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2018年12月31日 (月)

【掲載記事の一覧】

 このブログは、次の3つのことにおいて「ギネス記録」になっています。(本当! えっ、本当?) ギネスに申請をしていないだけであって、本当なのです。

 その1。このブログは、2006年8月29日に開設しましたから、12年半になろうとしています。その間、1日も休み無く記事を掲載してきました。長期間にわたって無休を続けているブログは実に稀少です。

 その2。1日に複数の記事を掲載したこともありますから、現在までの掲載記事数は5683本に達しています。

 その3。記事のうち、「明石日常生活語辞典」は2605回に達しており、単一のテーマでの連載では抜群に多い連載回数です。なお、この連載は2019年に武蔵野書院から書籍として出版の予定です。

 さて、最近は写真の掲載を行っていませんが、この12年間の画像数は6381枚です。

 また、このブログへのアクセス数は、58万回に迫っています。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでにブログに連載した記事を、内容ごとに分類して、一覧を記します。掲載日をもとにして検索してください。

 

【日本語に関する記事】

 

◆言葉の移りゆき ()(254)~掲載を継続中

    [2018年4月18日 ~ 最新は20181231日]

 

◆日本語への信頼 ()(261)

    [2015年6月9日 ~ 2016年7月8日]

 

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日 ~ 2010年3月10日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)

    [201310月1日 ~ 20131031日]

 

◆ところ変われば ()()

    [2017年3月1日 ~ 2017年5月4日]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日 ~ 2009年6月4日]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日 ~ 2007年7月7日]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日 ~ 2012年7月8日]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日 ~ 20071030日]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日 ~ 20061226日]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日 ~ 2012年1月4日]

 

 

【兵庫県明石市などの方言に関する記事】

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(2605)

    [2009年7月8日 ~ 20171229日]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日 ~ 2011年9月13日]

 

◆じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-

                        ()()

    [20171230日 ~ 2018年1月7日]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日 ~ 2007年9月29日]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日 ~ 2007年8月20日]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日 ~ 20061015日]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日 ~ 2007年9月12日]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日 ~ 2007年5月7日]

 

 

【郷土(明石市の江井ヶ島)に関する記事】

 

◆名寸隅の船瀬があったところ ()()

    [2016年1月10日 ~ 2016年1月14日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)

    [2012年9月20日 ~ 2013年9月5日]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日 ~ 2011年6月1日]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日 ~ 2014年4月12日]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日 ~ 2008年1月18日]

 

◆名寸隅舟人日記 ()(16)

    [2016年1月1日 ~ 2016年4月2日]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

 

【『おくのほそ道』に関する記事】

 

◆『おくのほそ道の旅』【集約版】 ()(16)

    [2018年3月18日 ~ 2018年4月2日]

 

◆『おくのほそ道』ドレミファそら日記【集約版】 ()(15)

    [2018年4月3日 ~ 2018年4月17日]

 

◆奥の細道を読む・歩く ()(292)

    [2016年9月1日 ~ 2018年3月17日]

 

 

【江戸時代の五街道に関する記事】

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日 ~ 2015年3月31日]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58)

    [2015年4月1日 ~ 2015年6月23日]

 

◆奥州道中10次 ()(35)

    [20151012日 ~ 20151121日]

 

 

【ウオーキングに関する記事】

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日 ~ 2014年5月9日]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日 ~ 2014年5月30日]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日 ~ 2012年5月3日]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日 ~ 2009年6月30日]

 

 

【国語教育に関する記事】

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日 ~ 20071212日]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日 ~ 2008年7月20日]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日 ~ 200610月4日]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日 ~ 2007年8月10日]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日 ~ 200612月7日]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日 ~ 20061222日]

 

 

【教員養成に関する記事】

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日 ~ 2008年9月24日]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日 ~ 20061011日]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日 ~ 200611月2日]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日 ~ 2007年6月6日]

 

 

【花に関する記事】

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日 ~ 2009年6月22日]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日 ~ 2009年5月8日]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日 ~ 2009年3月16日]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日 ~ 20081113日]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日 ~ 20081215日]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日 ~ 2007年6月30日]

 

 

【鉄道に関する記事】

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日 ~ 2007年7月31日]

 

 

【その他、いろいろ】

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日 ~ 20061231日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日 ~ 2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日 ~ 2013年8月28日]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日 ~ 2009年9月10日]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日 ~ 2008年1月10日]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日 ~ 20081125日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日 ~ 2010年1月3日]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日 ~ 2007年8月27日]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日 ~ 2007年8月30日]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日 ~ 2012年9月19日]

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言葉の移りゆき(254)

世間を無視した駅名「ゲートウェイ」

 

 言葉に関して今年一番の腹立たしいと思ったことについて書きます。

 JR山手線に建設が進んでいる新駅の名前が決まったというニュースがありました。その名前を歓迎する意見は少なく、強い批判にさらされました。

 

 JR山手線・京浜東北線田町-品川駅間(東京都港区)2020年春開業する新駅の名称が、「高輪(たかなわ)ゲートウェイ」に決まった。JR東日本が4日に発表した。新駅は山手線では1971年の西日暮里駅、京浜東北線では2000年のさいたま新都心駅以来で、カタカナを含んだ駅名はどちらも初めてとなる。

 JR東によると、今年6月の駅名公募に約6万4千件の応募があり、最多は「高輪」(8398)で、「芝浦」(4265)、「芝浜」(3497)が続いた。計約1万3千種類の駅名について、深沢祐二社長ら社内の選定委員会が最終選考した。

 「高輪ゲートウェイ」は36件で130位だったが、深沢社長は「この地は江戸の玄関口として栄え、明治期には国内初の鉄道が走った。過去と未来、日本と世界をつなぐ結節点としてふさわしい」と説明した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月5日・朝刊、13版◎、34ページ、細沢礼輝)

 

 まっ先に感じることは、約6万4千件の応募で、約1万3千種類の駅名が提案されたということです。奇抜きわまりない駅名も無数にあったことでしょう。関西ならば洒落っ気たっぷりの提案もあるでしょうが、こんなに多数の種類に分かれることはないでしょう。首都圏の人間の多様さ、無秩序さに驚くばかりです。深沢祐二社長ら社内の選定委員会は、提案された駅名の奇抜さに慣れてしまって、自らも奇抜な言葉を選んだのでしょう。

 「高輪」(8398件、1位)と、「高輪ゲートウェイ」(36件、130)の差は歴然としています。選定委員会は目がくらんでいたとしか言いようがありません。「芝浦」であれば納得する人も多いでしょうが…。

 高輪は「江戸の玄関口」であったかもしれませんが、すべての駅はそれぞれの土地の「玄関口」です。馴染めない駅名をつけられたら迷惑です。百歩譲って「高輪玄関口駅」の方が、ましであると言わねばなりません。とは言え、「過去と未来、日本と世界をつなぐ結節点としてふさわしい」という、取って付けたような説明には、開いた口が塞がりません。

 「高輪駅」が、白金高輪駅や高輪台駅と紛らわしいのなら「JR高輪駅」とか、東京都に因んで「いちょう高輪駅」とすれば良いでしょう。JR西日本の命名法(JR難波駅、さくら夙川駅など)を見習えばよいのです。定着していない外来語に飛びついて駅名にするというのは非常識です。

 結局は、駅名公募という形を取りながら、応募者を無視して、はじめから原案ありきであったのでしょう。応募した人たちを愚弄するような結果になりました。

 JR東日本の社長や幹部の意向が選定委員会に反映されて、強行突破をしたとしか思えません。そうでないと言うのなら、今からでも間に合います。改めて提案をすべきでしょう。何年も経ってから改名すれば、多額の費用が発生してしまいます。

 言葉は、権威だの権力だのというものとは無縁です。無理やり決めても人々の口に上らなくなったらお終いです。「E電」がそれを物語っています。誰も「高輪ゲートウェイ」と呼ばなくなって、駅舎や駅名板が「負の遺産」として残るだけです。

 駅名も地名のひとつです。一部の人が勝手に決めてよかろうはずはありません。みんなの共有財産であるということを忘れてはいけません。

 普通に考えれば、「高輪ゲートウェイ駅」という白々しい名前を使わず、単に「高輪駅」と呼んだり、「JRの高輪駅」「山手線の高輪駅」と呼んだりする人が多くなるでしょう。それでも、少数の人たちは、「高輪ゲートウェイ駅」と決めたことを手柄のように思い続けるのでしょうか。

 馬鹿は、死ななきゃ治らない。「高輪ゲートウェイ」も、死ななきゃ直らない。そんなふうに思います。

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2018年12月30日 (日)

言葉の移りゆき(253)

「通勤特急」と「直通特急」

 

 「特急」とは特別急行という意味ですが、JRから「急行」や「準急」が姿を消して、特急列車と普通列車という姿になってしまいました。もちろん普通列車が細分されて、各駅停車、快速、新快速という、停車駅の異なるものを走らせている状況もあります。

 関西の私鉄でも、特急と普通が主体になっているダイヤ編成が見られます。その代わり、特急の種別が色分けされて、新しい呼び名が生まれています。

 阪神電鉄と山陽電鉄が神戸高速鉄道を介して、大阪-姫路間に走らせているのが「直通特急」です。複数の鉄道会社を通して運転する特急というわけで「直通」と呼び、15分ヘッドの運行です。

 阪急電鉄が、桜や紅葉の頃に京都嵐山に向けて臨時運行する列車を「直通特急」と呼んでいます。嵐山線はふだんは桂-嵐山間の折り返し運転ですが、行楽シーズンに神戸や大阪などから乗り換えなしに運行するので、一つの会社内での運転ですが「直通」と言っているのです。

 一方、阪急電鉄では「通勤特急」という呼称も使っています。神戸から大阪に向かう特急が朝の時間帯に通常とは違う一駅(塚口駅)に追加して停まるものを、そのように呼んでいるのです。

 その「通勤特急」の名を使った列車がJRにも生まれると言います。

 

 JR神戸線の大阪-姫路間で来春、通勤特急「らくラクはりま」が運行を始める。JR西日本が30日発表した。平日朝に大阪行き、夕方に姫路行きを1本ずつ走らせ、新快速の混雑を避けたい通勤客の利用を見込む。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月1日・朝刊、13版、36ページ、波多野大介)

 

 関西の私鉄は、特急も普通も車両は共通運用ということが多く、特別な車両で運用する観光列車だけで、特急料金を取っています。もちろんJRの通勤特急も特別車両を使うのですから特急券や指定券が必要です。

