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2018年10月31日 (水)

言葉の移りゆき(193)

「波間に浮かぶ」のは小舟のはず

 

 国語辞典を引くまでもなく言葉の意味がわかる場合でも、その使い方に面食らう場合があります。

 「波間に浮かぶ」というときの「波間」は、波のうねりとうねりの間のことです。例えば、椰子の実が波間に漂うことがあります。小さな舟ならば、荒れ狂う海の波間に翻弄されることがあるでしょう。舟よりも高い波頭の間ならば、「波間」という表現がぴったりするでしょう。

 さて、次のような文章は、ふさわしい使い方なのでしょうか。

 

 北海道別海町の野付湾で22日、ホッカイシマエビの秋漁が解禁され、三角形の帆をはためかせた名物の打瀬舟が波間に浮かんだ。

 明治時代から続く夏と秋の伝統漁法。エビが生息する水深2メートルほどの浅瀬の海草を傷めないよう風の力で船を動かし、漁をする。

 午前6時過ぎ、約20隻が沖で次々と帆を広げ、風の向きや強さを見ながら帆を二つ三つと増やしたり折りたたんだりして速度を調整し、漁にいそしんだ。

 (読売新聞・東京本社発行、20181023日・朝刊、12版、37ページ)

 

 記事には写真が2枚、添えられています。船は、わずかに波をうつ水面に浮かんでいるように見えます。弱い風に向かって帆を上げているようです。なんとも長閑な風景です。

 「波間に浮かぶ」のではなく、「さざ波に浮かぶ」と言うのがふさわしい気がします。「波間」は大袈裟すぎるように感じます。

 「波間」には、波が寄せてくるまでの絶え間という意味もあります。けれども、この漁は、そんな折を見計らって出漁したようには見えません。穏やかな天候のように感じられるのです。

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2018年10月30日 (火)

言葉の移りゆき(192)

「裏メニュー」と「裏界線」

 

 テレビに「裏番組」という言葉があります。ほんとうはどちらが表か裏か決められないのですが、話題にしている番組以外はすべて「裏番組」と決めつけて使うようです。

 食べ物屋に「裏メニュー」というのがあって、これは正式のメニューに載っていないようなものを指すようです。お馴染みさん限定という気配がします。

 けれども、隠れないで堂々としている裏メニューもあるようです。

 

 リーグ3連覇に王手をかけた広島カープ。大阪市福島区の広島お好み焼き店「お多福」が、ファンの願いを込めた「裏メニュー」を売り出した。

 名前はずばり、「カープ黄金期広島お好み焼き」。その名前通り、ソースの上に、10センチ四方の金箔4枚があしらわれているのがポイントだ。

 値段は3600円(税別)だが、金箔は「コストが高い」と店主。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月23日・朝刊、13版、31ページ、「青鉛筆」)

 

 名前があって、値段も公表されて、これでいったい、何が「裏」なのかと思います。けれども、こんなお好み焼きがあるなんてと、客の「裏をかく」商法なのかもしれません。

 

 さて、次は、ほとんどの人に知られていないと思われる「裏」の話題です。

 

 建物と建物の間に造られた飯田市街地特有の狭い小路「裏界線」を活用して街を活性化しようと、明治大(東京)の学生たちが21日、裏界線にレッドカーペットを敷いて露店を出し、1日だけの商店街を開設した。 …(中略)

 裏界線は1947(昭和22)年に市街地を焼き尽くした「飯田大火」後に発達した小路。幅2メートルほどで避難路であると同時に延焼を防ぐ防火帯でもある。都市設計を学ぶ同大の「建築・アーバンデザイン研究室」のゼミ生は昨年4月、研修旅行で飯田を訪れた際に裏界線を知り、車が通れない狭さと古い土蔵の壁などが醸し出す風情などに着目。

 (信濃毎日新聞、20181022日・朝刊、23ページ)

 

 「裏界線」には〈りかいせん〉というルビが振られており、飯田大火後の事情も説明されていますから、長野県内でもこの言葉を知っている人は少ないのかもしれません。

 「裏(表通りでないところ)」に、「界(さかい。しきり)」のために設けた、「線(細く長いもの)」であるのでしょう。事務的な言葉で、お役所の命名であるような気がします。けれども今では、街の雰囲気を盛り上げるための、格好の場所になっているようです。

 

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2018年10月29日 (月)

言葉の移りゆき(191)

スポーツで行えば八百長だ

 

 報道機関というものは不思議な存在で、まだ起こっていないこともニュースにすることができます。

 1024日、臨時国会の召集日の夕刊の記事は、まさにそのような書き方でした。

 

 第197臨時国会が24日召集され、安倍晋三首相の所信表明演説が同日午後の衆参各本会議で行われる。首相は来年10月の消費税率10%への引き上げに向け「経済に影響を及ぼさないようにあらゆる施策を総動員する」と表明。

 (毎日新聞・大阪本社発行、20181024日・夕刊、4版、1ページ、高山祐)

 

 まだ発言が行われていないのにカギカッコで表現し、「表明した」とか「表明する」とかでなく、「表明」という言葉で文を終える乱暴さです。

 以下、この記事の、文末表現を列挙します。

 

 〇……改革する意欲を示す。

 〇……与野党協議の進展への期待感を表明する。

 〇……努力を重ねる」と述べ、自民党案の提示を機に議論を深めたいと意気込む。

 〇……新しい国創りに挑戦する」と表明。

 〇……世論の不信感にも配慮する。

 〇……「出入国在留管理庁」に格上げする意向を示す。

 〇……人材が集まる日本を創り上げる」と述べる。

 〇……「復旧を加速する」と表明。

 〇……「3年間集中で実施する」と表明する。

 〇……決意で臨む」と強調する。

 〇……日露平和条約を締結する」と改めて表明する。

 〇……「新たな段階へ押し上げる」と語る。

 〇……結果を出す」と述べる。

 

 1面トップ記事ですが、ここまでシナリオで出来ているのなら、国会でわざわざ時間を費やす必要もないと感じてしまいます。

 同じ夕刊(毎日新聞・大阪本社発行、20181024日・夕刊、4版、10ページ)には「安倍首相所信表明(要旨)」という記事があります。

 引用はしませんが、(朝日新聞・大阪本社発行、20181024日・夕刊、3版、5ページ、別宮潤一)の記事も、ほぼ同じような書き方です。

 一度、このような書き方の文章をスポーツ面でお目にかかりたいと思います。例えば、相撲、レスリング、ボクシングなどで、いかがでしょうか。試合する前から細かな経過がわたっておれば、それは八百長です。

 それが可能であるのが政治の世界であるのでしょう。八百長なのか駆け引きなのか知りませんが、予め発言内容が知らされています。政府から報道機関に向けて、前もって情報がもたらされるのです。政府と報道機関との間の八百長という意識はないのでしょうか。記事を書く側にとって、これほどラクな仕事はないでしょう。

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2018年10月28日 (日)

言葉の移りゆき(190)

「プラットホーム」の土台が揺らぎ始めた

 

 「プラットホーム」の最も狭い意味は、駅などで、客の乗降や貨物の積み下ろしに便利なように、線路に沿って適切な高さに設けた施設のことです。

 こんな記事がありました。多くのヒット曲の作詞をした、もず唱平さんの言葉として紹介されています。

 

 「プラットフォームという言葉を思い出しますわ。水平な台地のことやけど、官公庁の施策では環境や基盤という意味でも使われます。特に中高年の人たちの憩いの場にもなっているスナックは、地域社会の情報が交わされるプラットフォームなのです」

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181018日・夕刊、3版、9ページ、「スナックをたどってⅡ、3」、小泉信一)

 

 「プラットホーム」と「プラットフォーム」という表記の違いはありますが、同一の言葉と考えて差し支えないでしょう。

 この言葉を、駅の施設や、水平な台地の意味で使うのは、一般的と考えてよいでしょう。それに〈環境や基盤〉という意味が加わりました。

 ところが、それにとどまりません。次のような文章があります。

 

 プラットフォームとは、報道機関などが配信した様々な記事がまとめて読める、ヤフーやLINEといったサイトやサービスのことをいいます。

 プラットフォームという言葉は従来、自動車の車台や、鉄道の駅の乗降場といった意味で広く使われてきました。

 一方、「人や装置が動く基盤」の意でも使われ、IT用語としてはウィンドウズなどの基本ソフトや、コンピューターそのものを指します。さらに「ニュースのプラットフォーム」といった使われ方まで広がってきました。 …(中略)

 誰もが情報を発信し、まとめられる時代。記事の正確性に関わる校閲記者として、信頼を集めるニュース発信の「基盤」とは何かを考えさせられました。

 (朝日新聞校閲センター『いつも日本語で悩んでいます -日常語・新語・難語・使い方』、さくら舎発行、144145ページ、桑田真)

 

 プラットホームという言葉が、〈基本ソフトや、コンピューターそのもの〉のことを表し、〈報道機関などが配信した様々な記事がまとめて読めるサイトやサービス〉にまで広がったというのです。

 「プラットホーム」という言葉の意味はどこまで広がっていくのでしょうか。日常語の基本にあった意味(駅の施設)が霞んでしまうように思います。頑丈な施設であったはずの「プラットホーム」の土台が揺らぎ始めています。

