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2019年7月31日 (水)

言葉の移りゆき(437)

「入社」と「入庁」


 会社に就職することを「入社」と言いますが、やめるときは「退職」です。毎朝、会社に出勤することを「出社」とも言い、退勤することを「退社」とも言います。この、「入」「出」などは、きちんと対応した言い方にはなっていないと思いますが、こういう言い方が定着してしまっているのですから、変えるわけにはいきません。
 ところで、この就職先が、会社ではなくて市町村などの役場である場合はどう言えばよいのでしょうか。「入社」に対応する言葉は何と言うのでしょうか。
 こんな表現がありました。「てるてる坊主の館」館長を務める人の紹介記事です。


 1959年生まれ。82年に長野県池田町役場に入庁。教育委員会や総務課長を経て2019年に退職。4月から館長として勤務。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月11日・朝刊、13版S、11ページ、「リレーおぴにおん 雨にうたえば③」)

 海上保安庁や県庁などに就職すれば「入庁」もすんなり響くと思います。就職先に上下の位置関係はありませんが、町役場に「入庁」というのは、なんとも違和感を感じてしまいます。言葉遣いの問題です。「入庁」という言葉を載せている国語辞典もすくないと思います。
 「82年に長野県池田町役場に入る」と言えばよいと思いますが、この紹介を書いた人の意識が高かったからなのでしょうか。
 文字で読む場合は意味を誤解することはないでしょう。けれども「池田町役場にニュウチョウ」と耳で聞いたときには、正しく理解できるでしょうか。違和感が伴う言葉遣いです。「82年から池田町役場に勤める」の方が、誤解なく伝わるでしょう。
 目で見ても、耳で聞いても、わかりやすい言葉を使いたいと思います。漢字の熟語(漢語)は引き締まった感じをもたらしますが、誤解を招くこともあります。わかりやすい日常の言葉(和語)を広く使いたいと思います。

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2019年7月30日 (火)

言葉の移りゆき(436)

「水無月」と「水月」


 睦月、如月、弥生…と続く、月の異名は、現代人にとっても常識的な言葉でしょう。五月雨は、梅雨を指します。五月晴れは、梅雨の晴れ間です。
 梅雨が明けると水無月の季節ですが、水無月について書かれた文章を読みました。


 今日から6月。6月の異名は「水無月」というのはご存じの方も多いでしょう。雨の多いこの時期が「水が無い」とは妙だな、でも旧暦の6月は今の7月ごろで、梅雨も明けて暑くなる頃だから「水が無い」月なのだろうと思っていました。
 ところが、そうではないようなのです。辞書などには複数の語源説が示されていますが、大阪大学の蜂矢真弓助教(国語学)は、この語の成り立ちを「ミ〔水〕」+連体助詞ナ+ツキ〔月〕」という語構成で、「水底」(水の底)、「港」(水の門)などと同様に「水の月」の意とする説が主流だと指摘します。 …(中略)…
 したがって「みなづき」の「無」の字は「無い」という意味ではなく、別の成り立ちの「水無瀬川」(表面に水が無い川)などの表記に影響された一種の当て字と考えてよいと蜂矢さんは分析します。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月1日・朝刊、13版S、13ページ、「ことばサプリ」、竹下円)

 「みなづき」が「ミ〔水〕」+連体助詞ナ+ツキ〔月〕」であるということには異存はありません。「な」が格助詞(連体格)として使われる例は上代に多く、現代でも、水底(みなそこ)、港(みなと)の他にも、眼(まなこ)、水上(みなかみ)、源(みなもと)などが使われています。
 けれども、「みなづき」が「水無月」と表記されるのは、「『水無瀬川』(表面に水が無い川)などの表記に影響された一種の当て字」という考えには、にわかには納得できないという気持ちが残ります。水無瀬神社や水無瀬川という固有名詞に触発されて、月の異名を「水無月」とするものでしょうか。「みなそこ」は水底と書くのですから、「みなづき」が水月と書いてもよいわけで、水月の方が実態を表した表記だと思います。
 「水無月」という表記が広く行きわたっていますから、今更、変えることはできないでしょう。けれども、水無月は本来「水な月」であったという、言葉の成り立ちはしっかり認識するのがよいと思います。

