« 2018年12月 | トップページ | 2019年2月 »

2019年1月31日 (木)

言葉の移りゆき(285)

接尾語「的」の用法

 

 「的」という接尾語は、例えば『三省堂国語辞典・第5版』では、次のように説明されています。この説明に異論はありません。

 

 ①…についての。…の。「哲学-」

 ②…のような。「家庭-」

 ③…の状態にある。「合法-」

 ④…らしい。「貴族-」

 ⑤…にかなう。「論理-」

 ⑥…の性質をもつ。「悲劇-」

 

 ところで、次のような表現に出会うと、「的」には新しい語釈が必要ではないかと思ってしまいます。

 

 大阪は、ほんとうに大阪的か?

 「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた

 「やっぱり東京人の偏見だったんや!」溜飲を下げる大阪人続出!

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月5日・朝刊、13版、3ページ、幻冬舎の広告)

 

 幾つものフレーズが羅列されている広告(新書『大阪的』のPR)から、任意に抜き出しました。

 気になるのは「大阪は、ほんとうに大阪的か?」という表現です。大阪はまぎれもなく大阪ですから、大阪的か否かと問いかけること自体がおかしなことです。

 いくつかのフレーズを眺めていると、「大阪は、ほんとうに大阪的か?」という表現は、〈大阪はこんな町だというイメージが作られた。(それは東京人などの偏見によって作られたのであるが、)その大阪に被せられたイメージは、本当に大阪の町のまぎれもない姿であるか」という意味であるように思われてきます。

 仮にそのように解釈すると、接尾語「的」の働きは、前記の辞典の説明の④に近いのですが、それにピッタリするわけではありません。「貴族的」というのは、「貴族」というしっかりとしたイメージがあり、それに近いということです。

 「大阪的」の用法はそれとは異なります。大阪の町に対して、意図的に作られたイメージがあって、本物の大阪がそのイメージ通りである場合が、「大阪的」という言葉にあてはまると考えているのです。

 勝手に作り上げたイメージに当てはまるものを「〇〇的だ」と言い、当てはまらないものに向かって「それは〇〇的でない」などと言う表現がこれから増えていくような気がしないでもありません。

 

|

2019年1月30日 (水)

言葉の移りゆき(284)

「福袋」の、福とは、袋とは

 

 正月になると、「福袋」という言葉をよく目にします。私は福袋を買ったことはありませんが、『三省堂国語辞典・第5版』によると、福袋とは「①幸福を持ってくるふくろ。②正月などに、いろいろの品物をふくろにつめて安く売り出すもの。」です。

 福袋について、こんな文章を読みました。

 

 中身は買ってのお楽しみ。それが福袋かと思っていたが、近頃はどうも趣が違う。初売りのお店をのぞくと、衣類でも雑貨でも内容が表示されたものが目立つ。透明のビニール製の福袋もあった。わくわく感は減りつつあるか

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月3日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 福袋は、中身を見せないで売って、わくわく感をかもし出すものではなくなったというのです。わくわくしながら中を開けてみると、期待していたのよりも大きな喜びを人々にもたらす「福」が、本来の「福袋」なのでしょう。

 現実の福袋の「福」は、バーゲンとして安く手に入れるというような意味に変化してきているのです。

 ところで、最近は高価なものや、手に持てないものも福袋になっているようです。こんな記事がありました。

 

 新幹線で実際に使われた座席やテーブル、行き先字幕、懐中時計などの鉄道用品が入った「福袋」を、初めてJR東海が発売した。ファンにとってはお宝ばかり。6日まで申し込みを受け付け、応募多数で抽選する。

 福袋は、700系の運転台椅子入り「なりきり運転士福袋」(限定2袋、10万円)、グリーン車座席や改札鋏などの「なりきり車掌福袋」(5袋、10万円)、乗務員用の黒カバンに詰め込んだ「こだわり鉄道グッズ福袋」(10袋、5万円)など。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月4日・夕刊、3版、8ページ、波多野大介)

 

 座席やテーブルが袋の中に入っているはずはありません。入っているのは目録か引換券のようなものなのでしょう。あるいは、もともと、袋などは準備していないのかもしれません。

 福袋の「袋」は、セットというような意味に変化してきているのです。

 福袋は正月の風物詩ですが、福袋の「福」も、「袋」も、本来の意味を離れてきているのです。言葉の現実の姿を反映させる国語辞典が今後、「福袋」をどのように定義するのか、興味がつのります。

|

2019年1月29日 (火)

言葉の移りゆき(283)

自己中心の世相を反映した「ばえる」

 

 この連載の(266)回で、新しい言葉「ばえる」のことを書きました。その続きです。

 元日の広告に次のような文章がありました。

 

 2018年に広まり、日本語として定着しそうなことばを読者の皆様から募り、辞書を編む人が選定しました。ベスト10のことばには、次の改訂で採用されるかもしれないという想定のもと、四つの国語辞典の各編者がそれぞれの辞書のスタイルで語釈を執筆しました。四種の国語辞典による説明の違いをお楽しみください。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、13版、4ページ、三省堂の広告)

 

 そこに掲載されている「ばえる(映える)」の説明には、用例や補説も示されていますが、ここでは、意味の説明にあたる部分だけを引用します。

 

 『新明解国語辞典』  〔SNSの「インスタ映え」の「映え」を動詞化したもの〕写真や映像などが、ひときわ引き立って良く(おしゃれに)見える。

 『三省堂国語辞典』  〔写真などが〈SNSで/SNSに投稿したくなるほど〉〕きれいで目立つ。はえる。

 『三省堂現代新国語辞典』  見ると、驚いたり感じ入ったりしてしまいそうな、まわりから浮き立つよい雰囲気をかもし出している。

 『大辞林』  〔「はえる()」の濁音化。「インスタ映えする」の意〕景色・場面・人物・料理等が、思わず人に見せたくなるほど印象的に見える。

 

 これら4つの辞典の語釈に異議をとなえるつもりはありません。けれども、「ばえる」を生んだ世相をそのまま受け入れたくはありません。

 「映える」という言葉を、『新明解国語辞典・第4版』は、「①光を受けて輝く。②よく調和する。③りっぱで、引き立って見える。」と説明しています。

 『三省堂国語辞典・第5版』は、「光を受けて、かがやく。」「①りっぱに感じられる。引き立つ。②〔「はえない」の形で〕身なりなどが、りっぱに見えない。」と説明しています。(この辞典は見出しが2項目に分かれています。)

 「輝く」「立派だ」「引き立つ」というのをキーワードにすると、広告記事の「ばえる」の語釈はそれらを満たした説明になっています。

 けれども、「映()える」にあって「ばえる」には無いことがあります。それは、『新明解国語辞典・第4版』にある、「よく調和する」という語釈です。この辞典に書かれているからという理由だけではなく、私たちは、「映える」の意味を、周りと調和した上での状態だと捉えているはずです。

 「ばえる」という言葉が世相を映し出しているとすれば、それは、引き立ったり目立ったりして、周りから浮き立っている(浮き上がってしまっている)ということを強調している点にあると思います。「映()える」にそなわっていた、〈周りと調和しながら、引き立った姿を見せている〉ということが欠落しているのです。自分だけ目立つことに価値があるという考えが、強く出てしまっているのが「ばえる」であると思うのです。

|

2019年1月28日 (月)

言葉の移りゆき(282)

見出しの言葉には何の規制もない

 

 新聞社には用語用字辞典のようなものがあって、それに基づいて記事が書かれているはずです。

 例えば、使ってよい外来語や、使うことを避けたい外来語についての区分もあるだろうと思います。記者は言葉に細心の注意をはらいながら記事を書いているはずです。

 ところで、1ページの半分以上のスペースを占める連載記事の見出しは次のようになっていました。見出しはその記事の内容を端的に示す言葉で、記事の内容が予想できるような言葉のはずです。

 

 コスパ良く 確実に感動したい / ライブ・演劇「正しい見方」確認■「己の眼」本来はそれぞれ

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月7日・朝刊、13版、31ページ、「感情振動 ココロの行方⑤」、増田愛子・伊藤恵里奈、見出しの言葉)

 

 記者が細心の注意をはらっても、見出しを付ける立場の人には何の規制も行われていないようです。記事は書き言葉で書かれても、見出しは俗語や流行語などを含めて、話し言葉のくだけたものになっています。記事はきちんとした日本語で書かれても、見出しは外来語やカタカナ日本語に置き換えられてしまいます。見出しの無軌道ぶりについてはこれまでも、このブログで指摘してきました。

 はっきり言って、上記の記事は、まったく理解できない見出しがついています。見出しの言葉がバラバラで、記事の内容を予想できません。見出しは記者自身の責任ではありません。

 「コスパ」というのがコストパフォーマンスの略であるのだろうということに気付くまではしばらく時間がかかりました。「コスパ」は話し言葉に使われているかもしれませんが、新聞は書き言葉の文章だということを、整理記者は忘れてしまっています。

 本文中には、コスパという言葉も、コストパフォーマンスという言葉も使われていません。「費用対効果」「コスト意識」という言葉がそれぞれ1度だけ使われています。だったら見出しも「費用対効果」にすべきでしょう。

 実は、「費用対効果」も「コスト意識」も「正しい見方」も、取材対象とした人の談話の中の言葉です。記者自身は本文で、その言葉を使っていません。言うならば、通りすがりの言葉でしかありません。

 新聞は、中身さえ伝われば良いという姿勢に変化してしまったようです。そして、美しい日本語を守ろうとする姿勢はかなぐり捨ててしまったようです。

 そのことが、新聞の末路を暗示しているということにならないようにと、祈らざるをえません。

|

2019年1月27日 (日)

言葉の移りゆき(281)

「在野」という言葉の使い方

 

 私は今、『明石日常生活語辞典』の刊行に向けて、校正作業を続けています。50年間以上の調査・研究の集大成として、小さな活字で850ページ以上の書物を、日本語日本文学専門書出版の武蔵野書院から刊行します。

 この半世紀、調査研究に関わる費用一切はどこからの補助もありません。出版には費用分担が必要で、それは年金の1年分以上の額になるはずです。

 だから、次のような記事を読むと、身につまされるような思いになります。

 