 関西の私鉄では、急行に限っても、快速急行、急行、通勤急行、区間急行、準急、区間準急などの呼称があって紛らわしいのですが、これからは特急の呼称も細分化されていくのでしょうか。

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2018年12月29日 (土)

言葉の移りゆき(252)

地元の言葉と全国向けの言葉

 

 全国共通の言葉であっても、その使い方しだいで地方色が伴う言葉はいろいろあります。「お好み焼き」という言葉は、広島では、いわゆる広島焼きを指すのであり、それを「広島焼き」と称することは好まれていないようです。

 こんな文章がありました。

 

 帰りにおいしいお好み焼きを堪能できました。広島ではあの薄いクレープ状の一枚から始まるお好み焼きこそがノーマルであり、広島風や広島焼き、とは呼ばないんですよね。

 ところがです。お店のメニューにわざわざ「カキ乗せ・広島焼き」などと名前が書いてありました。おそらく「こう書けば観光客にもわかりやすかろう」という、お店の方のサービスなのでしょう。「広島焼き」は、あえてのやさしい固有名詞というわけです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181130日・夕刊、3版、2ページ、「まあいいさ」、清水ミチコ)

 

 地元で「お好み焼き」と言っている食べ物を「広島焼き」と書くのは、全国(観光客)向けの言葉であるというのです。

 同じような粉モンにたこ焼きがあります。たこ焼きには2種類があって、明石発祥のものと、大阪などで食べられているものとは別物です。地元の明石では「玉子焼き」と言っています。

 2種類のたこ焼きを混同してはいけませんから、出汁につけて味わう、明石発祥のものを「明石焼き」という看板で売っている店がありますが、それは全国向けの言葉です。地元の店には「玉子焼き」と書いてあります。B-1グランプリなどでも「明石焼き」と称するのですが、それも全国向けの言葉です。

 つまり、広島焼きという言葉も明石焼きという言葉も似たような状況にあるのですが、ただひとつ異なることがあります。「お好み焼き」は広島だけでなく、大阪をはじめ各地で使われている言葉であり、「玉子焼き」は類似する、紛らわしい言葉がないということです。弁当などで好まれるタマゴヤキは「卵焼き」と書くのです。

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2018年12月28日 (金)

言葉の移りゆき(251)

日本語の主語を、英語の主語と比べる必要はない

 

 文化にも政治・経済などにも、英米に倣えというような論調があふれています。言葉という、民族独自の精神構造に立脚するものにまで、そういう議論を見聞することがあります。

 日本語そのものを論じているような文章の中にも、その影を見ることがあります。

 

 駅のホームに〈わたし、英語が伸びてきた!〉という塾の広告が出ていました。このうち、主語に当たる部分はどこだと思いますか。

 主語とは、「犬が()歩く」の「犬が()」に当たる部分。英語の場合、単純な1つの文に出てくる主語は1つです。

 ところが、この広告文では、主語らしき部分として「わたし」「英語が」の2つがあります。英語式に考えれば、まことに非常識です。

 国語の授業では、こういう文は取り上げられません。でも「わたし、英語が伸びてきた!」「日本語は主語が2つある?」など、この種の文型は日本語にありふれています。

 大ざっぱに言えば、日本語の文には、全体的な主語(題目)と、部分的な主語とがあります。この広告では、「わたし」が題目、「英語が」が部分的な主語になります。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月1日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 引用した文章に重大な誤りがあることを、まず指摘しておかなければなりません。「国語の授業では、こういう文は取り上げられません」というのは、国語教育をご存じでない方の言葉です。新聞の文章には、学校教育の内容についての無知がそのまま現れることがありますが、これもその例です。「象は鼻が長い」というような文は、文法を扱う場合にはおなじみの表現(文例)です。

 確かに学校教育では「主語らしき部分」などという言い方はしません。けれども、「この種の文型は日本語にありふれています」という表現内容(文型)を避けて、きれいごとの文法説明をしているわけではありません。

 主語というと、すぐに英語と比較して、日本語には主語があるとかないとかということを言う人がいます。そして「英語式に考えれば、まことに非常識です」という判断を目にすることがあります。日本語の文法を英文法に準拠して考えることの方が、非常識なのです。

 主語とは何かという定義にはさまざまな説明がありますが、『広辞苑・第4版』の説明にそえば、「述語に対して主格となる語」です。「花咲く」「成績が良い」の「花」「成績が」がそれに当たると例示しています。このことをしっかりと確認すれば、文法説明が混乱することはありません。

 引用した記事にある〈わたし、英語が伸びてきた!〉に主語が2つあるとすれば、主語の数がもっと多い文を作ることはできます。「わたし、今日は、体が疲れている。」と言えば、主語が3つです。主語が4つの文も作れます。

 学校教育では「連文節」という概念が取り入れられています。「わたし」が主語(主部)であり、「英語がのびてきた」が述語(述部)です。述部の「英語がのびてきた」を分けて、「英語が」を主語、「のびてきた」を述語と考えるのです。全体の主語(主部)は1つしかありません。

 主語が2つ(あるいは、3つ、4つ)という考え方は生徒を混乱させるだけです。そんなことを言えば、大人だって混乱するでしょう。

 「日本語の文には、全体的な主語(題目)と、部分的な主語とがあります」という表現は間違っているわけではありませんが、「主語」「述語」「修飾語」などという文法用語と、「題目」という表現とは、同一基盤上で使われる言葉でないように思われます。

 「わたし、今日は、体が疲れている。」の場合は、「わたし」が主語、「今日は」が修飾語、「体が疲れている」が述語(述部)です。述部の中がもう一度〈主・述〉の関係になっているのです。

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2018年12月27日 (木)

言葉の移りゆき(250)

擬声語・擬態語のもつ語感

 

 擬声語や擬態語について、小型の国語辞典は代表的な言葉を載せていますが、その数は多くはありません。小型辞典だけではありません。大型の国語辞典でも扱いは冷淡なように見えます。載せ始めると際限なく広がってゆくでしょうから、制限しようとする意識があるように感じられます。それは仕方のないことです。

 とは言え、時には、なぜその言葉が、そのような意味で使われるのか、確かめたくなる場合もあります。

 一例を述べます。「きんきん」という言葉です。

 

 シャープは11月、飲み物用の保冷バッグを発売した。ペットボトルのジュースや炭酸飲料を入れておくと、シャーベット状になる。ビールや日本酒ならキンキンに冷やせる。液晶の研究過程で生まれた蓄冷技術を応用した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181130日・朝刊、13版、8ページ、米谷陽一)

 

 ここに使われている「キンキン」というのは、どういう様子を表す言葉でしょうか。

 「きんきん」を見出しにしている国語辞典から引用します。

 

 『三省堂国語辞典・第5版』  ①音や声が高くひびくようす。「- した歌声」②頭や耳がするどくいたむようす。「頭が  いたむ」

 

 『広辞苑・第4版』  金属的で耳に鋭くひびく高い音声。「女の  した声」

 

 この2つの辞典には、冷たいという意識に結びつく説明は載っていません。

 そこで、擬声語や擬態語を専門にしている辞典を見てみます。

 

 ①金属的で、鋭く、耳にひびくようなかん高い音や声。

 ②かたく張りつめたさま。そのような感覚を生じるさま。

 ③鋭く張りつめたように光るさま。

 (小野正弘()『日本語オノマトペ辞典』、小学館、20071031日発行、80ページ)

 

 この辞典には用例は豊富ですが、ここでは用例を省略して引用しました。②には、「キンキンに冷えたビール」という用例が載っています。

 

 ここからは、私の感覚について述べます。『三省堂国語辞典』の〈②頭や耳がするどくいたむようす〉と、『日本語オノマトペ辞典』の〈②かたく張りつめたさま。そのような感覚を生じるさま〉とに関係があります。

 例えば、かき氷を頬張ったりしますと、その冷たさが一瞬のうちに頭の芯まで届きます。頭の中に痛みが生じるように感じます。耳も痛く感じるかもしれません。ジュースなどの液体では、よほど冷えていないと、頭の芯まで痛むような感覚にはなりません。

 まさに〈頭や耳がするどくいたむようす〉なのですが、『三省堂国語辞典』が冷たさによってそれが生じる用例を挙げていないのが残念です。『日本語オノマトペ辞典』は「ビール」の用例を挙げていますが〈かたく張りつめたさま。そのような感覚を生じるさま〉という説明には物足りなさを感じます。

 〈頭や耳がするどくいたむようす〉という説明に、〈冷たさなどによって…〉という言葉を加え、その上で、「ビールをキンキンに冷やす」「かき氷を食べたら(頭が)キンキンする」という例文を挙げてもらえたら嬉しいと思います。「キンキン」は形容動詞であり、サ行変格活用動詞でもあるのです。

 もっとも、この「キンキン」という言葉の使い方には、地域差による変化があるのかどうか、私にはわかりません。

 

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2018年12月26日 (水)

言葉の移りゆき(249)

辞書にない言葉「出稿」

 

 文字を見れば意味の察しはつくのですが、国語辞典にない言葉があります。そのひとつが「出稿」という言葉です。「稿」は原稿のことでしょうから、原稿を出すのが「出稿」でしょう。

 とは言え、これは、筆者が出版社に原稿を提出するという意味にも取れますし、出版社が印刷所などへ原稿を届けるという意味にも取れます。

 小型の国語辞典はたいてい「出稿」を載せていませんが、その例外が『三省堂国語辞典・第5版』です。つぎのように書いてあります。

 

 原稿を出版社や印刷所などに渡すこと。

 

 この説明には納得するのですが、多くの国語辞典の編集者は「出稿」を、自分たちの業界用語のように考えて、辞典に収めることをしなかったのでしょうか。

 ところで、もうひとつ別の意味で使われている「出稿」があります。

 

 総務省がまとめた国内放送業界の2017年度の収支状況によると、NHKを除く地上波テレビ・ラジオ計194社のうち、純損益が赤字になったのは22社と前年度比で13社も増えた。大半がラジオ局で、複数の大口スポンサーの広告出稿の見合わせが相次いだことが原因だという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181127日・朝刊、10版、30ページ、河村能宏)

 

 これは『三省堂国語辞典』も載せていない意味です。

 推測すると、スポンサーが新聞・雑誌・テレビなどに広告を出すという意味のようです。広告の文案や文章を作って出すという意味で「出稿」という言葉が使われ始めたのでしょうが、実際の状況としては、原稿を出すということよりも、スポンサーとして金を出すということになっているのではないでしょうか。