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2019年7月29日 (月)

ふるさと江井ヶ島(30)

「えいがしま」の「が」

 

 

 「えいがしま」の鉄道の玄関口は山陽電気鉄道「江井ヶ島駅」である。駅の南に県道718号の交差点(実際には五差路)があるが、信号機に掲げられている表示は「江井島」である。その交差点から50メートルほど行ったところに郵便局があるが、その局名は「明石江井ケ島郵便局」です。駅名の「ヶ」は小さな文字で、郵便局名の「ケ」は大きな文字である。
 一つ西の西江井ヶ島駅を下車して南に下がると酒造会社の老舗の「江井ヶ嶋酒造株式会社」がある。地域の学校の名前は「江井島小学校」「江井島中学校」である。
 どのような表記をしようとすべて「えいがしま」と読むのであるが、「が」の部分の書き方は異なっている。
 「江井島」「江井ヶ島・江井ケ島」「江井ヶ嶋」の他にも「江井が島」という表記も成り立ちそうである。行政では「江井島」で統一しているが、その他の分野ではいろいろな書き方がされている。
 「えいがしま」の「が」は、格助詞である。前に体言(名詞)があって、後ろの体言(名詞)との仲立ちをして、その二つの体言の関係を示す働きをしている。例えば「我が国」とか「君が代」とかの「が」がそれに当たる。(現代語では、「我が」という語は熟したものとして、一語の連体詞として扱っている。)
 古典を読んでいると「梅が枝」(梅の枝)とか「梅が香」(梅の香り)とかの表現が出てくる。そのような「が」は、「えいがしま」の「が」と同じ働きをしている。
 その「が」と同じような働きをするものに「沖つ白波」(沖の白波)のような「つ」という格助詞や、「目な子」(目の子、熟して一語の「眼(まなこ)」となる)のような「な」という格助詞もある。もちろん「梅の花」のような「の」という格助詞も古くから使われている。
 「えいがしま」の「が」は、「江井」と「島」という二つの体言を結びつける働きをしていて、現代風に言えば「江井の島」ということになる。
 当然のことであるが、「が」「つ」「な」「の」という格助詞は、省略されることなく表記されてきた。けれども、現代では(とりわけ地名表記では)、書かれなくなる傾向にある。阪急・阪神などの「三宮」(神戸市)駅に対してJRは「三ノ宮」を使っているが、JR「西ノ宮」(西宮市)駅は、近年「西宮」に改められた。
 さて、「江井ヶ島」の「ヶ」は面白い働きをする文字である。「西瓜が三ヶある。」と書けば「三こ」と読むし、「会場は三ヶ所に分かれる。」と書けば「三か所」と読む。「桃太郎は鬼ヶ島へ行った。」と書けば「鬼が島」と読む。
 「ヶ」は「こ」「か」「が」と読まれるが、不思議なのは「ヶ」という清音を表す文字が、「が」という濁音にも読まれることである。
 日本語には、かつては濁音が表記されなかったという歴史があるが、「ヶ」に関しては、それとは別の話になる。
 この「ヶ」は、片仮名の「ケ」とは違って、「箇」という漢字、または「个」という漢字を略して表記していると考えられている。漢字の性格を持っているから「ヶ」には幾通りもの読み方があるというわけである。
 「えいがしま」を「江井ヶ島」と書くことはあっても、「江井け島」と書くことはあり得ない。「ヶ」を平仮名で書く場合は、その発音に応じて「こ」「か」「が」のどれかで書き分けなければならない。現在の公用文などでは、「ヶ」に当たる部分は、平仮名の「か」で統一している。
 さて、明石市内の「が」に関わる地名を見てみると、3種類に分けられる。
 ①平仮名の「が」を使っているもの……「大久保町緑が丘」「魚住町錦が丘」「旭が丘」「藤が丘」「松が丘」「松が丘北町」
 ②片仮名の「ヶ」を使っているもの……「魚住町金ヶ崎(かながさき)」
 ③「が」の部分を表記しないもの ……「大久保町江井島」「和坂(かにがさか)」
 自治体の名称に「ヶ」を使っているかどうかを調べてみると、使っているのは、関東を中心とした東日本に見られる。茨城県龍ヶ崎市、埼玉県鳩ヶ谷市(川口市に合併)、千葉県鎌ヶ谷市、千葉県袖ヶ浦市、神奈川県茅ヶ崎市、長野県駒ヶ根市などである。
 「ヶ」を使わないのには、埼玉県越谷(こしがや)市、埼玉県熊谷(くまがや)市、岐阜県各務原(かがみがはら)市、兵庫県尼崎(あまがさき)市などがある。
 「ヶ」を「か」と発音する例には、原子燃料サイクル施設があることで知られる青森県六ヶ所(ろっかしょ)村などがある。
 小さな地名では、国会議事等のある「霞ヶ関」「霞が関」、自衛隊基地のある「市谷」「市ヶ谷」など、地名(住居表示)と駅名などで表記のゆれがあるところはたくさんある。
 「ヶ」の表記を省いても正しく発音される場合は、「ヶ」を省いてもよいと思うが、「ヶ」を省くことによって発音が変化することは考えものです。例えば、岐阜県各務原市には「ヶ」が使われていないが、それを「かがみがはら」でなく「かがみはら」が多くなって、それが定着してしまうと、地名の発音を変化させたことになる。
 「えいがしま」は、たとえ「江井島」と表記しても、「が」を省いて発音しないようにすべきである。「えいしま小学校」などという発音をしてはならないということであるが、今のところ、その心配はないと思われる。