 西郷隆盛やその家族、幕末の薩摩藩などを在野の立場で研究する。隆盛の2番目の妻の名前が一般に知られる愛加那(ルビ=あいかな)ではなく、「アリカナ」だったことを子孫が所蔵していた戸籍謄本から突き止め、昨年12月に発表した。

 京都市出身。地元の高校卒業後に設計事務所に勤めたが、大学の通信教育で教員免許を取り、小学校の現場に入った。だが、2012年に母の看病で退職。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月9日・夕刊、3版、4ページ、「テーブルトーク」、渡義人)

 

 幕末の薩摩藩を在野で研究しているという原口良子さんの紹介記事です。在野で研究するというのは、費用の面では冷酷な立場に立たされます。

 さて、その「在野」という言葉を、国語辞典はどのように説明しているでしょうか。『三省堂国語辞典・第5版』は、次のように書いています。

 

 ①公職につかないで、民間にいること。

 ②政権をとらず、野党であること。

 

 ①には「公職」という言葉が使われています。例えば原口さんが勤めた小学校が公立であったとしたら、その在任期間には「公職」という言葉に当てはまるのでしょうか。(この研究は退職後に行われたようですが…。)

 私の場合は公立高等学校に勤務し続けましたが、前記の辞典の作成については在野でしかありません。

 「在野」の説明の中にある「公職」とは何なのでしょうか。『三省堂国語辞典・第5版』は、次のように書いています。

 

 ①公務員としての職務。

 ②国会・地方議会の議員としての職務。

 

 結局、「在野」とは、公務員でないということのようです。他の国語辞典の説明も似たり寄ったりです。

 そうすると、「在野の立場で研究する」というのは、「公務員の立場でなく研究する」ということになります。けれども、実際には、そのような意味ではないでしょう。研究者としての地位や経済的条件を保証されないで研究する、という意味でしょう。「在野」の説明が不十分であると思います。

 一方、出版社という企業で国語辞典の編集に携わっている方々は、公務員ではありませんが、日本語研究者としての立場が保証され、研究に必要な費用は自己負担ではないはずです。国語辞典編集者のことを「在野」であるとは、誰も思わないでしょう。

 新聞は、「在野で研究」という言葉を気安く使いますが、「在野」という言葉を使うときに、研究のすべてにわたって自己負担を強いられているという現実を知って、使っているのかと疑問を持ちます。新聞社という企業に勤める記者も「在野」の人間でしょうが、どの記事もふんだんな取材費を使って記事を書いていることは明白です。

|

2019年1月26日 (土)

言葉の移りゆき(280)

「未病」という言葉への違和感

 

 「未来」という言葉からは、希望を感じ取ることができます。「未熟」という言葉は、まだよく実らないとか、上達していないとかの意味ですが、実ることや上達することを期待する言葉です。「熟」は望ましい状態です。「未知」という言葉も、「知」への期待が込められています。私は「未」という文字を、そんなふうに感じ取っています。

 だから、「未」と「病」が結びついた言葉を見て、違和感を持ちました。

 

 「未病は、治すという呪縛からの解放でもあります」。本紙の暮れの特集記事で、大谷泰夫・神奈川県立保健福祉大学理事長のそんな発言が目に留まった。

 「人生100年時代の未病最前線」と題したシンポジウムを詳報したその記事によれば、健康とは言えなくてとも病気ではない状態を「未病」という。今ある不調が悪化するスピードを抑え、体の劣化と共生する方法を考える。それが大切だと大谷氏は説く。

 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月5日・夕刊、3版、2ページ、「とれんど」、棚瀬篤)

 

 ここに書かれていることには賛成です。病を治すという呪縛から解放される気持ちをもつこと、今ある不調が悪化するスピードを抑え体の劣化と共生する方法を考えること。そういうことが大切だという考えには、励まされるような思いを持ちます。

 だからこそ、そういう考え方を「未病」という言葉で表してほしくないのです。「未病」は中国で古くから使われてきている言葉のようですが、言葉としての印象は良くありません。

 「未病」という言葉は、人はいずれ病気になるが現段階では病気ではない、と言っているように感じるからです。人の命は有限であり、その死は、何らかの形で病気と関係があるということはわかります。けれども、生きていることは、病気の前段階だというような表現をしてほしくないと思うのです。

 繰り返しますが、「未病」の「病」という文字は、「来」「熟」「知」のような望ましい状態を表す言葉ではないのです。

 

|

2019年1月25日 (金)

言葉の移りゆき(279)

細かく分ける言葉、分けられない言葉

 

 雨の降り方には様々なものがあります。雨についての日本語は豊富です。小雨、大雨、にわか雨、通り雨、霧雨、小糠雨、氷雨、春雨、五月雨、時雨、遣らずの雨、……。並べあげたらキリがありません。

 細かく分けて表現するのは、そうする必要があってのことなのですが、一方で、私たちは様々の意味を込めたことを一語で表していることがあります。

 次の文章を読んで、はっとさせられました。

 

 あるとき。日本研究のため来日したイギリス人がやってきて、こんなことをいった。日本人は何かにつけて「こころ」をもちだして、いろんな文脈で使っているが、これがなかなか英語にならない。ドイツ語やフランス語のも難しい、と。英語でいうと、

 ハート/スピリット/マインド/ソウル

など、さまざまな表記がそれにあたりそうであるが、どれひとつぴったりくるものがない。ぜんぶひっくるめてもしっくりくるようにはとても思えない……。 …(中略)

 その後、私の前に姿をあらわした彼は、晴れ晴れとした顔をして旅の成果を語りだした。四国の八十八札所を勝手気ままに歩いてきて、すこしは日本人の「こころ」に近づくことができたような気がする。そこでその体験をもとに論文にまとめようと思っているのだが、いざその「こころ」を英語にしようとしたとき筆が動かなくなってしまった。思考がとまってしまったのだ。それでいたし方なく、

 ココロイズム

と表記することにした、といって、私の顔をじっとうかがっていたのである。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月5日・朝刊、be9ページ、「生老病死」、山折哲雄)

 

 雨は、降り方により、季節により、それがもたらす情緒により、あるいはもっと別の分類により、様々に言い分けることができます。

 人間の心の中のことについても、様々な視点・観点などから言い分けることができますが、それをまとめて「こころ」と言ってしまうこともあります。大きなまとまりで表現しなければならない場合があるのですが、その大まとめにした言葉を表す外国語がないというのは、わかるような気がします。

 考えてみると、日本人が考えている「あめ」という大きな枠組みを、いとも簡単に「レイン」という英語で表現することがありますが、その段階で、何かの行き違いが生じている恐れがあるかもしれません。

 言葉は万能ではありません。私たちは、自分の考えていることであっても、それをつぶさに言葉で表現することはできません。自分のことだから表現できるはずだと考えるのは思い上がりであるように思います。まして、一つの言語と他の言語との差は、とてつもなく大きいのです。

|

2019年1月24日 (木)

言葉の移りゆき(278)

新聞・放送界が使う「暦」

 

 他の地域ではどのようであるのか知りませんが、NHK大阪放送局のラジオ第1放送の場合は、2310分からはじまる5分間のローカル・ニュースの中で、「明日の暦」として、日の出、日の入り、月の出、月の入り、(月齢)、満潮、干潮の時刻を知らせています。このような時刻を「暦」と言うのかどうか、疑問に感じていました。

 冊子になった暦を見ても、一日ごとに月齢は載っていますが、その他の時刻を詳しくは掲載されていません。「暦」とはどのような項目を指すのでしょうか。

 例えば『現代国語例解辞典・第2版』で「暦」を引くと、「時の流れを、一日を単位として年、月、週などによって区切り、数えるようにした体系。また、それを記載したもの。」となっています。

 『明鏡国語辞典』は「暦」を、「一年間の月・日・曜日・祝祭日・月の満ち欠け・日の出・日の入り・干支などを日を追って記したもの。七曜表。カレンダー。」と具体的な項目が挙げられています。

 『新明解国語辞典・第4版』は、「どういう行事が有るか、また吉凶・月齢や日の出・日没・干満の時刻などを、一日を単位として日ごとに記したもの。」と説明しています。

 国語辞典は、右へ倣えということかと思いきや、「暦」の項目は個性的(あるいは、好き好き勝手)なのです。共通した項目を挙げているわけではありません。

 新聞も「暦」という言葉を使っていますが、面白いことに、記載項目は共通しています。数値は省略して、項目のみ引用します。

 

 「暦」 新暦日付、旧暦日付、日出、日入、月出、月入、月齢

 「潮」 満潮、干潮

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、「神戸」版、13版△、31ページ)

 

 「あすのこよみ」 新暦日付、旧暦日付、六輝、月齢、月出、月入、日出、日入、満潮、干潮

 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、「明石・三木」版、28ページ)

 

 「あすのこよみ」 新暦日付、旧暦日付、六輝、月齢、日出、日入、月出、月入、満潮、干潮

 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、「神戸明石」版、34ページ)

 

 「こよみ」 新暦日付、旧暦日付、六輝、月齢、日出、日入、月出、月入、満潮、干潮

 (産経新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、「神戸」版、27ページ)

 

 「潮位」 新暦日付、満潮、干潮

 (見出し無し) 月齢、日出、日入、月出、月入

 (神戸新聞、2019年1月1日・朝刊、3ページ)

 

 ラジオでは、旧暦日付や六輝(先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口)のことは言っておりませんが、それ以外の項目は新聞各社と同じです。国語辞典がバラバラの説明であるのに対して、放送・新聞は見事に一致しているのです。

 けれども、日の出、日の入り、月の出、月の入り、月齢、満潮、干潮を指して(あるいは、それに限定して)、「暦」という言葉を使うのが適切であるか、という別の問題は残っています。

 とは言え、国語辞典というものが、現実の言葉の姿を記録するということから言えば、このような項目を無視した説明では物足りないということになります。『現代国語例解辞典・第2版』について言うと、「とりわけ、日の出、日の入り、月の出、月の入り、月齢、満潮、干潮を指して使うことが多い。」というようなことを加筆する必要がありそうです。

|

2019年1月23日 (水)

