「ムラ社会」という言葉がどのような意味で使われているかは知りません。けれども、新聞社を代表するような人が一般の人に向けて、偏見に基づくような言葉を、強調して使ってよいのでしょうか。

|

« 言葉の移りゆき(150) | トップページ | 言葉の移りゆき(152) »