« 2019年5月 | トップページ | 2019年7月 »

2019年6月30日 (日)

ふるさと江井ヶ島(1)

アップル


 アップルは、ジュースのような味や風味がする飲み物であるが、子どもの頃は、それが正式の名称であると思っていた。けれども、英語でアップルというのはりんごのことであると知ったときから、ちょっとおかしいと思い始めた。
 朝日新聞(大阪本社)夕刊に「勝手に関西遺産」という連載記事があり、2012年(平成24年)4月25日に「アップル」が取り上げられた。記事の中から、筆者の思いと共通する事柄が書かれている部分を引用する。

 「アップル」と聞くと、普通なら世界的な企業を連想しそうだ。ところが、神戸の下町っ子はジュースを思い浮かべる、らしい。
 神戸市兵庫区の駄菓子屋「淡路屋」で、アップルは「定番」だった。近所のおばあちゃんも、学校帰りの小学生も買いに来る。
 180ミリリットル、120円。いまどき珍しい透明のガラス瓶。ものすご~く薄い黄色で、瓶を握る指が透けて見える。間違いなく、着色料のなせる技だ。ラベルすら貼っていないから、何となく怪しい。 …(中略)…
 戦後間もないころ、「みかん水」というジュースが親しまれた。中身はそれと同じなのだそうだ。水に砂糖、着色料、香料、酸味料を加えたもの。もちろん、無果汁。

 この引用文のうち、「薄い黄色」という部分だけは、そうであったような、なかったような気がする。赤い色があったようにも思う。記事には、終戦後、神戸の長田区や兵庫区にはラムネやサイダーを作る零細業者が集まっており、1950年代半ばにはアップルもあったということも書かれている。特定の業者のオリジナル商品ではなく、それぞれが作り、発売していたようだという。
 明石地域の駄菓子屋さんでも、このアップルが売られており、子供たちも、この時代にはラムネやアップルを飲んでいた。サイダーはアップルに比べると、ちょっと高級なイメージが伴っていた。

| | コメント (0)

2019年6月29日 (土)

言葉の移りゆき(434)

「コミュ力」の「搾取」とは


 「搾取される『コミュ力』」という見出しの記事がありました。コミュニケーション能力のことを「コミュ力」と短く言うのは、新聞見出しの横暴であるということを既に書きました。それも問題ですが、コミュニケーション能力を搾取するというのはどういう意味なのでしょうか。
この連載の(428)回で、私は、依頼原稿がどのような言葉遣いであっても、それをそのまま載せるということは望ましいことか、主張していることを変更させてはいけないが、用語・用字について執筆者と協議することは必要なことだろう、ということを書きました。使い方を誤った用語は、望ましい表現に変えるべきでしょう。
 テレビドラマに登場する女性デザイナーを紹介する、次のような文章でした。


 彼女はコミュニケーション能力が高く、取引先の担当者とは以前いた会社のときから付き合いがあり可愛がられているが、断れない性質から、取引先の人間にセクハラされてしまう。この一件で取引先のパワハラ体質が明るみに出、トラブルは解決するのだが、こうした弱い立場だからこそ、コミュ力を搾取される派遣社員という存在にリアリティがありすぎて、どうにも胸が痛んだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月18日・朝刊、14版、25ページ、「テレビのおとも」、西森路代)

 筆者の肩書きは「ライター」とありますから、依頼原稿でしょう。
 何が「搾取」にあたるのかというと、「取引先の人間にセクハラされてしまう」という表現が該当するようです。他の出来事などを含めて「コミュニケーション能力を搾取される」という表現をしていると仮定しても、コミュニケーション能力を搾取するという言い方は納得できませんし、何を言っているのかも理解できません。
 「搾取」というのは、しぼりとることです。資本家と労働者との関係などの場合は、正統な賃金を支払わずに利益をしぼりとることです。能力をしぼりとるというのは、どういう意味でしょうか。せいぜい考えられることは、その能力を十分に発揮させないようにしてしまうということですが、セクハラとどう結びつくのでしょうか。
 ライターの原稿をしっかり読めば、言葉遣いが適切でないことは理解できるはずです。きちんと考えないで、それを見出しの言葉に使うというのは、あまりにもいい加減です。私は、朝日新聞の校閲のことも(428)回で書きましたが、これも端的な例に当たります。このようなことは、記事が訂正されることはありません。読者からの指摘に対して、見て見ぬ振りをする体質が、新聞社には蔓延しているのです。ときたまには、読者に回答するという努力もしなくてはいけないと思います。パブリックエディターなら、どのような回答をお寄せになることでしょうか。

| | コメント (0)

2019年6月28日 (金)

言葉の移りゆき(433)

「うんてい」という言葉は生きている


 何でもカタカナ語に変えようとする新聞・放送業界ではありますが、そのような姿勢を寄せ付けない言葉があります。
 「うんてい0歳の妹が見たくて? / 遊具 隙間・V字に潜む危険」という見出しのついた記事がありました。


 2017年4月、香川県善通寺市の保育所。女児はうんていの支柱とはしご(高さ約1メートル)との間にできたV字部分に首を挟まれた状態で見つかった。保育士が気づいたのは約10分後。救急搬送されたが、18年1月に亡くなった。うんていは、妹のいる部屋のすぐそばにあった。 …(中略)…
 訴訟の資料では、うんていは子どもの成長に応じてはしご部分の高さを変えることができ、事故時はV字部分の角度は約44度だった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月19日・朝刊、14版、28ページ、「子どもたち、守れますか 学校の死角」、平井恵美・木村健一)

 外国語(とりわけ英語)にそれを表す言葉があると無批判に受け入れてしまう新聞・放送ですが、それができないのです。
 「うんてい」を漢字で書けば「雲梯」ですが、現在ではしょっちゅう使われるような言葉ではありません。小学校や公園などに設けられています。水平の状態、または真ん中が高くなった弧状で作られた運動用具です。ぶら下がって利用します。
 「雲梯」が小さな国語辞典に載せられているかどうか、見てみました。『三省堂国語辞典・第5版』などは載せていないのですが、そのような場合は、どういう表現を求めているのでしょうか。「雲梯」は死語ではないのに、掲載を取りやめた国語辞典には、憤りの気持ちを持ちます。
 「うんてい」は、私にとっては、小学校時代以来の懐かしい呼び名です。鉄棒や登攀棒や雲梯には幼い頃から親しんできました。こういう言葉はカタカナ語に変えてほしくはありません。
 自分たちの意思に関わらず、新聞・放送では次々と違った言葉を取り入れます。それがいかにも現代的であるという装いを持ちながら、です。それに加担している国語辞典もあるのです。
 雲梯が海外にもあるのかどうか、そんなことはどうでもよいことです。長く使い続けられきた言葉を、無造作にカタカナ語に変えていこうとする動向の中で、流されないで残った言葉の力強さを感じます。
 「雲梯」という言葉を国語辞典に載せ続けるか、排除してしまうか。たった一つの言葉ですが、それによって国語辞典編集の考え方を明確に読み取ることができるのです。「雲梯」という言葉の使われ方は、今後、増えることはありますまい。だから、一旦除外してしまった国語辞典が、再び掲載することには大きな決断が必要でしょう。すぐに消えてしまうような流行語を載せることよりも、長く使われてきた言葉を消し去らないことの方が大切なことなのです。

| | コメント (0)

2019年6月27日 (木)

言葉の移りゆき(432)

無形民俗文化財の維持のこと


 有形とは、形があること、形を持っていることです。無形とは、それがないことです。
 無形民俗文化財といえども、祭りなどの形を持っています、その無形民俗文化財の維持が困難になっていると言います。
 こんな記事がありました。


 都道府県や市町村などの自治体が無形民俗文化財として指定した祭りなどの伝統芸能で、維持が困難となり、指定解除に至るものが目立つようになってきた。人口流出が続く農山村部に限らず、都市近郊でも担い手の高齢化や継承者不足で指定解除となる例が出てきている。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月17日・朝刊、13版S、26ページ、宮代栄一・上田真由美)