 

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2019年7月28日 (日)

ふるさと江井ヶ島(29)

江井ヶ島の人口


 全国的に人口減少が続いているが、2018年(平成30年)に中核都市となった明石市の人口は微増の傾向が続いている。
 明石郡大久保町、明石郡魚住村、加古郡二見町が、明石市と合併したのは1951年(昭和26年)のことである。今でも、いろいろな統計などでは、本庁地区(合併前の旧・明石市の地域)、大久保地区、魚住地区、二見地区という分類がされている。
 2018年(平成30年)7月1日現在の、住民基本台帳に基づく人口は次のようになっている。(国勢調査などの人口とは異なる。)
合計    30万2026人
  本庁地区  13万92065人
大久保地区 8万3531人
魚住地区  4万9312人
二見地区  2万9977人
 本庁地区よりも、他の3地区の合計の方が数字は大きい。
 大久保地区の人口約8万人は、兵庫県下で言うと三木市やたつの市に近く、魚住地区の人口約5万人は小野市や加西市に匹敵する。二見地区の人口は養父市を超えている。
大久保町に属する江井ヶ島地区(江井島と西島を合わせた地域)の人口・世帯数は次のようになっている。
江井島   6131 人  2690世帯
西島   9877人   4145世帯
 江井ヶ島は人口が1万6千人ほどで、明石市全体の5.5%ほどを占めているのである。

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2019年7月27日 (土)

ふるさと江井ヶ島(28)

ゆうびんきょく【郵便局】


 江井ヶ島郵便局について、その歴史を含めて明快に書かれている記事の切り抜きを保存しています。1982年(昭和57年)1月6日の神戸新聞の記事です。次のようなことが書かれている。

