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2019年4月30日 (火)

言葉の移りゆき(374)

「口伝」と「口承」は同じではない

 「口伝」という言葉が冒頭に使われている文章を読んで、おやっ、と思いました。民話とは広く伝えられている話であって、一部の人の間だけに伝えられているものではないからです。
 次のような文章です。


 口伝の民話には、その国の文化や伝統が息づいている。「スリランカの民話」は同国有数の寺院の住職タランガッレー・ソーマシリさんが翻訳し16年前に出した。仏教説話など源流が同じためか、日本の昔話と類似が多く親しみがわく
 (信濃毎日新聞、2019年4月23日・朝刊、9版★、1ページ、「斜面」)

 1ページの下部に毎日、掲載されているコラムの文章ですが、冒頭の「口伝」という言葉が気になりました。
 たぶん、「口承」(口から口へと次々に語り伝えること)の意味で使われたのだろうと思います。
 「口伝」という言葉の意味は、学問や技芸などの奥義・秘伝などを、弟子に口伝えに伝授することです。その教えそのものも、それを書き記した書物も「口伝」と言います。けれども広く公開されたものではありません。
 「口承」と「口伝」は、口伝えという点では共通しています。けれども、「口承」と同じ意味で「口伝」を使っている文章には、まだ、目にかかったことがありません。国語辞典も、それを認めているものは無いように思います。
 いずれはこの2つの言葉が同じ意味で使われる時代が来ないとも限りませんが、しかし、新聞の文章がその先棒を担ぐようなことをするのは避けるべきであろうと思うのです。

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2019年4月29日 (月)

言葉の移りゆき(373)

「糸目」の慣用句は打ち消し表現

 防衛予算は金に糸目を付けずどんどん膨らんでいく、というような言い方をします。金銭を惜しげもなく使うという意味です。この言葉については、打ち消し表現でない比喩を見たことがありません。ところで、本来の使い方も日常生活で目にすることがありませんでしたが、ようやく見つかりました。


 浜松市南区の浜松まつり会館と、地元愛好家でつくる浜松凧(たこ)の会は21日、改元を祝し、「令和」の文字を入れて制作した大だこの糸目付けを同館で行った。 …(中略)…
 仕上げの糸目付けでは会員11人がたこに針で穴を開け、麻糸を通して結びつけた。
 (静岡新聞、2019年4月22日・朝刊、「浜松・遠州」面、7ページ、柿田史雄)

 子どもの遊びで使う凧は、きちんと揚がるように調整されたものを買って、難なく揚げているのですが、手作りした大きな凧は糸目をきちんと付けることが大切なようです。日常生活では「糸目」という言葉を意識することはありませんが、大凧の場合は、糸目を付ける作業を経て、凧揚げが行われます。
 糸目とは、凧の表面に付けて揚がり具合を調整する糸です。凧は糸目を付けないと制御できません。
 「糸目を付けない」という比喩表現は、その意味では〈制御できないほど、多額の金銭を使う〉ということになります。国の予算でそのようなことが行われるとしたら、恐ろしいことです。
 国家予算が本当にそのようになっているのかどうかは知りませんが、「(金に)糸目を付けない」という表現には、そのような意味が込められているということを意識した上で使う・使わないを判断しなければならないでしょう。

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2019年4月28日 (日)

言葉の移りゆき(372)

伝聞・推定に基づいて文章を展開する

 文章というものは、きちんとした根拠に基づいて論理を展開して、結論に導いていくのが正統な書き方です。
 こんな文章が書かれたコラムがありました。


 いよいよ異例の10連休が始まった。
 JTBの調査によると、国内、海外ともに旅行者数は大型連休としては最高になるという。
 旅行の平均費用は国内で3万6800円、海外で26万8000円。いずれも昨年の同時期に比べ1・5%以上多い。今年は、改元記念ツアーに参加する人や神社にお参りする人も目立つようだ。
 大型連休が消費を押し上げるのは間違いないとみられる。
 ただ、連休が終われば、節約する人が例年より増えるのではないか。休み中は多くの企業で工場が止まり、生産活動は停滞する。景気に良いことばかりではない。
 経済が微妙な局面だけに、どんな影響が出るのか、興味深い。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年4月27日・夕刊、3版、2ページ、「とれんど」、是枝智)

 短いコラムの、最初からほぼ半分近くの量を引用しました。
 書き出しの1段落を除けば、5段落があるのですが、その書き方に注目したいと思います。文末表現などを見ると、「…になるという。」「…も目立つようだ。」「…とみられる。」「…ではないか。」「…どんな影響が出るのか、」というような書き方になっています。
 すなわち、「…になるという。」という伝聞表現、「…も目立つようだ。」「…とみられる。」「…ではないか。」という推定表現、「…どんな影響が出るのか、」という疑問表現です。
 ここまで読み進めてきますと、筆者は何に基づいて考えようとしているのか、どのような結論を述べようとしているのかということに不安が生じてきます。
 そもそも「大型連休が消費を押し上げるのは間違いないとみられる。」という推定の根拠が示されていませんから、文章の展開に疑問が生じてしまうのです。
 この文章の筆者は論説委員だそうです。駆け出し記者が書いたものならば笑ってすませればよいのでしょうが、新聞社を代表する立場の人が書いていますから、信頼性が揺らいでしまうのです。
 このコラムの見出しは、「10連休が始まったが…」となっています。見出しからして、文章内容の方向が示されていません。
 文章の末尾は、「穏やかな気持ちで新たな時代を迎えたい。」と結ばれています。いわゆる「成り注」(成り行きが注目される)という文章の典型であるようです。
 新聞はニュース記事で成り立っているのではありません。論説や解説やコラムなどで人間の生き方や在り方などを論じて、人々に考えさせるように仕向けなければなりません。
 新聞が、しっかりした文章を提示することを放棄してしまえば、読者の新聞離れは加速していくことでしょう。

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2019年4月27日 (土)

言葉の移りゆき(371)

カギカッコを省略した言葉遣い

 例えば「美しく」という言葉は、形容詞の連用形であって、名詞であるはずはありません。けれども、話し言葉の中では一見、名詞のように感じられるように言うことがあります。話し言葉には、カギカッコも句読点も付けません。話し方の抑揚や、間の取り方などで、そこにカギカッコや句読点があることを知らせるだけです。
 そのような表現方法を書き言葉にも反映させることがあります。
 こんな文章を読みました。


 渋谷のバス停で目にした広告。〈美しくを、変えていく〉とあります。どうやら、美顔器というものも広告のようです。
 「美しい」という形容詞を名詞形にすると「美しさ」になります。「美しさを保つ」と言いますね。ところが、20年ほど前から「美しい」のままで名詞にする例が出てきました。たとえば「おいしいと美しいを届けたい」のように。 …(中略)…
 「~く」の形を名詞として使っています。こういう例はあまり見かけませんでした。名詞形の新しい作り方です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月30日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「おいしいと美しいを届けたい」の「美しい」は名詞でしょうか。そんなはずはありません。「おいしい(品物)を届ける」とか、「美しい(商品)を届ける」ということでしょう。あるいは、「美しくなるための品を届ける」ということかもしれません。言葉の省略を無視して、そんな表現を、一足飛びに名詞とするのは、文法的に正しいとは思えません。
 最近は書き言葉においても、カギカッコを省略した表現が見られます。カギカッコを補えば〈「美しく」を、変えていく〉と書くのですが、その「美しく」を名詞と考えるのは無理です。
 「美しくを、変えていく」という表現と、「美しさを、変えていく」という表現とは、同じことを言っているのでしょうか。明らかに違います。
 「美しく」が名詞化した言葉であるというのなら、意味は「美しさ」と同じでなければなりません。
 広告コピーの使い方を、即座に、文法的な事柄の変化であるように捉えるのは、正しくありません。こんなことを取り入れた国語辞典を作られては困ります。

