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2018年10月17日 (水)

言葉の移りゆき(179)

「オールジャパン」に組み込まれる不愉快さ

 

 東京五輪・パラリンピックが近づいて、さまざまなことが話題になっている中で、こんな記事がありました。

 

 この夏、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会が文部科学省に文書を出し、それが都道府県などを通じて、全国の学校にも配付された。 …(中略)

 「大会はオールジャパンで行うので、教育関係者のみなさんもご理解ください」ということが書いてある。

 この文書を受け取った東日本のある高校の関係者は「オールジャパン」という言葉に違和感を覚え、「なんとなく気持ち悪い」と感じた。

 無理もないと思う。「何のために今、東京で五輪を開くのか」について、一般の人の心に届く発信が今もってないからだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月8日・朝刊、13版、27ページ、「コラム2020」、平井隆介)

 

 記者の意見とは異なるかもしれませんが、突然のごとく現れた「オールジャパン」という言葉には反発します。

 例えば、目的・目標を同じようにした人たちの集まりである学校で、「全校(全校生徒)挙げて」取り組む行事を設けるのは自然なことでしょう。巨大企業は別としても、「全社(全社員)で」取り組む事業があってもおかしくはありません。

 けれども、仮に人口が少なくても、「全市民(ひとり残らず)」心を一つにして何かを行うというのは難しいことでしょう。ひとつの市の市民には、いろいろな考え方の人がいます。県となるとなおさらであり、国全体では無理なことかもしれません。

 上記の記事に戻ります。どうして、「国民の皆さま」でなく「オールジャパン」なのでしょうか。このカタカナ言葉には「国民の皆さまにお願いする」という姿勢が見られません。「大会はオールジャパンで行う」と一方的に決めてしまっています。このカタカナ語の押しつけがましさは、まるで挙国一致と命じているような響きがあります。

 「オールジャパン」という言葉ひとつで、国民全体が動くと考えているとすれば、あまりにも不遜な言葉です。ひとりひとりの立場からすれば、有無を言わさず「オールジャパン」に組み込まれてしまう恐ろしさを感じます。大会のボランティアに参加するのは当然でしょう、大会が始まったら必ず応援しましょう、多少の税負担が増えても文句を言ってはなりませんぞ、などなど……。言葉に操られてしまうような気持ちになります。関西にいても、そんな危惧を感じるのです。いわんや東京をや。

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