 担い手の高齢化や継承者不足という事情はあるのでしょうが、そうなるまで放置してきたという責任は免れないでしょう。
 例えば埋蔵文化財は、有形の文化財として、工事中などに発見されたら多額の調査費用が支出されます。調査をして報告書を作るまでの全ての費用が公費で賄われます。その調査報告書がやたら多くて、公立図書館でも報告書の受け入れを拒むことも現れているという新聞記事を読みました。
 一方の無形文化財には、維持のための費用が十分には支出されていません。この格差は歴然としているように感じます。無形民俗文化財を守る(調査をしたり維持を図る)ための費用は微々たるものでしょう。滅ぶにまかせていると言ってよいのかもしれません。
 もう一つの無形文化財が言葉です。方言の調査は、大学などが行っていますが、一般の人たちも行っています。けれども、一般の人たちによる調査については、何の補助もありません。
 私も方言集を刊行すべく努力をしている一人ですが、何の援助も受けておりません。きちんとした刊行物にしようと、日本語日本文学の専門出版社(東京の武蔵野書房)に刊行してもらうことにしています。小さな文字で、800ページを超える書物です。何十年もかかった原稿を渡してから、初校から三校までの校正をひとりで行いますから、校正だけでも半年以上かかっています。出版に対して個人が負担しなければならない費用は、私が受け取る年金の1年分をはるかに超える金額になります。
 埋蔵文化財に対する支出は裕福なように感じます。個人の方言研究には1円の補助もありません。文化に対する考え方が間違っているのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2019年6月26日 (水)

言葉の移りゆき(431)

「食べ歩き」と「歩き食べ」


 食べ物を口にしながら歩き回ることは、マナーとしてよくないと思っていたのは昔のことになってしまったのでしょうか。観光地ではものを食べながら歩いている人が多くいます。
 鎌倉市が施行した「公共の場所におけるマナーの向上に関する条例」に関連して、「食べ歩き」という言葉が取り上げられた記事を見ました。


 見た限り、紙の辞書の「食べ歩き」に「歩きながら食べる」の説明はありません。文法の解説書を見ると、日本語の複合語は「後の方が主となるなることが多い」とあります。例えば「花見」。花を「見る」ことが主だから後にあります。この原則からすると「歩きながら食べる」は「歩き食べ」あたりが妥当でしょうが、辞書には見当たりません。
 NHK放送文化研究所のサイトには、「歩きながら食べる」の意味の「食べ歩き」は避けた方がよい、とあります。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月25日・朝刊、13版S、11ページ、「ことばサプリ」、坂井則之)

 この記事で述べられていることには賛成です。ただし、「花見」の例は、「食べ歩き」の説明には不適当です。「食べる」と「歩く」という2つの動詞の軽重が問題なのですから、「花を見る」という言葉の仕組みとは別のことなのです。「仰ぎ見る」「立ち見る」などの例を使う方がよいでしょう。
 さて、もともとの「食べ歩き」という言葉は、「歩く」ことに重点が置かれていたように思います。京都の町を「見歩く」というような表現のひとつとして、「食べ歩く」という言葉も使われるようになったのではないでしょうか。その場合、「食べ歩く」は、時には店に入って食べたりしながら、町を見歩くことを表していたと思います。「歩く」ことに重点が置かれ、時々は「食べる」こともするという意味だったでしょう。町の中を食べ物を食べながら歩くことではなかったと思います。
 「歩きながら食べる」という意味での「食べ歩き」はおかしいと思います。それは「歩き食べ」という表現がふさわしいと思います。
 2つの動詞をつないだ言葉ではありませんが、「歩きスマホ」という言葉が使われています。歩きながらスマホを操作することです。操作する本人からにすれば、歩こうと止まろうとスマホを操作することが重要です。「スマホ」の方が中心です。その行為を、周りの人から見れば、スマホを歩きながら操作されることが困るのです。「歩き」に問題があるのです。
 「花見」も「歩きスマホ」も、一語に熟していて、「花」と「見る」の間にも、「歩き」と「スマホ」の間にも、主・従の関係はないと見るべきでしょう。

| | コメント (0)

2019年6月25日 (火)

言葉の移りゆき(430)

短くちょん切る言葉をなぜ使うのか


 新聞の見出しのスペースが限られていることはじゅうぶん承知しています。けれども、たった1文字や2文字を削ったとて、何の効果もありますまい。本当にスペースが足りないのなら、文字を小さくしたり、文字を変形すればよいのです。日本語を乱すような働きを、新聞の編集・整理を担当する人が犯してはいけないと思います。現状を見ると、「犯す」という言葉にふさわしいと思います。


 ワンピ 小物合わせて一新
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月20日・夕刊、3版、3ページ、「スタイリスト谷山伸子の幸服クローゼット」、山田佳奈、見出し)

 本文に現れる言葉は、3回とも「ワンピース」が使われています。見出しのスペースは余裕たっぷりですから2文字増えても、何の影響もありません。記事を整理した人の判断で「ワンピ」となったのでしょう。
 記事のタイトル「スタイリスト谷山伸子の幸服クローゼット」も、問題を含んでいます。近頃は「〇〇〇〇の」という人名を入れるタイトルが増えています。名前で宣伝する記事ではなく中身で読ませてください。「幸服」という文字遣いも古びた感じです。

 「つけま」でミドルもキリリ
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月23日・夕刊、3版、4ページ、「いま風 きれい」、上原三和、見出し)

 この記事も、本文中や写真説明などの6箇所は「つけまつげ」です。記事を整理した人の判断で見出しが作られているのです。半ページにも及ぶ記事ですから、見出しぐらいはどのようにでも変えられます。
 「キリリ」というような言葉を、何の疑いもなくカタカナ書きにすることもよくありません。

 引用したのはたった2例だけですが、実は、日日の新聞にはこのような言葉があふれています。言葉をきちんと使おうという姿勢を失った人が、新聞の見出しを作ることはやめてほしいと思います。
 同一の記事が使われていても、発行本社によって異なった見出しになっているかもしれません。全国一律でこんな見出しが使われているとしたら、そちらの方が大きな問題であると言えるでしょう。

| | コメント (0)

2019年6月24日 (月)

言葉の移りゆき(429)

新聞の校閲の仕事


 新聞社は毎朝・毎夕発行する新聞紙面について校閲の作業を行っています。その校閲に関して、ひとつの記事を例にして、考えてみます。記事の冒頭の部分からの引用です。


 東京・昭和通り。銀座東7丁目交差点には、大きな歩道橋が架かっている。通称「ときめき橋」。その上からは、西側の高いビルの隙間から東京タワー、北東には東京スカイツリーが見える。
 二つの電波塔には54年の差がある。この間、東京は縦に縦に伸びていった。智恵子抄ではないけれど、空はどんどん狭くなっていった。1950年代に建てられたビル群は老朽化し、2020年を前に解体され再開発が進む。東京は2度目の五輪を迎えようとしているのだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月18日・夕刊、3版、5ページ、「あのとき 1958 東京タワー」、前田安正)

 筆者は、朝日新聞メディアプロダクション校閲事業部長と記されています。軽く読み進めれば、何の問題もない文章のようです。けれども、気になることはいくつもあるのです。
 校閲というとすぐに頭に浮かぶのは、毎日新聞校閲グループが書いた『校閲記者の目』(毎日新聞出版、2017年9月5日発行)という、示唆に富む本です。この本からは、新聞記事の内容の誤りにとどまらず、用語・用字の適切さや、誤解を招きそうな表現などについて、真剣に向き合っている様子が読みとれます。
 さて、引用した文章のはじめの3つの文は、新聞特有の書き方です。「東京・昭和通り。銀座東7丁目交差点には、大きな歩道橋が架かっている。通称『ときめき橋』。」というのは、あまりにも唐突な書き方です。体言止めが続きます。日本全国の読者に向けて、東京の地理を熟知していることを前提にした書き方です。東京人によって書かれる文章の典型です。
 「西側の高いビルの隙間から東京タワー、北東には東京スカイツリーが見える。」という表現からは、東京タワーは真西にあるかのような印象を受けますが、実際には南西方向です。毎日新聞の校閲部なら見逃さないだろうと思います。スカイツリーを北東と書くからには、東京タワーは南西と書くべきでしょう。
 もし高村光太郎の詩集を読んでいない人は、「智恵子抄ではないけれど、空はどんどん狭くなっていった。」という表現から、「智恵子抄」には、どう書かれていると想像するでしょうか。智恵子は東京の空は狭いと言ったのだろうという想像に行き着いてしまいます。正しくはありません。
 「1950年代に建てられたビル群は老朽化し、2020年を前に解体され再開発が進む。」という表現は、実際の姿がよくわかりません。東京には1950年代に建てられた「ビル群」が圧倒的に多いのでしょうか。そしてその「ビル群」がほとんど解体され再開発が進められているのでしょうか。この言葉通りであれば、東京の町は解体・建設中のビルが目白押しということになります。
 文章は、書く人が自由に綴ってよいのですが、読者への影響もじゅうぶん考えなければならないことも当然です。

| | コメント (0)