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2018年12月25日 (火)

言葉の移りゆき(248)

「つなげる」という言葉

 

 「つなげる」という言葉が気になっています。繋げる、です。変哲のない言葉といえば、それまでです。

 『三省堂国語辞典・第5版』の「つなげる」は、実に素っ気ない説明です。引用します。

 

 つなぐ。

 

 たった一語、置き換えの言葉しか載っていません。他の項目に比べて、目立った扱いのようにも見えます。ちょっとひどいではないか、と言いたくもなります。

 さて、私の日常生活では、「つなぐ」を使っても「つなげる」を使うことはほとんどありません。「つなげる」は、私にとっては可能動詞なのです。関西の言葉遣いの傾向なのか、私個人の傾向なのか、判断は難しいと思います。

 『明鏡国語辞典』の「つなげる」は詳しい説明になっています。引用します。

 

 一〔他下一〕 ①結びつけて一続きにする。つなぐ。「ひもを -・げて長くする。」

 ②つながるようにする。特に、何かと何かがあるかかわりをもってつながるようにする。「最後のチャンスを大量得点に -・げよう。」

 二〔自他下一〕 〔「繋ぐ」の可能形〕つなぐことができる。「ビデオの配線なら一人でも -」

 

 この説明には納得します。私の使わない用例「一」と、私の使う可能動詞「二」とが、明確に区別されているのです。

 さて、新聞記事を引用します。

 

 2020年にアラブ首長国連邦(UAE)のドバイで開催される国際博覧会(万博)に向け、日本政府の代表団が25日、参加国の会議のため訪れたドバイで記者会見を開いた。25年に大阪での万博開催が決まったことを受け、中村富安代表は「大阪にもつなげることができる工夫を考えていく」と述べた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181126日・夕刊、3版、7ページ、ドバイ=高野裕介)

 

 「つなげることができる」という言い方は、『明鏡国語辞典』の「一」の使い方に「できる」という言葉を続けた表現です。「二」の使い方では、「つなげる」の一語で同じ意味を表せるのです。この発言者はどこの出身者なのかは知りませんが、関西なら「大阪にもつなげる工夫」といえばよいものを、「大阪にもつなげることができる工夫」と言っているようです。

 この記事の見出しは、「政府代表団『大阪につなげる』 ドバイ万博」となっています。見出しは可能動詞の感覚で付けられたと見ることもできるでしょう。

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2018年12月24日 (月)

言葉の移りゆき(247)

文章中にも振り仮名付きで「コミュ力」

 

 (241)(243)回の続きです。「コミュ力」の増殖は続きます。文章中は「コミュニケーション能力」であるのに、見出しが「コミュ力」である例です。

 

 「コミュ力高い」に無言の抗議 / 順大前で学生ら 【見出し】

 「女子のコミュニケーション能力が高い」ことを理由にあげた点に抗議するため、キャンドルを手に沈黙して実施。医学生ら15人が参加した。 【本文】

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181215日・朝刊、13版、35ページ)

 

 そして遂に、とどめを刺すような文章が現れました。見出しではなく本文で、「コミュ力」の「力」に「りょく」という振り仮名を付けての表現です。

 

 ついこんな言い方をしてはいないだろうか。「女性はお花がお好き」「女性は感覚が繊細」。最近のニュースでは「女子はコミュニケーション能力が高い」との言葉もあった

 順天堂大学医学部の入試で、女子に不利な扱いをしていた理由として責任者が述べていた。女子の方がコミュ力が高いので、面接の点数が良くなってしまう。男子を救うためにゲタをはかせた、ということらしい  《注。「力」に、「りょく」という振り仮名が付いている。》

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181217日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 これは朝日新聞の「顔」とでも言うべき「天声人語」の文章です。新聞社として、このようか表現、このような表記をするということを公式に宣言しているように感じます。

 本文の文章に振り仮名を付けるということは、まだ馴染んでない言葉で、読み方を誤りやすいという配慮からだろうと思います。そうでありながらもこの言葉を使おうとするのは、何としても「コミュ力」という言葉を定着させたいという意図があるからでしょう。

 新聞の力は絶大です。個人が、そんな表現、そんな表記はおかしいと言っても、耳を貸さない姿勢を持っているのです。政治の権力と同じようなものを、新聞も権力としてそなえているということに気付かなければなりません。

 

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2018年12月23日 (日)

言葉の移りゆき(246)

「ほとんど」とは、どれぐらいの割合か

 

 「こじらせていた風邪が、ほとんど治りました。」というような場合の「ほとんど」の使い方は気になりません。「そうですか。よかったですね。」という言葉を返したくなります。

 それでは、「私の考えに、ほとんどの人が賛成してくれました。」という場合はどうでしょうか。「ほとんど」という言葉と数値との関係はどうなっているのでしょうか。

 北海道地震で休校になっていた学校が再開したというニュースがありました。「ほとんどが再開し…」と書いてありました。再開できなかったのが1~2校であるような印象を持ちました。記事には、こう書いてありました。

 

 道内の公立学校はほとんどが再開し、休校は1割弱に減った。札幌市東区の小学校では、通学路に損傷が残る中、登校する子どもの姿も見られた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月10日・夕刊、3版、1ページ)

 

 「ほとんど」という言葉と、数値とが書かれている珍しい例だと思います。この記事では、9割の数値に達したことを「ほとんど」と表現しています。私の感覚とはだいぶ隔たりがあります。数値で区切ることはできませんが、98%前後になったら「ほとんど」が使えるのではないか、というのが私の感覚です。

 国語辞典は、「ほとんど」についての説明で、数値は示していませんから、やや専門的な書物を見てみます。

 

 全体の九割以上の感じで、会話にも文章にも使われる和語。〈- が知らない名前だ〉〈出席者の  が賛成した〉

 (中村明『日本語 語感の辞典』、岩波書店、20101125日発行、979ページ)

 

 この書物には、9割以上と書いてあります。最低数をとれば、9割に達しておれば、「ほとんど」が使えるというのです。これは新聞記事と符合しますが、私の納得の域には達しません。

 例えば、「ほとんど8割(80)ほどが、できあがった。」というような言い方を目にすることがあります。これは 80()×0.972() というような計算ではおかしくなるわけで、限りなく80%に近いことを表しているように思います。

 続いて、別の書物を開いてみます。

 

 全部とまではいかないが大部分、事柄に対して用いれば、完全とまではいかないが九分九厘、の意味になる。

 (森田良行『基礎日本語 意味と使い方』、角川書店、19771030日発行、416ページ)

 

 この書物には、1ページ以上にわたって詳しい解説がありますが、私の感覚と一致します。

 二つの書物の刊行時期には30年以上の隔たりがありますが、この言葉に関しては、時の流れによって変化したと言うよりは、著者の考え方の隔たりの方が大きな要因であるように思います。

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2018年12月22日 (土)

言葉の移りゆき(245)

「少子」も「多死」も、「金」に関わる問題意識

 

 世界の人口が膨張していることを懸念しながら、日本に関しては「少子」を嘆くという論調が続いています。長い歴史の中で日本の人口が1億人を超えたのは、そんなに昔の話ではありません。「少子」の問題点は、これまでのような金儲けができなくなるとか、税や保険などの負担が増えるとか、要するに「お金」がらみの問題であるようです。

 そもそも「少子」とは何なのでしょうか。ひとりの母親が生む子どもの数の平均は下降線をたどっていますが、日本の国から子供の数が瞬時に減るわけではありません。少しずつ減るのなら、それに応じた対応をすればよいわけです。「少子」というのは乱暴な言葉です。まるで、あっと言う間に子どもがいなくなるような印象さえ与えかねない言葉です。煽り立てるような言葉、強調しすぎる言葉と言って良いかもしれません。

 それと対応する言葉をマスコミが使い始めました。「多死」です。人口が1億人あれば、1年間に亡くなる人が多いのは当然です。これも「お金」がらみで使う言葉のようです。煽り立てる言葉、強調しすぎる言葉ということにおいては、「少子」とまったく同じです。

 こんな記事がありました。

 

 身寄りのない人の葬儀にかかる費用を、公的にどう賄えばいいのか。都市部の大半の自治体が、国のルールに反するやり方で、身寄りがない人の葬儀代を生活保護で賄うことを慣例化していた。自治体側からは「ルールが実態にあわない」との声が出ている。「多死社会」を前に、専門家は「弔いのあり方を整理するべきだ」と指摘する。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月28日・朝刊、13版、1ページ、中村靖三郎・山田史比古)

 

 本格化しつつある「多死社会」。亡くなった人の親族捜しや遺体の保管を余儀なくされている自治体からは、かさみ続ける負担に悲鳴があがる。 …(中略)

 国立社会保障・人口問題研究所の推計では、17年の約134万人から、最も多い40年には約168万人という「多死社会」が見込まれる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月28日・朝刊、13版、3ページ、中村靖三郎・山田史比古)

 

 約134万人から、約168万人になることが「多死」なのでしょうか。昔から、人はどんどん生まれて、どんどん亡くなっているのです。

 社会において「少子」や「多死」という現象が起こるということは、〈多い-少ない〉ということではなくて、〈増える-減る〉ということでしょう。「増減」と「多少」という言葉を混同して使っているのです。

 そして、それらをいずれも経済面への影響だけで考えているのです。

 「少子」も「多死」も、生きるということに関わる根本問題です。けれども、この言葉が使われている場面には、生きる哲学も倫理も介在しません。金儲けができなくなるとか、経済的負担が増えるとかのレベルに終始しています。

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2018年12月21日 (金)

言葉の移りゆき(244)

「妨げるものではない」という言い方

 

 障害者などというときの「害」の文字には否定的なイメージが伴うとして、不快感を持つ人がいます。「障碍」や「障がい」の文字遣いを見ることが多くなりました。「碍」の文字を常用漢字表に加えるべきだという話がありましたが、それについての記事が載っていました。

 

 2020東京パラリンピックを見据え、法律で障害を「障碍」と表記できるよう「碍」の1字を常用漢字表に加えるよう求めた衆参両院の委員会決議に対し、文化審議会国語分科会は22日、追加の是非の結論を先送りし、「自治体や民間組織が『碍』を使うことを妨げるものではない」とする考え方を示した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181123日・朝刊、13版、29ページ、上田真由美)

 