 報道機関の基本的な姿勢として、欧米の言葉が変化すれば、それに追随して無批判に受け入れてしまうということがあります。カタカナ語の横行に歯止めをかける姿勢が見られません。そして、ひとつのカタカナ語の意味が多様化していきます。

 コンピュータの世界が進展してきたのは、たかだかここ何十年かの時間に過ぎません。コンピュータ業界が新たに使い始めた意味(用法)をそのまま受け入れたりしないで、適切な日本語で表現してほしいのですが、そのような姿勢が欠如しています。

 もちろん一社だけが別の言葉を使っても効果がありません。新聞や放送の業界が手を携えて、日本語を守ろうとする方策を考えなくてはなりません。わが利益だけを優先する日本社会には、そんなことは夢のまた夢であるのでしょうか。

 日本文化の「基盤」、日本語の「基盤」を考えることも、報道機関の責務の一つであるはずです。

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2018年10月27日 (土)

言葉の移りゆき(189)

「人たらし」とは、どういうことか

 

 「29歳西郷 人たらしの面目躍如」という見出しの記事がありました。もう1本の見出しには「福井藩士へ心遣いの手紙 22日から公開」とあります。

 「人たらし」とはどういう意味なのでしょうか。「女たらし」などという言葉がありますから、よい印象ではありません。「心遣い」という言葉が使われていますから、頭が混乱します。

 記事には、次のような表現があります。

 

 明治維新の立役者の1人とされる西郷隆盛(1828~77)が福井藩士に宛てた書簡の原本が22日から、福井県立歴史博物館(福井市)で初公開される。 …(中略)

 書簡では、西郷は村田と面会したときに打ち解けて話ができたことを喜んだうえで、「却而卒爾之至与奉存候(かえって卒爾の至りです)」と記し、失言があったかもしれないことをわびるなど、西郷のこまやかな心遣いがうかがえる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月20日・朝刊、13版、29ページ、山田健悟)

 

 記事にはもう一カ所「人への配慮や気遣いという西郷らしい一面がうかがえる」という言葉があります。「人たらし」は見出しだけで使われた言葉です。

 「人たらし」という言葉は小型の国語辞典には載っていませんが、『広辞苑・第4版』には「人誑し」が載っています。

 

 人をだますこと。また、その人。

 

 また、『日本国語大辞典』にも「人誑」が載っていて、説明はまったく同じです。

 

 人をだますこと。また、その人。

 

 記事での用法は「人誑し」でないことは確かですが、「人たらし」=「こまやかな心遣い(をする人)」という説明が見当たりません。最近、そのような使い方がされているのかどうか、私だけが知らないことなのかもしれませんが、腑に落ちないままです。

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2018年10月26日 (金)

言葉の移りゆき(188)

「とんがった人材」と「とんがった大学」

 

 前回は、「とんがった人材」について言及しました。「とんがった」という言葉の意味が具体的でない、すなわち、意味範囲が絞られていないと思います。国語辞典でどう説明するかとなると、困るのではないかと思うのです。

 関連して、「とんがった大学」という言葉も見つけました。

 

 大学や入試の改革は何度も必要だと言われてきたし、進めるべきだが、なかなか変わらない。だから、私はまず京都学園大をとんがった学園にし、風穴を開けようとしている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月19日・朝刊、10版、13ージ、「永守重信のメディア私評」、永守重信)

 

 この記事には、コラム欄があって、次のような文章があります。

 

 ●「とんがり大学」を探す

 親しい経営者や大学の学長、教授らに独自の教育をしている「とんがり大学」がどこかを聞いている。たとえば、国内では先端的なコンピューター教育をしている会津大学や、グローバル人材の育成に特化している国際教養大学などだ。

 (出典は、上記と同じ)

 

 この記事でヒントになるのは、〈風穴を開ける〉とか、〈先端的な教育をしている〉とか、〈人材の育成に特化している〉とかの言葉です。

 前回(187)では、〈創造的思考力が高い〉とか、〈変化を好み、新しいものをつくりだす〉とかの意味が強いのかと感じたのですが、具体的には、その場面(シーン)がどんどん広がってしまいます。

 結局は、「これまでに行われていないことを、新たに行う」ということが、「とんがった」の意味に相当するのでしょうか。風穴を開けるために、特化して、先端的に取り組む、その具体的な内容はさまざまですが、それらをひっくるめて「とんがった」と言っているのでしょうか。

 けれども、仮にそう考えたとしても、そういう意味内容に、なぜ「とんがった」という言葉を当てはめなければならないのかという点では、まだ納得がいきません。

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2018年10月25日 (木)

言葉の移りゆき(187)

「〇〇らしくない」とは、どういう人間像か

 

 男の子は男の子らしくとか、学生は学生らしくとか、政治家は政治家らしくとか言うのは、古い時代の残滓であるようには思います。

 それにしても、次の記事には驚きます。

 

 「みずほらしくない人」を今年の採用基準に掲げたみずほフィナンシャルグループ。内々定を出した学生の資質を調べたところ、狙っていた「創造的思考力」の高い人材が多かったという。   

 ITと金融が融合する「フィンテック」時代に前例踏襲型の銀行員ばかりでは立ちゆかないとして、「みずほらしくない人に会いたい。」をキャッチフレーズに採用活動を展開。坂井氏は「とんがった人材が採れた。異業種との戦いが始まるなか、変化を好み、新しいものをつくり出す集団に変わらなければならない」と話した。 …(中略)

 とんがった若者を受け入れる「懐の深さ」(幹部)が組織に問われることになる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月5日・朝刊、13版、7ページ、榊原謙)

 

 「みずほらしくない人」という否定的な表現が採用基準であるとき、その言葉の真意はどの程度理解できるものでしょうか。これまでの「みずほ」の会社像をすべて、ひっくり返すような意味ではありますまい。それでは、具体的にどのような人間を求めているのでしょうか。

 「みずほらしくない人」を今年の採用基準に掲げたというのならば、前年まで採用基準にしていた「みずほらしい人」の像を提示しなければなりますまい。そうでなければ、これは採用基準ではなく、単なるキャッチフレーズに過ぎません。

 記事から推察します。「みずほらしくない人」イコール、「創造的思考力の高い人」あるいは「変化を好み、新しいものをつくり出す人」というのなら、そういう言葉を採用基準に書けばよいでしょう。前年までは、〈創造的思考力の高い人〉や、〈変化を好み、新しいものをつくり出す人〉を採用しようとしていなかった懺悔のようにも聞こえます。

 この採用基準を、長年にわたって勤めている行員はどう受け止めたのでしょうか。かつての採用基準が否定されて、古い行員の人間像は望ましくないものにされているという苛立ち? それとも、わずかの新規採用者が異なった個性の持ち主であっても、いずれは古い行員に同化されてしまうという安心感?

 それにしても、「とんがった人材が採れた」とか、「とんがった若者を受け入れる『懐の深さ』」とか言うときの、「とんがった」の意味が具体性を帯びていません。細く鋭い感覚を持った人? 鋭敏な神経で感情的な人? 言葉や態度が荒くてきつい感じの人? 相手を刺すような鋭さを持った人? それとも……?

 創造的思考力のある人や、変化を好み新しいものをつくり出す人を、「とんがった」人とは言わないでしょう。「とんがった」という言葉も、キャッチフレーズの域を出ていないように感じるのです。

 この記事の見出しは、いみじくも、こんな言葉です。「『みずほらしくない人』=創造的?」

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2018年10月24日 (水)

言葉の移りゆき(186)

「絶対」と言うから疑念を持つ

 

 前回の続きです。「絶対」という言葉の不安定さについて、同感する文章に出会いました。

 

 ラジオで森山直太朗さんが自身の曲「絶対、大丈夫」について語っていた。「大丈夫」は肯定的な言葉であるのにもかかわらず、「絶対」が付くと何とも言えない不穏な響きになるのだという。 (中略)

 政治家が自身の選挙のスローガンに「正直、公正」という言葉を使うことにも、同じような違和感がある。

 「正直、公正」はどちらも肯定的な言葉で組み合わせも悪くない。けれども、当たり前のことをあえて言い直しているところに、「絶対、大丈夫」と似たような不穏さを感じる。

 例えば、僕のコンサートに「本人、生演奏」というキャッチコピーがついていたらどうだろうか。

 この人以前にそっくりさんを使って、当て振りのコンサートを行ったのではないかという疑念を、多くの観客が抱くのではないかと想像する。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月12日・朝刊、10版、29ページ、「後藤正文の朝からロック」、後藤正文)

 

 「大丈夫」というのは、危なげがなく確かな様子を表す言葉です。「大丈夫」という言葉の前に「絶対」を加えるのは、危なげがない・確かだということを信じてもらえないだろうと思っているからです。言葉を付け加えることによって、受け取る側が「不穏」を感じるというのは、納得できます。マユツバであることを自身で証明することにもなりかねません。

 誇大な言葉を信じてもらえないから、更に誇大な言葉を加える。それによって信頼感はますます薄らぐのです。商品のコマーシャルも、政治のメッセージも、それを繰り返しています。

