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2019年2月28日 (木)

【掲載記事の一覧】

 長期にわたって連載した『明石日常生活語辞典』は刊行を目指して、校正を続けています。小さな文字で800ページを超えます。資料集のような性格での書物ですから、文章を校正するようにすらすらとは進みません。校正が済めば刊行ということになるのですが、初校に3ヶ月を要しました。現在は再校を進めていますがこれにも3ヶ月が必要です。

 今年は明石市制100年の年で、刊行していただく武蔵野書院も創立100年です。今年後半の刊行を目指して力を注ぎます。

 ブログをお読みくださってありがとうございます。

 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。

 gaact108@actv.zaq.ne.jp

 これまでにブログに連載した記事を、内容ごとに分類して、一覧を記します。掲載日をもとにして検索してください。

 

【日本語に関する記事】

 

◆言葉の移りゆき ()(313)~掲載を継続中

    [2018年4月18日 ~ 最新は2019年2月28日]

 

◆日本語への信頼 ()(261)

    [2015年6月9日 ~ 2016年7月8日]

 

◆言葉カメラ ()(385)

    [2007年1月5日 ~ 2010年3月10日]

 

◆新・言葉カメラ ()(18)

    [201310月1日 ~ 20131031日]

 

◆ところ変われば ()()

    [2017年3月1日 ~ 2017年5月4日]

 

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 ()(29)

    [2007年1月1日 ~ 2009年6月4日]

 

◆現代の言葉について考える ()()

    [2007年7月1日 ~ 2007年7月7日]

 

◆文章の作成法 ()()

    [2012年7月2日 ~ 2012年7月8日]

 

◆自分を表現する文章を書くために ()(11)

    [20071020日 ~ 20071030日]

 

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] ()()

   [20061223日 ~ 20061226日]

 

◆地名のウフフ ()()

    [2012年1月1日 ~ 2012年1月4日]

 

 

【兵庫県明石市などの方言に関する記事】

 

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 ()(2605)

    [2009年7月8日 ~ 20171229日]

 

◆『明石日常生活語辞典』写真版 ()()

    [2010年9月10日 ~ 2011年9月13日]

 

◆じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-

                        ()()

    [20171230日 ~ 2018年1月7日]

 

◆私の鉄道方言辞典 ()(17)

    [2007年9月13日 ~ 2007年9月29日]

 

◆暮らしに息づく郷土の方言 ()(10)

    [2007年8月11日 ~ 2007年8月20日]

 

◆兵庫県の方言 ()()

    [20061012日 ~ 20061015日]

 

◆姫路ことばの今昔 ()(12)

    [2007年9月1日 ~ 2007年9月12日]

 

◆ゆったり ほっこり 方言詩 ()(42)

    [2007年2月1日 ~ 2007年5月7日]

 

 

【郷土(明石市の江井ヶ島)に関する記事】

 

◆名寸隅の船瀬があったところ ()()

    [2016年1月10日 ~ 2016年1月14日]

 

◆名寸隅の記 ()(138)

    [2012年9月20日 ~ 2013年9月5日]

 

◆朔日・名寸隅 ()(19)

    [200912月1日 ~ 2011年6月1日]

 

◆江井ヶ島と魚住の桜 ()()

    [2014年4月7日 ~ 2014年4月12日]

 

◆西島物語 ()()

    [2008年1月11日 ~ 2008年1月18日]

 

◆名寸隅舟人日記 ()(16)

    [2016年1月1日 ~ 2016年4月2日]

 

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]

 

 

【『おくのほそ道』に関する記事】

 

◆『おくのほそ道の旅』【集約版】 ()(16)

    [2018年3月18日 ~ 2018年4月2日]

 

◆『おくのほそ道』ドレミファそら日記【集約版】 ()(15)

    [2018年4月3日 ~ 2018年4月17日]

 

◆奥の細道を読む・歩く ()(292)

    [2016年9月1日 ~ 2018年3月17日]

 

 

【江戸時代の五街道に関する記事】

 

◆中山道をたどる ()(424)

    [201311月1日 ~ 2015年3月31日]

 

◆日光道中ひとり旅 ()(58)

    [2015年4月1日 ~ 2015年6月23日]

 

◆奥州道中10次 ()(35)

    [20151012日 ~ 20151121日]

 

 

【ウオーキングに関する記事】

 

◆放射状に歩く ()(139)

 2013年4月13日 ~ 2014年5月9日]

 

◆新西国霊場を訪ねる ()(21)

 2014年5月10日 ~ 2014年5月30日]

 

◆ことことてくてく ()(26)

    [2012年4月3日 ~ 2012年5月3日]

 

◆テクのろヂイ ()(40)

    [2009年1月11日 ~ 2009年6月30日]

 

 

【国語教育に関する記事】

 

◆国語教育を素朴に語る ()(51)

    [2006年8月29日 ~ 20071212日]

 

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 ()(102)

    [2008年2月25日 ~ 2008年7月20日]

 

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 ()()

    [200610月2日 ~ 200610月4日]

 

◆これからの国語科教育 ()(10)

    [2007年8月1日 ~ 2007年8月10日]

 

◆高校生に語りかけたこと ()(29)

    [200611月9日 ~ 200612月7日]

 

◆高校生に向かって書いたこと ()(15)

    [200612月8日 ~ 20061222日]

 

 

【教員養成に関する記事】

 

◆教職課程での試み ()(24)

    [2008年9月1日 ~ 2008年9月24日]

 

◆学力づくりのための基本的な視点 ()()

    [200610月5日 ~ 20061011日]

 

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 ()(18)

    [20061016日 ~ 200611月2日]

 

◆教職をめざす若い人たちに ()()

    [2007年6月1日 ~ 2007年6月6日]

 

 

【花に関する記事】

 

◆写真特集・薔薇 ()(31)

    [2009年5月18日 ~ 2009年6月22日]

 

◆写真特集・さくら ()(71)

    [2007年4月7日 ~ 2009年5月8日]

 

◆写真特集・うめ ()(42)

    [2008年2月11日 ~ 2009年3月16日]

 

◆写真特集・きく ()()

    [20071127日 ~ 20081113日]

 

◆写真特集・紅葉黄葉 ()(19)

    [200712月1日 ~ 20081215日]

 

◆写真特集・季節の花 ()()

    [2007年5月8日 ~ 2007年6月30日]

 

 

【鉄道に関する記事】

 

◆鉄道切符コレクション ()(24)

    [2007年7月8日 ~ 2007年7月31日]

 

 

【その他、いろいろ】

 

◆神戸圏の文学散歩 ()()

    [20061227日 ~ 20061231日]

 

◆百載一遇 ()()

    [2014年1月1日 ~ 2014年1月30日]

 

◆茜の空 ()(27)

    [2012年7月4日 ~ 2013年8月28日]

 

◆消えたもの惜別 ()(10)

    [2009年9月1日 ~ 2009年9月10日]

 

◆母なる言葉 ()(10)

    [2008年1月1日 ~ 2008年1月10日]

 

◆足下の観光案内 ()(12)

    [20081114日 ~ 20081125日]

 

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

 

◆小さなニュース [2008年2月28日]

 

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

 

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや ()(13)

    [2009年1月1日 ~ 2010年1月3日]

 

◆1年たちました ()()

    [2007年8月21日 ~ 2007年8月27日]

 

◆明石焼の歌 ()()

    [2007年8月28日 ~ 2007年8月30日]

 

◆失って考えること ()()

    [2012年9月14日 ~ 2012年9月19日]

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言葉の移りゆき(313)

自分が「見てござる」のではない

 

 戦後の童謡に「見てござる」という曲がありました。山上武夫・作詞、海沼實・作曲で、川田正子が歌っていたように思います。こんな歌詞です。

 

  村のはずれの お地蔵さんは

   いつもにこにこ 見てござる

   仲良しこよしの じゃんけんぽん

   ホイ 石けり なわとび かくれんぼ

   元気に遊べと 見てござる

   ソレ 見てござる

 

 この歌詞の「見てござる」という表現には違和感はありませんでした。「ござる」は「御座ある」から転じた言葉ですから、「見てござる」というのは、見ていらっしゃる、という意味です。この曲で、見ていらっしゃったのは、村のはずれのお地蔵さんであり、たんぼの中の案山子どんであり、山のからすのカンザブロウであり、夜のお空のお月さんでした。

 自分たちを取り巻くものが、自分たちを見ていらっしゃる、という表現でした。子どもたちに敬語意識を植えつけるという意味でも、格好の教材であったと思います。

 この尊敬表現の「見てござる」に丁寧語の「ます」を付ければ、「見てございます」になります。

 

 少し古いのですが、こんな文章を読んだことがあります。

 

 国会の質疑でいつも違和感を覚える言い回しがある。「思ってございます」「感じてございます」。閉会したこの国会でも幾度となく耳にした。「思ってあります」であれば感じないムズムズした感覚が背中を走る

 「私も以前から気になっていました。文法に照らすと変な言い方ですね」。言語学者の尾谷昌則・法政大教授(43)によると、「ございます」は「あります」を丁寧にした言い方。「思ってあります」とは言わない以上、それを丁寧化した「思ってございます」はおかしな表現となる

 (朝日新聞・大阪本社発行、2017年6月21日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 「天声人語」の文章が掲載された当時、その内容の誤りを指摘する投稿があったかどうか知りませんが、誤りは誤りです。今になって誤りを訂正するというのも潔いことだと思います。

 「思ってございます」という言い方がおかしいと感じるのは、法政大教授の指摘するような理由ではありません。丁寧表現としてのおかしさではありません。「思ってございます」には、尊敬表現としての響きが残存しているのです。思っている本人(すなわち、言葉を発している本人)に対する敬意があることを感じてしまいますから、強い違和感を持つのです。

 そのことを法政大教授が誤り、「天声人語」の筆者もそのまま信じてしまっているのです。このまま放ってよいとは思いません。

 国会議員が口にし、大学教授や新聞記者が少しだけの疑問で放置しておけば、一般の人たちは何の疑いもなく使うことになるでしょう。一般の人は、敬語なのだから問題はない、というような意識を持つことになってしまいます。少なくとも、新聞のコラムだけは、間違ったことを書くべきではありません。

 このコラムの末尾には、「有権者の一人として、いまこの国の政治のありように甚だしい違和感を覚えてございます。」とありました。こんな皮肉を言うために、言葉を弄んではいけません。違和感を覚えている本人に向けて敬語を使ってはいけません。

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2019年2月27日 (水)

言葉の移りゆき(312)

「うまみ」を「スキャンする」とは?

