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2019年4月15日 (月)

言葉の移りゆき(359)


「参加しに行く」の違和感

 言葉が足りなければ、読み手の理解が進みません。一方、言葉が多すぎたり重なっていたりすれば違和感を覚えることがあります。ちょっとした言葉にも、そんなことを感じることがあります。
 「買い物に行く」とか「映画を見に行く」とかいう言葉遣いがあります。ごく普通の表現です。けれども、次のような言い方に出会ったときは、これでよいのかなぁという気持ちになりました。


 福島県相馬市のNPO法人『野馬土』が「原発20㎞圏内ツアー」を主催しているというので、参加しに行ったのである。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月16日・朝刊、be7ページ、「作家の口福」、西村健)

 はじめに例示した言葉遣いは、「行く」目的が「買い物」であったり「映画を見る」ためであったりするのです。
 上の記事の場合は、「参加する」ことと「行く」こととが、意味の上で重なり合うというように思います。例えば、参加するかどうかの判断をするために出かけていったというのなら理解できますが、参加すると決めていて出かけるのなら、「参加したのである」どじゅうぶんだと思います。

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