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2019年4月26日 (金)

言葉の移りゆき(370)

「電子書籍」と「紙の本」

 この連載(357)回で、「紙の辞書」「紙の地図」「紙の新聞」などについて書きました。その続きです。
 こんな文章がありました。


 出版科学研究所によると2018年の電子出版市場は前年比で11・9%増加した。紙の本が減少する中で、電子書籍の成長は続いている。しかし、「伸びているといっても8割がマンガだ。紙の本がデジタルにシフトしているだけで、市場が伸びているわけではない。それが出版業界の課題だ」と語る。
 (毎日新聞・中部本社発行、2019年3月26日・夕刊、3版、3ページ、「著者のことば」、山口敦雄)

 この記事は、『これからの本の話をしよう』という本の著者である萩野正昭さんにインタビューして書かれたものです。引用文のカギカッコ内は萩野さんの言葉のようです。
 「本」と「書籍」はどう違うのでしょうか。私たちは、「本を読みふける」とは言いますが、「書籍を読みふける」「図書を読みふける」とは言わないのが普通でしょう。「書籍」や「図書」という言葉には、物品と見る意識がないわけではありません。
 一方で、「書籍」という言葉は、書き言葉の世界で使われる、形式張った言葉のようにも感じられます。話し言葉では「本」と言うことが多いようです。マンガを「電子書籍」と称することには抵抗感もあります。読書の主流に位置するものではないと思うからです。マンガという電子書籍を、スマホやパソコンで読むのが現代人の姿になってしまっているのかもしれませんが、それが、本というものに接する望ましい姿とは思えません。
 引用文にもあるように、従来の書物を「紙の本」と言うのに対して、電子化されたものは「電子書籍」と言うことが多いようです。「紙の書籍」「電子の本」と言うことは少ないようです。それはなぜなのでしょうか。
 そのうちに、「本」の範疇に入らないようなものまで、「電子書籍」という言葉で括られていくようになるのかもしれません。

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2019年4月25日 (木)

言葉の移りゆき(369)

テレビで描かれる人間は、現実にはありえない人間

 テレビというのは不可解な媒体です。例えば、ドラマの主人公が30年前の出来事を思い出しているような場面では、画面にはその30年前の出来事が鮮明に再現されます。本人にとってもおぼろげにしか思い出せないことを映像化してしまうのです。想像力などというものとは無縁で、即物的なのです。
 そういうこと一つだけでも、テレビは作り物に過ぎないということを人々に強く印象づけてくれます。
 テレビ番組制作者が書いた、次のような文章はその典型的なものです。


 天才的頭脳を持ちながらも好奇心旺盛、アウトロー的で親しみやすい。ITのプロだが本当の興味は犯罪者の心の奥。それを突き止めるためなら西島=明智は正体不明の半グレ集団たちとの肉弾戦も辞さない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月24日・朝刊、13版、23ページ、「撮影5分前」、大川武宏)

 アニメの作品ではありません。「実写」(という言葉が、最近は使われるようです)のドラマの紹介です。「天才的頭脳」「好奇心旺盛」「アウトロー的」「親しみやすい」「ITのプロ」「興味は犯罪者の心の奥」…。そんなものすべてを内に持っている人間がこの世に存在しているのでしょうか。番組の宣伝文句と考えるだけでも、非現実的な表現だと言わねばなりますまい。
 テレビは、現実的にあり得ないことを、映像化することをやっているのでしょう。そして、それができると信じているのがテレビ番組制作者というものなのでしょう。
 テレビ局という限られた世界の中で、このような制作姿勢がますます強まっていくのでしょう。謙虚さも何もかもかなぐり捨てて…。
 そんな文章を平気で載せている新聞にも問題があるように思います。

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2019年4月24日 (水)

言葉の移りゆき(368)

「大人っぽ」は新しい用法ではない

 言葉の尻をはしょって短く発音することが、しばしば行われています。それが現代的なものかと言えば、必ずしも、そうとは限りません。
 こんな文章がありました。


 一部のファッション雑誌では、「大人っぽ」「今っぽ」などの表現をよく使います。たとえば「足もとをパンプスにすると大人っぽ!(=大人っぽい)」とか、「ノーチークが今っぽ!(=今っぽい)」とか。 …(中略)…
 「~っぽ」は流行語とまでは言えず、あくまで雑誌で使われることばです。読者がまねしてもよさそうですが、あまり使わないんですね。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月23日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「大人っぽ」「今っぽ」という言葉が珍しく見えたのかもしれませんが、この用法はごく普通の言葉遣いです。流行語でもなんでもありません。
 形容詞や形容動詞は、語幹だけを使って詠嘆的な気持ちを表すことがあります。形容詞の場合は、「痛い」という言葉が、とっさの場合は「あっ、いた!」となります。形容動詞の場合は、「元気だ」という言葉が、「あの人は、まぁ~、げんき!」となります。(本当は、感嘆符などは必要ではありません。)
「大人っぼ」「今っぽ」は、「大人っぽい」「今っぽい」という形容詞です。その語幹の用法であって、ごく普通の日本語の表現です。
 ただし、そういう言葉を連体修飾語として使うことがあれば、(本文には、〈大人っぽ計画〉という言葉が取り上げられています)、それだけは、新しい用法であるということは言えるかもしれません。

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2019年4月23日 (火)

言葉の移りゆき(367)

「無職」という肩書き

 私は無職です。新聞に投稿するなら職業を書かなければなりませんから「無職」と書くしかありません。
 こんな文章に出会いました。


 「なぜ新聞はいちいす、高齢者に『無職』とつけるのかね。事件や事故に関わり新聞に名前が出たら、自分も『無職』と書かれるんだろうな」。60代の知人が言いました。早期退職を選び自由になったものの、世間的には「無職」。何かしら「居心地が悪い」とぼやくのです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月27日・朝刊、10版、17ページ、「ことばの広場 校閲センターから」、丹羽のり子)

 「無職」と書くことを肩身が狭いとは思いませんが、宙ぶらりんの感じは否めません。「元〇〇」という書き方もできそうですが、現在の身の上を表した表現ではありません。
 世の中には、退職しても肩書きがある人がいます。大学に長く勤めた人は「〇〇大学名誉教授」という肩書きがもらえます。亡くなるまで、この肩書きは有効です。けれども、短期間の勤務をした人には与えられませんから、「元〇〇」と言うしかありません。
 会社を退職して、その会社の「顧問」になって、そんな名刺を作ってもらったという人のことも知っています。報酬はゼロであっても、肩書きは長く続くのでしょう。けれども、そうでない大多数の人は、やっぱり「元〇〇」です。
 自分で肩書きを作ろうとすれば、いくらでも作れます。「地域文化研究家」とか、「草野球愛好家」とか、「切手収集者」とか、その種類は限りなくあります。けれども、名刺を作ってそんな言葉を書き込むことはできないという気持ちもあるでしょう。
 いやいや、もう名刺などは必要ではありません。せめて「無職」の「職」という文字は追放して、自分の身の上は「無」という一文字だけにしたいと思います。
 無の境地に達したという、「無」です。

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2019年4月22日 (月)

言葉の移りゆき(366)

「ラン活」って分かる?