 

 私の住んでいるところ海辺です。埋め立ても行われていなくて、海岸沿いに歩行者・自転車専用道路が作られています。明石川の河口から江井ヶ島海岸まで、1時間余り、海を見ながら散策できます。

 海岸は、明石海峡から西に広がる播磨灘です。鏡のような海面と言いたいのですが、そうではありません。沖合遠くまで海苔養殖のためのイカダが浮かんでいるからです。

 海岸から見るとどれほどの沖合までイカダが並んでいるのか、よくわかりませんが、空から撮った写真を見ると、ずいぶんな沖合までであることがわかります。実は毎年、早春の頃にそんなニュース写真が掲載されるのです。

 今年も、そのニュースがあり、次のような記事が書かれていました。

 

 兵庫県の神戸市沖や播磨灘、淡路島沿岸で、特産のノリの収穫が本格化している。同県明石市沖の海を空から見ると、養殖網がバーコードのように並び、ノリを刈り取る船が白い航跡を描いていた。同県は、有明海がある佐賀県に次いで、全国第2位の産地。収穫は4月末まで続く。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月2日・夕刊、3版、9ページ、小林裕幸)

 

 記事はごく普通の表現です。ところが例によって例のごとし、見出しが突出するのです。見出しの言葉は「うまみスキャン中」です。

 記事に「バーコード」という言葉があるから、突然に「スキャン」という言葉が出てきたのでしょうか。それにしても「うまみ」を「スキャン」するとは、どういう意味なのでしょうか。よくわからない言い方です。

 

 私は小さい頃から新聞の切り抜きを日課としてきて、今も続けています。切り抜きに埋もれるような生活も経験しましたが、今は、切り抜いたものはすべてスキャナーで処理して、新聞の現物は捨てるようにしています。「スキャン」という言葉は、私にとってはスキャナーという機器のことであり、その機器を使ってスキャンするという行為のことです。

 最新版の国語辞典に「スキャン」という言葉がどのように説明されているのかは知りません。けれども、一般的な「スキャン」の意味は、原稿を光学的に読み込んで、それをデジタルデータにすることです。あるいは、走査することでもあります。情報を読み取るという意味であり、「ウイルスをスキャンする」というような場合は、調べるという意味が加わります。スキャンはパソコン用語なのか、もっと広い意味を持つ言葉なのか、よくわかりません。

 さて、新聞の見出しに戻ると、「うまみスキャン中」という表現は、どういう意味でしょうか。「うまみをスキャンしている」の主語は、船なのでしょう。海苔を刈り取る船が海苔網をスキャンしている? 海苔網の上を走り回っている? そんなことをしても海苔の美味さは調べられません。「うまみ」と「スキャン」の関係がわかりません。

 このような言葉遣いは、新聞の訂正記事には載らないでしょう。比喩的表現だと言ってしまえばお終いです。けれども、読者はこの表現に納得するでしょうか。黙って見過ごしているだけでしょう。

 新聞は、読者とともに歩む、などということを言っています。それならば、この表現はこんな気持ちで書いたのだ、というような説明が、読者に向けて行われてもよいのではないかと思います。

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2019年2月26日 (火)

言葉の移りゆき(311)

辞典には「身元」の意味がきちんと書かれていない

 

 「身元をきちんと調べる」と書くと、そんなことはしてはいけない、差別になる、と反論されるかもしれません。

 就職や結婚に際して、身元をきちんと調べなければイエスというサインは出せない、と言えば、確かに差別につながりかねません。けれども、場合によっては、警察が身元をきちんと調べなければならないことがあるのです。

 「身元」とは何かということを、『三省堂国語辞典・第5版』で確かめてみます。次のように書いてあります。

 

 ①素性。うまれ。そだち。「- 不明」

 ②一身上についてのこと。身の上。「- 引き受け・- 保証人」

 

 他の国語辞典を引用しませんが、他のものを見ても大同小異です。

 この説明では納得できません。つまり、求めている意味が書かれていません。念のため、その説明の中に書かれている言葉を、さらに確かめてみます。

 『三省堂国語辞典・第5版』によれば、「素性」とは、「①その人が生まれた家柄や血筋。②もともとの身分や職業。③今までたどって来た経歴。由緒」です。また、「一身上」とは、「自分の身の上に関することがら」と書いてありますが、要領を得ません。念のため、「身の上」とはどういう意味かと見てみますと、「①〔現在の〕境遇。②一生の運命」と書いてあります。

 ところが、私が求めているのは、「身元」という言葉の、そのような意味ではありません。家柄、血筋、身分、職業、経歴、由緒、境遇、運命などという言葉のどれにも当てはまらない意味なのです。

 よほど特殊な使い方の場合であると思わないでください。「身元」という言葉の、その使い方は、ごくごく当たり前のもので、しかも、毎日のように目にするのです。国語辞典が、みごとに見落としてしまっているのです。辣腕の「ことばハンター」の目にも見えなかったのでしょう。

 では、ごく日常的な新聞記事を引用します。

 

 22日午後11時ごろ、大阪府羽曳野市駒ケ谷の鉄筋2階建ての建物付近から出火、延べ約450平方メートルが全焼した。焼け跡から性別や年齢が不明の2人の遺体が見つかり、羽曳野署が身元を調べている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月23日・夕刊、3版、6ページ)

 

 言いたいことは、もうおわかりでしょう。「身元」というのは、家柄、血筋、身分、職業、経歴、由緒、境遇、運命というような、過去の事柄や歴史を指すものとは限らないのです。そのような勿体ぶったものではありません。火災現場から見つかった人(遺体)の場合は、生前の誰なのかということを調べているのです。亡くなった人の「身元」とは、まぎれもなく、生前の「あの人」だということなのです。生前の家柄・血筋・身分・職業・経歴・由緒・境遇や、この人がたどった運命などとは無関係の事柄なのです。警察は、必死になって、その人の「身元」をきちんと確認しているのです。

 流行語などと違って、「身元」などという言葉の意味は、簡単には変化しません。だから辞典の改訂のときには注目もされないのでしょう。何十年間も同じ説明でよかろうという気のゆるみも生じるのでしょう。国語辞典編纂者は、目新しい言葉を探し続けているのかもしれませんが、そんなことよりも、もっと大事なことがあるということを、この一例からも、認識してほしいと思います。

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2019年2月25日 (月)

言葉の移りゆき(310)

文化庁の国語世論調査は、話し言葉を軽視していない

 

 文化庁が継続して、国語に関する世論調査を実施しています。

 たとえば、5年前の新聞記事を引用します。

 

 例年通り、言葉や慣用句の使い方も調べた。「噴飯もの」を、本来の意味の「おかしくてたまらないこと」で使う人は19・7%で、「腹立たしくて仕方ないこと」と考える人が49・0%と半数近くもいた。

 また、激しく怒ることについて本来は「怒り心頭に発する」と言うところを「怒り心頭に達する」と使う人が67・1%もいた。 …(中略)… 同庁によると「いくつかの言葉は経年で調査していて、結果が報道されると学校で問題が出されたり、酒の席の話題になったりして、本来の意味が広がるようだ」という。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2013年9月25日・朝刊、13版、36ページ、藤井裕介)

 

 記事には他の言葉や慣用句についても書かれていますが、上の例だけでも、いろいろなことを考えさせられます。

 書き言葉も変化していくでしょうが、話し言葉も同様に変化しています。テレビは映像になるものに価値を置き、国語辞典もカメラなどで記録できるものを重視しています。それでは、話し言葉の変化を忠実に追うことはできません。文化庁の後追いはできても、国語辞典がリーダーシップを発揮することはできません。

 カメラに記録したものと同等以上の数量を、話し言葉からも記録して、その変化の様子を国語辞典に反映させるべきでしょう。例えば、同じ言葉であっても、発音が変化することがあります。それを「訛り」とか「汚い発音」とか「地域的な特徴」とかの説明で片付けてはいけません。四ツ仮名の消滅の過程をきちんと記録した国語辞典などはないでしょう。関西の言葉遣いが、東京中心の国語辞典の影響を受けて話し言葉の語彙がどのように変化しているかなどということは眼中にないでしょう。

 東京でどのような新しい言葉が使われ始めているかということ、その一点に関心を持っているのが国語辞典編纂者の姿勢ではないでしょうか。

 記事にある「結果が報道されると学校で問題が出されたり、酒の席の話題になったりして、本来の意味が広がるようだ」というのは調査の効用です。工夫すれば、国語辞典もそのような働きをすることができると思います。

 かつての雑誌『言語生活』には、読者の投稿を中心にした「目」というページがありました。「耳」というページもきちんと設けられて、「目」と「耳」は同じ重さになっていました。その姿勢には、学ぶべきことが、たくさん含まれています。

 時代の先端を走る国語辞典も必要であるのかもしれません。しかし、同時に、後になってから資料としての価値を認められるような国語辞典を作って、残してほしいと思います。流行語の資料ではありません。国語の変化を跡付けられるような資料です。

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2019年2月24日 (日)

言葉の移りゆき(309)

「半端じゃない」という言葉

 

 「半端」とは、まとまった数量や種類などが揃っていないことです。「半端ではない」というのは、その反対で、数量などがきちんと満たされていることです。意味をすこし広げると、〈数量が満たされている〉→〈たくさん、ある〉ということです。

 関西では、ずっと昔から、そのような意味で使ってきた言葉であると思います。「野菜がぎょうさん(仰山)穫れて、半端やないさかい、近所の人にもわけて、食べてもらおうか。」というような言い方をしました。

 仮に、そのような言葉遣いがあっても、それは話し言葉であって、しかも関西方言であるからということで、国語辞典に採り上げられることはなかったのでしょう。

 さて、こんな文章を読みました。

 

 1970~80年代に、若者の間で「半端じゃない」という言い方が広まりました。意味は、「とてもいい、すてきだ」ということです。そこから、さらに意味が変化して、「人の数が半端じゃない(=非常に多い)」などと使うようになったのです。

 「半端ではない」は、それまでの国語辞典にはのっていませんでした。でも、今やテレビの政治番組でも耳にすることばです。辞書にのっていないほうがおかしい。そう考えて、ぼくは説明を書きました。

