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2018年11月30日 (金)

言葉の移りゆき(223)

副詞に接頭語「お」が付く

 

 「お()」という接頭語は、体言や用言の上に付いて、尊敬語や謙譲語や丁寧語になります。「ご主人を亡くされて、お寂しくなられましたね」は尊敬表現、「カバンをお持ちします」は謙譲表現、「木枯らしが吹いてお寒くなりました」は丁寧表現です。

 物品を販売するときに、最初だけ安い価格にして、「お試し価格」とか「お始め割引」とか言うことがあります。「試し」「始め」は、動詞「試す」「始める」の連用形で、名詞化していると考えることもできます。それでも、「試す」「始める」という動詞の意味はきちんと残っています。

 こんな広告が目につきました。

 

 希少価値の高い国産の丹波黒大豆をぜいたくに使った黒豆のお菓子です。

  丹波の黒太郎 お初めてセット 通常価格1488円 特別価格1080

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181126日・夕刊、3版、1ページ、「()丹波の黒太郎」の広告)

 

 例えば「お始めセット」と言えば、お始めになる方に向けてのセットという意味の尊敬表現です。

 よく似た言葉ですが、「お初めてセット」と言う場合は、「お」は「初めて」にかかる接頭語になっています。「お始め」の「お」は「始め」にかかっていきますから、「お初めて」の「お」も「初めて」にかかっていくと見るのが自然でしょう。「初めてセット」という体言全体に「お」が付いているという解釈は無理でしょう。

 つまり、「お」が体言や用言に付くという原則から離れて、「お」が「初めて」という副詞に付いた尊敬語になっているのです。これはまったく新しい言葉遣いです。

 「始める」と「初めて」という、よく似た言葉だから生じた誤用でしょうが、実に珍しい用例だと思います。

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2018年11月29日 (木)

言葉の移りゆき(222)

「課題の先進地」とは称え? 蔑み?

 

 「先進」という言葉の意味は、『明鏡国語辞典』によれば、「①政治・経済・文化などが他より進歩・発達していること。②年齢・能力・地位などが上であること。また、その人。先輩。」とあります。この説明に異議はありません。「先進」は、他より先に進むという意味の「先行」とは、違った意味を持っています。

 「地方は課題の先進地」という見出しの文章を読みました。見出しに関係のある表現を本文から抜き出します。

 

 地方が「課題先進地」と言われて久しく、高齢化や外国人技能実習生問題など社会や政治の課題は、都市部に先がけて現れる。地域で取材する記者たちが各地の情報を集め、解決に向けた取り組みや成功体験を報じることも全国紙の果たすべき役割の一つと考える。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201811月6日・朝刊、10版、11ページ、佐古浩敏)

 

 私は、久しい以前から「地方が『課題先進地』と言われて」いたことを知りませんでした。筆者はその「課題先進地」という言葉をそのまま使って、それは自分が言い始めた言葉でなく、久しい前から使われていた言葉であると、言い訳をしているようにも見えます。

 「先進」という言葉は、評価したり賞賛したりときに使われることが多いと思います。「課題先進地」とは何なのでしょうか。たくさんの課題を提起してくれてありがとうという気持ちでしょうか。そんなふうには思えません。他の地域よりも課題をたくさん(あるいは、先行して)抱えている地域という意味でしょう。「課題先進地」というのは賞賛の言葉でしょうか。とんでもありません。この言葉には蔑みの気持ちが込められています。「他の地域よりも」と書きましたが、それはすなわち「中央よりも」という意味であり、もっとはっきり言うと「東京よりも」という意味です。「課題先進地」などという言葉は使うべきではないでしょう。差別用語の色合いがないとは言えません。

 課題は地方に現れるというのはあたりまえのことです。喜んで「課題先進地」になっているのではありません。東京を第一に考えていけば、地方(東京以外の地域)は取り残されていくのです。

 東京に住んで仕事をしている人には、意識しているか無意識であるかの区別なく、東京中心の考えが表現に出てしまいます。政治や経済の活動だけではありません。新聞も放送も同じです。私たちは毎日、そのような報道に接しているのです。

 この文章の筆者の肩書きは「ゼネラルエディター(GE)兼東京本社編集局長」となっています。新聞社こそ率先して地方分権を推進していく姿勢を持たなくてはならないはずです。

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2018年11月28日 (水)

言葉の移りゆき(221)

増殖する放送局の伏せ字

 

 この連載の(201)回と関連した話題です。テレビ局発祥の伏せ字が新聞記者に伝播しています。

 

 こんな私は何を食べればいいですか? ★MBS 夜7・00

 たとえば高血糖の人にはずばり〇〇〇。食物繊維の量はゴボウより少ないが糖質が少ないのでおススメだそうだ。ただ、通常の料理法では効果を逃してしまうので□□にするとよい。って何? 気になりますよね。 …(中略)

 明日、スーパーで〇〇〇が売り切れていないことを祈るばかりだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181126日・朝刊、13版、32ページ、「試写室」、都築和人)

 

 (201)回の記事は、他社からの配信記事であったようですが、今回の記事は、試写を見て新聞記者が書いたと思われます。

 それにしても、この記事はテレビ画面の受け売りです。さらに、「って何? 気になりますよね。」などと言って、テレビ局の作戦に拍車をかけています。

 「明日、スーパーで〇〇〇が売り切れていないことを祈るばかりだ」などというのは、この言葉とは裏腹に、消費者をあおり立てている感じがします。

 画面に伏せ字が出ること自体が見苦しいのですが、新聞記事がそれに協力する必要はありません。あまりにも下品です。

 「たとえば高血糖の人にはずばり〇〇〇」などと言わずに、「高血糖の人にある野菜が効果的だと紹介されている」と書けないのでしょうか。「通常の料理法では効果を逃してしまうので□□にするとよい」などと言わずに、「その効果を逃がさない料理法も紹介されている」という文章にできないのでしょうか。記者は安易に、画面の文字をそのまま紹介しようとしているのです。

 放送局の作戦に、まんまと乗せられてしまうような、無批判、無色透明(言いなり)の記事を読むと、腹立たしさがつのります。

 こういう文章は、新聞社の社内で検討して、以後の反省材料にしていないのでしょうか。そのような気配を感じることができません。

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2018年11月27日 (火)

言葉の移りゆき(220)

「粗品」はへりくだった言葉でなくなった?

 

 ひとに金品を贈るときには、へりくだって「寸志」と書きます。ところが、それをもらった側は「ご厚志を頂戴した」と言うのが普通です。「寸志」と書かれていても、「寸志をもらった」と披露するのは失礼です。

 ところで、「粗品」の場合はどうでしょうか。「寸志  厚志」という言葉の関係が、「粗品」にはありません。「豪華な品」「高価な品」とは言えない場合が多いからです。

 こんな記事がありました。

 

 戦中から現代にかけて金融機関や百貨店などが配った「粗品」約800点を紹介する展覧会「粗品?粗品! 時代の空気感を映す」が17日、西宮市鳴尾町1丁目の武庫川女子大・学術研究交流館5階ギャラリーで始まった。12月5日まで。 …(中略)

 展示品は、2009年に亡くなった大阪市東住吉区の高齢女性が自宅で保管していたもので、同大が寄贈を受けた。粗品と書かれたのし紙や包み紙がついていたり、企業名などの表示があったりした約1800点の中から選んだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181018日・朝刊、「神戸」版、13版△、29ページ、崔?寿)

 

 記事の初出の言葉には「粗品」とカギカッコが付けられていますが、催しの名は「粗品?粗品! ……」です。粗品に「?」や「!」が付けられている理由はわかりませんが、〈消費者向け景品〉のような言葉に置き換えるのではなく、「粗品」という言葉をそのまま使っています。「粗品」は、へりくだった言葉ではなく、価格の安い品物というような意味づけであるように感じられます。

 「粗品」から、へりくだった意識が取り払われてしまいますと、「粗品」と「粗悪品」の区別が無くなってしまうのではないかと懸念します。

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2018年11月26日 (月)

言葉の移りゆき(219)

「ヒョーゴスラビア」という言葉を兵庫県が使う

 