 就活、終活をはじめとして、「〇活」という言葉がいろいろと使われていますが、「ラン活」という言葉は理解できるでしょうか。
 こんな記事です。


 2020年4月に小学校に入学する子どもの「ラン活」が、早くも熱気を帯びてきた。 …(中略)… 10月に消費増税を控えることも、ラン活を前倒しさせているようだ。 …(中略)…
 じっくり品定めするには、早めの「ラン活」スタートが必要なようだ。
 (読売新聞・中部支社発行、2019年3月27日・朝刊、12版、19ページ、石原毅人)

 「〇活」という言葉は、「〇〇活動」の短縮形です。「就活」や「終活」は、就職のための活動や、人生をお終いにするための活動です。それに対して、「ラン活」すなわちランドセル活動とは何なのでしょうか。親が子にランドセルを買うという「活動」なのでしょうか。「早くも熱気を帯びてきた」のは、ランドセルを売ろうとする業者の活動のように思えます。
 何でもかでも、流行語の尻を追ってよいはずはありません。尻馬に乗って類似語を乱造するのは報道機関のよくない仕業です。
 問題は、言葉だけではありません。この記事は、業者の側に立って、2020年4月の小学校入学生のために、早くランドセル購入をするのがよいというように煽り立てているように思われます。

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2019年4月21日 (日)

言葉の移りゆき(365)

「社食」オンパレードの記事

「社食」という言葉を載せている国語辞典がどれだけあるのか、調べてはおりませんが、載せている辞典が増えつつあるだろうと思います。
 ところで、「以前に比べて、社食が良くなってきた。」という表現を目にしたとき、どのようなことを思い浮かべるでしょうか。
 ひとつの記事を引用します。短い記事の中に「社食」という言葉が次々と出てきます。


 2003年だったと思うが、アップルの社食に驚いた。石窯のあるイタリアンから、職人が握るすしまで地域一の有名店がずらり。聞くと、一時は追放されていたスティーブ・ジョブス氏が戻った際、社食の低水準さに怒り、 …(中略)…
 先日、今は巨大になったグーグル本社を訪れると、社食は世界的企業らしくしゃれていたが、 …(中略)…
 社食に込められた経営者のメッセージは、その後のIT業界での両者のプレゼンスに具現化されていったように感じる。 …(中略)… 社食のアナログな改善は、やがて社の方向性の象徴となり、デジタル覇権を争う人材を育んだ。
日本でも、タニタなど社食で有名な企業はあるが、「食」で経営者が強いメッセージを発している企業はどれだけあるだろう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月26日・朝刊、10版、15ページ、「ネット点描」、尾形聡彦)

 国語辞典が「社食」を載せたとき、どのような説明をするのか、興味があります。
 「社食」という言葉には少なくとも3つの意味があると、私は考えています。
  ①社員が利用するための食堂〔目的〕。
  ②社内に設けている食堂〔設置場所〕。
  ③その食堂で提供するメニュー〔食事内容〕。
この3つです。他にも考えられるかもしれません。
 引用した記事は、それぞれの箇所でどのような意味を込めているのか、曖昧なところがあります。「社食のアナログな改善」という言い回しは、何のことを言っているのか、よくわかりません。
 どんな食べ物を食べても「おいしい」と「うまい」しか言えない人(とりわけテレビ出演者)がいます。細かく表現し分ける語彙が乏しいからでしょう。上に引用した記事も、「社食」という言葉の概念が広すぎて、焦点が絞れていない言葉遣いであるように思います。
 このコラムも、この日を最後に終わるそうですが、言いたいことを読者に分かりやすく伝えようとする努力をしてほしいと願わざるを得ません。

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2019年4月20日 (土)

言葉の移りゆき(364)

「再起動」という言葉のイメージ

 

 パソコンが動かなくなって、どうにもならなくなった時には、「再起動」をすることがあります。そのときは、その段階までの作業が無に帰すということを覚悟しなければなりません。
 「再起動」という言葉を載せている国語辞典はほとんど無いだろうと思います。「再起動」というのは、再び起動するという意味にとどまらないと思います。それまでの成果をゼロにして再び始めるというニュアンスが伴う言葉であると思います。
 さて、次のような文章を読みました。

 

 

 浪花のにぎわいが、西鶴や近松の都市文学を生んだ。石田梅岩のような町人学者を育て、小人の学ぶ場ができた。
 池永さんは、今の大阪の人は「大阪の良さ」に気づいていないと言う。今更だが、粉もんとお笑いだけではない。
 今の視点から過去をつなぎ、「ルネッセ=再起動」することが必要と唱える。過去を学び、今に生かす。でも「これまでは、これでうまくいった」ではない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月20日・夕刊、3版、8ページ、「葦 夕べに考える」、多賀谷克彦)

 

 この文章の見出しは「大阪を〝再起動〟する」となっています。パソコンなどの「再起動」とは違う意味で使われているとは思いますが、大阪をどのようにすることが「再起動」なのか、イメージがつかめません。
 大阪は動いていなかったというのでしょうか。それとも大阪の過去をゼロにしてから起動しようというのでしょうか。「再起動」の意味がわかりません。「再起動」という言葉を大袈裟に振り回した文章のように思えます。
 西鶴、近松、石田梅岩などと、粉もんとお笑いとはどんな関係にあるのでしょうか。〈過去を学び、今に生かす。でも「これまでは、これでうまくいった」ではない〉という言葉遣いに出くわすと、何が言いたいのか、混乱してしまいます。
 筆者は新聞社の編集委員だそうです。このコラムは、この日を最後に終わるそうですが、言いたいことを読者に分かりやすく伝えようとする努力をしてほしいと願わざるを得ません。
 ついでながら、〈今更だが、粉もんとお笑いだけではない。〉という言い方は、正しい日本語表現なのでしょうか。

 

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2019年4月19日 (金)

言葉の移りゆき(363)

同じ方向に考えを深めることは恥ずかしいか

 私は教員生活の最終段階の10年間、大学で講義をしました。自分が学生であった頃と違うのは、きちんと出席確認を行うことです。それをしなければ出席率が下がってしまうという危惧に基づくことであるのか、高等学校と同様に出席確認をするのが自然なことである(子ども扱いをして当然である)と考えているのか、ともかく、私の関係した4つの大学はすべて、そのような状況でした。当然のことですが、学生たちは従順に対応しています。
 自分の学生時代と明らかに異なることは、学生たちが躊躇することなく自分の意見を述べるということです。ほとんどすべての講義が、教員を目指す学生たちを相手にしたものでしたから、当然といえば当然のことであったのかもしれません。
 けれども、自分の意見を述べるというのは、どういうことなのでしょうか。次のような文章を目にしました。


 全国各地の大学に呼ばれて政治の話をする。以前は質疑応答の時間をとってもなかなか声はあがらず白々とした空気になった。 …(中略)…
 リアクションペーパーというらしいが学生はみな感想文を書いてくれる。個々の声は個人情報なので直接引用はしないが、総じて感じるのは、決め付け型の言論に対する極めて強い拒否感である。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月24日・朝刊、10版、3ページ、「日曜に想う」、曾我豪)