  〈半端ではない  程度がたいへん大きい。ものすごい〉

 (飯間浩明『ことばハンター 国語辞典をこうつくる』、ポプラ社、2019年1月発行、122ページ)

 

 引用した文章は、私の感覚とは異なっています。「人の数が半端じゃない(=非常に多い)」という使い方がはじめにあって(あるいは、長く使われてきて)、その後に「とてもいい、すてきだ」という意味が派生してきたと思うのです。

 長く使われてきたと言っても、関西方言の、話し言葉の世界のものに過ぎない、と言われればそれまでです。

 「1970~80年代に、若者の間で」広がったと書いてありますが、もしかしたら、関西出身の若者が東京で使ったら、東京の人も真似て使い始めたのかもしれません。(勝手な想像です。)

 

 言いたいことは2つです。

 これまでにも書いてきましたが、東京で使われて、はじめて国語辞典に載るようになるという悪しき慣例が、続いています。東京で使われなかったら(仮に、その後に使われるようになるとしても)、そんな言葉は認知できないというような姿勢があるのです。どうしても載せることになっても、「関西方言で」などという但し書きを加えて載せたりするのです。言葉の「中央集権」です。「半端ではない」という言葉は、とっくの昔に国語辞典に載るべき言葉でした。昨日・今日あらわれたような、東京分布の書き言葉(しかも、文字を見たら理解できても、発音すれば理解不能に聞こえるような言葉)を、国語辞典に載せてほしくはありません。

 もうひとつ。前回にも書きましたが、言葉の「文字言語重視」です。話し言葉への温かな眼差しが見られないのです。話し言葉を凝視(ウオッチ)すれば、国語辞典に載せるべき言葉は続出します。話し言葉を一段、下に見る姿勢を払拭しなければなりません。コミュニケーションの道具としての言葉は、基本的には話し言葉から出発しているということを忘れてはなりません。

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2019年2月23日 (土)

言葉の移りゆき(308)

「東京中心・書き言葉辞典」化する国語辞典

 

 例示から始めましょう。

 

 スーパーマーケットの駐車場案内板に〈立駐/430台〉と書いてあります。「立体駐車場」をこう略しているようです。書いた人にとっては日常語なのかもしれません。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年3月10日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 街なかの、よくある駐車場。その看板に〈平面駐車場〉と書いてあります。これまで駐車場のことばも注意して見ていたつもりですが、この表現は見落としていました。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181117日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 電車のドアに、制汗剤の広告が貼られています。〈忙しい朝に 瞬乾! ワキ汁ケア〉の太文字。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月4日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 「立駐」は案内板が立てられている場所から、意味はすぐに判断できます。特別な言葉ではなく、わざわざ国語辞典に載せる必要はありません。こんなものを載せ始めたら、略語を網羅しなければならないという妄想に引き込まれます。平面駐車場を「平駐」と略したら小首をかしげるかもしれませんが、「立駐」はそれに比べたら、わかりやすいでしょう。

 「瞬乾」は単なる言葉の遊びです。わざわざ拾い上げる必要はありません。こんな採集を始めたら、テレビのお笑い番組や、新聞のスポーツ欄の言葉遊びも同じ範疇に入ってしまいます。際限がありません。

 国語辞典編纂者は、言葉への強い好奇心をお持ちであることはわかりますが、一般の人はそこまで異常な関心を持ってはいません。テレビのお笑い番組や、新聞のスポーツ欄の言葉遊びは、アハハと笑って通り過ぎるものです。そもそも、上の記事で報告されている言葉の事例は、都市生活者の感覚でしかありません。

 

 国語辞典の中には、昔のことばを多くのせるものもありますが、この『三国』は、現代日本語を第一に考える辞書です。今の時代、21世紀に生きるわれわれが、どんなことばを、どんな意味で使っているか、それを知るための国語辞典です。

 (飯間浩明『ことばハンター 国語辞典をこうつくる』、ポプラ社、2019年1月発行、24ページ)

 

 国語辞典の表向きの編集方針とは別に、国語辞典が、東京を中心とした地域を基盤にした辞典となっていることは衆知のことです。東京で作っているのだから、そうなるのでしょう。東京人の感覚で作られているのです。都市生活者向けの辞典と言ってもよいでしょう。

 そして、その上に、もうひとつ重要な傾向が見えてきます。それは、書き言葉に大きく立脚しているということです。書き言葉の資料は、写真やメモなどを含めて膨大なものが集積されているだろうと思います。

 一方、話し言葉については、どれだけの資料が集積されているのでしょうか。例えば談話資料として、語彙やアクセントや語法などについて、どれだけの資料が蓄積されているのでしょうか。たぶん、書き言葉の比ではない、貧弱なものだろうと推測します。そうではないと言われる方があれば、反論していただきたいと思います。

 そういう資料をもとにして編纂されている国語辞典は、東京中心の、書き言葉の辞典としての性格をますます強めていると思います。話し言葉で、改訂の度に加えられるものはごくわずかです。

 「立駐」「瞬乾」などの言葉は、堂々とした言葉として国語辞典に載る日が来るのかもしれません。それに対して、少し発音の崩れた言葉や、狭い地域で使われる話し言葉は、〈俗語〉として蔑まれる。それが、「東京中心・書き言葉辞典」の編集方針になっていくのでしょう。

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2019年2月22日 (金)

言葉の移りゆき(307)

言葉は定着してから、しかりと国語辞典に載せる

 

 ことばハンターの「ハンター」とは何か、と思って『三省堂国語辞典・第5版』で確認をしてみました。次のように書かれていました。

 

 ①狩りをする人。猟師。

 ②あさる人。「ラブ -」

 

 ことばハンターの「ハンター」とは、ことばをあさる人ということになるのですが、その意味のままでは、国語辞典編纂者にふさわしくない説明でしょう。このような比喩表現でなく、もっと違った比喩表現はないのでしょうか。

 ついでに、「あさる」という動詞も、同じ辞典で確認をしてみました。

 

 ①さかなや貝をとる。

 ②(えさなどを)さがし求める。「古本を -」

 

 古本をあさることは高度な知的活動に違いありませんが、やっぱり、掘り出し物を探し当てるというようなニュアンスがあることは否定できません。国語辞典編纂者は、これまでに見つかっていない新語を採掘することが任務なのでしょうか。

 私の感覚では、国語辞典編纂者は、これまでに使われていない新しい言葉を探し求める人ではなく、現実に使われている言葉の意味や用例を観察(ウオッチ)する人であってほしいと思います。しかも、その言葉の観察は、話し言葉を軽んじてはなりません。写真機も必需品ですが録音機もそれに劣らない必需品でしょう。記録する個数も、書き言葉と話し言葉が拮抗するものであってほしいと思います。

 国語辞典と新語辞典とは異なる存在です。1~2年前から使われはじめた言葉が国語辞典に載っていなかったら、人は腹を立てるでしょうか。そんなふうには思えません。

 新しい言葉を血眼になって探して、それを載せれば、国語辞典の価値が高まるのでしょうか。そんなふうにも思えません。言葉の意味・用法は、きちんと社会の中に定着してから、しっかりと国語辞典に載せればよいと思います。

 見坊豪紀さんの「ことばのくずかご」は、現代の辞典編纂者のように、書き言葉、カメラに写る言葉、テレビの言葉に傾斜していなかったように思います。まるで隠語のようなインターネットの言葉などが出現していない時代の国語辞典編纂者は、ハンターの如く目の色を変えていなかったように思います。国語辞典編纂者は、もっともっと心のゆとりを持ってほしいと思います。

 速さだけを競うのなら、新聞はテレビなどに太刀打ちできません。国語辞典はインターネットに太刀打ちできません。情報の速さだけに価値を置くのなら、新聞離れが進むのと同様に、国語辞典離れも進んで行くでしょう。新聞や国語辞典に特有の価値をもっと掘り下げることが必要だと思います。

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2019年2月21日 (木)

言葉の移りゆき(306)

「言葉ハンター」が国語辞典を作る?

 

 今回からしばらくは、一つの話題について、連続して書いていきます。その話題の中心は、国語辞典に載せられる言葉の意味・用法のことであり、どのような言葉を国語辞典に載せるのかということでもあります。ただし、話題を広げて論じることもあることを了解してください。

 当たり前のことを申しますが、言葉には、話し言葉もあれば、書き言葉もあります。ところが、そのことを忘れているかのような文章に接することがあります。国語辞典は、書き言葉をもとに作られているのではありません。

 これまでにも書いたことがありますが、私は方言に強い関心を持っています。方言というのは基本的に、話し言葉の世界のものです。話し言葉を無視したり軽視したりしたのでは、方言研究は成り立ちません。

 日本語は共通語や方言で成り立っています。日本語の研究はもちろんですが、国語辞典の編纂も、方言を無視したり軽視したりしては成り立つはずがありません。言葉を換えて言えば、話し言葉が眼中にない(あるいは、無視した)ような国語辞典であってはなりません。

 話し言葉を無視・軽視した国語辞典などがあるはずはないと思っておりましたが、最近は少し疑問を持つようになってきました。

 国語辞典を充実させるためには、言葉(の意味・用法などを含めて、さきざまな様相)を見つめなければなりません。書き言葉だけでなく、話し言葉にも極力、注意を注がなければなりません。

 「言葉ハンター」という言葉があるそうです。国語辞典には載っていない言葉だと思いますが、このような定義が書いてありました。

 

 ことばハンター【言葉ハンター】()

1 国語辞典を作るため、ことばを集める人。

  国語辞典編さん者。本やテレビ、インターネットや街の中などを観察し、新しい言葉を毎日探している。集めたことばをもとに、国語辞典の説明を書く。

2 だれよりもことばが好きで、この本を通じてあなたにことばの世界のおもしろさを伝える人。

 (飯間浩明『ことばハンター 国語辞典をこうつくる』、ポプラ社、2019年1月発行、カバー扉)

 

 仰天しました。上記の書物は子ども向けです。子どもに向けて、わかりやすく書こうとしている意図は理解できますが、書き言葉のみに注目して国語辞典が作られているかのような誤解を招きます。ほんとうは「本やテレビ、インターネットや街の中など」にある書き言葉だけで国語辞典は作られていないと思いますが、書き言葉に最重点を置いて国語辞典を作っているという姿勢を、強く打ち出している表現になっています。

