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2019年3月14日 (木)

言葉の移りゆき(327)

死語というもの

 

 たとえば「炭団(たどん)」という物をまったく知らない世代なら、国語辞典にその言葉が載っていなくても不自由はないでしょう。「ケセラセラ」という、人の心の様子を表す言葉の場合も同じでしょう。

 炭団もケセラセラも、今ではよほどのことがない限り、その言葉を使うことはないかもしれません。けれども、若い世代の人が、何かの折りにこの言葉に出会って、国語辞典を引いたとき、それが載っていなかったら、困るでしょう。高齢世代にとっては、炭団もケセラセラも身近な言葉であったように思います。

 小型の国語辞典の場合、炭団はかろうじて載っていますが、いずれは消える運命にあるのかもしれません。ケセラセラはもはや載っていない辞典があります。(ケセラセラは、はじめから載らなかったのかもしれません。)

 このような言葉は死語と言われることがありますが、言葉は、完全に使われなくなるということは、あり得ないことでしょう。

 アンケートをもとにした「あなたは楽観派?悲観派?」という記事の中に、こんなことが書いてありました。

 

 日本人は悲観派が多いと記者は感じていたが、回答者の55%は楽観派だった。人生を達観したような様々な言葉が楽観派から相次いだ。

 最も目立ったのは「何事もなるようにしかならない」と、ほぼ同義の「ケセラセラ」。下手の考え休むに似たり、人事を尽くして天命を待つ、人間万事塞翁が馬……といった格言も並ぶ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月16日・朝刊、be10ページ、「between読者とつくる」、辻岡大助)

 

 この記事の小見出しは「ケセラセラな人生」となっています。記事を読む限り「ケセラセラ」の意味は推測できるようになっていますが、この言葉だけを聞いたら、理解できない人が多いかもしれません。

 言いたいことは、言葉を辞書から消し去る場合には、慎重さが必要だということです。とは言え、国語辞典の収録語数が増える一方であるということも悩ましいことであろうと思います。

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