 常用漢字表に1字だけ追加したという例はありませんし、常用漢字表の改定は簡単に行えるものではありません。そのことは理解できます。

 今回のニュースは、国会の委員会決議を契機に議論を始めた文化審議会国語分科会が、〈法律〉ではなく、〈自治体や民間組織〉が『碍』を使うことを妨げるものではないという見解を発表したということです。

 私が言いたいのは、「碍」を常用漢字表に加えることの是非ではありません。「『碍』を使うことを妨げるものではない」という言い方のことです。「妨げるものではない」というのは、使うことを認めているのですが、他の者を押さえて服従させる姿勢そのものです。このような場合に、なぜ「妨げる」などという言葉が必要なのでしょう。国民の前で大手を広げている姿が目に浮かびます。しかも、政治団体ではなく、文化審議会国語分科会というところの言葉に似つかわしくありません。

 「妨げるものではない」という大袈裟な表現を、「妨げない」と言い換えても、その姿勢に変わりはありません。とうして「使うことを認める」と言えないのでしょうか。あるいは、もっとやわらかく「使ってよい」と言えないのでしょうか。

 いずれにしても常用漢字表に手を加えないということであり、「碍」の1字を使うか使わないかという問題に過ぎません。使ってよいのなら、「使ってよい」という言葉でよいのではありませんか。

 「妨げるものではない」という言い方には、本当は使ってほしくないという気持ちが丸見えです。それを、法律用語を使って取り繕っているに過ぎないのです。日本語の将来を考える分科会が、こんな言葉遣いをしていてよいとは思えません。

 

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2018年12月20日 (木)

言葉の移りゆき(243)

「コミュ力」は「コミュニケーション能力」に一致するか

 

 前回の続きで、「コミュ力」についての話題です。

 国語辞典で説明されていることに沿うならば、「コミュニケーション力」とは、〈言葉・文字・身振りなどによって、互いに、意思・感情・思考・情報などを、交換・伝達する力〉のことです。

 「街のB級言葉図鑑」で紹介されている文章によれば、〈広告などの文案・文章などを作る力〉が「コミュ力」であるようです。

 その「街のB級言葉図鑑」よりも半年前に、次のような見出しの記事がありました。

 

 コミュ力と言うけれど 【見出し】

 就活真っ盛り。この時期に「魔法の言葉」として飛びかうばかりか、今や人間の価値をはかる物差しのようにさえ使われる言葉が「コミュ力」だ。それっていったい何? 【リード文】

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月23日・朝刊、10版、13ページ、「耕論」)

 

 この特集は、3人の談話を集めたものですが、リード文では、「就活」「魔法の言葉」「人間の価値をはかる物差しのようにさえ使われる言葉」をキーワードにしています。それが「コミュ力」であると言うのです。

 川嶋太津夫さんの言葉を引用します。

 

 日本では、「コミュ力」という省略語で若者の間で日常用語化し、本来の意味から離れつつあります。空気をうまく読んだり、雰囲気を巧みになごませたり、テレビ番組のMCのようにうまくその場を仕切って回したりすることができる対人スキル、という理解が広がっているようです。少なくとも企業が学生に求める能力とは違います。

 (出典は、上に同じ)

 

 斎藤環さんの言葉を引用します。

 

 相手を傷つけず、ほどよい距離感で誰とでもやりとりする。その作法になっていったのが「コミュ力」でした。

 (出典は、上に同じ)

 

 岡田美智男さんの言葉を引用します。

 

 コミュ力とは、不完全な私たちが、お互いを補い、支え合うなかで生じる関係の力です。言い方を変えれば、自分の弱さ、不完全さを上手にそして適度に他者に開示することによって、相手の手助けを引き出していく力とも言えるでしょう。

 (出展は、上に同じ)

 

 引用した記事は 就職活動をテーマにした特集です。けれども、学生たちは「コミュ力」という言葉を、「コミュニケーション力」とは違った、ある限定された意味で使っていることは確かでしょう。「コミュ力」は、自己宣伝や自己擁護にとって都合のよいやり方であり、その能力のことを示しているのです。

 

 さて、最初(241)の話題に戻ります。新聞は、とりわけ見出しは、短い言葉で表現しようとします。「コミュニケーション力」という言葉を、今では特別な傾向を持った言葉になりつつある「コミュ力」という略語に置き換えることは、間違っていると言わなければなりません。

 大学の入学試験までもが、「魔法の言葉」や「人間の価値をはかる物差しのようにさえ使われる言葉 (すなわち、実際には物差しになっていない言葉)」である「コミュ力」ではかられるはずはありません。

 最後に言っておきたいことがあります。医師には、医師としての技術だけでなく、〈言葉・文字・身振りなどによって、互いに、意思・感情・思考・情報などを、交換・伝達する力〉が不可欠です。その力を持ち合わせていない人は医師失格です。その「コミュニケーション力」を強く持っているという女子受験生には、加点こそすれ、減点する必要がありません。順天堂大学は根本から間違っているのです。

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2018年12月19日 (水)

言葉の移りゆき(242)

「コミュ力」が現れるのを待っていた

 

 前回の続きで、「コミュ力」についての話題です。国語辞典編纂者のコラムに「コミュ力」のことが書かれていました。

 

 「コミュニケーション」は、1世紀前から日本語に入っています。よく使う語なのに、なぜか略されることがありませんでした。「マスコミュニケーション」は、さすがに「マスコミ」と略されましたが。

 街で、コピーライター養成講座のポスターを見かけました。〈コピー力は、コミュ力である〉と訴えています。 …(中略)

 ネット時代、お互いのやりとりがこれまでになく頻繁になり、ようやく「コミュ」という略語が現れました。ほかに、コミュニケーション障害を「コミュ障」とも言います。これは失礼にもなる言い方です。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181124日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 コラムの見出しは、「コミュ力 / 1世紀経って略語が現れた」です。国語辞典編纂者からすれば、待って待って、やっと現れてくれたという気持ちであるようです。「コミュニケーション」というような、よく使う語であり長い言葉は、略されて当然という考えが基本にあるようです。それは、日本語に対する、望ましい考え方なのでしょうか。疑問に思います。

 ポスターにある「コピー力」とは、広告などの文案・文章などを作る力のことです。それが「コミュ力」(のひとつ)であると言っているのです。

 それにしても、「マスコミュニケーション」が「マスコミ」と略されるのなら、なぜ「コミ力」にならないのでしょうか。あるいは、どうして「マスコミュ」と略されなかったのでしょうか。たぶん、その時その時の気分のようなものに支配されているのでしょう。

 ところで、国語辞典によれば、「コミュニケーション」の意味は、〈言葉・文字・身振りなどによって、互いに、意思・感情・思考・情報などを、交換・伝達すること〉というのが、おおよその共通認識です。

 たいていの国語辞典が、この言葉を名詞として扱っていますが、『三省堂国語辞典・第5版』には「(名・自サ)」とあります。自動詞であり、サ行変格活用をするという意味です。例えば「伝達」という名詞は、「伝達する」という動詞としても使われます。

 それにしても、「コミュニケーションする」は自動詞でしょうか。そんなはずはありません。自動詞ならば、情報が送り手から受け手に伝わるという意味です。「コミュニケーション能力」などと言う場合は、伝える力のことですから他動詞の働きをしています。順天堂大学の屁理屈も、他動詞でなければ意味を持ちません。

 ところで、「コミュ力」は、このコラムで紹介されたのが嚆矢ではありません。それより前に、朝日新聞が、振り仮名もなく、大きな見出しで使っていた例は、次回で紹介することにします。

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2018年12月18日 (火)

言葉の移りゆき(241)

「力」という文字に振り仮名は必要か

 

 新聞に不思議な欄があります。空間ができてしまうから仕方なく作るような欄です。1ページの片隅に、その日の記事を紹介する欄です。見出し程度のものならば、見過ごしても良いと思います。そうではなくて、何行かの文章を添えて、何ページにどんな記事が載っているかということを紹介する欄です。わずか30ページほどの朝刊であるのに、その欄を見て、読むところを決める読者が存在するというのでしょうか。

 ただひとつの利点は、何日か後に、あの記事はいつの紙面に載っていたのかと思ったときに、見つけ出すのには役立つでしょう。それならば、その検索に役立つような機能を持ったものを開発すべきです。限られた記事の紹介だけでは、検索機能は果たせません。網羅的な機能を備えていませんから、まったく役に立ちません。

 

 話題は変わります。「力」という漢字は、小学校低学年の児童であっても、読み書きはできますし、意味も理解できます。そんな「力」という文字に、どうして振り仮名を施すのでしょうか。「力」という文字に振り仮名を施さなければ誤解をされる、というような記事を新聞は書くべきではありません。

 引用するのは、1ページの題字の下にある、その日の記事を紹介する欄と、同じ日の29ページの記事です。

 

 「女子はコミュ力が高い」波紋 【見出し】 《注。「力」に、「りょく」という振り仮名が付いている。》

 医学部の入試面接で女子に不利な扱いをした理由は「コミュニケーション能力が高い」ため。順天堂大の説明に波紋が広がる。 29面 【本文】

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181212日・朝刊、13版、1ページ)

 

 入試差別に「女子はコミュ力高い」 根拠は? 【見出し】 《注。「力」に、「りょく」という振り仮名が付いている。》  

 「女子の方がコミュニケーション能力が高く、男子を救う必要がある」。医学部入試で女子に不利な扱いをしたことについて、順天堂大がした説明に、批判が起きている。そもそも「女子の方がコミュニケーション能力は高い」という説に、根拠はあるのか。  【本文】

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181212日・朝刊、13版、29ページ)

 

 見出しはどちらも「コミュ力」となっていますが、本文にはその表現はありません。1ページの方は全文引用です。「コミュニケーション能力」という表現が1箇所あります。29ページは長い文章ですが、「コミュニケーション能力」という表現が6箇所あります。

 記事はきちんと書かれているのですが、見出しにするときに「コミュ力」という言い方を採用し、カタカナとの混同を恐れて「力」に振り仮名を付けたのです。

 私は、これまでも、このブログで何度も、新聞の見出しが日本語を乱すきっかけを作っているということを指摘してきました。こんな振り仮名を付けてまで、混乱するような言葉を使いたいのでしょうか。

 「コミュ力」などという短縮語は、日本語にとって望ましいことでしょうか。短く言うことにどれほどの価値があるのでしょうか。せめて「コミュ能力」とでもすれば、馬鹿馬鹿しい振り仮名は必要なかったはずです。見出しは文字数の制約を受けるということを理由にして、おかしな日本語表記をしないようにと願いたいものです。

 さて、以上は「コミュ力」についての最新の話題です。時間をさかのぼって、この「コミュ力」という言葉が紙面に現れたことについて見てみたと思います。それは、次回に書きます。

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2018年12月17日 (月)

言葉の移りゆき(240)

「TKG」を浸透させたいのは新聞記者?