 「ことばハンター」は、話し言葉にもっともっと重点を置いて観察すべきではないかと思います。インターネットで検索したり、街角の言葉を写真に撮って記録するのは、容易な方法だと思います。それに比べて、話し言葉に耳を傾けて意味・用法などを探し出すことは、何倍もの努力が必要だろうと思いますが、そちらの方こそ言葉の研究の出発点だと思います。新しい言葉をいち早く見つけ出すことが国語辞典編纂者の手柄というわけではないと思うのです。

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2019年2月20日 (水)

言葉の移りゆき(305)

「犬猫の大量生産」って何だ

 

 小学生の頃、学校の活動の中に「栽培部」や「飼育部」がありました。植物の世話や動物の世話をしました。その結果、花や野菜が穫れましたし、小動物の数が増えたりしました。

 昔は植物を「生産する」とは言わなかったと思いますが、今では、米穀や野菜を「生産する」と言うことが普通になっています。けれども、牛馬や鳥などを「生産する」と言うことに抵抗を感じる人は、今でも多いと思います。

 新聞は、動物を「生産する」という言葉に何の抵抗も感じていないようです。率先して、日本語の優しさをぶち壊そうとしているように思います。

 こんな記事がありました。

 

 ペットショップなどで販売される犬や猫の数が2017年度、のべ85万匹を超えました。犬猫の大量生産、大量販売が続いていますが、一方で現行の繁殖・販売業者の登録制度は事実上、「誰でもできる」状況です。 …(中略)

 交配時期を調整しつつ、年間2030匹の子猫を出荷する。出荷価格は数年前の2、3倍になっていて、1匹あたり10万~15万円の値が付く。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月27日・朝刊、10版、17ページ、太田匡彦)

 

 動物を「出荷」「販売」するという言葉遣いに違和感を感じたら、こんな文章は書けません。「生産」という言葉には唖然とします。法律などにどのような言葉が使われているのかは知りませんが、日常の言葉として使うのが適切かどうか、ちょっと考えたらわかることでしょう。新聞が使う言葉が、社会の指針ではなくなってしまっているのです。

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2019年2月19日 (火)

言葉の移りゆき(304)

表現の省略ということ、一つを選ぶということ

 

 私たちは、考えたり感じたりしたことを、つぶさに言葉で表現することなどは、とうてい出来るはずはありません。表現できることは、考えたり感じたりしたことの一部でしょうし、考えたり感じたりしても表現することを避けたり、省略することもあるでしょう。

 興味深い文章を読みました。

 

 先日も劇団員とメールでやりとりしていると「り」という1文字だけのメールが届いた。そこで「了解」の略語として学生を中心に「り」が使われていると知り驚いた。略語の中で最も短いと思う。最初は違和感があったが何度か目にしているうちに、今回はどんな「り」だろう、と台本に書かれたセリフのように意図を想像するようになった。

 考えてみれば演劇は「省略」から逃れられない芸術だ。いくら写実的に作ろうとしても現実に在るものを全て舞台にあげることはできないし、上演される物語は現実の時間を省略したものだ。つまり演劇創作は「何を省き、何を舞台に残すか」にかかっている。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年2月14日・夕刊、3ページ、「劇作の周辺」、笠井友仁)

 

 この文章の筆者の意図とは違うと思いますが、私はこの文章を読んで、こんなことを考えました。

 ものごとを了解する・了解しないという結論を導き出すまでに、人はいろいろなことを考えているはずですが、結論は「了解する」または「了解しない」という言葉になって、他者に伝えられます。いろいろな葛藤があったにせよ、全ての思考過程を省略すれば、「り」の一文字が結論です。

 100%の了解もあれば、五分五分の考えを行きつ戻りつした挙げ句の了解もあるでしょう。けれども、結果の言葉は「り」という一語なのです。二者択一などという場合は、いろいろ考えても、どちらかの一つを選択せざるを得ないことになります。

 この日の夕刊のトップ記事は、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移転を巡り、埋め立ての賛否を問う県民投票が告示されたというニュースです。

 「賛成」「反対」「どちらでもない」の3択で県民の意思を問うのだと言います。100%賛成の人や、100%反対の人は少ないのではないかと思います。いろいろな思いを持った人が、どちらを選ぶかと迫られたとき、「どちらでもない」という選択肢が設けられている場合は、それを選ぶ人が多くなっても不思議でないように思います。

 悩み抜いた末に賛成または反対に傾くことができなかった人が「どちらでもない」を選ぶ可能性がありますし、この問題に関心の薄い人が「どちらでもない」を選ぶ可能性もあるでしょう。

 私たちは毎日の生活の中で、選択や省略を繰り返しているのですが、とてつもなく大きな選択(何を残すか)をしなければならないときには、大きな大きな割愛(何を省くか)を迫られることにもなりかねないのだと思うのです。

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2019年2月18日 (月)

言葉の移りゆき(303)

「卵のことば」を無理やりに孵化させない

 

 国語辞典の編纂者は、新しい言葉を見つけて、それを辞典に載せることを任務のひとつと考えておられるようです。それを否定するつもりはありませんが、根掘り葉掘り探す必要はない、と私は考えます。

 こんな文章がありました。

 

 〈のせもの別金〉。「のせもの」は分かります。爪に載せる飾りのことでしょう。見逃せないのは、その後の「別金」という言い方です。

 文脈から考えると「別料金」のことらしい。でも、「別料金」をこう略すのを見たことがありません。

 ツイッターの状況を探ると、〈別金発生する〉〈ドリンク別金〉など、まれに使われる程度です。将来広まるかもしれないが、目下の勢力はごく弱いという印象です。

 「別金」は、まだ日本語にデビューしたとは言えない、卵のことばです。不愉快に思う人もいるでしょうが、私は、こういうことばを見つけるのも楽しみなのです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月22日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 「別料金」という、たった3文字を2文字に減らすことには、ほとんど意味や価値はありません。けれども「別料金」を略すならば、「別金」ではなく「別料」でしょう。ツイッターなどの使用例を探し出して「別金」を認めようとするような努力をする必要はありません。むしろ「別料」を探して、その方が望ましいと書くべきでしょう。

 この頃、いぶかしく思うことは、日常生活の話し言葉などから使用例を探すことよりも、ツイッターのような世界からの使用例を優先しているような傾向があることです。新聞記事にもその傾向があります。国語辞典の編纂においても、それが正道なのでしょうか。

 私は方言を調べています。方言は、人々の言葉の有様に耳を傾けれなければ研究は始まりません。パソコンを相手にしていても、方言の実態はつかめません。広く日本語全体のことを考えても、事情は同じであると考えています。狭い世界で書かれた〈書き言葉〉よりも、生活の中に現れている〈話し言葉〉を大切に考えるべきでしょう。

 話し言葉の中に「べつきん(べっきん)」という言葉が定着したと思ったら、国語辞典に載せてもよいでしょう。

 日常生活に耳を傾けるよりも、パソコンを叩いている方が、うんと安易に言葉を探し出せるでしょう。簡単に検索できますから、この上なくラクです。町中の言葉の採集も、似たような傾向を持っています。

 けれども、よく考えてみてください。ツイッターや看板などに現れる言葉は、発信者(書く人)の立場で作っている言葉です。受信者(見る人)が「別金」などという言葉を認めたく思っているかどうかは、まったく別問題です。言葉はコミュニケーションの用具ですから、言葉の受信者もいっしょになってやりとりをするようになって、はじめて一人前の言葉になるのです。ツイッターや看板に何万例が現れても、一般の人が広く口にしなければ一方通行でしかありません。

 「将来広まるかもしれないが、目下の勢力はごく弱いという印象です」と書きながらも、それを紹介するということは、そうなることを期待しているという姿勢が現れています。

 「卵のことば」は、日本語の社会の中でしっかりと孵化して一人歩きをしたときに国語辞典に載せればよいでしょう。編纂者としては少しでも早く孵化してほしいと願っておられる気持ちはわかりますが、孵化を助けるような文章を書く必要はありません。

 「街のB級言葉図鑑」で採り上げられる言葉が、趣味的な傾向を見せてきていることを憂慮しています。時には、言葉の採集を休んで、そのあたりについての筆者の見解を示してほしいと思います。

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2019年2月17日 (日)

言葉の移りゆき(302)

外来漢語の受け入れ推進派?

 

 街にあふれる言葉を採集することは結構なことでしょうが、ちょっと考えてほしいことがあります。

 カタカナ外来語の氾濫に辟易している人は多いと思いますが、外来漢語を受け入れることも考えなければならないと思います。

 こんな文章がありました。

 

 駅のホームの立ち食い店に、しゃれたキャッチコピーが書いてありました。〈速食美味〉。四字熟語で風格があって、素晴らしい。 …(中略)… 

 中国では「すぐ食べられるおいしい料理」を「速食美味」とも言うんですね。例は多くありませんが、確認できます。 …(中略)

 中国語では、日本語に比べて、新しい四字熟語が簡単に作られます。先ほどの立ち食い店は、「速食美味」という熟語を中国語から輸入して使ったのでしょう。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月16日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 このコラムの筆者は最近、漢字熟語の新しい用例や、漢字を用いた短絡表現の紹介に力を注いでいるようです。中国語では、新しい四字熟語が「簡単に作られる」そうですが、今回の記事は、それをどこかの立ち食い店が上手に宣伝に取り入れて、さらに、それを素晴らしいと感じて全国紙で紹介するという流れになっています。

 筆者は外来漢語や短絡漢語の価値を積極的に評価する立場にあるようですが、そのような言葉が国語辞典に増えていくことには、眉をひそめる人も多いだろうと思います。

 自然な日本語の中から生まれた、表現力豊かな言葉が増えていってほしいと願わずにはおれません。マスコミが外来語や輸入漢語を強調すれば、本来の日本語が萎縮することにつながりかねないと危惧をしております。

 長い伝統を持った日本語にも、新しい表現の兆しは随所に見られるはずです。そういうものを探し出して育てていくことも、国語辞典編纂者の大きな務めであると思います。

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2019年2月16日 (土)

言葉の移りゆき(301)

ひらがな頭文字の略語

 

 「こそあど」と言ったら、「新しい流行語ですか」ときいた人がいました。こそあどとは、「これ」「それ」「あれ」「どれ」というような代名詞や、「この」「その」「あの」「どの」というような連体詞や、「こう」「そう」「どう」というような副詞などの体系を表す言葉です。指示機能を持った言葉のことです。「こそあど」という発音には、「ここは、どこ?」とつぶやいている趣もあって、好ましい日本語です。