 兵庫県は、本州の中では北端(青森県)と西端(山口県)の他に、ただひとつ、2つの海(日本海と瀬戸内海)に面した県です。ひとつの県が旧5国によって構成されているというだけでも異色ですが、その5国が異なった「道」から成り立っているのです。すなわち、但馬国と丹波国は山陰道、播磨国は山陽道、淡路国は南海道、摂津国は畿内です。これほど多様な成り立ち、多彩な文化を持った県は他にはありません。

 公益財団法人の兵庫県芸術文化協会が発行する「すずかけ」という機関誌があります。その中に、こんな記事がありました。記事を書いたのは、兵庫県阪神北県民局県民課というお役所です。

 

 「ヒョーゴスラビア」という言葉をお聞きになったことがありますか。これは摂津や播磨など五つの国からなる兵庫県の多様性を多民族国家である旧ユーゴスラビアになぞらえたもので、今年7月にSNSに投稿され大きな反響を呼びました。

 (「すずかけ」、201811月1日発行、6ページ、「地域の文化情報」)

 

 私は「ヒョーゴスラビア」などという言葉を聞いたことはありませんし、一般の新聞がこの言葉を取り上げて報道したかどうかということも知りません。お役所がこの言葉に飛びついて、記事の冒頭にこのような話題を持ってきた理由が理解できません。「ヒョーゴ(兵庫)」と「ユーゴ」の発音が少し似ているというだけで「スラビア」とは何の関係もありません。

 旧ユーゴスラビアが多民族国家であったことは衆知のことで、それ故に国が分かれたのです。まさか兵庫県の分割を意図しているわけではありませんが、多民族と多彩な文化とを同一視するのは困ります。

 実は、この記事は、「兵庫県地域文化を考えるシンポジウム」という催し(1117)の広報を兼ねた記事です。私は、伊丹市で開かれたこの行事に、聴衆として参加しました。その中のパネルディスカッションを聞いて驚きました。地域文化とは名ばかりで、商業的、営利的な観光産業を盛り上げようというような感じの議論が続きました。コーディネーター自身が、酒検定、宝塚検定、源氏検定などというものを市や町が行ったらよいとか、空港を盛り立てていこうとか強調していました。多彩な兵庫県の地域文化をどのように掘り下げて享受し、保存・発展させていくかという視点がどこかへ消えてしまっていました。

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2018年11月25日 (日)

言葉の移りゆき(218)

「レガシー(遺産)」の軽々しさ

 

 「遺産」という言葉には、人の死後に残された財産という意味と、過去の人が残した業績という意味とがあります。後者の場合には、文化遺産や自然遺産があって、ユネスコの世界遺産などは重々しいものです。

 ところが、最近は、遺産とはとうてい言えないものを「遺産」と称することが広がっています。とりわけ「レガシー(遺産)」という言い方を目にするようになりました。

 例えば、次のような例があります。

 

 2020年大会は、国連の掲げる「持続可能な開発目標(SDGs)」に準備段階から取り組む最初の夏季大会でもあります。大会のレガシー(遺産)としてユニバーサルデザイン社会や低酸素社会を作る。サマータイムはそのきっかけにもなる可能性があるからです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181023日・朝刊、10版、13ページ、「耕論」、遠藤利明の言葉、聞き手は尾沢智史)

 

 スポ少は、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)の創設50周年記念事業として産声を上げた。「スポーツを通じて子どもを育てる組織を五輪開催を機に根づかせよう」。その試みはレガシー(遺産)になる。初年度に753人だった団員は、86年度に112万人に達した。

 (朝日新聞・東京本社発行、20181021日・朝刊、12版▲、20ページ、「東京五輪物語」、中川文如)

 

 「レガシー(遺産)」という表現がオリンピック特有のものであるのかどうかは知りません。他にも使われているようには思いますが、オリンピックの広報のために使われているような気配があります。

 前者の記事では、ユニバーサルデザイン社会、低酸素社会、サマータイムなどは、これから取り組むものでしょう。まだ何ら成果の上がっていない段階から、それを「レガシー(遺産)」と呼ぶ神経が理解できません。

 後者の記事でも、スポ少(スポーツ少年団)の試みが「レガシー(遺産)」になると言っています。考え方は同じです。

 いろいろな試みの成果があがったら、後の時代の人がそれに対して「遺産」という称号を贈るのです。その試みを行い始めた側が、それを「遺産」と言うのは、思い上がりも甚だしいと思います。別の言い方をすれば、それは単なる宣伝文句に過ぎないということです。

 何とも軽々しい「レガシー(遺産)」という言葉です。こんな言葉が溢れていかないようにと祈るばかりです。

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2018年11月24日 (土)

言葉の移りゆき(217)

「極彩色」という言葉

 

 ウズベキスタンで人物壁画が発見されたというニュースがありました。くすんだものでなく、色鮮やかな壁画です。このような場合によく使われるのが「極彩色」という言葉です。

 記事にはこんな表現がありました。

 

 シルクロードをへて広がった仏教美術の源流をうかがわせる極彩色の人物壁画が、中央アジア・ウズベキスタンで発見された。 …(中略)

 縦横1メートル余の範囲に複数の人物が描かれており、赤や青の鮮やかな色彩が残る。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181118日・朝刊、13版、1ページ、永井靖二)

 

 「極彩色」とはどういう意味の言葉で、どういう場合に使われる言葉なのでしょうか。飛鳥時代の壁画が発見されたときにも使われたように思いますが、使われる範囲は限定されているように感じるのです。小型の国語辞典を見てみました。

 

 『三省堂国語辞典・第5版』  ひじょうに・精密(きれい)ないろどり。極彩。

 『新明解国語辞典・第4版』  (「ごくざいしき」の変化)非常に・精密(きれいな)いろどり。「- の絵」

 『岩波国語辞典・第3版』  非常に濃く手のこんだ彩色。はでで、けばけばしい色どり。

 『明鏡国語辞典』  いくつもの鮮やかな色彩を用いた濃密ないろどり。また、派手でけばけばしいいろどり。

 『現代国語例解辞典・第2版』  《ごくざいしき》濃くて派手な色彩。けばけばしい彩り。「極彩色の看板」

 

 国語辞典の説明に挙げられている言葉は、「精密」、「きれい」、「濃い」、「濃密」、「派手」、「けばけばしい」、「鮮やか」、「手のこんだ」などですが、一つにまとまりきらない様子です。むとろ、「精密」・「きれい」と、「派手」・「けばけばしい」とは対立するような気配も感じます。意味に広がりがあって、用例は限定される言葉なのでしょうか。

 大型の国語辞典も見てみました。(用例は省略)

 

 『日本国語大辞典』  (「ごくざいしき」とも) ①日本画の技法の一つ。濃厚な絵の具を用い、何回も重ね塗りすること。また、一般に濃くはでな色彩。濃彩。ごくしき。②ごてごてと塗った化粧。また、はでな服装。厚化粧。

 

 小学生向けの国語辞典にも「極彩色」は載っています。子どもたちにも身近な言葉なのでしょうか。

 

 『チャレンジ小学国語辞典』(ベネッセ)  目立つ色を使った、はなやかないろどり。「極彩色の絵」

 『学習国語新辞典・全訂第2版』(小学館)  いろいろな色で細かく色をぬること。けばけばしく、こいいろどり。「極彩色の絵」

 

 ここまで見てきますと、「極彩色()」という名詞あるいは形容動詞のように感じていた言葉が、「彩色(する)」という動詞とのつながりが大きいとも感じられるのです。動詞的要素は『日本国語大辞典』と『学習国語新辞典』を見て、はじめて気づきました。

 さて、さて……。テレビのハイビジョンや4K、8Kということが話題になっても「極彩色」という言葉は使われないでしょう(多分…)。それは、テレビには〈絵の具を使って、塗る〉という要素がないからなのです。

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2018年11月23日 (金)

言葉の移りゆき(216)

「目的的」、「女性性」の嫌悪感

 

 「的」という接尾語は、実に曖昧な言葉です。…に関する、…の傾向がある、…に近い、などという意味を表しているようですが、あってもなくても良いような言葉です。友好的だの情緒的だのと言わないで、はっきりと、友好の姿勢を示すとか、情緒を感じるとか言うべきでしょう。

 同じような言葉に、「性」という接尾語、「面」という接尾語などがあります。やはり、ずいぶん曖昧な言葉です。本人が責任を持って発言していないような、だらしなさを感じ取ってしまいます。

 こんな文章を見つけました。

 