 

 NHKと言えば日本放送協会のことですが、他にもNHKがあるのをご存じですか。それは日本発条株式会社が使っている略称でもあります。NTTとかJRとか英語表記からの略称が多い中で、日本語(ローマ字書き)の頭文字をつないだ略称は、どちらかと言えば少数派です。アルファベットの中から3文字を使う場合は、その組み合わせ数に限界がありますから、同じものがあっても仕方がないでしょう。

 固有名詞はさておき、ごく普通の日本語(名詞)をアルファベットの略語で表すのは珍しいことだと思います。最近、目にしたのが次の例です。

 

 近年「TKG」とも呼ばれ、シンプルにして各年代に愛される「卵かけご飯」が、「生卵は食べない」はずの外国人に浸透し始めている。日本を旅行中、開眼するケースもあるようだ。 …(中略)

 大阪市浪速区の卵かけご飯専門店「美味卯」にも、外国人が訪れる。オーナーによると「若い子だと、TKGという言葉も知っている」。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181116日・夕刊、3版、1ページ、中川竜児)

 

 1面の「3分の1」以上のスペースを使った記事ですが、「TKG」という言葉は、冒頭の一句と、オーナーの談話の部分だけです。つまり、日本語としては浸透していない言葉です。「卵かけご飯」という、ちゃんとした日本語があるのです。

 この記事の見出しは、大きな文字で「TKG 世界へ?」となっています。難しい漢字には仮名で読み方を知らせる「ふりがな」という方法があります。この「TKG」は、何を言っているのか、わからない人のために、「T」に「卵」、「K」に「かけ」、「G」に「ご飯」という文字が振られています。「ふりがな」ではなく、「漢字・仮名交じりの〈ふりがな〉」です。「TKG」は外国で広がり始めている略称かもしれません。この略称を、新聞記者は、日本国内でも普及させたいと思っているのでしょうか。そんな略称は、外国人に接する店の人には知っておいてもらいたいとは思いますが、おかしなアルファベット略語を日本語の中に取り入れる必要はありません。

 「卵かけご飯」という言葉から受ける、ふっくらとした印象を、「TKG」というような無機質の言葉でぶち壊そうとしているのは誰なのでしょうか。こういうことの一つ一つが積み重なっていくことによって、得体の知れない日本語表現が広がっていくのです。

 

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2018年12月16日 (日)

言葉の移りゆき(239)

「齢50半ば」とは何歳ぐらいのこと?

 

 「齢(よわい)50()半ば」というのと、「50()半ば」というのは同じ年齢を指すのでしょうか。また、それは、どのような年齢を表す言葉でしょうか。

 一例として、次の文章で考えてみます。

 

 齢50半ばを過ぎてなお、時々見る夢にうなされる。

 試験問題が解けずに時間切れ。もっと勉強しておけばよかった。そういえば、高校の担任教師が教室で「1日何時間、勉強しているか、言ってみろ」と生徒たちを指さし、尋ねたことがあった。

 (毎日新聞・大阪本社発行、201812月6日・夕刊、6ページ、「体温計」、花谷寿人)

 

 たぶん「齢50()半ば」も「50()半ば」も、55歳前後を表していると考えるのが一般でしょう。

 けれども本当にそれでよいのでしょうか。「齢50()半ば」は、50歳に半歳を加えた数字だと考えるのは間違いでしょうか。

 違った例で考えてみます。「2020()半ば」と「2020年代()半ば」とは同じでしょうか。たぶん、それは同じでないという答えが多いだろうと思います。東京オリンピックは「2020年半ば」、すなわち2020年の夏に開催されますが、「2020代半ば」は大阪万博が予定されている2025年頃を指すと考えるのが自然でしょう。(2020年半ば」がその年の夏頃を指すのなら、「齢50半ば」は50.5歳となるでしょう。)

 もうひとつ、違った例で考えてみます。「それは5000()半ばで買える」というのと「5000円台()半ばで買える」というのとは同じでしょうか。どのような金額が、答えになるのでしょうか。5500円辺りでしょうか、5050円辺りでしょうか。5750(5千円と1万円の中間)という答えもあるかもしれません。迷います。そもそも、金額については、このような言い方をするのかどうかすら疑問です。

 距離については「20㎞の半ば」と言えば、10㎞ということになりますが、これはまったく違った考え方をしていることになります。(この場合は「の」を省くことができません。「人生80歳の半ば」=40歳の辺り、というのと同じです。)

 

 最初の問題について、私の結論を申します。これらの表現は暗黙の了解で行われているということです。年齢には1歳ずつの加齢の「半ば」ということを考えませんが、1年という暦の長さの単位には「半ば」があります。

 年齢は「何十歳代の半ば」という考え方をしますが、時間を表す「年」には「1年ごとに半ば」があります。(20世紀の半ば」とか「1980年代の半ば」という表現で、紛らわしさを避けることになります。)

 けれどもやっぱり、「齢50()半ば」という表現から50.5歳を完全に排除できるかどうかは疑問です。

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2018年12月15日 (土)

言葉の移りゆき(238)

商標登録と元号

 

 帝京平成大学とか福山平成大学とか、新設なのか分離なのか改称なのか知りませんが、平成への改元に合わせて、ちゃっかりと名付けた大学名があります。もはや定着した大学名の昭和大学、昭和女子大学、大正大学、明治大学、明治学院大学、慶応義塾大学なども、改元された後で、元号を学校名に取り入れたのだろうと思います。

 こんな記事がありました。

 

 来年5月1日の改元に備え、政府は新しい元号に加えて「平成」「昭和」など旧元号の商標登録もできなくする準備を進めている。改元にあたっての「便乗商法」を防ぐ狙い。 …(中略)

 ただ、実際の運用では、これまでも旧元号の商標登録は受け付けてこなかった。例外は「大正製薬」「昭和産業」など、元号としてではなく固有名詞として定着し、広く世間に認識されている場合で、担当者は「これまでの運用基準を明文化するのが今回の改訂の趣旨だ」と説明する。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201811月6日・朝刊、13版、4ページ、田嶋慶彦)

 

 この記事は素人にはよくわかりません。商標登録というのがどの範囲のことを指しているのか、短い記事では理解できません。

 平成を例に取ると、平成ラーメンという商品名がダメなのか、平成製粉所という会社名がダメなのか、商売とは関係のなさそうな平成大学はどうなのか、記事からは判断ができないのです。

 商標登録は受け付けないということはわかりますが、登録をしなければ、平成という言葉は使えるのでしょうか。登録をする意思のない商店が平成という言葉を使うのは自由なのか、記事からはまるでわかりません。

 しかも、〈例外は「大正製薬」「昭和産業」など、元号としてではなく固有名詞として定着し、広く世間に認識されている場合〉というのはどういう意味でしょうか。〈広く世間に認識され〉るためには、長い間にわたって商標を使い続けたからなのではありませんか。

 大学名だけでなく、「便乗商法」の名前はたくさんあるだろうと思います。そんなものを排斥することには賛成です。でもやっぱり、この記事が言おうとしている内容は理解できないのです。

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2018年12月14日 (金)

言葉の移りゆき(237)

「たい」を使って、相手に強要する

 

 「たい」という助動詞は、自分がそうすること、そうあることを希望するという意味を表します。「たい」だけを使って言い切る形では、話し手の希望を表しているのです。「いよいよ始まる全国大会で、ぜひ入賞したい」というような使い方です。そして、それが連体修飾語になっても意味は変わりません。「ぜひ入賞したい全国大会が、いよいよ始まる」というような使い方です。

 一方、「…てもらいたい」とか「…ていただきたい」とかの形で、相手がそうするよう希望すると意味を表すこともあります。他者にあつらえ望むということです。

 ところが、次のような表現が、しだいに広がっているように思います。

 

 来春に平成が終わり、新しい時代を迎えようとしている今、天皇家についての基礎的な知識が必要とされます。

 「知っておきたい天皇家の基礎知識」では、ぜひ知っておきたいことばかりをお話しします。歴史に詳しくない方も「なるほど、そうか」と楽しみながら学べます。

 (毎日新聞・大阪本社発行、201812月6日・夕刊、5ページ、毎日文化センター・PR)

 

 講座のPRをしている文章です。講座の担当者自身が「知っておきたい」と考えているのなら、この表現でよいと思います。どうぞ存分に知ってください、と考えればよいのです。けれども、これは講座を受講するようにという誘いかけをしている言葉でしょう。それならば、「知っておいてもらいたい」、「知っていただきたい」と言わなければなりません。たとえそのように言っても、人の心をある方向に向けようとしていますから、問題が解消するわけではありませんが、少なくとも、言葉遣いだけは正しくしておいていただきたい、というのが私の希望です。

 この「…したい」という言い方で、相手を誘う表現、あるいは、相手を自分の思うように引っ張り込もうとする表現が、広がりを見せています。以前に、旅行社のキャッチフレーズのことを書きましたが、商品の広告の場合はまだ罪が軽いと思います。

 文化的なことや、人間の心に関わるようなことでこれを行ってはなりますまい。講座のタイトルはもちろんですが、出版物の書名にもこれが広がっています。著名な文化人が、著書を買わせようとする手段として、この言い方を多用していることは見逃せないと思います。

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2018年12月13日 (木)

言葉の移りゆき(236)

「場」とは何か、「場づくり」とは何か

 

 「場」という言葉は、ずいぶん様々な意味を合わせ持っています。だから、「場づくり」と言われて、きちんとしたイメージを持てる人は少ないと思います。

 こんな記事がありました。

 

 「場づくり」ということばを、見聞きする。単に身を置いたり、あることが行われたりする「場所」ではなく、心理的・物理的な作用をもって、何らかの現象・作用をもたらす空間を「場」とよぶようなのだ。 …(中略)

 ビル屋上におしゃれなテントを張り、バーベキュー施設をつくった。そこに集う人たちによってコミュニケーションの輪が広がる。「場所」が少しずつ「場」に変化する。 …(中略)

 出会った場所で自らのビジョンを伝え、それに共感する人と協働する。ここに新たな創造の場が芽生える。 …(中略)