 日本語には、このように頭文字を連ねた略語の機能があるのです。報告・連絡・相談を一続きにして「ほうれんそう」と言うそうです。

 こんな文章がありました。

 

 最近、ネット通販やファッションに携わる人から、よく聞く言葉がある。

 「ささげはどこに頼むかな」「ささげの出来不出来が大きいですよね」という感じで使われている。

 ささげ?……。業界が業界だけに横文字の略語か、AIも駆使する業界だけにハイテクの専門用語かとも思った。

 「すいませんけど……」と聞くと、「さ・さ・げは、撮影・採寸・原稿の頭文字の略」と教えてくれた人がいた。

 意外だった。いずれも地味な業務である。だが、消費者はスマホやパソコンの画像、サイズ表、商品説明から商品を選ぶしかない。ささげは重要なのだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181126日・夕刊、3版、8ページ、「葦 夕べに考える」、多賀谷克彦)

 

 撮影・採寸・原稿のことを、英語の頭文字を並べて言おうと考えた人もいたかもしれませんが、「ささげ」という言葉が定着したら、その方が馴染んだ言葉になるでしょう。「ささげ」は、アズキよりもちょっと大きい豆を表す言葉でもあります。「ささげ」に新しい意味が生まれるというのは、日本語にとっては面白い現象です。「ほうれんそう」は菠薐草です。たまたまですが、この2つの言葉には、食べることのできる植物という共通点があります。

 アルファベットの略語にしても、KDDIの前身であるKDDは、国際・電信・電話のローマ字の頭文字です。NTTの頭文字は一旦、英語を経由しなければなりません。日本・放送・協会のNHKもローマ字の頭文字です。アルファベットで略語を作るときも、日本語を大事に考えたいと思います。けれども、「卵かけご飯」をわざわざアルファベットで「TKG」などと言おうとする心理は、理解できません。

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2019年2月15日 (金)

言葉の移りゆき(300)

「大阪・関西万博」は略称ではない

 

 経産省という言葉は、経済産業省の略称です。経済産業省自身が決めたわけではありませんが、みんなが使えば定着していきます。略称とは、名称を省略して呼ぶことであり、その省略した名称そのものも略称です。

 さて、おかしな略称が誕生しました。記事には次のように書かれています。

 

 2025年に大阪市で開かれる国際博覧会(万博)について、経済産業省は24日、正式名称を「2025年日本国際博覧会」、略称を「大阪・関西万博」とすることを決めた。広く使われる略称は誘致の段階から関西全体をアピールしてきたことや、1970年の「大阪万博」と区別できるようにすることを踏まえたという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月25日・朝刊、13版、34ページ)

 

 「2025年日本国際博覧会」や「大阪・関西万博」という名称については何の異議もありません。

 ところで、略称というのは、元の名称の一部分を使って短く表現するもののことです。「2025年日本国際博覧会」を略しても、「大阪・関西万博」という言葉は生まれてきません。「大阪・関西万博」は略称ではありません。別称とでも言うべきものでしょう。

 経済産業省が別称を決めることは問題ないと思います。けれども、それを「略称」と称することは間違っています。国のお役所が、間違った日本語の使い方を率先して行ってはなりません。

 この発表に対して、報道機関が、言葉の使い方が間違っているという声を上げないのは、新聞や放送も、間違った使い方に気付いていない、あるいは、間違った使い方を容認しているということでしょう。報道機関が日本語に敏感でないということは、まったく悲しいことであると思います。

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2019年2月14日 (木)

言葉の移りゆき(299)

「国魚」で輸出拡大

 

 この連載の(292)回で、国技と国石のことを書きました。その続きです。こんな文章がありました。

 

 日本の国鳥はキジで、国蝶はオオムラサキである。鳥と昆虫の学会がそれぞれ昭和の時代に選定し、広辞苑にも明記されている …(中略)

 国魚にニシキゴイを推す動きが浮上している。輸出拡大につなげようと、自民党の有志が議員連盟を発足させるという。そこで何が国魚にふさわしいか、同僚と話してみたが、めでたいのタイだ、清々しいアユだ、食卓でなじみ深いサンマだ、と議論百出、結論に至らなかった

 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月23日・夕刊、3版、1ページ、「よみうり寸評」)

 

 国石を日本鉱物科学会の総会だけで決めるのはどうかと疑問を持ちましたが、鳥も蝶も同じようなことだったのですね。こういうものを決める際に、国民全体の議論などはできないでしょうから、学者の集まりで決めるというのは、一般の人にも納得しやすい方法であるのかもしれません。(ただし、国石、国鳥、国蝶というものを決めなければならないかどうかというのは、別の問題です。)

 国石について、一部の人たちへの利益誘導のような気配があっては困ると書きましたが、国魚の場合は、正真正銘の利益誘導です。ニシキゴイの輸出拡大を図るためにニシキゴイを国魚にすると、堂々と主張しているようです。ひとつの党の議員で推進するというのも、国鳥・国蝶・国石とは異なったやり方です。

 国魚を何にしようかということを国民全体で議論したら、たぶん決まらないでしょう。国民が関心を持たない間に、そそくさと決めてしまおうといういう目論みかもしれません。 学会ではいろいろな候補から選んだことでしょう。ところが、ニシキゴイの場合は、それを国魚にしようという目標点が決まっていて、それをいつ、どのようにして決める(決めてしまう)のかということだけの方法論になっているようです。

 そんなふうにして決めるのなら、誰もそれを本当の国魚だなどとは思わないでしょう。言葉はみんなの納得、共通理解の上で成り立つものなのですから。

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2019年2月13日 (水)

言葉の移りゆき(298)

東京ローカルを日本全体に押し広げる

 

 NHKラジオ第1放送に「ラジオ深夜便」という番組があります。毎日、持ち回りで担当アナウンサーが変わるのですが、週に1日だけ関西発ラジオ深夜便があって大阪局が担当しています。それ以外にも月に1度か2度ぐらい仙台発とか岡山発とかの地方局の担当があります。

 この番組の冒頭に担当アナウンサーの日常報告のようなものがあるのですが、「渋谷の駅からNHKに来るまでの間に、こんなものを見ました」とか、「渋谷の交差点は…」とか、「渋谷の街角では…」とか、「渋谷の空模様は…」とかいうように、渋谷の話が多いのです。アナウンサーも一人の人間ですから、渋谷での見聞が多いのは当然でしょう。

 1週間7日のうち6日間を東京局で独占しているのですから、こういうことになります。そして、そういうことに何の疑問も感じていないようです。毎日、全国持ち回りにしましょう、と言っても、鼻先でフフンと笑われるだけだけでしょうね、きっと。

 総合テレビの「シブ5時」などというのは番組名にまで露骨に現れています。首都圏の人は何とも感じていないのでしょうが、他の地域の人に対する配慮が根本的に欠けているのです。

 新聞も同じです。東京で書いた記事が全国に流されます。政治・経済がけでなく、文化に関わることも東京一極集中です。こんな文章がありました。

 

 書棚の奥からひょいと出てきた「渋谷語辞典2008」。この本は「渋谷に生息する若者たちが日常的に使っているコトバ《渋谷語》を紹介する本です」とある。大きく「ギャル語・略語」「KY語」「ネオ漢字」の3ジャンルにわかれている。 …(中略)

 渋谷に生息する若者は、新しいコトバを発信しながら、優しいフォローも忘れない。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月23日・夕刊、3版、6ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 なぜ今頃になって「…2008」という本を話題に持ち出したのか理解できませんが、渋谷から発した言葉が日本全体を左右しているような言い方になっています。「キチョる」という言葉や、「神」や「民」という表現が渋谷から発信されたように書いてありますが、事実はその通りなのでしょうか。「…2008」という本は、その当時に渋谷にいた若者も、たまたま使っていたというだけなのではないでしょうか。

 東京にいる人間は、渋谷が若者の街であるから、若者語も渋谷から発信されていると思い込み、そしてそれが全国の人を導いているかのような錯覚を強く持っているのではないでしょうか。

 東京人の視野は意外に狭く、自分たちが日本の代表だというような誤解を心の奥底に持っているように感じます。渋谷という東京ローカルを、日本の中心だというように誤解して、それを日本全体に押し広げようとするような愚挙は、そろそろお終いにしませんか。

 放送や新聞の世界はずいぶんと思い込みの強い世界であるようです。地方分権は政治や経済だけのことではありません。

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2019年2月12日 (火)

言葉の移りゆき(297)

眠りながら使う「枕詞」

 

  あまざかる夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ恋ひ来れば明石の門()より大和島見ゆ

 万葉集に載せられている柿本人麻呂の有名な歌です。「あまざかる」は「夷」にかかる枕詞です。

 枕詞とは、一定の言葉の前に置く5音節(もしくは4音節)の一定の修飾語のことです。枕詞よりも長い「序詞」が作者の創造性に満ちた表現であるのに対して、枕詞は慣用的に使い古されてきた表現で、作者が創造するものではありません。

 国語辞典を見ても、「枕詞」は、上のようなものとして説明されています。

 ところが、現代の文章の中では、枕詞の意味を理解していないような表現が見られます。

 

 「伝説の……」といった枕ことばがつく映画の修復版が、続々と劇場公開されている。近年は高精細な4Kデジタルで復活する事例が増えてきた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月2日・朝刊、13版、30ページ、小峰健二)

 

 -著書で元号では時代を表すことができないと指摘しましたが、改元を控えて「平成最後」という表現があふれています。

 「流行語のように枕詞として使われているが、イベント的な盛り上がりに過ぎない。新元号の予想ブームも起きた。 …(以下、略)…」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月18日・朝刊、13版、4ページ、「元号を考える②」、話し手・鈴木洋仁、聞き手・田嶋慶彦)

 

 ここで言う枕詞とは、「伝説の」と「平成最後()」という言葉です。和歌の修辞の枕詞とは違ったものです。これは枕詞ではなく、連体修飾語というべきものです。(使い方しだいでは、連用修飾語も成り立つのかもしれません。)