 郵便局舎としては明石市内で最古の大久保町江井島、江井ヶ島郵便局が十八日から新局舎へ移転する。現局舎は人間で言えば還暦に近く、大正時代末期から地元の発展ぶりを見守ってきた。
 同局は明治三十五年十一月、当時の江井ヶ嶋酒造社長だった卜部兵吉さん(故人)が現局舎の近くで開局。大正十二年三月、当時としてはモダンな現在の木造二階建て局舎(延べ百二十五平方メートル)を新築し移転した。
 近くには西灘と呼ばれた清酒産地があり、同局には今も当時の隆盛を物語る書類が保存されている。開局後間もない明治三十八年三月二十六日付けで逓信大臣あてに提出された「電報受取所設置願い」は地元有志や郵便局長、酒造会社、精米会社などの連名で「現在、当地の清酒は年産三万石(約五千四百キロリットル)あり、他地方との取引もひんぱんになっている。しかし、電報を扱っている国鉄大久保駅からは三千メートルもあり不便きわまりない。これまで配達の遅れで商機を逸したこともある。費用はすべて地元負担とするので、ぜひ電報取扱所を設置してほしい」と書き込まれている。
 前局長の波部アキさんは「昭和四十一年八月までは電報や電話を取り扱っていたが、あのころは本当に大変でした」と懐かしそう。電話がまだ普及しておらず、正月には年賀電報が殺到。二見などまで配達に行ったことも多い、という。
 移転が予定されている新局舎は現局舎の北東約一キロの国道250線近く。木造二階建て約百二平方メートルで、局名も「江井ヶ島郵便局」が「明石江井ヶ島郵便局」に変わる。

 江井ヶ島郵便局は卜部兵吉さんが開局したそうであるが、卜部兵吉さんは江井ヶ嶋酒造の創立はもちろん、江井島小学校の運営にも尽力された。
 江井ヶ島は西灘と呼ばれた酒造地であり、早くから開設された郵便局も金融機関として重要な役割を果たしていたことだろう。電報は国鉄大久保駅が扱っており、江井ヶ島にも電報受取所が必要であるとして、郵便局に通信機関としての役割を付け加えたのも重要な出来事である。
 古い郵便局には電話交換業務があったように思うし、郵便局内に公衆電話の施設があった。何かの用で郵便局へ行ったら、たまたま電信の業務中で、「朝日のア」「子供のコ」「桜のサ」「算盤のソ」「手紙のテ」などという言葉が聞こえてくることも、たびたび経験した。
 移転後の明石江井ヶ島郵便局は山陽電気鉄道江井ヶ島駅の近くにある。もとの江井ヶ島郵便局の跡は、今は民家が建てられている。

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2019年7月26日 (金)

ふるさと江井ヶ島(27)

やない【柳井】


 柳井地区は、元は明石郡魚住村の大字・金ヶ崎の一部であるが、魚住小学校までの通学距離が大きく、江井島小学校が近かった。昭和26年に明石郡大久保町・魚住村、加古郡二見町の3町村が明石市に合併したときに、江井島小学校の校区に変更された。以来、70年ほどになり、もはや紛れもない江井ヶ島地区の一員である。
 江井ヶ島には桜の名所がいくつかあるが、その一つは柳井地区の赤根川沿いの桜並木である。赤根川は大久保町西脇のあたりを経て、柳井を通って、西島で海に流れ入る。柳井のあたりでは右岸に桜並木がある。河畔の道は舗装されていて、小さな車は通れるが、地区の幹線道路ではない。桜にとっては、それがかえってありがたいことになっている。桜の木の下で弁当を広げることはできにくいけれども、そぞろ歩きにはふさわしい場所である。知る人ぞ知る、すなわち、あまり知られていない、静かな名所である。

ふるさと江井ヶ島(28)

ゆうびんきょく【郵便局】

 江井ヶ島郵便局について、その歴史を含めて明快に書かれている記事の切り抜きを保存しています。1982年(昭和57年)1月6日の神戸新聞の記事です。次のようなことが書かれている。