 初めのうちはずいぶん久しぶりに注目されたのがうれしくて、喜々として答えていましたが、ある記者に「女性性は捨てたんですか?」と聞かれたあたりから、さすがに(おいおいちょっと待てよ……と)、この一連の事態を冷静に考えてみようと思い始めました。

 そして白髪を染めることが、女らしさのようなようなものに暗に直結しているのだと仮定したら、今回の取材攻勢は納得できると思ったのです。なるほど、近藤サトは女を捨てたと思われたのか。いやそうではなくて、女を捨てたと見れば合点がいくと思われたのかも。

 (毎日新聞・大阪本社発行、20181024日・夕刊、7ページ、「ナレーター近藤サトのテレビぎらい」、近藤サト)

 

 「女性性」というのは記者の発した言葉のようです。本文にある「女らしさのようなようなもの」という言葉が、「女性性」という言葉に結びつくのでしょう。

 記者は、「女性を捨てた」というのは響きが強すぎると思って、「女性性を捨てた」と言ったのかもしれません。けれども、言わんとするところが同じであるのなら、「女性性」などという言葉を不用意に使わない方が良いと思います。

 「目的的」とか「女性性」とか、同じ文字が並ぶ場合は、このような言葉に対して余計に嫌悪を感じます。

 もっとも、こんな考えも成り立つかもしれないと考えました。「女性を捨てる」を曖昧に表現すると「女性性を捨てる」になります。同様に考えると、「女を捨てる」を曖昧に表現すると「女性を捨てる」になります。「女性」の「性」という部分に、既に接尾語の要素が加味されているのかもしれないのです。

 私たちは、genderとして、性を区別する意味で「女性」「男性」を使っています。けれども、「女性」「男性」には、女らしさ・男らしさという接尾語の働きが加わっていると考えることも可能でしょう。

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2018年11月22日 (木)

言葉の移りゆき(215)

「日本のエーゲ海」とはどこのこと?

 

 ずいぶん昔のことですが、小学生か中学生の頃、酪農が盛んな愛知県安城市のあたりのことを「日本のデンマーク」と言うのだと習ったことがあって、今でも頭の中に残っています。教科書に書かれていたように記憶しています。今でも「日本のデンマーク」という言葉は残っているのでしょうか。

 良くない喩えにも使われることがあって「日本のチベット」などという汚名を着せられるような地域もありましたが、「日本の〇〇」という言い方は今もメールにすることがあります。

 ところで「日本のエーゲ海」というのはどこのことなのでしょか。こんな記事がありました。

 

 日本のエーゲ海とも呼ばれる岡山県瀬戸内市牛窓町の北に広がる錦海塩田跡地。この約500ヘクタールの土地に整備された大規模太陽光発電所(メガソーラー)10月から本格運転を始めている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181116日・朝刊、13版、1ページ、雨宮徹)

 

 「日本のエーゲ海とも呼ばれる」という修飾語は、どこにかかる言葉なのでしょうか。エーゲ海というのは広い海ですから、迷いを感じてしまいます。「岡山県」の海のことなのでしょうか、「瀬戸内市」に限定されるのでしょうか、それとも「牛窓町」の海だけのことなのでしょうか。意地悪く考えると「岡山県瀬戸内市牛窓町の北に広がる錦海塩田跡地」と続く言葉の「塩田跡地」だということになるのですが、それは海ではなく、陸地ということになってしまいます。

 ホームページを見ると、確かに牛窓のあたりを「日本のエーゲ海」と称している(自称? 観光用語?)ようですが、小豆島(香川県)や南紀(和歌山県)のあたりにもこの言葉が使われているようです。

 「日本のエーゲ海とも呼ばれる」として、「とも」という言葉を使ったのは、そのあたりのためらいがあったからなのでしょう。「日本のエーゲ海」がいくつあっても問題はないのかもしれません。

 けれども「エーゲ海」という言葉を用いて記事を書いた理由はよくわかりません。この記事の見出しは、「最大級ソーラー 晴れの国に」となっています。「晴れの国」というのは岡山県が自称しているキャッチフレーズです。「エーゲ海」や「晴れの国」という、あいまいな飾り言葉で記事が彩られている感じがします。

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2018年11月21日 (水)

言葉の移りゆき(214)

カタカナ書きの横行

 

 二つの記事の見出しを紹介します。

 ひとつめは、JR西日本が新幹線のトンネル内に社員を座らせて、最高時速300キロの車両の通過を間近で体験させる研修をしているとニュースです。

 ふたつめは、来年の干支「亥」をかたどった干支ボトルのウイスキーの製造が、蒸留所で本格化しているというニュースです。

 

 新幹線300キロ間近で「安全意識向上」 /JR西 キケン?な研修

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181021日・朝刊、13版、35ページ、見出し)

 

 もうすぐウリ出し

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181023日・朝刊、13版、6ページ、見出し)

 

 ふたつめの見出しを見たときは、一瞬、何かの掛詞であるのかと思いましたが、関連する言葉はありませんでした。

 どちらの場合も、見出しをカタカナで書くべき理由は待ったり見当たりません。本文にカタカナ書きがあるわけではありません。最近、見出しだけにこのような傾向があるように思います。たぶん、記事を整理する人の個人的な好みなのでしょう。このようなことを繰り返していると、日本語そのもののだらしなさに結びついていくでしょうが、そういうことには気付いていないようです。

 外来語のカタカナが増えて、新聞の文章にはカタカナが増えています。記事全体の中でカタカナの占める割合はいくらぐらいでしょうか、記事全体の中での割合と、見出し語の中での割合とを比べたら、圧倒的に、見出し語に占めるカタカナの割合の方が大きいでしょう。その上に、アルファベットの略語も多くなっています。

 そのうち、見出しから漢字が消える日が来るのでしょうか……。というような皮肉を言いたくなってきます。

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2018年11月20日 (火)

言葉の移りゆき(213)

校正漏れか、意図的用字法か

 

 読書について書かれたエッセイの中に、こんな一文がありました。一文と言うにはちょっと長い文ですが…。

 

 いやしくも小説家とあろう者が愚かな気付きを、と思うけれども、携帯電話が自分の手元に着た十八年前から、メール好きの友人とずっとやりとりしていて、スマートフォンを持ったらもう、無限に読むべきものややるべきことが手の中に入ってしまったのは事実だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181022日・夕刊、3版、4ページ、「となりの乗客」、津村記久子)

 

 この文の「携帯電話が自分の手元に着た十八年前」という表現の「着た」というのは、校正ミスなのでしょうか、それとも筆者が意図的にこのような文字を使ったのでしょうか。

 校正ミスと考える場合は、二通りのことが考えられます。「着」の訓読は、きる・きせる、つく・つける、です。「携帯電話が自分の手元に来た十八年前」という「来()た」の文字を同じ発音に引かれて「着()た」としてしまったというのが、ひとつ。「着()いた」という表現の送り仮名「い」が脱落してしまったというのが、もうひとつです。

 校正ミスでないということも考えられないわけではありません。私がもらった手紙の中にも「来た」と書くべきところを、「着た」と書いたものがありましたから、世間では「来た」と「着た」の文字遣いの混同が始まっているのかもしれません。こちらに「来()る」のは、すなわち、こちらに「着()く」ということと同じようなことなのですから。

 と、鷹揚なことを書きましたが、やっぱり間違いは間違いです。文化庁が行っている言葉の世論調査などに加えたら、どんな結果が現れるのでしょうか。

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2018年11月19日 (月)

言葉の移りゆき(212)

年号の表記法

 

 日本の新聞の文章は、基本的に縦書きです。縦書きには縦書きとしての制約があります。例えば、2桁の数字は半角で書き入れることはできますが、3桁以上の数字を1文字分で書くことはできません。

 4桁の西暦年号は、4文字を使って書いていますが、新聞の文字数としてはもったいないという気持ちがあることでしょう。そのために、下2桁を半角で書くことが広く行われています。その場合、それが1900年代の下2桁の年号なのか、2000年代の下2桁であるのかは、どこかできちんと明示して、読者を混乱させないようにする工夫が必要です。

 「99年」と書いてあるとそれは1999年のことだろうと判断し、「03年」を2003年だろうと判断するのは、ごく常識的なことでしょう。けれども、「50年」は過去の1950年なのか、未来の2050年のことを言っているのかは文脈で判断しなければならないでしょう。