 いくら、言葉の慣用・誤用に寛容な国語辞典でも、認めたくはないのでしょう。そんな意味を載せている国語辞典は珍しいのです。私も、その考えに賛成です。

 ただ、『三省堂国語辞典・第5版』は、新しい意味・用法を取り入れることに積極的です。①②の二つの意味が併記され、②は次のように書かれています。

 

 ②話のはじめに添えて言う決まり文句。

 

 繰り返して言いますが、枕詞には独創性がありません。現代の文章の場合も「決まり文句」に過ぎません。本当は使わなくてもよいような言葉を、話のはじめ(または、文頭)に書いているだけなのです。眠りながら使ってよいような言葉ですから「枕」の言葉であるのかもしれません。

 修辞技法のことや、文法(語法)のことや、言葉の慣用的な用法を無視したような文章を読むと、苛立ってきます。話し言葉で使われることはやむを得ないとしても、書き言葉としての新聞では、配慮が必要であると思います。

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2019年2月11日 (月)

言葉の移りゆき(296)

懐炉と歯磨き粉

 

 子どもたちが「かいろ」という言葉を国語辞典で引いたとき、違和感を持つのではないかと思います。かいろ、つまり寒いときに衣類に貼り付けたりして使うもののことです。

 

『三省堂国語辞典・第5版』  衣服の内がわに入れて、からだをあたためる道具。

『新明解国語辞典・第4版』  衣服の内側に入れ、からだを暖める道具。

『現代国語例解辞典・第2版』  懐などに入れて体を温める器具。

『明鏡国語辞典』  衣服の内側に入れて体をあたためる携帯用の器具。

 

 違和感というのは、このように小さくてやわらかいもののことを「道具」や「器具」と言うのだろうかということです。「道具」や「器具」の定義が気になります。

 かいろは「懐炉」ですから、かつては道具・器具でした。国語辞典のこれらの説明は、例えば白金懐炉のようなもののことを説明していて、現在、主流となっているペッタンコのカイロのことに気づいていないのではないかと思えるほどです。『岩波』は、旧来のものに限った説明をしています。

 

『岩波国語辞典・第3版』  衣服の内側に入れて体を温める道具。金属製の小箱で、特殊な灰揮発油を燃料とする。

 

 どういう物体に変化をしても、「懐炉」という言葉は生き続けてほしいと思います。けれども、「道具」「器具」という説明は時代遅れのように感じます。

 

 話題が変わります。次は「歯磨き粉」です。

 幼いときのことを思い出すと、歯磨き粉は、正真正銘の粉でした。ゴホンと咳をすると、缶に入った粉が吹き飛んでしまうようなものを使いました。今は、粉を練ったものがチューブに入っています。でも、やっぱり「歯磨き粉」と言いたいのが私の気持ちです。

 こんな記事がありました。

 

 虫歯や歯周病の予防、歯の美白、口臭の軽減……。ドラッグストアの棚にはさまざまな特徴をアピールする商品が並び、目的に合った歯磨き粉が選べます。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月19日・朝刊、13版、9ページ、「きりとりトレンド」、辻森尚仁)

 

 見出しにも「歯磨き粉」という文字が使われています。「歯磨き」ではなく「歯磨き粉」であるのが嬉しいのです。

 ところで、上にあげた5種の国語辞典は、すべて、「歯磨き」の見出しだけで、「歯磨き粉」はありません。歯磨きのことを、粉状またはペースト状の洗剤というように説明はしていますが、「歯磨き粉」という言葉は省かれてしまっています。「歯磨き」というのは用途・作用などに注目した言葉です。もの自体を表す「歯磨き粉」が消えてしまったのは寂しいことです。

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2019年2月10日 (日)

言葉の移りゆき(295)

「絶滅危惧動作」の面白さ

 

 楽しい記事を読みました。絶滅危惧というのは動物や植物のことだけではなく、人間生活の中にもあふれていることに注目した図鑑のことです。

 

 東京芸術大学の大学院生、藪本晶子さん(25)の作品について取材しました。その名も「絶滅危惧動作図鑑」。最近、あまり見られなくなった「テレビを叩く」や「墨をする」といった全57種類の動作が図鑑にまとめられています。 …(中略)

 「モノは博物館などで紹介されるが、動作は残らない。ならば、置き去りになってしまう動作を残すものがあってもいいんじゃないか」。そんな思いが今回の図鑑につながったそうです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月19日・夕刊、3版、2ページ、吉田貴司)

 

 モノは博物館で紹介されるが動作は残らない、という考えに同感です。私は今、方言辞典を刊行しようとしています。博物館にモノは展示されていますが、言葉(方言)の収集・保存が行われていないという現状を踏まえての取り組みです。

 全国に博物館、歴史館、民俗館というようなものはたくさんありますが、言葉(方言)の博物館はありません。形のないものには無関心であるというのが、文化財行政の姿です。方言辞典の刊行には1円の補助金も出ませんが、個人で取り組まなければならないことです。

 さて、絶滅危惧動作を、自分で振り返ってみました。

 チャンネルをガチャガチャ変える。電話機のダイヤルをくるくる回す。切符にハサミを入れてもらう。ガムを噛んで風船を作る。立って伝馬船の櫓をこぐ。流れ出る鼻水を袖口でふく。間違ったところを砂ゴムで消す。木登りをして、木の股に座る。木切れを集めて焚き火をする。

 まだまだ、いくらでもありますが、このあたりにしておきます。

 私は、絵で書くことは苦手ですが、刊行を予定している方言集には、方言語彙の用例で、そのようなことをなるべく取り上げるようにしています。

 私が大学の卒業論文を書いたときは、パソコンはもちろん、コピー機も普及していませんでした。その時は「カーボン紙で複写する」ことをして、提出したものとは別に、手元に論文を残しました。

 私は子どもの頃から「新聞を切り抜く」ことをして、今も続けています。けれども、今は、切り抜いてからスキャンの作業をして、切り抜き自体は処分しています。今どき、新聞を切り抜いている人はどれほどいるのでしょうか。

 「新聞を読む」ことが絶滅危惧動作に入らないようにと願わずにはおれません。

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2019年2月 9日 (土)

言葉の移りゆき(294)

「無音のオノマトペ」とは何か

 

 オノマトペというのは擬音語や擬態語のことです。「無音のオノマトペ」と題された文章がありました。「無音のオノマトペ」という言葉自体は矛盾を含んでいると思いますか。それとも、当たり前のことを言っているに過ぎないと思いますか。

 私にとって、それは、当たり前きわまりないことでしかありません。擬音語というのは「音」を表しますから、何らかの「音」があります。「ざざっと水があふれ出る」とか「ぱちぱちと手を叩く」というのは、音が発生しているのです。

 けれども、擬態語には「音」がないのが普通です。「さっと手を挙げた」とか「そっと頭を撫でた」とか言っても、「さっ」とか「そっ」とかの音は聞こえません。擬態語をすべて並べあげても、音の感じられる擬態語は少ないと思います。

 さて、「無音のオノマトペ」と題された文章には、このようなことが書かれています。

 

 小野教授が教えてくれたのが、坂本眞一が描く「イノサン」(集英社)だ。

 フランス革命時代の死刑執行人の話。コミックス9巻までを読んだ。1巻は99ページまでオノマトペは見当たらない。馬が走る場面にも「バカッ、バカッ」などの擬音語がない。9巻までのオノマトペは、ほぼ全てが吹き出しの中で台詞として機能している。

 しかしね精緻な絵から確かに音が聞こえる。「あえて狙った高度な表現手法だ」と小野教授は話す。「無音のオノマトペ」でもいうべきか。うならされる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月6日・夕刊、3版、5ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 場面の描写にオノマトペがなく、吹き出しの台詞にオノマトペがある、というのは当然です。感心することではありません。

 なんとなんと、「無音のオノマトペ」という題名は、擬音語や擬態語が使われていないということでした。そんなことを言うのなら、世の中の多数の文章は「無音のオノマトペ」で書き綴られているということになります。

 誤解してはならないことは、文章として綴られるものにこそオノマトペは必要であって、目に訴えかける度合いの高い映像や漫画・劇画のようなものにはオノマトペの必要度は低い(極論すれば、皆無である)ということです。

 文字で書かれた文章では、それにふさわしい場所にオノマトペが使われて、効果を上げるのは当然のことです。そのためにオノマトペは存在しているのです。文章は文字だけで書かれているのです。具体的な場面や状況を文字だけで表現しなければならないのですから、オノマトペに頼る必要があります。

 それに対して、映像や漫画・劇画などで表現されるものにオノマトペが少ない(あるいは、必要でない)のは当然のことです。具体的な場面や状況が表現されているものに、擬音語や擬態語を付け加える必要度は小さいのです。

 映像や漫画・劇画にオノマトペが多用されるのは、言葉として無駄であるとも言えます。擬態語や擬態語を画面だけで表現できないのは、表現能力の不足であるのかもしれないのです。

 「イノサン」という作品に感心すべきではなく、むしろ、オノマトペを多用した作品の稚拙さを指摘すべきであると思います。

 

 冒頭のことに戻ります。「無音のオノマトペ」は何も珍しいことではありません。前述のように、擬態語の大部分が「無音」です。

 私は、「無音のオノマトペ」という言葉を見たとき、「しーんと静まり返った会場」というような表現を思い浮かべました。擬音語で、「しーん」という言葉を使う不思議さ、面白さです。まさに無音の状態を「しーん」という音で表現するというのは、不思議なことですが、これこそ日本語の面白さでもあるのです。

 テレビ画面で、静粛な会場を映しているのに、アナウンサーが「しーんと静まり返っています」と実況したら、愚の骨頂と言わねばなりません。

 

 新聞は、明確な誤りの場合は「訂正して、おわびします」という記事を書きます。けれども、上記のようなものには、見て見ぬふりをします。政治家の失言を目の色を変えて報道するのは当然のことですが、新聞社の内側のことは実に寛大です。

 なお、私は、『明石日常生活語辞典』(武蔵野書院)という方言辞典を今年、刊行しますが、この辞典では方言に現れる擬音語・擬態語を積極的に取り上げています。(小さな活字で850ページを超えますので、現在は校正作業を続けています。)

 

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2019年2月 8日 (金)

言葉の移りゆき(293)

校閲という仕事

 

 人間は誤りをおかす生き物です。他者に伝える情報の中に誤りが生じても不思議ではありません。けれどもマスコミは、その誤りを最小限にすべく、さまざまな努力を続けていると思われます。