2019年6月23日 (日)

言葉の移りゆき(428)

「作り手の『当たり前』を疑う」という姿勢④


 この話題も、今回で最終回とします。私の最も言いたいことは用語・用字の問題です。記者がきちんとした用語・用字で書いているのを、紙面に編集する際に乱れたことを行っているということです。それによって日本語を乱す働きをしていることはゆゆしき問題です。
 話題にしている文章から、引用します。


 「記事はこう書くもの」「ニュース判断はこうあるべきだ」という報道する側の常識に、記者は引っ張られがちです。新聞社が1世紀かけて編み出した流儀やコツのようなもので、締め切りに追われて新聞をつくるには便利なやり方です。
 その点、「読み手の要望」は、私たちにとって新鮮です。かつてのテレビ番組風に言えば「ここがヘンだよ」という、読者からの率直な指摘と問いかけです。
 そんな社外の声を手がかりに、朝日新聞は何を変えられるのかを問い直したい。パブリックエディターとして新聞の「当たり前」を疑ってみたい。そう思っています。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月21日・朝刊、13版S、13ページ、「パブリックエディターから 新聞と読者のあいだで」、山之上玲子)

 ここに書かれていることにも納得します。大切なことは「社外の声を手がかりに、朝日新聞は何を変えられるのかを問い直したい。パブリックエディターとして新聞の『当たり前』を疑ってみたい」ということを、確実に実行することです。そして、その実行の様子を刻々、紙面で知らせてほしいと思います。
 用語・用字に関して、これまでにも書いてきたことなどをまとめて列挙します。

①朝日新聞は校閲部門がきちんと機能していないと、いうのが私の思いです。訂正記事にならないようなものであっても、誤りはたくさんあります。訂正記事になっているのは、大きな誤りの一部に過ぎません。用語・用字だけの訂正などはほとんど載っていません。
②記者が書いている文章では正しい言葉遣いであるのに、見出しがおかしいということが多く見られます。とりわけ、外来語の末尾をちょんぎって短い言葉に代えてしまうものが多いのです。記事を整理する人の横暴です。見出しの文字数の制約を取り払うということを考える必要があります。
③日本語をカタカナ書きする傾向が強まってきています。「ヒロシマ」のような言葉をカタカナで書くのは納得できますが、ワク(枠)、ヘン(変)などを、いとも簡単にカタカナ書きにしてしまうのはどうかと思います。
④外来語を取り入れすぎた文章も多くなっています。疑問を「クエスチョン」、娯楽を「エンタメ」などというのをはじめとして、一般の人々に十分に理解されていないような言葉まで外来語で書くのは問題です。
⑤依頼原稿がどのような言葉遣いであっても、それをそのまま載せるということは望ましいことなのでしょうか。主張していることを変更させてはいけませんが、用語・用字について執筆者と協議することは必要なことでしょう。

| | コメント (0)

2019年6月22日 (土)

言葉の移りゆき(427)

「作り手の『当たり前』を疑う」という姿勢③


 テレビ画面と新聞紙面とを比べると、人々の信頼感は、新聞紙面に対するものの方が圧倒的に高いと思います。かつてがそうであっただけでなく、現在でも同じであると思います。
 新聞は、そのことに応える努力をし続ける義務があると思います。
 例えば、テレビ画面におかしな言葉遣いがあっても見過ごされますが、新聞の場合はそういうわけにはいきません。内容の誤りもそうですが、ちょっとした言葉遣いや用語・用字についても同じです。
 今、話題にしている文章に、こんな表現があります。


 読者からは「記事が難しい」という声も繰り返し届きます。読みやすくならないのは、なぜでしょうか。
 込み入った話をわかりやすく、本質をはずさずに書くのは難しい作業です。どんな話題でも人によって知識や関心に差があります。その分野になじみのない人にわかってもらうには、かみ砕いた説明が必要です。 …(中略)…
 丁寧に書こうとすると、文章が長くなるという悩みもあります。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月21日・朝刊、13版S、13ページ、「パブリックエディターから 新聞と読者のあいだで」、山之上玲子)

 ここに書かれている内容には、全面的に賛成です。新聞だけでなく、どんな文章でも、知識や興味・関心のさまざまな人を対象にしていますから、しかたのないことです。
 「丁寧に書こうとすると、文章が長くなるという悩み」があることもわかります。けれども、文章を短く書くのが新聞社としての「当たり前」だという考えを捨て去ってほしいと思います。
 NIEに活用してほしいという願いがあるのなら、生徒や学生にもわかるような文章であることを目標にすべきです。政治・経済に関する文章などをはじめ、年若い人には難解な分野があることは当然です。けれども、社会現象、生き方(哲学)、文化などに関する文章まで難解であったのでは、新聞はその役割を果たしていないと言えるでしょう。
 はっきり言って、新聞のページ数は多すぎます。しかも、長大な記事も多くあります。記事を厳選して、わかりやすく丁寧な文章を心がけてほしいと思います。
 繰り返して言いますが、読者からの意見、指摘、要望を本気で検討していけば、読者の求めているものがわかるはずです。それは多様ですから一括りにはできないことはわかっています。現段階で言えることは、新聞社は読者からの意見、指摘、要望を捉えきっていない、あるいは、捉えようという意思を持っていない、ということです。何百万部も発行しているから細かなことには対応できない、という姿勢を持つならば、硬直した新聞づくりが今後も続くことになるでしょう。

| | コメント (0)

2019年6月21日 (金)

言葉の移りゆき(426)

「作り手の『当たり前』を疑う」という姿勢②


 前回に引用した文章は次のように続いていきます。


 朝日新聞東京本社の一室にほぼ毎週集まり、新聞を作る編集局の幹部と報道に関する意見交換をしています。この春、発足から5年目に入り、開いた会議はもうすぐ150回に達します。
 議論のもとになるのが、電話やメールで朝日新聞に寄せられる意見や要望です。最近の会議では、令和報道や高齢者が運転する車の暴走事故をめぐり、人々はどんな切り口の報道を求めているのか、記事のどこが役に立ち、何が物足りなかったか、報道が過剰でなかったかなど、さまざまな角度から意見を交わしました。議論が白熱し、会議が2時間に及ぶことも珍しくありません。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月21日・朝刊、13版S、13ページ、「パブリックエディターから 新聞と読者のあいだで」、山之上玲子)

 ここに書かれているような内容について議論をすることは大切なことです。「議論が白熱し、会議が2時間に及ぶ」ということがあるようですが、そこで交わされる意見は、読者の電話やメールが出発点であっても、結局は4人の議論に過ぎないでしょう。多くの読者の意見を採り入れることことにはなっていないから、新聞が変化をしていないのです。〔作り手の「当たり前」を疑う〕ことをしても、「当たり前」から脱皮ができないのではないでしょうか。
 読者モニターをもっと拡充すべきではないでしょうか。読者から寄せられた意見が紙面に載せられることはほとんどありません。「議論のもとになるのが、電話やメールで朝日新聞に寄せられる意見や要望」であるのなら、その意見や要望をきちんと紙面に書き、それに対する新聞社の考えを述べなくてはなりません。150回にも達する会議の内容はどこまで読者に知らされたのでしょうか。また、この会議が東京本社だけで行われていることも問題だと思います。
 読者は電話やメールで意見や要望を寄せますが、その意見・要望にきちんと対応してもらったと感じている読者は、皆無に近いだろうと思います。
 とりわけ、言葉遣いに関する意見・要望はほとんど無視されているというのが現状ではないでしょうか。新聞紙面における言葉遣いの乱暴さや無秩序さが続くのなら、子どもたちに新聞を読んでほしいということを言ったり、NIEで記事を利用してほしいと言うことなどは差し控えるべきであると思います。

| | コメント (0)

2019年6月20日 (木)

言葉の移りゆき(425)

