« 2018年8月 | トップページ | 2018年10月 »

2018年9月30日 (日)

言葉の移りゆき(162)

元の肩書きの利用・活用

 

 「ニュース・キャスター」を短く「キャスター」と言うことがありますが、それは、テレビなどで、解説や論評を加えながらニュースを報道する人のことです。それは、連続して番組を担当する人のことなのか、一回だけ出演してもキャスターと言うのかどうかは知りません。

 ところで、ある仕事をしていた人がその職を退いたあとは、元議員、元新聞記者、元会社員などというのが普通で、本人の意思によって無職と書くことも多いと思います。

 さて、次のような例は、どう考えればよいのでしょうか。

 

 豊かな森林資源を使い、まちを再生する-。北海道の小さな町の取り組みが注目されている。 …(中略)… そんなまちづくりのモデルをキャスターの国谷裕子さんと取材した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月23日・朝刊、13版、1ページ、「2030 SDGsで変える」、北郷美由紀)

 

 森林を守り、活用する北海道下川町。キャスターの国谷裕子さんは一の橋バイオビレッジを訪ねた後、車で森に向かった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月23日・朝刊、10版、2ページ、「2030 SDGsで変える」、北郷美由紀)

 

 この日の2ページ目は全面、この特集で埋められていて、その一部は「国谷裕子キャスターの視点」と題する記事になっています。

 国谷さんが今でもキャスターを務めている局があるのかどうかは知りません。けれども、それは放送の世界です。新聞記事にキャスターが存在するはずはありません。新聞では、「一日特派員」というような立場でしょう。

 「キャスター」と書くことを国谷さんが強く希望したのかどうかは知りません。けれども、新聞が「キャスター」という元の肩書きをうまく利用してアピールしていることは疑う余地がありません。活用できるものは何でも活用しようという姿勢のようです。

 

|

2018年9月29日 (土)

言葉の移りゆき(161)

マスコミのミニコミ化

 

 まず、新聞記事をお読みください。これが記事の全文です。記事に文章に問題はありません。

 

 今年で創刊50周年を迎えた漫画雑誌「週刊少年ジャンプ」が、過去の人気作品を特集した50周年記念増刊シリーズを刊行する。

 13日には第1弾として、35年前の9月に連載が始まった「北斗の拳ジャンプ」が発売された。ファン投票で選ばれた人気場面のほか、原作者の武論尊さん、漫画家の原哲夫さんの記念色紙、人気キャラクターのラオウが登場した第65話、北斗の拳が表紙となったジャンプ紙面などが収録されている。

 10月には「幽☆遊☆白書ジャンプ」、11月には「ドラゴンボールジャンプ」、12月には「キン肉マンジャンプ」の増刊号が予定されている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月27日・夕刊、3版、2ページ、加藤勇介)

 

 この記事に対して、どのような見出しを付けようと自由です。けれども、意図のわからない見出しに出会うと、頭が混乱します。

 見出しは、次のように書かれています。

 

 「週刊少年ジャンプ」50周年の記念増刊シリーズ / お前ももう買っている!?

 

 実際には、見出しを見てから本文を読みますから、見出しがどういう意味を持っているのかを考えながら読みます。最後まで読み終えて、見出しにどういう意味が込められていたのかと振り返ったとき、まったく理解できないのです。

 まっ先に頭をかすめたのは、「お前ももう買っている!?」というのは、掛詞で、「お前も儲かっている!?」の洒落かなと思いましたが、そういうことではなさそうです。

 「お前ももう買っている!?」という乱暴な言葉遣いは、9月に既に発売された「北斗の拳ジャンプ」の中に使われている、よく知られた言葉遣いなのでしょうか。そうでなければ、この言葉遣いは、読者を馬鹿にしたような表現です。

 買ったかどうかを尋ねるのなら「もう買っている?」という疑問符だけで十分です。見出しの「もう買っている!?」には感嘆符と疑問符が付いていますから、漫画の中の言い回しだろうと推測するのですが、それでよいのでしょうか。

 もし、漫画の中の言葉を引用して見出しを付けたのなら、わかる人だけにわかればよい、という姿勢の表れになります。大多数の新聞読者を対象にしているのではなく、漫画のことをよく知っている読者を対象にした記事であるということになります。

 新聞は、発行部数を徐々に減らしています。マスコミの代表格である新聞が、一部読者を対象にしたミニコミ化を進めていると見るのは、うがち過ぎでしょうか。

|

2018年9月28日 (金)

言葉の移りゆき(160)

「運休」、「運転見合わせ」、「運行取りやめ」

 

 今年は夏から秋にかけて、豪雨、地震、台風などの災害が続きました。交通機関の乱れも長期にわたりました。

 「運休」は運転休止や運航休止などを約めたもので、ニュースにしばしば出てくる言葉です。それとともに「運転見合わせ」という言葉などが使われる度合いも多く、どのような使い分けがされているのだろうかと疑問に思います。

 

 台風20号の影響によるJRの運休などで24日午前、近畿各地では通勤や通学の足が乱れた。

 京阪神地区のベッドタウンとなっている滋賀県草津市のJR草津駅には、東海道線(長浜-京都間)が始発から運転見合わせになったため、朝から運転再開を待つ利用客が集まった。 …(中略)

 JR福知山線では宝塚駅以北の運転の見合わせになり、三田駅では改札口で運転再開の見通しを尋ねる利用客の姿も。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年8月24日・夕刊、3版、9ページ、礒野健一・粟飯原浩・岡村崇)

 

 JR西日本の京阪神地区の在来線は、24日も神戸線など16路線で始発から運転を見合わせた。他の多くの路線も本数を減らしたり、新快速と快速の運行を取りやめたりして、ダイヤが大幅に乱れた。

 JR西によると、沿線設備の安全確認に時間がかかっている上、各線で運休が相次ぎ、多くの列車が目的地にたどり着けなかったため、列車本数が足りず、運転の見合わせや間引き運転を強いられている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月24日・夕刊、3版、11ページ)

 

 2つの記事ともに「運休」という言葉を使っていますが、その他には「運転()見合わせ」「運行を取りやめ」など、思い思いの表現になっています。

 運転を「見合わせ」たり「取りやめ」たりするのは、それぞれの段階での判断(意思)が働いているようにも見えますが、それらは、広い意味の「運休」の中に、すべて含まれるように思います。鉄道会社や報道機関で、言葉の使い分けの基準があるのでしょうか。

 いずれにせよ、これらは一時的なことであって、ある一定の期間にわたる「不通」というのとは一線を画していると言ってよいでしょう。

 話は別のことになりますが、「列車本数」とは、一般的に「何時台には何本の列車が設定されている」というようなダイヤ上の数を表すように思います。ところが、後ろの記事にある「列車本数」は、何両かで編成された一まとまりの車両の数のことを指しているようです。

 

|

2018年9月27日 (木)

言葉の移りゆき(159)

「線」と「点」の混同

 

 「視線」という言葉を「目線」と言うことが多くなって、「目線」は市民権を得た言葉になっています。その「目線」の意味がじわりじわりと広がっているのではないかと感じることがあります。

 東京のモノレールに、初めて東京に来たのだろうと思われる中学生2人が乗っていて、「うわ、この水の色は何。まっ茶色」と言葉を発している様子を紹介した文章の末尾が、次のように結ばれていました。

 

 メディアが伝える夏休みは、都会から田舎やリゾート地に向かう子どもたちの姿がほとんどだ。その先には美しい自然があり、時間はゆったりと流れている。いわば都会目線の夏休みである。

 だが、2人のように初めて都心を訪れる地方の子どももいる。浜松町で降りた彼らを目で追いながら「ふるさとの目線」を忘れないで欲しいと思った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月1日・夕刊、3版、6ページ、「葦 夕べに考える」、多賀谷克彦)

 

 「目線」とは、ものを見る場合の、目の位置や方向を表す言葉だろうと思います。かなり即物的な意味のように思われます。一方で、「目線」を「視線」と同じような意味で使うことがありますが、「視線」は、目がものを見ている方向を表すとともに、そのときの心の中の動き(感情や考え)も加わっているように感じます。

 引用文の第1例「都会目線の夏休み」は、都会人がイメージする夏休みであって、都会人の考え方がメディアの伝え方に反映されていると言っているのでしょう。これは「都会人の視線」で番組が作られているということでしょう。〈考え〉が加わっています。

 第2例「ふるさと目線を忘れないで欲しい」は、ふるさと(田舎)に住んでいる者のものの見方などを忘れないで欲しいという意味だろうと思います。この「目線」の意味は、「視線」であり、もっと言えば「視点」であると思います。「視点」には、ものを見る目や考え方の出発点となるような、土台を感じさせるものがあります。