 この連載の(259)回で、私は、毎日新聞校閲グループが書いた『校閲記者の目』(毎日新聞出版、2017年9月5日発行)という本について書きました。この本は、単なる文字・数字などの誤りだけでなく、言葉の用法・用例などを検討し、様々な視点から言葉に検討を加えていることを知り、頭が下がる思いになりました。さらに、言葉の問題だけでなく、そこに書かれている内容が正しいかどうかという検証にも多大なエネルギーを費やされていることがわかりました。

 

 さて、この連載の(288)回で、私は「オノマトペについての疑問」という文章を書きました。数日前の記事ですから、その内容を改めて書くことはしません。(2月3日付けのブログをご覧ください。)

 この記事をご覧になった、朝日新聞の担当者から、2月4日に、次のようなメールをいただきました。私信ではありますが、その後の記事との関連が生じますから、主要な部分をそのまま引用します。

 

 「日本国語大辞典」(小学館)には約50万のことばが載っている。そのうちオノマトペは1割ほどを占める、としたのは、「1%ほどを占める」の誤りでした。明治大学文学部の小野正弘教授から約50万語を載せている「日本国語大辞典」から、オノマトペを約4500語抽出して「オノマトペ辞典」を作ったという話をお聞きしました。それぞれの数は、私自身でも確認しておりました。原稿にする際に、当初「4500ほど」としていました。字数があふれたため割合で書こうとしました。しかし「1%」とすべきところを思わず「1割」と誤りました。私の確認不足でした。申し訳ありません。あす夕刊で訂正を出します。

 

 そして、翌日の夕刊に、訂正記事が掲載されました。

 

 訂正して、おわびします  ▼1月30日付総合2面「ことばのたまゆら」で、「『日本国語大辞典』(小学館)には、約50万のことばが載っている。そのうちオノマトペは1割ほどを占める」としましたが、「1割」とあるのは「1%」の誤りでした。取材メモから記事にする際、単位を混同しました。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月5日・夕刊、3版、8ページ)

 

 いただいたメールの文面と、訂正記事とはきちんと符合しています。けれども、これほど安易な訂正記事はありません。そして、新聞社内では何の校閲作業も行われずに元の記事が掲載され、そして、今回の訂正記事についても何の校閲も行われていないことが明確になりました。

 

 私は、(288)回のブログで、〈「日本国語大辞典」に載っている言葉の1割ほどがオノマトペだというのは、その辞典を使っている者として、まったく実感がありません。〉と書きました。今回は「1%」と訂正されました。

 改めて申します。「日本国語大辞典」に載っている言葉の1%ほどがオノマトペだというのは、その辞典を使っている者として、まったく実感がありません。

 「ことばのたまゆら」の筆者は、『日本国語大辞典』の語数が50万で、小野正弘編『日本語オノマトペ辞典』のオノマトペ語数が4500余語であることを根拠に、『日本国語大辞典』のうちのオノマトペは1%ほどを占めるという結論を導いているのですが、そんないい加減な比較は成り立ちません。まるで、どこかの国の統計問題と同じです。

 『日本国語大辞典』の50万語をすべて調べて、そのうち5千語がオノマトペであることを示さなければなりません。そんな作業をしないのなら、こんな結論を述べてはなりません。それができないのならば、『日本国語大辞典』の編集に携わった人からの証言を載せなければなりません。「ことばのたまゆら」の筆者が、勝手な結論を下してはいけません。

 

 具体的に申しましょう。『日本語オノマトペ辞典』の「あ」の項には、「あーん」「あおーあおー」「あおらあおら」「あくあく」「あぐり」「あけらかん」「あたふた」「あっか」「あっけらかん」「あっさり」「あっはっは」「あっぱっぱ」「あっぱとっぱ」「あっぱらぱー」「あっはん」「あっぷあっぷ」「あっぺとっぺ」「あはあは」「あばあば」「あばちゃば」「あはは」「あぶあぶ」「あぷあぷ」「あふらあふら」「あへあへ」「あべこべ」「あむあむ」「あやふや」「あらり」「あわあわ」「あわわ」「あん」「あんあん」「あんぐり」「あんけ」「あんごり」「あんざり」「あんじり」という語が並んでいます。

 『日本語オノマトペ辞典』の「あ」の項にある4500語が、『日本国語大辞典』50万語の中にすべて収められておれば、問題はありませんが、そうでなければ、2つの辞典を比較しただけの、偽りの数字だということになります。

 上にあげた言葉を『日本国語大辞典(初版)』で見ていくと、「あおーあおー」、「あおらあおら」、「あくあく」、「あっか」、「あっぱっぱ」、「あっぱとっぱ」、「あっぱらぱー」、「あっはん」、「あっぺとっぺ」、「あばちゃば」、「あへあへ」、「あむあむ」、「あらり」、「あんざり」などが、載せられていなかったり、意味・用法の相違が見られたりします。

 仮に『日本国語大辞典』を基準に置くと、『日本語オノマトペ辞典』の編者は追加や削除を行っているのです。辞典の編集者が独自の観点から言葉を選ぶのは当然のことです。

 そもそも、2つの辞典の語数を比べて、安易な比較をしたことが間違いでした。撤回して訂正しなければならないでしょう。

 それにしても、社内の校閲の体制が整っていないということを露呈したような出来事でした。

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2019年2月 7日 (木)

言葉の移りゆき(292)

「国技」と「国石」

 

 「国技」という言葉を国語辞典で引くと、たいていの辞典が、その国特有の伝統的な武芸・スポーツ、というような説明になっていて、日本の場合は相撲であるように書かれています。柔道、剣道、弓道などでないのは、手を挙げる(宣言する)のが遅れたということでしょうか。

 仮に、スポーツに限定した場合、「伝統的な」という制約がかかってしまうと、近代以降に発展したスポーツを国技と見なせなくなってしまいます。

 もうひとつの疑問は、国技とは武芸やスポーツでなければならないのでしょうか。国技という言葉を、国民的な「技(わざ)」と考えれば、緻密なものに取り組む、手先の器用さこそ、日本()の国技であるようにも思えます。例えば、織物を作り上げる技術こそ、日本の国技であるというように。

 さて、こんな文章がありました。

 

 相撲はどうして「国技」なのか。誰かが決めたわけでも、法律で決めているわけでもない。どうも「国技館」で催されるから国技となったようだ。ノンフィクション作家の高橋秀実が『おすもうさん』で書いている。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月18日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 

 芭蕉の「おくのほそ道」をたどって糸魚川を訪れたとき、ヒスイが国石になったということが、あちこちに書かれていました。ヒスイが貴重な石であることはわかりますが、国石とは何なのでしょうか。

 

 日本を代表する石、すなわち「国石」は、これまで正式に決められていませんでした。

 2016(平成28)年9月24日、金沢大学で開かれた日本鉱物科学会の総会で「国石」の投票が行われ、花崗岩、輝安鉱、自然金、ヒスイの最終候補のなかから、糸魚川ゆかりのヒスイが選定されました。

 (Lively信州2017」ナガタビ発行、発行日の記載なし、22ページ)

 

 学会の総会で、候補の中から投票で決めたというのは、一見、民主的であるように思われますが、その学会参加者に限定された投票であったのでしょう。「国石」を決めようというのも、一部の人の発案であったのかもしれません。

 「国技」も「国石」も、一部の人たちへの利益誘導のような気配がぬぐい去れないという疑問が残ります。

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2019年2月 6日 (水)

言葉の移りゆき(291)

「合い」という接尾語(造語成分)の主観性

 

 「頃」と「頃合い」はどう違うのでしょうか。「意味」と「意味合い」はどう違うのでしょうか。

 「頃」とは、ある時期(や、その前後)を言う言葉ですが、「頃合い」とは、ちょうどよい時機、ちょうどよい程度、というような意味です。「頃合いを見図る」などという表現があるように、「頃合い」には主観的な要素が強くなっています。

 さて、次の文章における「意味合い」はどんな働きをしているのでしょうか。

 

 このように元号の使用には天皇の支配に服するという象徴的な意味合いがある。リベラルが元号廃止を唱え、保守派が反発するのも、このためだろう。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月15日・朝刊、10版、29ページ、「呉座勇一の歴史家雑記」、呉座勇一)

 

 元号の是非を論じるつもりはありません。「意味合い」という言葉を考えたいと思うのです。「象徴的な意味合いがある」と言っても「象徴的な意味がある」と言っても大差はありません。

 「頃合い」と同様に、「意味合い」にも、〈ちょうどよい意味〉すなわち〈都合のよい意味づけ〉というような要素が加わっているのかもしれないと思います。前後の事情や文脈に適合するような場合に、この「意味合い」という言葉は、便利なものとして使われているような気がするのです。

 「意味合い」はエッセーでは使えても、論文では使うのがはばかられる言葉ではないかと思うのです。

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2019年2月 5日 (火)

言葉の移りゆき(290)

「黒歴史」という言葉と、新聞の黒い歴史

 

 遅いのかもしれませんが、今年になって知った言葉に「黒歴史」というのがあります。

 

 日本人の母、ドイツ人の父の元に生まれ、ドイツのミュンヘンで育った。平日はドイツ人しかいない地元校、土曜には日本人の子どもが学ぶ日本語補習校に通ったが「どちらにも属しにくい」との思いがあった。 …(中略)

 思春期には疎外感から逃れたくてドイツ人に同化しようとし、日本への悪口に同調した「黒歴史」もある。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年1月1日・朝刊、13版、2ページ、「平成という時代」、聞き手・鈴木美穂)

 

 いぬパパさんが描いたのは、実体験を元にした甘酸っぱい漫画。思い出すことで「あの頃のダメダメな自分を再認識しました」と話します。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月12日・夕刊、3版、2ページ、「ウニユ×BCOK BOOKS)

 

 「黒歴史」という言葉の守備範囲がわかりませんので、ホームページを検索してみました。なかったことにされている(あるいは、したい)過去の事柄とか、隠しておきたいこととかの意味のようです。

 前者は、あるコラムニストを紹介した記事です。よく考えたら、国と国との政治はすべて「黒歴史」かも知れません。日露にも日中にも日韓にも、そのような要素がいっぱいあるようです。

 けれども、この言葉は、個人の内面にあるものを指して使うようです。それならば、誰でも、大なり小なり、そのようなものを持っているのではないでしょうか。秘めたる過去や、心のわだかまりや、内緒にしておきたいことなどを、「黒歴史」などというのは、言葉として大袈裟すぎると思います。

 後者の本文には「黒歴史」という言葉は使われていません。見出しだけが突出して「成人式の黒歴史」と書いています。またまた、見出しの独断と横暴です。

 そもそもこの記事のタイトル名「ウニユ×BCOK BOOKS」が、私には意味不詳です。そして、添えられている漫画が始まりの始まりに過ぎません。意味のない漫画です。そして「漫画の続きはQRコードから」と書いてあります。新聞記事が、記事の役割を果たしていません。新聞は記事そのものが他メディアへの導入に堕していく傾向を見せています。この欄だけでなく、あちこちにその兆しは見えています。そのうちに、QRコードだけが印刷されている新聞が出現する時代が来るのでしょうか。新聞の黒い歴史が始まりつつあるのかもしれません。

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2019年2月 4日 (月)

言葉の移りゆき(289)

「八戸前沖」という表示

 

 鯖の水煮の缶詰に「八戸前沖」と書いてありました。八戸という地名に「前」と「沖」が加わった言葉です。

 寿司などで「江戸前」というのを、長い間、私は勝手に「江戸流」「江戸風」(=江戸のやり方)というように理解していました。けれども、「江戸前」というのは江戸の前の海、すなわち東京湾であるということを知りました。そこでとれた魚介のことも江戸前と言うようです。とは言え、このような使い方は、「江戸前」の他にもあるのでしょうか。「名古屋前」? 「大阪前」? 「博多前」?