「作り手の『当たり前』を疑う」という姿勢①


私がブログで書いている連載は、新聞記事の言葉遣いに重点を置いて書き続けてきました。自宅に配達してもらっているのが、私の幼い頃から朝日新聞でしたから、今もそのままです。駅の売店で他紙を買うことがあり、旅に出れば地方紙を買います。そんな中で、言葉について気付いたことを書き綴っています。「言葉の移りゆき」はもう1年以上、毎日書き続けております。
 ブログの読者は1日に100人ほどですが、きちんと読んでくださっている方には感謝をします。念のため、朝日新聞社の、言葉を扱っている部署にはメールでお送りしています。けれども、大新聞社ゆえに、一読者の意見などには耳を傾ける様子はありません。記事の明らかな間違いを指摘したときには訂正記事が出ましたが、それは2回だけでした。
 新聞社は読者の意見に耳を傾けると言い続けていますが、それは表向きの姿勢でしかないことを強く感じております。
 そんな折しも、こんな文章に出会いました。


 何事も何物も、時とともに変わっていきます。変わらなければ生き残ることは難しい。
 新聞も同じです。時代に応じて変わっていくための大切な宝の山が、読者のみなさんから届く声だと私は思っています。
 大所高所からの意見も、小さな指摘や疑問も、さまざまな声に接するたびに、これまで記者として自明と思ってきたことが揺らぐのを感じます。新しい何かを発見します。 …(中略)…
 新聞を敬遠する世代が広がっています。そんな時代に、新聞が社会と深くつながるためには、読む人の立場でともに考えることが、これまでにも増して大切になっています。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月21日・朝刊、13版S、13ページ、「パブリックエディターから 新聞と読者のあいだで」、山之上玲子)

 書かれていることにはまったく異存はありません。見出しは〔作り手の「当たり前」を疑う〕となっていて、謙虚な姿勢が現れています。
 パブリックエディター制度というのは「読者の代表」という立場で、新聞の報道に目を配る仕事をする人だそうです。それを担うのが4人のメンバーだそうです。メンバーに向かって文句を言うつもりはありません。新聞社の姿勢に問題があるように思います。
 私は短期間ですが、朝日新聞のモニターをしたことがあります。紙面に書かれていることがら全てに対して、自由に意見が述べられると思って応募しましたが、まったく異なっていました。新聞社から与えられるテーマ(質問)に答えるだけのものであり、そのテーマは限られた狭いものでした。その他の意見を書く欄もありましたが、付け足しですから、新聞社はそこに書かれた意見に対応している様子は見られませんでした。
 〔作り手の「当たり前」を疑う〕という姿勢が本物であるのなら、新聞は、ゆっくりとであっても、変化をしてきたはずです。
 新聞が、現代の日本語を乱す働きをしているということについて、反省の姿勢が見られないのは本当に残念なことです。

| | コメント (0)

2019年6月19日 (水)

言葉の移りゆき(424)

小学生に新聞が読み比べられるか


 2020年度からの使用に向けた小学校の新しい教科書には、新聞を使ったいろいろな活動が取り上げられているそうです。
 新聞を購読しない家庭が増えている現状のもとで、小学生が新聞記事をもとに学習することはどんな意味を持つのでしょうか。教室の内だけで完結してしまって、日常生活に波及していかないような学習指導にはもの足りなさを感じます。
 こんな記事を読みました。新聞の宣伝材料にはなりますが、きれい事に終始しているような印象はぬぐい去れません。


 光村図書は、5年の国語で、陸上の桐生祥秀選手が百メートルを9秒台で走ったことを伝える二つの記事を並べた。
 一つは全国紙で、「世界のスタートライン」と題した記事。もう一つは桐生選手とゆかりのある地方紙で、「ジェット桐生 京滋が原点」の見出しがつく。「二つの記事を比べて読み、どんなちがいがあるか、また、どうしてちがうのかを考えましょう」と子どもたちに促した。
 同社の担当者は「まずは新聞を知ってほしい。説明的文章などの『連続型テキスト』と図や表などの『非連続型テキスト』を組み合わせて必要な情報を読み取る力、着眼点が違うことに気付く力を育てたい」と話す。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月20日・朝刊、13版、21ページ、山下知子)

 一つの問題点は、読み比べるのにふさわしい記事が教科書に取り上げられているにしても、同じ話題について、2つの新聞が取り上げている記事に接することは、小学生にとっては容易なことではないということです。
 もう一つの問題点は、新聞の記事が外来語や略語、流行語を多く用いて書かれている現状を見ると、現状の新聞がNIEにふさわしい教材を提供しているかいうことに疑問を持たざるを得ません。(このことは、この連載で何度も指摘してきました。)
 新しい学習指導要領の考え方は間違っていないと思いますが、教材にできるような記事を掲載するような新聞作りを望みたいと思います。

 引用した記事で気になったことを述べます。光村図書の担当者の言葉です。「まずは新聞を知ってほしい。」とはどういう意味でしょうか。小学校5年生は、一般の新聞を読んでいないから、まずは新聞を読むことから始めてほしい、と言っているように聞こえます。それが現実の姿でしょう。そんな状況にありながら、2つの記事を読み比べるというのは唐突過ぎます。
 もう一つ気になったのは「連続型テキスト」と「非連続型テキスト」という用語です。小学生に向かってこんな言葉を使うことはないはずですが、この言葉は小学校の教員が使う用語なのでしょうか。一般用語としても定着していない言葉だろうと思います。「まずは新聞を知ってほしい。」という言葉と、専門用語の間に大きな格差がありますが、小学校の教育指導の現場は、現実離れをした、高度な指導を期待されている(求められている)ような気がしないでもありません。

| | コメント (0)

2019年6月18日 (火)

言葉の移りゆき(423)

「独り合点」が新聞記事の結論になる不思議


 「独り合点」という言葉は、評価された内容を表す言葉ではありません。自分ひとりだけの判断で、よくわかったつもりになることです。「独りのみこみ」という言葉も同じような意味です。
 「私の独り合点でした。申し訳ありません。」というような陳謝の言葉として、耳にするように思います。
ところで、文章の結論部分で、この言葉が使われる例に遭遇して、驚きました。こんな文章です。その最初と最後を引用します。


 インターネットで騒ぎになる「炎上」はドラマでも人気の題材だが、日テレ系で放送中の「向かいのバズる家族」(木曜夜11時59分)は、ネットに踊らされる人々の描写にピリッと皮肉がきいている。 …(中略)…
 読売テレビ制作。前クールのドラマは「ちょうどいいブスのススメ」という題が炎上し改名を余儀なくされたが、今作への伏線だったのかと独り合点している。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月17日・朝刊、14版、20ページ、「記者レビュー」、真野啓太)

 「今作への伏線だったのかと合点している。」と言えば何の違和感もありません。「独り」という言葉を付け加えたために、これは記者の独自の考えだということを強調しています。その考えを文章全体の結論として、読者に押し付けている感じが拭えません。
 「私の独り合点でした。申し訳ありません。」というようなニュアンスを持った表現が結論になるはずはありません。したがって「独り合点」という言葉を口にしながら、読者にも同じ考えを求めているように感じられるのです。

| | コメント (0)

2019年6月17日 (月)

言葉の移りゆき(422)

名詞に「る」「する」を付けて動詞にするやり方


新聞を読んでいると、次々に新しい言葉が出てきます。そんな言葉を理解できなければ、記事の内容がわからないということになります。
 外来語や名詞に「る」「する」を動詞にするという言い方が行われています。「サボる」や「パニクる」などに倣って、様々な言い方が広がっています。
 こんな記事を読みました。


 「空前絶後のディスり合戦開幕!」。話題の映画「翔んで埼玉」のうたい文句です。埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ、と東京都民から埼玉が過激にディスられる架空の設定ながら、なぜか地元で大ウケ。 …(中略)…
 「現代用語の基礎知識2019」によると、「ディスる」は「軽蔑する、けなす」の意で、英語の「disrespect(ディスリスペクト)」から。 …(中略)…
 いま風の造語法のようにもみえますが、辞書編集者の神永暁さんは「江戸時代に、すでにこのようなことば遊びに近い感覚で新語が作られている」と著書「悩ましい国語辞典」で解説、例として「ちゃづ(茶漬)る=茶漬けを食べる」などを挙げています。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月18日・朝刊、13版、13ページ、「ことばサプリ」、奈良岡勉)

