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2018年12月28日 (金)

言葉の移りゆき(251)

日本語の主語を、英語の主語と比べる必要はない

 

 文化にも政治・経済などにも、英米に倣えというような論調があふれています。言葉という、民族独自の精神構造に立脚するものにまで、そういう議論を見聞することがあります。

 日本語そのものを論じているような文章の中にも、その影を見ることがあります。

 

 駅のホームに〈わたし、英語が伸びてきた!〉という塾の広告が出ていました。このうち、主語に当たる部分はどこだと思いますか。

 主語とは、「犬が()歩く」の「犬が()」に当たる部分。英語の場合、単純な1つの文に出てくる主語は1つです。

 ところが、この広告文では、主語らしき部分として「わたし」「英語が」の2つがあります。英語式に考えれば、まことに非常識です。

 国語の授業では、こういう文は取り上げられません。でも「わたし、英語が伸びてきた!」「日本語は主語が2つある?」など、この種の文型は日本語にありふれています。

 大ざっぱに言えば、日本語の文には、全体的な主語(題目)と、部分的な主語とがあります。この広告では、「わたし」が題目、「英語が」が部分的な主語になります。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月1日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 引用した文章に重大な誤りがあることを、まず指摘しておかなければなりません。「国語の授業では、こういう文は取り上げられません」というのは、国語教育をご存じでない方の言葉です。新聞の文章には、学校教育の内容についての無知がそのまま現れることがありますが、これもその例です。「象は鼻が長い」というような文は、文法を扱う場合にはおなじみの表現(文例)です。

 確かに学校教育では「主語らしき部分」などという言い方はしません。けれども、「この種の文型は日本語にありふれています」という表現内容(文型)を避けて、きれいごとの文法説明をしているわけではありません。

 主語というと、すぐに英語と比較して、日本語には主語があるとかないとかということを言う人がいます。そして「英語式に考えれば、まことに非常識です」という判断を目にすることがあります。日本語の文法を英文法に準拠して考えることの方が、非常識なのです。

 主語とは何かという定義にはさまざまな説明がありますが、『広辞苑・第4版』の説明にそえば、「述語に対して主格となる語」です。「花咲く」「成績が良い」の「花」「成績が」がそれに当たると例示しています。このことをしっかりと確認すれば、文法説明が混乱することはありません。

 引用した記事にある〈わたし、英語が伸びてきた!〉に主語が2つあるとすれば、主語の数がもっと多い文を作ることはできます。「わたし、今日は、体が疲れている。」と言えば、主語が3つです。主語が4つの文も作れます。

 学校教育では「連文節」という概念が取り入れられています。「わたし」が主語(主部)であり、「英語がのびてきた」が述語(述部)です。述部の「英語がのびてきた」を分けて、「英語が」を主語、「のびてきた」を述語と考えるのです。全体の主語(主部)は1つしかありません。

 主語が2つ(あるいは、3つ、4つ)という考え方は生徒を混乱させるだけです。そんなことを言えば、大人だって混乱するでしょう。

 「日本語の文には、全体的な主語(題目)と、部分的な主語とがあります」という表現は間違っているわけではありませんが、「主語」「述語」「修飾語」などという文法用語と、「題目」という表現とは、同一基盤上で使われる言葉でないように思われます。

 「わたし、今日は、体が疲れている。」の場合は、「わたし」が主語、「今日は」が修飾語、「体が疲れている」が述語(述部)です。述部の中がもう一度〈主・述〉の関係になっているのです。

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