筆者の講義内容は詳しく語られていませんから、「決め付け型の言論」というのがどういうものであるのか、わかりません。けれども、感想文の中身が「強い拒否感」であるというのが理解できません。
 感想文の名称を「リアクションペーパー」と呼んだ経験は、私の関係した大学にはありませんでしたが、その名称にも問題があるように思います。
 リアクションには、反応という意味もありますが、反動、抵抗という意味もあります。「リアクションペーパー」という名称を使えば、講義で聞いた内容を敷衍したような感想文を求められていないように感じるのではないでしょうか。
 最近の風潮として、あなたは他の人とは違った意見を持っているはずだ(持っていなければおかしい)などと迫られることがあります。一人一人の人間が、それほど異なった考えを持てるはずはありませんが、他人と似たような考え方をするのは恥ずかしいというように思わせられているように思います。
 多様な考えは望ましいのかもしれませんが、そんなことよりももっと大切なことは、一人一人が、たとえ他の人の考えとはあまり違っていなくても、それを深め考えていくということでしょう。勇ましい意見を述べるよりも、ゆっくりと考えを深めることの方が大切です。考え方の大筋が他の人の考えと似通っていても、それは恥ずかしいことではありません。つきつめていけば、一人一人は異なった存在として、少しずつ異なった思いを持っているのですから。
 「他の人と違った意見を持たなければ、その人の存在価値はない」というような考え方を、報道関係者や、一部の教育関係者などが持っているようです。それが「リアクション」などという言葉になって現れているようです。
 リアクションという言葉に振り回されていると、感想文の中身は拒否感、抵抗感を盛り込んだものにならざるを得ないでしょう。人生の初期の段階から、そんな姿勢を求められるのは寂しいことではありませんか。

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2019年4月18日 (木)

言葉の移りゆき(362)

「乗り潰す」って、どうすること?

 宮脇俊三さんは、かつての国鉄の路線のすべてを乗車して、素晴らしい紀行文学を書いた人です。この人にとって、国鉄全線を「乗り潰す」ことは大きな目標でした。
 この度、三陸鉄道はJR路線の一部を受け入れて、南北リアス線を結びつけて、長大なリアス線の運行を始めました。鉄道ファンとしては、その全線の乗車を体験した人もいることでしょう。ファンのひとりである私も、全線を乗ってみたいという誘惑に駆られます。
 さて、こんな文章を読みました。


 もう何年も前、JR飯田線を乗り潰しに行ったことがある。飯田線は愛知県の豊橋駅と長野県の辰野駅を結ぶ、約200キロの長大な路線だ。山の中を延々と走り、交通の便が悪く周りに人家もないいわゆる秘境駅も点在する。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月23日・朝刊、be7ページ、「作家の口福」、西村健)

 宮脇さんの国鉄路線「乗り潰し」のことはよくわかりますが、飯田線の「乗り潰し」というのはどういうことなのでしょうか。
 文章を読む限り、筆者は飯田線の一駅ごとに乗降を繰り返したわけではなく、単に飯田線の端から端までを乗り続けた(ただし、宿泊のために途中下車をした)ということのようです。
 長大路線ということだけで言うと、東海道新幹線はもっと長い距離ですから、例えば「こだま」で東京-新大阪を乗り続けたら、「乗り潰し」をしたことになるのでしょうか。
 「乗り潰し」というのは、何らかの目標があって、ひとつひとつの段階を経過して、最終的な目標に達するということだと思います。
 ひとつの線だけを「乗り潰す」ということはあるのでしょうか。居眠りをしていても始発駅から終着駅に達するというようなものが「乗り潰し」ではないはずです。例えば、すべての駅で乗降を繰り返すという目標があって、それを達成したら「乗り潰し」をしたことになるでしょう。
 あるいは、飯田線を含めた大きな目標があって、その一環として飯田線を乗り終えたというような場合に使うべき言葉でしょう。
 作家がこの言葉を使っているから、それでよかろうというような姿勢を持っていたのでは、新聞社としての校閲の仕事を果たしたことにはならないと思います。

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2019年4月17日 (水)

言葉の移りゆき(361)

「はしゃぐ」と「はしゃぎまわる」の関係

「はしゃぐ」という言葉を『三省堂国語辞典・第5版』で引くと、次のように説明されています。


 〔子どもが、うれしいときなどに〕うきうきして、さわぐ。

 はしゃぐのは、子どもに限った行動について言う言葉なのか、ちょっと疑問が残ります。
 さて、こんな文章がありました。


 はしゃぎ声が恐い。工事の騒音が気になる。時を告げる鐘の音もつらい。愛媛から大阪に引っ越したあと、自分の寝室から出られなくなった。「都会恐怖症」のクロサイの話である。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月23日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)

 「はしゃぐ」ことは、本人にとっては心が浮き立つことの現れかもしれませんが、他者にとっては迷惑なことと言ってもよいでしょう。
「駅と電車内の迷惑行為ランキング」というものの1位が「騒々しい会話・はしゃぎまわり等」になっているということについて述べた文章に、こんなことが書かれていました。


 1位が長年変わらない理由のひとつに、選択肢の表現もあるのではないでしょうか。子どもがはしゃぎまわるのも困ったもんだけど、「はしゃぎまわり」という名詞で表現すると、迷惑な感じがアップします。
 「ひったくる」が「ひったくり」、「口を利く」が「口利き」になると、急に犯罪行為になります。選択肢を「子どもがはしゃぐ」に変えると、結果はどうなるでしょうか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年12月15日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「はしゃぐ」は場所が動かない感じですが、「はしゃぎまわる」はあちこち動き回って騒いでいる感じです。「はしゃぐ」と「はしゃぎまわる」とに大きな差があると思います。「はしゃぎまわり」という名詞で表現したから、迷惑な感じがアップするわけではないでしょう。
 「ひったくる」と「ひったくり」、「口を利く」と「口利き」との関係は、それが別の意味に転用されて(すなわち、意味が限定されて)犯罪行為を表す言葉になったということです。
 選択肢を「(子どもが)はしゃぎまわる」から「はしゃぐ」に変えると、結果は、当然変わってくるでしょう。(数値が減るはずです。) 選択肢を「(子どもが)はしゃぎまわる」から「はしゃぎまわり」に変えても、結果は、変わらないだろうと思います。
 それにしても、『三省堂国語辞典』の編纂者としては、「子どもが……」という限定だけは外したくないという考えで貫かれているようです。大人だって、はしゃいだり、はしゃぎまわったりする人はいると思われますのに。

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2019年4月16日 (火)

言葉の移りゆき(360)

悪いのは指先です


 これまでにも書きましたように、新聞の訂正記事はすべてにわたって行われているわけではありません。致命的な間違いには訂正記事が出ますが、頬被りしてしまっていることも多いと思います。逆に、誰でも気づいているような誤りを堂々と訂正されると苦笑いをせざるを得ません。


 17日付スポーツ面「スケードボードの日本オープン・パーク大会」の記事で、「2104年ソチ、18年平昌両冬季五輪」とあるのは、「2104年ソチ、18年平昌両冬季五輪」の誤りでした。打ち間違えました。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月19日・朝刊、13版、34ページ)

 何とも気楽な訂正記事だと思います。「書き間違えました」と書くところを「打ち間違えました」と書いています。悪いのは、指先だけですと言わんばかりの表現です。
 普通に考えれば、記事の原稿を「考えて」(あるいは「書いて」)、その後で入力するでしょう。入力するまでは間違いなく行われていて、入力段階で「打つ」ときに間違えたと言っているのです。馬鹿げたミスですから、そのように言わなければ体裁が繕えなかったのでしょう。
 けれども、それでお終いではありません。記事には当然のことですが、校閲が行われています。朝日新聞の校閲の甘さは、これまでも指摘してきましたが、この訂正記事でも、校閲者の責任には言及されてません。「打ち間違えたのを、校閲者も見逃しました」というように書くのが正確な表現でしょう。
 お粗末きわまりない訂正記事でした。

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2019年4月15日 (月)

言葉の移りゆき(359)