 さて、オリンクピックの国内聖火リレーのルート選びのことが話題になっている記事がありました。前回のオリンピックは1964年で、次回は2020年ですから、その前後のことを下2桁の年号で表記しても混乱が起こらないだろうという判断があります。

 けれども、次の文章は、どうでしょうか。

 

 前回の東京五輪で聖火リレーの最終走者を務めた坂井義則さんは、広島県三次市出身。広島に原爆が落とされた45年8月6日に生まれ、14年に亡くなった。市の担当者は「地元の子どもたちに夢と感動を与えたい」と訴える。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181111日・朝刊、13版、35ページ)

 

 聖火リレーのコースは三次市を含むルートにしてほしいという要望があるということを言っている記事のようです。

 東京オリンピックの話題は1900年代と2000年代に限られると言えばそれまでです。けれども、〈45年8月6日に生まれ、14年に亡くなった〉というのは、数字だけ見ていると、不思議な文章のように思えます。1964年当時の聖火リレー走者の中には、1800年代終わりの頃に生まれた人もいなかったわけではないと思います。〈99年生まれ〉で、60代半ばで聖火リレーを経験し、〈01年に亡くなった〉という百歳以上の高齢者がいても不思議ではありません。

 ともかく、〈45年8月6日に生まれ、14年に亡くなった〉というような、表面の数字だけ見ていると転倒しているような文章が、これからは増えていくのでしょうか。私は、受け入れたいという気持ちはありません。

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2018年11月18日 (日)

言葉の移りゆき(211)

「とてもそう思う」という不思議な日本語

 

 大学入学共通テストで導入される記述式問題は、採点に時間がかかるのは当然のことです。大学に成績が提供されるまでの時間も、現行の大学入試センター試験に比べて増えるのは当然のことです。時間がかかるから止めましょうとか、経費が増えるから導入しないでおきましょうとか、教育とは関わりのないことを理由にして、本末転倒の議論が噴出するかもしれません。

 さて、ここでは、そのような問題ではありませんが、記事の中に不思議な日本語を見つけました。

 

 朝日新聞と河合塾の共同調査「ひらく 日本の大学」で今夏、全国691大学の入試担当者に「大学への成績提供が遅くなる」かを聞いたところ、82%が「とてもそう思う」「そう思う」と回答した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181116日・朝刊、13版、6ページ、「教えて! 変わる大学入試③」、増谷文生)

 

 「そう思う」という言い方に問題はありません。ところが、「とてもそう思う」という言い方には、新聞社が関係するアンケート調査の回答項目の言葉としては唖然としてしまいます。意味は理解できますが、「とてもそう思う」などという日本語は存在するのでしょうか。

 「とても」は副詞です。程度が甚だしいさまを表します。「とても」は「そう」を修飾しているのでしょうか。それとも、「思う」を修飾しているのでしょうか。「とても・そう」などという言葉はありませんし、「とても・思う」もおかしな表現です。考えられることは、「そう思う」という連文節を、「とても」が強めているという解釈しかできません。それにしても、「思う」の程度が甚だしいというのは、どういうことでしょうか。「強くそう思う」という日本語は成り立ちますが、「とてもそう思う」という日本語は、あり得ないと思います。

 「とても」を使った言葉遣いの大半は、「とても・熱い」「とても・素晴らしい」というように形容詞にかかる場合、「とても・元気だ」のように形容動詞にかかる場合、「とても・大きな・人」のように連体詞にかかる場合などです。動詞にかかることもありますが、それは「とても・よく・効く」などのように影響力が強いことを表します。

 「とても・思う」などという不思議な日本語はありません。こんな日本語を見せつけられていると、日本語の感覚が麻痺して、こんな日本語を許容してしまう人が増えていくに違いありません。新聞社がそれを牽引しているのです。

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2018年11月17日 (土)

言葉の移りゆき(210)

漢字、カタカナ、アルファベット

 

 「JAPANツウ」という言葉だけが目に入ったとき、その言葉の意味がわかりませんでした。日本語をカタカナで書いたりアルファベット(ローマ字)で書いたりすることがありますから、「JAPAN」に続く「ツウ」がいったい何なのか理解できなかったのです。次のような文章でした。

 

 日本にまつわる素朴な謎を、番組が「JAPANツウ」と名付けた専門家たちが解き明かす。

 日本人のマグロ好きの理由を解説するために招かれた「ツウ」は、目利きとして知られる鮮魚店主。 …(中略)… 歴史学者の磯田道史さんによる、その背景の説明もあり、自分も「マグロ通」になった気分が味わえた。

 (読売新聞・東京本社発行、20181022日・朝刊、12版、32ページ、長野県向け番組ページ、「試写室」、多可政史)

 

 「JAPANツウ」とは専門家のことだと言い、鮮魚店主がその「ツウ」に祭り上げられているようです。言われた人は気持ち悪くありませんから、その言葉を嫌がったりはしないのでしょう。

 「ツウ」という不思議な日本語表記は、「通」、すなわち、ある物事によく精通している人のことだとわかるようになっているのですが、どうしてカタカナ書きにする必要があるのでしょうか。

 テレビ番組の「やらせ」が問題になっています。それは番組の演出などに関わることだけではありません。日本語をいじくり回して、おかしな日本語や表記法を作り出していることも、歴とした「やらせ」です。けれども、日本語破壊作戦が糾弾されないのは不思議なことです。それは報道機関全体が日本語破壊作戦に参戦しているから、特定の番組を糾弾できなくなっているということなのだろうと思います。

 もっとも、新聞のテレビ・ラジオ欄は、いかにも客観的な記事であるように装いながらも、放送局の宣伝媒体になってしまっておりますから、放送局や番組のことを悪く書くことなどは、はじめから、ありえないことなのです。

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2018年11月16日 (金)

言葉の移りゆき(209)

形容詞の語幹の用法

 

 「っぽい」という接尾語があります。さまざまな言葉に付いて形容詞を作ります。名詞に付いて「子供っぽい」とか「男っぽい」、動詞に付いて「飽きっぽい」とか「忘れっぽい」、形容詞や形容動詞に付いて「安っぽい」とか「派手っぽい」となります。

 こんな文章に出会いました。

 

 最近のファッション誌で目にした「女っぽ」という見出しへの違和感でした。何か共通の女性像をおしつけられているんじゃないか? 「女っぽ()」の変化が気になり、同じ雑誌の10年前と最新号を比べてみることにしました。 …(中略)

 当初、「女っぽ」に違和感を覚えた私ですが、この変化が「男ウケ」だけを考えるより女性の自立につながるのなら、アリかなとも思いました。

 10年後のファッション誌には「女っぽ」の代わりに「自分っぽ」という見出しが踊っていたらいいなと、期待しています。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181020日・夕刊、3版、2ページ、関ゆみん)

 

 私は〈「女っぽ」という見出しへの違和感〉でなく、「女っぽ」という言葉に違和感を持ちます。これはファッション誌が使い始めたのか、それとも別の出自があるのか、わかりません。

 形容詞や形容動詞の語幹は、「あっ、熱(あつ)」、「おお、寒(さむ)」、「まあ、綺麗(きれい)」などと言って、とっさの気持ちや感動を表現することがあります。これはごく自然な用法です。

 「女っぽ」も詠嘆的な表現なのでしょうか。それとも、記事にあるように「女っぽさ」という名詞の「さ」を省いたものなのでしょうか。どうも落ち着きのない言葉のように感じられます。

 この「女っぽ」は、「男っぽ」「自分っぽ」「現代人っぽ」などというように増殖しているのでしょうか。

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2018年11月15日 (木)

言葉の移りゆき(208)

「ザ」は団体名や連語にだけ使うのではない

 

 「ザ」というカタカナと、普通の日本語とを続けて使う言い方が広がっています。世界遺産を紹介するテレビ番組のタイトルは「ザ世界遺産」(関西ではMBSで放送)です。「ザ〇〇」という言い方と「ザ・〇〇」の両方があるようです。

 たとえば、こんな記事がありました。石田紀郎さんを紹介した文章です。

 

 京都大で「農薬ゼミ」を主宰し、後に大学院教授も務めたのに学会から距離を置いた。「内輪で拍手し合ってもねえ」と言って。反公害に徹し、学者というより「ザ・市民運動家」。琵琶湖の水質浄化から農薬被害の告発、干上がる中央アジア・アラル海周辺の植林まで市民とつながる活動ばかりだ。

