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2019年1月17日 (木)

言葉の移りゆき(271)

威張るな、「である。」

 

 文体には、「です、ます体」があり、「だ体」があり、「である体」があります。文末の表現形式のことです。

 例えば、次の文章を読んでみてほしいと思います。

 

 背筋が伸びて、表情もきりりと締まる。そんな佇まいを表現するのに稟という字をよく使う。辞書を引いていて、この語に「寒気の厳しいさま」の意味もあることを知った

 りりしさと凍りつくような冷たさと。今の季節に両方を感じていたのだろう。高村光太郎である。〈新年が冬来るのはいい〉。その名も「冬」と題する詩は冒頭からそう言い切る

 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月11日・夕刊、3版、1ページ、「よみうり寸評」)

 

 文末は、「締まる」、「使う」、「知った」……と、リズミカルな文章です。ところが、唐突に「高村光太郎である」という文が現れます。リズムはぶち切られて、読者はとまどいます。エラい人が訓示を垂れているような雰囲気に包まれます。

 文末が用言や助詞・助動詞などで歯切れよく続いている中に突然のように現れる「である。」は異様です。

 他の例を挙げましょう。

 

 〈震度七眠れぬ夜を車上泊闇にヘリ音波打つ大地〉。1月に刊行された『震災万葉集』である。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月14日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 さて彼には、そんな風景が目に入っていたかどうか。刑務所から逃げ出し、しまなみ海道を車で北上、向島に潜伏していた平尾龍磨容疑者である。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月2日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

「我輩は猫である。名前はまだ無い。」というのは「である体」の文です。けれども、ここに挙げた文は、明らかにそれとは異なっています。

 新聞記者が書いた文章には、体言止めやら、舌足らずの表現やらが多いのですが、ある箇所で唐突に「である。」が出現するのです。

 訓示を垂れているような言い方、知識を誇示しているような言い方です。不思議なことに、新聞のコラムに多く現れます。一定の地位を得た人の書く文体なのかなぁ、と勘繰りたくもなります。

 朗読をしてみればわかるでしょう。この部分に来ると、文章に違和感が生じます。朗読に耐えられる文章ではありません。

 このような表現を、筆者は一種の倒置法だと考えている場合もあるのかも知れませんが、どちらかと言うと、肝腎な言葉を後ろに持ってこようとする〈じらし〉表現と言うのが当たっているような気がします。そして、何よりも、このような表現には品位が欠如しています。

 

【追記】

 私は、このブログの連載で、新聞の言葉の使い方などを中心に、気づいたことを書いています。朝日新聞が多くなっているのは、60年以上にわたっての購読者であるからです。他の新聞は、駅売りなどを随時、買い求めています。

 朝日新聞からは、これまで、「ことばのたまゆら」の筆者をはじめ、何人かの人から反応の返事があり、「ことばのたまゆら」の文章が訂正されたこともありました。

 「天声人語」の表現に関しては、何度も書きました。けれども天声人語の筆者のようなエラい人からは何の反応もありません。自己の文章に矜持を持っている人には当然のことなのでしょう。(もちろん、皮肉です。)

 私は高等学校の国語教育の場で、NIEなどという言葉が生まれるずっと前から、朝日新聞を中心にして、記事を教材に使ってきました。けれども、しだいにそれをためらうようになったのは、新聞の文章の質の低下が理由です。

 「天声人語」の文章については、私は、兵庫県高等学校教育研究会国語部会()『自己を開く表現指導』(右文書院、1995年5月20日発行)168ページで、功罪両面のことに触れて書いております。

 天声人語の筆者は変遷していますが、教室で扱う価値がしだいに(あるいは、急速に)薄らいできたと思っています。天声人語だけでなくすべての記事についても言えることです。(ただし、社外の人の署名入りの文章は同一視しようとは思っておりません。)

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