 テレビでは、コマーシャルだけてなく、番組内で使う言葉もこのような言葉で満ちあふれています。なんでもないものに、マル秘・初公開、超特大・超安価、効果絶大・日本一、達人・ベテラン・カリスマ、聖地・秘境、カメラ初潜入・密着……などという言葉を連発するから、信用されないばかりか、自身の価値をおとしめることを招いているのです。発信者が「素晴らしい」という必要はありません。黙っていても、受け取る側が感動するものこそ本物なのです。

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2018年10月23日 (火)

言葉の移りゆき(185)

「絶対」と「万全」

 

 「絶対」ほど、その意味と実態とが遊離している言葉はないでしょう。そんなことはわかっているつもりでも、この言葉に騙されてしまうことがあります。

 騙される側も気を付けなくてはなりませんが、騙す側の方こそ罪深いものです。だから規制する必要があるのでしょう。こんな記事がありました。

 

 医療機関のウェブサイト上の表現が「広告」として規制される。「絶対安全な手術」といった虚偽の内容は罰則つきで禁止され、患者の体験談や未承認薬を使う治療の紹介も原則禁じられる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月1日・夕刊、3版、1ページ、阿部彰芳)

 

 ウェブは患者が自ら検索して閲覧するため、これまで広告と位置づけておらず、美容外科のウェブを中心に「絶対安全」など、虚偽や誇大な宣伝文句が横行してきた。昨年改正された医療法や省令で、ウェブサイトを広告と位置づけ、虚偽や誇大な表現を禁止するなど規制を強化する。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年5月30日・夕刊、3版、11ページ、熊谷豪)

 

 どういう場合でも必ずそうであるという意味の「絶対」は、理論上は言えても、現実社会ではありえないことでしょう。

 「絶対」と共通するような要素を持った言葉に「万全」があります。

 来年10月の消費税率10%への引き上げについて、テレビのニュースを見ていると、景気の落ち込みを防ぐ経済対策の策定などについて、首相自身の口から「万全の対策を指示した」という言葉が語られて、放送ではやむをえず、そのまま流しています。それに対して、新聞は「万全」という言葉を、受け売りの形で伝えていません。「万全」などという空虚な言葉は、「絶対」と同様に、宣伝文句に過ぎないことがわかっているからでしょう。

 「全国津々浦々に」幸せが届くかのように述べた言葉が幻想であったように、「万全な対策」などあろうはずはないと、人々は信じて疑わないでしょう。政治の世界の言葉は、「9」割引か、「90%」オフか、「9割9分9厘」カットで考えないといけないのでしょう。

 記事にあるように、商業的な「広告」は規制されるのですが、政治の言葉は言いたい放題で、規制の対象にはなりません。結果的に嘘であっても、残念ながら、とがめることはできないのです。

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2018年10月22日 (月)

言葉の移りゆき(184)

便利な言葉「化学反応」

 

 気になっていた言葉を、また、目にしました。「化学反応」という言葉の、比喩的な使い方です。

 

 ドラマ「リーガルⅤ~元弁護士・小鳥遊翔子~」(木曜夜9時)のキャスティングを進める上で、実は、できるだけ今まで米倉涼子さんと共演したことのない出演者で固めようという方針があった。米倉さんとの化学反応で生まれる新しい何かを期待したのだ。 …(中略)

 そんな中、一人だけ今までに何度も米倉さんと共演している例外の俳優がいる。勝村政信さんだ。顔合わせで「僕なんかお守りもんですから」と謙遜していたが、現場に入ってその意味が分かった。数々の化学反応の中で、恐ろしいまでの安定感で潤滑油となり、このチームを完成させる存在。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181014日・朝刊、13版、12ページ、「撮影5分前」、大江達樹)

 

 「化学反応」とは、物質が化学変化によって、他の物質に変化することです。変化したことは目に見えますが、具体的に何と何とがどう関わって、どのように変化したのかは確かめられないことが多いと思います。

 人間関係は、1+1=2のような形にはなりません。もっと大きなものになったり、逆にしぼんでしまったりします。誰と誰の(あるいはもっと大勢の間の)、何と何とがどう反応したから、そのような結果がもたらされたのか、なかなか説明しにくいことがあります。このときに使われる言葉が「化学反応」です。

 この言葉は、説明できないことをうまく言い抜けるためにあるように感じていたのです。あるいは経過の説明を拒否して、結果だけを指し示すのには便利な言葉だと思っていたのです。

 記事の表現では、「化学反応で生まれる新しい何か」を求めたのでしょうが、その「何か」は曖昧なままです。「数々の化学反応の中で」勝村政信さんの存在感が示されたのでしょうが、それがどのようなものであるのかも具体的でありません。「化学反応」というのはなんとも便利な言葉です。

 なお、引用した文章は、論理の上で矛盾した結果を述べています。

 「米倉涼子さんと共演したことのない出演者で固めて……、米倉さんとの化学反応で生まれる新しい何かを期待したのだ。」と言いながら、結果的には、「(共演したことのある、唯一例外の)勝村政信さんが、……数々の化学反応の中で、恐ろしいまでの安定感で潤滑油となり、このチームを完成させる存在」になったというのですから。

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2018年10月21日 (日)

言葉の移りゆき(183)

スラングを日常語にする新聞

 

 「スラング」というのは、ある特定の社会集団の中で用いられる俗語のことで、卑語とか隠語とか言われることがあります。『事故物件怪談 恐い間取り』という本を紹介する文章に「嘘松」という言葉が出てきますが、これはまさにスラングです。

 

 「嘘松」なるネットスラングがある。真偽の疑わしい体験談を指摘する際に用いる単語で、あまりに出来すぎている逸話には容赦なく「嘘松」判定が下されてしまう。容易く情報を検索できる時代の産物だが、その背景にはすべてに根拠を求める震災以降の世相が影響しているのでは……などと、のんきに分析している余裕はない。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月15日・朝刊、13版、23ページ、「売れてる本」、黒木あるじ)

 

 上記の「嘘松」という言葉は、本の紹介のために必要な言葉でしょう。

 ところが、「スラング」は特定の集団内の言葉ですから、一般の記事で、そんな言葉を白日の下にさらして紹介する必要はないでしょう。次のような記事がありました。

 

 9月1日夜、雨でびしょぬれの少女(17)がツイッターでつぶやいた。

 「『泊めてもいいよ』って方は、DMで住みと年齢性別をお願いします」

 「DM」はダイレクトメッセージ、「住み」は住所のこと。そして、相手が検索しやすいように記号「#(ハッシュ)もつけた。「#誰か泊めて」  …(中略)

 返信はほとんど男性からだ。泊めてくれる男性を「神」と持ち上げ、ツイッター上では「#神待ち」という言葉も飛び交う。

 少女もそうしたつぶやきを知っていた。「(男性は)『やり目』(性行為目的)だし、男性からの呼びかけに応じるつもりはなかった」。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181013日・朝刊、13版、1ページ、有近隆史・田中聡子)

 

 このような言葉を引用しないと記事が書けないというのでしょうか。下品であろうと有害であろうと、スラングと言われるものを、まるで日常語であるかのように紹介しています。こんな言葉を知らなかった青少年がこの文章を読めば、新しい知識として貯えていくことになります。節度があってしかるべきでしょう。

 別の話題に移ります。「下町ロケット」というテレビ番組を紹介した、次の例もスラング(ネットスラング?)でしょうか。

 

 もはや「鉄板」と言える組み合わせだ。2015年に放送された人気ドラマの続編で、同枠でヒットした「半沢直樹」「陸王」の池井戸潤の小説が原作。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181014日・朝刊、13版、30ページ、「試写室」、矢田萌)

 

 国語辞典には、「鉄板」の、このような使い方の意味は出てきません。記者にとっては日常語であったとしても、読者にとっては驚きの対象でしかありません。

 テレビほどではないにしても、新聞の言葉遣いもずいぶん乱れてきたものです。こんな言葉を日常語として使われるのは困りものです。記者には、用語についての規制はないのでしょうか。

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2018年10月20日 (土)

言葉の移りゆき(182)

傘寿の翌年の「半寿」

 

 長命を言祝ぐのは嬉しいことですが、還暦から始まって、古稀、喜寿…と続きます。「〇寿」という言葉は、ややこじつけの感がないとは言えませんが、喜寿、傘寿、米寿、卒寿、白寿などは定着した言葉であると言ってよいでしょう。それにしても、その間隔に長短があるのはしっくりしませんが、愛嬌であると笑ってすませることにしましょうか。

 広告の中にこんな言葉を見つけました。

 

 慶びに咲く「本象牙の薔薇」-。いついかなる時も、国民をやさしく見守りくださる皇后美智子さま。平成2710月に迎えられた御年八十一の「半寿」を記念して、特別に創作された典雅な宝飾ブレスレットです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月8日・朝刊、be1ページ、インペリアル・エンタープライズ株式会社の広告)

 

 傘寿が80歳であるのに、その翌年に半寿と命名したのは誰なのでしょう。「半」の文字を分解すれば、「八」と「十」と「一」に分けられるという理屈でしょう。けれども、「半」という文字のイメージはよくありません。まるで中途半端な長寿のようです。

 一年ごとに「〇寿」と言うのなら、82歳、83歳、……と毎年に名付けたらいかがでしょうか。知恵を絞っても、それは無理かもしれませんね。文字が見つかった歳だけに「〇寿」と名付けるのは、勝手な考え方かもしれません。