 (毎日新聞・大阪本社発行、201811月8日・夕刊、3版、9ページ、「憂楽帳」、高村洋一)

 

 このコラムは題名も「ザ・市民運動家」となっています。

 この「ザ」のことを見だしに載せている国語辞典は少数派のようです。その少数派の辞典の説明もちょっと舌足らずです。

 

 『三省堂国語辞典・第5版』  (接頭)the〕〔英語では、定冠詞〕団体の名にかぶせて使うことば。「- ビートルズ」

 『新明解国語辞典・第4版』  (造語)the=英語の定冠詞〕①団体の名にかぶせて使う。「- ビートルズ」②英語から入った外来語の連語の一部に使う。「オン  ロック・バッターイン  ホール」

 

 この2つの辞典の説明は、団体名や、外来語の連語に使われると言うのですが、新聞記事の用例は、そのどちらにも当てはまりません。

 「ザ世界遺産」も「ザ・市民運動家」も、外来語ではない言葉の頭部に置かれています。意味を推測すると、〈それが典型的なもの、あるいは代表的なものであることを表すときに、その言葉の上に付けるもの〉あるいは、〈その言葉に安定感を与えるために、その言葉の上に付けるもの〉ということになるでしょう。

 国語辞典の編集者は、新しい言葉を見つけて、それが社会の中に定着していく姿を追って、たいへんな苦労をされていることと思います。それと同時に、ごくありふれた、何でもない言葉にも注目しなければなりませんが、それが意外な落とし穴になっているような気がします。

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2018年11月14日 (水)

言葉の移りゆき(207)

いろいろな「宣言」

 

 季語に「初雪」があって、その冬に初めて降る雪のことを言います。芭蕉に「初雪や水仙の葉の撓むまで」という句があります。暖地に住む者にとっては、ちょっとでもチラチラしたらそれが初雪かもしれませんが、富士山などではきちんと積もってはじめて「初冠雪」ということになるのでしょう。

 富士山にとっては「初冠雪」が冬の季節の到来かと思っていたら、それとはべつに「初雪化粧」があるのを知りました。

 

 富士山(標高3776メートル)の7合目から山頂までが15日朝、雪で覆われた。ふもとの山梨県富士吉田市は「初雪化粧」を宣言した。宣言は昨年と比べて11日早い。 …(中略)

 甲府地方気象台によると、山頂の15日午前7時の気温は零下8・6度。13日に気圧の谷が通過し、雨が降ったことでまとまった雪になった。山頂が雪をかぶる「初冠雪」は9月26日に同気象台が発表したが、その後、暖かい日が続き、夏山の姿に戻っていた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181015日・夕刊、3版、1ページ、河合博司)

 

 気象台が発表する「初冠雪」は観測データに基づいたもので、客観性を持っているように思いますが、「初雪化粧」はずいぶん情緒的な言葉のように思います。山梨県側と静岡県側との「初雪化粧」の宣言がずれても、おかしくはないのでしょう。

 季節を表すいろいろな言葉があるのはおもしろいことです。むしろ季節の推移を知らせてもらえるから、ありがたいことかもしれません。

 けれども、ちょっと不思議に思うことがあります。台風などでも何時にどこに上陸したという情報は伝えられますが、その後は「日本海に抜けた」という程度で、何時にどこから抜けたのかということはわからないことがあります。「冠雪」や「雪化粧」はしっかり伝えられますが、いつ積雪が完全になくなったというようなことは伝わってきません。気象台では観測しているのでしょうが、新聞などが重視していない情報であるのかもしれません。

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2018年11月13日 (火)

言葉の移りゆき(206)

記念日はいくらでも認定できる

 

 何かを証明したり認定したりするという行為は、どのような根拠によって成り立っているのでしょうか。こんな記事がありました。

 

 語呂合わせで9月2日は「おおきにの日」、3月9日は「ミックスジュースの日」-。大阪の言葉や食文化を知ってもらおうと、大阪市中央区のコーヒー販売店が申請した記念日が日本記念日協会(長野県佐久市)に認定・登録された。11日、協会から記念日登録証が授与された。 …(中略)

 同協会は1991年に発足。協会によると、審査に合格すれば、申請者が原則として1件10万円(税別)を支払い、登録される。現在、登録されている記念日は約1700件。昨年だけで200件以上の記念日が登録され、近年、増える傾向にあるという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年1月11日・夕刊、3版、1ページ、半田尚子)

 

 このような協会に審査してもらって記念日として認定される、というしくみが理解できません。民間の協会が登録料で成り立っているのであれば、記念日はいくらでも増殖することになるでしょう。

 「記念日協会って何物?」という見出しの記事がありました。1月11日の記事と関係があるのかどうかはわかりませんが、疑問を持っても当然でしょう。

 

 「信濃の国」県歌制定の日、牛たんの日、ドラゴンクエストの日、難病の日-。これは企業や自治体などが今年、一般社団法人日本記念日協会に登録した記念日の一部です。審査に合格する記念日は年間200件以上。協会って何? 審査ってどうするの? 詳しく話を聞いてみました。

 代表理事で長野県佐久市在住の加瀬清志さん(65)は放送作家。 …(中略)

 申請のあった記念日は毎週月曜日、インターネット電話の会議で審査されます。加瀬さんが仕事などで知り合った主婦や会社経営者、学生といった様々な肩書を持つ「普通の人たち」が出席。 …(中略)… 加瀬さんを除く6人のうちの過半数の同意で合格します。 …(中略)… 最終的には加瀬さんが判定します。

 昨年は8割強が合格。私も審査員をしたくなりましたが残念ながら募集はしていないそうです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月28日・夕刊、3版、2ページ、鈴木智之)

 

 公的な記念日も、この協会に申請しなければならないのでしょうか。それにしても、閉鎖的な僅かの人数で審査するとは驚きです。年間200件以上、登録料が2000万円を超えるのですから、効率的なビジネスです。

 人間というものは、他者から証明や認定を受けなければ、気持ちの上で安定感を得られないのでしょうか。その記念日が多くの人に支持され認められれば、このような協会の厄介になる必要はないと思うのですが…。

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2018年11月12日 (月)

言葉の移りゆき(205)

誰が何を認めるの?

 

 大阪市港区にある、標高4・5メートルの天保山を、地元住民でつくる山岳会が「日本一低い山」とうたって登山証明書の発行を始めてから20年を迎えたというニュースがありました。発行枚数は約6万枚になったそうです。一種の遊びだと言ってしまえば、笑ってすむ話です。記事に、こんなことが書いてありました。

 

 天保山は1831(天保2)年ごろ、河川工事で出た土砂を積み上げてできた人工の山だ。大阪湾を望む公園にあり、入り口から1分足らずで山頂に着く。証明書の発行は、地元の橋本誠さん(66)ら有志の数人でつくる「天保山山岳会」が1998年から始めた。 …(中略)

 国土地理院によると山の明確な定義はなく、地元で昔から山と呼ばれているか、などが地形図への掲載基準。日本一低い山がどこかの公式見解はない。

 天保山に対抗し、「自然の山としては日本一低い」とPRするのが標高6・1メートルの弁天山(徳島市)だ。NPO法人「弁天山保存会」の山下釈道理事長(55)は「地元に誇りを持ち、競い合いながら盛り上げていければ」とエールを送る。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年8月22日・夕刊、3版、9ページ、竹田迅岐)

 

 「日本一低い山」ということを証明するものが何もないのに、その山に登ったということを証明するというのは、矛盾に満ちた遊びのようです。

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2018年11月11日 (日)

言葉の移りゆき(204)

言いたい放題の数値主義

 

 もし大阪で万国博覧会が開催されることになったら、もし阪神タイガースが優勝したら、もし北陸新幹線が大阪まで延伸されたら、そのときの経済効果は何億円(あるいは何兆円)になるという計算が行われて、発表されることがあります。関西ではある特定の大学教授の計算が重んじられているようで、その方の名前を見ることが多いのです。

 けれども、その経済効果をどのようにして算出されたのかということを詳しく説明したものに接したことはないように思います。その数値が正しいのか正しくないのか、後になって検証されたという話も聞きません。人目を引くようなことを言って、結果的には言いたい放題であったような気がしないでもありません。

