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2018年11月23日 (金)

言葉の移りゆき(216)

「目的的」、「女性性」の嫌悪感

 

 「的」という接尾語は、実に曖昧な言葉です。…に関する、…の傾向がある、…に近い、などという意味を表しているようですが、あってもなくても良いような言葉です。友好的だの情緒的だのと言わないで、はっきりと、友好の姿勢を示すとか、情緒を感じるとか言うべきでしょう。

 同じような言葉に、「性」という接尾語、「面」という接尾語などがあります。やはり、ずいぶん曖昧な言葉です。本人が責任を持って発言していないような、だらしなさを感じ取ってしまいます。

 こんな文章を見つけました。

 

 初めのうちはずいぶん久しぶりに注目されたのがうれしくて、喜々として答えていましたが、ある記者に「女性性は捨てたんですか?」と聞かれたあたりから、さすがに(おいおいちょっと待てよ……と)、この一連の事態を冷静に考えてみようと思い始めました。

 そして白髪を染めることが、女らしさのようなようなものに暗に直結しているのだと仮定したら、今回の取材攻勢は納得できると思ったのです。なるほど、近藤サトは女を捨てたと思われたのか。いやそうではなくて、女を捨てたと見れば合点がいくと思われたのかも。

 (毎日新聞・大阪本社発行、20181024日・夕刊、7ページ、「ナレーター近藤サトのテレビぎらい」、近藤サト)

 

 「女性性」というのは記者の発した言葉のようです。本文にある「女らしさのようなようなもの」という言葉が、「女性性」という言葉に結びつくのでしょう。

 記者は、「女性を捨てた」というのは響きが強すぎると思って、「女性性を捨てた」と言ったのかもしれません。けれども、言わんとするところが同じであるのなら、「女性性」などという言葉を不用意に使わない方が良いと思います。

 「目的的」とか「女性性」とか、同じ文字が並ぶ場合は、このような言葉に対して余計に嫌悪を感じます。

 もっとも、こんな考えも成り立つかもしれないと考えました。「女性を捨てる」を曖昧に表現すると「女性性を捨てる」になります。同様に考えると、「女を捨てる」を曖昧に表現すると「女性を捨てる」になります。「女性」の「性」という部分に、既に接尾語の要素が加味されているのかもしれないのです。

 私たちは、genderとして、性を区別する意味で「女性」「男性」を使っています。けれども、「女性」「男性」には、女らしさ・男らしさという接尾語の働きが加わっていると考えることも可能でしょう。

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