 「視線」と「視点」は異なるはずですが、それらを一緒にしてしまって、なおかつ、それらを「目線」などという言葉で表現することが、広く行われているように思います。

 「目線」は、言葉を厳密な意味で使うことを避けた、安易な言葉遣いの端的な一例です。

|

2018年9月26日 (水)

言葉の移りゆき(158)

「積み上がる」の不自然さ

 

 「煉瓦を積み上げる」と言うときの「積み上げる」は複合動詞です。「積む」と「上げる」が合わさった言葉です。

 「積む」は、一般的には他動詞として使います。時々、やや古風な言い方として、「雪、降り積む」などと言いますが、これは自動詞です。「上げる」は他動詞です。この語の自動詞の形は「上がる」です。

 複合動詞となる場合は、「見逃す」のように他動詞同士であったり、「落ち着く」のように自動詞同士であったりします。他動詞と自動詞を結び付けて複合動詞にすると、意味の上でちぐはぐな感じになりますから、そのような例は珍しいと思います。

 他動詞と自動詞を結び付けて複合動詞にすることを考えてみます。最初の例、「煉瓦を積み上げる」を「煉瓦が積み上がる」と言えば、どんな印象になるでしょうか。「積み上げる」は意志を持って積み上げたことになるでしょうが、「積み上がる」は人間の意志とは無関係に、災害とか事故とかで煉瓦の塊(建築物や塀など)が分解して無秩序に集積している感じになるでしょう。他動詞と自動詞を複合動詞とする言い方は、やっぱり言い方としては不自然ですから、こんな表現は避けるのが普通だろうと思います。

 滋賀県が東京に設けたアンテナショップを紹介した文章に、「積み上がる」が使われていました。

 

 店内に踏み込んでも、特産品が所狭しと積み上がることなく整然と並ぶ様子は、アンテナショップとしては異質に映る。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年9月21日・夕刊、3版、7ページ、「憂楽帳」、濱弘明)

 

 「積み上がる」(後半は自動詞)ことなく整然と「並ぶ」(自動詞)という言葉は、商品が人手を離れて自動的に動いているように見えます。ロボットか何かで商品陳列作業を行っている感じです。

 商品を「積み上げる」(他動詞)ことをしないで、整然と「並べる」(他動詞)と言えば、係員が心を配って陳列作業をしているように感じられるのですが…。

 なお、ついでながら、「踏み込む」は、予告なく、あるいは強引に、建物や部屋などに入り込むという印象が強い言葉です。ちょっと乱暴です。「(足を)踏み入れる」というような表現の方がよいのではないでしょうか。

|

2018年9月25日 (火)

言葉の移りゆき(157)

「へ・へ・へ」の「へ」

 

 新聞のニュースの見出しに「へ」という助詞があふれています。いろんな場合に「へ」を使えば安易な見出しが作れるからでしょう。ある日の新聞の夕刊から拾ってみます。

 

① 安倍首相 総裁3選へ / 自民 午後、国会議員投票

  (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月20日・夕刊、3版、1ページ。見出し)

 

 本文には「連続3選を果たすことが確実な情勢だ。」とあります。そのような結果になるだろうという場合に「へ」を使うことは多用されています。けれども、これは新聞・放送の世界だけの言い方でしょう。

 

② 進次郎氏、石破氏を支持へ

  (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月20日・夕刊、3版、1ページ。見出し)

 

 本文には「石破茂・元幹事長を支持する意向を固め、周囲に伝えた。」とあります。この段階では、もはや「へ」は不要ではないでしょうか。

 

③ 1年後の夢舞台へ 新生「花園」

  (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月20日・夕刊、3版、1ページ。見出し)

 

 本文には「2019年ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会開幕まであと1年となる20日、W杯に向けた改修を終えた大阪・東大阪市花園ラグビー場が報道関係者に公開された。」とあります。W杯に向けて、という意味で「へ」が使われています。これはごく普通の用例でしょう。

 

④ 合意 11月に先送りへ / EU首脳会議 英の離脱交渉難航

  (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月20日・夕刊、3版、11ページ。見出し)

 

 本文には「来年3月末の離脱を前に、交渉の期限とされた10月の合意は見送り、11月に臨時の首脳会議を開いて決着をめざすことになりそうだ。」とあります。「……なりそうだ」という推測どおりになるかどうかはわかりません。先送りしても「合意」に達するかどうか流動的ですから、「へ」というのは無責任な表現です。

 

⑤ 大規模地震の帰宅困難者対策 / 方針作成へ中間報告 / 大阪府の有識者会議

  (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月20日・夕刊、3版、12ページ。見出し)

 

 本文には「地震発生の時間帯に応じた出勤や帰宅のあり方などについて基本方針の作成を求める中間報告をまとめた。」とあります。「基本方針を作成している作業の 中間報告」がまとられたのではありません。「基本方針を作ってほしいという内容の 中間報告」がまとめられたという意味です。このような曖昧な「へ」は使うべきではないでしょう。

 

 わずか3ページ分のニュースの見出しを並べただけですが、見出しを作る人は、もう一工夫すべきだという気持ちはぬぐい去れません。特に、未来の予測を述べているところに「へ」を使うのは避けるべきでしょう。

 あまりの安易さに「へへへのへ」と笑い出したくなりますが、これはこの日の夕刊に限ったことではありません。また、この新聞に限ったことでもありません。

|

2018年9月24日 (月)

言葉の移りゆき(156)

いくつも「見つけてしまった」

 

 以下に引用する文章で筆者は「とんでもないものを見つけてしまった」と書いています。私はこの文章を読んで、「とんでもない」わけではありませんが、面白いものをいくつも「見つけてしまった」のです。

 

 この夏、お伊勢参りにいそいそと出かけた。その帰り、近鉄宇治山田駅(三重県伊勢市)で特急を待つ間に、ホームの売店で、とんでもないものを見つけてしまった。

 伊勢限定とおぼしき、その商品、袋には、学生帽をかぶった魚類のカツオのイラストが描かれている。尾びれは、かの一家に飼われている「タマ」を彷彿させる白猫にかみつかれていて、パロディーとして権利的にギリOKなのかと気をもませる。昭和レトロな表書きは、「世界の海を股にかけ、酔いも甘いも味わって、辿り着いたがこの聖地 カツオチップになりました」とうたっている。

 内容量30グラムで290円。細長くカットしたアーモンドと、甘じょっぱく味付けした厚削りのカツオ節に、アオサがまぶしてある。味見してみると、アオサから磯の香りが立ち上り、魚の臭みも緩和して、なかなかグッジョブな働きをしている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月22日・朝刊、be7ページ、「食べテツの女」、荷宮和子)

 

 興味深い表現を抜き出しますが、意味のわからない言葉はありません。へぇ~、そんな言い方があるのだというような発見です。それが連続しているのです。

 「権利的にギリOK」というのは「ぎりぎり大丈夫だ」という意味でしょうが、「ぎりぎり」を「ギリ」と短く言ってOKと結び付けてしまっていること。

 「聖地」という言葉は、近頃、大安売りの真っ最中です。何にでも「聖地」を使います。神聖視されている土地などという意味は、とっくに忘れ去られている状況。

 「甘じょっぱく」の「しょっぱい」は、関西では「辛い」と言います。「しょっぱい」は関東方言でしょうから、筆者は関西圏の人ではないだろうという推測。

 「グッジョブな働き」も、国語辞典には載っていなくても、意味はわかってしまいます。「ジョブ」と「働き」という意味の重なりはともかくも、290円のおつまみを「グッジョブ」などと表現する大袈裟さ。(「聖地」と同じような、言葉の大安売り。)

 これからの文章は、公的な新聞に載る文章も、個人的なつぶやきを増幅したような文章になっていくだろうということを予見させてくれるように感じました。

|

2018年9月23日 (日)

言葉の移りゆき(155)

「!」の読み方の指示

 

 この連載(149)回の続きです。

 工藤直子さんの詩「あいうえ・おーい」は4連から成る詩ですが、その第1連を引用します。

 

 むかし むかし おおむかし

 ホモ・サピエンスの ごせんぞさまが

 さいしょの さいしょに しゃべった言葉は

 なんだろな?

 きっと「あ」だ

   あ! おれ生きてるな

   あ! いいな

 (工藤直子・詩、佐野洋子・絵、『あいたくて』、大日本図書発行、1991年9月14日、38ページ)

 

 この詩の題名や、詩の中に書かれている「・」「?」「!」は、発音しなくてもよいだろうと思います。読むときに、一呼吸あけたり、疑問の気持ちを込めたり、感動の気持ちを込めたりすることを示しているのです。詩は朗読(音読)されることが多いのですが、音読するときの助けになります。それが新聞の紙面とは違う点です。

 同じ詩集の中に「!」という題名の詩があります。「!」を発音しないとすれば、題名は無音です。その第1連を引用します。

 

 光と風をつれて

 つくしに変装した 春があるいてきた

 つくしは !のかたちして

 あっちこっちに ! ! ! !

