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2018年11月 5日 (月)

言葉の移りゆき(198)

「言葉が立ち上がり」、「アイデアが立っている」

 

 たまたま同じ日の、同じ新聞の記事ですが、「立つ」という言葉の使い方を見ました。大げさに言えば、ちょっと身震いする感じです。

 

 今回、「私」が久々に立ち上がったことは注目に値する。2016年以降、所信表明演説でも施政方針演説でも、なぜか「私」という主語を明示した語りかけが消えていたのだが、堂々たる復活を遂げた。「激動する世界を、そのど真ん中でリードする日本を創り上げる。次の3年間、私はその先頭に立つ決意です」

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181029日・朝刊、13版◎、4ページ、「政治断簡」、高橋純子)

 

 「新聞に載るような大事件ではないが、市民のみなさんのアイデアが立っている事実」を扱うと、新井秀和プロデューサーは改編説明会で語った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181029日・朝刊、13版▲、22ページ、「フォーカスオン」、真野啓太)

 

 一つ目の記事。演説の中で「私」という言葉が使われるか、使われないかということは、言わんとする演説の強さを左右します。「私」という主語の有無は重要です。記事の趣旨はわかります。

 けれども、こういう場合、主語が立ち上がるとか、言葉が立ち上がるとかの表現するのでしょうか。言葉がむくむくと頭を持ち上げてくるような印象で、不気味な表現であると思います。見出しは「飲まなきゃ聴いてられん」となっていて、記事全体はその見出しに象徴されるような書きぶりです。論調については批判しません。けれども、〈「私」が久々に立ち上がる〉などという日本語を真似るような人が出てこないことを祈るだけです。

 二つ目の記事。「アイデアが立っている」という意味、含意、語感が理解できません。アイデアにあふれているということと、どう違うのでしょうか。こんな言葉を次々と使うような人が番組を作る中心にいるのかと思うと、唖然とするのです。人と違った言葉を使わないと自分の存在感が示せないということなのでしょうか、頭に浮かんだ言葉を深く考えないで口にしてしまったのでしょうか、それとも、放送の世界だけの特殊な言葉(隠語)なのでしょうか。いずれにしても、こんな言葉が日本語の中に入り込んでこないようにしなければなりません。

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