 さて、似たようなことを報じる記事があります。

 

 神戸市は、2017年に市内の観光地やイベントを訪れた人が過去最多の3933万人だったと発表した。 …(中略)

 市観光企画課によると、内訳は観光地が前年比10・5%増の2394万人、行事やイベントが同15・5%増の1539万人。観光地を訪れた人のうち、日帰り客は同18・6%増の1858万人で、宿泊客は同5・9%増の536万人だった。観光消費額は同260億円増の3442億円。消費額単価は日帰り客が8108円、宿泊客が3万6117円だった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月27日・朝刊、「神戸」版、13版△、27ページ、野平悠一)

 

 県は昨年度に県内の観光地を訪れた人が1億3905万人だったと発表した。前年度より488万人増え、記録の残る1980年度以降で最多を記録した。 …(中略)

 最多は阪神甲子園球場(432万人)で、明石公園(246万人)、姫路城(182万人)、淡路ハイウェイオアシス(167万人)が続き、前年度と順位は変わらなかった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月27日・朝刊、「神戸」版、13版△、27ページ、川田惇史)

 

 喜ばしいニュースには違いありませんが、どのようにして集計したものか、わかりません。「イベント」に参加した人数は、計算しようとすればできるかもしれません。けれども「観光地」を訪れた人数は、どのようにして集計したのでしょうか。

 阪神甲子園球場はきちんとした入場者数をはじき出せるでしょうが、明石公園のように出入り自由で、地元の人が日常的に使っている場所はどのようにして計算するのでしょうか。姫路城は入場料を払って登閣した人だけでしょうか、周囲を散策した人を含めているのでしょうか。淡路ハイウェイオアシスはわずか数分間で買物をした人も計算の中に入れているのでしょうか。

 消費額についても同様です。宿泊料はともかくも、日帰り客の消費額など算出できるものなのでしょうか。

 兵庫県の計算で不思議なのは、1億3905万人のうち、上位の4か所の合計は1027万人に過ぎません。その10倍ほどの人を集める観光地が県内に散らばっているのでしょうか。まったく実感が伴いません。

 人出が多かったとか、人出が増えてきたとか言うだけでは具体的でありませんから、何でも数値で示したくなる気持ちは分かります。けれども、計算の仕方によって数値に格段の相違が現れることもあるでしょう。総計1億何千万という数字が半減することもあるかもしれません。こういう数値は言いたい放題のような気がしないでもありません。

 報道機関も、何の疑いもなく、発表された数字を受け売りしているように思われてなりません。

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2018年11月10日 (土)

言葉の移りゆき(203)

どのような言葉に落ち着くか

 

 大規模な災害によって街頭の信号機が停電して混乱するという事態が起きました。そのことに関連したニュースで、非常用電源付きの信号機の整備率が低いことについて、こんな談話がありました。

 

 災害時の交通計画を研究している東北大災害科学国際研究所の奥村誠教授は「費用がかかるため、重点的に配備を進めていくべきだ。信号機をあまり必要としないロータリー型の環状交差点を整備することも有効だ」と話している。

 (毎日新聞・大阪本社発行、20181012日・夕刊、3版、7ページ)

 

 談話の後半では、外国で整備が進んでいる〈信号機を必要としないロータリー型の環状交差点〉のことを述べているのですが、ちょっと長い言葉になっています。これを短くすれば、〈ロータリー型環状交差点〉となったり〈環状交差点〉となったりするのでしょうか。今後、どのような言葉に定着していくのか見守りたいと思います。

 そこで気になるのは、まったく新しい言葉が導入されることです。それは、言うまでもなく、外国語をそのまま取り入れるという愚直なやり方です。外国語の、無批判な取り込みです。〈ロータリー型交差点〉や〈環状交差点〉で意味はじゅうぶん理解できるのですから、第三の言葉を使わないでほしいと思います。外来語の氾濫を阻止するためには、ひとつひとつの言葉ごとに「阻止」の姿勢を持つことだと思います。

 別の記事を引用します。

 

 長野県軽井沢町、飯田市など全国16市町で構成するラウンドアバウト普及促進協議会は2526日、同町でラウンドアバウト(環状交差点)サミットを開催する。 …(中略)… 町内の六本辻ラウンドアバウトの視察を予定し、600人弱が参加する見通しだ。

 ラウンドアバウトは2014年9月の道路交通法改正以降、各地で運用が始まった。

 (日本経済新聞・東京本社発行、20181023日・朝刊、「長野」版、35ページ)

 

 法律で既に「ラウンドアバウト」という言葉を使っているのかもしれません。けれども、法律は厳密な規定を求められますから、この言葉が必要であるとしても、日常語の中に侵入させなくてもよいはずです。

 例えば、海外旅行案内でも「ロータリー」という言葉でじゅうぶん、用が足りています。

 

 都市部でも田舎の道でも、信号ではなくロータリーが多く設置されている。交通量の多いロータリーは手前に前方優先の標識が出ているので、一時停止して安全を確認してから入る。

 (ブルーガイド海外版編集部、『わがまま歩き26 フランス』、実業之日本社、2007年8月10日発行、419ページ)

 

 〈ロータリー型交差点〉や〈環状交差点〉や〈ロータリー〉など、既に日本語の中に定着した言葉で表現できるのなら、新しい言葉を導入する必要はありません。官庁や報道機関が率先して外来語の氾濫に加担することだけはやめてほしいと思います。

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2018年11月 9日 (金)

言葉の移りゆき(202)

1400億年の「安泰」

 

 「安泰」という言葉は、無事で安らかなことを表します。危険を感じたり心配などが生じたりしないことです。

 この言葉の具体的な使い方を考えてみます。母子ともに安泰だ、と言ってもせいぜい何年か何十年という長さでしょう。武士の世の中が安泰だ、の場合は長く見積もって何百年というところでしょう。極端な場合は、期末試験が済んでしばらく安泰だ、と言うようにわずか数日間のこともあるでしょう

 「安泰」は、人間の心の中のありさまに関わる言葉です。客観的事実を示す言葉ではないと思います。

 次のような記事がありました。

 

 宇宙はこのまま静かに広がり続けるのか、それとも速く広がり過ぎて引き裂かれてしまうのか--。すばる望遠鏡で多くの銀河を精密に観測した結果、少なくともあと1400億年は「安泰」だと分かった。東京大学と国立天文台などのチームが26日、論文を公開した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月26日・夕刊、3版、7ページ、東山正宜)

 

 「少なくともあと1400億年」というスケールは、「無常」だの「常住」だのという考えの及ぶところではありません。一人一人の人間の人生観・世界観をはるかに超えています。そのような先まで心配する人はいませんから、どんな情報を得ても、無事で安らかであって嬉しいと感じる人はいないでしょう。「ああ良かった。これで安心した」と胸をなで下ろす人がいないような事柄に、「安泰」という言葉はふさわしいのでしょうか。

 記事では「安泰」にはカギカッコが付けられています。いわば比喩表現だということを表明しているのでしょう。

 それでは、このような場合にどんな言葉を使えばよいのかということになると、まったくわかりません。1400億年というスケールのもとで、「安泰」に代わる、ふさわしい言葉があるようには思えません。そんな時間のスケールにまで人間の思いが到達していないのですから、言葉があるはずがありません。考えてみたことがないから当然です。

 ここは、「変化がある」とか「ない」とかの、客観的な言葉しか見つからないように思えるのです。

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2018年11月 8日 (木)

言葉の移りゆき(201)

「当局」から「放送局」へ、現代の伏せ字

 

 かつての時代の伏せ字は、「当局」の指示によるものが多く、教科書などにも墨が塗られたりして、印刷物の暗黒時代がありました。

 伏せ字は、明記することをはばかる場合に使われましたから、現代にあっても不思議ではないのかもしれませんが、そこには読者への配慮が無くてはいけません。

 テレビの画面には、制作者の勝手な思惑によって、あるいは視聴者に興味を抱かせるようにしむける作戦によって、「〇〇」のような表記が横行しています。そして、新聞の番組表(局別、時間帯別の表)にもその傾向が見られます。

 次は、一般の文章の中に「〇〇」の伏せ字が現れるかもしれないと危惧しておりましたが、遂に現実のものとなりました。やっぱりテレビ番組に関する記事です。

 