 「ディスる」と「茶漬る」とを同類のようにする考えに賛成ではありません。「茶漬け」という言葉は日常的な言葉であり、誰でも知っている言葉です。そこから「茶漬る」という言葉が生まれても、理解は行き届くでしょう。「事故る」などという言葉も同じです。
 「ディスる」は「disrespect(ディスリスペクト)」から生まれたとしても、「茶漬る」の生まれ方とはまったく異なっています。「ディスリスペクト」は日常語になっておりませんし、その言葉の後半部をぶった切って、「る」をつけるというのは、一部の人の好みで作られた言葉に過ぎません。
 このような言葉が生まれることに対して、新聞が正当性を保証するような意見を述べると、ますます蔓延していって、歯止めが利かなくなるでしょう。
 新聞社は、言葉を短く使いたがっています。それは記事のためではなく、見出しを短い言葉で表すためです。それによって、新聞社は日本語をかき乱しているということに気づかなければなりませんが、「ディスる」などという言葉を見出しで使わないように願いたいと思います。

| | コメント (0)

2019年6月16日 (日)

言葉の移りゆき(421)

「そうだ」という助動詞の上接語

 作家の町屋良平さんを紹介する記事を読んでいて、おやっと思う表現に出くわしました。ちょっと違和感がありましたが、若い人たちの間では、こんな言い方も広がっているのでしょうか。
 様態を表す「そうだ」という助動詞への繋げ方のことです。


 昨夏の芥川賞の選考会で次点だった「しき」は、高校2年の男子が、曲に合わせてダンスする「踊ってみた」動画を投稿するまでの春夏秋冬を活写する青春小説。登場人物は、誰の目にも留まらなそうな高校生だ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月4日・朝刊、13版、24ページ、「亥のいちばん年男」、宮田裕介)

 この部分は町屋さんの発言ではなく、記者の書いている文章です。気になったのは、「留まらなそうな」という表現です。
 「そうな」(終止形は「そうだ」)という言葉は、動詞の連用形、形容詞の語幹、形容動詞の語幹に接続します。動詞に続く場合は「起こり・そうな・事件」、形容詞に続く場合は「面白・そうな・本」、形容動詞に続く場合は「元気・そうな・様子」というようになります。
 「留まら・な・そうな」という使い方はちょっと特殊です。打ち消しを表す助動詞「ない」を挟むからです。
 その場合の使い方は、例えば、「頼りなさそうな答弁」などの例からわかるように、「留まら・なさ・そうな」とするのが、これまでの表現だと思います。
 言葉の変化で最も速いのは語彙(単語)ですが、文法もゆっくりと変化をしています。新聞などで「留まらなそうな」という表現が多く見られるようになったら、人々の使い方も変わっていくことになるかもしれません。

| | コメント (0)

2019年6月15日 (土)

言葉の移りゆき(420)

関西の言葉の使い方


 方言は、それを実際に使っている人でないと、その機微に触れることができないというようなところがあります。例えば、次に引用する文章には間違いはありません。けれども、細かなところになると異議がないわけではありません。


 「何さらしとんねん」。きわめて乱暴な言いかたとして大阪が舞台の映画やドラマの中で耳にすることがある。使用地域は他の関西圏や、周辺の北陸、中国・四国まで広がっているが、実際の日常会話で使う機会はあまり多くないようである。
 この「さらす」、他人がすることを卑しめて言ったり、ののしって言う時に使う。また、「死にさらせ」などのように、動詞と組み合わせれば相手をさげすんだ言い方になる。共通語で言えば「死にやがれ」といったところだ。 …(中略)…
 「なんぬかしさらしてけつかるねん!」と言うと乱暴さもMAXに達するのである。
 (読売新聞・大阪本社発行、2017年4月14日・夕刊、3版、4ページ、「方言探偵団」、篠崎晃一)

 「さらす」という言葉は、他人がすることを卑しめて言う、ののしって言う、相手をさげすんで言う、という説明は間違っていません。けれども、「共通語で言えば『死にやがれ』といったところだ」という説明には納得できません。「死にさらせ」という言葉は、「死にやがれ」というよりは、「死んでしまいやがれ」というニュアンスです。冒頭に書かれている「何さらしとんねん」は、何をしてしまったのだという感じです。
 つまり「さらす」には、その動作が完了するというような意味合いも込められているように思われます。そのような意味が込められていますから、短い言葉を発するだけで、相手に言いたいことが伝わるのです。
 「なんぬかしさらしてけつかるねん!」という例文は、じょうずに作文されていると思いますが、実際にこのように言うことはないように思います。「なんぬかしさらすねん」や「なんぬかしてけつかるねん」とは言いますが、そのあたりが限度です。
 関西の言葉は簡潔を旨としています。「なんぬかしさらしてけつかるねん!」というほど長く言葉を重ねて言うほど、のんびりしていません。前回(419)でも話題にしたように、できるだけ短くて、わかりやすくて、相手の心に伝わるような言葉を使っているのです。

| | コメント (0)

2019年6月14日 (金)

言葉の移りゆき(419)

「大阪弁、言葉で人を触りにくる」に同感!


 言葉は、論理的に述べれば心に響くというわけではありません。整った表現をすれば賛同の気持ちを得られるわけでもありません。
 とりわけ、日常の言葉、つまり話し言葉に近いようなものは、人の心と心をつなぐ働きを考えることが大切です。
 次の文章はコラムの全文引用です。文章の末尾が「大阪弁、言葉で人を触りにくる。」と締めくくられています。まったく同感です。


 「かみます」  動物園の立て札
 大阪圏の動物園では猛獣の檻の前にこんな立て札があるそうだ。そういえば大阪府警の痴漢防止ポスターは「チカンアカン」。いずれもとにかくストレート。ただ、「おっちゃん、いてるか」と訊かれたら「いてる、いてる」と語を重ねる。「一回だけではあいそがないという気持ちが働く」からだと、日本語学者の尾上圭介は『大阪ことば学』で言う。大阪弁、言葉で人を触りにくる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月9日・朝刊、14版、1ページ、「折々のことば」、鷲田清一)

 関西のあちこちで見られる「捨てたらアカン」というのは、空き缶などを道端などに捨てることを防止する看板です。山形県酒田市の公園で、同じ言葉を書いたものを見かけたときは嬉しくなりました。
 缶のことは、関西では「カンカン」と言うことも多いのですが、これも「一回だけではあいそがない」ということと関係があるのかもしれません。
 「言葉で人を触りにくる」という表現にびっくりし、同感しました。人の心の奥底までを貫くことをせず、「触る」ほどのことをして、大きな効果を上げる言葉の働きにこそ、その力強さを感じます。

| | コメント (0)

2019年6月13日 (木)

言葉の移りゆき(418)

元号はフィーバーの対象か


 元号については、やっぱり新聞や放送などが煽り立てているという印象が強いのですが、こんな文章もありました。


 元号「令和」が発表された翌日の4月2日、地元の運転免許センターで免許証の更新手続きをした。免許証の有効期限は「令和6年」ではなく「平成36年」。ちょっと拍子抜けした。
 同じことを考えていたのだろう。周囲の人も免許証を見て苦笑いしたり、窓口の職員に問い合わせたり。今月5日以降に手続きをした人から記載が令和に切り替わっているという。
 免許証は正当な理由なく再交付できないが、記載が平成のままの人からは再交付を求める問い合わせもあり、令和フィーバーはまだしばらく続きそうだ。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年5月14日・夕刊、3版、8ページ、「キーボード」、長野祐気)

 拍子抜けでもありますまい。元号「令和」が発表された翌日の4月2日に、免許証の有効期限が「令和6年」と書かれるはずはありません。ものごとには準備期間が必要です。3月下旬に免許証の更新手続きをした人は、そんなことは考えもしなかったことでしょう。
 元号のことになると、どうして、そんなに神経質になるのでしょうか。いや、実際はそんなに神経質になっていなくても、そんなふうに書いてみたくなっただけでしょう。
 そして、こんな些細な、何の問題もないような事柄を取り上げて、「令和フィーバー」などという言葉を使うのでしょうか。
 フィーバーとは、熱狂的で過熱状態にあることです。免許証を見て苦笑いしたり、窓口の職員に問い合わせたりする程度のことが、フィーバーであるはずがありません。大袈裟な言葉を使い、人々を駆り立てるような行動をしているのは新聞や放送に携わる人であるということに気づかないのでしょうか。
 「平成最後の…」と書き立てたものを何年か後に改めて読んでみてください。「令和」のことを熱狂的に書いたものを何年か後に改めて読んでみてください。書いた本人も、馬鹿らしく感じるに違いありません。

| | コメント (0)

2019年6月12日 (水)

言葉の移りゆき(417)