言葉の移りゆき(277)

ひとりで作る「派閥」

 

 造語成分である「派」という言葉を、国語辞典はきちんと説明していないように思います。「派」の説明は、概して次のように書かれています。すなわち、主義・思想・流儀・態度などを同じくする人々の集まり、です。

 けれども、次のような表現に出会うと、この説明では納得できなくなってしまいます。

 

 「私、服屋で声かけられたくない派やねん」。大阪・ミナミのレストラン。記者が隣の席にいた若い男女のそんな声を聞いた。「私は1人で見たい派。ほっといてほしいねん」。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月18日・夕刊、3版、13ページ、高橋大作)

 

 販売店で店員が客に声をかけるのは効果的かどうかということを扱った記事の冒頭の部分です。

 何にでも「派」を付けて表現することは、実に大ざっぱな日本語表現だとは思いますが、現実には、ナントカ派という言い方、しかもナントカの部分が長ったらしくなる言い方が広がっているように思います。

 長ったらしい「派」の言い方になるということは、「服屋で声かけられたくない派」と「1人で見たい派」とは別の「派」だということです。つまり、「派」という言葉を使いながら、ひとりひとりの考え方や感じ方が違うということを主張しているのです。他と区別しようとする意識が明確に出ているように思います。

 国語辞典は、新しい言葉を追いかけるだけではなく、古くから使われている言葉の新しい用法にも力を注がなければなりません。

 このような「派」の使い方を、どのように説明すればよいのでしょうか。共通点を持った人々の集まりではなく、むしろ、共通点を持った集まりから抜け出して自己主張をするために「派」が使われ始めているのです。

 政治の世界にもひとりの派閥があるのかもしれませんが、若者たちの人間関係が希薄になるのと表裏一体の形で、言葉の上で個々の(あるいは、孤孤の)自己主張をしようとする者が増えてきているのかもしれません。

|

2019年1月22日 (火)

言葉の移りゆき(276)

何としても定着させたいと躍起になっている言葉

 

 新聞は、言葉について大きな影響力を持ちます。新聞が人々の言語生活を望ましい方向に導くこともできますし、乱れた方向へ引っ張っていくことも可能です。

 京王電鉄の子会社・京王観光が、団体旅行で実際より少ない人数分の乗車料金しかJRに払わない不正を繰り返していた問題についての記事がありました。

 

 「指のみ券」不正乗車に悪用 / 座席指定のみできる券 / 京王観光

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月18日・朝刊、13版、25ページ、見出し)

 

 座席指定のみができる「指のみ券」を使って席を確保し、他の客を排除していた。 …(中略)

 関係者によると、新幹線や特急などの指定席を使う際には、実際は購入していない座席に一般の人が乗ってきてしまう可能性があるため、「指のみ券」を発券し座席を確保していた。

 (同上の記事、贄川俊・細沢礼輝)

 

 指のみ券  新幹線や特急の座席指定だけをする券。「指定席のみ券」。おもに割引切符の座席指定を後から行う場合や、新幹線の乗り継ぎで2本目の座席を指定する際に発券する。この券だけでは実際の席を利用することはできない。

 (同上の記事、解説コラム)

 

 実に念の入った扱い方です。見出しの言葉を二重に表現して、本文で説明して、さらにコラムまで作っています。

 「指のみ券」という言葉は、業界内で通用している言葉かもしれませんが、一般の人は使っていないように思います。そんな言葉を一般の人にも理解させたい(あるいは、使わせたい)とする意図がありありと出ている記事です。どうして、そんなことに躍起になるのでしょうか。理解に苦しみます。

 「指定席のみ券」というのが普通の(あるいは、正式の)言い方のようです。6文字のうち「定席」という2文字を減らして、おかしな日本語を紹介し、見出しやコラムで念押しをしているのです。見出しは文字数が少ない方がよいことはわかっています。けれども、逆に見出しの文字数を増やしてまで、この言葉を定着させようと目論んでいるようです。

 この言葉は、本文記事ではわずか2回しか使われていません。文字数を減らして書く必要はまったくありません。

 この日の記事の見出し、本文、解説コラムは、これから後はこの言葉をどんどん使うぞという宣言であるかのように思われます。おかしな日本語を増やさないでください。

|

2019年1月21日 (月)

言葉の移りゆき(275)

豚汁と水餃子

 

 豚肉や野菜などを入れて味噌汁仕立てにしたものを「豚汁」と言います。私はそれを「ぶたじる」と言うのに慣れていましたが、牛丼屋などで「とんじる」と称していることを知りました。はたして、自分が間違っているのか、それとも新しい言い方が広がっているのか、と迷いました。

 こんな文章を読みました。

 

 ふらりと入った中華料理屋で耳を疑った。「ミズギョーザ、ください」

 声の主は年配のご婦人。スイギョーザじゃないの? 広辞苑に載っているのは「スイ」の方。だが、ネットによると「ミズ」と読む地域もあるらしい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181221日・夕刊、3版、10ページ、「葦 夕べに考える」、机美鈴)

 

 スイギョーザでもミズギョーザでも、通じればよいだろうとは思います。けれども、ちょっと別のことを考えてみました。

 熟語は、音読なら音読だけで、訓読なら訓読だけで通す必要はありません。けれども、重箱読みや湯桶読みという言葉があるように、音読・訓読取り混ぜた読み方は例外的なものだという感覚を、私たちは持っているのかもしれません。

 「ぶたじる」は訓読です。「とんじる」はあっても、「とんじゅう」という音読はありません。豚は「ぶた」と読もうと「とん」と読もうとかまわないが、豚汁の「汁」を「じゅう」と読むと、本質が変わったものになってしまうと感じるのでしょう。

 餃子は、「ギョーザ」の部分が変わらなければ、「スイ」でも「ミズ」でも本質的な違いはないということでしょう。

 さて、豚カツ(豚+cutlet)は「とんかつ」で、「ぶたかつ」とはあまり言いません。「餃子」や「カツ」のような外国語由来の言葉は、音・訓という区別をすれば、音読に分類されるのでしょう。そのような感覚で言えば「水餃子」は「スイギョーザ」であり、「豚カツ」は「トンカツ」という流れに傾斜しているのでしょう。

 広辞苑は、「音読」を、漢字を字音で読むこと、と説明しています。漢字という外国文字を取り入れたときに、中国での発音を尊重したということです。それならば、その他の外国語の言葉を取り入れて、その発音を導入すれば、それは音読に該当するといってよいのではないでしょうか。外来語と日本語とを結びつけた言葉が生まれるとき、日本語の部分は音読が多くなるのは必然のことでしょう。

|

2019年1月20日 (日)

言葉の移りゆき(274)

熟語の語順

 

 漢字が中国から導入され、現代の日本語の中でも大きな働きをしていることは、誰もが知っていることです。

 漢字には二字、三字、四字などの熟語がありますが、それらの熟語は中国の漢文の構造に準拠しています。熟語を構成している漢字は、「主語-述語」、「述語-目的語(補語)」、「修飾語-被修飾語」などの語順で構成されるのが普通です。「並列」の関係もあります。

 現在も新しい熟語が生まれていますが、基本的には語順が守られています。けれども、時には単なる語呂合わせであったり、長い名称を短くするために少ない漢字を並べるというやりかたもされています。

 四字熟語について、こんなことが書かれていました。

 

 この世は有為転変、常に激しく変化するとは言うものの、これほどの異常が続くとは。まさに「雨為天変」の豪雨や台風に襲われた。地震が大停電をもたらした北海道にとっては、疑心暗鬼ならぬ「地震暗来」。住友生命が募った創作四字熟語で1年を振り返る …(中略)

 ボランティアの尾畠春夫さんが、暗中模索に陥った迷子捜しを解決。「山中子索」のお手柄だった

 こちらは迷子ではなく逃げる方。刑務所や警察署から脱走し、東奔西走ならぬ「逃奔世騒」の男たちが相次いだ。 …(中略)

 沖縄県知事選の民意に政権が暴風を吹かせる。「疾風土投」で土砂投入が強行された。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181124日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 お遊びだからよいではないか、とも言えますが、語順が間違っているものがあります。厳密に言うと、意味が違ってしまうのです。

 「山中子索」は、山中で子が捜索したような意味になります。子を捜索するのなら「索子」の順です。

 「逃奔世騒」はこのままでは、世が騒いだという意味で、世を騒がせたのなら「騒世」の順です。〔このままでも、間違いというわけではありません。〕

 「疾風土投」の「土投」はこのままでは、土が(何かを)投げ入れたという意味ですから、「投土」の順にしなければなりません。〔ボールを投げることを「投球」と言います。〕

 文字の順を変えれば発音が変わりますから、元の四字熟語の発音から離れてしまって、面白みは半減します。けれども、日本語(漢語)の語順を無視して熟語を作ることには賛成できません。

 「地震暗来(あんき)」の「来()」だけを訓読するのも、現代の日本語の習慣から離れています。

 文脈として意味のある文字を並べていますが、発音を似たようにするために、語順を無視したり音訓の習慣を逸脱したりするのも考えものです。どちらかというと、現代的な文字配列ではなく、昔の万葉仮名のような使い方をしているとも言えます。

 もとより、このような四字熟語は人々を楽しませてくれます。ただ、応募の際や、審査の段階で、日本語の語順や音訓に留意した方が、より楽しめるものになると思うのです。

 それにしても、日本人は、年末になると、言葉や文字を話題にすることが多い人たちなのですね。

|

2019年1月19日 (土)

言葉の移りゆき(273)

「次の回」とは何か

 

 「次の回」という言葉があります。共通語にある言葉ですが、私たちの地域でも使います。

 ところで、共通語の場合、「次の回」という言葉は、単語の数で言うと、一語なのでしょうか。それとも三語なのでしょうか。そして、「次の回」という言葉は、どういう意味を持つ言葉なのでしょうか。

 私たちの地域の言葉では、「昼から」という言葉は、「昼」(名詞)+「から」(助詞)ではなく、一語の名詞です。「映画会・は・ 昼から・の・ 3時・に・ 始まる。」というように使います。「昼から」=午後です。それと同じように、「次の回」も、三語に分かれるのではなく、一語の名詞です。

