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2018年9月27日 (木)

言葉の移りゆき(159)

「線」と「点」の混同

 

 「視線」という言葉を「目線」と言うことが多くなって、「目線」は市民権を得た言葉になっています。その「目線」の意味がじわりじわりと広がっているのではないかと感じることがあります。

 東京のモノレールに、初めて東京に来たのだろうと思われる中学生2人が乗っていて、「うわ、この水の色は何。まっ茶色」と言葉を発している様子を紹介した文章の末尾が、次のように結ばれていました。

 

 メディアが伝える夏休みは、都会から田舎やリゾート地に向かう子どもたちの姿がほとんどだ。その先には美しい自然があり、時間はゆったりと流れている。いわば都会目線の夏休みである。

 だが、2人のように初めて都心を訪れる地方の子どももいる。浜松町で降りた彼らを目で追いながら「ふるさとの目線」を忘れないで欲しいと思った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月1日・夕刊、3版、6ページ、「葦 夕べに考える」、多賀谷克彦)

 

 「目線」とは、ものを見る場合の、目の位置や方向を表す言葉だろうと思います。かなり即物的な意味のように思われます。一方で、「目線」を「視線」と同じような意味で使うことがありますが、「視線」は、目がものを見ている方向を表すとともに、そのときの心の中の動き(感情や考え)も加わっているように感じます。

 引用文の第1例「都会目線の夏休み」は、都会人がイメージする夏休みであって、都会人の考え方がメディアの伝え方に反映されていると言っているのでしょう。これは「都会人の視線」で番組が作られているということでしょう。〈考え〉が加わっています。

 第2例「ふるさと目線を忘れないで欲しい」は、ふるさと(田舎)に住んでいる者のものの見方などを忘れないで欲しいという意味だろうと思います。この「目線」の意味は、「視線」であり、もっと言えば「視点」であると思います。「視点」には、ものを見る目や考え方の出発点となるような、土台を感じさせるものがあります。

 「視線」と「視点」は異なるはずですが、それらを一緒にしてしまって、なおかつ、それらを「目線」などという言葉で表現することが、広く行われているように思います。

 「目線」は、言葉を厳密な意味で使うことを避けた、安易な言葉遣いの端的な一例です。

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