 それを見たわたしも !になった

 (同書、58ページ)

 

 この詩は、つくしの形を「!」の形だととらえているのですが、詩は視覚だけで味わうものではありません。朗読できなければ困ります。

 題名の「!」には「びっくり」というルビが振られています。詩の3行目も「びっくり」、4行目は「びっくりびっくりびっくりびっくり」です。5行目にも「びっくり」のルビがあります。

 作者は符号の読み方にも配慮をしているのです。読み方が揺れないようにきちんと指示をしているのです。好き勝手に読んでくれ、読まなくてもかまわない、というような「好い加減さ」とは一線を画しています。

|

2018年9月22日 (土)

言葉の移りゆき(154)

「奥が深い」は逃げの言葉?

 

 言葉の意味はわかっていても、その使い方が異なると、何ともいたたまれないような気持ちになることがあります。

 「奥が深い」というのは、物事や考えなどに、計り知れないような深さや趣があるということを表す言葉です。芸術や学問やスポーツや科学技術など、奥の深い世界はさまざまに広がっています。

 けれども、私は、この言葉をそれらの世界やそれに携わる人たちなどを誉め称えたり、驚嘆したりするときに使う言葉だと思っていました。

 だから、次の文章を読んだときには、ただただ驚くしかありませんでした。「奥が深い」という言葉が、その話題から逃げるために使われているというのです。そんなことを感じたことはありませんし、私の周囲でそのような使い方をしている例を知らなかったからです。早稲田大学の笹原宏之教授について書かれた文章です。

 

 あるテレビの取材を受けて、漢字の最新研究について5分程度話した。ディレクターはしばらく沈黙し、そして一言。「漢字って奥が深いんですね」。このとき「話したことが、何も伝わらなかったのか、という敗北感を味わった」と言う。 …(中略)

 話の内容がよくわからなかったときに、「奥が深い」という常套句を使ってうまい感じでまとめるのは、思考停止ではないのか、と思うようになった。

 笹原ゼミでは「奥が深い」ということばに逃げないよう徹底している。 …(中略)

 しかし、「奥が深い」を、一律に禁句とすることもまた「殻をつくって、思考停止になっていることに気づいた」と笹原教授。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月12日・夕刊、3版、5ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 話の内容がよくわからなかったら、「奥が深い」と感じることはできません。理解できないのに「奥が深い」という言葉を使う人がいるでしょうか。いたとしても、そんな人は例外の存在でしょう。

 話の結末を、常套句を使ってうまい感じでまとめようとする人はいるでしょうが、「奥が深い」をその常套句とする人はいるでしょうか。本当に奥が深いと感じた人は、その言葉を使うでしょうが、話を終わらせる(話から逃げる)ためにこの言葉を使うとは、にわかには信じられません。

 ゼミでは「奥が深い」という言葉に逃げないよう徹底していると述べられていますが、自分が話している内容を「奥が深い」と言って話を打ち切ろうとすることは、まず考えられません。他人の発言にそんな言葉を使って、その場を打ち切ろうとしても、ゼミは継続して行われるものですから、何の役にも立たないはずです。

 「奥が深い」という言葉は、思考停止というようなレベルに関わるものではなく、もっと素直に感じ取るべき言葉であると思うのです。

|

2018年9月21日 (金)

言葉の移りゆき(153)

ひたちなかのコキア

 

 名前はイメージをかき立てます。小さな国語辞典に「コキア」という言葉は載っていません。発音からは、ごつごつした感じがしないでもありませんが、それが観賞用のものだと言うのならば、外国からやって来た、新しい花かもしれないと思います。

 次の記事の一文目を読んだときの感想です。

 

 茨城県ひたちなか市の国営ひたち海浜公園で、コキアがライトアップされ、訪れた人たちを楽しませている。コキアは和名でホウキグサとも呼ばれる直径六、七十センチほどの球状の一年草。約1・4ヘクタールに植えられた約3万本が、赤色や黄色など、色とりどりに照らされる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月18日・夕刊、3版、7ページ、関田航)

 

 ところが二文目でびっくりします。ホウキグサのことだと言うのです。

 箒草は一年草で、茎を乾燥させて草ぼうきを作ります。私が幼い頃は、近所でごく普通に見かけた植物です。今はわざわざホウキグサから箒を作る人はいませんが、かつては実用のものでした。

 古くは箒木(ははきぎ)とも呼ばれて、「源氏物語」の巻の名にもなっています。日本の人たちにとっては身近なものでした。そのような名前を捨てて、コキアとは何事でしょうか。その方が格好良いのでしょうか。

 箒木の大群落は見てみたいという気持ちになります。日本の風景だからです。コキアの群落は見ても見なくてもよいのです。どうせヨーロッパ風の景色だろうと思うからです。名前を変えても実体は変わりません。けれどもイメージは見事に転換してしまいます。観光用・商売用に言葉をいじることには賛成ではありません。

 ついでながら、「ひたちなか」という平仮名の市名も、その方が格好良いのでしょうか。常陸や那珂という漢字表記を捨てて、発音だけで記すというのは、どういう理由によるのでしょうか。各地に平仮名地名があるから真似ようというのでしょうか。読みにくいから平仮名にするという理由は成り立たないと思います。常陸という旧・国名も、那珂川や那珂湊という地名も広く知られています。国までが真似をして「国営ひたち海浜公園」と命名しています。日本語を安易に、安易に考えています。

 日本を「にっぽん」と書くことがあります。けれどもそれは正式の表記ではなく、「日本」という正式表記が存在します。「ひたちなか」はそれが正式の表記になってしまっているのです。

 コキアという名前を見てしまったら、目の前の草から箒木を思い浮かべる人はいるのでしょうか。

 「ひたちなかのコキア」は、日本語の将来に大きな警告をしているようです。

|

2018年9月20日 (木)

言葉の移りゆき(152)

名詞から感動詞に移行した「やばみ」

 

 新聞の広告に、「若者言葉がわからない」という文章が載っていました。文中の「国語研究で注目のテーマ」という言い方は大げさだと思いますが、おもしろい文章です。

 

 お盆休みを利用して、娘夫婦が帰ってきた。仕事の都合で正月は帰省できないので、会うのは1年ぶり。もちろん、孫娘もいっしょだ。

 スマホの動画で毎日見ているとはいえ、やはり本物は格別である。女房が「ばあば」と呼ばれて抱きつかれ、感涙にむせんばかりに「やばみ~」とうめいた。

 最近の若者が、感動したときにも「やばい」を使うのは知っている。それが「やばみ」に変化しているのか?

 「あら知らないの?いま中高生の間で流行ってるらしくて、一度使ってみたかったのよ」おおかたご近所の井戸端会議で仕入れたネタに違いない。 …(中略)

 「ほかにもつらみ、しんどみ、うれしみとか“み”を付けたほうがかわいいんだつて」 …(中略)

 そういえばこの前の同窓会で、予備校で国語を教えているという旧友に会ったっけ。試しに電話してみると、案の定、食いついてきた。

 「日本語に“楽しみ”はあるのに、“うれしみ”はなかった。学者の間ではむしろ、なぜ今までなかったのかが問題になっていて、国語研究で注目のテーマなんだよ」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月1日・夕刊、3版、7ページ、グーグル合同会社の広告)

 

 「楽しい」という形容詞は、「楽しさ」や「楽しみ」という名詞形に変化させることができます。「辛()い」も、「辛さ」や「辛み」になります。「辛み」は「恨み辛み」のような言葉に取り入れられています。「〇〇み」という名詞形の言い方である「やばみ」「しんどみ」「嬉(うれ)しみ」などの言い方も成り立つはずです。

 広く使われていない場合に異様に感じるだけで、多くの人が口にすれば違和感はなくなっていくでしょう。「可笑(おか)しみを感じる」の「可笑しみ」、「赤みを帯びている」の「赤み」など、市民権を得ている言葉はあります。

 けれども、「楽しみ」「可笑しみ」「赤み」などは名詞として使われています。形容詞から派生した「〇〇み」という言葉は、あくまでも名詞(…ということ、…という様子)という意味です。

 感涙にむせんばかりに発したという「やばみ~」は、語尾をのばして感動詞としての使い方をしています。名詞的用法と一線を画した、このような「〇〇み」の感動詞的用法は、新しく起こってきた現象だと言うべきでしょう。

|

2018年9月19日 (水)

言葉の移りゆき(151)

「ムラ社会」は忌避すべきものか

 

 地方創生が叫ばれて久しいのですが、それが思うように進まず、逆に東京一極集中が加速しているような気がしないでもありません。地方の町や村が明るいイメージをまとって、魅力ある姿を見せることが大切だと思います。