 徳光和夫の名曲にっぽん ★BSテレ朝 夜7・00 松原のぶえは、自分の命を救ったきっかけは、ある匂いだったことを告白する。麻倉未稀は、乳がんの早期対策を語る。また、橋幸夫が今一番夢中になっている〇〇を公開する。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201811月2日・朝刊、13版、21ページ、「きょうの番組から」)

 

 現代の伏せ字は、当局ではなく「放送局」によって画策されているようです。しかも、意図が不純です。明記するのをはばかるから伏せ字にしているのではなく、その番組を見るように誘導するための方策に過ぎません。

 日本語に関する限り、勝手気ままにし放題となっているテレビ番組に歯止めがかかっている気配はありません。話し言葉が混乱している番組もありますし、画面の字幕が勝手気ままな番組もあります。それが新聞記事にまで影響し始めました。

 新聞社は、番組紹介記事を、他社からの配信記事としてそのまま載せるのではなく、自主的な規制をすべき時期に来ていると思います。

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2018年11月 7日 (水)

言葉の移りゆき(200)

東京の一極集中

 

 「総務相『東京一極集中はもう限界』」という見出しの記事を読みました。その通りです。東京の一極集中は是正の方向へ持っていかなければなりません。ところが、その記事に書かれていることには驚きます。短い記事ですから、全文を引用します。

 

 石田真敏総務相は4日、省内の新旧大臣の交代式で「東京一極集中はもう限界に来ている」と述べ、「本当に安心安全な快適な首都とはどういうことか、東京都、全国の皆さんと考えなければいけない」と訓示した。さらに「先日の台風で(都内では)駅前に人があふれていた。あの台風でこういう混乱が起こるのかと。もし、予想される大災害が起こったらどうなるのか」とも語った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月5日・朝刊、13版、4ページ、「政界ファイル」)

 

 「東京一極集中は限界に来ている」だから一極集中をやめよう、という考えではないのに驚きます。「東京一極集中は限界に来て」安心安全でなくなっているからその方策を考えて、さらに一極集中を推進しようという考えのようです。

 東京一極集中をやめるためには、東京が安心安全な都市ではないということを徹底して広報し、地方への分散を図るべきでしょう。東京の一極集中(安心安全な首都)のことを、「東京都」だけでなく「全国の皆さんと考えなければいけない」という主張は的外れもはなはだしいと思います。

 安心安全が欠如してはいけませんが、東京(および首都圏)をもっと不便な都市にすることが必要です。「台風で駅前に人があふれて」「混乱が起こる」ような都市だということを徹底して知らさなければなりません。東京に欠陥があることを広報することが、東京一極集中を回避するためのひとつの方法だと思います。

 東京を、地方都市や田舎よりももっともっと暮らしにくい場所にしなければなりません。東京にばかり国家予算を注ぎ込むことを止めて、地方都市や田舎が快適になるようにしなければなりません。東京の思い上がりが極まった感じがします。

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2018年11月 6日 (火)

言葉の移りゆき(199)

願望の押し付け

 

 ときどき見かける言葉遣いですが、それがいくつも並ぶと、心の中を押し付けられているように感じてしまいます。こんな広告がありました。いくつものツアー企画の一つ一つに添えられている言葉です。

 

 一生に一度は泊まりたい至極の宿ミステリー4日間

 人生で一度は見てみたい14景 充実の四国

 加賀・飛騨一度は訪ねたい8名所

 (読売新聞・大阪本社発行、201810月9日・夕刊、3版、Bページ、広告特集、クラブツーリズムの広告)

 

 「泊まりたい」「見てみたい」「訪ねたい」というのが、ツアーを企画した人の願望であるのなら問題はありません。その場合は、広告などを出さずに、企画者本人が旅に出ればよいのです。

 これが広告である限りは、あなたは「泊まりたい」「見てみたい」「訪ねたい」という願望を持っているはずだと押し付けているのです。「泊まりたい」「見てみたい」「訪ねたい」という気持ちを持たないのなら、あなたはおかしい。願望を持って旅に出るべきだと言っているのです。そうでなければ、こんな広告を出す必要はありません。

 考えてみれば、広告はすべて、このような心理操作を行っているのかもしれませんが、こんなに次々と言われたら、反発する気持ちも湧いてきます。

 この広告には、他に、「ご好評により出発決定多数!」「総合満足度93%」とか、不思議な言葉で満たされています。あなたにとっても好評なはずだ、あなたも満足するはずだ、と言わんばかりの表現です。

 誇大広告が問題となって、その規制も行われるようになりました。けれども、旅に出て、その旅に満足するか不満の心を持つかについては、個人差が大きいと思います。願望やその達成感については、誇大広告であるかどうかの判定は難しいと思います。だから、旅行企画の広告は何を言っても良いのだ、という考え方でキャッチフレーズを作られたのでは困ります。

 旅先の各地の魅力を語りかけるような広告は作れないのでしょうか。広告を受け取る側の心に寄り添った表現はできないのでしょうか。計画は粗製濫造で、人数を集めて「はい出発」というようなツアーはそろそろ反省期に入っていると考えるべきではないでしょうか。

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2018年11月 5日 (月)

言葉の移りゆき(198)

「言葉が立ち上がり」、「アイデアが立っている」

 

 たまたま同じ日の、同じ新聞の記事ですが、「立つ」という言葉の使い方を見ました。大げさに言えば、ちょっと身震いする感じです。

 

 今回、「私」が久々に立ち上がったことは注目に値する。2016年以降、所信表明演説でも施政方針演説でも、なぜか「私」という主語を明示した語りかけが消えていたのだが、堂々たる復活を遂げた。「激動する世界を、そのど真ん中でリードする日本を創り上げる。次の3年間、私はその先頭に立つ決意です」

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181029日・朝刊、13版◎、4ページ、「政治断簡」、高橋純子)

 

 「新聞に載るような大事件ではないが、市民のみなさんのアイデアが立っている事実」を扱うと、新井秀和プロデューサーは改編説明会で語った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181029日・朝刊、13版▲、22ページ、「フォーカスオン」、真野啓太)

 

 一つ目の記事。演説の中で「私」という言葉が使われるか、使われないかということは、言わんとする演説の強さを左右します。「私」という主語の有無は重要です。記事の趣旨はわかります。

 けれども、こういう場合、主語が立ち上がるとか、言葉が立ち上がるとかの表現するのでしょうか。言葉がむくむくと頭を持ち上げてくるような印象で、不気味な表現であると思います。見出しは「飲まなきゃ聴いてられん」となっていて、記事全体はその見出しに象徴されるような書きぶりです。論調については批判しません。けれども、〈「私」が久々に立ち上がる〉などという日本語を真似るような人が出てこないことを祈るだけです。

 二つ目の記事。「アイデアが立っている」という意味、含意、語感が理解できません。アイデアにあふれているということと、どう違うのでしょうか。こんな言葉を次々と使うような人が番組を作る中心にいるのかと思うと、唖然とするのです。人と違った言葉を使わないと自分の存在感が示せないということなのでしょうか、頭に浮かんだ言葉を深く考えないで口にしてしまったのでしょうか、それとも、放送の世界だけの特殊な言葉(隠語)なのでしょうか。いずれにしても、こんな言葉が日本語の中に入り込んでこないようにしなければなりません。

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2018年11月 4日 (日)

言葉の移りゆき(197)

「封鎖」と「閉鎖」

 

 大阪の御堂筋を全面歩道にすることを目指して、その側道の一部を通行止めにする実証実験が始まりました。それを伝える新聞記事です。

 

 大阪市中央部を南北に貫く御堂筋は長さ約4・2キロ、幅約44メートルの国道で、大阪市が管理する。実験対象は道頓堀川の南側から千日前通までの約200メートルで、東側の側道を封鎖する。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月9日・夕刊、3版、8ページ、半田尚子)

 

 実験区間には御堂筋本線(4車線)とは別に、両側に1車線ずつ側道があり、このうち東側の側道(幅約5メートル)を閉鎖し、歩道にする。

 (読売新聞・大阪本社発行、201810月9日・夕刊、3版、12ページ)

 

 同じことを報ずる記事ですが、使う言葉が違って、「封鎖」と「閉鎖」になっています。

 「閉鎖」は、出入り口などを閉ざしたり、施設などを閉じたりして、その機能を停止させることです。「封鎖」もほぼ同様の意味だと思いますが、受ける印象は同じではないように思います。

