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2018年12月11日 (火)

言葉の移りゆき(234)

「置き勉」では何も解決しない

 

 昔、「別勉」という言葉を初めて耳にしたときは、違和感を覚えました。別勉というのは、学校とは別に、塾などに通って勉強することのようでした。学校教育を軽視するような響きがありました。

 小学生や中学生のカバンが重くなっています。教科書が大型化していることと、副教材に多様なものを指定するとが大きな理由です。どうして教科書とノートだけで、あるいは厳選したごく僅かの副教材を加えるだけで、授業を展開できないのでしょうか。教員を経験したひとりとして、最近の副教材の氾濫ぶりに腹立たしい気持ちを抱いています。

 それに関連して、こんな記事を読みました。

 

 「脱ゆとり教育」によって教科書が分厚くなるなど子どもたちの通学かばんやランドセルが重くなっている。つらい実態を緩和しようと、教材を教室に一部置いて帰る「置き勉」を認める学校が徐々に増えている。 …(中略)

 置き勉とは「置き勉強道具」の略語。登下校の荷物を軽くするため勉強道具を持ち帰らず、学校に置きっぱなしにすることだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月1日・夕刊、3版、13 ページ、山下知子・峯俊一平)

 

 「置き勉」は、「置き勉強道具」の略語だと言います。そもそも「置き勉強道具」という言葉があることが不思議です。家庭での学習に不都合をもたらします。学校での指導で十分だという自信の表れであるのなら歓迎ですが、そんなことではないでしょう。教科書とノート以外のものを減らす工夫をしないで、「置き勉」を認める方向へ進むのは、学校教育の本末転倒であるようにも思えます。「置き勉」というやり方では、学習指導の方法の改善には結びつかないと思います。教科書とノートだけ持ち帰れば予習・復習ができるというのなら、それ以外の教材は格別に必要だということにはならないのではありませんか。教材を厳選すべきです。

 この記事で、「子どもに関わる消費ビジネスが専門」という大学教授が存在することを知りました。そんなことを専門にする研究者がいることも驚きですが、そんな消費ビジネスがある限り、教材の売り込みはこれからも拡大していくのでしょう。

 言葉に関して言うと、「〇勉」という言い方の「勉」は、「勉強」を短く表現する言葉であるはずです。「勉」を「勉強道具」の略とするのは乱暴です。せめて「置き教材」ぐらいにすべきだと思います。「置き勉」という言葉では、勉強しようとする姿勢や意欲までも学校に置き去りにして、校門を出ていく児童・生徒の姿が浮かんできます。

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