 次の文章を読んで、そのあたりのことに疑問を感じました。

 

 映画館に行くと「次の回は応援上映です」と言われた。観客が歌ったり叫んだりしていいのだという。映画は、英ロックバンド・クイーンの軌跡を描いた「ボヘミアン・ラプソディ」。曲になると、歌詞がカラオケよろしく画面に現れた

 最初はみんな遠慮がちだったが、中盤からは口を開けて歌う人が増えてきた。「フレディ!」とボーカルに声援が飛ぶ。足踏み。手拍子。拍手。知っている曲が流れてくると、やはり自然と声を上げたくなる

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181124日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 コラムの文章の「次の回」というのは、いつのことなのでしょうか。映画の画面が進んで行った、ある段階のことのように思われます。曲が流れ出したときが、「次の回」にあたるようです。「回」とは、一定の事柄が継続したり反復したりして行われるときの、それを区切った一つのまとまりを表す言葉だと思います。この映画には、そのような区切りがあるのでしょうか。「次は応援上映です」というのと、「次の回は…」というのとでは、少し違うように思うのです。

 私たちの地域の言葉としては、「次の回」は、「今回」「前の回」に対応する言葉として使っているように思います。「前の回からいろんな意見が出ています。今回の寄り合いで決められなくても、次の回には結論を出さないわけにはいきません。」というように、明確に区切られた使い方です。「前の回」=前回、「次の回」=次回ですが、国語辞典には「前回」「次回」の見出しはあっても、「前の回」「次の回」の見出しはありません。共通語と地域の言葉が微妙にずれているのかもしれません。

 「次の回」という言葉は、意味・用法に関しては、地域の言葉では、一連のものであっても区切りを意識して使いますが、共通語(あるいは、「天声人語」の用法)では、少し後で状況が変化したとき、というような使い方をしているようです。

 ありふれているように思われる言葉であっても、意味・用法などの違いに気付かせられることがあるのです。

|

2019年1月18日 (金)

言葉の移りゆき(272)

「東京2020」の無秩序さ

 

 オリンピックが東京で開かれることが決まってから「東京2020」という文字に接することが多くなりました。これからは「大阪2025」という文字遣いも増えてくるのでしょうか。

 日本語には大和言葉だけでなく漢語も外来語も混在しています。この「東京2020」もいろいろ読み方をされています。自分の好きなように読んでいるのです。「東京」の部分を違えて読む人はありませんが、「2020」の部分はまちまちです。公的な立場であるか私的な立場であるかというようなことには関わりなく、勝手な読み方をしています。

 例えば、「にい・ぜろ・にい・ぜろ」と読む人もいれば、「にい・まる・にい・まる」と読む人もいます。これが大部分と言ってよいでしょう。そして、少ない人数のように思いますが、「にい・れい・にい・れい」と読む人もいます。

 「2」は、「に」または「にい(にー)」です。「0」を「ぜろ」と読むのは英語(zero)読みで、「れい」と読むのは日本語(「零」)読みです。「まる」と読むのは、文字の形を説明しているに過ぎません。「2」を「にい()」と読むのなら、「2020」は「にい・れい・にい・れい」と読まなければなりません。

 0・1・2・3…を、日本語で読めば「れい・いち・に・さん…」、英語で読めば「ゼロ・ワン・ツー・スリー…」です。「東京2020」だけでなく、「0」の読み方は、日本語全体の中でルーズになってきて、それを指摘する人は少ないのです。「まる」と読むことすら許容してしまっています。

 日本語の状況を〝乱れ〟と見るか〝変化〟と見るかで、意見が分かれることがあります。いわゆる「ら抜き言葉」や「さ入れ言葉」を〝変化〟だとする意見については、日本語の歴史の流れから考えると〝変化〟という判断もしてよいだろうと思います。けれども、日本語の読み方と外来語の読み方を混ぜ合わせるのは〝乱れ〟としか言いようがありません。

 だから、次のような記事を読むと、ほっとした気持ちになります。

 

 名前や住所から電話番号を調べてくれるNTTの104番は、平成2年から有料になった。 …(中略)

 「それ、イチ・レイ・ヨンって呼ぶんです」。元オペレーターの大和良子さん(45)は、「イチ・ゼロ・ヨン」と発音した記者の質問を遮った。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181225日・夕刊、3版、8ページ、「暮れゆく時代に③」、吉村治彦)

 

 この記事にある人のように、毅然と間違いを指摘する人は少なくなったように思います。どっちでもいいではないか、という無責任さが、日本語の乱れを加速させるのだけは避けなければならないと思います。

|

2019年1月17日 (木)

言葉の移りゆき(271)

威張るな、「である。」

 

 文体には、「です、ます体」があり、「だ体」があり、「である体」があります。文末の表現形式のことです。

 例えば、次の文章を読んでみてほしいと思います。

 

 背筋が伸びて、表情もきりりと締まる。そんな佇まいを表現するのに稟という字をよく使う。辞書を引いていて、この語に「寒気の厳しいさま」の意味もあることを知った

 りりしさと凍りつくような冷たさと。今の季節に両方を感じていたのだろう。高村光太郎である。〈新年が冬来るのはいい〉。その名も「冬」と題する詩は冒頭からそう言い切る

 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月11日・夕刊、3版、1ページ、「よみうり寸評」)

 

 文末は、「締まる」、「使う」、「知った」……と、リズミカルな文章です。ところが、唐突に「高村光太郎である」という文が現れます。リズムはぶち切られて、読者はとまどいます。エラい人が訓示を垂れているような雰囲気に包まれます。

 文末が用言や助詞・助動詞などで歯切れよく続いている中に突然のように現れる「である。」は異様です。

 他の例を挙げましょう。

 

 〈震度七眠れぬ夜を車上泊闇にヘリ音波打つ大地〉。1月に刊行された『震災万葉集』である。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月14日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 さて彼には、そんな風景が目に入っていたかどうか。刑務所から逃げ出し、しまなみ海道を車で北上、向島に潜伏していた平尾龍磨容疑者である。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年5月2日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

「我輩は猫である。名前はまだ無い。」というのは「である体」の文です。けれども、ここに挙げた文は、明らかにそれとは異なっています。

 新聞記者が書いた文章には、体言止めやら、舌足らずの表現やらが多いのですが、ある箇所で唐突に「である。」が出現するのです。

 訓示を垂れているような言い方、知識を誇示しているような言い方です。不思議なことに、新聞のコラムに多く現れます。一定の地位を得た人の書く文体なのかなぁ、と勘繰りたくもなります。

 朗読をしてみればわかるでしょう。この部分に来ると、文章に違和感が生じます。朗読に耐えられる文章ではありません。

 このような表現を、筆者は一種の倒置法だと考えている場合もあるのかも知れませんが、どちらかと言うと、肝腎な言葉を後ろに持ってこようとする〈じらし〉表現と言うのが当たっているような気がします。そして、何よりも、このような表現には品位が欠如しています。

 

【追記】

 私は、このブログの連載で、新聞の言葉の使い方などを中心に、気づいたことを書いています。朝日新聞が多くなっているのは、60年以上にわたっての購読者であるからです。他の新聞は、駅売りなどを随時、買い求めています。

 朝日新聞からは、これまで、「ことばのたまゆら」の筆者をはじめ、何人かの人から反応の返事があり、「ことばのたまゆら」の文章が訂正されたこともありました。

 「天声人語」の表現に関しては、何度も書きました。けれども天声人語の筆者のようなエラい人からは何の反応もありません。自己の文章に矜持を持っている人には当然のことなのでしょう。(もちろん、皮肉です。)

 私は高等学校の国語教育の場で、NIEなどという言葉が生まれるずっと前から、朝日新聞を中心にして、記事を教材に使ってきました。けれども、しだいにそれをためらうようになったのは、新聞の文章の質の低下が理由です。

 「天声人語」の文章については、私は、兵庫県高等学校教育研究会国語部会()『自己を開く表現指導』(右文書院、1995年5月20日発行)168ページで、功罪両面のことに触れて書いております。

 天声人語の筆者は変遷していますが、教室で扱う価値がしだいに(あるいは、急速に)薄らいできたと思っています。天声人語だけでなくすべての記事についても言えることです。(ただし、社外の人の署名入りの文章は同一視しようとは思っておりません。)

|

2019年1月16日 (水)

言葉の移りゆき(270)

「無料で振る舞う」という表現の居心地

 

 他動詞の「振る舞う」という言葉が気になっています。端的に言うと、「ふるまう」というのは無料で提供することではないかと思うのですが、世の中は、そうでもないのでしょうか。

 

 一年の無病息災を願う「七草がゆ」が7日、大阪市の阪神百貨店梅田本店で無料で振る舞われた。会場前には早朝から列ができ、300人が味わった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月8日・朝刊、13版、30ページ、「青鉛筆」)

 

 「振る舞う」という言葉に、わざわざ「無料で」という説明が必要なのでしょうか。

 他動詞の「振る舞う」を、手元の国語辞典で確かめてみます。

 

 『広辞苑・第4版』  もてなす。馳走をする。

 『岩波国語辞典・第3版』  もてなす。人にごちそうする。

 『三省堂国語辞典・第5版』  ①もてなす。ごちそうする。②(みんなに)気前よく あたえる。

 『新明解国語辞典・第4版』  来客に対して、酒・食事を出して、もてなす。

 『明鏡国語辞典』  人にごちそうする。おごる。もてなす。

 『現代国語例解辞典・第2版』  もてなす。接待する。

 

 どれを見ても、代価を取って提供するという意味は書かれていません。それが共通認識であるのならば、「無料で振る舞われた」という書き方は、同じことを2度述べていることになります。「有料で振る舞われる」こともあるのか、と言いたくなるのです。

 オリンピックの開催地が東京に決まったとき、「おもてなし」という言葉が広く使われました。あの「おもてなし」という言葉は、外国からの客に対して、旅費・宿泊費などを無料にして接待する、という意味ではなかったはずです。「おもてなし」は心遣いに重点を置いた言葉であったでしょう。

