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2019年5月31日 (金)

言葉の移りゆき(405)

「訳ありの」は、褒め言葉か貶し言葉か


 ものを売るときの言葉は、その売り上げに影響をします。たいていは、良い品物であることを宣伝する言葉が使われますが、時には、問題をはらんでいる品物であることを自称する場合もあります。
 「訳ありの品」と言われたときは、格別の理由をそなえた絶品(褒め言葉)と判断するでしょうか。それとも、何かの欠点を持っている劣等品(貶し言葉)と判断するでしょうか。
 『三省堂国語辞典・第5版』は、「わけあり」を見出しにして、次のように説明しています。


 特別な事情があること。「- の仲・今度の異動はどうも - だ」

 この辞典の用例から判断すると、良い・悪いの評価を抜きにして、通常の様子とは違っているという意味が強く出ているように思います。むしろ、その事情を直接的に表面に出さないで述べようとしているような傾向を感じます。
 買う側からすれば、「訳ありの美味しさ」とか「訳ありの便利さをそなえた品」とか言われても、具体性が乏しいと感じるでしょう。
 逆に、「訳ありだから……値引きして売る」となると、「訳」の内容しだいでは、買うことを検討してみようという気持ちになるかもしれません。
 それにしても、「訳あり」という言葉だけでは、「訳」の内容が説明されていないのです。それが宣伝文句になるのが不思議です。

 ちょっと古い記事ですが、「買いたくなる食品の売り文句」というランキング記事がありました。(朝日新聞・大阪本社発行、2015年5月30日・朝刊、be2ページ、「beランキング」、中島鉄郎)
 そのランキングは、1位「産地直送」、2位「新鮮な」、3位「季節限定」、4位「無添加」、5位「旬の」……となっていて、15位に「訳ありの」が入っていました。これは「訳ありだから……値引きして売る」という貶し言葉の文脈ではなく、褒め言葉として宣伝している場合のように感じられます。
 「訳あり」の「訳」の内容が説明されていないのと同様のものとしては、このランキング20位までに並んでいる「新鮮な」「天然の」「とれたて」「こだわりの」「老舗の」なども同様かもしれません。「無添加」「無農薬」「ヘルシー」などもどこまで信用できるか、わからないのかもしれません。
 この記事には、「信用できない」言葉ランキングというのも載っていて、1位「秘伝の」の他に、「本格派」「絶品」「こだわりの」「天然の」「訳ありの」「無添加」「無農薬」「本場の」「厳選素材」と続くと書いてあります。
 「買いたくなる」ランキングにも、「信用できない」ランキングにも、同じ言葉が入っているのです。売る立場に立つ人は、言葉遊びはやめた方がよいと考えるべきであるのかもしれません。

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2019年5月30日 (木)

言葉の移りゆき(404)

「いろいろあった」で、良いではないか


 平成の終わりに、新聞や放送は、その30年間を区切ろうとする姿勢を強く持ったように思います。30年間にわたるのですから「いろいろあった」のですが、格別なものがなくても不思議ではありません。世の中には、そんなに格別なものが満ちあふれたりはしていません。そのうえ、格別のように感じるものは、人によって異なるのです。それを無視して記事を書いてはいけないでしょう。
こんな文章がありました。


 電車内で見かけた栄養ドリンク剤の広告です。〈いろいろあった平成の30年〉。平成時代を振り返る趣旨の内容です。
 平成時代の日本は、長い不況や、2度の大震災を抜きに語ることはできません。でも、ドリンク剤の広告で、それらに触れるのは難しい。 …(中略)…
 誰もが「これ」と思う象徴的な出来事は。あまりなかった気がします。昭和の東京五輪や新幹線開業に匹敵するようなものは……。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月27日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 このコラムの見出しは「平成の明るい話題トップは」となっています。
 話題になっているのは栄養ドリンク剤の広告ですが、そのような広告でなくても、平成の30年間は、「いろいろあった」と振り返れば、それでよいではありませんか。
 明治の40余年間、大正の10数年間、昭和の60余年間、平成の30余年間に、格別の物事が散りばめられるはずはありません。令和が何年続いたとしても、そこにも格別なものが配置されるとは限りません。
 上の文章で筆者は、昭和の東京五輪や新幹線開業を象徴的な出来事と捉えていますが、多くの人がそれに同感するでしょうか。(とりわけ、若い世代の人たちは。)
 平成を振り返る記事の中で、新聞や放送が取り上げたような〈平成時代の特筆すべきこと〉にどれだけの人が同感したでしょうか。平成時代には「いろいろあった」のです。その「いろいろ」は人によって、それぞれ異なったものであったはずです。新聞や放送が、時代を振り返ることはかまいませんが、みんなが同じように考えたり感じたりしていたはずだと結論づけてはいけないと思います。
 そもそも「平成の30年間」という区切りを設けることが、良いことであるかのように感じているのは、新聞や放送の関係者だけであるのかもしれません。

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2019年5月29日 (水)

言葉の移りゆき(403)

「マッチョ」は正統な文章語であるか


 新聞の文章は、基本的には文章語(書き言葉)で綴られているものであると思います。その中に話し言葉、とりわけ国語辞典に掲載されていないような言葉遣いに出くわすと、違和感を覚えることがあります。
 どうしてもその言葉でなければならないような場合は別ですが、いくらでも表現の仕方があるのにと思うような場合は、嫌悪感すら感じてしまいます。
 例えば次のような文章です。


 高度成長を支えるにはタフでなければならない。浅黒い顔で声は低く、ひげが濃くて胸毛があって、みたいなマッチョこそが男だと、父は思っていた。筋肉質で足も速く病気もしなかったけれど、色白で声が高かった僕は、その範疇から外れていた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月27日・夕刊、3版、5ページ、「1956 太陽族」、前田安正)

 「マッチョ」という言葉に接することはありますが、正確な意味は理解できていませんから、国語辞典を引いてみました。どの辞典にも載っているような言葉ではありません。『三省堂国語辞典・第5版』に、次のように書いてありました。


 マッチョ(形動ダ)(macho) 力強くて男っぽいようす。

 「浅黒い顔で声は低く、ひげが濃くて胸毛があって」という様子が「マッチョ」という言葉の中身を表しているのなら、改めて「マッチョ」などという言葉を使う必要はありません。「マッチョこそが男だ」という表現に、辞典の説明文を代入すれば、「力強くて男っぽいようす」こそが男だ、というおかしな文になります。
 流行語、俗語、外来語を多用するのは、新聞記者にとっては望ましいことではないと思います。正統な文章語として認められたような言葉だけを使っても、言いたいことは表現できるはずです。

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2019年5月28日 (火)

言葉の移りゆき(402)

旅行者数や旅行平均費用の算出の仕方

 いつも不思議に思って眺める数字があります。旅行者数や旅行平均費用についての数字です。これらのうち、間違いがないだろうと思うのは海外への旅行者数だけです。空港を経由する人数であるからです。
 こんな文章がありました。

 いよいよ異例の10連休が始まった。
 JTBの調査によると、国内、海外ともに旅行者数は大型連休としては最高になるという。
 旅行の平均費用は国内で3万6800円、海外で26万8000円。いずれも昨年の同時期に比べ1・5%以上多い。今年は、改元記念ツアーに参加する人や神社にお参りする人も目立つようだ。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年4月27日・夕刊、3版、2ページ、「とれんど」、是枝智)

 「いずれも昨年の同時期に比べ1・5%以上多い」などと言われると、いかにも正しい数字であるかのような錯覚を覚えます。けれども、旅行費用がいくらになるという費用は、きちんと計算されたものなのでしょうか。これはJTBのツアーに参加する人の平均値なのでしょうか。
 旅行者のツアーに参加する人は、すべての旅行者のうちの何割ぐらいであるのか知りません。(さらにJTBのツアー参加者は、全旅行者の何%にあたるのかも知りません。)
 海外旅行をする人は旅行社の世話になることは多いのでしょうが、国内は自分で計画して手配する人も多いことだろうと思います。3万6800円という数字は、ごく一部の人たちを対象にした数字であるのではないかと思うのです。けれども、一旦、数字が新聞に出るとそれが一人歩きを始めてしまいます。
 新聞は、数字が大好きです。けれども、それらの中には、他者(たとえば旅行社など)の受け売りが多いのです。それらが正しい数字かどうかを検証しないで掲載することが多いように思います。時には、その数字がどのようにして計算されたものであるのかということを、きちんと説明してほしいと思うのです。

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2019年5月27日 (月)

言葉の移りゆき(401)

答え方が見つからないような質問

 前回の続きです。大学入学共通テストの2回目の試行調査の国語の記述式問題のことです。
 問1は、「【文章Ⅰ】の傍線部A『指差しが魔法のような力を発揮する』とは、どういうことか。三十字以内で書け(句読点を含む)。」という質問です。
 傍線部は、次のような文脈にあります。


 ことばのまったく通じない国に行って、相手になにかを頼んだり尋ねたりする状況を考えてみよう。この時には、指差しが魔法のような力を発揮するはずだ。なんと言っても、指差しはコミュニケーションの基本なのだ。

 この質問に対して、「正答例」として示されているのは、次の表現です。

 ことばを用いなくても意思が伝達できること。(21字)

 この「正答例」は、平凡な答えです。「魔法のような力」という力強さは、どこにも表現されていません。
 そして「正答の条件」として3つのことが示されています。

 ①30字以内で書かれている
 ②ことばを用いない、または、指さしによるということが書かれている
 ③コミュニケーションがとれる、または、相手に注意を向けさせるということが書かれている