 立場、肩書きなど、周囲との関係性で成り立つ垂直方向の場ではなく、もっと緩やかな創造性に満ちた個の共感で成り立つ水平方向の場をつくりたい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月19日・夕刊、3版、5 ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 最初の段落(記事の冒頭部分)は、「場づくり」という言葉を説明しているのですが、私にはさっぱり理解できませんでした。具体的なことが浮かんでこないのです。〈…とよぶようなのだ〉という言い方が、頼りなく聞こえます。

 記事の表現をすべて引用しているわけではありません。けれども、要所要所を引用していっても、具体性が加わってきません。何かを「創造」することを目指しているようだということはわかります。けれども、その「何か」が何であるのか、わかりません。

 それ以外の言葉を拾い上げると、「コミュニケーションの場」、「ビジョンを伝え、共感する人と協働する場」、「個の共感で成り立つ水平方向の場」ということのようです。しかし、それでおしまいです。私の思考は前進しません。

 大人であれば、「場づくり」という言葉の意味を誤解することはありません。けれども、イメージの浮かんでこないような言葉を、社会に広めてよいのでしょうか。

 言葉が広義でありすぎたり、具体性を帯びていなかったりすると、何を言っているのか相手に伝わりません。〈「場づくり」ということばを、見聞きする〉とありますが、こんな曖昧な言葉を見聞きしたいとは、私は思いません。

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2018年12月12日 (水)

言葉の移りゆき(235)

「枕詞」「形容詞」から「冠」へ

 

 例えば「世界のファッションの発信地、パリ」などと言う場合の、修飾語である部分「世界のファッションの発信地」を、「枕詞」とか「形容詞」と言うことがありました。前に置かれた言葉は「パリ」を称えて説明しているのですが、厳密な意味での枕詞でもありませんし、形容詞でもありません。

 枕詞は、後ろの言葉にかかっていくのですが、和歌に見られる修辞法で、5音の長さを基本としています。散文に使われて音数の制約もない言葉遣いを「枕詞」というのはふさわしくありません。

 形容詞は、品詞を表す言葉です。後ろの言葉にかかることはありますが、形容詞(性質・状態、感覚・感情などを表す言葉)でないものまでも「形容詞」と称するのは行き過ぎです。

 近頃は、そのことに気付いたからかどうか知りませんが、別の言い方を目にするようになりました。

 

 むのが、89歳になっていた2004年、退社を「失敗だった」と電話で告げた。「今まで『報道責任をとって辞めた』と冠付きで紹介されていい気になっていたが、こっぱずかしい」

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月2日・夕刊、3版、5ページ、「むのたけじ をたどって」、茂木克信・大塚晶)

 

 魚と野菜を扱うひとつの市場が「世界の築地」と冠をつけて呼ばれた不思議。人、物、情報……何が原動力となって人々をひきつけたのか、今後はどう受け継がれていくのか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181118日・朝刊、10版、31ページ、伊藤恵里奈)

 

 枕詞とか形容詞とか言うよりは望ましいと思いますが、「冠」とは何と大袈裟なという気持ちがしないでもありません。最上級の褒め言葉のように思われるからです。

 「冠」でもなく、「枕詞」でも「形容詞」でもなく、ふさわしい言葉があるかと尋ねられたら、私は「修飾語」でよいと思っています。〈「報道責任をとって辞めた」という修飾語を付けて呼ばれる むのたけじ〉、〈「世界の(市場)」という修飾語を付けられた築地市場〉。それで良いではありませんか。

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2018年12月11日 (火)

言葉の移りゆき(234)

「置き勉」では何も解決しない

 

 昔、「別勉」という言葉を初めて耳にしたときは、違和感を覚えました。別勉というのは、学校とは別に、塾などに通って勉強することのようでした。学校教育を軽視するような響きがありました。

 小学生や中学生のカバンが重くなっています。教科書が大型化していることと、副教材に多様なものを指定するとが大きな理由です。どうして教科書とノートだけで、あるいは厳選したごく僅かの副教材を加えるだけで、授業を展開できないのでしょうか。教員を経験したひとりとして、最近の副教材の氾濫ぶりに腹立たしい気持ちを抱いています。

 それに関連して、こんな記事を読みました。

 

 「脱ゆとり教育」によって教科書が分厚くなるなど子どもたちの通学かばんやランドセルが重くなっている。つらい実態を緩和しようと、教材を教室に一部置いて帰る「置き勉」を認める学校が徐々に増えている。 …(中略)

 置き勉とは「置き勉強道具」の略語。登下校の荷物を軽くするため勉強道具を持ち帰らず、学校に置きっぱなしにすることだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月1日・夕刊、3版、13 ページ、山下知子・峯俊一平)

 

 「置き勉」は、「置き勉強道具」の略語だと言います。そもそも「置き勉強道具」という言葉があることが不思議です。家庭での学習に不都合をもたらします。学校での指導で十分だという自信の表れであるのなら歓迎ですが、そんなことではないでしょう。教科書とノート以外のものを減らす工夫をしないで、「置き勉」を認める方向へ進むのは、学校教育の本末転倒であるようにも思えます。「置き勉」というやり方では、学習指導の方法の改善には結びつかないと思います。教科書とノートだけ持ち帰れば予習・復習ができるというのなら、それ以外の教材は格別に必要だということにはならないのではありませんか。教材を厳選すべきです。

 この記事で、「子どもに関わる消費ビジネスが専門」という大学教授が存在することを知りました。そんなことを専門にする研究者がいることも驚きですが、そんな消費ビジネスがある限り、教材の売り込みはこれからも拡大していくのでしょう。

 言葉に関して言うと、「〇勉」という言い方の「勉」は、「勉強」を短く表現する言葉であるはずです。「勉」を「勉強道具」の略とするのは乱暴です。せめて「置き教材」ぐらいにすべきだと思います。「置き勉」という言葉では、勉強しようとする姿勢や意欲までも学校に置き去りにして、校門を出ていく児童・生徒の姿が浮かんできます。

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2018年12月10日 (月)

言葉の移りゆき(233)

開拓村かと思ったが…

 

 「江戸開府」という言葉があります。江戸に幕府が置かれ、江戸の町が開かれたことを表しています。

 学校の「開校」や「開学」は、それが初めてつくられたことを意味しています。前身となるものがある場合は、その前身の創立が「開校」や「開学」になるのでしょう。

 それでは、次のような例はどう考えればよいでしょうか。

 

 朝日村は20日、開村130周年の記念式典を村農業者トレーニングセンターで開いた。村と近隣市町の関係者、住民ら約150人が出席。昭和と平成の2度の大合併で、ともに自立の道を選んだ村の歩みを振り返った。 …(中略)

 朝日村は1889(明治22)年、西洗馬村、小野沢村、針尾村、古見村が合併して誕生。人口は4609人(5月1日現在)

 (信濃毎日新聞、20181021日・朝刊、31ページ)

 

 見出しは「開村130周年 朝日村で式典」となっていましたから、見出しを見たときは、開拓か何かで新たに村が誕生してから130年が経ったのかと思いました。実際には、4つの村が合併してから130年ということです。

 一般には、町制施行〇〇年とか、市制〇〇年と言いますが、朝日村の場合は、村が合併して新しい村になったのですから、村制〇〇年とは言えなかったのでしょう。それでも、それぞれの村はそれ以前に始まっているのですから「開村130年」はそぐわない気がします。「朝日村発足130年」とか「合併130年」とか言うのが普通でしょう。

 朝日村は、昭和と平成の2度の大合併の時代に左右されず、独立した歩みを続けてきたそうで、賞賛したいと思います。記事によれば、歌手・俳優の上條恒彦さんがこの村の出身だそうです。

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2018年12月 9日 (日)

言葉の移りゆき(232)

小さな大根の「たたずまい」

 

 「たたずまい」という言葉は、漢字で書くと〈佇まい〉と書きます。「たたずまう」という語の連用形が名詞になったのが「たたずまい」です。

 「たたずまう」の旧仮名遣いは「たたずまふ」です。「たたずむ」という言葉に、接尾語「ふ」が続いた言葉です。「ふ」は例えば「住まう()」「散らう()」などに見られるように、動作・状態などが続いていることを表す言葉です。「たたずまう」というのは、じっと立ち続けている、立ち止まり続ける、という意味です。

 したがって「たたずまい」は、立ち続けている様子、存在し続けているものの姿・有様、を表す言葉です。けれども、この言葉は何に対してでも使ってよいという言葉ではないと思います。「宿場町のたたずまい」「山のたたずまい」「雲のたたずまい」「人のたたずまい」などと使ってきました。ときには「詩のたたずまい」という使い方もありましたが、それは詩で表現されている全体の有りようを意味していると思います。

 そんなことを述べてきたのは、亀戸ダイコンを紹介した文章の表現が気になったからです。

 

 いまの江東区の亀戸香取神社周辺で栽培が始まり、この名がついた。根は最も太い部分でもゴルフボール大という華奢なたたずまい。透けそうなほど真っ白な茎が特徴だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181110日・朝刊、be7ページ、「とれたて菜時記」、篠原久仁子)

 

 「たたずまい」という言葉を〈姿・有様〉という意味で使うなら、何に対してでも使えることになりますが、小さなものに使うのはかまわないのでしょうか。

 古風な言葉であったり、ちょっと気の利いた言葉であったりして、普段あまり使っていない言葉を使う場合、ちょっと規格はずれの使い方をしても見逃されて、それを真似る表現が広がっていく、というようなことにもなりかねません。ことわざや慣用句の誤用の中にも、そのようにして始まったものがあるのかもしれません。

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2018年12月 8日 (土)

言葉の移りゆき(231)

AI記者の書く記事

 

 言葉は人と人とをつなぐものです。言葉によってコミュニケーションが生まれます。マスコミと言われる巨大組織も、人間によって成り立っています。そのマスコミからの情報を受け取るのも人間です。

 こんな記事がありました。

 

 新聞社やテレビ局で、人工知能(AI)の活用が始まっている。各社の取り組みと課題は。

 今夏の全国高校野球選手権記念西兵庫大会決勝。神戸新聞社はツイッターで、記事を配信した。

 「明石商は同点の7回、二死二塁から3番田渕翔のセンターヒット、なおも二死二塁から4番右田治信のレフト二塁打などで計3点を挙げ、逆転した」

 AIを活用して記事をつくる「ロボットくん」が書いたものだ。地方大会のデータや、過去に記者が書いた同種の記事などを「学習」。試合データを読み込ませると1秒あまりで「執筆」する。 …(中略)