 ところが、その町や村に明るいイメージを付与するのとは全く逆のことが、文章に書かれています。しかも、肩書きが新聞社の編集委員となっている人の文章です。

 いろいろなスポーツ団体のパワハラなどの問題が大きく報じられています。そのうちの一つの論評です。

 

 「上」の意向がメンバーや代表の選考に直結するスポーツ団体は、排他的なムラ社会になりやすい。選手は指導者に従い、選手を国際社会に送り出す指導者は競技団体に従う。そうやって、独裁体制がつくられてしまう。 …(中略)

 有効な監視機能は必要だろう。ただ、その構築を含めた健全性確保への筋道は、国ではなく、スポーツ界が主体となってつくらなければならない。そのために、まずは脱ムラ社会である。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月15日・朝刊、13版、14ページ、「縦横無尽」、中小路徹)

 

 見出しまでもが〈スポーツ界健全化へ  まずは脱ムラ社会へ〉となっています。

 スポーツ界について、この文章で述べられている趣旨には賛成です。けれども、なぜ村のことを徹底的に貶す必要があるのでしょうか。

 ムラ社会とは、有効な監視機能も持たない独裁体制の社会である、と言っておいてから、スポーツ界が、そのムラ社会に陥っていると言っているように思われます。

 カタカナの「ムラ」と漢字の「村」とは違うのだというようなことは理由になりません。日本の村のことを、これほど悪く言った文章は少ないと思います。日本の村は忌避すべき体質を持った、救いようのないものに見えるではありませんか。地方の明るい未来というイメージを徹底的に崩し去る言葉遣いです。

 この文章を読んだあとに残るのは、スポーツ界が仮に健全化しても、日本の「ムラ社会」は救いようのない体質をそなえ続けているということに他なりません。

 学問の世界で「ムラ社会」という言葉がどのような意味で使われているかは知りません。けれども、新聞社を代表するような人が一般の人に向けて、偏見に基づくような言葉を、強調して使ってよいのでしょうか。

|

2018年9月18日 (火)

言葉の移りゆき(150)

台風でハウスがめげた

 

 関西では、壊すことを「めぐ」、壊れることを「めげる」と言います。「ボールでガラスをめんだ」とか、「台風で看板がめげた」とか言います

 共通語では、気持ちがくじける、元気がなくなる、ということを「めげる」と言いますが、関西では、そのような場合に「めげる」と言うことは少なく、他の表現、例えば「しょぼんとする」「やる気が失せる」などと言います。

 台風21号によって大阪・泉州の水茄子が大きな被害を受けたという記事がありました。

 

 数百万円の損失だけでなく、ハウス修理に約1千万円はかかりそうだという。「一生懸命に育ててきたし、お客さんも楽しみにしてくれていた。自然は怖いが、めげたら終わり。これからも頑張って泉州の名産を守っていく」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月11日・夕刊、3版、1ページ、岡田匠)

 

 この文章を読んだとき、記者は関西の出身か、首都圏(または他の地域)の出身か、ということが気になりました。記事のカッコ内の文章はおかしな言い方ではありません。論理は通っています。

 けれども、新聞記事で一続きのカギカッコの文章として書かれている内容は、いくつかの発言を集めて、組み立てられているかもしれません。

 ふと、こんなことを考えました。記者が何かの質問をしたとき、水茄子農家の人が「めげたら終わりや」と短くつぶやいたとします。その言葉を聞いたとき、関西人なら、ハウスがめげたら(壊れたら)栽培してきた努力は終わり(大打撃)だ、という意味に受け取ります。

 同じ言葉を首都圏の人が聞いたら、気持ちを滅入らせる(めげる)ことをしたら、栽培することが終わりになる(復活する気持ちがなくなる)、と聞こえるかもしれません。そして、「これからも頑張って泉州の名産を守っていく」という決意であると判断するのです。

 関西人が、気持ちがくじけることを、日常的に「めげる」と言うことがあるのかなぁという疑問の気持ちから、こんなことを考えました。

|

2018年9月17日 (月)

言葉の移りゆき(149)

「?」をどう読むのか

 

 文章の中にさまざまな符号などを使うことが多くなっています。「これは新発見だ!」などと書いてあっても「!」は発音しないで済ませてしまいます。「どちらへ行くの?」の「?」も同様です。

 ところが、「どうも気持ちがしっくりしない……」というような、曖昧な気持ちを表している場合は「しっくりしないテンテンテン」と読んで、その状況を表現することがあります。

 このような符号などが句末に置かれている場合は、発音しないのも一つの方法でしょう。けれども、文章中に置かれている場合は、発音しないで通り過ぎることはできません。どう読めばよいのでしょうか。例えば、次のような場合は。

 

 お葬式の「?」をさまざまなイベントで探る「おてら終活祭」が2526両日、大阪市天王寺区下寺町1丁目の浄土宗應典院(秋田光彦住職、http://www.outenin.com)で開かれる。通夜や葬儀の再現、多宗派僧侶のトークや相談などがある。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月10日・夕刊、3版、3ページ)

 

 この記事の見出しは〈お葬式の「?」宗派超え探る〉となっていますから、よけいに目立ちます。しかも、カッコ付きで「?」と書かれています。

 記事を読む限りでは、行事の名前に「?」が使われていたようには思えません。記事の中にはこの1箇所しか「?」は使われていません。記者が勝手に「?」を使ったようです。

 そこで、改めて「?」の読み方を考えてみます。これを「疑問符」だの「クエスチョンマーク」だのと読む人はほとんどいないでしょう。疑問の助詞「か」と読む人もいないでしょう。思い浮かぶのは、「(お葬式の)疑問」「なぜ」「はてな」などです。つまり、品詞で言うと、名詞、副詞、感動詞などです。読み方が確定しません。

 勝手な想像を広げると「問題点」「疑問点」「行い方」など、無数に広がって行くでしょう。そうなったら、止まるところがなくなってしまいます。

 この記事は、文章は目で読むものだという前提で書かれています。「読む」とは本来、発音するものです。発音できない(あるいは、発音に著しい揺れが生じる)表現はすべきではありません。

 要するに、どう発音すればよいのかと、読む人の心を惑わせるような表現はやめたいと思います。奇抜さを狙うだけの表現は遠慮してほしいと思います。

 新聞の記事は、街にあふれるビラやチラシとは一線を画した日本語で書いてほしいものです。

|

2018年9月16日 (日)

言葉の移りゆき(148)

「徹底的」の後ろに否定が来てもおかしくない

 

 「〇〇的」という言葉は、安易な言葉遣いであって、私の好きな言葉ではありません。けれども新聞や放送はもちろん、街角にもあふれています。こんな文章を読みました。

 

 制汗剤の広告は以前に取り上げましたが、これも興味深い例。〈ワキ、徹底的ににおわせない〉というコピーです。

 「徹底的」と言えば、「徹底的にやる」「徹底的に追及する」など、後ろには多く否定形が来ます。それが、意外にも「におわせない」と否定形になっています。 …(中略)

 「徹底的」の後ろが否定形というのは、絶対的なルールとまでは言えません。作家の町田康さんは、作品の中で〈徹底的に関係がなかった〉と表現しています。もっとも、その後に〈妙な言い方だ〉と書き添えていますが(「宿屋めぐり」)

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月8日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 「徹底」というのは、態度や行動などが中途半端ではなく、一つの考え方や方針で貫かれていることです。もともとは、自分自身などの姿勢を表す言葉です。「的」が付いて「徹底的」になっても、それは同様でしょう。

 〈徹底的に臭わせる・臭わせないない〉は、自分のことでなく相手(対象)に関わることです。臭わせようとか、臭わせないようにしようとか試みても、自分の意思を貫くことはできません。〈徹底的に関係がある・関係がない〉という表現も、自分の意思で完結できることではなく、様々な要素が関わっているのです。

 ところが、自分の意思(意志)に関わることであれば、後ろに否定形が来てもおかしくはありません。どこまでもやりぬくつもりであるのなら、「自分の意見は徹底的に曲げない」と言ってもおかしくはありません。「私は徹底的に事故を起こさないつもりで運転している」という表現もおかしくはないでしょう。

 「この町からは徹底的に火事を出さない」と言っても、広い町のどこかで起こるかもしれません。「デフレは徹底的に起こさないようにする」と言っても、社会の情勢によって、思い通りにならないことがあるかもしれません。そもそも、他者の動向に左右される事柄に「徹底的」を使うこと自体がおかしいのではないでしょうか。

 この言葉の用例は、もっと徹底的に調べた上で、結論を出さなければならないでしょう。「徹底的に調べる」とは、自分の意思で、可能な限りの努力をして調べることです。何か便利な方法で用例が無数に集まったとしても、他者から得た資料であれば「徹底的に調べた」ことにはならないでしょう。

|

2018年9月15日 (土)

言葉の移りゆき(147)

机や椅子の具合は自分で確かめろ

 

 何にでも「大丈夫」を使う若者言葉について、面白い報告を読みました。朝日新聞の「いわせてもらお」という投稿欄です。

 

 ある研修会に出席し、資料を読んでいると「大丈夫ですか」と声が。はて、具合でも悪そうに見えたかなと思っていたら、「隣に座っていいか」との意味だった。若者言葉では「いいですか」も「いりません」も大丈夫、というらしい。それって本当に、大丈夫か?