 ①は当然です。
 ②の「または、指さしによるということが書かれている」というのは不可解です。傍線部に「指差し」という言葉が使われているのですから、それとは違った言葉を用いようとするのが、受験生の心理というものでしょう。
 ③については、傍線部が「魔法のような力を発揮する」と言っているのですから、「コミュニケーションがとれる、または、相手に注意を向けさせる」という答えは弱いと思います。
 長文になるので引用していませんが、引用部よりも前で書かれていることを読み取れば、〈言葉を用いず、頭や目の向きも用いない状況であっても、指差しひとつで、相手になにかを指し示したり、相手の注意を向けさせたりできること〉を「魔法のような力」と言っているのです。はっきり言うと、正答条件として挙げている「コミュニケーション」というのは、傍線部より前の部分では使われていない言葉です。
 結論として言うなら、問1は、設問として成立しない(30字以内で書くことはできない)ということになるでしょう。
 こういう問題であれば、大学入試センターの考えと、受験生の自己採点に大きな差が生まれるのも当然でしょう。
 私は、だから国語の記述式問題はやめるべきだとは思いません。受験生を惑わすような設問を差し控えて、正答と誤答の見分けがつくような出題に磨きをかけなければならないと思うのです。

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2019年5月26日 (日)

言葉の移りゆき(400)

19行の中に20回も同じ言葉が出る文章


 人はどのような文章を書いても、他人から文句を言われることはありません。それが表現の自由というものでしょう。だから、以下に問題とする事柄について、その文章の筆者を批判するつもりはありません。
 昨年11月に実施された大学入学共通テストの2回目の試行調査の採点結果が、4月初めに公表されました。3問あった国語の記述式問題で、生徒の自己採点と大学入試センターの採点結果が一致しない割合が、いずれも約3割に達したことが問題視されています。
 この試行調査の国語採点結果という報道を、(朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月5日・朝刊、13版S、19ページ)で見ましたが、まずは、出題された文章について問題を感じます。
 第1問の【文章Ⅰ】の出典は、鈴木光太郎『ヒトの心はどう進化したのか -狩猟採集生活がうんだもの』だそうです。一部表記を改めたところがある、という注記があります。
 この文章は、引用された範囲では、次のような文章で始まっています。


 ヒトは、ほかの人になにかを指し示すために指差しをする。驚く人もいるかもしれないが、これをするのはヒトだけである。

 この「指差し」という言葉には「ポインティング」という振り仮名が付けられていますが、この文章(新聞記事では19行)には、「指差し」という言葉が20回も使われています。このうち16回は「指差し」という名詞であり、4回は「指差した」という動詞+助動詞の表現です。平均すれば1行に1回ずつ「指差し」という言葉が現れる文章を、大学入試の出典にふさわしいと判断した理由が理解できません。
 筆者は、読む人にわかりやすく理解してもらうために、同じ言葉を繰り返して使っているように思われます。筆者の意図はじゅうぶんに理解できます。
 けれども、そのことによって、大学入学共通テストに使う文章にふさわしいということにはならないと思います。
 これまでの大学入試センター試験に使われた文章に比べると、実にわかりやすい文章になっています。質問も、難解なものから、易しいものになっています。その落差に驚きます。読解するための設問ではなく、表現するための設問だということが理由になるのでしょう。けれども、難解なセンター試験の過去問に慣れた受験生が、そんな馬鹿げた答え方でよかろうはずはないと思って、答え方を工夫すればするほど、答え方を誤ってしまう可能性があると思います。
 具体的なことは次回に述べることにします。

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2019年5月25日 (土)

言葉の移りゆき(399)

東京人の文章

 新聞記者といえども、東京人は、東京以外の地域に住む人の心がわかっていないのではないか思うような文章に、ときどき出合います。
 これも、その一つです。途中に、デカルトの言葉「われ思う、ゆえにわれあり」が引用されていますから、「思うたい、だけん、あるばい」はそれを九州の言葉で言ったもののようです。それは理解できます。


 九州でわたしは、狩猟民として鹿や猪、鴨を追い、生活面の連載「アロハで猟師してみました」に報告してきた(22日が最終回予定)。たしかに山の中で命を取っていると、「思うたい、だけん、あるばい」と訳した方が、命の重さが伝わる。渋谷の109前、浮薄と喧騒の中でならでけえ声で「思うじゃんか、だから、あんじゃね?」。
 ちょっと違うかな。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月19日・夕刊、3版、11ページ、「取材考記」、近藤康太郎)

 「思うじゃんか、だから、あんじゃね?」というのは、デカルトの言葉を東京の言葉で言ったのでしょうか。最後に疑問符が付いていますが、何を言っているのか、よくわかりません。東京語というのは難しい言葉のようです。
 その上、「渋谷の109前」というのは東京人には十分に理解できている言葉であっても、田舎の人間には理解できません。「でけえ声」という表現が新聞社の編集委員の口から出るのも、どうかなと思います。
 この記事の見出しは、「渋谷でわれは叫ぶ 思うじゃんか、だから、あんじゃね?」となっていますが、文章で表現しようとしたことの意図が理解できません。最後の「ちょっと違うかな。」という表現は、何に首をかしげているのでしょうか。私には理解できません。
 とにもかくにも、東京の人の使う言葉は、難しいということだけが心に残りました。東京は全国共通語の中心地ということだけでなく、言葉の仕組みが難しいところだと思いました。

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2019年5月24日 (金)

言葉の移りゆき(398)

言葉を短縮することで、言葉が軽く扱われている


 流行語によって平成の時代を振り返る記事がありました。その連載で、女性の人権をテーマにした回に、次のようなことが書かれていました。
 1989年、セクシャル・ハラスメントが流行語になって、それを巡る訴訟があったということを述べて、原告の晴野まゆみさん(61)の言葉を紹介しています。


 晴野さんは、ネット社会になり、セクハラ被害者へのパッシングがひどくなったと感じる。セクハラやパワハラなどと言葉を短くすることで、言葉が軽く扱われていると懸念。「人権侵害という認識と距離が出てしまう。人権とは何か、もう一度考える必要がある」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月23日・夕刊、3版、8ページ、「平成代替わり 流行語でたどる」、伊藤繭莉)

 「言葉を短くすることで、言葉が軽く扱われている」という懸念にはまったく同感です。そのような傾向を牽引しているのは新聞や放送です。きちんと「セクシャル・ハラスメント」「パワー・ハラスメント」という言葉を使うべきです。記者はきちんとした言葉を使っているとしても、整理部が短い言葉にしてしまうという事情があるのかもしれません。見出しの文字は少なくするというのは原則かもしれませんが、何でも略してしまえという方針は間違っていることに気づかなければなりません。
 このことは、私は、この連載で何度も指摘してきました。けれども改まるどころか、ますます酷くなっていると感じています。


①「あおり運転」摘発1.8倍 / 昨年 ドラレコ映像も活用
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月23日・朝刊、14版、1ページ、見出しの言葉)

②プラに印刷 まるで金属 / 特殊技術、中小が開発
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月23日・朝刊、14版、6ページ、見出しの言葉)

③モラハラ=心への暴力 見えない支配 / 無視や嫌み…話し合えない夫 / 「私が悪い」自分責めうつ病に
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月23日・朝刊、13版S、23ページ、見出しの言葉)

 ある日の新聞の見出しの一部です。①の「ドラレコ」はドライブレコーダーです。ドラレコなどという発音は下品きわまりない発音ですが、そんなことへの配慮はありません。言葉が短くなれば、それでよい、あとは知ったことではないという姿勢です。②の「プラ」はプラスチックです。
 ③の「モラハラ」は配偶者など親密な関係の中で起きる暴力の中で、「モラルハラスメント」と呼ばれる精神的な暴力のことだそうです。比較的に新しい言葉だと思いますが、略語で登場です。「モラルハラスメント」という言葉の重みは、「モラハラ」と略すことで軽くなり、日常茶飯事の出来事かと思われるような感じになります。「言葉を短くすることで、言葉が軽く扱われている」ことを、新聞が実践しているのです。

 元の文章「平成代替わり 流行語でたどる」は、その文章全体の末尾を引用しました。「…と懸念。」などという尻切れトンボの文の次に、「 」で引用文が続いて、それでお終いという、尻切れトンボの二重奏です。晴野さんの言葉を軽く引用しただけの印象で文章全体が終わっています。NIEとして使えば、失礼な文章の見本、日本語の原則を無視した文章の見本ということになります。
 記者はこんないい加減な文章を書いていないはずです。もし、書いていたのなら、「どうせ、このような形に加工されるのだ」ということを知っていて書いたのでしょう。新聞記者は本質的にこんな文章を書かないと思います。すべては整理部の仕業だろうと思います。そして、そんな表現が新聞紙上を跋扈しているのです。情けないことです。

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2019年5月23日 (木)

言葉の移りゆき(397)

「最後の未開の地」って、どこのこと


 テレビは、まるで自分が天下を動かしているような気取りで、どこへでも入り込んでいきます。少し前までは、遠慮をしていたところへも、無遠慮に入っていきます。
 これまでになかったような場面であれば視聴者が喜びます。それを大義名分にして、とんでもないところへもカメラを入れて、視聴者を喜ばせようとします。すぐに飽きられることがわかっていても、短期間だけでも視聴率を取ればよいと考えているようです。そんな風潮をNHKも追随するようになってしまったのが嘆かわしいことです。
 家庭の風呂に入れてもらうという番組があるそうです。それを紹介する記事にこんなことが書いてありました。