 広告にある「半寿」は、商売のために使っているという感は否めません。傘寿の年に作るのを忘れて、1年後になってしまったのでしょうか。「平成2710月」制作の商品を、「半寿」という言葉を呼び水にして売り払おうとしている、と考えるのは穿ち過ぎでしょうか。

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2018年10月19日 (金)

言葉の移りゆき(181)

威勢のよい「ハンドベル」

 

 私たちが住んでいる地域の小・中・高等学校の、50年ほど前のことを思い出すと、授業開始や終了を告げる合図は、サイレンを鳴らしていました。一日に十数回になるでしょうか、学校の周りの住民にはずいぶい迷惑なことであったろうと思いますが、おおらかな時代でした。

 今では、校舎内にチャイムが設置されて、サイレンは姿を消しました。

 ところで、サイレンであってもチャイムであっても、ある特定の学年だけが試験か何かを行って、他の学年と開始・終了時刻が異なることがありました。そんな場合は、重い鐘を持ち出して、廊下などで手で振り回して合図をしました。手で振り回すもののことを、そのものずばり、「鐘」と言っていました。別の言い方があるのかもしれませんが、大らかに「鐘」とだけ、言っていました。

 さて、築地市場から豊洲市場への移転に関して、さまざまなニュースが伝えられました。そのうちのひとつにこんな記事がありました。

 

 10月6日に閉場する築地市場(東京都中央区)14日、冷凍マグロのセリが報道陣に公開された。外国人観光客にも人気のマグロのセリは、15日に一般の見学を終了する。

 午前6時、ハンドベルが鳴らされ、白い冷凍マグロのセリが始まった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月14日・夕刊、3版、10ページ、抜井規泰・有吉由香)

 

 記事にある「ハンドベル」とはどんなものでしょうか。私は、はじめに書いた、学校の「鐘」と同じようなものを思い浮かべました。鐘の大きさはいろいろあるでしょうが、手で振り回して、ガランガランと音を出させるようなものです。静かであるとは言えないセリの場所ですから、優雅な音では役に立たないでしょう。

 「ハンドベル」という言葉で、私が思い浮かべるのは、何人かの人が並んで、手に持って鳴らす楽器です。ひとつひとつのベルは異なった音階になっていて、そのベルを振って曲を奏でるのです。可愛らしい音が出ます。

 国語辞典を見ると、「ハンドベル」を載せているのは少ないようです。『三省堂国語辞典・第5版』には、次のような説明があります。

 

 〔音〕手でふり鳴らすすず。特に、楽器として用いられるもの。

 

 「手でふり鳴らす」のは、「鐘」でなく「すず」です。可憐なイメージです。「特に、楽器として用いられるもの。」とありますから、力任せに振り鳴らす鐘のイメージでもありません。

 築地市場で「ハンドベル」と称しているのか、記者の用語であるのかはわかりません。それはそれとして、国語辞典の世界が、今後、この言葉をどのように定義していくのか、注目したいと思います。

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2018年10月18日 (木)

言葉の移りゆき(180)

組み込まれ、入り込まれる生活

 

 私たちは、テレビのコマーシャルを見て、知らず知らずのうちに洗脳されています。それがスポンサーにとっては、効果があったという喜びに通じることなのでしょう。コマーシャルだけでなく番組自体の内容にも同じような傾向が見られます。こんな文章を読みました。

 

 最近テレビ番組で、健康長寿のための食べ物が紹介されたり、運動の仕方などの指南も行われていて、視聴者も無関心ではいられなくなっています。 (中略)

 私のような健康オタクは、その都度メモを取って実行するので、お勧めの食品もどんどん増えて、これらを全部摂取すると、お腹が健康食品でパンパンになって病気になってしまいそう。 …(中略)

 ときどき呆然と立ちつくします。これらが朝食に入り込んできたのは、明らかにテレビ番組のせいだと。アレも必要、コレも大事!

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月14日・朝刊、be7ページ、「作家の口福」、高樹のぶ子)

 

 「オールジャパン」ほどの強引さはなくとも、国民のひとり、現代人のひとりとして、こういうことに気を付けた生活をしたらどうですかという構想の中に組み込まれてしまっている感じがします。もちろん、そんな勧めは無視してもよいのですが、何となく気になるのが人の常というものでしょう。それに従わなければ現代人失格かもしれないという不安かもしれません。不安は、その勧めを実行しない罪悪感につながってゆくかもしれません。

 話が変わりますが、「罪悪感」を除く食品というものがあると知りました。

 

 カロリー制限や糖質制限。むやみにカロリーを抑えようとして、食事をとらなくなることで、摂食障害に陥る事例もあります。楽しいはずの食事に感じる「罪悪感(ギルト)」を取り除くために、どんな方法があるのでしょうか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・朝刊、be9ページ、「続・元気のひけつ」、田中誠士)

 

 この記事は、そんな罪悪感を取り除くための食品などの情報が書かれているのですが、そこに書かれている勧めに従おうとする気持ちを持ってしまうことも、人の常かもしれません。

 「幸福」「健康」「長寿」「お勧め」……など、きれいな言葉に惑わされず、「不幸」「病気」「短命」「罪悪感」……など、マイナスイメージの言葉に脅かされないようにしようという心の持ち方が必要な時代です。

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2018年10月17日 (水)

言葉の移りゆき(179)

「オールジャパン」に組み込まれる不愉快さ

 

 東京五輪・パラリンピックが近づいて、さまざまなことが話題になっている中で、こんな記事がありました。

 

 この夏、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会が文部科学省に文書を出し、それが都道府県などを通じて、全国の学校にも配付された。 …(中略)

 「大会はオールジャパンで行うので、教育関係者のみなさんもご理解ください」ということが書いてある。

 この文書を受け取った東日本のある高校の関係者は「オールジャパン」という言葉に違和感を覚え、「なんとなく気持ち悪い」と感じた。

 無理もないと思う。「何のために今、東京で五輪を開くのか」について、一般の人の心に届く発信が今もってないからだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月8日・朝刊、13版、27ページ、「コラム2020」、平井隆介)

 

 記者の意見とは異なるかもしれませんが、突然のごとく現れた「オールジャパン」という言葉には反発します。

 例えば、目的・目標を同じようにした人たちの集まりである学校で、「全校(全校生徒)挙げて」取り組む行事を設けるのは自然なことでしょう。巨大企業は別としても、「全社(全社員)で」取り組む事業があってもおかしくはありません。

 けれども、仮に人口が少なくても、「全市民(ひとり残らず)」心を一つにして何かを行うというのは難しいことでしょう。ひとつの市の市民には、いろいろな考え方の人がいます。県となるとなおさらであり、国全体では無理なことかもしれません。

 上記の記事に戻ります。どうして、「国民の皆さま」でなく「オールジャパン」なのでしょうか。このカタカナ言葉には「国民の皆さまにお願いする」という姿勢が見られません。「大会はオールジャパンで行う」と一方的に決めてしまっています。このカタカナ語の押しつけがましさは、まるで挙国一致と命じているような響きがあります。

 「オールジャパン」という言葉ひとつで、国民全体が動くと考えているとすれば、あまりにも不遜な言葉です。ひとりひとりの立場からすれば、有無を言わさず「オールジャパン」に組み込まれてしまう恐ろしさを感じます。大会のボランティアに参加するのは当然でしょう、大会が始まったら必ず応援しましょう、多少の税負担が増えても文句を言ってはなりませんぞ、などなど……。言葉に操られてしまうような気持ちになります。関西にいても、そんな危惧を感じるのです。いわんや東京をや。

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2018年10月16日 (火)

言葉の移りゆき(178)

「苦節何十年」という言葉

 

 「苦節」という言葉は不思議な使い方をされているように思います。

 はじめに、「苦節」という言葉を国語辞典がどのように説明しているか、引用します。

 

 『広辞苑・第4版』……苦しみによく耐えて信念や立場を守り通すこと。「-十年」

 『岩波国語辞典・第3版』……苦しみに負けずに守り通す心。「-十年」

 『三省堂国語辞典・第5版』……逆境にたえて・仕事をする(志をつらぬく)こと。「-十年」

 『新明解国語辞典・第4版』……苦しみに堪え、初心を守り通すこと。「-十年」

 『明鏡国語辞典』……困難や苦しみに耐えて、初心や信念をつらぬき通すこと。「-一〇年、初志を貫徹する」

 『現代国語例解辞典』……逆境にあっても節を曲げないこと。また、そのかたい心。「苦節十年初志を貫く」

 

 お見事! としか言いようがありません。揃いも揃って「苦節十年」という用例が収められています。これを見る限り、「苦節」は、苦しみが長く続いた場合に使う言葉かと思います。実際の用例を新聞記事から拾うと、やはりそうなっています。

 

 苦節20年。今年1月、簡単に縫えて、丈夫で、履き心地もよい理想のスリッパが完成した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月9日・朝刊、10版、27ページ、「with読者会議」、栗田優美)

 

 見出しも「苦節20 理想の古布スリッパ」となっています。

 「苦節」と言う限りは「苦」(苦しみ)の要素が入っていないと使えないでしょう。それとともに、引用した国語辞典の説明でほぼ共通していることは「信念・志・初心・立場を守り通す」ということです。