 とは言え、上記の国語辞典のすべてで使われている「もてなす」には、有料という意味が含まれているのでしょうか。そんなふうには考えられません。「振る舞う」も有料ではないはずです。

 もし、例外があるとすれば、原価1000円の料理を、有料の100円で提供したときなどは、「振る舞う」と使えそうにも思いますが…。

|

2019年1月15日 (火)

言葉の移りゆき(269)

国語辞典は「やっぱり」冷酷だった

 

 「やっぱり」という言葉を国語辞典で引いてみます。『現代国語例解辞典・第2版』は「⇒やはり(矢張)」と書いてあるだけです。『三省堂国語辞典・第5版』には、「『やはり』の気持ちを強めた言い方。」とあって、その「やはり」がどういう意味であるのかは、その項目を引き直さなければわかりません。『明鏡国語辞典』には「『やはり』のくだけた言い方。」とあって、「やはり」の意味は説明されていません。

 国語辞典は親切な書物なのですが、こういう場合には腹立たしさを感じます。「やはり」の意味を説明した上で、その意味を強めたとか、それをくだけて言ったと書くべきでしょう。どの辞典を見ても、やっぱり同じような説明の仕方をしているのです。これ以外の辞典を見ても、やっぱり同様でしょうから、引いてみる気持ちが喪失します。(「強める」と、「くだける」とは、異なった働きですが、ここではそのことに立ち入らないことにします。)

 「やっぱり」に執着するのは、次のような見出しを見たからです。

 

 限定5万枚→やっぱり5.1万枚 / 記念硬貨 造幣局が抽選作業ミス

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181128日・朝刊、13版、33ページ、見出し)

 

 記事には、「当選者5万人を抽選で決定。期限までに入金を確認できた人に今月、記念貨幣を送った。だが、1296人の入金を見落とし、キャンセルと勘違いしていたことが発覚。すでにその分を繰り上げ当選させてしまっていたため、5万人を超えてしまった。」とあります。

 記事の中に使われていない「やっぱり」を使った意図は何なのでしょうか。造幣局は「やっぱり」ミスを犯すところだ、ということでしょうか。「やっぱり(やはり)」は、前から思っていたとおりという意味がありますから、造幣局が甘く見られているということになりそうです。

 けれども、その場合は「やっぱりミス(を犯す)」と書くべきでしょう。「やっぱり5.1万枚」とは何なのでしょうか。公称5万枚であるはずがない、きっと5.1万枚は発行するはずだと新聞社が予想していたのでしょうか。主観的で、根拠のない見出しの付け方であるように思います。

 やっぱり見出しの付け方はルーズだ、と言ったら叱られるでしょうか。

|

2019年1月14日 (月)

言葉の移りゆき(268)

「コーチ」という言葉

 

 運動競技などには、監督やコーチがいます。競技を指導する中心に監督がいて、コーチはそのもとで具体的な技術を指導する人だろうと思っていました。プロ野球にはピッチングコーチやバッティングコーチなど、細分されたコーチがいます。

 次の記事を読んで、コーチは、監督とは異なる目的を持った人であるように思いました。

 

 スポーツ競技のコーチは、指導者として自ら習得した技術を選手に教えるというイメージが強い。しかし「コーチに必要なのは教えることではなく、対話によって目標や実現可能性について、本人が考える機会をつくり、気づきを与えることだ」と、コーチング専門会社コーチ・エィの研究所に勤める藤崎育子さん。

 コーチ(coach)は馬車が語源。馬車は乗っている人を目的地まで送り届けるのが役目だ。そこから、目標達成を促し支援する人をコーチと言うようになった。近年、スポーツ選手に限らず、コーチをつける経営者が増えているという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181128日・夕刊、3版、7ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 この文章は、相手に話を聞いて質問するのがコーチの役割だ、という方向に話が展開していきます。その考えは、コーチの役割の一部を強調した論であるのかもしれません。けれども、国語辞典は「コーチ」のことをどう説明しているのか、気になってきました。国語辞典の記述を列挙します。

 

 『新明解国語辞典・第4版』  ①指導すること。②(運動競技などの)指導者。監督。コーチャー。

 『三省堂国語辞典・第5版』  〔競技に出る選手やチームの〕指導をする・こと()。監督。コーチャー。

 『明鏡国語辞典』  運動競技の技術などを実地に指導・助言すること。また、その人。

 『現代国語例解辞典・第2版』  ①運動競技の技術を指導したり教えたりすること。②コーチャー。

 『岩波国語辞典・第3版』  スポーツの技術などを指導すること。また、その人。コーチャー。

 『広辞苑・第4版』  ①競技の技術などを指導し訓練すること。②コーチする人。コーチャー。

 

 すべての辞典に共通するのは「指導」という言葉です。指導する内容は、競技の技術であるようです。

 「監督」と同義であると記している辞典があるのが気になります。小さなチームでは監督もコーチも一人で兼務することがあるでしょうが、監督とコーチの両者がいる場合の区別(言葉の上での違い)は何なのでしょうか。説明がありません。

 ひとつの辞典を除いて、「コーチャー」と同義であると記していますが、これも気になります。「コーチャー」は、野球の場合では、1塁ベース、3塁ベースの横の区画にいて、走者(や打者)に指示を与える人のことを言いますが、他の競技ではコーチもコーチャーも同じものを指すようです。それでは「コーチ」「コーチャー」という2つの言葉が必要ではないということになります。

 「コーチ」という言葉は、わかったつもりで多くの人が使っていますが、国語辞典の世界では、まだよくわからない言葉(使い方・用例などがしっかり確立していない言葉)なのではないでしょうか。

|

2019年1月13日 (日)

言葉の移りゆき(267)

「ヘタウマ」の意味・用法は?

 

 世の中には、国語辞典の改訂版が出るたびに買い替えている人がどれほどあるのでしょうか。私は国語辞典は、『日本国語大辞典』から小学生向けのものまで10種以上を使っています。古語辞典や漢和辞典も同様です。したがって、よほどのことがない限り、折々に入手した辞典をそのまま使うことが多く、いちいち買い替える余裕はありません。

 その辞典に載っている・載っていないということについては古い情報に基づいているのですが、語義の説明が大幅に書き換えられることは少ないので、すこし古い版に基づいて発言していることも多いのです。

 さて、「ヘタウマ」という言葉は、私の手元にある国語辞典にはまだ載せられていません。「ヘタウマ」は、下手だ・巧いという言葉を合わせた言葉ですから、辞典を見なくても大きな誤りを犯すことにはならないでしょう。まったく下手だという意味ではなく、正真正銘に巧いという意味でもないからです。

 ところで「ヘタウマ」は、厳密に言えばどういう意味なのでしょうか。私が推測したことを申します。ひとつは、全体的には下手なのであるが、それでも人々を惹きつけるような巧さも隠されている、ということです。もうひとつは、巧い作品を作る人であるが、その中に意図的に下手な部分を加えている、ということです。それ以外の解釈もできるかもしれません。私はそのうち、前者の意味だろうと思っていました。

 次のような文章がありました。

 

 徳川幕府の礎を築いた3代将軍家光の水墨画2点の実物が来年3月、東京・府中市美術館の「へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで」展で初めて公開される。家光の作品はこれまで10点弱しか見つかっていないが、いずれも素朴な画風だといい、金子信久学芸員は「意図して下手に描いたのかはわからないが、これが家光のスタイルだった」と話す。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181220日・夕刊、3版、12ページ、森本未紀)

 

 この記事の見出しは「家光の絵 ヘタウマだった?! 3月初公開」となっています。見出しの「ヘタウマ」は、記事の言葉の「意図して下手に描いた」にあたるのでしょう。どんな国語辞典の最新版が「ヘタウマ」を見出しに採用しているのか、またその意味を「意図して下手に描くこと」としているかどうかを、確かめてみたいと思います。

 それにしても、この言葉を府中市美術館が展覧会のタイトルに使うということは、既に浸透している言葉であると判断したのでしょう。「ヘタウマ」は、いささか「へそまがり」の範疇に含まれるということなのでしょう。

 「ヘタウマ」がどのような分野で使われるのかということにも、私は興味を持ちます。美術(絵画・彫刻など)や書道に対してこの言葉が使われても違和感はありませんが、文章(散文や韻文)に対しても使うのでしょうか。音楽作品に対しても使うのでしょうか。演劇やスポーツなどのように体を使って表現するものにも使うのでしょうか。興味は広がっていきます。

|

2019年1月12日 (土)

言葉の移りゆき(266)

「ばえる」の欠落感

 

 年末になると「今年の〇〇」というような企画が発表されます。言葉や文字に関するものもいくつかありますが、一過性の感じがしてそのうち忘れられてしまうでしょう。言葉の場合は、人々の共感を得られないものは、文字どおり「今年の」ものに過ぎないと思います。数年経っても命脈を保つのは少ないはずです。

 こんな記事を読みました。

 

 「今年の新語2018」(三省堂)の大賞は「ばえる(映える)」だった。ここでいう新語とは、今後も多くの人に使われ、辞書に載せる候補になるだろうと判断したものを指すのだと言う。そのため「辞書を編む人が選ぶ」というサブタイトルもついている。定着するかどうかわからない流行語とは一線を画す位置づけとなっている。

 「ばえる」の語釈の一つに「SNSのインスタ映えの『映え』を動詞化したもの。写真や映像などが、ひときわ引き立って良く(おしゃれに)見える」とあり、「おもにSNSで写真を投稿し合う人たちの間で用いられる語」といった注釈もつく。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181219日・夕刊、3版、5ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 「辞書を編む人が選ぶ」というサブタイトルがついているのですから、よほどの自信があるのでしょう。けれども、「ばえる」は国語辞典に載るほど定着する言葉なのでしょうか。そんなふうには思えません。

 「ばえ」の付く言葉は、インスタ映え、夕映え、出来映え、見映え、などがありますが、いずれも複合的な言葉の後ろ半分です。「は()えある優勝」などと言うことはありますが、「はえ」が名詞として使われることは少ないのです。