 NHKの北川朗チーフ・プロデューサーは、番組の狙いについて「ネットを使えば地球上のあらゆることが調べられる時代でも、各家庭の風呂についてはネットでほとんど出てこない。最後の未開の地である家庭風呂に注目することで、市井のみなさんの人生を深く見つめることができると思った」と説明する。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月22日・朝刊、14版、18ページ、「フォーカスオン」、鈴木友里子)

 ネットに出てこないから、それが未開の地だという論理は、一般人の論理ではなく、テレビ人特有の考えでしょう。何でも絵(テレビ画面)になるという考えのもとでは、家庭風呂は、まだ絵になっていない「未開の地」であるということなのでしょう。そんな場所に入り込んで番組を作るべきではないという自戒の心はまったく喪失してしまっています。
 家庭の風呂のことがネットに出てこないということの方が、うんと正常です。この紹介記事には、番組を讃える言葉が散りばめられていますが、新聞記者にも、家庭の風呂にカメラが入り込むことの自戒心はまったく存在しないようです。
 「最後の未開の地」という大袈裟な言葉は滑稽以外の何ものでもありません。こんな言葉を使うプロデューサーは、これを最後に番組づくりをやめるのでしょうか。それとも、次々と「最後の」地を開発していく能力の持ち主なのでしょうか。もし開発力を持っているのなら、家庭風呂が「最後」であるはずがありません。言葉のまやかしです。
 馬鹿げた言葉遣いを紹介することが、新聞の質を下げることにつながるということにも、記者は注意をしなければなりません。

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2019年5月22日 (水)

言葉の移りゆき(396)

「予定調和」という一刀両断


 「予定調和」という言葉は、哲学説の根本原理として使われた言葉だそうです。そのような言葉を日常語として使ってはいけないというわけではありませんが、この言葉を聞くと、簡単に物事を切り捨ててしまうような響きを感じます。
例えば、こんな文章がありました。


 半世紀を超える地上波の演芸番組を語ろう。いや予定調和な大喜利ではない。TBSの「落語研究会」だ。
 明治からの伝統を継ぐ同名の落語会で高座を収録している。現在は地上波(関東ローカル、第3日曜早朝)、BSTBS、CSのTBSチャンネルと多重に放送している。 …(中略)…
 長岡杏子アナウンサーは、自分の意見を最小限にとどめて質問する。そうだ、聞き役に徹する奥ゆかしさも、ツッコミ全盛のテレビが失いつつある伝統だった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月19日・朝刊、14版、31ページ、「記者レビュー」、井上秀樹)

 「予定調和な大喜利」という表現の意図が理解できません。
 予定調和という言葉は、観衆や関係者などの予想する流れに沿って事態が動き、予想通りの結果になることを表す言葉のようです。途中に異常な存在が現れても、最後にはごく当たり前の結末になることのようです。意外性がないということのようです。伝聞の形で書くのは、こんな言葉を使ったことはありませんし、正確な表現意図を理解できないからです。
 この言葉は、映画、演劇、小説などの世界から、政治、経済に至るまでに使える言葉のようです。もしそうであるのなら、わが国の政治のあり方などがその典型と言えるようです。
 「笑点」という長寿番組を批判する言葉として「予定調和な大喜利」という表現は効果的なのでしょう。けれども、ある番組を「予定調和な番組」という言葉を使って貶すなら、立つ瀬がありません。このような言葉遣いをするのなら、現在のテレビ番組はほとんどすべてが「予定調和な番組」ということになるでしょう。
 私たちの歩んでいる人生も「予定調和な何十年間」という言葉で言われかねなくなります。一刀両断な言葉です。
 「落語研究会」というのは半世紀を超える番組だそうですが、地上波が関東ローカルで、しかも月1回の早朝時間帯の番組だそうです。いかに価値ある番組と認めたとしても、関東以外の人たちにとっては、知らない番組です。東京で書かれる記事にはこのような傾向があります。全国向けに書いている意識があるなら、こんな記事は書かないはずです。
 「長岡杏子アナウンサーは、自分の意見を最小限にとどめて質問する。聞き役に徹する奥ゆかしさ…」というのは日本人(日本語)が持っていた特性でした。新聞記者もその特性を失って、大袈裟な言葉を振り回す時代になってしまっているのです。

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2019年5月21日 (火)

言葉の移りゆき(395)

「100%再生可能エネルギー運行」とは

 

「再生可能エネルギー」とは、有限な資源である石油、石炭、天然ガスなどの化石エネルギーとは違って、太陽光、風力、地熱などの、自然界に常に存在するエネルギーのことです。
 全列車をそのエネルギーによって運行する試みが始まったというニュースがありました。

 

  東京急行電鉄(東京)は25日、東京都内を走る世田谷線で、電力の100%を再生可能エネルギー由来とする取り組みを始めた。東北電力グループが水力と地熱で発電した電力を供給する。東急によると、全列車を再エネだけを使って通年運行するのは日本の都市型電車では初めて。 …(中略)…
 東急によると、今回の取り組みは、従来の電気料金より割高になるが、運賃には反映させない。
 (毎日新聞・中部本社発行、2019年3月26日・朝刊、13版、6ページ)

 

 このような取り組みは、もちろん望ましいことではありますが、東京急行電鉄の取り組みによって日本全体の再生可能エネルギーの割合が上がることになるのでしょうか。そうではなくて、現状としての割合の中で、東急は再生可能エネルギーのうちの水力と地熱で発電したものを使うということなのでしょう。
 従来の電気料金よりも割高になるが、それのみを使うという考えは賞賛すべきなのでしょうが、いったいどのようにして送電されるのでしょうか。専用線を使うのでしょうか。いろいろな方法で発電されたものが一括して送電されているのなら、何だか理屈が通らないような気持ちがしないではありません。
 再生可能エネルギーだけを使うという企業が増えた場合、太陽光、水力、風力、地熱などの発電でまかなえる態勢となるのでしょうか。東急の営みは今後を考える長い長い営みの先導役であるような気がします。
「再生可能エネルギー」だから略して「再エネ」などということではなくて、もっとしっかりした言葉が生まれてほしいと思います。

 

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2019年5月20日 (月)

言葉の移りゆき(394)

「2連ポスター」は違反でないと言うが…


 選挙が告示されていないのに候補者の顔と名前を売り込もうとするポスターが氾濫しました。これって違反でないそうですが、それを違反でないとする法律自体がおかしいと思います。


 ポスターをよく見ると、「立候補予定者」は「別の人」と並んでいる。党首や国会議員だったり、著名人だったり……。その下や脇のスペースには、党のキャッチフレーズや演説会の案内などがある。
 業界で「2連ポスター」と呼ばれるものだ。あり方について議論はあるが、違反ではない。 …(中略)…
 総務省選挙課によると、2連ポスターは個人の名前や顔を表示していても、政党の政治活動のためのポスターとみなされる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月27日・朝刊、「神戸」版、13版△、31ページ、「探る!統一地方選」、西見誠一)

 統一地方選挙に至る期間に、立候補予定者と別の人とを並べたポスターが町中に氾濫しました。それをべたべたと何枚も何枚も張り並べる立候補予定者もいました。選挙前には汚らしさが極点に達しました。それでも違反でないというのは、そんなルールを作るのも政治家であるからなのでしょう。
業界で「2連ポスター」と呼んでいるとありますが、業界とは、どんな業界のことなのでしょうか。ポスターを作る印刷業界でしょうか、それとも、候補者の業界でしょうか。
 名前と顔が町中に大きく張り出されているのは、重大犯罪の犯人の手配と、もう一つは立候補予定者のようです。ポスターだけではなく、選挙が済んでも看板(置き看板)が町のあちこちに残されています。
 政治家は美に対する意識を持ち合わせていないのだろうかと思います。とりわけ、国会議員のポスターは、長い期間にわたって張り続けられますから、汚くなったものもそのままです。

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2019年5月19日 (日)

言葉の移りゆき(393)

「チーズ」と「らりるれろ」


 写真を写すときに「はい、チーズ」と言います。「チーズ」という発音が、口を横に広げてにっこりした顔つきにさせるからです。けれども、その発音とともにシャッターが切られることは少ないようで、本当ににっこりとした写真ができあがることは少ないようです。
 それに比べると、こちらは効果覿面の言葉のようです。


 「・・・・・」「もっとはっきり」「らりるれろ」
 うなずく刑務官に礼を言う受刑者。隣の受刑者が、同じように刑務官から薬を受け取る。
 錠剤や粉薬を舌の上に乗せてそこにあることを示し、水と一緒にのみ込んだ後、何もなくなった舌を再び刑務官に見せる。最後に言う言葉が「らりるれろ」だ。
 「こうした言葉を言わせるのはいかがか、各自の称呼番号で十分ではないかという議論もありました。でもそれだと薬を確実に飲んだかわからない。舌の裏まで確認できる『らりるれろ』には一定の合理性がある。薬をため込んで人にあげたり、大量に飲んだりする事案を防ぐためです」と細川隆夫所長が説明する。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月21日・夕刊、3版、1ページ、「密着Document」)

刑に服する人も高齢化して、病気がちの人も多いそうです。睡眠薬、軟便剤、降圧剤など多くの薬が必要になると言います。
 確かに「らりるれろ」を発音している人の口もとを見れば、口の中の様子がよくわかります。「舌の裏まで確認できる」という効果は、その通りだと思います。

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2019年5月18日 (土)