 郵便局舎としては明石市内で最古の大久保町江井島、江井ヶ島郵便局が十八日から新局舎へ移転する。現局舎は人間で言えば還暦に近く、大正時代末期から地元の発展ぶりを見守ってきた。
 同局は明治三十五年十一月、当時の江井ヶ嶋酒造社長だった卜部兵吉さん(故人)が現局舎の近くで開局。大正十二年三月、当時としてはモダンな現在の木造二階建て局舎(延べ百二十五平方メートル)を新築し移転した。
 近くには西灘と呼ばれた清酒産地があり、同局には今も当時の隆盛を物語る書類が保存されている。開局後間もない明治三十八年三月二十六日付けで逓信大臣あてに提出された「電報受取所設置願い」は地元有志や郵便局長、酒造会社、精米会社などの連名で「現在、当地の清酒は年産三万石(約五千四百キロリットル)あり、他地方との取引もひんぱんになっている。しかし、電報を扱っている国鉄大久保駅からは三千メートルもあり不便きわまりない。これまで配達の遅れで商機を逸したこともある。費用はすべて地元負担とするので、ぜひ電報取扱所を設置してほしい」と書き込まれている。
 前局長の波部アキさんは「昭和四十一年八月までは電報や電話を取り扱っていたが、あのころは本当に大変でした」と懐かしそう。電話がまだ普及しておらず、正月には年賀電報が殺到。二見などまで配達に行ったことも多い、という。
 移転が予定されている新局舎は現局舎の北東約一キロの国道250線近く。木造二階建て約百二平方メートルで、局名も「江井ヶ島郵便局」が「明石江井ヶ島郵便局」に変わる。

 江井ヶ島郵便局は卜部兵吉さんが開局したそうであるが、卜部兵吉さんは江井ヶ嶋酒造の創立はもちろん、江井島小学校の運営にも尽力された。
 江井ヶ島は西灘と呼ばれた酒造地であり、早くから開設された郵便局も金融機関として重要な役割を果たしていたことだろう。電報は国鉄大久保駅が扱っており、江井ヶ島にも電報受取所が必要であるとして、郵便局に通信機関としての役割を付け加えたのも重要な出来事である。
 古い郵便局には電話交換業務があったように思うし、郵便局内に公衆電話の施設があった。何かの用で郵便局へ行ったら、たまたま電信の業務中で、「朝日のア」「子供のコ」「桜のサ」「算盤のソ」「手紙のテ」などという言葉が聞こえてくることも、たびたび経験した。
 移転後の明石江井ヶ島郵便局は山陽電気鉄道江井ヶ島駅の近くにある。もとの江井ヶ島郵便局の跡は、今は民家が建てられている。

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2019年7月25日 (木)

ふるさと江井ヶ島(26)

やごう【屋号、家号】


 江井ヶ島は古くからの村落であるから、同じ地域に同じ苗字の家が多くある。西島には、卜部、今井、西海、岸本などとともに橘を名乗る家もある。この地域の墓を見ると江戸時代あたりからの家系が読みとれる家はたくさんある。
 そんな古くからの地域であるから、家号で呼ばれる家も多い。幼い頃、「あんた・は・ せーはったん・とこ・の・ こ(子)・や・なー。」と言われてびっくりしたことがあるが、だんだん家号のことに気づくようになった。漢字で書くと「清八さん」で、「さん」が「たん」になるのは自然な発音変化である。先祖の名前が何代も生き続けている。私の名前は幸男である、発音が崩れると「幸男ちゃん」は「ゆっきょちゃん」になる。小学生の頃は、そのように呼ばれていたし、今でも呼ばれると嬉しい気持ちがする。
 江井ヶ島の「ふるさとの文化を学ぶ会」が発行した『島のみゝぶくろ』には、「ひがっせの家号」「にっせの家号」「ひがしじまの家号」「もりの家号」「にしじまの家号」が、それぞれの地域の地図に書き込んだ形で載っている。「ひがっせ」は東江井、「にっせ」は西江井、その他は東島、森、西島のことである。
 そのうちの「にしじまの家号」地図には40近い名前が挙げられている。その家号を、いくつかに分類してみる。一つ一つの家号の由来を確かめたわけではないから、間違っているかもしれない。
 まず、人の名前(先祖の名前)に基づくと思われるものを、五十音順に列挙する。「くろべはん」「ごえはん」「こさやん」「じゅうべはん」「しょうやん」「せいはっつぁん」「せえべはん」「そうべはん」「たろべはん」「たんちゃん」「にさやん」「はちべはん」「はっちょみさん」「まごべはん」「もよみさん」「よんちゃん」である。「はんだいはん」「まさかど」もここに加わるのかもしれない。「きし」は古岸(こぎし)という苗字の省略形である。筆者の屋号は「せいはっつぁん」である。
 次に、家業に由来すると思われるものを、やはり五十音順に並べる。「うえきや」「おいしゃはん」「かさや」「こんや」「さかば」「すりばちや」「せともんや」「とふや」「はこや」「わたや」である。順に、植木屋、医者、笠屋(傘屋)、紺屋、酒場(酒造業)、擂り鉢屋(窯業)、瀬戸物屋、豆腐屋、箱屋、綿屋と考えられる。「しんば」は新しい酒場かもしれない。
 関連して、店の屋号と思われるものに「いちばや」「かわさきや」「しなのや」がある。「かわじん」というのも屋号かもしれない。
 「アメリカはん」は洋風の住まいの一家をそのように呼んだもの、「てらまえ」は極楽寺の前の家、「やまのうえ」はちょっと高い位置に建っている家、「たんぼなか」は田圃の中の家のようである。珍しい呼び名は「いんきょ」(隠居)である。
 この地図には書かれていないが、「てら」(寺=極楽寺)、「とこや」(床屋=西海理髪)、「みせ」(店=岸本八百屋)という呼び名もあった。

