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2019年6月11日 (火)

言葉の移りゆき(416)

文字を発見することが重要なのではない


 国語辞典はどのようにして編纂されているのでしょうか。国語辞典編纂者という肩書きの人のコラムを読んで疑問が高まりました。
 「『れ足す』の文字を発見」という見出しが付けられたコラムを読んだからです。こんなふうに書いてありました。


 大分で夜のバスに揺られていた時のこと。車内の前方にあるディスプレイに目が止まりました。〈これからも皆様のお役に立てれるよう……〉と、不動産会社の広告が表示されています。
 あ、「れ足すことば」だ、と気づきました。全国共通語では「お役に立てるよう」と言うところですが、それに「れ」が足されているので、「れ足す」と呼ばれます。 …(中略)…
テレビでもたまに聞かれますが、広告文の例を見たのは、今回が初めてでした。「れ足すの文字発見!」と慌てて撮影したので、少しブレてしまいました。広告文でも違和感がないほど、この地域では定着しているということでしょう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月8日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「ら抜き言葉」と同じように「れ足す言葉」は、もう20年以上前から話題になっています。方言の世界では関西でも使われていますし、共通語の世界でも「テレビでもたまに聞かれます」という筆者の言葉通りです。
 私はこの文章の初めに「コラムを読んで疑問が高まりました」と書きましたが、それは、次のような理由です。
 国語辞典の編纂者が、実際の用例を記録し、それを大切に扱うのは当然のことです。けれども、その実際の用例が、書き言葉に偏重し、東京の言葉に偏重していることについては、私はこれまでに何度も書いてきました。
 テレビで聞いても、それを言葉の用例とすることを見逃しておいて、カメラに収めてはじめて「『れ足す』の文字を発見」と心を躍らせる姿勢が納得できないのです。
 別の観点からいうと、国語辞典は(あるいは三省堂国語辞典は)、話し言葉(音声言語)を軽視して、書き言葉(文字言語)に頼っているということの態度表明であると感じたからです。
 方言研究は話し言葉の研究です。方言はどれだけ文字化されているでしょうか。映像化や文字化がされていない言葉を軽んじるという姿勢では、共通語を扱う国語辞典といえども、大切な部分を見落としていることになるでしょう。
 大分だけではなく、関西でも「お役に立てれる」は違和感なく、日常の言葉に出てきます。筆者は、「広告文でも違和感がないほど、この地域では定着しているということでしょう」という文末の言葉を忘れないでほしいと思います。話し言葉の世界では、それが当たり前の言葉遣いになっているのに、文字になっていないと気づかないままなのです。
 ところで、「立てれる」は、「立てる」の「れ足す言葉」と断言して良いのかという問題もあります。「立てられる」からの「ら抜き言葉」という考えはきちんと排除できるのでしょうか。そのあたりのことも、きちんと検討してほしいと思います。
 新聞は、読者と対話をしていくということを宣伝文句にしています。読者の声を大切にするとか、読者の疑問に答えるとか言っています。けれども、「B級言葉図鑑」にはそのような姿勢が見られないのは残念なことです。

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