 「封鎖」という言葉には、かつての学園紛争の時代にあった「大学封鎖」とか、沖縄の辺野古の埋め立て工事を行わせないようにする「道路封鎖」とか、強い力が働いているような印象が伴います。非常事態への対応と言ってよいかもしれません。

 それに対して「閉鎖」は、インフルエンザによる「学級閉鎖」とか、経営不振による「工場閉鎖」とか、やむをえない事情が伴った、自然な成り行きのようにも感じます。

 逆の言葉遣いをしてみましょう。「大学閉鎖」は学生の減少などによる結果かもしれませんし、「工場封鎖」は紛争による措置かもしれないと感じてしまいます。

 朝日新聞の場合は、見出しも「御堂筋 側道200メートル封鎖 / 歩道化へ実証実験」となっていて、力ずくの「封鎖」の印象が強いのですが、添えられた写真には看板が写っていて、そこには「東側側道を閉鎖し、自転車歩行者道を拡幅しています」という文字が見えます。この「封鎖」は記者が選んだ言葉であるのかもしれません。

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2018年11月 3日 (土)

言葉の移りゆき(196)

新聞や国語辞典が混乱していないか

 

 今回は、新聞記事を先に引用します。なんでもない言葉です。

 

 トヨタ自動車と携帯電話大手ソフトバンクは4日、自動車の次世代技術で提携する方針を固めた。「ライドシェア(相乗り)」や自動運転など広範囲な分野で協業するとみられる。

 (毎日新聞・大阪本社発行、201810月4日・夕刊、3版、1ページ)

 

 トヨタ自動車とソフトバンク。日本を代表する大企業が、自動運転車を使った移動サービスの実現に向けて手を携える。 …(中略)

 中核を担うのが1月に披露した自動運転車「eパレット」だ。相乗りにも使え、この分野で協業する米ウーバー・テクノロジーズへの出資を表明した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月5日・朝刊、13版、11ページ、生田大介・竹山栄太郎)

 

 2つの記事で使われている「協業」という言葉は、異なる会社が力を合わせて事業を展開することのようで、文脈に違和感はありません。けれども、このような場合に、連携とか共同開発とかの言葉を使っても、「協業」という言葉をあまり見かけなかったように思います。

 念のため国語辞典を引いてみました。びっくりしました。

 

 『三省堂国語辞典・第5版』  農家や小さな会社・商店が、おかねを出しあって、共同で事業の経営をすること。

 

 この定義に従えば、「日本を代表する大企業」が「協業」するというのは、おかしいではありませんか。他の国語辞典を見てみます。

 

 『現代国語例解辞典・第2版』  労働者が、一定の生産を行うために仕事を分担、協同して組織的に働くこと。

 『明鏡国語辞典』  一定の生産過程で労働者が仕事を分担し、協同して組織的に働くこと。また、その生産形態。

 『新明解国語辞典・第4版』  同一の・(相関連する)生産過程で、労働者が同一計画の下に協同作業を行うこと。

 『岩波国語辞典・第3版』  ある生産工程を、大勢の労働者が、分担し合って組織的に働くこと。

 

 『三省堂』以外の辞典の定義は、「労働者が」「組織的に働く(または、協同作業をする)こと」という点で共通しています。会社同士の関係ではないようです。

 「広辞苑」は少し詳しい説明になっており、「協業経営」「協業組織」という言葉も載せられています。農業との関連が強いような説明です。

 

 『広辞苑・第4版』  一連の生産工程を多くの労働者が分担して協同的・組織的に働くこと。単純協業。→分業

   協業経営 農業経営の全部門または一部の部門を複数農家が協同で行う経営。

   協業組織 農機具の共同利用などのように農業生産工程のうち一部を複数農家が協同で行うこと。

 

 整理をすると、次のようになります。

①毎日新聞、朝日新聞……大会社と大会社の間で行うこと。

②『三省堂国語辞典』……農家や小さな会社・商店が共同で行うこと。

③上記のその他の辞典……(一定の組織内で)労働者が分担して行うこと。

 「協業」というのは難しい言葉ではありません。それ故に、かえって、自由な使い方が広がっていきそうな危うさを感じざるをえないのです。

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2018年11月 2日 (金)

言葉の移りゆき(195)

「善戦」とは誰が評価するのか

 

 「善戦」という言葉の意味は、全力を尽くして(あるいは、実力を十分に発揮して)よく戦うということですから、「健闘」という言葉に通じるところがあるように思います。

 したがって、勝者に使ってもよく敗者に使ってもよいはずですが、現実として勝者に使うことはありません。勝者には勝ったことを称えればよいから、使う必要がないのでしょう。

 とは言え、敗者に対して無差別に使えるわけではなく、それなりの判断が必要でしょう。文字通り全力を尽くして戦った場合とか、予想以上の力を発揮した場合などでしょう。

 自民党総裁選挙についての文章がありました。

 

 勝者の安倍晋三首相は争った石破茂元幹事長の健闘をたたえていたが、驚いたのは麻生太郎副総理兼財務相が「どこが善戦なんだ」と言ったことだ。

 いや、得票上の数字の見方はいろいろあろう。あろうが、勝者の側に立つ実力者から発せられた言葉としていかがなものか。 (中略)

 「善戦」というのは「強敵に対して力を尽くして実力以上に戦うこと」と手元の辞書にある。「実力以上に」という言葉の意味するところをちゃんと理解していれば麻生氏も善戦という言葉を氏なりに受け入れられたのではなかろうか。ともあれ自信たっぷり、ストレートに放つ「麻生語」にはしばしば考え込む。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年9月28日・夕刊、2ページ、「昨今ことば事情」、近藤勝重)

 

 「善戦」の使い方を観察すると、勝者が敗者を指して直接、「善戦した」と言うことはないでしょう。「善戦」は第三者が見て評価する言葉です。安倍陣営が石破陣営のことを、「善戦した」「善戦していない」と言うなら、日本語の使い方を間違えていると言わなければならないでしょう。

 しかも第三者が、敗者のことを「善戦していない」というような、打ち消しの言葉で表現することはないと思います。力の差がありありと見て取れる場合は「善戦」という言葉を使いません。この場面に「善戦」という言葉を持ち出し、それを打ち消し表現にしたことが誤りの出発点であると言わねばなりますまい。

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2018年11月 1日 (木)

言葉の移りゆき(194)

軽薄な意味での「厚み」

 

 「厚みがあって、読みがいのある本」とか、「厚みがあって、信頼できる人」とか言うことがあります。「厚み」という言葉は、頼もしさや重々しさをもったものを表すことが多いように思います。客観的な数値などで判断するのではありませんから、その言葉を発する人の主観に支えられた言葉であるのです。

 言葉には長い間に培われてきた語感があります。「厚み」は、「厚さ」とは違うのです。「3・5ミリの厚さの板」というのと、「相当な厚みを持った板」というのとは、その言葉を発する人の思いが異なっています。

 だから、次のような文章には、違和感を覚えます。

 

 65歳以上で一人暮らしをする人の割合は今後、厚みを増すことが予想されている。

 総務省の国勢調査や国立社会保障・人口問題研究所によると、65歳以上の高齢者で一人暮らしをしている人の割合は1990年時点では男性が5・2%、女性が14・7%だった。それが2015年にはそれぞれ13・3%と21・1%に上昇。40年は男性20・8%、女性24・5%になると推計される。

 (日本経済新聞・東京本社発行、20181022日・朝刊、13版、35ページ)

 

 人生経験豊かな高齢者が増えることによって、人口構成に深みが出来て、豊かな社会に役立つというのであれば、「厚み」という言葉にふさわしいと思います。

 けれども、高齢化社会を問題視して、それを忌避したいと考えているような論調の文章では「厚み」という言葉はふさわしくありません。

 総務省や国立社会保障・人口問題研究所などが「厚み」という言葉を使っているのか、記者の判断で使っているのかはわかりませんが、ちょっとした言葉遣いの違いで、発言者の言葉に対する細やかさが露呈してしまうように思われます。

 上の記事には、「厚み増す単身高齢者」という見出しが付いています。数値が増えれば、単純に「厚み増す」と言うのは、いかにも経済紙らしい表現です。

 

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