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2019年7月24日 (水)

ふるさと江井ヶ島(25)

みなと【港】


 江井ヶ島にも小さな港がある。『明石市史 下巻』(明石市役所発行)で明石の近代を扱ったところに「江井ヶ島港の改修」という項があり、その中に次のような記述が見られる。

 明治三十一年六月明石郡長の勧めと江井ヶ島酒造協会の発起によって港湾改修期成同盟会が結成され、明治四十一年に工費九三〇〇円の予算で起工したが、さらに工事の完全を期して一五〇〇〇円をもって大正四年(一九一五)六月完成した。
 江井ヶ島地方は当時明石郡重要物産の首位を占める清酒の醸造地で、その消長は地方経済界に影響を及ぼす所が大きく、その販路の拡張は交通の便否に大いに関係があるため、ここに巨額の経費を支出して港湾改修に努めた。

 清酒が「明石郡重要物産の首位」であると書かれている。明石郡は海岸線から後背地までの広い地域に及んでいて、現在の明石市だけではなく、神戸市垂水区と西区を含む地域であった。この地域の現在の工業製品はさまざまな分野に広がっているが、この時代は清酒が重要物産の首位を占めていたという。とりわけ江井ヶ嶋酒造株式会社の役割が大きかったことは言うまでもない。
 江井ヶ島港からは清酒が機帆船によって積み出され、原料なども機帆船によって運ばれてきていた。実は、筆者の家は祖父の代まで、漁業とともに、機帆船による運搬の仕事もしていた。持ち船の「順栄丸」は第2次世界大戦のときに差し出すように軍から命じられ、その機帆船がどこに回航され、どのように使われたかはわからないということを聞いている。戦後も江井ヶ島港では天啓丸などの機帆船が活躍していたことが記憶にある。かつての江井ヶ島港は、さして大きくはない機帆船が母港としていた港であって、今の江井ヶ島港は漁港としての役割だけになっている。

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2019年7月23日 (火)

ふるさと江井ヶ島(24)