言葉の移りゆき(392)

秒数、分数、時数、日数


 100メートルを走るのにかかる秒数、漢字の練習帳の1ページ分を仕上げる分数、原稿用紙10枚分を書き上げるのに必要な時間数(時数)、東海道を歩き続けてお江戸日本橋から京都三条大橋までにかかる日数。
 このように書き並べてみると、秒数、時間数、日数はよく使いますが、分数(ふんすう)はあまり使わないように感じます。
 分数という文字を見ると、整数Aを整数Bで割った結果を、「B分のA」という形で表した、分数(ぶんすう)という言葉の方が馴染みがあります。
 だから、次のような文章を見ると、ずいぶん印象に残ります。


 キッチンタイマーがないと何もできない。 …(中略)…
 主に決まった分数をセットして仕事を始め、それが終わるとまた休憩時間の分数をセッとして休む。それからまたタイマーをセットして仕事をする。これを何回か繰り返しているうちに、その日のノルマができあがる。仕事時間と休憩時間のバランスは諸説あるのだが、わたしは二十五分仕事をして十二分休むという自分に甘い設定に落ち着いた。ただその二十五分間は仕事以外はお茶を飲んでおやつを食べる以外何もしない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月10日・夕刊、3版、2ページ、「となりの乗客」、津村記久子)

作家の人の執筆時間配分がこのようであることに驚きましたが、「分数」というものが生活の基盤にあることにもびっくりしました。
 私自身の生活時間配分は、新聞を半時間読むとか、パソコンに1時間向かうとか、ウオーキングに1時間半とかの、「時数」単位です。テレビのニュースを20分間見るということもありますが、それは0.5時間弱という単位にしてしまっています。
 「分数」単位の生活には興味がありますが、私は、25分と12分というような区切りなどはできないような人間になってしまっているような気持ちがします。
 「秒数」や「時数」が国語辞典の見出しになっても、「分数(ふんすう)」が見出しになることはないだろうと、私はのんびり構えているのです。

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2019年5月17日 (金)

言葉の移りゆき(391)

「綿菓子」と「綿飴」


 綿菓子または綿飴と呼ばれている食べ物があります。駄菓子屋さんで買うのではなく、お祭りなどの屋台で売られているのが主流だと思います。
 この食べ物について、「東西で違う証拠を撮った」という見出しの記事がありました。


 郷里の香川県に帰った時、こんぴらさんの参道で〈わたがし〉とあるのを見つけました。そうそう、小さい頃、私はこれを「わたがし」と呼んでいました。
 現在住んでいる東京で、屋台の文字に注意してみると、多くは「わたあめ」と書いてあります。経験的に、東では「わたあめ」、西では「わたがし」という感じがします。 …(中略)…
 こうした調査結果を、知識として知っておくことも大事ですが、実例に出合った時の楽しさは格別です。私はまだ何枚かの「証拠写真」を撮っただけですが、今後も、旅行先で屋台を見かけたら、このお菓子の表記に注意してみるつもりです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月20日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 東西で「わたあめ」「わたがし」という分布を示すということについては異論はありません。けれども、「わたあめ」と「わたがし」が、東西のどの辺りで分布が区切られるのかということは、現在ではあまり意味のないことであるのかもしれません。「証拠写真」の価値も乏しいと思います。
 ホームページを見ると、「わたあめ」「わたがし」の幟旗が売られています。幾つものホームページがありますが、たいていのところでは「わたあめ」「わたがし」の両方が売られています。これからは、東西の分布というようなことではなく、幟旗を買う人の好みによって選ばれるかもしれません。東京に「わたがし」があっても、関西に「わたあめ」があっても、何の不思議でもないことになるでしょう。
 なお、国語辞典では、『明鏡国語辞典』『三省堂国語辞典・第5版』では、「わたがし」が載せられて、「わたあめ」は「わたがし」を見るようにと誘導されています。一方、『現代国語例解辞典・第2版』では、「わたあめ」が載せられて、「わたがし」は「わたあめ」を見るようにと誘導されています。『岩波国語辞典・第3版』『新明解国語辞典・第4版』には「わたあめ」「わたがし」ともに載せられていません。

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2019年5月16日 (木)

言葉の移りゆき(390)

「選書」の新しい意味


 「選書」という言葉は、書物の中から選ぶ、という意味です。けれども、その言葉は、叢書・双書の名前として使われるというのが、従来の用例でした。
 そこに新しい意味づけがなされるようになりました。次のような記事があります。


 小さな書店の店主らが、お客さんのために本を選んで送る「選書サービス」が静かな人気だ。本が売れず、書店の数が減り続けている時代だが、利用者は何を求めているのか。
 北海道砂川市の「いわた書店」は全国から選書の依頼が殺到する、この世界では有名なお店。2006年に始めた「1万円選書」がテレビやSNSで取り上げられ、今では毎月150人限定のサービスに年7千人以上が申し込み、抽選待ちしているほどだ。
 年齢や家族構成、過去の読書歴や今、一番したいことなどを記した「カルテ」を顧客に送ってもらうのが最初のステップ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月8日・夕刊、3版、3ページ、「知っとこ!DATA」、金本有加)

 全国チェーンの書店が幅を利かせる中で、小さな書店の営みとして興味深く感じます。文庫、新書、選書、双書…などというシリーズ名として「選書」という言葉が使われてきましたが、「選書」の本来の意味は、書物を選ぶということです。読者一人一人に合った本を選ぶというのはたいへんな作業だと思いますから、よほどの書店主でないとできないことかもしれません。
 他人に本を選んでもらうのは、読書人の営みとして望ましいかどうかわかりませんが、読書生活の契機となるのなら、一度ぐらいは利用してもかまわないのかもしれないと思います。その後は自分で「選書」をしていけば良いのですから。

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2019年5月15日 (水)

言葉の移りゆき(389)

「仮名にしてもわからない」なら、漢字と振り仮名の表記を


 警察署の建て物に「けいさつ」という平仮名書きがされているのを、あちこちで見かけます。「警察」という漢字がわからない人であっても、「けいさつ」という文字を見ればわかる、という論理は理解できますが、そのような人は何人いるのでしょうか。小学生向けの表記かなと思ったりします。
 だから、次のような記事にも考えさせられます。


 皇居の外堀で工事をしていました。〈しゅんせつ工事のお知らせ〉と看板が出ています。何が行われているのか、ぱっと見て分からないも多いんじゃないでしょうか。 …(中略)…
さる工場内で「じんあい」と書いた箱を見たことがあります。漢字で書けば「塵埃」で、「ちり・ほこり」のこと。使用済みの容器などでなく、ちりやほこりだけを捨ててください、ということか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月16日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 この記事には、「仮名にしても分からない」という見出しがついています。私は海辺に住んでいます。小さい頃から時々、海辺や川で浚渫工事が行われていましたから、「しゅんせつ」という言葉は聞きました。けれども、その言葉に馴染みがない人が「しゅんせつ」という文字を見たら、何のことかわからないでしょう。
 皇居の外堀で見かける「しゅんせつ」と、さる工場内での「じんあい」とは、対象者がまったく異なります。皇居の外堀では、その文字を見る人は不特定多数で、外国人も含まれるでしょう。工場内では、その文字を見る人は作業をしている特定の人たちです。
 「仮名にしても分からない」という判断をするのなら、漢字で書いて、「浚渫」に「しゅんせつ」と振り仮名をする方がよっぽど親切です。発音だけでは類推ができなくても、漢字を見たら何らかの方向性を見出せるかもしれません。
 工場内のものは「塵埃」と書くのがよいでしょう。漢字が難しいから平仮名にしたというのでしょうが、工場内の人にとっては、平仮名書きをすることによって馬鹿にされたという思いにならなければよいと思います。
 ただし、工場内の「じんあい」は、本当に、ちりとほこりだけを集める箱なのでしょうか。その工場の中の取り決めで、小さなゴミも含まれるのかもしれません。あるいは、もっと違ったものまでを集めることもあるかもしれません。そういう意味を込めて「じんあい」と書かれているのなら、「塵埃」という文字を使わなかった理由があることになります。小さな集団内では、言葉に特別な意味を加えることもあるでしょうから、一概に断定はできないことがあると思います。

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2019年5月14日 (火)

言葉の移りゆき(388)

「省力」と「省人」


 「省力」とは、機械化などによって作業の手間や労働力を省くことです。悪いイメージは持ちません。その「省力」を何段階も進めたような、露骨な言葉が使われはじめているようです。
 海上自衛隊が「省人化」を強化しているという記事がありました。


 人繰りと船繰りが課題となるなか、少人数で効率的に任務にあたる「省人化」に力を入れている。 …(中略)…
 防衛省は昨年末に策定した防衛計画の大綱で、「省人化」を狙った施策を盛り込んだ。 …(中略)…
 新型護衛艦22隻には「省人化」と「複数クルー制」という二つの工夫を施す。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月29日・朝刊、13版S、3ページ、古城博隆)

 「省力」という言葉には、働いている人がラクになるという、望ましい印象があります。それに対して「省人」という言葉は、働いている人を少なくするということですから、働けなくなる人が生じます。人を物体のように見て、それを切り捨てていくような印象が伴います。気持ちの悪い言葉です。
 記事によると、少子化によって隊員を確保することが難しくなっているということが背景にあるようです。だから少ない人数で任務を推進する必要があるということは理解できます。
 けれども、「省人」という言葉には、これまでに働いていた人数を少なくするというイメージがあります。人をモノのように切り捨てていくという感じです。
 少ない人数で任務を推進するためには「省力」が必要でしょうが、少ない人数の中でのやりくりを「省人」と言うのはおかしいと思います。
 海上自衛隊が「省人」という言葉を使っているのか、新聞が勝手に使っている言葉であるのか、わかりません。けれども、こういう言葉を使いはじめるときには、言葉の印象や、その言葉の与える影響をじゅうぶんに検討しておかなければなりません。

