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2019年2月 9日 (土)

言葉の移りゆき(294)

「無音のオノマトペ」とは何か

 

 オノマトペというのは擬音語や擬態語のことです。「無音のオノマトペ」と題された文章がありました。「無音のオノマトペ」という言葉自体は矛盾を含んでいると思いますか。それとも、当たり前のことを言っているに過ぎないと思いますか。

 私にとって、それは、当たり前きわまりないことでしかありません。擬音語というのは「音」を表しますから、何らかの「音」があります。「ざざっと水があふれ出る」とか「ぱちぱちと手を叩く」というのは、音が発生しているのです。

 けれども、擬態語には「音」がないのが普通です。「さっと手を挙げた」とか「そっと頭を撫でた」とか言っても、「さっ」とか「そっ」とかの音は聞こえません。擬態語をすべて並べあげても、音の感じられる擬態語は少ないと思います。

 さて、「無音のオノマトペ」と題された文章には、このようなことが書かれています。

 

 小野教授が教えてくれたのが、坂本眞一が描く「イノサン」(集英社)だ。

 フランス革命時代の死刑執行人の話。コミックス9巻までを読んだ。1巻は99ページまでオノマトペは見当たらない。馬が走る場面にも「バカッ、バカッ」などの擬音語がない。9巻までのオノマトペは、ほぼ全てが吹き出しの中で台詞として機能している。

 しかしね精緻な絵から確かに音が聞こえる。「あえて狙った高度な表現手法だ」と小野教授は話す。「無音のオノマトペ」でもいうべきか。うならされる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月6日・夕刊、3版、5ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 場面の描写にオノマトペがなく、吹き出しの台詞にオノマトペがある、というのは当然です。感心することではありません。

 なんとなんと、「無音のオノマトペ」という題名は、擬音語や擬態語が使われていないということでした。そんなことを言うのなら、世の中の多数の文章は「無音のオノマトペ」で書き綴られているということになります。

 誤解してはならないことは、文章として綴られるものにこそオノマトペは必要であって、目に訴えかける度合いの高い映像や漫画・劇画のようなものにはオノマトペの必要度は低い(極論すれば、皆無である)ということです。

 文字で書かれた文章では、それにふさわしい場所にオノマトペが使われて、効果を上げるのは当然のことです。そのためにオノマトペは存在しているのです。文章は文字だけで書かれているのです。具体的な場面や状況を文字だけで表現しなければならないのですから、オノマトペに頼る必要があります。

 それに対して、映像や漫画・劇画などで表現されるものにオノマトペが少ない(あるいは、必要でない)のは当然のことです。具体的な場面や状況が表現されているものに、擬音語や擬態語を付け加える必要度は小さいのです。

 映像や漫画・劇画にオノマトペが多用されるのは、言葉として無駄であるとも言えます。擬態語や擬態語を画面だけで表現できないのは、表現能力の不足であるのかもしれないのです。

 「イノサン」という作品に感心すべきではなく、むしろ、オノマトペを多用した作品の稚拙さを指摘すべきであると思います。

 

 冒頭のことに戻ります。「無音のオノマトペ」は何も珍しいことではありません。前述のように、擬態語の大部分が「無音」です。

 私は、「無音のオノマトペ」という言葉を見たとき、「しーんと静まり返った会場」というような表現を思い浮かべました。擬音語で、「しーん」という言葉を使う不思議さ、面白さです。まさに無音の状態を「しーん」という音で表現するというのは、不思議なことですが、これこそ日本語の面白さでもあるのです。

 テレビ画面で、静粛な会場を映しているのに、アナウンサーが「しーんと静まり返っています」と実況したら、愚の骨頂と言わねばなりません。

 

 新聞は、明確な誤りの場合は「訂正して、おわびします」という記事を書きます。けれども、上記のようなものには、見て見ぬふりをします。政治家の失言を目の色を変えて報道するのは当然のことですが、新聞社の内側のことは実に寛大です。

 なお、私は、『明石日常生活語辞典』(武蔵野書院)という方言辞典を今年、刊行しますが、この辞典では方言に現れる擬音語・擬態語を積極的に取り上げています。(小さな活字で850ページを超えますので、現在は校正作業を続けています。)

 

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