 ところで、国語辞典は、「節」をどのように捉えているのでしょうか。「節」という文字には、〈自分の志・行動・主義を守って変えないこと〉という意味、〈とき。おり。時期〉の意味、その他にもいくつかの意味があります。漢和辞典を見ればわかります。

 多くの国語辞典は〈自分の志・行動・主義を守って変えないこと〉という意味を記述しながら、用例になると〈とき。おり。時期〉などの意味に支えられた言葉を挙げているのです。不思議な気がします。たぶん「苦節」は十年、二十年と続かなければ使えない言葉なのでしょう。

 「苦節を続けた」というような表現には出会いませんし、「苦節6カ月」では短すぎるでしょう。「苦節」はイメージが先行している言葉のように感じます。

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2018年10月15日 (月)

言葉の移りゆき(177)

「出口調査」を独立した見出しに

 

 「出口」とは、中から外へ出るための場所です。「非常用の出口」とか「水道やガスの出口」というような使い方をします。

 その用例に従って、仮に「出口調査」という言葉を使うとすれば、非常用の出口が大丈夫かどうかを調べたり、水道やガスがきちんと供給されているかどうかを調べたりすることを意味すると思います。「出口を調査する」という意味です。

 ところで、選挙が行われると「出口調査」が行われます。開票があまり進んでいなくても、出口調査に基づいて「当選確実」を判断することが行われています。これは「出口で調査する」という意味です。

 たくさんの国語辞典を調べたわけではありませんが、「出口」という項目(見出し)はありますが、「出口調査」という項目(見出し)は無いように思います。「出口」の用例として「出口調査」が挙げられているような状況です。

 そろそろ「出口調査」という項目を設けてもよいように思います。その場合は、選挙の時に使われる言葉だ、という限定が書かれるのでしょうか。それとも、もっと広い意味でも使うと許容されるのでしょうか。

 次のような記事に出会いました。

 

 最近は出口調査として、日本の旅を終え帰国する直前の外国人に空港でインタビュー取材。彼らが日本で買ったものや訪れた場所を深掘りする企画が好評です。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月2日・朝刊、13版、18ページ、「撮影5分前」、荻野健太郎)

 

 「出口」から独立して「出口調査」という言葉が一人歩きをして、既に「出口調査」は選挙関連用語から離れて、拡大していく方向にあるのではないでしょうか。そうなれば、国語辞典の項目には何としても必要だと言わなければならない気持ちです。

 もっともテレビの場合は、静かな形での調査ではありません。インタビュー取材というきれいな言葉を使いつつ、空港での現実は、相手の都合に配慮せずに、やたら呼び掛け、カメラを回すことも多いように感じます。もはや「調査」の範疇から離れて、テレビ関係者の好きな言葉、「突撃」そのものになってしまっているかもしれません。

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2018年10月14日 (日)

言葉の移りゆき(176)

肩をすくめる」はどういう意味?

 

 獣医学部新設問題について、加計学園理事長がやっと会見を開いたというニュースを読んでいて、おやっと思う表現に出会いました。

 

 与党側からも疑問の声があがる。自民党の閣僚経験者は「なぜこの時期に会見したのか。野党に(臨時国会での)攻撃材料を与えるだけだ」と首をかしげた。中堅議員は「安倍首相への不信感は根雪のように解けないが、野党もモリカケ問題を追及しても支持率が上がらない」と肩をすくめた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月8日・朝刊、13版、2ページ)

 

 「肩をすくめる」とはどういう意味でしょうか。中堅議員は、「しまった」と思っているのでしょうか、それとも「ざま見ろ」と思っているのでしょうか。自民党の議員が、野党の支持率が上がらないことを残念がるはずはありませんから、「肩をすくめ」て嬉しい気持ちを表したと言うのでしょう。

 「肩をすくめる」という成語を取り上げて説明している国語辞典は少ないのですが、『広辞苑・第4版』には、次のように書いてあります。

 

 肩をちぢませる。やれやれという気持や落胆した気持を表す。

 

 辞書の説明文に間違いはないのでしょうが、ずいぶん意味を広く考えているようです。

 説明文前半の「やれやれという気持」というのは、どのような気持ちでしょうか。「やれやれ」というのは、心が疲れたり困惑したときの、がっかりした気持ちを表すとともに、ほっとしたり喜び(安堵感)を表すときにも使います。

 説明文後半の「落胆した気持」というのは、期待通りにならなくて失望する様子を表しています。

 合わせて考えると、「肩をすくめる」には、安堵感もありますが、落胆する気持ちを表す方が多いように思うのです。〈肩をちぢませる〉のであって、〈肩を怒らす〉のではないのですから。

 この段落の文章は「与党側からも疑問の声があがる。」という趣旨で書かれています。野党が追及しても野党の支持率が上がらないことを喜んでいるのです。そうすると、「肩をすくめる」のこの用法は、新しいもののように見えます。

 この文章の「肩をすくめる」は、野党が追及しても効果は上がらないだろう、それ見たことか、というような気持ちのようです。大きな笑い声をこらえつつ、肩を控えめに小刻みに揺らしつつ、その嬉しさを表現している態度のように読みとれるのです。内心は、「ざま見ろ」という気持ちを膨らませているのかもしれません。

 議員の心中を推し量ったように書きましたが、それが目的ではありません。この表現を用いた記者の心中(意図)を推し量りたいと考えているのです。

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2018年10月13日 (土)

言葉の移りゆき(175)

「配慮」という言葉の使い方

 

 「配慮」というのは、よく考えて心を配ること、心遣いをすることです。言葉にとって大切なのは、意味とともに用法です。

 例えば、「安全に配慮する」というのは、安全でないような状況を周囲に及ぼしそうな側が使う言葉です。今にも危険な状態に陥りそうな側が「安全に配慮する」とは使わないでしょう。

 力を持っている側と、力のない側。害を与える側と、害を受ける側。普通の状況をうち破る側と、普通の状況をうち破られる側。そのように対比してみると、「配慮」をするのは、前者(力を持っている側、害を与える側、普通の状況をうち破る側)の方でしょう。

 こんな記事がありました。

 

 2020年東京五輪のテスト大会の第1弾となるセーリングのワールドカップ(W杯)江の島大会の競技が11日、神奈川県の相模湾で始まった。国際大会の大型イベントで、五輪本番での問題点を洗い出していくのがテスト大会の目的だ。今大会では地元名物のシラスの漁場などになるべく影響が出ないよう、配慮がされてのスタートとなった。 …(中略)

 大会組織委の内田拓也・地方会場調整担当部長は「コース設定に関しては、(シラス漁などに)十分に配慮した形になっているのではないか」と話す。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月11日・夕刊、3版、7ページ)

 

 リード文にある「配慮がされてのスタート」という表現は、地方会場調整担当部長の「十分に配慮した形」というコメントに基づいて書かれているように思います。

 シラス漁をしているのは、それを生活としている人たちです。その場所へセーリング競技が割り込んできたのです。

 大会組織委員会が「配慮する」と言うのは、大会を運営する側が、普通の生活をしている人たちの状況を破って、その人たちに害を与えると認識しているのですが、その前提にあるのは、組織委員会が、力を持っている側に立っているという認識でしょう。大会のために、漁場の一部を使わせてもらうということではないのです。大会運営に際しては漁業のことにも「配慮してやる」という意識を持っているということがあらわれています。つまり、五輪を絶対的な力で開催して、影響を受けそうな住民(生活者)には「配慮」をしてやるのです。

 そこのけそこのけ五輪が通る、という姿勢が、ちょっとした言葉遣いにも露呈してしまっているように感じられます。

 

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2018年10月12日 (金)

言葉の移りゆき(174)

「停電」という言葉があるのに

 

 突然のように使われ始めた「ブラックアウト」という言葉は、意味がわからない言葉ではありませんが、なぜこの言葉を使わなければならないのかということを考えると不可解です。同じ日の新聞に、やたら使われています。

 

 9月6日午前4時17分。震度4だった北海道旭川市防災課の公式ツイッターが発信した。 …(中略)

 大規模停電(ブラックアウト)が起きていることが広がった。 …中略…

 初のブラックアウトが起きた北海道地震から6日で1カ月。テレビが映らない中、SNSが一段と注目された。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月6日・朝刊、13版、1ページ)

 

 大規模停電(ブラックアウト)が起きた北海道地震では、テレビに代わってスマートフォンでの情報収集が有効だった。 …(中略)

 広域停電していた6日だけで約4万5千超、リツイートされた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月6日・朝刊、13版●、3ページ、須藤龍也・斎藤徹)

 

 最大震度7を記録し、41人が犠牲になった9月6日未明の北海道地震。静まり返った大地を激震が襲い、道内のほぼ全域が停電する日本初の「ブラックアウト」が起きた。 …(中略)

 地震で傷ついた北海道に追い打ちをかけたのは、ほぼ全域に及ぶ大停電(ブラックアウト)だった。 …(中略)

 北海道電力は本州から送電を受けたり、一部地域を強制停電して調整を続けたりしたが、発生から18分後、需給のバランスが崩れ、ほぼ全域で一気に電力を失った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月6日・朝刊、10版、32ページ、斎藤徹・芳垣文子)

 