 

 単に「大丈夫ですか」だけでなく、「そちらの席、大丈夫ですか」と言われることもあります。誰かの荷物などが置かれていないのなら、空席だから座ってよいはずです。「大丈夫ですか」にはほとんど意味が無く、隣に座らせてもらいますという挨拶にすぎないと思いますが、それにしては大げさな言葉だと思います。

 「はて、具合でも悪そうに見えたかな」という思いを持つのが当然でしょう。救命救急の実技研修でも、倒れている人にかける第一声は「大丈夫ですか」だと教えられました。

 投稿のような状況ならば、隣の席の机や椅子が大丈夫(壊れていない)かどうかは、自分の目で確かめて座りたまえ、と言いたくなります。

 注文した料理を運んできて並べて、「これで大丈夫ですか」と確かめられることがあります。注文した料理が過不足ないかどうかを確かめるのは、係員の役割だろうと言いたくなります。食べても大丈夫かどうかと思うような料理は提供してはいけないから、客に「大丈夫か」と聞くまでもないことだと怒鳴りたくもなります。

 そもそも、こういう場合になぜ「大丈夫」が使われるようになったのでしょうか。「これでよろしいか」の「よろしい」を、すこし大がかりな言い方にしたのが「大丈夫」ではないでしょうか。これで敬意が高まったとでも思っているのでしょうか。

 隣の席(に座って)よろしいでしょうか、お料理(は、これですべてで)よろしいでしょうか。それが「大丈夫」に格上げされたように感じるのです。何だかちぐはぐな、店員教育用のマニュアル言葉が、社会全体に広がってしまったような印象を受けます。こんな日本語の使い方が「大丈夫」であるはずがありません。

|

2018年9月14日 (金)

言葉の移りゆき(146)

机や椅子の具合は自分で確かめろ

 

 何にでも「大丈夫」を使う若者言葉について、面白い報告を読みました。朝日新聞の「いわせてもらお」という投稿欄です。

 

 ある研修会に出席し、資料を読んでいると「大丈夫ですか」と声が。はて、具合でも悪そうに見えたかなと思っていたら、「隣に座っていいか」との意味だった。若者言葉では「いいですか」も「いりません」も大丈夫、というらしい。それって本当に、大丈夫か?

 

 単に「大丈夫ですか」だけでなく、「そちらの席、大丈夫ですか」と言われることもあります。誰かの荷物などが置かれていないのなら、空席だから座ってよいはずです。「大丈夫ですか」にはほとんど意味が無く、隣に座らせてもらいますという挨拶にすぎないと思いますが、それにしては大げさな言葉だと思います。

 「はて、具合でも悪そうに見えたかな」という思いを持つのが当然でしょう。救命救急の実技研修でも、倒れている人にかける第一声は「大丈夫ですか」だと教えられました。

 投稿のような状況ならば、隣の席の机や椅子が大丈夫(壊れていない)かどうかは、自分の目で確かめて座りたまえ、と言いたくなります。

 注文した料理を運んできて並べて、「これで大丈夫ですか」と確かめられることがあります。注文した料理が過不足ないかどうかを確かめるのは、係員の役割だろうと言いたくなります。食べても大丈夫かどうかと思うような料理は提供してはいけないから、客に「大丈夫か」と聞くまでもないことだと怒鳴りたくもなります。

 そもそも、こういう場合になぜ「大丈夫」が使われるようになったのでしょうか。「これでよろしいか」の「よろしい」を、すこし大がかりな言い方にしたのが「大丈夫」ではないでしょうか。これで敬意が高まったとでも思っているのでしょうか。

 隣の席(に座って)よろしいでしょうか、お料理(は、これですべてで)よろしいでしょうか。それが「大丈夫」に格上げされたように感じるのです。何だかちぐはぐな、店員教育用のマニュアル言葉が、社会全体に広がってしまったような印象を受けます。こんな日本語の使い方が「大丈夫」であるはずがありません。

 

|

2018年9月13日 (木)

言葉の移りゆき(145)

新聞が言葉を公認してしまう

 

 表現の自由がありますから、新聞が何を書こうと問題にされることはありません。けれども、日本語の表現ということに限って考えると、新聞にもいろんな問題があることは否定できません。

 〈「はぴばー」気軽な敬意 / 天皇誕生日前後 投稿続々〉という大きな見出しの記事がありました。

 

 「はぴばー!」。12月の天皇陛下の誕生日前後には、ツイッターに1020代の若い世代によるお祝いの投稿があふれる。陛下の写真や模様や絵文字などでコラージュした画像もある。 …(中略)… 若者たちは皇室への関心をそれぞれの形で表現しているようだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月10日・朝刊、13版、3ページ、「平成と天皇」、中田絢子・多田晃子・緒方雄大・島康彦)

 

 若者と皇室の関係はどのようであってもかまいません。ほほえましい現象が起こっていると言ってもよいでしょう。また、ツイッターでどんな言葉が使われようと、それはまだ閉鎖的な社会での言葉であると言えましょう。

 ところが、新聞がその言葉を取り上げて報道すれば、まして大きな見出しを付けて掲載すれば、その言葉が社会的に公認されたことになります。言葉を興味本位で、大げさに扱うと、日本語に影響を与えることになります。新聞にはそのような自覚が必要です。

 「あけましておめでとう」を「あけおめ」と言ったり、「ハピー・バースデー」を「ハビバ()」と言ったりすることは、知っています。若者用語でしょう。けれども、それを新聞が取り上げて記事にすると、その言葉を承認したような空気が漂います。限られた世界の言葉が、おおやけの言葉に昇格してしまうのです。まして、それに大きな見出しを付けたりすると、その言葉が一人歩きを始めます。

 しかも、外来語由来のカタカナ表記の言葉であるはずの「ハピバー」を、平仮名で書くことを認めたことになります。

 NIEを声高に主張するなら、一つ一つの言葉やその表記を、若い人たちが見ているということを忘れてはいけません。教育の現場で記事を使うことを勧めるのなら、用語も表記も文法(表現の仕組み)も、若者たちの基準になりうるものを心がけなければならないでしょう。

|

2018年9月12日 (水)

言葉の移りゆき(144)

わからなかったら、自分で調べなさい

 

 新聞社は、自社のデジタル紙面のアクセスランキングを1面記事として掲載し続けたり、紙面の記事の続きを有料デジタル版で読ませようと画策したりしていますから、わかりにくい言葉であっても、インターネットを使って、自分で調べなさいという姿勢のようです。紙面で完結しないで、あとはインターネットにお任せという姿勢のようです。こんな記事がありました。

 

 終戦記念日に合わせて関連番組が増える時期。時勢に敏感なEテレビ「バリバラ」(日曜夜7時)も5日は「障害者×戦争」がテーマ。 …(中略)

 ご意見番の玉木幸則は、「戦争のときは、戦争の役に立つか立たないか。今は今で、経済的な活動の役に立つか」と指標の存在を語り、 …(中略)

 30分の放送枠で、昨今の世相まで斬った巧みな構成。安易に使われ過ぎだけど、真の〝神回〟とはコレでしょ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月11日・朝刊、13版、24ページ、「よこしまTV」、中山治美)

 

 ここに書かれている「今は今で、経済的な活動の役に立つか」否かということが指標になってしまっているという指摘はもっともなことで、私も、そのような現代社会を憂えています。玉木氏を私は存じませんが、天下を諫める「ご意見番」を務めている方なのでしょうか。

 ところで、「バリバラ」という番組名の意味がわかりません。「神回」には「かみかい」というルビが振ってありますから、まだ馴染みの少ない言葉かもしれませんが、私には理解できません。

 知らないのは自分のせいなのでしょうが、突然のように「神回」と言われてもポカンとするだけです。調べるしかありません。

 バリバラというのは、障害者のための情報バラエティというような意味のようです。2012年4月の放送開始だそうですが、「バリバラ」という略語の作り方は、なんだか茶化している感じがします。

 神回というのは、主にテレビ番組で傑出した出来映えの放送回を賞賛して述べる言い方だそうです。何でもかでも大げさに「神」と称する言葉遣いの一翼を担っているのでしょう。

|

2018年9月11日 (火)

