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2018年11月20日 (火)

言葉の移りゆき(213)

校正漏れか、意図的用字法か

 

 読書について書かれたエッセイの中に、こんな一文がありました。一文と言うにはちょっと長い文ですが…。

 

 いやしくも小説家とあろう者が愚かな気付きを、と思うけれども、携帯電話が自分の手元に着た十八年前から、メール好きの友人とずっとやりとりしていて、スマートフォンを持ったらもう、無限に読むべきものややるべきことが手の中に入ってしまったのは事実だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181022日・夕刊、3版、4ページ、「となりの乗客」、津村記久子)

 

 この文の「携帯電話が自分の手元に着た十八年前」という表現の「着た」というのは、校正ミスなのでしょうか、それとも筆者が意図的にこのような文字を使ったのでしょうか。

 校正ミスと考える場合は、二通りのことが考えられます。「着」の訓読は、きる・きせる、つく・つける、です。「携帯電話が自分の手元に来た十八年前」という「来()た」の文字を同じ発音に引かれて「着()た」としてしまったというのが、ひとつ。「着()いた」という表現の送り仮名「い」が脱落してしまったというのが、もうひとつです。

 校正ミスでないということも考えられないわけではありません。私がもらった手紙の中にも「来た」と書くべきところを、「着た」と書いたものがありましたから、世間では「来た」と「着た」の文字遣いの混同が始まっているのかもしれません。こちらに「来()る」のは、すなわち、こちらに「着()く」ということと同じようなことなのですから。

 と、鷹揚なことを書きましたが、やっぱり間違いは間違いです。文化庁が行っている言葉の世論調査などに加えたら、どんな結果が現れるのでしょうか。

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