ほうらくじま【ほうらく島】


 明石から姫路に至る海岸線は東西に一直線ではなく、東から西に行くにつれて海岸線が後退していくようになっている。地図を見るとわかるが、その角度は45度ぐらいある。
 江井ヶ島から見る海岸風景は、真南に淡路島が横たわっている。西南西に小豆島が見えて、ほぼ真西に家島群島がある。天気の悪いときには、淡路島が霞むが、小豆島は見えずに家島群島だけが見えるというときもある。距離から言えば、家島までの距離の2倍ほど離れたところに小豆島があるからである。
 家島群島は、姫路市、たつの市、相生市の沖合に広がって、東西は26.7km、南北は18.5kmにわたり、大小40余りの島々がある。
 もとは、飾磨郡家島町であったが、現在は合併して姫路市の一部になっている。「いえしま」と読むが、中には「えじま」と呼んでいる人が江井ヶ島にはいた。かつて、この島からは、護岸突堤などに使う石を積んだ船がやってきて、江井ヶ島や近くの海に石を投げ込んでいる風景をよく見た。「石船(ルビ=いしぶね)」と呼んでいた。
 その群島の中で、最も近くに見える島を「ほうらくじま」と呼んでいる。無人島であるが、半円のように見える島である。その名の由来は知らないが、幼い頃は、「焙烙(ルビ=ほうらく)」のような円い島というイメージを持っていた。円い焙烙の一部分が水面上に浮かんでいるように感じたのである。今も同じように感じている。地図には「上島」と記載されている島である。
 いつも沖合に浮かんでいる島は、子供にとっては「山のあなたの空」の向こうに存在するような島であったから、瀬戸内海を通る客船に乗って、「ほうらく島」を裏側から見たときにはびっくりし、夢から覚めたような思いになった憶えがある。

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2019年7月22日 (月)

ふるさと江井ヶ島(23)

はまこく【浜国】


 明石市は海岸線に沿って東西に長い市域である。交通は東西方向には便利であるが、南北方向には便利とは言えない。明石市大久保町西島には東西の交通路が貫いている。
 鉄道は、山陽電気鉄道本線が走って、西江井ヶ島駅がある。普通電車しか停まらないから、特急に乗るには東二見駅(西へ2つ目)か山陽明石駅(東へ6つ目)で乗り換えなければならないが、直通特急は山陽姫路駅と阪神梅田駅(大阪市北区)とを昼間でも15分間隔で結んでいる。
 その北側には西日本旅客鉄道(JR西日本)の山陽新幹線が走っているが、地域内に駅はない(当然!)。乗るのなら東に5㎞ほど離れた西明石駅ということになる。
 さらにその北側にJR西日本の山陽本線(通称・神戸線)が走っているが、ごく一部区間だけが西島の地域内を通っている。大久保駅と魚住駅の中間の南方に西島があるのである。
 道路は、もともとは山陽電鉄の南側を走るのが国道250号であった。これは神戸市を起点にして(神戸市から西明石までは国道2号と重複区間)、兵庫県の瀬戸内側を走って加古川市、高砂市、姫路市、相生市、赤穂市を通って岡山市に至る道路である。旧来の県道を格上げしたもので「浜国道」略して「浜国」と呼ばれた。
 交通量の増加に従って、1980年に西明石から高砂市曽根まで新しい道が作られ「明姫(ルビ=めいき)幹線」と呼ばれている。今は、その道が国道250号となって、山陽電鉄の南側の道は格下げされて、兵庫県道718号明石高砂線となっている。県道→国道→県道と変遷した道路である。この道路は1960年より少し前までは舗装されていなかった。筆者が子どもの頃は自動車の通行量も少なくて、道路をリレー競技で走った記憶がある。
 国道2号は残念ながら西島の地域内を走っていなくて、少し北に離れている。山陽新幹線と明姫幹線とは、江井島中学校の北東の位置で立体交差している。
 海路としては、隣の集落・東島に江井ヶ島港がある。けれども漁港であって、旅客とは関係がない。何十年も前はベラ釣りで知られた港で、観光バスからの乗客を受けて、夏に漁船がベラ釣りに出港していく風景を見たことがある。今の漁業は海苔の養殖が中心になっている。

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2019年7月21日 (日)

ふるさと江井ヶ島(22)

はす【蓮】


 世界通信社が発行している教材学習ニュースに「オニバス」を扱ったものがものがある。1999年(平成11年)7月15日の発行である。
 「絶滅が心配される貴重な水草」というタイトルで、「直径2メートルにもなる大きな葉と全身をおおう鋭いトゲが特徴の水草で、スイレン科の一年草です。太平洋側は宮城県、日本海側は新潟県を北限として、本州、四国、九州の主に平野部に分布していますが、近年、埋め立てや水質汚濁などが進み、激減しています。全国に60~70か所となってしまった産地の保護が急がれます。」という説明がある。
 載せられている写真は「兵庫県明石市の西島大池」で、「日本一の群生地で、池一面をびっしりとオニバスの大きな葉がおおっています。」と書かれている。
 この希少な植物は、兵庫県レッドデータブックのBランクである。オニバスの観察会は西島ため池協議会の主催で、継続的に開催されている。