言葉の移りゆき(143)

「不」の連鎖

 

 「スズキ、検査の半数不正 /排ガス・燃料測定 30車種6400台」という見出しの記事がありました。本文には「不正」という文字が10か所以上出てくるのですが、このような内容の記事は、記者もうんざりした思いなのでしょう。同じ言葉の連続では、読む方もうんざりです。こんな表現の工夫がされていました。

 

 「抜き取り検査」という工程で、データを測定するために車を走らせる速度が国のルールから外れていた。検査条件を満たさず、得られたデータは本来は無効とすべきだが、有効なデータとして処理していた。 …(中略)

 検査条件を確認するのに必要な機器の性能が不十分で、検査員の判定ミスを招いたと説明している。鈴木俊宏社長は記者会見で「これだけの台数の誤った処理をしていたことは大きな問題。チェック体制の不備で、会社に責任がある」と陳謝した。 …(中略)

 石井啓一国交相は9日、「燃料・排ガスの検査は環境性能を保証する重要なプロセス。これが不適切であったことは極めて遺憾」とのコメントを出した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月10日・朝刊、13版、1ページ、木村聡史・伊藤嘉孝)

 

 このニュースの関連記事が同じ日の7ページの紙面にありますが、その見出しは「スズキ、チェック不全 / 2年前も燃費測定不正」です。会社の機能が「不全」であったというのです。

 「不正」の他に「不十分」「不備」「不適切」「不全」というように、「不」という言葉が次々と使われています。こんなにたくさん使われると、一つ一つの言葉の意味の違いなどを厳密に考えることなどはせずに、使えそうな言葉を次々と繰り出したように思われます。

 しかも、「不〇〇」だけでは足りなくて、他の表現を工夫しなくてはならないようになったのです。

 「国のルールから外れていた」というのは不正行為そのものでしょう。「得られたデータは本来は無効とすべきだが、有効なデータとして処理」したのも不正です。「機器の性能が不十分」で「検査員の判定ミスを招いた」というのは言い訳ですが、不正につながっています。「誤った処理をしていた」「チェック体制の不備」も不正の原因です。国交相の言葉は、「不正」を遠慮がちに「不適切」と言い換えているようです。

 けれども、このように表現を違えていくことは考えものです。不正を行った側の言い訳に加担しないように心がけなければなりません。

 

|

2018年9月10日 (月)

言葉の移りゆき(142)

 

「否定も肯定もしない」とは

 

 手に入れるのが困難なコンサートチケットをめぐって、ネット販売サイトでチケットを買い占めるプログラムの実態が明らかになったというニュースがありました。業者の男性と話をしたという記事に、こんな表現がありました。

 

 男性は「客から依頼を受けたチケットの購入を代行しているが、買い占めはしていない」と説明する一方、買い占めプログラムの使用については「否定も肯定もしない」と語った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月3日・朝刊、13版、31ページ)

 

 「否定も肯定もしない」という言葉は不思議です。相反する二つの言葉「否定」と「肯定」の両方を打ち消しているのです。

 このような取材に対して、「ノーコメント」という答えもあり得るのですが、ノーコメントというのは悪印象を与えてしまいます。質問に対する答えを拒否しているからです。買い占めプログラムを使っていることを公言したくないから、ノーコメントと言っているのだろうという推測が成り立ってしまいます。

 それに対して「否定も肯定もしない」というのは、質問に答えているから悪印象は緩和されます。けれども、あいまいな答えです。

 「否定しない」イコール「肯定する」、ではありません。「肯定しない」イコール「否定する」、ではありません。けれども、否定しきれない事情が存在するのでしょう。「否定も肯定もしない」というのは、全否定と全肯定の間で揺れているということでしょう。買い占めプログラムの使用をしなかったわけではないというのが本音なのでしょう。

 「南海地震は10年以内に起こるかもしれない」ということについて、「否定も肯定もしない」または「否定も肯定もできない」というのはやむを得ないことです。未来のことですから断言できないのです。それに対して、買い占めプログラムの使用についての質問は過去の事柄に関することです。過去のことを「否定も肯定もしない」のは、明らかにできない事情が存在するということを表明したことになるのでしょう。

 「否定も肯定もしない」はきちんと答えたことにならず、尋ねた人に推測を促してしまいますから、結局は、「ノーコメント」と同じような結果になるのではないでしょうか。

|

2018年9月 9日 (日)

言葉の移りゆき(141)

セミナーやコンサルタントの役割

 

 人は、他人から指導を受けたり、技術を教えられたりすることも大切です。それによって人間性を磨いたり技能を深めたりすることができるからです。

 けれども、セミナーやコンサルタントというものの現状を見ると、疑問に思うこともあります。

 

 7月に都内で開かれた医学部受験セミナーは、真剣なまなざしの高校生や保護者でいっぱいでした。 …(中略)

 適性や意欲を確かめるのに、東京大は今春、主に医学部へ進む理科3類の前期日程試験から11年ぶりに面接を復活。学科の得点にかかわらず、面接の結果次第では不合格にする場合もあるそうです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月1日・朝刊、13版、6ページ、「東洋経済の眼」)

 

 大学合格を目指してセミナーを受けるのでしょうが、合格するということだけが目標になっているとしたら、それはセミナー主催者も参加者も大きな思い違いをしていると言わざるを得ません。医者としての適性がないのに学科試験の成績だけで医学部に合格させるのは困ります。成績よりも人間性です。

 制度が変わると今度は、医学部受験者のための面接セミナーというものが開かれるようになるかもしれません。適性や意欲を確かめるための面接も、合格するための技術のひとつになってしまうのです。「適性や意欲を高めるためのセミナー」などと銘打つことがあっても、その中身は、面接技術の伝授となるでしょう。

 話題は変わりますが、同じ日の新聞の隣のページに、こんな記事がありました。

 

 ここのところ謝罪会見が目白押しだ。 …(中略)

 それに伴い注目を浴びているのが会見での対応の巧拙だ。謝り方次第で世論の反感を買って大炎上することもあれば、事態を沈静化するだけでなく好印象さえ与えてしまうケースもある。かくして、いかにも誠実な謝罪らしく見える姿を演出するべく一挙手一投足を指南するコンサルタントが活躍する。 …(中略)

 プロのアドバイスで組織防衛されたのでは、世間の良識による評価メカニズムが機能しなくなってしまう。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月1日・朝刊、13版、7ページ、「経済気象台」)

 

 そんなコンサルタントが存在するとは驚きです。そんなコンサルタントの前職は何なのでしょうか。人々のために働いて後、退職すれば勝手知ったところを利用して、悪知恵を他人に伝えようとするのでしょうか。「世間の良識による評価メカニズム」を揺るがすためにもコンサルタントは存在しているのです。

 どんな仕事でも、他人の役に立っています。大事なことは、自己利益を得ようとするための僅かの人だけに役立つのか、大勢の人たちに役立つのかということです。一部の人だけに役立ち、大勢の人たちを欺くような仕事をしてはいけません。

 国語辞典の「セミナー」や「コンサルタント」の意味解説に、きれい事ばかりを書いておれないような時代になってきました。

|

2018年9月 8日 (土)

言葉の移りゆき(140)

「治山」は植林関連用語?

 

 「治山治水」は古くから使われている言葉です。「治水」は、水害を防ぎ、水運や灌漑を便利にするために、河川の水流や水路を改良したり整備したりして管理すること、という意味で使われています。

 では、「治山」とはどうすることでしょうか。小型の国語辞典では、植林などをして山を整備すること、というのが基本的な意味として書かれています。

 西日本豪雨などで注目されたのに「治山ダム」というのがあります。これは、植林などのために役立つダムのことではないと思います。東広島市のダムのことを書いた、こんな記事がありました。

 

 治山ダムは、森林を守り山崩れを防ぐ目的で設置されている。27日の調査で、同市の同じ谷筋にある治山ダム6基のうち2基(いずれも幅約30メートル、高さ約6メートル)が、ダム機能が失われるほど壊れたことがわかった。最下流のダムは、ほとんど形が残っていなかった。

 (読売新聞・大阪本社発行、2018年7月28日・夕刊、3版、9ページ)

 

 今回の豪雨で注目されたのは、治山ダムを巨石(コアストーンと呼ぶのだそうです)が破壊してしまったことでした。「治山」が山を整備するという意味であっても、「治山ダム」は土石流や流木などを受け止める機能を持ったものであったようです。それが耐えきれなかったのです。

 そこで、「治山」の意味を、災害を防ぎ、森林資源を活用するために、植林をしたり山崩れや土石流を防ぐ構造物を作ったりして管理すること、というような意味に変更する必要はないのでしょうか。(このような書き方をすると、「治水」とのバランスも保たれます。)