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2019年5月13日 (月)

言葉の移りゆき(387)

自分たちの行動を自ら証明するような写真


新聞記者やカメラマンは、読者の知りたいという欲求に応えるために、記事や写真を届ける義務がある、という言葉をよく聞きます。放送記者やカメラマンについても同じです。その大義名分を使って、ずかずかと市民の中を跋扈するのです。読者や視聴者を第一に考えて報道する、などという言葉を聞くことがあります。けれども、言っていることと、実際の行動とが一致していないように思うのです。
園児の列に車が突っ込み、死傷者が出た事故はいたましいものでした。あってはならない出来事ですから、報道関係者も大挙して事故現場に押し寄せます。地元の方々よりも報道関係者の方が密度が高いという場所もあったかもしれません。
 遺族の思いが記事に書かれていました。


 原田優衣ちゃん(2)の遺族は …(中略)… 「安らかに娘を旅立たせようと思っております。最後に私共夫婦・姉弟よりたっぷりと愛情を注ぐ式にしたいと思います」と、葬儀などの取材を控えるよう要請した。
 伊藤雅宮ちゃん(2)の遺族は、「突然の事故で大切な家族を失い、深い悲しみを受けています。心情をお察しいただき、自宅や葬儀会場での取材や写真撮影をご遠慮いただきますようお願い申し上げます」と取材自粛を求めた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月10日・朝刊、14版、25ページ、安藤仙一郎)

 遺族気持ちをありのままに報道したのは良いことだと思います。けれども、そういう要請がなければ報道関係者は大挙して押しかけて、無理やりインタビューをするに違いありません。
 要請があったから自粛する、というようなものではありません。報道関係者は遺族や地元の人たちに対する配慮をそなえていなければなりません。
 遺族だけではありません。地域の人にとっても、静かに献花などをして冥福を祈りたい気持ちが強いと思います。それを踏みにじっているのは誰なのでしょうか。
 新聞写真を見て、腹立たしさを覚えます。


①保育園児の列に車が突っ込んだ事故現場に花を手向け、手を合わせる女性=8日午後4時25分、いずれも大津市大萱6丁目、細川卓撮影。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月9日・朝刊、14版、29ページ、写真に付けられた説明文)

 祈っている一人の女性の向こう側に、カメラを構えた人、テレビカメラの人、ノートを持った記者など6人ほどが写っています。たったひとりの人を取材する立場の人が取り巻いているのです。これでは、心静かに祈ろうとしても、できないではありませんか。私なら、そんな見世物のような場面に入っていくことはできません。


②大津市の県道交差点で信号待ちをしていた保育園児らが巻き込まれ16人が死傷した事故から一夜明けた9日朝、事故現場では大勢の人が訪れ、設けられた献花台に花束やお菓子を供え手を合わせた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月9日・夕刊、3版、1ページ、北川サイラ、写真は佐藤慈子)

 「大勢の人が訪れ」というような様子は写真のどこにも表現されていません。祈る人がひとり、その向こうに取材記者やカメラマンばかりで10人近くの人。少し遠慮して離れているように見えることだけが救いです。


③日没後も献花台には、手を合わせる人たちが後を絶たなかった=9日午後7時23分、大津市、佐藤慈子撮影
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月10日・朝刊、14版、25ページ、写真に付けられた説明文)

 これは数人の人たちが黙祷している写真です。その向こうには、暗くなってきた時刻に関わらず、7人ほどの報道関係者が写っています。時刻を問わず、待ちかまえているのでしょう。


④事故現場の献花台では、小さな子供が手を合わせる姿も=大津市大萱6で9日午前8時27分、添島香苗撮影
 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年5月9日・夕刊、3版、1ページ、写真に付けられた説明文)

⑤保育園児たちが事故にあった現場で花を供える人たち=大津市で9日午前11時3分、梅田麻衣子撮影
 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年5月9日・夕刊、3版、9ページ、写真に付けられた説明文)

 ④⑤ともに、祈る人が2人。④には、その向こうにテレビカメラを向けている人がいます。⑤には、数人の取材者の姿が見えます。

 取材者の傍若無人ぶりを自ら撮影している写真を掲載する神経が理解できません。周りの取材者が写らない瞬間がないほど、手ぐすねを引くように取材者全員が待ちかまえていたのでしょうか。まるで、取材者はこんなに熱心に働いているのだということを宣伝しているようにも見えます。
 取材者の人影を排除して、祈りを捧げている人たちだけの写真を、なぜ撮れないのでしょうか。手を合わせている人たちの心に寄り添うことはできないのでしょうか。
 今回は、言葉の問題より以前のことです。これでは、どんな立派な文章を書いても、信頼できない気持ちになります。写真は、実景を写すだけではありません。取材者たちの心の持ち様を見事に表していました。周りにいる取材者たちの立ち居振る舞いを、写真から観察すると、掲載写真を撮った人もそんな同類の一人のように思えてくるのです。残念なことです。カメラマンだけの問題ではありません。新聞社全体の問題です。

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2019年5月12日 (日)

言葉の移りゆき(386)

「レジェンド」とは、事柄を表すのか、人を表すのか

 「レジェンド」という言葉を、日本語に直すと「伝説」だそうです。もし概念が同じであるのなら、伝説のことをわざわざレジェンドという言葉に置き換える必要はありません。
 彦根市のひこにゃんが休業せざるをえなくなったという状況について、こんな記事がありました。


 活動を委託されていた団体が「自主運営」に名乗りを上げて長期休業は回避されたが、「ご当地キャラのレジェンド(伝説)」に一体何が起きたのか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月12日・夕刊、3版、13ページ、大野宏)

 私たちは、「ご当地キャラのレジェンド(伝説)」などという表現を平気でするような、言葉の感覚の持ち主になってしまっているのでしょうか。
 日本語の「伝説」は、昔から語り伝えられてきた話、つまり言い伝えという意味です。伝説とは、事柄を表していて、人を表すものではありません。
 「伝説のご当地キャラ」というのと「ご当地キャラの伝説」というのは同じ意味ではありません。
 「伝説」を「レジェンド」に置き換えてみます。「レジェンドのご当地キャラ」というのは、伝説化したキャラということでしょう。けれども、「ご当地キャラのレジェンド」という表現は、キャラについての伝説という意味に過ぎません。ひこにゃんにどんな伝説があるのかを説明しているに過ぎないのです。
 もし「レジェンド」に、〈伝説となった人(あるいは人格化したもの)〉という意味を付与しようとしているのなら、「レジェンド(伝説)」という表記は正しくないということになります。
 たった10年や20年で、伝説はたやすく生まれたりはしません。けれども、新聞や放送は、突然現れたようなものにまで「レジェンド」という称号を与え続けてきました。そして「レジェンド」の大安売りを続けることによって、この言葉が安っぽく聞こえて、何の価値もないもののように響くようになってしまいました。
 この記事にも、ものごとを大袈裟に書こうとする姿勢や、外来語を優先して日本語を軽んじる姿勢が現れています。

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2019年5月11日 (土)

言葉の移りゆき(385)

「普通」という言葉は大きな問題をはらんでいる

 「普通」という言葉は、ごく易しい言葉ですから国語辞典で確かめるまでもありません。けれども、この言葉の使い方は、さまざまな問題を含んでいるようです。
 こんな文章を読みました。


 思春期の子どもに話しかけても、フツーフツーと返してくる。実はこれ、本人は「普通」と言っているつもりで、本当は「不通」と言っている。つまり、いろいろあって複雑なのだけれど、どうせこの人はわかってくれないと諦めているときに、人は「普通」と言う。そう、「普通」は心を隠すために使われる。
 それだけじゃない。「普通」は暴力的な言葉にもなる。「普通はね」と言うとき、そこには「お前は普通じゃない」という意味合いが滲んで説教になりがちだ。生き方が多様化している現代、本当は何が「普通」かわからないのだけど、自分の考えを押し付けるときに「普通」が使用される。
 (信濃毎日新聞、2019年4月23日・朝刊、5ページ、「心辞苑」、東畑開人)

 「普通」という言葉を小学生向けの『チャレンジ小学国語辞典・第4版』で引くと、次のように書いてあります。


 ①〔名詞〕ほかと比べて、とくに変わっていないこと。
 ②〔副詞〕いつも。たいてい。

 そして面白いことに、「使い方」として、「②は、ふつうかな書きにする。」と書いてあります。その言葉自体を、説明文に取り入れているのです。
 「ほかと比べて、とくに変わっていないこと。」というのは、平均的なものや、ことであるということです。
 記事の筆者は、その「普通」が、自分を表現したり、相手に向かって投げかけられたりしたときに、特別な意味が込められるということを指摘しているようです。
「普通」というのは、他者に言うほどのものをそなえていないということですから、他者と心を通わせることを拒否するときに使われやすいということはよくわかります。
 「普通は……だ」という言葉の裏に「お前は普通じゃない」という意味が込められているとすれば、これも心の通わせ合いに支障をきたす表現になります。
 自分を平均的なものだと言ったり、相手を平均的なものでないと言ったりするときに、言葉の意味以上に、大きなメーセージを発していることになるのです。
 国語辞典の説明としては「ほかと比べて、とくに変わっていないこと」というのが成り立つとしても、現実に生きている人ひとりひとりは、それぞれが異なった存在です。それを「普通」という言葉が押し隠してしまうところに、コミュニケーション上の問題があると言うことでしょう。
 「普通」という言葉は、生活上の様々な場面で使われます。けれども、人間の内面(や、外面も加えて)のことを説明するのに使うことは、慎重を期す必要があるということでしょう。

