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2019年3月26日 (火)

言葉の移りゆき(339)

コラムの文章の特徴

 まず、コラムの文章を引用します。


 四季折々の風物を探して、印象を絵や言葉で表現してみる。〈きせつ見つけ〉というその学習時間を好まれたらしい

 先週、小学校を卒業された秋篠宮家の悠仁さま(12)である。

 (読売新聞・大阪本社発行、2019年3月19日・夕刊、3版、1ページ、「よみうり寸評」)


 文章を読みながら、私たちは瞬時ごとにいろいろなことを感じ、考えています。本当に一瞬のうちのことなのですが、それをゆっくりと書いてみます。

 第1段落の文末が「学習時間が好まれたらしい」となっておれば「好まれた」の部分は自発の意味です。それが「学習時間を好まれたらしい」となれば尊敬の意味です。おやっ、と思います。第2段落へ進むと、それが皇族に対する敬語だとわかります。12歳の幼年の皇族です。

 私にも皇室への敬意はありますが、この文章は異常です。高齢の天皇の場合は何の不思議もありませんが、幼児にまでこのような言葉遣いをするという皇室向けの特別敬語のことは、学校教育の場で教えられたことではありません。報道機関だけの暗黙の取り決めのようです。こういう報道機関同士の取り決め(あるいは相互の模倣)は日本語の中に特別な世界をかもし出しています。

 ところで、このコラムの文章は、第2段落のはじめで一転します。「先週、小学校を卒業された秋篠宮家の悠仁さま(12)である。」という偉ぶった表現になるのです。はじめに何のことか分からないようにぼやかしておいて、その後で「…である」といって傲慢な姿勢を示すのが新聞の(とりわけ1面の)コラムの共通点です。「天声人語」でもしばしば目にします。一般的な随筆にはあまり登場しない書き方を、新聞のコラムは好んで使います。記者生活を登り詰めた、偉い人に共通する言葉遣いであるように感じます。

 このような「…である」、「…だ」の文体は、目障りですが、減っていく傾向はありません。コラムではありませんが、こんな文章もあります。


 中谷宇吉郎が終戦から2年後の1947年に書いた随筆「立春の卵」の話だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年4月17日・夕刊、3版、7ページ、「『天からの手紙』をたどって 7」、奈良山雅俊)


 連載記事とは言え、この回の冒頭の文章が上記の表現です。まるで、〈こういう話をするから、よく聞け〉と言わんばかりに聞こえます。

 この文(一段落を一文で構成する)の後ろに、その話の内容が書かれるのですが、冒頭の段落は、あまりにも唐突で、あまりにも読む人の気持ちに沿っていないように感じます。普通なら「今回は、中谷宇吉郎の随筆「立春の卵」の話から始める。」というような表現をするように思いますが、冒頭に「…だ」という表現を置くことによって、読む人との距離を離れさせてしまいます。「…である」や「…だ」は、使い方によって、思いがけない印象を与えてしまうように思います。

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