 記事から判断すると、「ブラックアウト」というのは、「大規模停電」「ほぼ全域が停電」「ほぼ全域に及ぶ停電」する状況のことで、「広域停電」や「一部地域を強制停電」することは含まれないようです。

 ここに書かれている記事の中身からすると、「ブラックアウト」という言葉を使わなくても、じゅうぶん意味は伝わってきます。

 新聞は文字数を減らすために別の言葉(外来語など)を使うことがありますが、「ブラックアウト」は逆に文字数を増やす働きをしています。

 「停電」という言葉があり、「大規模停電」と言えばわかるのに、どうして「ブラックアウト」という言葉を重ねて使うのでしょうか。このような事態を欧米では「ブラックアウト」と言うから、日本でも使っておけ、というような追随思想なのでしょうか。そんな姿勢で外来語を増やしていくのは困りものです。

 この「ブラックアウト」という外来語は、既に、さまざまな意味で使われているのを知っていて、新しい意味を付け加えようとしたのでしょうか。安易に、そのようなことをにされては迷惑です。

 1986年発行の『ビジネスマンのためのカタカナ語新辞典・改訂版』(旺文社)の「ブラックアウト」の項には、このように書かれています。

 

 ①暗転。画面や舞台を急に暗くして、次の場面へ移ること。

 ②スポーツ放送などで、特定の地域にだけ送ること。

 ③戦時下などでのニュースの公表停止。

 

 1994年発行の『マスコミに強くなるカタカナ新語辞典・第3版』(学習研究社)の「ブラックアウト」の項は、次のとおりです。

 

 ①《映画・劇など》暗転。

 ②(戦時などの)報道管制。

 

 従来使われていた「暗転」の意味に近いのかもしれませんが、舞台劇などでの暗転は、意図的に行うこと(いわば他動詞)ですが、停電は、結果的に起こってしまったこと(いわば自動詞)です。大規模停電のことを「ブラックアウト」というのは、従来の外来語に、別の意味を加えることになります。望ましいことではありません。

 「ブラックアウト」はNHKのニュースでも使っています。「報道管制」ならぬ、「右にならえ報道」の典型でもあるように思われます。

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2018年10月11日 (木)

言葉の移りゆき(173)

「民泊」という言葉の成り立ち

 

 「民泊」とはどういうものなのでしょうか。前回に引用した記事には、次のような記述があります。

 

 旅館総合研究所の重松正弥さんに聞くと「法律としては住宅宿泊事業法が正式名称。あくまでも住宅としての位置づけ。年に180日しか宿泊施設として稼働できない」という。住宅! だから宿泊施設の概念を外した名称なのか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月3日・夕刊、3版、5ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 この文章も言葉遣いがおかしいと思います。「民泊」の正式名称が「住宅宿泊事業法」であるはずがありません。この法律に基づいて、宿泊施設として認められているのが「民泊」施設であるのです。では、この法律に「民泊」という言葉は出てこないのでしょうか。

 ホームページで住宅宿泊事業法を検索してみました。平成29年6月16日公布のこの法律の中には「民泊」という言葉は使われていないようです。

 ところが、観光庁のホームページでは、この法律を説明する冒頭の文章の1行目に「住宅宿泊事業の届出制度や住宅宿泊管理業・住宅宿泊仲介業の登録制度など一定のルールを定め、健全な民泊サービスの普及を図ります。」と書いています。法律には出てこなくても、官庁が「民泊」を正式名称として使っているようです。

 新聞記事の中にある、「だから宿泊施設の概念を外した名称」というのは「民泊」のことを指しているのでしょうか。「泊」という文字を入れて、「民泊」という言葉を作ったのに、「宿泊施設の概念を外した」というのは、奇妙な説明です。それでは、「民泊」という言葉を、どのように説明すればよいのでしょうか。

 

 さて、ここでのテーマは、法律のことではありません。言葉の問題です。

 ホテルに宿泊することは「ホテル宿泊」ですが、それを短く「ホテル泊」と言うことがあります。旅館に宿泊することは「旅館泊」です。そういうふうに考えると、民家(住宅)に宿泊することは「民家泊(住宅泊)」で、それを短くしたのが「民泊」というように考えられます。「住泊」という言葉も可能でしょうが、「民泊」の方がなんとなく落ち着いた感じがするので、そちらを選んだのでしょう。

 似た言葉に「民宿」があります。たいていの国語辞典は、一般の民家が営業許可を得て、副業的または季節的に営む簡便な宿泊施設、というような説明をしています。また、そこに泊まることも「民宿」です。これは「民家宿泊施設」を約めた言葉でしょう。

 このように考えると、「民泊」と「民宿」は、その言葉を作った要素が異なると言ってよいでしょう。

 私たちは、言葉(とりわけ漢字)の短縮を一瞬のうちに行っているようです。特急は「特別急行」の短縮形だと思う感覚は、今では失せてしまっています。特急の前に「快速」を加えて「快速特急」と言い、さらにそれを「快特」と言ったりします。そのうちに、「超快特」が生まれ、それが「超快」や「超特」になり、さらに別の言葉へと発展していくかもしれません。

 もとの話題に帰ると、「民家泊」などという言葉を思い浮かべる前に「民泊」という言葉を思いついていると言ってもよいでしょう。漢字が表意文字であることを活用しているのです。けれども、出来上がった言葉がどのような意味(概念)をそなえているかということは、明確にしておかなければなりません。

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2018年10月10日 (水)

言葉の移りゆき(172)

「民泊」という言葉の誤った解釈

 

 東京オリンピックが近づいたり、外国人旅行客が増えたりして、民泊ビジネスのことが話題になっています。民泊の是非の問題ではなく、「民泊」という言葉そのものについて書かれた文章に目がとまりました。

 

 「泊」という漢字は動詞だ。だから民泊は「民が泊まる」あるいは「泊まる民」と読める。旅館・民宿などとは違い、宿泊施設の名称としては、かなり据わりが悪い。辞書には「民家に泊まること」とある。やはり泊まるという行為が中心のことばだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月3日・夕刊、3版、5ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 引用したのはわずか100字余りの文章です。この文章には、間違いがたくさん含まれています。言葉に関する専門知識を披瀝するかのような装いであるのに、間違ったことを世間に広める役割を持ったコラムであるようです。平気な顔をして、堂々と主張されては困ります。あまりにも悪質なコラムです。

 

 まず、〈「泊」という漢字は動詞だ〉という認識は間違っています。漢字に品詞が設定されているのではありません。「泊まる」と読めば動詞ですが、「泊」を使った熟語の「宿泊」や「停泊」は名詞です。サ行変格活用動詞の「宿泊する」にすれば動詞になります。

 

 民泊は、「民が泊まる」という主語-述語の関係に読むことはできますが、「泊まる民」とは読めません。「泊まる民」という修飾語-被修飾語の関係にするのならば「泊民」という語順にしなければなりません。「泊民」の語順ならば、「民を泊める」という読み方も可能になります。「民泊」の語順では、「泊まる民」とは絶対に読めません。間違ったことを主張されては困ります。

 

 民泊のことを〈宿泊施設の名称としては、かなり据わりが悪い〉と述べていますが、民泊は宿泊施設の名称でしょうか。宿泊の形態を示す言葉ではないでしょうか。〈辞書には「民家に泊まること」とある〉と書いているとおりです。辞書の記述は、宿泊施設の名称だと言っていないのに、誤解・曲解に基づいた文章を書いてはいけません。

 

 このコラムの文章は、社内の人が読んで、校正や校閲をしたのでしょうか。その形跡が感じられません。中学生・高校生であっても、容易に間違いを指摘できると思います。間違ったことを書いて、校正や校閲が行われていない文章を新聞に載せることはやめてください。

 驚くことがあります。この文章の筆者の肩書きです。ずいぶん長いのですが、「朝日新聞メディアプロダクション校閲事業部長/ことばの場『マジ文ラボ』主宰」とあります。校閲の専門家のようです。だから、この人の書いた文章を信頼して、社内の誰もが校閲をしなかったのかもしれません。

 間違いを間違いと認めて、読者に陳謝・訂正をしなければなりません。このコラムの誤りにどのように対処されるのか、今後の紙面に注目したいと思います。

 なお、「民泊」という言葉について、わたしの考えなどは次回に書くことにします。

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2018年10月 9日 (火)

言葉の移りゆき(171)

新聞が使うと、みんなが真似る

 

 記事の文章を引用する。気になる言葉の部分を抜き出しましたから、文脈は続いておりません。この記事は「ぬくもり求め 懐かし系 / 鍵ハモやシンプル家電、社員寮も」という見出しですが、話題が拡散して、焦点が定まりません。

 

 「出来ない所は言ってください」。先生の指導にあわせて鍵盤ハーモニカ(鍵ハモ)を押す指がカタカタと動く。 …(中略)

 売り上げが伸びている鍵ハモのフェスを昨年開くと、立ち見が出る盛況となり、昨秋以降、全国8カ所で教室を開いた。 …(中略)

 「世の中、娯楽番組もSNSもレスポンスを迫るものばかり。還暦から非デジタルにシフトしました。テレビもやめてラジオ。鍵ハモは息が音になり、人間らしい」。 …(中略)

 大手が退出した「絶滅危惧種」だが、14年に発売したCDプレーヤーは即完売し、 …(中略)

