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2019年5月10日 (金)

言葉の移りゆき(384)

贋ものを贋ものだと感じなくなった現代人

 バレーボールもバスケットボールも、私たちが子どもの頃は、屋外、つまり運動場でするのが当たり前でした。それがいつの間にか屋内競技になってしまっていました。スポーツは長距離のマラソンや駅伝を除けば、すべて屋内でするものになるのでしょうか。それを社会の変化だと言うのなら、納得はします。
 けれども、私たちの生活に現れている、不思議な現象に違和感を感じなくなったら、何かがおかしいと言わなければなりません。
次のような記事がありました。自然とのふれあいも、季節感を感じ取るのも、何もかも屋内のものになってしまうのでしょうか。


 近畿各地で桜が見頃を迎える中、「インスタ映え」する高所スポットや、混雑や花粉症被害などを避けて屋内で楽しむ「インドア花見」など新しい花見のスタイルが注目を集めている。 …(中略)…
 3月23日にオープンしたこの花見スペースは半屋内にある。展望台の気温が地上より2、3度低いことから、桜はまだ四分咲き程度で、今週末頃にも満開を迎える見通しだ。
 企画したハルカスの運営会社は、外国人観光客に日本の春を満喫してほしいとの思いから造花を継ぎ足し、いつでも「満開」を味わえる趣向も凝らしている。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年4月5日・夕刊、3版、8ページ)

 体験したことのないものを、映像で体験したような気持ちになる時代です。造花を継ぎ足し、屋内で花見に似た体験をして、それを本物の花見と思い込んでしまうのです。(あるいは、思い込ませようとしているのです。)錯覚に過ぎないものを本物と感じることで、人間の生活が成り立つのは悲しいことではありませんか。そして、それを現代の風潮として、何の疑問もなく報道するのもおかしな現象です。
 「インスタ映え」などというのは映像だけの、架空の世界に近いものかもしれません。「インドア花見」も「造花」も贋ものだと感じなくなるほど、私たちの感覚は麻痺してしまったのでしょうか。土との縁が切れたような空間での花見を「半屋内」と表現しています。ものに囲まれて、ただちょっとだけ外の空気が取り込める(あるいは、外の景色が眺められる)ようになっているような空間を「半屋内」と表現しているようです。
 現代人は(あるいは、報道に携わる人は)、贋ものを贋ものだと感じないほど、感覚を失ってしまっているのでしょうか。

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