「参加しに行く」の違和感

 言葉が足りなければ、読み手の理解が進みません。一方、言葉が多すぎたり重なっていたりすれば違和感を覚えることがあります。ちょっとした言葉にも、そんなことを感じることがあります。
 「買い物に行く」とか「映画を見に行く」とかいう言葉遣いがあります。ごく普通の表現です。けれども、次のような言い方に出会ったときは、これでよいのかなぁという気持ちになりました。


 福島県相馬市のNPO法人『野馬土』が「原発20㎞圏内ツアー」を主催しているというので、参加しに行ったのである。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月16日・朝刊、be7ページ、「作家の口福」、西村健)

 はじめに例示した言葉遣いは、「行く」目的が「買い物」であったり「映画を見る」ためであったりするのです。
 上の記事の場合は、「参加する」ことと「行く」こととが、意味の上で重なり合うというように思います。例えば、参加するかどうかの判断をするために出かけていったというのなら理解できますが、参加すると決めていて出かけるのなら、「参加したのである」どじゅうぶんだと思います。

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2019年4月14日 (日)

言葉の移りゆき(358)

ルールとマナーの違い、マナーとエチケットの違い


 皇居のお堀端を走るランナーたち。誰もが同じ方向へ走っていきます。見ると〈皇居周回は反時計周りがマナーです〉との表示。これに従っているんですね。 …(中略)…
 この走り方は常識とまでは言えず、むしろルールに近いものです。ただ、「ルール」にはきつい語感もあるので、それを避けたのでしょう。「マナー」の指す範囲が広がっているのかもしれません。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月5日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 反時計周りがどのようにして定着していったのかということに興味がわいてきます。時計回りと反時計回りの両方が拮抗していて危険が伴ったので、反時計回りに統一したのでしょうか。それとも、いつからともなく反時計回りが多くなっていたという事情があるのでしょうか。前者ならば〈ルールの設定〉ですが、後者ならば、大勢の習慣に合わせていくという〈マナー〉であるのかもしれません。
 写真を見ると、この表示板には「千代田区」という発信者名が書いてあります。行政の指示であれば〈ルール〉かもしれませんが、世間一般の〈マナー〉を行政が明示した表示であるのかもしれません。
 〈マナー〉という言葉には、交通マナー、電車の車内でのマナー、テーブルマナーなど、社会生活を円滑に運ぶための工夫のことでしょう。
 〈ルール〉と〈マナー〉の間に画然とした一線が引けないのと同様に、〈マナー〉と〈エチケット〉の間にも一線は引けないでしょう。けれども、〈ルール〉と〈エチケット〉が混然となることはないでしょう。言葉とはそのようなものであるのでしょう。
 けれども、これらの言葉には、ルール違反、マナー違反、エチケット違反という言葉があるように、規範意識がずいぶん強い言葉であるように思います。

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2019年4月13日 (土)

言葉の移りゆき(357)

「紙の辞書」、「紙の地図」、「紙の新聞」

 

 もともと紙でできているから「紙の」という修飾語など要らないのに、その修飾語が付けられた最初は、私の身近なものでは「紙の辞書」でした。電子辞書を使ったことはありますが、現在も私は、辞書といえば紙のものと思っています。
 国土地理院が「自然災害伝承碑」の地図記号を作ったというニュースに、次のようなことが書かれていました。

 

 

 新しい地図記号ができるのは、2006年の「風車」と「老人ホーム」以来13年ぶり。6月からウェブ版、9月からは紙の地図に反映される見通し。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月16日・朝刊、13版、39ページ、贄川俊)

 

 ホームページでいろんな地図は利用していますが、地図というのは本来、紙に印刷されたものであると思っています。「紙の地図」という言葉に接すると、時代の流れを感じないわけにはいきません。
 「紙の本」でなくても読書ができる時代です。私にとって身近なものでは、次は「紙の新聞」でしょう。「紙の新聞」は今でもときどき目にしますが、あっと言う間に、「紙の新聞」という言葉が現実味を帯びてきているように思います。
 学校の教科書すら「紙」一辺倒でなくなる時代です。「紙の」という言葉が、「時代遅れの」という言葉と同義語にならないことを祈るのみです。

 

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2019年4月12日 (金)

言葉の移りゆき(356)

「消えゆくムラ」と「消滅可能性都市」


 現に人が住んでいるところを「消えてゆく」などと言ってよいのでしょうか。政治家や学者は遠慮会釈もなくこのような言葉を使いますが、報道機関もその尻馬に乗っています。
 野菜の自然栽培に取り組む28歳の青年を紹介する記事にこんな表現がありました。


 荒れた畑を「宝の山」と言う。
 高齢化で「消えゆくムラ」とされる群馬県南牧村に移り、3年半。耕作放棄地4カ所を復活させ、50種以上の野菜を育てる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月9日・朝刊、13版、2ページ、「ひと」、藤原学思)

 この記事にとっては「消えゆくムラ」と書いた方が効果的だと判断したのでしょうが、そこに住んでいる人にとっては失礼な表現です。「消えゆくムラ」という表現は誰が言い出した言葉なのでしょうか。
 別の記事に、こんな表現がありました。兵庫県神崎郡福崎町に関する記事です。


 将来推計人口で記憶に新しいのは、元総務大臣の増田寛也氏が座長を務める「日本創成会議」の分科会が2014年に公表した「消滅可能性都市」だ。40年までに若年女性(20~39歳)人口が半減する自治体を名指しし、衝撃を与えた。若年女性人口減少率を51・3%と推計された福崎町も、消滅可能性都市に分類された。
 (神戸新聞、2018年12月6日・朝刊、14版、29ページ、「ひと」、井上太郎)

 こちらの言葉は出処が明確に書かれています。いくら根拠のある数字であるとは言え、あまりにも言葉が過ぎます。
 「消えゆく」とか「消滅」とかで表現しなくても、日本語にはいろいろな言葉があるはずです。希望が持てるような表現をしなくてはなりません。弱肉強食につながるような言葉の暴力であり、あるいは差別意識のあらわれでもあるように思います。
 公的な機関や報道機関に対して、気をつけてほしいという思いを強く持ちます。

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2019年4月11日 (木)

言葉の移りゆき(355)

「とよがわ(豊川)」と「とよばし(豊橋)」


 今年は、太平洋側の豊橋から日本海側の糸魚川まで歩く計画を立てています。江戸時代の五街道をすべて、端から端まで歩きました。その後に行った松尾芭蕉の「おくのほそ道」を辿る旅は一部を鉄道で移動したりしました。
 今回は、本州の中央部を南から北へ歩きます。南北ですから縦のような気がしますが、日本縦断というのは普通、北海道から九州・沖縄に向かうことのようです。今回の私のコースは横断なのでしょうか、縦断なのでしょうか。
 それはともかく、豊橋からJR飯田線に沿う形で辰野・塩尻・松本に出て、その後は「塩の道」のルートを忠実に辿るつもりです。飯田線には秘境駅というのが連続します。線路の近くには辿れる道がありませんから、水窪駅から天竜峡駅までは歩かないで鉄道利用にします。
 その第1回目として、愛知県の豊橋市(豊橋駅)から豊川市、新城市を経て、北設楽郡東栄町(東栄駅)までを歩き終えました。
 豊橋市は「とよはし」、豊川市は「とよかわ」です。けれども、歩いていると地名の読み方が気になります。川や橋の名前は平仮名で書かれていることが多いのですが、豊川や豊川放水路の読み方は「とよがわ」です。豊橋市内にある「豊橋」という橋は「とよばし」です。市名となっている豊橋も豊川も、もともとは濁って読んでいたようです。
 大阪は八百八橋と言われますが、本当は「はし」がないのだという洒落言葉があります。心斎橋も淀屋橋も高麗橋も濁って読むのです。
 日本には無数の川が流れていますが、最上川も信濃川も利根川も木曽川も淀川も濁って読みます。日本に流れている「かわ」は意外に少ないとも言えるでしょう。