 連濁によって「ばえ」となった言葉を動詞にして「ばえる」と言うのは、何とも不安定な言葉です。よちよち歩きの言葉です。

 「映える」という言葉はしっかりとした安定感のある言葉です。それに対して、「ばえる」は複合的な動詞の後ろ半分だという感じは否めません。前にある言葉が欠落しているのです。その不安定感が、この言葉の致命的な欠陥だと思います。

 濁音で始まる動詞であっても「だま()す」「ばれる」などには欠落感はありません。「ばえる」がそれらの言葉と肩を並べる力を持つはずはありません。

 「ばえる」。それは新語・流行語としてしばらくは使われるでしょう。記事にあるように、「おもにSNSで写真を投稿し合う人たちの間で用いられる語」であって、仲間内の言葉に過ぎません。一年経って、今年の歳末に「ばえる」がどのような運命になっているか、それをぜひ記事に書いてほしいと思います。

|

2019年1月11日 (金)

言葉の移りゆき(265)

「まるでケーキ」なサンド

 

 「綺麗な」とか「元気な」とか言う場合の「な」は、形容動詞の活用語尾(連体形)です。「綺麗」という名詞はありませんが、「元気」は名詞としても使えます。「まるで元気がない」というように言うことができます。

 その「まるで元気がない」という表現について考えます。「まるで」は副詞です。副詞ですから、「元気」という体言(名詞)を修飾しているのではありません。語順を変えて「元気がまるでない」という表現も可能であることからわかるように、「ない」という用言(この場合は形容詞)にかかっていくのです。

 「まるで」という言葉は、後ろに伴う「…のようだ」とか「…みたいだ」とかの言葉と呼応することもあります。

 さて、ここからが本題です。次のような記事がありました。

 

 代表作は、生クリームで飾ったデコレーションケーキのような「ハムとチーズのケーキイッチ」だ。バラのように巻かれた生ハムと青々としたベビーリーフが華やか。パンの間にハムとチーズが挟まり、切り分けると、サンドイッチらしい断面が現れる。「ショートケーキのイメージがイメージが裏切られるので、一番衝撃的かも」と唯根さん。

 (読売新聞・大阪本社発行、20181212日・夕刊、3版、4ページ、「いま風」、斉藤保)

 

 唯根さんが工夫をした創作料理の説明ですから、すぐさまその姿を想像できないかもしれませんが、紙面には写真が載っています。

 文章の筆者とは関係の部署で作られたのかもしれませんが、この記事の見出しは、次のようになっています。

 

 「まるでケーキ」なサンド

 

 カギカッコの外に置かれた「な」は、いったい何なのでしょうか。カギカッコ内で表現がいったん完結しているのなら、「まるで」という副詞は、「ケーキ」という体言(名詞)を修飾していることになり、破格です。

 「まるでケーキ」という部分を形容動詞の語幹と考えると(これも破格ですが)、「まるでケーキな」の「な」はカギカッコ内になければなりません。「まるでケーキな」という修飾語が「サンド」にかかっていく構造なのでしょう。それにしても不思議な日本語です。

 話を複雑にする必要はないのかもしれません。「まるでケーキのようなサンドイッチ」と言いたいのでしょう。見出しの字数の制約によって、おかしな日本語を作り上げることになったのでしょう。

 本文に問題が無くても、見出しが日本語を混乱させる働きをしてしまっていると言わなければなりません。字数制限があるからということが理由であっても、おかしな日本語表現が許されるはずはありません。

|

2019年1月10日 (木)

言葉の移りゆき(264)

名前なのか、説明なのか

 

 例えば、店頭で、「生産者の姿が見える産地直送、無農薬にこだわった、旬の季節限定、とれたて新鮮完熟トマト」という名称のものが並んでいたら、買おうという気持ちになるでしょうか。ぶっきらぼうに「トマト」と書かれたものが横に並んでいたとしたら、どちらを買おうと思うでしょうか。

 言葉には、素直に受け取れるものと、疑ってかかるのがよいものと、2種類があります。あまり言葉が過ぎると、眉に唾をつけたくなるものです。

 人間には、美辞麗句とわかっていても、それに操られてしまう心理があります。だから、売る側も言葉を飾ろうとするのでしょう。

 ところで、長ったらしい商品名は、それが全体として名前であるのでしょうか。それとも説明(修飾語)なのでしょうか。きちんと区別はつけにくいように思います。

 こんな文章を読みました。

 

 食べ物の名前が長くなったなあ。

 と、コンビニの棚の前で思う。「なんとかにこだわった」「どこそこ産の」「なにダシ仕立ての」「一日分の野菜が取れる」「まるごと」「もちもち」「行列ができる」。多種多様な(と言いつつパターン化した)修飾語が、複数組み合わさってラベルに並んでいる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181015日・夕刊、3版、5 ページ、「季節の地図」、柴崎友香)

 

 食べ物だけではありません。本の名前にも同じような傾向が見られます。元日のいくつかの新聞は、1ページの下に書籍広告が並んでいます。『子どもには聞かせられない 動物のひみつ』『東大教授がおしえる やばい日本史』などという書名の広告があります。興味を引きつけたり権威付けをしたりするところは、食べ物の広告と変わるところがありません。

 

|

2019年1月 9日 (水)

言葉の移りゆき(263)

「休工中」と「解除中」の違い

 

 もとの話題に返ります。「休工」という言葉です。連載の中で、私は次のように述べています。

 

 関西で一般に見かけるのは「解除中」という言葉ですから、関東で初めて「休工中」というのを見たときには、珍しい言葉に接したという思いがしました。

 私にとって、「解除中」は見慣れた言葉であるから写真に撮る必要はなかったのですが、「休工中」を見たときには、その都度カメラを向けました。しかし、関東圏では「休工中」というのがごく自然な表現のようで、この言葉に出会うたびに珍しがる必要もないということが、次第にわかってきました。「休工中」の例を、東京都、横浜市、鎌倉市、平塚市、神奈川県箱根町の写真で紹介します。

 静岡県富士市では「現在規制なし」という表示を見ました。工事によって「片側交互通行」になっているようです。「工事中」という言葉には「休工中」が対応しますが、「片側交互通行(の規制)」という言葉には「休工中」がそぐわないという気持ちから、「規制なし」という言葉が選ばれたのでしょう。

 ホームページで、同じ業者が、「解除中」と「休工中」の両方のマグネット・ステッカーを販売しているのを見かけました。関東と関西では、どちらを注文するのかということが対照的になっているのかもしれません。

 (東京法令出版『月刊国語教育・368号』、201011月1日発行、8283ページ、「文字に書かれた言葉の地域差⑭」、橘幸男)

 

 工事中に対して「休工中」というのは、現在は工事をしていないという状況を伝えているだけです。交通規制が行われていないという意味に直結するわけではありません。

 「解除中」というのは、通行者に対して、工事をしていないから交通規制は解除しているということを伝えているのです。理屈を言えば、こちらの方が親切でしょう。

 関西の「解除中」と関東の「休工中」はどこで入れ替わるのでしょうか。歩いて観察したことによれば、愛知県・岐阜県あたりは2つが微妙に入り混じっていました。関西に入れば「解除中」です。

 ただし、これは、2008年~2010年頃の状況です。10年経てば、その勢力範囲にも変化が現れているかもしれません。

 方言は、主として話し言葉の世界のことです。地域による差を認識することがあります。一方、一見して全国的に差がないように見える共通語にも、地域による使い方の差があるということを認識しなければなりません。書き言葉や共通語を、東京の視点だけで見ることは正しくないということに気づかなければなりません。

|

2019年1月 8日 (火)

言葉の移りゆき(262)

東京の言葉が異例であることもある

 

 前回の続きですが、その前に、私の言葉(用例)採集のことについて書いておきます。

 『言語生活』という雑誌がありました。筑摩書房発行の月刊誌です。その雑誌に「目」「耳」「カメラの散歩」というページがあって、読者の投稿を載せていました。私はある時期、その欄への投稿を続け、掲載してしただくことが多くありました。辞書編集者の見坊豪紀さんの「ことばのくずかご」も連載されていました。そのようなご縁で、私は見坊さんと手紙のやりとりを続けていた時期があります。

 その後、私は『ひとりの雑誌・現代語』というのを作りました。「目」「耳」に向けて幾つも書き送っても各号に掲載されるのは1つか2つです。できるだけたくさん載せるために個人で作ろうと思ったのです。まだワープロが普及する前ですから、手書きで作りました。何かで知っていただいた方から連絡があったときに、お送りするということをしておりました。

 面白い言葉、興味のある言葉を見つけたときは必ず写真で撮ることを習慣にしていました。数えたことはありませんが、既に何千枚も貯まっているはずです。

 話は飛びますが、中学・高校教員向けの雑誌『月刊国語教育』(東京法令出版)に私はいくつかの連載をしました。巻頭のカラーグラビア(4ページ)10回以上にわたって連載したのは「神戸圏の文学散歩」であり、随想風に書いた「国語教育を素朴に語る」(1ページ)50回を超える連載になりました。その後に連載したのが「文字に書かれた言葉の地域差」(2ページ)15回にわたって、写真入りで書きました。

 取り上げたのは「モータープール」、「駅下り・駅筋・駅入口・駅前」、「山側・海側・浜側」、「国道」、「深夜・早朝」、「入口」、「交通弱者用押ボタン・ほか」、「東詰・西詰など」、「先発・次発・次々発」などです。「地名の短縮形」や、「地名+私鉄名の組み合わせ」なども扱いました。その中の一つに、「解除中・休工中」がありました。

 私は、学会参加・その他で1年に2回前後は東京に行っておりました。ずいぶん前から、関西と東京を比べると、文字として書き記される言葉に差があることということが気になっていました。「解除中・休工中」もその一つです。

 もう一つ、大きな違いがあると感じたのは、「入口・前」です。例えば、明石市役所の近くにバス停や交差点があるとします。関西では明石市役所前ですが、東京では〇〇区役所入口です。関西で、市役所入口と言うと、市役所の門や玄関の辺りのことです。ところが東京では、少し離れている場所が区役所入口です。

 詳しい道路地図を見ると交差点名が記されていますから、それだけを辿っても調査はできるのですが、私は歩いて、バス停名、交差点名だけでなく、広告板・その他を見てみようと思いました。