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2019年5月10日 (金)

言葉の移りゆき(384)

贋ものを贋ものだと感じなくなった現代人

 バレーボールもバスケットボールも、私たちが子どもの頃は、屋外、つまり運動場でするのが当たり前でした。それがいつの間にか屋内競技になってしまっていました。スポーツは長距離のマラソンや駅伝を除けば、すべて屋内でするものになるのでしょうか。それを社会の変化だと言うのなら、納得はします。
 けれども、私たちの生活に現れている、不思議な現象に違和感を感じなくなったら、何かがおかしいと言わなければなりません。
次のような記事がありました。自然とのふれあいも、季節感を感じ取るのも、何もかも屋内のものになってしまうのでしょうか。


 近畿各地で桜が見頃を迎える中、「インスタ映え」する高所スポットや、混雑や花粉症被害などを避けて屋内で楽しむ「インドア花見」など新しい花見のスタイルが注目を集めている。 …(中略)…
 3月23日にオープンしたこの花見スペースは半屋内にある。展望台の気温が地上より2、3度低いことから、桜はまだ四分咲き程度で、今週末頃にも満開を迎える見通しだ。
 企画したハルカスの運営会社は、外国人観光客に日本の春を満喫してほしいとの思いから造花を継ぎ足し、いつでも「満開」を味わえる趣向も凝らしている。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年4月5日・夕刊、3版、8ページ)

 体験したことのないものを、映像で体験したような気持ちになる時代です。造花を継ぎ足し、屋内で花見に似た体験をして、それを本物の花見と思い込んでしまうのです。(あるいは、思い込ませようとしているのです。)錯覚に過ぎないものを本物と感じることで、人間の生活が成り立つのは悲しいことではありませんか。そして、それを現代の風潮として、何の疑問もなく報道するのもおかしな現象です。
 「インスタ映え」などというのは映像だけの、架空の世界に近いものかもしれません。「インドア花見」も「造花」も贋ものだと感じなくなるほど、私たちの感覚は麻痺してしまったのでしょうか。土との縁が切れたような空間での花見を「半屋内」と表現しています。ものに囲まれて、ただちょっとだけ外の空気が取り込める(あるいは、外の景色が眺められる)ようになっているような空間を「半屋内」と表現しているようです。
 現代人は(あるいは、報道に携わる人は)、贋ものを贋ものだと感じないほど、感覚を失ってしまっているのでしょうか。

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2019年5月 9日 (木)

言葉の移りゆき(383)

「(催し物が)開かれた」からの脱皮

 冬季オリンピックの幕が切って落とされた、国会の予算委員会が開かれた、デパートでお中元内覧会が開催された、……と、行事などを伝える新聞や放送のニュースには、「開かれた」などという受け身表現が多く使われています。まるで他人事のような書き方が広く行われているのです。
 ちょっと色合いの違う表現があると、新鮮さを感じるから不思議なものです。


①松本地方の着物愛好家でつくる実行委員会は21日、着物姿でさまざまな催しを楽しむ「キモノマルシェin松本」を松本市街地で開いた。
②松本市山と自然博物館は21日、アルプス公園(松本市)の自然の豊かさを身近に感じてもらう毎年恒例の「春の自然観察会」を園内で開いた。
③天竜川沿いに約200本のヤエザクラが植わる飯田市龍江の市道「天竜峡八重桜街道」の一帯で、地元の各種団体でつくる実行委員会が21日、第13回さくら祭りを開いた。
④25日に開幕する「信州花フェスタ」で飾る、壁などに掛けられる鉢植え「ハンギングバスケット」を作る講習会が21日、松本市神林のサンプロアルウィン会議室であった。
 (以上いずれも、信濃毎日新聞、2019年4月22日・朝刊、15ページ)

 この新聞社は、自社記者の書く記事で、「開いた」「あった」という表現を多用しています。「開かれた」「開催された」「行われた」というような表現をしないように心がけているように感じます。
 ただし、「開いた」「開催した」「行った」のような書き方をする場合は、誰が、どういう団体が、というような主体を書かないと、おかしな文章になってしまいます。その主体を書き入れることによって文章が長くなるでしょうが、実は、情報としては、その主体を書き入れることは重要なことです。
 例えば次のような、「開かれ(た)」と書く記事には、記念イベントを開いた主体が、市役所なのか市民団体なのかというようなことが書かれていないのです。


 元号が令和になった1日、篠山市は丹波篠山市に市名変更した。市内の篠山城跡三の丸広場などで記念イベントが開かれ、大勢の市民らがデカンショ総踊りや書道パフォーマンスなどで祝い合った。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月2日・朝刊、「神戸」版、14版、15ページ、鵜飼真)

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2019年5月 8日 (水)

言葉の移りゆき(382)

「ガチ」とは言えない番組制作。(ガチなら番組失格)

 相撲の「ガチンコ」は正面からの本気のぶつかりあいのことです。その「ガチンコ」に由来すると言われる「ガチ」という言葉は、本気、本当、真剣というような意味で使われているようです。
 こんな記事がありました。


 Q テレビ東京の「出川哲朗の充電させてもらえませんか?」で、バイクの充電をその場でお願いしていますが、〝ガチ〟のお願いですか。
 A …(中略)… 近くの家や店で電源を借りていますが、平山大吾プロデューサーによれば「見ての通り、その場で探して頼み込んでいます」。
 スタートからゴールまでのルートは出川さん次第なので、バッテリーがいつ切れるか、どこで充電するかは出たとこ勝負。断られることもあるそうですよ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月19日・朝刊、13版、25ページ、「はてなTV」)

 こういう質問・回答記事の常套手段ですが、「〝ガチ〟のお願いですか」という質問に対して、「ガチである」「ガチでない」という明確な答えはなく、「断られることもある」と述べています。政治家の答弁と同じです。
 お願いが〝ガチ〟であるか否か(真剣さ)を尋ねているのに対して、断られることもあるという結果論で答えているのです。「朝はご飯を食べません。パンです。」という言い回しと同じです。
 「見ての通り」というプロデューサーの言葉には笑ってしまいます。画面に現れる状況は、都合のよいところを切り取ったに過ぎないからです。
 そもそも「充電させてもらえませんか?」というタイトルの番組ですから、充電が必要にならないと番組が成立しませんから、作為がはたらいているのは当然でしょう。
 充電依頼がスムーズに進行してしまえば番組が面白くありませんから、そこにも作為があることは当然です。そして、面白おかしく編集しているのです。
 突然押しかけて、充電させろとか、晩飯を食わせろとか、風呂に入れて欲しいとか、家族に会わせろとか、制作者の横暴によって作り上げられている番組が多いように思いますが、そこには、反省心の欠片もありません。
 テレビ関係者は、自分たちが権力を持っているということを忘れがち(あるいは、隠しがち)です。テレビ関係者に押し寄せられて、充電をさせろと言われると、断る勇気を持てないのが一般市民の感情でしょう。番組自体に倫理観が欠如しています。面白ければそれで良い、というような考えの持ち主は、番組制作に携わるべきではありません。
 〝ガチ〟(真剣)なお願いをしているのだと回答すれば、それは番組失格に等しいと思います。ご飯論法になるのは当然でしょう。

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2019年5月 7日 (火)

言葉の移りゆき(381)

「バイトテロ」という言葉が生まれていた

 飲食店やコンビニエンスストアなどの従業員による不適切な動画などが投稿されて社会問題となりました。新しい現象が生まれると新しい言葉が生まれるのは必然かもしれませんが、「バイトテロ」という言葉には驚きました。新しい言葉はテレビがさきがけを果たすことが多いのですが、「バイトテロ」は新聞で、しかも地方新聞(通信社の配信記事?)ではじめて見たからかもしれません。


 アルバイト従業員らが悪ふざけなど不適切な動画をインターネット上に投稿し、炎上する「バイトテロ」への対応に関し、民間企業が全国約180の飲食店を対象に調査した結果、半数以上が「対策をしていない」と答えたことが23日、分かった。 …(中略)…
 バイトテロと呼ばれる行為は、会員制交流サイト(SNS)の普及に伴い急増。
 (信濃毎日新聞、2019年4月23日・夕刊、2版、7ページ)

飲食店やコンビニエンスストアの中には全店舗を一斉休業にするなど、大きな被害を受けたところがあるようです。けれども、政治的色彩などはなく、死傷者も出ないような事件を「テロ」と称することは正しいのでしょうか。「テロ」という言葉の使い方が、これまでとは違った方向に向かっているように感じられます。
 「バイトテロと呼ばれる行為」というような言い方は、出自を曖昧にしています。その記事を書いた人がはじめて使い出した言葉のようなものにまで「…と呼ばれる」という表現が使われる場合もあります。

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2019年5月 6日 (月)

言葉の移りゆき(380)