テレビを批判する前に


 「改元の放送 テレビは? / NHKは3日間33時間 / 『お祭り騒ぎ』『天皇制議論あまりなく』」という見出しの記事がありました。こんな文章で始まっています。


 30年前に引き続きテレビは今回も改元一色に染まった。NHKの場合、放送時間は4月29日からの3日間で定時ニュースを除き33時間。何が読みとれるのか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月3日・朝刊、14版、22ページ、鈴木友里子・真野啓太)

 この記事の中に、次のような一節があります。


 メディアが改元を「一つの時代の幕開け」として過度に演出したことを懸念するのは、水島久光・東海大教授(メディア論)だ。「現行憲法下の日本では主権は国民にある。天皇の交代によって時代が変わるという価値観とは本来は相いれないはずだ。そこに配慮しないばかりか、何カ月も前から『平成最後』を連呼し、『元号』を『時代』と意図的に読み替え、あおったのは問題だ」とみる。
 (上記と同じ記事。)

 批判すべきはテレビだけではありません。新聞自身もまったく同様です。こんな文章がありました。


 「10連休中は猫の手も借りたいくらいです」。にぎわいが続く岐阜県関市の「道の駅平成」で、うれしい悲鳴を聞いた。連日、遠来の客たちが「平成ラーメン」や「平成弁当」を食べ、「平成しいたけ」「平成メモ帳」を買う …(中略)…
 私たちがいま目撃しているのは、近代史にもまれな、過度の自粛を伴わぬ「代替わり」である。「道の駅平成」を訪ね、平成最後の日々をまるで歳末のように楽しむ姿が、何とも新鮮に思われた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月30日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 NHK総合テレビは4月30日の夜、改元をまたぐ時間帯に「ゆく時代くる時代」というタイトルの番組を作りました。歳末の「ゆく年くる年」は、1年の終わりと始まりですから納得できます。けれども、2019年の4月に時代が終わり、翌日に新しい時代が始まるというのは勝手な区切りです。
 「天声人語」も、「近代史にもまれな、過度の自粛を伴わぬ代替わり」として、「平成最後の日々をまるで歳末のように楽しむ」と書いています。
 一般の人たちは、このようなテレビや新聞の姿勢に導かれて、そんな気持ちになっているのです。日常生活の中では、人々の実感として、これで一つの時代が終わったとか、新しい時代が始まったなどという言葉が交わされることはほとんどなかったと思います。
 放送・新聞、そして商売の世界で活用されたことは確かであり、それに引きずり込まれたのが一般の人々であったように思います。

| | コメント (0)

2019年6月11日 (火)

言葉の移りゆき(416)

文字を発見することが重要なのではない


 国語辞典はどのようにして編纂されているのでしょうか。国語辞典編纂者という肩書きの人のコラムを読んで疑問が高まりました。
 「『れ足す』の文字を発見」という見出しが付けられたコラムを読んだからです。こんなふうに書いてありました。


 大分で夜のバスに揺られていた時のこと。車内の前方にあるディスプレイに目が止まりました。〈これからも皆様のお役に立てれるよう……〉と、不動産会社の広告が表示されています。
 あ、「れ足すことば」だ、と気づきました。全国共通語では「お役に立てるよう」と言うところですが、それに「れ」が足されているので、「れ足す」と呼ばれます。 …(中略)…
テレビでもたまに聞かれますが、広告文の例を見たのは、今回が初めてでした。「れ足すの文字発見!」と慌てて撮影したので、少しブレてしまいました。広告文でも違和感がないほど、この地域では定着しているということでしょう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月8日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「ら抜き言葉」と同じように「れ足す言葉」は、もう20年以上前から話題になっています。方言の世界では関西でも使われていますし、共通語の世界でも「テレビでもたまに聞かれます」という筆者の言葉通りです。
 私はこの文章の初めに「コラムを読んで疑問が高まりました」と書きましたが、それは、次のような理由です。
 国語辞典の編纂者が、実際の用例を記録し、それを大切に扱うのは当然のことです。けれども、その実際の用例が、書き言葉に偏重し、東京の言葉に偏重していることについては、私はこれまでに何度も書いてきました。
 テレビで聞いても、それを言葉の用例とすることを見逃しておいて、カメラに収めてはじめて「『れ足す』の文字を発見」と心を躍らせる姿勢が納得できないのです。
 別の観点からいうと、国語辞典は(あるいは三省堂国語辞典は)、話し言葉(音声言語)を軽視して、書き言葉(文字言語)に頼っているということの態度表明であると感じたからです。
 方言研究は話し言葉の研究です。方言はどれだけ文字化されているでしょうか。映像化や文字化がされていない言葉を軽んじるという姿勢では、共通語を扱う国語辞典といえども、大切な部分を見落としていることになるでしょう。
 大分だけではなく、関西でも「お役に立てれる」は違和感なく、日常の言葉に出てきます。筆者は、「広告文でも違和感がないほど、この地域では定着しているということでしょう」という文末の言葉を忘れないでほしいと思います。話し言葉の世界では、それが当たり前の言葉遣いになっているのに、文字になっていないと気づかないままなのです。
 ところで、「立てれる」は、「立てる」の「れ足す言葉」と断言して良いのかという問題もあります。「立てられる」からの「ら抜き言葉」という考えはきちんと排除できるのでしょうか。そのあたりのことも、きちんと検討してほしいと思います。
 新聞は、読者と対話をしていくということを宣伝文句にしています。読者の声を大切にするとか、読者の疑問に答えるとか言っています。けれども、「B級言葉図鑑」にはそのような姿勢が見られないのは残念なことです。

| | コメント (0)

2019年6月10日 (月)

言葉の移りゆき(415)

「竣功」のイメージ


 工事が終わって建造物ができあがることを「竣工」と言います。完工や落成という言葉もありますが、橋には「竣功」と書かれていることが多いようです。
 このことについて書かれた文章を見ました。


 あなたのご近所に橋がありますか。銘板を見ると、〈〇年〇月竣功〉と書いてありませんか。「竣工」は一般の文章でよく使われますが、「竣功」は見慣れませんね。
 国語辞典では、同一項目に「竣工・竣功」と表記が並んでいます。つまり、同じ意味の言葉です。「工」も「功」も仕事の意味があり、「竣」は終えることです。
 ただ、私の観察では、「竣工」は一般のビルや住宅に、「竣功」は神社や橋などに使うことが多いようです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月11日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 ここに書かれていることに異存はありません。
ただ、「功」には、優れた仕事とか、手柄という意味もあります。本文にもあるように「竣功」は神社や橋などに多く使われています。神社を建てるというたいへんな仕事が終わったときに「竣功」を使う気持ちは理解できます。
 また、川に橋を架けることは、建て物を建てることに比べると、難工事が多かったと思われますから、これにも「竣功」を使いたい気持ちは理解できます。
もうひとつ、気になることがあります。国語辞典には、確かに「竣工・竣功」と表記が並んでいますが、時代による変化について辞書では言及されていません。けれども、古くは「竣功」と書かれることが多く、しだいに「竣工」が多数派を占めるようになったという時代の流れもあるのではないかとも思います。橋も、だんだん「竣工」が増えてきているのではないかと思いますが、それは想像の域を出ません。

| | コメント (0)

2019年6月 9日 (日)

言葉の移りゆき(414)

さまざまな表記は望ましくない


 外務省が使う国名の基準となる「在外公館名称位置給与法」の改正法が成立して、外国名から「ヴ」がすべて消えたというニュースがありました。「カーボヴェルデ」が「カーボベルデ」に、「セントクリストファー・ネーヴィス」が「~ネービス」になると言います。
 このことに関する記事に、こんなことが書かれていました。


 現代では、日本語を母語とする人は「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」と「バ・ビ・ブ・ベ・ボ」とを区別して発音する場合はほとんどありません。 …(中略)… これは、日本語の「音韻」にvがなく、bで置き換えられるためです。 …(中略)…
 朝日新聞社は、国名表記に限らず基本的に「ヴ」を使いません。ところが国名表記は必ずしも政府と一致していません。今回の2カ国も「カボベルデ」「~ネビス」と音引き無しで書きます。どう発音するかということと併せて、独自に決めているケースも多いのです。人名や地名の表記もメディア各社で様々。読み比べてみると面白いかもしれません。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月11日・朝刊、13版S、15ページ、「ことばサプリ」、田島恵介)

