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2019年4月19日 (金)

言葉の移りゆき(363)

同じ方向に考えを深めることは恥ずかしいか

 私は教員生活の最終段階の10年間、大学で講義をしました。自分が学生であった頃と違うのは、きちんと出席確認を行うことです。それをしなければ出席率が下がってしまうという危惧に基づくことであるのか、高等学校と同様に出席確認をするのが自然なことである(子ども扱いをして当然である)と考えているのか、ともかく、私の関係した4つの大学はすべて、そのような状況でした。当然のことですが、学生たちは従順に対応しています。
 自分の学生時代と明らかに異なることは、学生たちが躊躇することなく自分の意見を述べるということです。ほとんどすべての講義が、教員を目指す学生たちを相手にしたものでしたから、当然といえば当然のことであったのかもしれません。
 けれども、自分の意見を述べるというのは、どういうことなのでしょうか。次のような文章を目にしました。


 全国各地の大学に呼ばれて政治の話をする。以前は質疑応答の時間をとってもなかなか声はあがらず白々とした空気になった。 …(中略)…
 リアクションペーパーというらしいが学生はみな感想文を書いてくれる。個々の声は個人情報なので直接引用はしないが、総じて感じるのは、決め付け型の言論に対する極めて強い拒否感である。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月24日・朝刊、10版、3ページ、「日曜に想う」、曾我豪)

筆者の講義内容は詳しく語られていませんから、「決め付け型の言論」というのがどういうものであるのか、わかりません。けれども、感想文の中身が「強い拒否感」であるというのが理解できません。
 感想文の名称を「リアクションペーパー」と呼んだ経験は、私の関係した大学にはありませんでしたが、その名称にも問題があるように思います。
 リアクションには、反応という意味もありますが、反動、抵抗という意味もあります。「リアクションペーパー」という名称を使えば、講義で聞いた内容を敷衍したような感想文を求められていないように感じるのではないでしょうか。
 最近の風潮として、あなたは他の人とは違った意見を持っているはずだ(持っていなければおかしい)などと迫られることがあります。一人一人の人間が、それほど異なった考えを持てるはずはありませんが、他人と似たような考え方をするのは恥ずかしいというように思わせられているように思います。
 多様な考えは望ましいのかもしれませんが、そんなことよりももっと大切なことは、一人一人が、たとえ他の人の考えとはあまり違っていなくても、それを深め考えていくということでしょう。勇ましい意見を述べるよりも、ゆっくりと考えを深めることの方が大切です。考え方の大筋が他の人の考えと似通っていても、それは恥ずかしいことではありません。つきつめていけば、一人一人は異なった存在として、少しずつ異なった思いを持っているのですから。
 「他の人と違った意見を持たなければ、その人の存在価値はない」というような考え方を、報道関係者や、一部の教育関係者などが持っているようです。それが「リアクション」などという言葉になって現れているようです。
 リアクションという言葉に振り回されていると、感想文の中身は拒否感、抵抗感を盛り込んだものにならざるを得ないでしょう。人生の初期の段階から、そんな姿勢を求められるのは寂しいことではありませんか。

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