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2019年4月10日 (水)

言葉の移りゆき(354)

「大人な」、「離婚な」、「ドラマな」


 「元気だ」という形容動詞の連体形は「元気な」です。「元気」という言葉は名詞にもなりますから、「元気な」は、名詞に「な」という言葉が付いたという考えも成り立たないわけではありません。けれども、その場合、「な」とはいったい何なのかという説明はなかなか難しいと思います。
 次のような文章に出会いました。ここに書かれていることには、全面的に納得します。


 電車内の広告です。人気のアイスの名前が〈大人なガリガリ君〉。大人にも食べてほしいアイス、ということでしょう、「大人の」でないところが注目点です。 …(中略)…
 「大人のアイス」は大人用のアイス、「大人なアイス」は大人の雰囲気のあるアイス。広告は後者の意味を持たせたのでしょう。
 担当編集者を通じて製造元の赤城乳業に聞くと、「ガリガリ君は子どもなので『な』にした。『の』だと子どもでなくなる」との答え。やはり思った通りでした。
 「大人な」に対して「子どもな」も見かけます。「子どもな人」と言えば、少年少女ではなく、子どもっぽい人のことを指します。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月12日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 ドラマのタイトルに「離婚なふたり」というのがありました。ドラマそのものは見ておりません。紹介記事には次のように書かれています。

 夫婦を描いて人気の脚本家、野田隆介の新作は、夫の会社が倒産してすべてを失った夫婦がヨットで旅に出るというお話。野田は雑誌の取材に「夫婦はそもそも他人。他人同士が一緒に困難を乗り越えるで、絆が生まれる」……ってどうよ、夫婦ってそんなキレイごとじゃないよねとのツッコミは想定内のようで、野田自身が妻から離婚してと言われる。その妻は「理由らしい理由がない」って、それが一番困るんですが。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月5日・朝刊、14版、32ページ、「試写室」、都築和人)

 この紹介記事は、文脈がゴタゴタしていて、何を述べているのかよくわからないのですが、ともかく「離婚なふたり」は、「離婚のふたり」=離婚したふたり、ではないことは確かです。
 この「な」の使い方は、「大人なアイス」というのと同じであると言えるでしょう。
 私たちは、ドラマそのままをたどるような「ドラマの生き方」をしようとは思いません。けれどもドラマに引き込まれるのは、そのドラマのような生き方も少しは取り入れてみようという思いがあるからかもしれません。すなわち、「ドラマな生き方」に引かれるところがあるということでしょう。

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2019年4月 9日 (火)

言葉の移りゆき(353)

駐車場の「混」


 駐車場の入口などに「満」とか「空」とかの表示があるのを目にします。それに加えて、こんな表示もあるそうです。


 百貨店の前に立つ駐車案内の標柱。電光で〈混〉と表示されています。満車でなく、空きはあるけれど、混雑しているようですね。
 「混」は「こんでいること」だと、誰でも分かります。でも、本来は、「混」に「こむ」の意味はなかったこと、知っていましたか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月6日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 この連載は、ともかく新しい表現を探し続けていると思っていましたから、「混」という文字について、こんな正統的な質問をされると、ちょっと驚きます。
 今回は、この記事の主旨とは少し違った方向のことを書きます。
 「混」の表示を見た人は、駐車させるために進んで行くでしょうか、ためらってしまうでしょうか。〈駐車させる余裕が全くない〉わけではない、ということだけは確かなようです。
 ところで、「満」と「空」という2つの表示の場合、「空」という文字は、どういうことを表しているのでしょうか。
 空(から)っぽである、という意味でしょうか。空(あ)きがある、という意味でしょうか。「空」という文字からは、ずいぶん余裕があるような感じを受けますが、「満」以外をすべて「空」と表現するのなら、「混」とほとんど変わらない場合もあるのではないでしょうか。
 「空」という言葉にはずいぶんかけ離れた意味があるのですから、それをただ1文字の「空」だけで表現するのは無理があるということを、「混」の出現で感じたしだいです。

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2019年4月 8日 (月)

言葉の移りゆき(352)

時間的な「現在地」


 現在という言葉は、一般には、過去-現在-未来という時間の流れを示すものです。前回述べたのは、時間の流れを表す言葉を、空間的な位置を表すものとして使っていることへの違和感でした。
 それでは、時間の流れの中で使えば「現在地」は違和感はないのでしょうか。次のような見出しの記事がありました。


 人工知能の現在地 / 学習する「人間と違う知性」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月6日・朝刊、be5ページ、「はてな?スコープ」、見出し)

 「AI」という言葉が指す技術と内容は時代ごとに変わり続けてきたということを解説する記事ですが、本文に「現在地」という言葉は使われていません。記事を整理した記者が使った言葉のようです。
 学問は日々、進化していきます。そのような場合、これまでは「現在」という言葉を使ってきたと思います。万葉集研究の現在とか、AI技術開発の現在、というような使い方です。そこに「現在地」という言葉が加わってきました。「現在」よりも「現在地」の方が、その位置を細かく(明確に)指し示すことができるという利点があるのかもしれません。
 しかし、傲慢になってはいけません。「現在地」という言葉には、今後ますます発展していく、その途中の一地点というニュアンスがあります。科学技術の発展には、暴走も伴います。人工知能が人間を疎外していくような方向に発展するのなら、「現在地」は足どりを緩めたり、Uターンをしたりすべき地点にさしかかっているという認識も必要であるかもしれません。
 それはともかく、国語辞典には、「現在」という見出しだけでなく、「現在地」という見出しも必要になってきたのではないかと思います。それが、国語辞典の現在地であるのでしょう。

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2019年4月 7日 (日)

言葉の移りゆき(351)

地理的な「現在地」

 街道歩きをしています。1日に20㎞余りを歩くことが多く、道筋に不安を感じるようなところもあります。出発前には綿密な下調べをして、地図なども準備します。
 けれども、歩き始めると地図を見続けるような余裕はほとんどありません。距離感覚は身に付いていると思っていますが、歩いていて特別な目印となるようなものがないようなもあります。
 だから、道端に看板の地図が設けられている場合は、必ず立ち寄って、自分がどこまで歩いてきているのかを確認します。縮尺のはっきりしている地図は少なくて、たいていは大ざっぱな地図ですが、その地図の中のどこまで歩いてきているのかということを知りたいのです。
 看板の地図には、たいてい、その地図の設置されている場所が書き込まれています。現在どこまで歩いてきているのかという、その地点を知りたい者にとってはありがたいものです。看板の設置場所が書き込まれていない地図もありますが、きちんと書き込まれている場合の方が多いようです。その地点を表す言葉としては、矢印で「ここ」などと書かれていることもありますが、「現在地」という言葉の方が多いように思います。
 この「現在地」という言葉には不思議な感じを持ちます。歩き続けている自分としては、時間をかけて、どこまで歩いてきたかという、まさに「現在地」です。次の看板のあるところまで歩けば、その地点が次の「現在地」であり、いくつもの「現在地」を経過して、その日の目的地点にたどりつくのです。
 一方、建てられている看板の側からすると、看板は地理的にも、時間的にも移動することはありません。「現在」という言葉にはそぐわないように思います。
 その地図を毎日眺めている地元の人があるとすれば、その人にとっては「現在地」というのはおかしな表現です。昨日と今日で変わるわけではなく、空間的な移動もない看板です。いわば、〈看板設置位置〉とでも言うべきものを「現在地」と言っているのです。
 国語辞典に、「現在地」のこのような使い方は、まだ載せられていないのではないかと思います。