 日本語を母語とする人は「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」と「バ・ビ・ブ・ベ・ボ」とを区別して発音する場合はほとんどない、というのはその通りですから、「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」という表記をなくすことに異存はありません。
 ただ、表記は、どう発音するかということと併せて、新聞社が独自に決めているケースも多いということには賛成ではありません。
 文学作品や論文などで異なった表記をすることはかまいませんが、小学校から高等学校に至る学校教育の立場からすると、異なった表記は避けてほしいという気持ちが強いのです。
 文末の「人名や地名の表記もメディア各社で様々。読み比べてみると面白いかもしれません。」という表現は、逃げ口上としてもふさわしくありません。面白いという次元ではなく、紛らわしいことであると思います。同じものの表記が異なるだけだと容易に判断できるものもあるでしょうが、それができないものもあると思われます。

| | コメント (0)

2019年6月 8日 (土)

言葉の移りゆき(413)

「私の立場」「私の考え」ではなく、「私目線」


 自分の考えを述べるときに、自分を強調して述べる場合に使っていた言葉は、かつては「私の立場から言えば…」とか、「私の考えにそえば…」というような言葉遣いであったと思います。
 この頃は、「目線」とか「軸足」とか「立ち位置」というような言葉が使われるようになって、その人の姿勢(目に見える姿)が強調されるようになってきていると思います。目とか足とか、文字通り目に見えるものの上に立ったような表現が多くなりました。
 たとえば、次のような使い方がありました。


 私目線からしたら、クラスメイトの子たちと一緒に近所の神社のお祭りに行って盆踊りの輪に入れてもらうなどもすごくいい思い出だっただろうと思うのだが、娘たちがいつも話すのがこの雑巾がけだつたりするので、よほど衝撃的だったのだろう。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年2月5日・夕刊、3版、2ページ、「いま風」、野沢直子)

 この文章の筆者はしっかりした考えの持ち主だと思いますが、言葉遣いは気になります。「私目線」という言葉から受ける感じは、頭の中でじっくり固めた考えや、胸の奥に存在するしっかりした考えなどではなく、自分が見ている視線のようなものに立脚した思いなどを述べようとしているように感じられることです。テレビ時代の、目に見えるものを重んじる姿勢が、こんな言葉遣いにも現れてきているということかもしれません。
 気になるのは、このような言葉遣いが多用されることによって、深くものごとについて考えることが避けられるようなことになれば、寂しいことになるのではないかと思います。
 テレビにはトーク番組がありますが、言葉のやりとりに終始して、深みを求める姿勢が欠如してきているのは嘆かわしいことです。トークが娯楽に堕落するのだけは避けてほしいと思います。

| | コメント (0)

2019年6月 7日 (金)

言葉の移りゆき(412)

自虐の言葉は2種類あるのでは…


 自虐の言葉が注目を浴びているそうです。銚子電鉄の「まずい棒」というお菓子や、鳥取県知事の「スタバはないけど砂場はある」という発言は、私も聞き知っています。
 埼玉県を「ダサイタマ」と言うことが「ださい」という形容詞に結びつくということも読んだことがあります。
 「最強の」「全国一の」「絶賛の」などという言葉は、もはや言葉の遊びに過ぎないと感じる人たちにとって、自虐の言葉には真実や面白みが込められていると思っても当然でしょう。
 こんな記事がありました。


 ダサイタマにクサイタマ。埼玉をおとしめる言葉が繰り返される映画「翔んで埼玉」が人気だ。怒り心頭かと思いきや、県民は、まんざらでもない様子。その真意は。 …(中略)…
「埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ!」などのセリフもあるが、先月中旬までの集計では動員の約25%は県内。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月19日・朝刊、14版、35ページ、「ニュースQ3」、笠原真)

 この記事には、全国の「自虐」の例というのが載っていますが、茨城県のPRの「のびしろ日本一」や、志摩スペイン村の「並ばないから乗り放題」などはプラス面と結びつけられます。
 北海道の観光協会の「元気ないです十勝川温泉」は自虐が過ぎるのではないでしょうか。「ダサイタマ、クサイタマ」も同様です。
 ところで、この「ダサイタマ」もテレビや新聞が強調しているような気がします。こんな記事もありました。


 東京のインスタ映えスポットや流行のファッションにめっぽう弱いという埼玉女子。司会の指原利乃の「おのぼりさんっぽい」というひと言にスタジオゲストは思わず沈黙する。「ダサイタマ」、実は認めているのか。
 (読売新聞・中部支社発行、2019年3月27日・朝刊、12版、38ページ、「試写室」、吉田拓也)

 いつまでもダサイタマと言い続けているわけにはいきますまい。ダサイタマを、プラス面と結びつけること、例えば、タサイ(多彩、多才)タマに変えることも必要なのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2019年6月 6日 (木)

言葉の移りゆき(411)

お父さんを「預かる」こと


 昔は、たいていの駅前に「自転車預かり所」がありました。クルマの時代になった今でも、通学生のために有料・無料の駐輪所が設けられているところがあります。
 自転車を「預かる」という表現には違和感はありません。幼児を「預かる」ということになると多少の違和感を持ちます。「預かる」という言葉が、他人の所有物を保管したり面倒を見たりして、責任を持って守るという意味であるからです。
 犬を預かると言っても抵抗感はありませんが、子どもは「預かる」と言ってよいのでしょうか。
 格段に飛躍した言葉遣いがありました。次のような記事です。


 連休の人混みでゆっくり休める場所がない中、荷物の預かりならぬ「お父さん預かりサービス」が大阪・難波で始まった。大人1人1時間500円で5月6日まで。
 オフィスビル内の貸会議室「難波御堂筋ホール」が閑散時のスペースを活用。寝転べるマットやマッサージ器の他、子どもが見られるDVDも用意した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月29日・朝刊、14版、22ページ、「青鉛筆」)

 記事で見る限りは、「預かる」という行為であるようには思えません。場所を提供して、自由に使っていただくということのようです。
 臨時的なものであり、遊びのような言葉遣いであることは認めます。目くじらを立てなくてもよいのかもしれません。
 けれども、「お父さん預かり」という言葉遣いが、どこまで広がっていくのかはわかりません。そのうち、「社長さん預かり」や「大臣さん預かり」にまで発展していくかもしれません。
 前回の「平成最後の」「令和最初の」と同様に、こういう言葉は、新聞・放送用語であり、商売のための言葉であるのでしょう。一般の人がこんな言葉遣いをするとは思えません。

| | コメント (0)

2019年6月 5日 (水)

言葉の移りゆき(410)

新聞・放送、商売用語としての「平成最後の」

 天皇の崩御ではなくて元号が変わるのは、こんなにも穏やかなことであるというのを、私たちは初めて経験しました。
 西暦と元号の二重生活は、どちらが主でありどちらが従であるということではなくて、両方ともうまく活用すればよいと思います。
 けれども、平成の終わりは時間の区切りであっても、生活内容が変化するというようなものではありません。
 平成の30年間の生活や文化の変化というものはあるでしょう。また、令和の時代へ移行するに際して、これまでの反省や次への展望は、個人のレベルでも社会全体においても、いろいろとあることでしょう。けれども、2019年の4月末と5月初めは、一続きのものにすぎないはずです。
 作家の黒井千次さんが述べていることには同感します。その一節を引用します。


 それにしても、この転機を前にして、「平成最後の」という飾り言葉が様々なものに冠せられるのには驚いた。それほどこの元号に別れを惜しんでいるとは思えないのに、食べ物から様々な催し物に至るまで、この飾り言葉が冠せられ、プロ野球の試合が「平成最後の××戦」などと対戦両チームの名前にまで冠がのせられるのに接すると、首をかしげざるを得なかった。
 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年5月1日・夕刊、3ページ、黒井千次)

 私たちは日常生活において、隣人たちとの会話の中で、「平成最後の」などという言葉を次々と発しているわけではありません。その言葉を何回かは言った人があるかもしれませんが、毎日、そんな言葉を発していたら、周りの人が奇異に思うでしょう。
 それに対して、新聞のそれぞれの紙面や、テレビの題目や宣伝文句には、その言葉が何日にもわたって現れ続けていました。もうひとつは、商売の宣伝文句です。平成最後だと言えば購買意欲が増すと思ったのでしょうか。
 「平成最後の」や「令和最初の」は、新聞・放送用語であり、商売のための言葉であると考えると、素直に納得できるように思われます。だから、すぐに消えてなくなる言葉であるのです。

| | コメント (0)

2019年6月 4日 (火)

言葉の移りゆき(409)