 私は歩くことが大好きですから、江戸時代の5街道を歩くことを考えていました。ある時、決断して、「文字に書かれた言葉の地域差」を観察しながら、東京・日本橋から京都・三條大橋に向かって歩き始めました。東京で見る「入口」はどの地域から関西風の「前」に変わるのか。東京で見る「休工中」はどの地域から「解除中」に変わるのかということをはじめ、いくつもの関心項目がありました。見つけしだい写真に撮って、東海道を上っていったのです。(蛇足ですが、私はその後、東海道だけでなく、中山道、日光道中、奥州街道、甲州道中をすべて、端から端まで、自分の足で歩きました。)

 関西人から見ると、東京の言葉が異例に思われることがあります。そのような言葉が日本全体の標準であるかのように考えられ、国語辞典にそのように書かれることには異存があるのです。

|

2019年1月 7日 (月)

言葉の移りゆき(261)

言葉の「東京一極集中」

 

 政治も経済も、東京への一極集中が進んでいます。それはよくないからブレーキをかけよう、という意見がないわけではありませんが、東京一極集中を享受している人が述べたのでは、本気で言っているのかどうかも疑問です。効果があろうはずがありません。

 スポーツも同じです。箱根駅伝のような関東地区の大学だけを対象にした催し物を全国に中継して、大きな行事として盛り上げるのですから、何をか言わんやです。地方分権などというのは掛け声だけのものでしょう。

 そして、言葉の世界も同じです。東京言葉がまるで日本の言葉であるかのように考えて、辞書の編集に反映されていることを知って仰天しました。

 国語辞典を作ることは大変な作業です。用例を採集し、それを辞典項目に取り上げるのですから根気のいる仕事です。けれども、それは東京という土地で、東京人の視野で行われているようにも感じられるのです。

 辞書づくりに携わっておられる方の本を読みました。例えば、こんな文章が目にとまりました。

 

 道路工事を示す看板に〈休工中〉と書いたシールが貼ってあるのも、ごくありきたりです。

 -いや、ちょっと待ってください。「休工」は、そんなにありきたりのことばでしょうか。試しに、お手持ちの国語辞典で「休工」を引いてみてください。

 私が調べた範囲では、「休工」を載せる国語辞典は、20種のうち2種しかありません。そのうち『日本国語大辞典』第2版には、〈仕事を休むこと。休業〉とあり、明治初期の用例が出ていますから、現代とは違う意味の言葉です。もう1種はわが『三国』第6版で、〈工事を休むこと。「-期間」〉という説明を入れてあります。この意味では古い用例が見当たらないことから、比較的新しく生まれた意味と考えられます。

 (飯間浩明『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』、ディスカヴァー・トゥエンティワン、20131230日発行、163ページ)

 

 「いや、ちょっと待ってください。」と言いたいのは、私のほうです。「道路工事を示す看板に〈休工中〉と書いたシールが貼ってあるのも、ごくありきたりです。」というのは、東京で長く生活をしている人の感覚です。「休工」という言葉は、一定の地域で使われている言葉に過ぎません。関西では「休工中」というシールは貼りません。工事が行われていないときは「解除中」というシールを貼って、交通規制を行わない措置をとります。

 驚いたのは、『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』という本に載せられている内容は、東京都内(と東京ディズニーランド)での用例採集に基づいて書かれていることでした。いや、驚くべきことではないかもしれません。これまでの国語辞典は東京の視点で作られていたのだということを再認識すべきなのかもしれません。

 この「休工中」については、私が2010年に書いた(すなわち、その2~3年前から用例収集を続けた)文章がありますから、次回以降にそれを紹介することにします。

|

2019年1月 6日 (日)

言葉の移りゆき(260)

「うまい」を表現する方法

 

 お正月には美味しいものが食べられるから待ち遠しいというのは、私が子どもであった頃の話です。現在は飽食の時代ですから、テレビを見ていると、晴れや褻の区別なく、美味しいものを食べ散らかしている人がいるように思います。

 美味いものを食べて「美味しい」「うまい」という言葉を発するのは、自然なことだと思います。けれども、それは日常生活での話です。

 テレビに氾濫する食べ物の番組で、毎日毎日、同じような感想の言葉を聞かされたのではたまりません。

 こんな記事がありました。

 

 土井善晴の美食探訪 ★BS朝日 夜7・00

 食べ物を口にした瞬間、芸能人が目を見開いて「ん~、うまいっ!」。そんな光景に正直、辟易する。 …(中略)

 老舗のあんこう鍋や上海蟹の姿蒸し、手間ひまかけたビーフカレー。垂涎の料理を出されても、土井は「不機嫌なのか?」と思うくらい静か。しかし「フフ……」と頬が緩む。はしのえみが必要以上に出過ぎないのが、落ち着いた雰囲気に一役買っている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月9日・朝刊、13版、20ページ、「試写室」、山本悠理)

 

 テレビの場合、食べ物は目の前に映し出されています。例外はあるにしろ、たいていは美味いものを紹介しようとしています。「うまい」という言葉が発せられるのは当然です。テレビには、それを「うまい」という言葉以外でどう表現するかが試されているのです。出演者だけではありません。「うまい」という言葉で満足してしまうような制作者も落第です。

 「うーん」とか「うまい」しか言わない人間は、言葉を失っているとしか思えません。目の前に映像があっても、それだけでは伝えられないことがたくさんあるはずです。それを伝える努力が必要です。伝える義務が、出演者や制作者にあるのです。伝える方法は、言葉、表情、しぐさ、その他いろいろです。それが工夫されている番組、それを伝えることができる出演者でなければなりません。

 私は、人前でものを食べるシーンに出演する人間の心理はよくわかりませんが、そのような番組ばかりに出演している人をよく見ます。料理の説明などは抜きにして、食べるだけが仕事という人がいます。そのようなとき、単に「うまい」という一語や、洒落言葉だけで済ませてしまうと、続きを見る意欲が減退します。この新聞記事で紹介されているテレビ番組は、お見事!と言いたくなる番組のようです。

 一方、同じような内容をラジオで伝える場合は、目の前に映像がありません。その食べ物がどのようなものであるかという説明に基づいて、聴取者は想像を働かせることになります。食べ物の説明をしないで、むしゃむしゃ食うだけを仕事にしているラジオ出演者は、見当たらないと思います。ちゃんと言葉で伝える努力をしているのですから、説明を尽くした後に一言「うまい」があっても気にはなりません。

 

 ところで、テレビ番組を紹介する記事にも同じことが言えます。筆者自身が勝手に興奮したり、キャッチフレーズだけを振りかざして書いたりした記事は、「ん~、うまいっ!」の一言と同類です。それに比べて、この「試写室」の筆者は、番組の内容や雰囲気をきちんと伝えてくれています。(引用したのは記事の一部です。)

 私はこの番組を見たわけではありませんが、この記事で、画面が想像できるように思います。AIに書かせたら、このような記事は生まれません。

|

2019年1月 5日 (土)

言葉の移りゆき(259)

「亥」と「猪」の関係

 

 2019年は「亥」の年です。「亥」という文字が書かれた年賀状をいただきましたが、干支のイノシシのイラストなどが書かれた年賀状もたくさんいただきました。亥は十二支の十二番目で、動物では「猪(イノシシ)」にあたります。けれども、亥イコール猪、というわけではありません。

 毎年、干支の縁起物のことが話題になります。例えば、次のような記事があります。

 

 大阪府和泉市の地場産業で、縁起物の干支のガラス細工に今年はピンクのブタが仲間入りした。高さ約3・5センチで、一つ税込み4860円。親子もある。

 日本では「亥」はイノシシのことだが、中国ではブタを指す。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、13版、38 ページ)

 

 亥は、文化の違いなどによって、イノシシになったりブタになったりするのです。ということは、「今年の干支は、猪」と断言しにくいのです。新聞社は、干支に関する表現に気を使っているようです。

 こんな文章があります。

 

 縁起がよいとされる「えとの置物」。2017年は「酉年」で、 …(中略)… 秋から暮れにかけて、動物の置物づくりが話題になります。同時に、校閲記者の直しの手も忙しくなります。

  × 2017年のえと「酉」の置物

  〇 2017年のえと「酉」にちなんだ置物

 なぜ「にちなんだ」と直すのでしょう。

 現代の生活でえとといえば「今年のえとはとり年、来年はいぬ年」というように十二支を指し、動物を思い浮かべることが多いと思います。しかし、もともと動物とは関係ありませんでした。

 (毎日新聞校閲グループ『校閲記者の目』、毎日新聞出版、2017年9月5日発行、111112ページ)

 

 十二支を覚えやすいように、子=ネズミ、丑=ウシ、…… 戌=イヌ、亥=イノシシ、というように当てられたのです。だから、「干支のイノシシの置物」という言い方を、新聞社の校閲記者は見逃さないで朱筆を入れることになります。

 私のもらった年賀状も、「今年の干支にちなんだイノシシ」がたくさん書かれていたと表現するのが望ましいというわけです。

|

2019年1月 4日 (金)

言葉の移りゆき(258)

「会社への取材でわかる」という表現の不思議

 

 お持ち帰り(テイクアウト)でなく、商品を手にするには宅配という方法もあるのですが、お正月早々に、注文していたお節料理を食べられなかった人がいます。元日の新聞記事が伝えています。(テレビは、31日に報道していました。)

 

 物流大手のヤマト運輸(東京)がおせち料理を運搬する際、本来冷凍だったのに冷蔵で運んだため、計1268個を北海道内の顧客に届けられなくなったことが31日、同社などへの取材で分かった。

 (神戸新聞、2019年1月1日・朝刊、15版、30ページ)

 

 ヤマト運輸(東京)がおせち料理を運搬する際、本来冷凍だったのに冷蔵で運んだため、計1268個を北海道内の顧客に届けられなくなったことが31日、同社などへの取材で分かった。

 (産経新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、14版、31ページ)

 

 宅配便大手「ヤマト運輸」(東京都)が要冷凍のおせち料理を誤って冷蔵設定のトラックで運んだため、計1268個が北海道内の顧客に届けられなくなったことが31日、同社などへの取材で分かった。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、13版、31ページ、石井尚)