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2019年4月 6日 (土)

言葉の移りゆき(350)

「0円」と「無料」は同じなのか、違うのか

 

 携帯電話などの広告で「0円」という文字を見かけました。それを買ったり借りたりする条件がいろいろあるのかもしれませんが、普通に考えれば、「0円」と「無料」は同じことだろうと思います。
 けれども「無料」と書かないで、「0円」と書くのには何らかの違い(あるいはカラクリ)が込められているのだろうと思います。
 「0円」というのは広告だけのことかと思っていたら、新聞記事にも現れました。〈「0円」でマイカー持てます〉という見出しの記事です。たぶん、業者が使っている言葉を新聞がそのまま使ったのだろうと思います。カーシェア事業に関する記事です。

 

 

 この夏からは、車の登録台数と利用者を増やすため「0円マイカー」サービスを期間限定で実施する。具体的には、車を持っていない人には車を貸し出し、その人が車を使っていない時間にカーシェアとして他の人に提供すれば、通常は有料で使う車を一定回数、無料で利用できる。
 すでに車を持っている人がカーシェア用に提供すれば、車検費用、自動車税などは自己負担だが、同様の条件で毎月定額を受け取ることができる。それぞれ自己負担額が得られる対価を下回れば、「0円」に近い実質負担額でマイカーを持てるとのアイデアだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月1日・朝刊、13版、11ページ、篠健一郎)

 

 この記事で見る限り、「0円に近い負担額」を「0円」と称しているようです。「必ず0円」になるとは限らないから、「無料」と言うことができないのでしょう。
 けれども、これは虚偽です。「0円に近い負担額」と言って宣伝するのは虚偽ではありませんが、「0円マイカー」という言葉には嘘が含まれています。
 「無料」でないものを「0円」と表記するのは、消費者を欺いていることになります。新聞がその片棒を担ぐような記事を書いてはいけません。

 

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2019年4月 5日 (金)

言葉の移りゆき(349)

「いつぶり」が拡大しないように


 初めて聞いた言葉が、新鮮に響くことがあります。次の記事に書かれている「いつぶり」という言葉を聞いたことはありませんが、言われてみると面白いなぁと思います。
 けれども、それを出発点にして、様々な方向へ広がっていくとしたら、ブレーキをかけるべきだろうと思います。


 「まぐれです。いつぶりだろう」。プロ野球で昨年、初本塁打を放った選手のコメントです。この「いつぶり」という言葉に違和感はありませんか。以前は若い人が使う言葉のイメージでしたが、最近では若者以外も使うようになりました。
 「いつぶり」の「ぶり」は、辞書には「《時間を表す語に付けて》それだけの時がたった後に、新たにまた、そうする(なる)ことを表す」とあります。本来「~ぶり」の「~」には経過した「時間」が入り、ピンポイントの「日時」は入りません。 …(中略)…
 「いつぶり」以外にも、「小学生ぶりのショートヘア」や「修学旅行ぶりの京都」などと使われることもあります。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月6日・朝刊、10版、13ページ、「ことばの広場 -校閲センターから」、窪田勝之)

 「違和感はありませんか」という問いかけですが、違和感はあります。「初本塁打」とは初めてのことですから、前回がありません。「いつぶり」というのは成り立たないように思います。
 さて、本論ですが、「ぶり」という言葉は、「時間」を表す語に付けて、「特定の日時・時代など」を表す語には付けません。この原則を提示して、「いつぶり」というのは正しくないということをしっかり教えるべきでしょう。
 「いつぶり」は面白い表現だとか、文学的であるとか、若者っぽいとか、賞賛すればますます広がりかねません。
 この記事の見出しは、「柔らかさ求め 広がる誤用」となっています。この見出しには賛成です。「いつ以来」というような漢語的な表現を避けて、口頭語としての柔らかな表現を求めたのかもしれない、という意見を紹介しつつ、誤用であるとはっきり指摘しているからです。
 土曜日の紙面に連載中の「街のB級言葉図鑑」の筆者は、誤用であろうと何であろうと、これまでになかった表現を必死に探しているように感じられますが、新聞の校閲担当者としては、あるべき姿を求めていってほしいと思います。

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2019年4月 4日 (木)

言葉の移りゆき(348)

間違った「戴冠」

 私は、「戴冠式」という言葉を小学生の頃におぼえました。イギリスのエリザベス女王の戴冠式があったからです。その時、戴冠という行事がどういうものであるかが、おぼろげにわかりましたから、日本には戴冠式というものが存在しないことも理解できました。主としてヨーロッパの国王や帝王が即位後にはじめて王冠を頭にのせることが「戴冠」です。したがって、日本語の中に「戴冠」という言葉が定着していなくても当然です。日本のことを述べる文章の中に「戴冠」という言葉が現れることはありえないのです。
 さて、話題はがらりと変わります。今年の選抜高校野球は公立校(しかも市立高校)の大活躍が目を引きました。決勝戦の行われた日に配られた夕刊は、試合結果が判明しない時刻に原稿締切がありました。こんな表現がありました。


 習志野は公立勢10年ぶりの戴冠まであと1勝とし、決戦を迎えた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月3日・夕刊、3版、1ページ、金子智彦・竹田龍世)


 この記事は、「戴冠」という言葉を使って、「たいかん」というルビを付けています。そんなにまでして「戴冠」という言葉を使おうとした理由は何なのでしょう。高校野球を天下の一大行事として喧伝しようという姿勢が、こんな言葉を使わせてしまったのでしょうか。
 今さら国語辞典を引用することはしません。この「戴冠」は、あまりにも常識はずれの言葉遣いであると思います。「戴冠」は多くの国語辞典で見出し語にしていますが、『新明解国語辞典・第4版』と『明鏡国語辞典』には「戴冠」の見出し語はなく「戴冠式」が載っています。『現代国語例解辞典』には「戴冠」「戴冠式」ともに載っていません。
 「優勝すること」「トップに立つこと」を「戴冠」と称すると説明している国語辞典があったら紹介してほしいと思います。それにしても、国内の高校野球での勝利を「戴冠」と言うのは大言壮語の極致ではありませんか。
 何度も繰り返して言いますが、新聞の誤用や曲解が、日本語の乱れを助長しているかも知れません。人々は活字を信奉しています。新聞に書いてあったから自分も使おうという気持ちになるでしょう。あるいはこれを契機にして、他の報道機関も使うようになるかも知れません。
 間違いは、取り消す勇気が必要です。「忖度」という言葉を使った国土交通省副大臣が自己の発言を取り消したということには呆れるしかありませんが、新聞は言葉の誤用を潔く訂正するのがよいと思います。黙っていたら、日本語の乱れの張本人が黙認してしまったということになるでしょう。

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2019年4月 3日 (水)

言葉の移りゆき(347)

