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2018年11月 2日 (金)

言葉の移りゆき(195)

「善戦」とは誰が評価するのか

 

 「善戦」という言葉の意味は、全力を尽くして(あるいは、実力を十分に発揮して)よく戦うということですから、「健闘」という言葉に通じるところがあるように思います。

 したがって、勝者に使ってもよく敗者に使ってもよいはずですが、現実として勝者に使うことはありません。勝者には勝ったことを称えればよいから、使う必要がないのでしょう。

 とは言え、敗者に対して無差別に使えるわけではなく、それなりの判断が必要でしょう。文字通り全力を尽くして戦った場合とか、予想以上の力を発揮した場合などでしょう。

 自民党総裁選挙についての文章がありました。

 

 勝者の安倍晋三首相は争った石破茂元幹事長の健闘をたたえていたが、驚いたのは麻生太郎副総理兼財務相が「どこが善戦なんだ」と言ったことだ。

 いや、得票上の数字の見方はいろいろあろう。あろうが、勝者の側に立つ実力者から発せられた言葉としていかがなものか。 (中略)

 「善戦」というのは「強敵に対して力を尽くして実力以上に戦うこと」と手元の辞書にある。「実力以上に」という言葉の意味するところをちゃんと理解していれば麻生氏も善戦という言葉を氏なりに受け入れられたのではなかろうか。ともあれ自信たっぷり、ストレートに放つ「麻生語」にはしばしば考え込む。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年9月28日・夕刊、2ページ、「昨今ことば事情」、近藤勝重)

 

 「善戦」の使い方を観察すると、勝者が敗者を指して直接、「善戦した」と言うことはないでしょう。「善戦」は第三者が見て評価する言葉です。安倍陣営が石破陣営のことを、「善戦した」「善戦していない」と言うなら、日本語の使い方を間違えていると言わなければならないでしょう。

 しかも第三者が、敗者のことを「善戦していない」というような、打ち消しの言葉で表現することはないと思います。力の差がありありと見て取れる場合は「善戦」という言葉を使いません。この場面に「善戦」という言葉を持ち出し、それを打ち消し表現にしたことが誤りの出発点であると言わねばなりますまい。

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