 けれども、「治山」はもとのままの意味にしておいて、「治山ダム」という言葉だけに防災の意味を与えるという考えもあるのかもしれません。

 新しい言葉を国語辞典に加えるということに世間が注目し、改訂版が出るたびに話題になります。それに隠れて、古い言葉の意味説明を変更していくことはあまり話題になりません。けれども、こういうことも国語辞典の重要な働きであると思います。

|

2018年9月 7日 (金)

言葉の移りゆき(139)

「ほぼほぼ」と「半端ない」

 

 私の日常語では、「ビールの缶」や「鯖の缶(缶詰)」を、ビールのカンカンと言い、鯖のカンカンと言います。使用頻度はほぼ半々と言ってよいでしょうか。

 だから、自分では使ったことがない「ほぼほぼ」という言葉の話題を読んだときにも、大きな違和感はありませんでした。

 

 「ほぼほぼ」という言い方、あなたは使いますか。「ほぼ」を強調した言い方です。ここ数年で、特によく耳にするようになりました。

 知人で、この言い方が絶対に許せないという人がいます。一方、優秀な校閲者が口頭で「ほぼほぼ」を使うのを聞き、「定着したな」と感慨を持ったこともあります。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月30日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 「缶」とカンカンのどちらも使うように、「ほぼ」と「ほぼほぼ」も同じように使っても抵抗感はありません。

 すぐに思い浮かべたのは、「是非」を強調するときに「ぜひぜひお願いします」と言うのと同様かと思ったのです。「ぜひに、ぜひにお願いします」と言えば、同じ言葉を2回使ったことになりますが、「ぜひぜひ」は1語と見なしてもよいでしょう。「さても、さても不思議な話だ」と言えば2語ですが、「さてさて」は1語と見ることができます。

 2音節の言葉にはそのような使い方があるということが基盤になって「ほぼほぼ」が広がったと見て良いでしょう。

 ただし、そのような使い方のできる言葉は限られたものでしょう。「瓶」をビンビンとは言いませんし、「もうすぐ来るでしょう」と言うときの「もう」を「もうもう」と言ったりはしないでしょう。

 この「ほぼほぼ」が、同じ飯間さんから、再び話題として提供されている記事がありました。

 

 一昨年に一気に浸透した『ほぼほぼ』は、実は前からある言葉ですが、連載コラムで取り上げると反響が半端なく、大半が『気持ち悪い』など否定派でした。面白かったのは50代の男性から、小学生の娘に『ほぼ』とのニュアンスの違いを聞いたら『ほぼほぼ』しか聞いたことがないと言われた、というお便りがきたことです。そのうち『ほぼ』を古くさい、と感じる人が多くなるかもしれません

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月29日・朝刊、10版、11ページ、「オピニオン&フォーラム」。飯間浩明さんへのインタビュー記事、聞き手は中島鉄郎)

 

 面白いと思ったのは、前の記事で〈優秀な校閲者が口頭で「ほぼほぼ」を使うのを聞き、「定着したな」と感慨を持ったこともあります。〉とありますが、後ろの記事で〈連載コラムで取り上げると反響が半端なく、〉とあります。「ほぼほぼ」は容認してもよいと考えている私ですが、「半端ない」は断じて認めたくはありません。けれども、国語辞典の編纂者が「半端ない」をお使いになるのだから、この言葉遣いも既に定着してしまったのだなぁと思いました。

 この長文のインタビュー記事の見出しに〈日本語は「半端ない」?〉と大きく書かれているのですが、日本語が半端ないというのはどういう意味なのでしょうか。反響が「半端ない」というのは理解できても、日本語が「半端ない」というのは、まったく理解できません。「半端ない」という言葉の意味が拡大し続けているのでしょうか。

|

2018年9月 6日 (木)

言葉の移りゆき(138)

勝手に自称する時代

 

 国鉄の時代には駅名の付け方にも厳格な決まりがあって、例えば兵庫県西脇市の加古川線・日本へそ公園駅を命名するときには、例外的な措置を加えてやっと決まったという話を聞いたことがあります。地名を入れていない駅名であったからです。

 ところが、JRになって後はかなり自由度が増したようです。これまでは考えられなかった駅名がどんどん生まれています。兵庫県内だけを見ても、播磨新宮駅(姫新線)に対して「はりま勝原駅」(山陽線)、姫路駅(山陽線)に対して「ひめじ別所駅」(山陽線)、西宮市内に「さくら夙川駅」(東海道線)があります。播磨や姫路を仮名書きにする理由が、私には納得できません。桜の名所だからそういう名付けをするとなると、全国で際限なく宣伝を意図した駅名が増殖していくでしょう。このような名付けには、目立ちたいという理由がありそうに思います。

 さらに百花繚乱であるのが、大学の学部名や学科名です。言いたい放題、つけたい放題と言っても過言ではありません。いちいち書いていたらキリがありませんから、書くつもりはありません。日本語(漢字)と外来語(カタカナ)とがごちゃ混ぜというものもあります。従来の呼称とどう違うのか、たぶん説明できないのが多いと思います。これも目立つための策略なのでしょう。

 人の肩書きにも同じような現象が現れています。次のような文章がありました。

 

 評論家にしても作家にしても、あるいはエッセイストにしても、別に免許が要るわけでもなく、自称して名詞の肩書きにそう書けば一丁上がり、です。肩書きといえば、〇〇研究家というのもあります。 …(中略)

 のみこみにくいのが、コメンテーターという肩書きです。テレビのワイドショーなどで、なんでもコメントします。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月29日・夕刊、3版、4ページ、「こころの水鏡」、多川俊映)

 

 この文章に、全く同感です。

 誰からも評論家であると認められている人、作家と認められている人、エッセイストと認められている人はいます。けれども今では評論家は無数に枝分かれして、家事評論家、おもちゃ評論家、駅弁評論家、文房具評論家、などなど。いったい評論とは何なのか、評論家というのはどういう働きをする人なのか、というようなことは置き去りにされて、自称「評論家」が跋扈しています。

 ライターというのもあります。ライターは肩書きになるのでしょうか。ライターとは文章を書くことを職業としている人たちの総称のはずです。作家やエッセイストも、ライターに属する職業のひとつです。何かひとつ文章を書いて、新聞に載ったからとて、ライターという肩書きを使うのはおかしいと思います。

 コメンテーターも同じです。番組に出て喋っている限りはコメンテーターですが、放送局から出ればコメンテーターという職業ではありません。

 野球の選手が打席に入ればバッターですが、そうでない場合は投手であったり、一塁手であったり、すなわち野球選手(あるいは、プロスポーツ選手)であるはずです。バッターは肩書きではありません。中学生でも高校生でもバッターになれます。

 ちょっとした文章を書いただけでライターと称するのや、数分間だけ喋ってコメンテーターと称するのは、ちょうどバッターと同類の言葉を使っているということでしょう。

 肩書きも、好き勝手に自称する時代が訪れてきているようです。

|

2018年9月 5日 (水)

言葉の移りゆき(137)

自分で「お若いですね」と思ったら「年齢同一性障害」?

 

 年齢を重ねると、自分の様子が他人にどう見えているかということが気になるものです。こんな文章を読みました。

 

 「お若いですね」。社交辞令だとは知りつつも、そう言われると悪い気はしない。しかしあるとき「ちょっと待てよ。このせりふは、若い人には使わないよな」と思ったとたん、見かけを褒められその気になっていた自分が、気恥ずかしくなった。ちょうど平坦な道でつまずいた時のように。友人は「そこまで考えなくても、素直に受け止めれば?」と言ってくれたのだが……。

 岩波書店「広辞苑第七版」の編集者平木靖成さんに話すと「中古の建物を美築と言ったり、中古品を美品と言ったりしますしねえ」。「えっ、それはやや難ありを言い換えたってことなんですか」「まあ、そういうことかもしれませんね」。ショック! 聞くんじゃなかった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月18日・夕刊、3版、6ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 それならば、他人に判断されるまでもなく、自分から進んで若い姿をして、自分で納得しておればよいのかもしれません。ところが、おっとどっこい。意外な敵が現れました。

 

 団塊世代の周辺で最近話題になっているのが「年齢同一性障害」という言葉だ。「性同一性障害」で悩んでいる方も多いので、心して使わなければならない言葉ではあるのだが、「生きている限り青春」と思っている世代は年を取った自覚が少なく、年齢と行動形態が伴っていないという意味なのだという。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年7月27日・夕刊、4ページ、「もう一度花咲かせよう」、残間里江子)

 