 

 ヤマト運輸が関東から北海道に冷凍おせち料理を運送する際、誤って「冷蔵」として運ぶミスで鮮度が落ち、1268個分の配達を中止していたことが31日、わかった。

 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、13S、38ページ)

 

 ニュースの書き方で不思議に思うことがあります。「計1268個を北海道内の顧客に届けられないという事態になった。」という書き方が、ニュースでよく見る書き方です。ところが、このニュースに関しては、4紙がすべて「31日、分かった。」と書いています。(朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊には、このニュースが載っていませんでした。)

 どうして「31日」という日付を明確に示して、「分かった。」と書くのでしょうか。「会社が発表した」と書いてあるわけでもないのに、どうして「分かる」のでしょうか。しかも各紙が同じ表現をとっています。ニュース記事の不思議です。

 さらに、読売新聞以外は、「同社などへの取材で」と書いています。毎日新聞には記者の名が書かれています。神戸新聞と産経新聞は、共同通信の配信記事であろうと推測するのですが、ある日、突然、新聞社や通信社が同時に「同社など」に対して取材するというのは、何となく不自然です。

 前年の大晦日のことを新年の記事にしたから「31日」と書いたわけではないと思います。新聞には「15日、分かった。」などという書き方を見かけることがあるからです。もしかしたら、テレビ(や一部の新聞など)に先を越されて、報道されてしまったから、やむを得ず、このような表現になったのかもしれません。

 それにしても、このような、口裏を合わせたような表現をするのは不思議です。報道各社が独自に取材したように装うのも不思議です。ニュースの書き方には、暗黙の了解に基づいた書き方が存在しているようです。

|

2019年1月 3日 (木)

言葉の移りゆき(257)

お正月にも「テイクアウト」

 

 昔は正月三が日は商店などが閉じられているのが当たり前でした。神に捧げるものという性格を持つお節料理は、その期間の食べ物でもあったのです。けれども今は、食べるものがなくなったらコンビニや飲食店に駆け込むような世相になってしまいました。打算的な人間が増えれば、風習なども廃れていってしまいます。

 

 さて、食べ物を店頭で受け取るときの言葉としては、「テイクアウト」などと言うより「お持ち帰り」の方が好ましいと思います。敬意が有るのか無いのかわからない「テイクアウト」よりも「お持ち帰り」という言葉の響きが嬉しいではありませんか。

 けれども店員さんの言葉に引かれて、「お持ち帰りの弁当を3つ、ください」と言うのは少しおかしいと感じます。店員さんは客に対して使っているのですが、客自身が敬意を込めたような「お持ち帰り」を使うのは避けたいと思います。

 次のような表現も同様だと思います。

 

 幼少のころ、お気に入りの絵本があった。里山や街の風景が断面になっていて、地上と地中の動植物や建物内部の様子が、素朴なタッチで描かれている。普段は見ることができない世界に想像をかき立てられ、繰り返し眺めた。

 (毎日新聞・大阪本社発行、201812月5日・夕刊、3版、11ページ、「憂楽帳」、山下修毅)

 

 「あなたのお気に入りの本は何ですか」と尋ねるのは自然な表現ですが、その質問に引かれて「私のお気に入りは…」と答えるのはいかがでしょうか。まして、対話としての表現でない場合に、文章中に使うのは行き過ぎではないでしょうか。

 「お持ち帰り」や「お気に入り」の「お」は、「お正月」や「お酒」の「お」とは異なるはずです。前者は尊敬語であり、後者は丁寧語(美化語)です、自分が主語となる場合に、「お持ち帰りになる」や「お気に入りである」という意味を込めた「お持ち帰り」や「お気に入り」はそぐわないと思います。

 「おめかし(する)〔=お化粧(する)〕」などは、自分が主語の場合でも、丁寧語(美化語)の範疇に近いかもしれませんが、「お持ち帰り」「お気に入り」はその範疇を出ているように感じるのです。

 「お健やかに新年をお迎えのことと存じます」とか、「今年一年もどうぞお元気にお過ごしください」と書かれた年賀状が届きます。けれども、自分のことを「お健やかに」とか「お迎え」とか言うことは決してありません。それと同じことだと思うのです。

|

2019年1月 2日 (水)

言葉の移りゆき(256)

見出しの「勇み足」は依然として続く

 

 今日は新聞の休刊日です。昔は、一年のうちで1月2日だけが休刊でした。それでも、寂しい思いをしたものです。

 現在は、新聞の購読者が減っているのに関わらず、休刊日が月例行事になってしまいました。新聞配達員に月1回の休息日を与えるというのは口実であるのが明瞭です。それなら、土曜日・日曜日の新聞は駅売りに限って発行を続ければよいのです。放送の世界は年中無休ですから、新聞もできないはずはありません。新聞離れを加速させている理由の一端に、新聞社の姿勢があることは否定できません。

 

 さて、新聞の見出しが日本語を壊す役割を果たしているということを、私は何度となく指摘してきました。

 引用するのは、芸能人がまったく関わっていないのに、いかにも芸能人が推奨しているかのように思わせる宣伝広告についての記事です。

 

 「マツコも驚いた」「坂上忍も絶賛」「たけし『天才だね』」。こうしたタイトルのブログ記事で健康食品や化粧品などを宣伝するネット広告の中に、実際にはテレビ番組で紹介されておらず、芸能人もまったく関わっていないものがあるとして、広告会社などでつくる「日本広告審査機構」(JARO)が問題視している。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181114日・朝刊、13版、9 ページ、栗林史子)

 

 この記事の見出しは、次のようになっています。

 

 「お墨付き」広告 虚偽横行 / 「マツコも驚いた」「たけし『天才だね』」 / ブログに掲載 JAROが注意喚起

 

 引用したのは、記事全体の一部分です。記事は引用部分の5倍ほどの長さです。この記事の中には、「お墨付き」という言葉はどこにも使われていません。引用した記事の中の言葉を使って、この見出しを批判してみましょう。

 「こうした〔見出し〕で〔記事内容を表現しようとしているもの〕の中に、実際には〔記事の中では使われておらず〕、〔記者自身もまったく関わっていないもの〕がある」ということです。見出しを付ける人が、自身の判断で(記者の了解を取っているか否かは知りませんが)、言葉を選んでいるのです。

 見出しの力は大きいと思います。見出しの言葉は、記事内容に「お墨付き」を与えることにもなりかねません。しかし、記者の側からすれば「虚偽」の(=記者本人にとっては心外な)言葉が使われている(横行している)かもしれないのです。

 「お墨付き」とは、権威のある人から得る保証のことです。健康食品や化粧品の専門家でない芸能人が、仮に宣伝に関わったとしても、それは宣伝のフレーズに過ぎず、「お墨付き」とは言えないでしょう。この記事を書いた記者が「お墨付き」などという言葉を使わなかったのは、正しい言語表現であると言うべきでしょう。

|

2019年1月 1日 (火)

言葉の移りゆき(255)

初春の年賀状に思うこと

 

 新しい年が明けました。年賀状が届くのは嬉しいことです。葉書を書くのも楽しいことです。

 けれども、私は昨年から年賀状を取りやめることにしました。ただし、親戚とか大先輩とか、こちらから取りやめを申し出るのがためらわれる状況もありますから、それらの方々は例外です。それでも、昨年末に書いたのは、これまでの3分の1ぐらいになりました。歳末にすることが減って、ちょっとラクになりました。

 私は手紙・葉書などをいただくのも差し出すのも大好きです。そうであるのに取りやめた理由は2つあります。私は、パソコンを使って文面を印刷しますが、宛名書きは自筆です。宛名書きまでパソコンに委ねるつもりはありません。

 年賀状を取りやめた理由のひとつは、同一の文面で大勢の方に送ることに飽きてきたからです。虚礼とは思いませんが、流れ作業のようにも感じたのです。これまでにも、一人一人に宛てて異なった文面で書き送ったことはありますが、そのやり方に専念しようと思ったのです。

 もうひとつの理由は、前記の理由と関連することですが、一人一人に異なった葉書を書くためには時間がかかります。年頭という時期にこだわらずに、ゆっくり書きたいと思うのです。年に一度ぐらいの消息の交換はしたいと思いますから、正月が過ぎてから、ゆっくり書こうと思うのです。

 そのやり方に、自分でも抵抗は感じています。いただいてから返事を書くのですから、自己本位です。けれども、同一の文面よりは、ゆっくり一人ずつに宛てて書くということを選びました。

 今年いただく年賀状は、減るだろうと思います。でも、ゆっくり返事を書くのは嬉しいことです。姿勢を明らかにするために年賀葉書ではなく通常葉書を使います。

 

 さて、年末のコラムで、こんな文章を読みました。

 

 受取人の住所、差出人の名をはがきのどこに書くか答えなさい-。9年前、全国学力調査で出題されると、小6の3人に1人が誤って答えた。結果は日本郵便の社員に衝撃を与える。翌年から始めたのが、希望に応じて郵便局員らが教室に出向く体験授業だ

 最も多いのは小学校。昨年度は全国300万人に手紙のイロハを教えた。 …(中略)

 いやはや手紙のやり取りが細るわけである。それでも、相手を思い、手間をかけ、季節を運ぶ手紙という文化はそうそう簡単には滅ぶまい。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181228日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 誤答の多さに衝撃を感じなければならなかったのは、日本郵便の社員ではなく、父母や教員こそでなければなりません。手紙・葉書を書かない父母が子どもに教えることはできず、教員も教えていないということでしょうか。家庭教育や学校教育がなおざりになっているのです。教えるということは、身に付くようにするということです。

 郵便局員が全国300万人に体験授業をするのを、傍観していたのは父母や教員ではないでしょうか。驚きを通り過ぎて、怒りを感じます。ひと任せの指導をしていてはなりません。

 外国語教育やパソコン指導をする前に、しなければならないのは日常の言語生活の指導です。文部科学省から一般市民まで、考え直さなければならないことはいっぱいありますが、これも端的なひとつの例です。

|

« 2018年12月 | トップページ | 2019年2月 »