 明石鯛や明石蛸で知られる兵庫県明石市には、明石前などという言葉はありません。地元では「前どれ」と言っています。前どれとは、明石海峡(および播磨灘など)でとれた魚介のことです。「前」と言えば、明石海峡ということが互いに理解されているからです。

 一方、ニュースで「三陸沖」「金華山沖」「野島崎沖」などという言葉を聞きます。三陸というのは陸前・陸中・陸奥の総称ですから、三陸沖というのはかなり広い海域です。金華山沖や野島崎沖というのは、特定の地点の沖に広がる海域ですが、どれぐらいの広がりがあるのか、理解できません。金華山沖何カイリというような、距離の起点になっているような気もします。

 さて、「八戸前沖」のことを考えます。江戸や明石は湾入したような海域ですから、「前」と言っても、その広がりに限度があります。「八戸前」の場合は、太平洋が広がって限界がありません。鯖の漁は海岸から離れたところでも行われるのでしょうが、それを「八戸沖」と言ったのではかなり遠いところまでを指してしまって、印象がよくないかもしれません。そこで工夫されたのが、「前沖」という言葉ではないかと思うのですが、そのような理解は間違っているのでしょうか。この「前沖」という言葉は、他の地域でも使われているのでしょうか。

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2019年2月 3日 (日)

言葉の移りゆき(288)

オノマトペについての疑問

 

 オノマトペについて書かれている記事を読みました。いささか納得できませんので、そのことについて書きます。

 記事は、こんなふうに書かれています。

 

 「太陽がジリジリと照りつける」「ドアをガンガンたたく」。「ジリジリ」などの擬態語や「ガンガン」などの擬音語を総称してオノマトペと言う。この語源はフランス語だ。オノマトペをうまく使うと、硬い文章が軟らかくなる。 …(中略)

 「へたる」の「へた」がもとになって「へたへた」「へったり(古語)」。濁音や半濁音に変えて「べたべた」「べたり」「ぺたん」「べたっ」「べたー」などと、反復したり「り」「ん」「っ」「ー」などをつけたりして、たやすく表現を増やせる。

 「日本国語大辞典」(小学館)には、約50万のことばが載っている。そのうちオノマトペは1割ほど占める。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月30日・夕刊、3版、7ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 「オノマトペをうまく使うと、硬い文章が軟らかくなる」という表現は正しいのでしょうか。例えば、「太陽が照りつける道を歩く」と言うだけでは具体的な姿は浮かんできませんが、それを「太陽が照りつける道をさっさと歩く」「…よろよろと歩く」「…ぐったりして歩く」「…ふうふう言いながら歩く」などと言うと、歩く姿が現実味を持って迫ってきます。オノマトペの効用は、〈硬い-軟らかい〉という対比ではなく、〈抽象-具体〉という対比になるはずです。

 具体例として挙げられている言葉の関係が、実に不思議な書き方になっています。

 「へたる」は、疲れて倒れるとか、尻をつけて座るとかの意味です。「へたへた」は、力が抜けて急に倒れ込む様子を表す言葉です。けれども、「へたる」の「へた」がもとになって「へたへた」「へったり」が生まれたというのは検証されているのでしょうか。「へたへた(する)」から「へたる」という動詞が生まれたのではないのでしょうか。

 「へったり(古語)」という注記も読む人を迷わします。まるで、現代語がもとになって古語が生まれたような書き方です。「へたる」「へたへた」「へったり」などの言葉は、浄瑠璃や歌舞伎、滑稽本、日葡辞書などに記録されている言葉です。「へったり」だけが古語というわけではありません。

 「日本国語大辞典」に載っている言葉の1割ほどがオノマトペだというのは、その辞典を使っている者として、まったく実感がありません。この数字は正しいのでしょうか。何らかの典拠を示してほしいと思います。

 小野正弘編『日本語オノマトペ辞典』(小学館)は、帯に「日本最大の4500語を収録」と書かれています。この詳しい辞典でも、そのような数字です。『日本国語大辞典』が5万語も集録しているようには思えません。二つの辞典の、オノマトペの定義が異なるというのでしょうか。

 

 私は昨年、このコラム「ことばのたまゆら」の誤りを指摘しました。そのコラムが間違っていたということを認めて、1回分のコラムが誤りの訂正に費やされました。今回も同様のことでなければ幸いであると思います。

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2019年2月 2日 (土)

言葉の移りゆき(287)

なさけない「5分間のきらめき」

 

 前回の「きらめく」の続きとなる話題です。

 忙しい時代になった、時間が乏しい、だから、簡潔でないとダメだ、などという言葉をよく聞くようになりました。ビジネスマンの心得であるのなら、とりあえずは納得することにしましょう。

 けれども、これから成長していく子どもに、そのような生き方・感じ方・考え方をするように仕向けるのはよくないと思います。読書を手っ取り早く行うなどと言うのは論外です。

 次のような文章を読むと、子どもに対する姿勢が間違っているように思います。

 

 あなたのココロに、5分間のきらめきを-。そんなコピーとともに一昨年、河出書房新社と小説投稿サイト・エブリスタは、青少年向け短編小説集シリーズを立ちあげた。タイトルは「5分」×「心の状態」が基本で、例えば『5分後に感動のラスト』。 …(中略)

 「スマホやゲーム、子どもたちの娯楽は一瞬で楽しめ、完結するものが多くなった。何日もかけラストを追うことに慣れていない子は多いと思う」と、河出書房新社の担当編集者・中村孝志さん。 …(中略)

 ライブ・エンタメ市場の調査を行う「ぴあ総研」の笹井裕子所長は最近、女子大学生への取材で、彼女たちが気にする情報の共通点に気づいたと言う。「文章が長いものは読まない。写真などで、パッと感性に訴えないとダメ」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月7日・朝刊、13版、31ページ、「感情振動 ココロの行方⑤」、増田愛子・伊藤恵里奈)

 

 出版社は、売れればよいという考え方を基盤に置いてはよくないと思います。5分間で「きらめく」読書を、価値あるものと考えているのでしょうか。「何日もかけラストを追うことに慣れていない子は多い」というのなら、根気強い読書をさせるためのシリーズ本を開発する努力をすべきです。

 朝の10分間の読書では、何日もかかって一つの作品を読み終えるということの方が、心に残るはずです。ある箇所まで読み終えて、次の展開に思いを巡らすという心の働きを理解しなければなりません。次の読書までの間に考えたり感じたりすることが大切なのです。特別な努力をしないでも結末に導いてくれる超短篇で、何を考えろ、感じろ、というのでしょうか。5分間でストーリーも感動も終わりを迎えるなどというのはほんとうの読書ではありません。5分間のきらめきは、5分間で消えてしまうかもしれません。

 小中学生のときに手っ取り早い読書経験をした人は、大学生になっても、長い文章を読むのが苦手で、即座に感性に訴えてくれるものしか受け付けなくということが、ライブ・エンタメ市場の調査に現れているのです。出版社は、今度は、大学生向けや中高年向けにも5分間読書の本を作ろうと計画しているのでしょうか。

 ちょっと立ち止まって考えたら、何が正しいのかはすぐにわかるはずです。出版の世界にも利益至上主義が広がろうとしているように感じます。

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2019年2月 1日 (金)

言葉の移りゆき(286)

「春めく」ことは命じられない。「きらめく」ことも同じだ

 

 2月になりました。もうすぐ立春です。早く春めいてほしいと思いますが、自然の動きに対して命令はできません。祈ることが精いっぱいです。

 「春めく」という動詞の「めく」という接尾語(造語成分)は、用言の語幹や、副詞、擬声語などに付きます。そのような状態になる、それらしく見える、というような意味です。「冬めく」「古めく」「ざわめく」などという言葉が思い当たります。静かにせよ、と命じることはあっても、ざわめけ、などと命令することはありません。人工的にそのような状況を作り出すことではないからです。

 

 金属球を落下させて「流れ星」を作る世界初の人工衛星が打ち上げられるというニュースがありました。流れ星の実験は来年春になるそうです。

 それを報じる記事の見出しが、次のようになっていました。

 

 きらめけ流れ星 人工衛星から / ベンチャー「宇宙エンタメ」に挑戦 / 17日に試験打ち上げ、20年に実験へ

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月11日・夕刊、3版、13ページ、見出し)

 

 自然現象を人工として作り出すのですから、「きらめく」ことも作り出せると思ったのでしょう。しかし、いくら流れ星の実験だと言っても、きらめくか否かは自然の法則に頼るしかありません。「きらめけ」という命令ではなく、「きらめいてほしい」という願いでしかありません。

 強い願望がこのような言葉に現れたということは理解できますが、「…めく」という言葉に命令形を作るという、言葉への「挑戦」はおやめくださいと言いたくなります。

 記事の本文には「きらめく」という言葉は出てきません。ここにも、新聞の見出しの暴言が見られるのです。

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