 「今後もシンプル機能の身の丈家電としてPRしていきます」

 総合商社では、濃い人づきあいも復活している。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月6日・朝刊、13版、7ページ、「けいざい+」、鳴澤大)

 

 文章の展開の仕方を問題にしているのではありません。用語のことです。

 「鍵盤ハーモニカ」を(鍵ハモ)と略して提示したら、あとは文中に何度使っても、見出しに使ってもよいと言わんばかりに頻出させています。(上記の引用がすべてではありません。)

 「鍵ハモのフェス」とか「SNSもレスポンスを迫る」とか「非デジタルにシフト」とか、外来語(や、その短縮形)のオンパレードです。日本語の中に定着している外来語であるかどうかが、その言葉を使う基準にはなっていないようです。

 ところが一方、「人間らしい」とか「身の丈」とか「濃い人づきあい」とかの日本語が、どのような状態のことを示しているのか疑問です。大きな言葉を振り回して書いている感じがします。

 「大手が退出」というのは、日本語の使い方としては、間違いでしょう。大手メーカーが「撤退」したのであって、〈改まった場所から引き下がって帰る(=退出)〉ことをしたのではないでしょう。

 NIE(教育に新聞を)と声高に語る前に、新聞は先ず、児童・生徒の手本となる記事を書いてほしいと思います。政治・経済・文化・社会・スポーツの区別なく、新聞全体がそうでなければなりません。(スポーツ面の見出しの中には、実に醜いものがあります。)新聞が使う言葉は、良いも悪いもみんなが真似るのです。

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2018年10月 8日 (月)

言葉の移りゆき(170)

排他的な「陣」、安易な取材

 

 見るたびに、嫌な思いになる言葉があります。「報道陣」という言葉です。

 

 7月の西日本豪雨の影響で一部の区間を除いて運転を見合わせているJR芸備線について、JR西日本は5日、広島市安佐北区白木町で、鉄橋から川の中に落ちたレールを撤去する復旧作業を報道陣に公開した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月5日・夕刊、3版、8ページ)

 

 「陣」というのは戦いに関係のある言葉です。古風で好戦的な言葉を誰が使い始めて、どのように広がっていったのかは知りませんが、使ってほしくない言葉です。報道関係者自身が使い始めた言葉だろうと推測しますが、確証はありません。

 「陣」という言葉は、その中に含まれる人と、そうでない人とをきちんと区別します。「報道陣」というのは、排他的な言葉です。我々だけが取材する権利を持っているとか、我々だけがその場に参加できるとか、の意識が無いとは言えないでしょう。一般人よ、そこ退け、そこ退け、新聞・放送が通る、という感じに満ち満ちています。

 復旧作業が行われている場所は、誰にでも見える場所でしょう。ところが「報道陣」にだけ近寄れる特権が与えられているのでしょう。

 この記事は、スポーツの試合記事と酷似しています。試合場へ行けば記事にする出来事が起こるのと同様に、公開された工事現場へ行けば記事にする材料が与えられるのです。係員が説明してくれるでしょうし、写真の良いアングルも与えられるでしょう。そして、有り難いことに一般人は立入禁止です。記者は汗をかかなくても済みます。

 復旧作業を公開するという日程が通知されたら、その日に行けばよいのです。普段から取材を重ねなくても、その日だけで記事が書けるのです。JR(や、報道陣だけへの公開を企画する会社など)は、「報道陣」に対して過保護であると思います。

 取材を受ける側と、取材をする側との関係が、持ちつ持たれつになっていることを「報道陣」という言葉は、端的に表していると思います。「一般公開に先立って」報道陣を招待したり、「普段は未公開であるところを」報道陣に見せたりする恩恵に慣れてしまったら、記事を書く筆先は、相手に配慮して、鋭さが失われるかもしれません。もちろん、この「相手」とは、読者のことではありません。

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2018年10月 7日 (日)

言葉の移りゆき(169)

司会者の働き

 

 テレビの司会者は、その番組を成功させるかどうかの大きな働きをしていることは当然です。その司会者へのインタビュー記事がありました。

 

 有働由美子さんへのインタビュー。

 

 「いつの間にか『回し上手ですよね』と言われるようになって……。回す技術は場数で向上します。誰がやっても同じ。現場で何を感じて、どう伝えるかというのは、私だけのもの。年齢的にも試すなら最後かもしれない。本当にもう、仕方がなかったんです」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月22日・朝刊、10版、27ページ、後藤洋平)

 

 村上信五さんへのインタビュー。

 

 あまたの番組を仕切るなかで考える司会のだいご味とは?

 「昔は自分が映ってなんぼや、って思いがありました。でも、話を振ったゲストのトークが放送される時ですね。いい質問、いいスルーパスを出せたんやなって」

 成長続ける司会者の一面。27時間で、何度美しいスルーパスを出すだろうか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月1日・朝刊、t1ページ、河村能宏)

 

 前の記事の「回す」と、後ろの記事の「振る」は、司会の現場から言うと、同じようなことを言っているのでしょうか。その番組に出ているあの人、この人に発言させるように誘導していることなのでしょう。

 放送の現場の言葉はいわば「隠語」のようなものでしょうが、今は一般の人に向けて、そんな言葉が使われています。新聞も、インタビューで聞いたら、他の言葉に置き換えることをしないで、そのまま書いてしまうようです。後ろの記事は、見出しが「いいスルーパスを」となっています。

 後ろの記事にある「スルーパス」という言葉は、サッカーの試合で、相手チームの選手と選手の間を抜けるパスのことを抜けるパスのことです。味方の進行方向に向けて、ボールを蹴って相手の守備陣をすり抜けさせるパスです。うまくいけば、決定的なチャンスになります。

 司会者がスルーパスを出すというのは、どういう意味なのでしょうか。一般の討論番組は、ディベートではないでしょうから、敵味方に分かれているわけではないでしょう。敵(反対意見の人)の間をすり抜けるというような意味でないとしたら……。

 司会者にとって、都合のよい結論を導くために、都合のよい人に向けて、話を「回す=振る」ということなのでしょうか。だとしたら、さまざまな意見をもとにして考えようとする討論番組の価値が失われてしまいます。

 世の中はスポーツ全盛時代です。さまざまな分野に、スポーツ用語を遠慮なく進出させています。けれども、意味を曖昧にしておいて、流用することは望ましいことではありません。スポーツと討論とを一緒にしてしまってよいのでしょうか。

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2018年10月 6日 (土)

言葉の移りゆき(168)

「蒸発」は俗語で、死語

 

 言葉は生々流転するものです。とは言え、その流転に驚くことがあります。次のような文章を読みました。

 

 こないだ私が、「田舎の友達のダンナさんが蒸発しちゃったらしくて」と、話し始めたら「蒸発ってなんですか?」と30代と20代。「蒸発、知らないの?」と、説明し始めると、途中で「それって失踪のことですよね」と笑われ、ふと恥ずかしさで自分が蒸発しそうになりました。死語だったんですね。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月28日・夕刊、3版、2ページ、「まあいいさ」、清水ミチコ)

 

 「失踪」という言葉は昔から使われています。「蒸発」という比喩表現の方が新しいと思っていたのですが、今では「失踪」が力を盛り返して、使用頻度が多くなっているのでしょうか。それとも、「蒸発」は一時的な用語であったのでしょうか。この文章の見出しは、「恥ずかしさで蒸発?」となっています。巧い見出しだと思います。

 試みに『明鏡国語辞典』を見ると、本来の意味「液体がその表面から気化すること。また、その現象。」の他に、次のような説明が書いてあります。

 

 〔俗〕いつの間にかその場から姿を消すこと。また、家出などをして行方不明になること。

 

 他の国語辞典も意味の説明は、ほぼ同じです。「俗語」であるとか、「俗に…」というような注記をしている辞典が多いのが目につきます。

 子ども向けの『チャレンジ小学国語辞典・第4版』(ベネッセ)でも、本来の意味の他に、次のように書いてあります。

 

 なんの手がかりも残さないで、人が突然いなくなること。

 

 市民権を得ていたはずの「蒸発」の意味・用法は、次第に「失踪」に取って代わられつつあるのでしょうか。まさか、死語に至っていないとは思いますが。

 それにしても、「俗語」や「俗に…」の書き方が気になります。このような比喩的表現を俗語というのなら他にも俗語がたくさんあるはずです。「蒸発」という言葉は文章にも書かれているはずですから、話し言葉の世界だけのものでもないと思います。俗語という判断の根拠がわかりません。いずれかの辞典が「俗語」と書き、他の辞典が真似たのかもしれません。

 俗語なら死語になっていく運命は強いかもしれませんが、「蒸発」は俗語の範疇に入るのでしょうか。

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2018年10月 5日 (金)

言葉の移りゆき(167)

文化は「ひまネタ」、言葉はもっと「ひまネタ」

 

 初めて聞いたり見たりした言葉でも、一瞬のうちに意味が了解される言葉があります。「ひまネタ」という言葉は、どのような広がりで使われているのか知りませんが、意味はよくわかります。

 

 電柱や電線が、たとえば奈良や京都のような古都の景観を阻害しているとして、時に電線の地下埋設が話題になります。が、喫緊の事案でもないからか、そうした議論も一向に熱を帯びません。メディアにとっても、文化は「ひまネタ」なんですね。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月26日・夕刊、3版、4ページ、「こころの水鏡」、多川俊映)