新聞は社会の動きだけを伝えるものではない

 新聞や放送は、社会の動きを伝えることが最大の使命であると考えているような傾向があります。そのことは否定しませんが、それによって大切なことが見失われてしまっては困ります。
 社説をはじめとして、社会の動きを論じる文章はあふれています。一方で、人の生き方の不易に当たるような事柄は、書かれているスペースがごく限られたものになっています。朝日新聞の「天声人語」などは、社説の後追いをする必要はないと思います。
 朝一番に読むことが多いコラムが、昨日今日の出来事を、暗いタッチで論じていたのでは、もの寂しい一日の始まりになります。いつの時代にも変わらない、人の生き方などについて、ふと立ち止まって考えるような話題を提供してもらえれば、一日の始まりの力になります。
 4歳で視力を失った、エッセイスト・三宮麻由子さんの言葉を引用して書かれた文章はさわやかでした。一部分を引用します。


 滝の水の流れる音。草原が風に揺れる音。松ぼっくりが落ちる音。自然が発する声に耳を傾けながら、風景を描いていく。三宮さんの文章には、視覚のみではつくりだせない奥行きがある。風の運んでくるさまざまな匂いも、そこに加わる
 目から入ってくる情報ばかりに頼るようになった。そう言われて久しい現代社会である。スマートフォンで写真を撮ってインスタ映えを競うのも、視覚優位の現れかもしれない。だからこそ、ときには立ち止まってみたい。咲く花の香りを求めたり、若い葉の手触りを試したりと
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月6日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 「目から入ってくる情報ばかりに頼るようになった」現代社会において、新聞はテレビの後追いをする必要はありません。目から入ってくる情報に価値を置くような報道に、そろそろ区切りをつけて、新聞はテレビとは異なる道を歩み始めるべきではありませんか。
 新聞の現状は、目から入ってくる情報をますます拡充しようとしているように、私には見えます。そうではなくて、新聞は、文字の力を発揮して、人々の想像力や創造力を深めていくような媒体になってほしいと願っております。

| | コメント (0)

2019年6月 3日 (月)

言葉の移りゆき(408)

「ググってみる」とはどういう意味?


 言葉というものは、一語や二語の意味がわからなくても、たいていは文脈で理解できるものです。
 けれども、思いつくままに書かれた文章や、冗長な文章では、何を述べているのかわからないこともあります。
 次の文章は、冒頭からをそのまま引用したものですが、筆者の考えがどういう方向に向かっているのか、なかなか理解しにくい文章です。


 タイトルからして謎である。
 「八画文化会館」?
 いったい何の雑誌なのか。文化会館というぐらいだから、地方の行政施設の広報誌? と思ったら表紙の肩のところに小さな文字で「いけないことに憧れて。」と書かれてある。いけないこと? なんか怪しい。
 では、八画とは何のことか? ググってみると画数の説明の次に「八画文化会館」が出てきた。だからその八画が知りたいの! 堂々巡りだよ。単に縁起のいい数字とか、そういう話?
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月1日・夕刊、3版、3ページ、「宮田珠己の 気になる雑誌を読んでみた」、宮田珠己)

 別記として、その雑誌についての解説文や写真が載っていますから、かろうじて理解できるようになっています。筆者は、多くの文字数を使いながら、行ったり来たりしているのです。
 ところで、「ググってみる」とはどういう意味なのでしょう。普通の国語辞典には出ていないようです。文脈から理解することは難しいようです。インターネットで調べようなどという気持ちは生じません。そこまでしなければ、新聞は読めなくなってしまったのでしょうか。
 現在の新聞は、わかる人だけがわかればよいという姿勢が強まっているようです。昔は新聞の隅から隅まで読むという人がいました。読んだら理解できたのです。現在の新聞は、ページ数が多くなっても、読める部分が少なくなってきているのかも知れません。
 これは、新聞の信頼性に関わる事柄なのですが、新聞社自身が、そんな信頼性などを作り上げようとしなくなっているかのように感じられます。

| | コメント (0)

2019年6月 2日 (日)

言葉の移りゆき(407)

「杖を使う」、「電車を使う」、「駅を使う」

 

 

 わからない言葉に出合ったとき、国語辞典を使って調べます。歩くことが困難である場合には、杖を使うことがあります。小さな物体である国語辞典や杖については、「使う」と表現することがあります。
 ふだんの生活では電車に乗ります。電車に乗るためには駅へ行きます。けれども、「電車を使う」とか「駅を使う」とか言うことはありません。これはあくまで私の言語感覚です。
 「使う」という言葉には、ある事柄にある物を役立てるという意味や、操ったり思い通りに動かしたりするという意味があります。駅や電車は、自分の手で操るためには大きすぎるのです。
 「駅よ、使いやすく」という大きな文字がテーマになっている記事がありました。3人の意見が掲載されていましたが、そのうちの一つには、次のような言葉がありました。

 

 

 杖を使えばなんとか歩けたものの、以前の自分とはまったく違います。 …(中略)…
 当時、東京の自宅の最寄り駅は地下鉄の駅でしたが、電車はできるだけ使わないようになりました。 …(中略)…
 階段を使うとなればもっと大変です。 …(中略)…
 体が不自由な人やベビーカーを使う人が、公共交通機関が使いにくいために行動の範囲を制限される現状は残念です。 …(中略)…
 たとえ杖や車椅子を使うようになっても、行きたいところに行ける社会であってほしいものです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月26日・朝刊、13版S、15ページ、「耕論」、かじやますみこ、聞き手・高重治香)

 

 この他に、「電車を使わない」という表現がもう1箇所ありました。この記事は、語っている人と「聞き手」とは別人です。語っている人の言葉遣いが正確に文字化されているかどうかは、わかりません。テーマの「駅よ、使いやすく」に合わせて、「使う」という言葉の使い方が広がっているかもしれません。
 「電車を使う」「駅を使う」という言葉遣いには、人間の思い上がりがあると思います。何でも自分の思い通りにできるというような感覚です。
 言葉は、使う範囲や使い方にも、十分な配慮が必要だと思います。意味が通じたらそれでよい、というようなものではありません。

 

| | コメント (0)

2019年6月 1日 (土)

言葉の移りゆき(406)

「綿菓子」と「綿飴」(続き)


 この連載(391)回で、「綿菓子」と「綿飴」のことを書きました。
 朝日新聞の連載コラム「B級言葉図鑑」では、「東では『わたあめ』、西では『わたがし』という感じがします。」と結論づけて、この食べ物について、「東西で違う証拠を撮った」という見出しの記事でした。
 私は、それほど大それた区画があろうはずはないという考えで、東京に「わたがし」があっても、関西に「わたあめ」があっても、何の不思議でもないだろうと書きました。
 その後、作家・吉村昭さんのエッセイ集『人生の観察』を読みました。吉村さんは1927年の東京生まれで、2006年に没しています。「道を引返す」と題した短い文章は、雑誌『オール讀物』の1981年11月号に掲載された文章のようです。その中に、次のような表現があります。


 町の高台にある諏訪神社の例祭が毎年おこなわれ、家々の軒先に提灯が吊された。私も揃いの浴衣を尻はしょりし、鉢巻をしめ、白足袋をはいて神社にお参りに行った。夜は長い参拝路に縁日の露店が並び、人ごみにもまれながら歩く。海草のホオズキ、蜜柑飴、綿菓子、蛍、廻り燈籠などさまざまなものが、カーバイドの灯を浴びてつぎつぎに眼の前に現れてくる。
 (吉村昭『人生の観察』、2014年1月30日発行、河出書房新社。201ページ)

 東京生まれの作家が、少年時代を懐古した文章です。そこには「綿菓子」という言葉が使われています。戦後すぐの東京で「綿菓子」と呼んでいた証拠のひとつになるでしょう。東京で「綿飴」という言葉を使っていた人も多くいたでしょうが、「綿菓子」も生きていた言葉であったのでしょう。
 言葉は、目に見えるもの(写真に写せるもの)で証拠づけることも大切でしょうが、もっと大切なことは、人々の心の中に生き続けているもの、(それは、ふとした言葉遣いの中に現れ出るもの)ということであると思います。
 私自身も、旅をしながら、言葉に関する写真を撮り続けています。けれども、写真があるからという理由で、言葉の分布などを結論づけることは早計であるということを戒めながら、撮り続けています。

| | コメント (0)

« 2019年5月 | トップページ | 2019年7月 »