 「年齢同一性障害」とはずいぶん大げさな言葉だと思います。若いのに老成したように見える人もこの範疇に入るのでしょうか。

 それはともかく、何でもかでも、障害だの症状だの病気だのと名付けたくて仕方のない人がいるのでしょう。そんなことに名前を付けなくてもいいだろうと言いたくなります。けれども、病名がわからなくては不安だというのが患者の心理であるとすれば、何かの名称を付けて、世の中には同類の人がいるのだというのも、安心感をもたらすひとつの方法かもしれません。そんな気持ちになるのは、やっぱり老年期に入った証拠なのでしょうか。

|

2018年9月 4日 (火)

言葉の移りゆき(136)

「必ず治る」とは言えないから…

 

 かつての医薬品の広告には、「〇〇が、ぴたっと治る」「必ず治る」「絶対に治る」というような言葉が横行していましたが、最近はなくなりました。薬の効き目は人によって異なるから、ということではないと思います。「治る」という言葉が誇大な宣伝にあたるからでしょう。

 けれども、医薬品業界は、言葉を巧みに操って人々の気持ちを惹きつけようとします。新聞2面を使った、こんな広告がありました。広告ですから、大きな文字で、個条書きのように書かれています。

 

 ひざが痛い  腰が痛い  肩が痛い

 痛みに5つの効果

 5つの効果効能

  1 関節痛に効く

  2 筋肉痛に効く

  3 神経痛に効く

  4 手足のしびれに効く

  5 眼精疲労に効く

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・朝刊、別刷り全面広告、Aページ及びBページ、富山常備薬グループの広告)

 

 この広告の言葉は、「痛い」ときには飲んでほしいが、「治る」とは書けないからの苦肉の策でしょう。

 「効果」には、逆効果という言葉もあるぐらいですから、良い方に向かう効果だけとは限りません。

 「効能」にも、効能書きという言葉があって、言っているほどの効果がないというようなニュアンスでの使い方があります。

 キーワードとなっている「効く」という言葉は、効果や効能が現れることです。薬が効くことにも使いますし、冷房が効くことにも使いますし、宣伝が効くことにも使います。

 その薬が効くか効かないかは私にはわかりませんが、宣伝が効くことを願っていることだけはよく伝わってきます。

|

2018年9月 3日 (月)

言葉の移りゆき(135)

「日本だけ」のバイキング?

 

 いろんな種類の料理をテーブルに並べて、好みのものを好きなだけ取り分けて食べる形式のものを「バイキング」と言います。豪華な宴席の場合もあれば、ビジネスホテルの朝食サービスの場合もあります。そのバイキング料理のことを説明した記事がありました。

 

 「バイキングという言葉に『食べ放題』の意味があるのは、日本だけです」と教えてくれたのは、バイキングの歴史やマナーに詳しい「バイキングコンシェルジュ」の今井寛司さん。

 1958年、帝国ホテルが新館を開業するにあたり、その時の社長さんが「みんなに注目されるようなレストランを作ろう」と考え、日本で初めて、定額で「好きなものを好きなだけ食べる」レストランを作ったんだって。 …(中略)

 よく「ビュッフェ(ブッフェ)」という言葉も聞くよね。これは「立食」という意味のフランス語。より高級感を演出するため、ホテルを中心に2000年代ごろから使われ始めたらしい。細かく言うと、ビュッフェには「食べ放題」の意味はなんいんだよ。キキッ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月1日・朝刊、13版、1ページ、「帰ってきたモンジロー」)

 

 バイキング料理という名称は海外でも使われているのでしょうか。説明の図表・写真などもある、長文の記事ですが、バイキングの名称の広がりはどこにも書かれていません。「バイキング」と言いながら、食べ放題でないものが海外にはあるのでしょうか。

 「バイキングコンシェルジュ」という資格があることを初めて知りました。「バイキングという言葉に『食べ放題』の意味があるのは、日本だけです」と書いてありますが、海外に「バイキング」が無ければ、「食べ放題」という独自性を強調する必要はありません。「食べ放題」をバイキングと言う、と思っているのが、一般の受け取り方だろうと思います。

 「ビュッフェ(ブッフェ)」という名前の立食に「食べ放題」の意味はない、というのは、この際、無関係のことを持ち出しているに過ぎません。このような、論理的に成り立たないことを述べている文章は、読後の後味が悪いのです。

 立ち席のビュッフェは、東海道新幹線の1964年の開業当初からありました(現在は、廃止)から、ビュッフェが2000年代ごろから使われ始めたらしい、というのも、腑に落ちない説明です。

 この文章はずいぶん下品です。ときどき、突然のように「キキッ」「ウキャ!」というような猿の鳴き声が挿入されますが、「モンジロー」という猿は、鳴き声だけのためのキャラクターで、何の意味もありません。文章をぶち壊す働きだけをしています。

 文章には、論理的な正確さや、書き方の上品さがなくてはなりません。

|

2018年9月 2日 (日)

言葉の移りゆき(134)

「底なし」は褒め言葉か

 

 アジア大会の水泳競技における、池江璃花子選手の華々しい活躍は新聞や放送で大きく取り上げられています。その様子を伝える新聞記事の見出しです。

 

 池江 隙なし底なしの18 / 連戦の疲労「金メダルとると吹っ飛んだ」 冷静に0秒07差で逆転

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・朝刊、13版、20ページ。見出し)

 

 記事全体は池江選手の冷静なレース運びを称える文章です。本文中に「隙なし底なし」の言葉はありません。

 さて、「隙なし」はわかりますが、「底なし」はこの状況にふさわしい言葉でしょうか。「底なし」には、「底なしの沼」のように、どこまで行っても底に届かないほど深いことという意味があります。それとともに、別の意味もあります。その「別の意味」を国語辞典から書き抜きます。

 

 『明鏡国語辞典』  きりがないこと。程度がはかりしれないこと。「-の大酒飲み」

 『現代国語例解辞典・第2版』  際限のないこと。「飲ませたら底なしだ」

 『新明解国語辞典・第4版』  そこぬけ。

 『岩波国語辞典・第3版』  きりがないこと。「-に食う」

 『三省堂国語辞典・第5版』  かぎりがないこと。「-のお人よし」

 『広辞苑・第4版』  転じて、際限のないこと。「-の大酒飲み」

 

 池江選手が際限のない力の持ち主であることは誰もが認めるところでしょう。けれども、それは「底なし」という表現にふさわしいでしょうか。言葉の意味は正しくても、印象の良くない言葉です。

 それは、幾つもの国語辞典の用例が、良い印象のことがらを表していないことからもわかるはずです。用法(用例)のことを考えたら、この言葉を使うべきではありません。記録が伸び進んでいる選手は、「底(下限)」がないというのではなく、むしろ「上蓋(上限)」がないという表現がふさわしいのではないでしょうか。

|

2018年9月 1日 (土)

言葉の移りゆき(133)

「仕切る」と「仕切り」

 

 動詞は、連用形にすると体言化して、もとの動詞を名詞の意味に変えることができます。「走る」が「走り」になり、「読む」が「読み」になるなどです。たいていの場合は、動詞の意味とかけ離れることはありませんが、例外もあります。

 

 鹿児島県の三反園訓知事が、7月下旬にブラジルであった現地県人会との夕食懇談会の席上で、会の仕切りをしていた旅行会社の女性社員を呼び捨てにして怒鳴りつけていたことがわかった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月1日・朝刊、13版、27ページ)

 

 この文章で、「仕切りをしていた」というのは、どういうことをしていたのでしょうか。小型の国語辞典で「仕切り」を引くと、〈区切ること。取引や帳簿をしめくくること。相撲で、土俵上の力士が立ち合いの身構えをすること〉というような意味が並んでいます。上の文章では、会場を区切る作業をしていたとは考えられません。

 一方、「仕切る」という動詞は、上記の名詞の意味に対応する意味の他に〈ある範囲内の一切を掌握し、責任を持って処理する〉という意味が書かれている国語辞典はありますが、必ずしもすべての国語辞典に載っているわけではありません。

 つまり、〈ある範囲内の一切を掌握し、責任を持って処理する〉という動詞の意味がじゅうぶんに認知されていないのですから、〈ある範囲内の一切を掌握し、責任を持って処理すること〉という名詞の意味は、ほとんど認知されていないように思います。

 それにしても、このような記事で、「仕切る」「仕切り」というような俗っぽい言葉は避けた方が良いでしょう。

 話題は転じますが、「…ことがわかった。」というのは、どういうことを表しているのでしょうか。「…ことがあった。」という文脈では書けないのでしょうか。

 「…ことがわかった。」という言葉から受け取る印象は、我が社は他社より遅れて情報を得たということか、もしくは、私は取材の努力をしなかったけれどそんな情報が耳に入ったということか、ともかく、あまり褒められたことではないということを言い訳がましく呟いている感じです。

|

« 2018年8月 | トップページ | 2018年10月 »