 

 まったく同感です。

 一般の新聞が、スポーツ新聞に化してしまっています。スポーツ面が何ページも何ページもあって、同じ大会や同じ選手のことがトップニュースから社会面に至るまで埋め尽くされることは日常茶飯事です。スポーツ新聞を購読しているつもりはないのですが、スポーツの話題満載の新聞を読むように仕向けられているのです。スポーツ記事は、翌日になったら価値を失いますから、その日に記事を満載するのです。それが何日も続きます。

 新聞や放送が報道をするときの優先順位は、一般の人たちの感覚とは大きくかけ離れています。テレビのニュースでは、大谷選手が大リーグでホームランを打ったという一瞬の出来事の方が、その日の日本のプロ野球の6試合全部の試合経過より大事であるようです。新聞も大同小異です。

 新聞において、文化に関することはまったく軽く見られているジャンルのようです。その文化の中でも、埋蔵文化財に関することは大きく取り上げられても、言葉や民俗に関することは軽視されがちです。言葉や民俗習慣のような目に見えぬもの、絵にならないものに、価値が見出せないようです。だから、ときどき「ひまネタ」として掲載されるのです。

 人々にとってどんな大事な話題であっても、1本のホームランや、水泳の日本新記録や、大相撲のゴタゴタのニュースの前には、割愛されてしまうか、後日掲載という扱いにされてしまう話題なのです。

 球場に待ちかまえて、その日の試合経過を大きく報道しようと燃えている記者たちの心は、選手の一瞬のプレーによって、見事な記事や写真になって結実し、新聞の何ページも独占することになるのです。

 それに比べて、文化に関する記事は……ということは、もう、書くまでもないことでしょう。

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2018年10月 4日 (木)

言葉の移りゆき(166)

引き戸の「扉」は増えている

 

 古典を読むと「遣()り戸」という言葉が出てきます。横に滑らせて開け閉めをする戸です。寝殿造りの建物に設けられた、外側に開く戸を「妻戸」と言い、のちには、両開きの板戸を広く「妻戸」と言うようにもなりました。

 現在の建築物では、両開きの戸()よりも、横に滑らせる戸()が増えつつあると思います。それは当然、言葉遣いにも影響を与えます。こんな文章に出会いました。

 

 おそば屋さんの引き戸に〈自動扉〉と書いてあります。見つけたときは「やった」と喜びました。 …(中略)

 「戸」には、引き戸(スライド式)と開き戸(ドアノブを回して開ける)があります。一方、「扉」は、特に開き戸だけを指します。

 ところが、待てよ、と思いました。自動ドアの場合は、スライド式でも「自動扉」と言わないでしょうか。「扉」も引き戸を指すのでは。その例を集めたいと思いました。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月15日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 飯間さんは、戸(引き戸)に限って、「扉」という使い方の例を集めておられるようですが、「戸」の概念を広げると、引き戸タイプの「扉」の例は、たくさんあります。例えば、次の記事です。台風24号の接近に備える様子を書いています。

 

 神戸市は30日午前、メリケンパークなどにある防潮扉を閉鎖した。閉鎖すると道路交通に影響がある一部の防潮扉を除き、午後5時ごろまでに閉じた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月1日・朝刊、「神戸」版、13版△、29ページ)

 

 私は海岸近くに住んでいますから、近くに防潮扉がたくさんあります。中には開き戸タイプのものもありますが、それよりも引き戸タイプの方が圧倒的に多いのです。それらは区別をしないで「防潮扉」と言っているようです。

 一般の家屋にも門扉があります。「門扉」は小型の国語辞典にも載っています。門扉は開き戸が多いかもしれませんが、蛇腹式で横にのばすものも、ゴロゴロと全体を引っ張り出すものも、区別しないで、門扉と言っています。

 引き戸タイプのものを「扉」と言うのは、もはやごく自然に広がっていると思います。

 

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2018年10月 3日 (水)

言葉の移りゆき(165)

もう一つ加えて「てててんて」

 

 前回の続きです。こんなことに気付きました。

 柴崎さんの文章は、例えば「安心しててんて」というような場合の「ててんて」のことを述べているのです。それと同時に、「安心してててんて」という言い方もできるのです。

 他の言葉を例にして説明します。例えば、〈寝ていた〉という過去の継続的なことを表す場合に、「寝る」という動詞と、継続を表す「とる」という助動詞と、過去を表す「た」という助動詞を連ねて表現します。すなわち、「寝・とっ・た」となるのです。その場合の「とる」という助動詞は、「てる」という助動詞で表すこともできます。すなわち、「寝・て・た」となるのです。(「てる」の連用形は「て」です。)

 「寝・とっ・た」の「た」の代わりに接続助詞「て」をつなぐと「寝・とっ・て」ですが、「寝・て・た」の「た」の代わりに「て」をつなぐと「寝・て・て」となります。つまり、意味の上では、「寝とって」イコール「寝てて」です。

 そこで、「寝・とっ・て・てん・て」という言い方、イコール、「寝・て・て・てん・て」という言い方になります。

 つまり、「ててんて」という言う方は既にリズミカルな表現ですが、もうひとつ「て」を加えて「てててんて」という言い方も可能です。可能ですと言うよりは、関西の人たちは無意識のうちに、「てててんて」という言葉も日常的に口に出しているに違いないのです。

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2018年10月 2日 (火)

言葉の移りゆき(164)

リズミカルな「ててんて」

 

 他国の言葉や他地域の方言を聞いて、おもしろい言葉遣いに、はっとさせられることがあります。逆に、自分たちが普段使っている言葉の中にあるのに気付いていないことがあります。

 次の文章を読んで、そんなことを意識させられました。

 

 以前、わたしの小説の感想で「大阪弁には『ててんて』なんていうかわいいリズミカルな言葉があるのか」と書いてあった。「……しててんて」の「ててんて」。そう言われると急に、素敵な言葉に思えてきた。少し距離をおいて発見してもらえるとは、すごくおもしろくて、うれしいことだと思った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月27日・夕刊、3版、7ページ、「季節の地図」、柴崎友香)

 

 「ててんて」は、しょっちゅう現れる表現ではありませんが、言われてみるとリズムがあります。筆者は詳しく書いていませんから、どういう意味を表しているのかということは、この言葉を知らない人には伝わりません。けれども、関西人ならば、その意味をたちどころに了解してしまいます。この連載コラムは大阪本社管内だけのものであるとすれば、わからない読者はいないだろうと思って、筆者は説明を省略したのでしょう。

 そこで、老婆心ながら、ちょっと説明を加えます。リズムのある言い方ですが、意味の上から、そのリズムを区切ると、「……して」「てん」「て」に別れます。1つ目は、動詞に接続助詞「て」が繋がったものです。したがって、「寝て」「喋って」「安心して」などの他に、「呼んで」などのように濁音「で」になることもあります。

 2つ目の「てん」は終助詞で、過去に関することで、相手に念を押したり、強調したりするときに使う言葉です。「これは 大阪で 買()うてん。」というような場合の「てん」です。もっとも、現在および未来に関することを述べる場合は終助詞「ねん」を使うことになります。「それは 今度 大阪で 買()うねん」というように。

 3つめの「て」は、伝聞を表す終助詞です。〈……と言っている〉とか、〈……だそうだ〉という意味を、わずか一音の「て」で表します。

 ちょっとくどい説明のように見えるでしょうが、「ててんて」という、リズムある4音で、これだけの意味を込めているということも、関西の言葉のおもしろいところです。

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2018年10月 1日 (月)

言葉の移りゆき(163)

「切符」は見出し用語?

 

 乗車券、観賞券、入場券などのことを「切符」と言いますが、切符という言葉はやや古風な言い方になってきている感じもします。けれども、この「切符」が出場権というような意味で使われ続けています。小さな国語辞典では、出場権という意味が書かれていないこともあります。

 

 わずか2日間のうちに、3回も使われています。まず、全日本大学駅伝の地区選考会のことを報じる記事の見出しです。

 

 広島経大 5大会連続切符

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月24日・朝刊、13版、13ページ、見出し)

 

 記事の言葉は、「広島経大が5大会連続22回目の出場を決めた。」です。

 そして、翌日の記事の見出しです。

 

 東北大が切符 25校出そろう

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月25日・朝刊、13版、13ページ、見出し)

 

 記事の言葉は、「東北大が6大会連続13回目の出場を決めた。」です。判で押したような、別の言葉で言えばコンピュータで作成したような記事と見出しのように感じられます。

 文化に関わる行事にも、同様の記事が見られます。

 

 県勢4校に全国切符 / 中学・高校部門 鷹匠中など

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月24日・朝刊、「神戸」版、13版△、21ページ、見出し)

 

 これは、関西合唱コンクールについての記事ですが、本文には「……が関西支部代表に選ばれ、全国大会に出場する。」と書いてあります。やっぱり記事には「切符」は使われていません。

 これらに共通することは、見出しに限って「切符」が頻出することです。見出しを作る人にとっては便利な言葉なのでしょう。あるいはコンピュータに覚えさせてあるのかもしれません。

 不思議なことに、高校野球の予選を勝ち抜いて全国大会に出場することになった場合には、この言葉をできるだけ避けているように思われます。

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