 社内では「そつなくまとまっていた」という評価の一方、「試合の熱量や雰囲気が伝わらない」という声も。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月1日・朝刊、13版、29ページ、末崎毅・丸山ひかり)

 

 記事ではこの他に、NHK、日本経済新聞社、信濃毎日新聞社、朝日新聞社の取り組みが紹介されています。

 AIは試合経過については、そつのない文章を書けるでしょう。けれども「試合の熱量や雰囲気」はひとつひとつの試合に独特です。AIがさまざまな観戦記を学習して記事を書くことになれば、さまざまな観戦記を混ぜ合わせたような文章が生まれてくることでしょう。

 それは、日本全国が同じようなチェーン店で覆い尽くされて、それぞれの地方の味わいが無くなっていくことと同様なことが、文章表現においても現出することになるのでしょう。

 ふだん、野球は人間ドラマだと言っている新聞、高校野球は人間教育だと言っている新聞。その新聞が、人間(記者)抜きで記事を作ることに何のためらいもないのでしょうか。

 AI活用だとか、省力化だと言えば免罪符になるような風潮がますます蔓延しているように思われてなりません。

 「遺伝子組み替え食品は使用しておりません」という文字がスナック菓子などの説明に書かれています。新聞にも「本日の記事はAIによる作成はありません」と書かれる時代が来るかもしれません。どの記事がAIによって作成された記事であるかを明示しなければならないと思います。

 

 前回と同様に、もうひとつ、恐ろしい問題があります。この記事によると、公立はこだて未来大の教授が、AIで小説を書かせるプロジェクトに取り組んでいるそうです。たとえ骨子だけを作って、それに人間が手を加えていくことであっても、人間の営みをAIが左右していくことになります。

 学問と学問の間の「学際」が話題になりますが、ほんとうの学際は、文系(とりわけ哲学や文学)と理系(情報科学)の間で必要だと思います。理系の独走(あるいは暴走)を傍観しているわけにはいかないと思います。

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2018年12月 7日 (金)

言葉の移りゆき(230)

心のこもらない戦術と、心のこもらない創作

 

 人工知能(AI)が進歩して、囲碁や将棋で専門家をうち負かすほどのものが出来ていると言います。AIの進歩には感心します。AIと棋士の対戦は、AI技術者の宣伝にはなっていますが、そんなことまでしなくてはならないのでしょうか。

 囲碁や将棋のAIは戦術の研究でしょうから、人間の心を存在させなくてもよいのでしょう。けれども、AIが、人間の心を表現する俳句の世界に侵入してくると、大きな疑問を感じます。

 大きく紙面を割いた、こんな記事がありました。

 

 かなしみの片手ひらいて渡り鳥-。膨大な古今の俳句の手法を学んだ人工知能(AI)が、着実に力を付け、俳人をうならせる句を詠みつつある。五感と語感を研ぎ澄まし、自然美や喜怒哀楽を五・七・五で表す伝統文化の世界に、AIがどう挑んでいくのか。

 札幌市にある北海道大調和系工学研究室で、大学院情報科学研究科の川村秀憲教授(45)がパソコンを操作すると、一瞬で画面が文字で埋め尽くされた。ひとつひとつが俳句だ。「1秒間で40句を詠みます」と川村教授は笑顔を見せる。 …(中略)… 

 研究を知ったテレビ局に人間との対決を打診され、研究を本格化させた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月3日・夕刊、3版、1ページ、藤家秀一)

 

 テレビだ、対決だ、宣伝だという次元でこの研究が行われているとは思いませんが、1秒間に40句を詠むことにどんな意義があるのでしょうか。AIが仮に人間の感性や独創性を備えるまでに至ったとしても、それは機械の作った俳句であって、人間が作ったものではありません。囲碁や将棋の戦術は人間の心が欠如していても練り上げることができます。俳句は人間の心が欠如していては、俳句とは言えません。俳句とは何なのかという根本問題をないがしろにしてAIが進化しても、機械の進歩でしかありません。

 

 もうひとつ、恐ろしい問題があります。この記事によると、AIが「人間の感性で句を選ぶ」というのが次の課題だと書いてあります。人間の作った俳句を選別して優秀作を選ぶというようなことが、AIにできるのでしょうか。仮に、AI技術者が「できた」と言った時点で、それに喝采する人たちがいるはずです。

 これまでも話題になってきましたが、生身の受験生が一生懸命になって書き上げた文章(記述式の解答や、小論文など)を、機械で採点するという提案がありました。「AIが人間の感性を持って、文章に優劣を付けることが可能になった」と、誰かが宣言した段階で、実際にそのような採点が行われて、合否判定の資料が作られるようになるのです。人間を機械が判定するという世の中が到来してもよいのでしょうか。それを恐ろしいことだと感じないような人間が、この世に大勢、既に存在してしまっているのかもしれません。

 AIの俳句のことを、こんなに大きな紙面で報じたのは、新聞社の判断です。このことと表裏一体をなすような記事を、しばらく前の紙面で目にしました。それは、次回で書くことにします。

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2018年12月 6日 (木)

言葉の移りゆき(229)

長文の問題点

 

 谷崎潤一郎には長文があることで知られています。文庫本で1ページの中に一つの文が収まりきらないという長文もあります。

 長文は、曲折した思いを述べたりするときには効果があると思いますが、一般には読者を迷わせます。現今の作家は長文を書くことが少なくなったと思いますが、例外もあります。こんな文がありました。(格別に長いというわけではありませんが…。)

 

 母親の介護をきっかけに東京暮らしを引き揚げ、築123年の無人の実家に46年ぶりに舞い戻り、コシヒカリの本場の新潟県の村で独り暮らしをするようになった男性の知人宅を訪れた際に、飯炊きだけはちゃんとやるようにしている、と琺瑯の鍋で炊いたご飯と生卵、わかめの味噌汁という簡素な昼食が、すこぶる充実して感じられたことも影響している。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181110日・朝刊、be7ページ、「作家の口福」、佐伯一麦)

 

 長文になると、主語-述語の関係が複雑になります。修飾語-被修飾語の関係も同様です。その他、あれこれと煩わしさが生じます。煩わしさというのは、筆者にとってということではなく、読者にとってです。

 引用した文の前に、これと同量程度の文があります。それは5文に分かれています。この長文を読み始めて、「引き揚げ」、「舞い戻り」、「独り暮らしをする」の主語がどうも筆者自身でないと勘づくのですが、断定できないままに「男性の知人宅」という言葉にぶち当たります。そうすると、そこまでの主語は「男性」だろうと思われてきます。ところが、「男性」で終わらずに、その男性の「知人」のことなのだろうかと迷います。

 「男性の知人」という「の」は一般に連体格ですが、ここでは同格で使っているのだろうという推測も必要になってきます。

 文も捻れています。「男性の知人宅を訪れた際に」、筆者はどうしたのでしょうか。たぶん「すこぶる充実して感じられた」という言葉に対応しているのでしょう。けれども、それはちょっと飛躍しています。

 「男性の知人宅を訪れた際に」、「(ご飯と生卵、わかめの味噌汁という簡素な昼食を)いただいた」のでしょうが、その述語は省略されています。「……際に」「……をいただいて」「……充実して感じられた」はずです。述語を一つ省略すると、文の据わりが悪くなります。

 このような文は、国語の教材として、文の仕組みを考えさせたりするときの材料になることがあります。けれども、国語教育では、問題のある文章について考えさせたりすることよりも、正しく、望ましい文章を多く読ませる方がよいと、私は考えています。

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2018年12月 5日 (水)

言葉の移りゆき(228)

10分は消毒」の謎

 

 人間は間違いをおかす動物であり、新聞も間違った表現をすることがあります。もし、記事に間違いがあればまちんと訂正すべきであり、また、間違いを指摘した人に対してはきちんと回答をすべきであると思います。

 さて、「まず手洗い■吐いたもの処理後 10分は消毒」という見出しの記事がありました。

 「10分は消毒」とはどういう意味でしょうか。「10分は」というのは〈少なくとも10分以上は〉という意味でしょう。見出しだけを見たのでは、どういう消毒の仕方かはわかりません。普通に考えれば、煮沸を10分以上にわたって行うのならわかりますが、消毒液を使う場合は10分間も消毒し続けるということがあるのでしょうか。

 記事を読んで、この見出しのもとになった表現を探してみます。ノロウイルスを流行させないための対策について書いた記事です。短い記事ですから、見出しと関係のある表現は、次の部分しかありません。

 

 重要なのが、感染が疑われる人が吐いたものの処理だ。大量のウイルスが含まれる可能性があり、飲食店の衛生対策をサポートするダスキンの小林英明さんは「速やかな処理が感染を防ぐ」。正しい方法で拭き取った後、さらに10分、消毒することがポイント。消毒を怠ると、乾燥後に飛散することもある。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181113日・朝刊、13版、29ページ、野村杏実、高橋健次郎)

 

 記事の中で、「10分」という時間はどういう意味を持っているのでしょうか。「消毒を怠ると、乾燥後に飛散する」とありますが、「10分」の根拠は示されていません。それをさらに見出しで「10分は」〈少なくとも10分以上は〉としたのはなぜでしょうか。

 ここからは、私の勝手な推測です。記者は「正しい方法で拭き取った後、さらにじゅうぶん、消毒することがポイント。」と書いたのではないでしょうか。その「じゅうぶん」を「十分」と書いていたかもしれません。「十分」を誰かが「10分」と書き改め、最終的に時間の長さだと判断してしまった……。

 参考として、ダスキンのホームページを見ました。次のような表現がありました。

 

 汚物を取り除いた床面をペーパータオルで覆い、ペーパータオルが十分濡れるよう消毒液を注ぐ。そのペーパータオルを二次回収袋に入れたら、新たに消毒液に浸したペーパータオルで拭き、その後水拭き。拭き取ったペーパータオルも二次回収袋に入れる。

 

 ここには「十分」という言葉が使われていますが、10分にわたる長時間をかけて消毒するとは書いてありません。

 上記の新聞記事には、写真と説明が加えられています。その中に、次の言葉があります。

 

 ④床に再度キッチンペーパーを敷いて消毒液をかけ、10分間おいてから同様に捨てる

 

 この説明文の「10分間おいてから」という表現も、記事の本文に基づいて、辻褄合わせをした表現のように感じられます。消毒液をかけてから10分間も放置するという消毒方法があるのでしょうか。もし、あるのなら、そのような消毒方法があるということを強調して知らせなくてはなりません。