「いじる」という言葉の意味

 ニュースなどを書く記者は時間が限られていますから、時に言葉の誤用があっても大目に見なければなりません。けれども論説やコラムを書く人は、言葉の使い方をしっかりと吟味しなければなりません。しかも、流行語などをもてあそぶことをしないで、日本語として定着した使い方を守るべきだと思います。
 前回の「いじる」について、続けることにします。「いじっていただいて、ありがとうございます」というのは、笑いを誘うための言葉遣いに過ぎません。いじめ問題と同列に扱うことが、既におかしな論法です。最近の「天声人語」は、文章の前半(まさに50%程度の長さ)を落語の「枕」のように書いて、後半でやっと本論になるという書き方が多くなっています。(かつての「天声人語」はそんな馬鹿げた文章を書いておりません。)
 前半が冗長であるから、後半が生きてこないのです。かつての「天声人語」の筆者に学ぶ姿勢を持たなければなりません。日本語の正しい使い方も、身に付けてほしいと願います。
 さて、現在の「天声人語」の筆者が国語辞典をひもとくことを忘れておられるかもしれないと懸念して、国語辞典を引用します。

 『明鏡国語辞典』 ①指先などで触れてもてあそぶ。「指先で髪を-」「時計を無断で-な」 ②慰みごととして、手任せに物事を行う。「庭〔カメラ〕を-」 ③機構・構造体など、組織だったものの一部に手を加える。「組織を-」「これ以上文章を-・ってもよくはならない」

 『現代国語例解辞典・第2版』 ①指先でなでたり、ひねったりする。「髪をいじる」 ②なぐさみに、収集物などをもてあそぶ。自分の場合は謙遜の気持ちをこめて言う。「骨董をいじる」「ギターをいじる」 ③物事にあれこれと手を入れて変えたり、動かしたりする。「文章をいじって駄目にする」

 『三省堂国語辞典・第5版』 ①(指で)むやみに、さわる。 ②楽しみで、何かを手にする。あつかう。「カメラを-・庭いじり」 ③〔しなくてもいいのに〕さわって(動かして)みる。「おできを-・機構を-」

 『岩波国語辞典・第3版』 ①手でさわったり、なでまわしたりして、もてあそぶ。いじくる。 ②興味をもって、あれこれと集めたり、吟味したりする。「骨董を-」 ③しっかりした目的・方針もなしに、物事の本質的でない部分を変えたり、手を加えたりする。「会則を-」「機構を-」

 『新明解国語辞典・第4版』 ①用事も無いのに、(やたらに)手でさわったりなでまわしたりする。 ②〔厳密な意味の研究ではなく〕興味本位に・(道楽で)物を集めたり調べたりする。「盆栽を-・最近は少しばかり?外をいじってますよ」 ③〔その任にあるという、ただそれだけの理由から〕制度・機構を、どうでもいい程度に部分的に改変する。

 例文まで細かく引用しました。もう十分おわかりのことと思います。「いじる」ことの対象は、たいていは物事です。人を対象にしても、「人」全体や、人格に対して「いじる」という言葉は使いません。体のごく一部である、髪とかおできとかを「いじる」ことはありますが、全人格を破壊させるようなことにまで「いじる」という言葉は使いません。
 「いじる」という言葉に、「からかう」という意味はありません。まして、それを「いじめる」にまで拡大させるのは強引に過ぎます。
 新聞の看板であるようなコラムで誤用が始まると、それがどんどん広まっていくことでしょう。言葉を正しい方向に導くのも、誤解・曲解に導くのも、新聞の力であるのかもしれません。

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2019年4月 2日 (火)

言葉の移りゆき(346)


「いじめる」・「からかう」・「いじる」の混同


 ものごとの本質を考えないで、言葉の遊びのような趣で書かれた文章を読むと、腹立たしい思いになることがあります。次のような文章がありました。


 「からかう」という意味で「いじる」が一般的に使われるようになったのは、バラエティー番組の影響か。芸人が芸人をからかう映像がしょっちゅう流れてくる。それがうけるから、彼らは「いじっていただいて、ありがとうございます」とまで言う。
 その「いじる」をいつの頃からか、いじめ問題で目にするようになった。いじめではなく、いじっているつもりだった……。言い訳なのか、本当にそう思い込んでいたのか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月29日・朝刊、13版、1ページ、「天声人語」)


 「いじる」という言葉が「からかう」という意味で使われるようになっているとは知りませんでした。それはバラエティー番組の影響かなどと言って責任転嫁をしています。そのような言葉遣いを肯定して、それを新聞のコラムで堂々と書くという神経が、私には理解できません。仮に「からかう」という意味で「いじる」が使われるということがあるにしても、コラムで大げさに言う必要はないと思います。言葉の意味(よくない意味)の拡大再生産の役割をコラムが果たしていることになるのです。
 「いじる」という言葉に、本当に、「からかう」という意味はあるのでしょうか。バラエティー番組で使われていたとしても、それは限られた世界での言葉遣いでしょう。国語辞典が、この言葉をどのように説明しているのかということを確かめた上で文章が書かれたとは思えないのです。
 コラムの文章には、いじられた側が感謝の言葉を発するということが書かれていて、「いじめ」と「いじる」とは違うという考えをしている者がいるということを書いています。前半がそんな軽々しい文脈で書かれた文章は、後半(ここでは引用していません)になって辛口の批判に転じても真剣みが読みとれません。言葉をもてあそんでいるようにしか受け取れないのです。
 国語辞典が「いじる」をどのように説明しているかということについては、次回に述べることにします。

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2019年4月 1日 (月)

言葉の移りゆき(345)


新元号の「令和」


 5月1日からの新しい元号「令和」が発表されました。これまでは中国古典に由来する元号が多く、国書に由来するものは初めてであると言われています。日本語日本文学を愛好する者としては、万葉集が出典であるのは嬉しいことです。
 ところで、次の記事は、正確であるとは言えません。


 万葉集にある和歌「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」(書き下し文)から二文字をとった。 …(中略)…
 安倍晋三首相は記者会見して典拠を万葉集とした理由について「我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書だ」と説明した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月1日・夕刊、3版、1ページ)


 我が国に現存する最古の歌集である「万葉集」が典拠であることは間違いありませんが、引用されている部分は「和歌」ではありません。
 これは、万葉集巻五に、「梅花の歌三十二首 并せて序」とあり、「天平二年正月十三日に、帥老の宅に萃まりて、宴会を申ぶ。時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。……」と続く説明文(詞書き)の一部分です。
 天平2年1月13日(太陽暦に直すと2月8日)、大伴旅人の邸宅に集まって宴会が繰り広げられたということであり、この詞書きの後に、815番から846番まで(国歌大観番号)の歌が並んでいるのです。815番以降が「和歌(短歌)」であり、引用部分は「和歌」ではありません。
 官房長官の記者会見でも、首相の記者会見でも、「詞書き」であるということは述べられなかったように思いますが、引用部分が和歌(短歌)のリズムを持っていないことは明らかです。
 このような記事の誤りを新聞はどのように訂正するのか(あるいは無視するのか)、関心のあるところです。
 たぶん、翌日の記事からは、「令和」が和歌の一部から採られたとは書かないで、「詞書き」から採られたと表現することでしょう。けれども、それによって、第一報の記事の誤りがかき消されるわけではありません。間違ったことは潔く認めて訂正するのがよいと思います。


 さて、新聞は、興味本位の予想記事を載せ続けましたが、「令和」を予想した人はいませんでした。私にとっても「令」の文字は意外でした。
 「令」という文字には、「よい。りっぱな。すぐれた」というような意味の他に、「命じる」、「君主の命令」、「のり・おきて」などの意味もあります。
 「令」は、漢文の句法としては、使役をあらわす文字としても使われます。「…をして、…せしむ」という読み方をする表現です。それに従えば「令和」は、なごやかにさせる、という意味にもなります。「なごやかにさせる」という意味は望ましい表現ですが、漢文の専門家にとっては、語法を表す用字のように見えるかもしれません。

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