「ちょっと難しい」という言い方

 「ちょっと」という言葉の意味は、わずか、少し、ということです。けれども、日常生活の中では、それ以外の意味でも使っています、こんな文章を読みました。


 人からの依頼を断るとき、「スケジュールを考えると、ちょっと難しいです」と言うことがある。「大変、極めて」難しいから断っているのだが、口から出てくるのはなぜか「ちょっと」という言葉だ。 …(中略)…
 この用法は、辞書では「否定や難しさを表す表現と共に現れて、『そう簡単にはできない』『相当難しい』ことを婉曲的に表す」などというように記述されている。 …(中略)…
 他にも、「彼は地元ではちょっとした有名人だ」のように、「かなり」とか「そこそこ」に相当するような用法もある。こういったいくつもの用法とその使い分けを、私たちはいつの間に身につけたのだろうか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月10日・朝刊、13版S、26ページ、「川添愛のことばことばスムージー」、川添愛)

 書かれていることに同感です。ただし、「ちょっと難しいです」というような表現は、婉曲的な表現ばかりなのでしょうか。必ずしもそうとは言い切れないように思います。
 極めて難しいことを、なぜ「ちょっと難しい」と言うのかということを考えたときに、思い浮か
ぶのは、「ちょっとやそっとでは」という言い回しです。「ちょっとやそっとでは難しい」という言い方を省略して「ちょっと難しい」と言ったと考えれば、婉曲ではなく直接的な表現です。
 「ちょっとした有名人」というのも、「ちょっとやそっとで(=いい加減な言い方で)表現するのは難しい有名人」と考えることも可能でしょう。
 小型の国語辞典も、「ちょっと」の「相当難しい」という意味を記述するようになりました。けれども、実際の「ちょっと難しい」という表現は、それぞれの場面において、〈少しだけ難しい〉、〈かなり難しい〉、〈まったく難しい〉などの段階的な色合いが込められて発言されているように思われます。

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2019年5月 5日 (日)

言葉の移りゆき(379)

「ことばサプリ」というタイトル

 言葉を話題にした新聞記事が掲載されるのは嬉しいことです。言葉についてのコラムも同様です。
 4月から「ことばサプリ」というコラムが始まりました。その中で、次のようなことが書かれています。


「サプリ」、実は和製英語です。本来はサプリメント(supplement)。「アプリ」や「スマホ」のように「おおむね日本語の略語規則から予想される通りの略語です」というのは国立国語研究所の窪薗晴夫教授。「サプリ」は英語では使いません。 …(中略)…
 タイトルにこの言葉を選んだのは読者の方々の「ことば」に関する疑問を解決したり、新聞をわかりやすく読んでもらったりする「活力」になれたら……そんな願いから。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月6日・朝刊、13版S、11ページ、「ことばサプリ」、坂上武司)

 二つの疑問を述べます。
 その1。和製英語とは何なのでしょうか。スポーツ試合などの「ナイター」は和製英語だと言われます。もともと英語にナイターという言葉はなくて、英語になぞらえて日本で作った言葉であるからです。
 それに対して、「テレビ」「サプリ」などは、英語の発音の末尾を切り捨てたものです。テレビジョンという言葉も、サプリメントという言葉も、時には使います。「テレビ」や「サプリ」は和製英語ではなく、外来語の短縮形と言うべきものではないでしょうか。
 (この論理でいくと、日本語は和製英語だらけだということになります。)

 その2。「サプリ」という言葉のイメージは、プラスの要素が強いものでしょうか。記事の中には
、日本人の2人に1人はサプリを利用していると書かれています。そういうものを利用しない者にとっては驚きの数字です。
 体によいように宣伝されながら、実は対して効果がない……、というような思いを持っている人もいるかもしれませんし、健康保持にとってはあくまで補助的な役割しか持っていないものかもしれません。
 (言葉のことを積極的に論じるようなタイトルにしてほしかったと思います。)

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2019年5月 4日 (土)

言葉の移りゆき(378)

「多幸感」という言葉

 年賀状などの挨拶で、ちょっと改まった感じで「ご多幸をお祈りします」と書くことがあります。文字通り、幸せが多いことという意味ですが、どのような内容を指すのかという具体的なイメージには乏しいと思います。全体として、幸せになってほしいというように意味なのでしょう。
 「多幸」という言葉とは別に、「多幸感」という言葉もあるようです。
 こんな文章がありました。


 大麻を使うと、多幸感というものを覚えるらしい。そして一層の多幸感を求め、より作用の強い薬物に手を出すはめになるという。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年4月5日・夕刊、3版、1ページ、「よみうり寸評」)

 「ご多幸」という言葉が、他の人にそうであってほしいと願うのに対して、「多幸感」とは、自分で感じることのようです。そして、「ご多幸」が漠然とした意味であるのに対して、「多幸感」は強く実感できる気持ちのようです。
 コラムの筆者も体験はしていないようですが、いわば上機嫌であるような状態、陶酔感というようなものをあらわしているようです。大麻を使っている本人にすれば、陶酔状態の「多幸感」を持つのかもしれませんが、こんな場合に「多幸感」という言葉を使うのはふさわしいのでしょうか。
 「陶酔感」というような言葉を使うのは問題ありません。大麻を使う人の心の中の状態を表しているからです。
 それに対して、大麻を使うことは、本人や周りの人にとって「幸せ」な状況ではありません。「幸」というプラスイメージを持った言葉で表現することは、大麻を認めるような気持ちにつながりはしないでしょうか。報道する側がちょっと気を付ければ、改められる表現であるように思われるのです。

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2019年5月 3日 (金)

言葉の移りゆき(377)

過剰な言いがかり

 駅のホームでは、通過列車が近づくと「黄色い線より内側にさがってお待ちください。」というアナウンスが流れます。催し物の会場では、「貴重品の管理には各自でじゅうぶんご注意ください。」というアナウンスがあります。一日に何回も、このような言葉に接することがあります。
 注意を喚起してくれているのですが、一方で、もしもの場合は、その注意を聞かなかった人が悪いのだという弁解にも使われます。責任逃れ社会や、一律表現社会の不気味さを感じます。
小学校の教科書検定のことについて書かれた記事で、こんなことを目にしました。


 教育出版の理科(4年)は、温度による体積の変化を身近なもので紹介する目的で鉄道のレールを取り上げた。温度の変化でレールが伸びたり曲がったりしないようにつなぎ目を工夫していることを説明し、文章の横にレールを上から撮影した写真を掲載した。
 ところが、この写真に「児童が線路に立ち入る危険性について配慮がされていない」と意見が付いた。そのため写真に「あぶないので、線路の中に入ってはいけません」という注意書きを追加し合格した。
 (毎日新聞・中部本社発行、2019年3月27日・朝刊、統12版、13ページ)

 こんな言葉が検定合格を左右するというのは、どういうことなのでしょうか。小学校教員の指導を信用していないのでしょうか。それとも、文部科学省が責任追及される場合のことを恐れているのでしょうか。たぶん後者であろうと思います。
 こんな過剰な言いがかりが教科書検定の場で行われていることに驚きます。それとともに、一定の注意喚起を促しておけばそれで責任が免れるというような社会になってしまっていることを情けないと思います。そういう社会を作ってしまったのは、このような対応(過剰な言いがかりをする人と、それを受け入れてしまう人たち)にあるのだということも忘れてはいけないことだと思います。

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2019年5月 2日 (木)

言葉の移りゆき(376)

「文明」とは何か

 「文化」と「文明」とは同じではありません。それとともに、時代が進めば何にでも「文化」や「文明」という言葉を使ってよいわけではありません。
 現金を使わないで、キャッシュレスで決済することは、「文化」や「文明」であらわすことなのでしょうか。国が先頭を切っておかしな言葉遣いを広めようとしてはいけません。
 こんな文章がありました。


 「キャッシュレス文明」とまでたたえる経産省。せいぜい数十年の歴史しかないものが「文明」なら、動物の骨や魚の干ものなどに始まり、金属の硬貨が生まれ、紙っぺらでも信用されるお札へと、何万年もかけて進化した伝統的貨幣は何と呼ぶ?
 その新文明参画の切り札として政府が目を付けたのは、消費憎税対策だ。キャッシュレスの買い物には、5%のポイント還元を付ける。
 (毎日新聞・中部本社発行、2019年3月27日・朝刊、13版、3ページ、「水説」、福本容子)

 記事の筆者の意見に同感です。キャッシュレスの買い物に5%のポイント還元を付けるという強硬策で「キャッシュレス社会」を推し進めようとし、それを「文明」と呼ぶ。なんと硬直した考えなのでしょうか。「文明」という言葉を宣伝文句に使ってほしくないと思います。
 「文明」とは、科学技術などが進歩・発展を遂げることによって、物質的な面で生活が豊かになっていくことでしょう。キャッシュレスで決済できるようになったのは科学技術の進歩によるのでしょうが、そのような社会の仕組みは「文明」と呼ぶようなものではありません。キャッシュレスにすれば生活の豊かさを実感できるわけではありません。
 一方、「文化」とは、その社会に固有な思考・行動・生活などの様式のことをあらわしますが、これとて、数十年で形成されるものではないでしょう。
 単に、仕組みや制度であるに過ぎないものを「文明」と呼んで好感を振りまこうとしているのは、イメージだけが先行した「アベノミクス」と軌を一にしているようにも思えます。
 政治だけではありません。あらゆる分野において、私たちは正しい言葉遣いに心がけなければならないと思います。

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2019年5月 1日 (水)

言葉の移りゆき(375)