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2018年12月 4日 (火)

言葉の移りゆき(227)

仮名が大好きな博物館

 

 神戸市埋蔵文化財センターで「神戸はかつて焼き物の里だった~トウバンケイスエキの世界~」という企画展が開かれています。「トウバンケイスエキ」とは東播系須恵器だそうです。東播というのは播磨国の東部のことです。

 熊や猪をクマ、イノシシと書くのは生物学では当たり前のことになっていますが、考古学でもこのような書き方を始めたのでしょうか。漢字で書く方がわかりやすいと思いますから、展覧会のタイトルをこのようにした理由がわかりません。

 同様のことが近隣の館でも行われています。こんな記事がありました。

 

 大きなカマで狩りをする姿から「強い」「かっこいい」というイメージを持たれるカマキリ。だが、それだけではない多彩な姿を知ってもらおうと、企画展「さいきょうのかまきり展」が、伊丹市昆陽池3丁目の市昆虫館で開かれている。来年1月14日まで。 …(中略)

 「『最強』や『最恐』など、来館者それぞれの『さいきょう』を自由にイメージしてほしい」と担当学芸員の長島聖大さん(39)。「鳥に補食されたり、ハリガネムシに寄生されたりするなど、弱い一面も知って」と言う。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181127日・朝刊、「神戸」版、13版△、27ページ、大木理恵子)

 

 「かまきり」は平仮名でよいでしょう。ところが、「さいきょう」という言葉を見て、私は「最強」という言葉ぐらいしか思い浮かびません。「最恐」という言葉もあるのかと教えられますが、その次は浮かんできません。

 「さい」が音読だとすれば「きょう」も音読でしょう。「最恐」に近いのは「最脅」かもしれませんが、日常語としては使いません。「最凶」「最狂」「最競」「最驚」「最叫」「最響」「最協」「最恭」「最教」「最鏡」「最境」……と、思いつくままに並べてみても、日常生活で使う言葉ではありません。

 「来館者それぞれの『さいきょう』を自由にイメージしてほしい」というのは、無理な注文ではないでしょうか。「さいきょう」という言葉を選んだということは、あるメッセージを設定したはずですが、来館者にそのメッセージは伝わるのでしょうか。

 やっぱり、企画のタイトルは、そのテーマを明確に表す表記が望ましいと思います。

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2018年12月 3日 (月)

言葉の移りゆき(226)

「ネタバレ」と「ネタバラシ」

 

 「ネタ」というのは「たね()」を逆さにした言葉です。この言葉の意味は、『三省堂国語辞典・第5版』によれば、「①たね。材料。②証拠。」とあります。簡単な言葉の置き換えですませています。用例はただ一つ、「- は上がってるんだ。」とあります。

 「ネタバレ」という言葉を聞くことが多くなってきました。「バレ」というのは「ばれる」という動詞の連用形で、それが名詞として使われているのでしょう。同じ国語辞典で「ばれる」を見ると、「①あらわれる。露見する。②〔釣りで〕一度はりにかかったさかながにげる。」とあります。ここでも用例は一つ、「秘密が -」とあります。

 この二つを結び付けると、「ネタバレ」とは、たねや材料が露見する(あらわれる)、証拠があらわれる、という意味になりそうです。

 「ネタバレ」の一例として、新聞記事を引用します。

 

 エンターテインメントの世界で、「ネタバレ禁止」の仕掛けが思わぬヒットにつながっている。日常的に何でも書けるSNSの時代。書きたいのに詳しく書けない、という受けての歯がゆさが、逆に熱気を帯びて拡散されるからだろう。 …(中略)

 ネタバレを気にして内容にはあまり触れず、とにかくすごい、すごいと興奮気味に書く。その異様さが気になり劇場に行った私も、すごい、すごいと薦めて回ることになり、それが妙に楽しかった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181128日・夕刊、3版、8ページ、「葦 夕べに考える」、山崎聡)

 

 「ネタバレ」というのは、上記のような、たねや材料が露見する(あらわれる)、証拠があらわれる、という意味ではなさそうです。

 「ばれる」は自動詞で、その他動詞は「ばらす」と考えるのがよいでしょう。「ネタバレ」というのは、小説、演劇、映画、テレビなどで、進行上の仕掛け、筋書き、結末などが暴露されてしまうことのようです。だから「ネタバレ禁止」などという措置が取られて、それがかえって作品のヒットにつながっているというのでしょう。

 自動詞・他動詞ということから言えば、自然と露呈してしまう「ネタバレ」もあるでしょうが、意図的に行う場合は「ネタバラシ」と言うべきだと思います。

 国語辞典の「ネタ」や「ばれる」の説明が簡単なのは仕方ないとして、しかし、「ネタバレ」もしくは「ネタバラシ」という見出し語も必要な段階に来ているように思います。

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2018年12月 2日 (日)

言葉の移りゆき(225)

「下駄を履かす」という表現も死語への道をたどるか

 

 それを表す事物がなくなると、言葉の意味がわからなくなって消えていくことになります。たどん(炭団)、いっしょうます(一升枡)などが、その例です。したがって、「たどんのように日焼けしている」などというような比喩表現が理解できなくなります。

 げた(下駄)という言葉も、「げたを履かせる」という表現も、その運命にあるのかもしれません。

 さて、こんな文章に出会いました。

 

 大学医学部の入試をめぐり、女子の受験生が一律減点されていた問題が発覚しました。公正であるべき入試をないがしろにする行為について、天声人語は「見えないゲタを男子全員にはかせていた」と書きました。

 「げたを履かせる」は「本来の数量にある数量を加えて、全体の数量を実際より多く見せる」(大辞林)との意味です。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181128日・朝刊、10版、13ページ、「ことばの広場 校閲センターから」、西光俊)

 

 「ゲタをはかせる」の本来の意味が理解されなくなりつつあるのかもしれません。大辞林の説明は正しいのですが、天声人語の表現は、完全に正しいのでしょうか。疑問が残ります。

 例えば期末試験をして、ひとりひとりの得点が予想外に低いとき、それでは成績評価が全体に低くなってしまうという事態を懸念して、全員の得点に10点ずつ加点するという措置を取るとします。こういう場合こそ、「ゲタを履かせる」という言葉に合致すると思います。

 女子の受験生を減点していたことが、すぐさま「ゲタを男子全員にはかせていた」ということになるのでしょうか。表裏一体であることは間違いありませんが、もしかしたら、「(男子の靴はそのままにしておいて)履き物を女子全員から奪っていた」というのが正しい表現であるのかもしれません。「減点」は履き物を奪うことではありませんでしょうか。

 

 さて、別のことについて述べます。私たちの地域(兵庫県明石市地域)の方言では、「下駄を履かす」の他に「げす板を履かす」という言い方をしました。使用頻度は「げす板を履かす」の方が多かったように思います。

 「げす板」というのは、鉄製の風呂釜の内側の底に沈めて、火傷をしないようにするための木の板のことです。薪を燃やして釜の下からあたためますから、風呂釜の底は熱くなっています。

 このような風呂釜は姿を消しましたから、「げす板」が何であるのか知らない人たちも増えました。当然のことですが、「げす板を履かす」という言葉の意味もわからなくなってしまいます。

 例えば、土産物のお菓子の箱が上げ底になっていたら「げす板を履かせて、箱を大きく見せている」ということになります。「下駄を履かす」の使い方も同じです。

 

 もとの話に戻ります。「天声人語の表現は、完全に正しいのでしょうか。」と書きましたが、さすがに天声人語の筆者は巧いものです。「ゲタを履かす」には、上げ底にするにせよ、全員に加点するにせよ、目に見える実態があります。

 大学医学部の入試では女子に減点をしているのですが、それを「見えないゲタ」を男子にはかせていたと書いています。「見えないゲタをはかせていた」と言われると、誤った言い方だと指摘できなくなってしまいます。

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2018年12月 1日 (土)

言葉の移りゆき(224)

「遺産」「負の遺産」の横行

 

 この連載の(218)回と関連した話題です。オリンピックが「レガシー(遺産)」なら、万国博覧会は「遺産」「負の遺産」です。開催する前から「遺産」を乱用していることにおいては、まったく同じです。

 

 約半世紀ぶりに気運が高まった大阪万博。2014年に当時大阪市長だった橋本徹氏と松井一郎・大阪府知事が大阪維新の会の政策として掲げ、議論に火が付いた。安倍政権が全面支援に転じると、地元は「負の遺産」となっていた大阪市湾岸部の人工島の活性化策と重ねた。 …(中略)

 08年五輪の開催地に立候補した際に、夢洲を選手村として使う計画も立てたが、誘致自体に失敗した。こうした経緯から、「負の遺産」と言われてきた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181124日・朝刊、13版、3ページ、宮崎勇作)

 

 会期が終わって残るのはモニュメントではなく、会期中につながった人と人の知のネットワーク……。これまでの万博とはまったく違う「遺産」を、次の世代に引き継ぐことができるかどうか。そこに挑戦することに、日本開催の意味がある。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181124日・夕刊、3版、9ページ、多賀谷克彦)

 

 前の記事は大阪開催決定前の記事であり、後ろの記事は決定後の記事です。

 それにしても、開催はまだまだ先です。「遺産」というのは、何かがあってあとに残るものです。実施していない前から「遺産」という言葉を使うべきではないでしょう。実施しても、それが「遺産」に値するものになるかどうかすら、わからないのです。

 「遺産」だの「レガシー(遺産)」だのという言葉を軽々しく口にする人は、「遺産」の意味をきちんととらえていないのでしょう。あとに残れば、何でも遺産だという程度の理解でしょう。

 「遺産」というのは難しい言葉ではありません。けれども、この言葉は、前代の人々の業績や文化財を表す言葉であることを忘れてはいけません。何かが終わってあとに残るものがすべて「遺産」だというわけではありません。終わってから、時間の流れの中で評価されて、業績として認められるものが「遺産」です。上の記事のうち、後ろの記事の表現に沿えば、万博の結果を〈次の世代に引き継ぐこと〉をして、はじめて「遺産」として認められるかどうかが決まるのです。

 いま使われている「遺産」は、ほとんどすべて比喩的表現に過ぎません。まして「負の遺産」などという、矛盾きわまりない言葉も横行しているのです。「遺産」はプラス評価されたものにだけ使える言葉、マイナス評価をされたものには使えない言葉です。政治家が言葉を壊す役割を果たしているのかもしれませんが、新聞がその尻馬に乗る必要はありません。

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