新しい時代に「既視感」などはない

 元号がまるで歴史の区切りになるかのように、新聞や放送が騒ぎ立てています。昭和の60余年間や、平成の30余年間には、後で振り返ればいくつかの傾向が見えてくるのでしょうが、2019年という現在が歴史の転換点になるかどうかはわかりません。
 けれども、ひとつの新しいものが始まるという期待をみんなが持つことは、決して悪いことではありません。願わくば、政治や経済の望ましくない状況だけは断ち切らなければならないと思います。
知事選挙の応援演説で国土交通副大臣が述べた言葉が問題になりました。それについて書かれた文章がありました。


 国が下関北九州道路事業の直轄調査に入る経緯を、「安倍首相や麻生副総理が言えないので、私が忖度した」と語ったというから、耳を疑う …(中略)…
 発言は撤回されたとはいえ、「我を忘れて事実と違う発言をした」との釈明に誰が納得するだろう。行政の信頼を歪めた責任が問われる
 と書きながら、既視感がよぎっていく。閣僚や議員が幾度、問題発言を重ねたことか。長期政権の緩みを令和に持ち越してはなるまい。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年4月4日・夕刊、3版、1ページ、「よみうり寸評」)

 文章に書かれている通りです。何度も同様の出来事を目にしてきました。新しい時代に、旧来の政治の「既視感」などは御免です。
 ところで、この「既視感」という言葉のことですが、たいていの国語辞典には「既視」という言葉は無く、「既視感」が載せられています。「既視」という言葉は日常語化していなくて、「既視感」という心理用語だけが行きわたっているようです。
 その「既視感」を、例えば『三省堂国語辞典・第5版』は次のように説明しています。


 はじめて見た景色であるのに、以前見たことがあるように感じられること。

 この説明からわかるように、「既視感」という言葉は間違って使われることが多いように思います。コラムの筆者も間違って使っています。これは「はじめて見た景色」ではありません。現政権のもとでも、何度も繰り返されてきたのです。「以前見たことがあるように感じられる」のではなく、何度も実際に見てきたことなのです。
 実際に見たものは「既視」かもしれませんが、「既視感」という言葉はまだ見たことがないものを表しているのです。
 この記事のような文脈で「既視感」という言葉遣いをするのは間違いです。そんな言葉遣いをしたのは、単なる誤りなのでしょうか。それとも、強く述べることを避けて、表現を婉曲にするために「既視感」という言葉を使ったのでしょうか。もし、後者であるのなら、ここには政治家に対する、文章上の忖度がはたらいているのかもしれません。

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【掲載記事の一覧】


 令和の新しい時代が始まりました。
 平成18年8月29日に開設したこのブログは、新しい時代にも続けます。
 現在までの掲載記事数は5800本を超えました。アクセス数も58万回を超えました。平均すると、ひとつの記事を100人の方に見ていただいているという計算になるのでしょうか。
記事のうち、「明石日常生活語辞典」は2605回に達しておりますが、これでいったん終了です。この連載は本年、武蔵野書院から書籍として出版しますが、現在は2校の校正中です。ひとりで校正しますから、1回の校正に3ヶ月あまりを費やしています。文章の校正ならばスラスラと進むのですが、辞典の校正は想像以上の難作業です。
 ブログをお読みくださってありがとうございます。
 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。
    gaact108@actv.zaq.ne.jp
 これまでにブログに連載した記事を、内容ごとに分類して、一覧を記します。掲載日をもとにして検索してください。


【日本語に関する記事】

◆言葉の移りゆき (1)~(374)~掲載を継続中
    [2018年4月18日 ~ 最新は2019年4月30日]

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◆言葉カメラ (1)~(385)
    [2007年1月5日 ~ 2010年3月10日]

◆新・言葉カメラ (1)~(18)
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◆ところ変われば (1)~(4)
    [2017年3月1日 ~ 2017年5月4日]

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (1)~(29)
    [2007年1月1日 ~ 2009年6月4日]

◆現代の言葉について考える (1)~(7)
    [2007年7月1日 ~ 2007年7月7日]

◆文章の作成法 (1)~(7)
    [2012年7月2日 ~ 2012年7月8日]

◆自分を表現する文章を書くために (1)~(11)
    [2007年10月20日 ~ 2007年10月30日]

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (1)~(4)
   [2006年12月23日 ~ 2006年12月26日]

◆地名のウフフ (1)~(4)
    [2012年1月1日 ~ 2012年1月4日]


【兵庫県明石市などの方言に関する記事】

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 (1)~(2605)
    [2009年7月8日 ~ 2017年12月29日]

◆『明石日常生活語辞典』写真版 (1)~(4)
    [2010年9月10日 ~ 2011年9月13日]

◆じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-
                        (1)~(9)
    [2017年12月30日 ~ 2018年1月7日]

◆私の鉄道方言辞典 (1)~(17)
    [2007年9月13日 ~ 2007年9月29日]

◆暮らしに息づく郷土の方言 (1)~(10)
    [2007年8月11日 ~ 2007年8月20日]

◆兵庫県の方言 (1)~(4)
    [2006年10月12日 ~ 2006年10月15日]

◆姫路ことばの今昔 (1)~(12)
    [2007年9月1日 ~ 2007年9月12日]

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (1)~(42)
    [2007年2月1日 ~ 2007年5月7日]


【郷土(明石市の江井ヶ島)に関する記事】

◆名寸隅の船瀬があったところ (1)~(5)
    [2016年1月10日 ~ 2016年1月14日]

◆名寸隅の記 (1)~(138)
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◆朔日・名寸隅 (1)~(19)
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◆江井ヶ島と魚住の桜 (1)~(6)
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◆西島物語 (1)~(8)
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◆名寸隅舟人日記 (1)~(16)
    [2016年1月1日 ~ 2016年4月2日]

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]


【『おくのほそ道』に関する記事】

◆『おくのほそ道の旅』【集約版】 (1)~(16)
    [2018年3月18日 ~ 2018年4月2日]

◆『おくのほそ道』ドレミファそら日記【集約版】 (1)~(15)
    [2018年4月3日 ~ 2018年4月17日]

◆奥の細道を読む・歩く (1)~(292)
    [2016年9月1日 ~ 2018年3月17日]


【江戸時代の五街道に関する記事】

◆中山道をたどる (1)~(424)
    [2013年11月1日 ~ 2015年3月31日]

◆日光道中ひとり旅 (1)~(58)
    [2015年4月1日 ~ 2015年6月23日]

◆奥州道中10次 (1)~(35)
    [2015年10月12日 ~ 2015年11月21日]


【ウオーキングに関する記事】

◆放射状に歩く (1)~(139)
[2013年4月13日 ~ 2014年5月9日]

◆新西国霊場を訪ねる (1)~(21)
[2014年5月10日 ~ 2014年5月30日]

◆ことことてくてく (1)~(26)
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◆テクのろヂイ (1)~(40)
    [2009年1月11日 ~ 2009年6月30日]


【国語教育に関する記事】

◆国語教育を素朴に語る (1)~(51)
    [2006年8月29日 ~ 2007年12月12日]

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 (0)~(102)
    [2008年2月25日 ~ 2008年7月20日]

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日 ~ 2006年10月4日]

◆これからの国語科教育 (1)~(10)
    [2007年8月1日 ~ 2007年8月10日]

◆高校生に語りかけたこと (1)~(29)
    [2006年11月9日 ~ 2006年12月7日]

◆高校生に向かって書いたこと (1)~(15)
    [2006年12月8日 ~ 2006年12月22日]


【教員養成に関する記事】

◆教職課程での試み (1)~(24)
    [2008年9月1日 ~ 2008年9月24日]

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日 ~ 2006年10月11日]

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (1)~(18)
    [2006年10月16日 ~ 2006年11月2日]

◆教職をめざす若い人たちに (1)~(6)
    [2007年6月1日 ~ 2007年6月6日]


【花に関する記事】

◆写真特集・薔薇 (1)~(31)
    [2009年5月18日 ~ 2009年6月22日]

◆写真特集・さくら (1)~(71)
    [2007年4月7日 ~ 2009年5月8日]

◆写真特集・うめ (1)~(42)
    [2008年2月11日 ~ 2009年3月16日]

◆写真特集・きく (1)~(5)
    [2007年11月27日 ~ 2008年11月13日]

◆写真特集・紅葉黄葉 (1)~(19)
    [2007年12月1日 ~ 2008年12月15日]

◆写真特集・季節の花 (1)~(3)
    [2007年5月8日 ~ 2007年6月30日]


【鉄道に関する記事】

◆鉄道切符コレクション (1)~(24)
    [2007年7月8日 ~ 2007年7月31日]


【その他、いろいろ】

◆神戸圏の文学散歩 (1)~(5)
    [2006年12月27日 ~ 2006年12月31日]

◆百載一遇 (1)~(6)
    [2014年1月1日 ~ 2014年1月30日]

◆茜の空 (1)~(27)
    [2012年7月4日 ~ 2013年8月28日]

◆消えたもの惜別 (1)~(10)
    [2009年9月1日 ~ 2009年9月10日]

◆母なる言葉 (1)~(10)
    [2008年1月1日 ~ 2008年1月10日]

◆足下の観光案内 (1)~(12)
    [2008年11月14日 ~ 2008年11月25日]

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

◆小さなニュース [2008年2月28日]

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや (1)~(13)
    [2009年1月1日 ~ 2010年1月3日]

◆1年たちました (1)~(7)
    [2007年8月21日 ~ 2007年8月27日]

◆明石焼の歌 (1)~(3)
    [2007年8月28日 ~ 2007年8月30日]

◆失って考えること (1)~(6)
    [2012年9月14日 ~ 2012年9月19日]

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