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2019年7月20日 (土)

ふるさと江井ヶ島(21)

はくつる【白鶴】


 神戸・灘の酒である「白鶴」は、かつて江井ヶ島でも造られていた。
 その理由の一つは、白鶴酒造株式会社の支店が江井ヶ島にあって、酒蔵があったということである。大きな酒蔵が何棟も並んで、その南側に小さな事務所があった。この白鶴の蔵の広場に干してあった大桶の中に入って、遊ぶことをした。
 昭和20年代から30年代の前半頃は、自動車が発達していなかった。4トン積みのトラックとか、小さなオート三輪はあったが、自動車以外の輸送手段にも頼っていた。「馬力」という、馬に引かせた荷車で、江井ヶ島港から米や芋(焼酎の原料)などを運んでいる風景は日常的なものであった。(焼酎は白鶴ではなく、別の会社で作っていた。)その仕事に携わっている人を「馬力引き」と呼んでいた。
 白鶴酒造の酒造用の水を井戸から蔵へ運ぶことを仕事にしている人もあった。「馬力」より小さい車にタンクを積んで、引いていた。車を引く綱を肩にかけて2人で引っ張っている姿をよく見かけた。「肩引き」という言葉があったが、それが車のことを指すのか、作業に当たっている人を指すのか、今となっては断言しにくい。
 「白鶴」の酒が江井ヶ島でも造られていたということの、もう一つの事情は、江井ヶ島の他の酒蔵で造られた酒が、トラックの大きなタンクに詰められて、運び出されていたということである。タンクに「白鶴」と書かれていたから、間違いなく白鶴へ運ばれていたはずである。江井ヶ島は酒造地として知られているから、自社の銘柄でも売り出していたが、白鶴の中にブレンドされていたこともあった。
 以上の話は昔日のものとなった。白鶴の支店はとっくの前に廃止になった。そして時が流れて、レストランチェーンの会社が旧・白鶴の酒蔵を買い、それを活用した店が誕生してからも20年以上の時が流れている。そのレストランは「明石江井島酒館」というのであるが、ここで造られる明石ブルワリーの地ビールは高品質で、数々の賞を得ている。また「日本徳利博物館」「酒蔵資料館」も併設され、資料としての価値も高い施設になっている。

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2019年7月19日 (金)

ふるさと江井ヶ島(20)

にしえいがしま【西江井ヶ島】


 筆者が小学生か中学生の頃だったと思うが、父と一緒に山陽電鉄の電車で明石へ出かけて帰ろうとしたときのことを思い出す。当時、切符は窓口で買ったのであるが、父が「西口まで」と言って切符を買ったのには驚いた。問答が繰り返されることもなく、窓口からは西江井ヶ島駅までの切符が差し出された。
 西江井ヶ島駅は、1944年(昭和19年)4月1日に改称されている。開業以来それまでは「江井ヶ島西口」駅であった。改称から十何年か経っても「西口」は通用したのである。昔も今も山陽電鉄には「○○西口」という名の駅は他にないということも理由の一つであったのかもしれない。
 その西江井ヶ島駅は上り線と下り線にそれぞれホームがあるが、かつては下りホームの南側にもう一つのホームがあった。駅の東の方から側線が引き入れられて、そのホームに入線できるようになっていた。駅の東側には、上り線と下り線との間の渡り線が設けられ、上り・下りの入れ替えもできるようになっていた。
 電車に乗るときには改札口があった。小さな駅であっても、当時はすべての駅が有人であった。けれども南側のホームは、改札の外にあって、ホームに上ることができた。これは、実は貨物用で、西江井ヶ島駅にあったのは貨物用の引き込み線とホームで、草が生えているようなホームだった。
当初はたぶん酒の輸送という役割を持っていたのだろう。けれども、筆者の記憶では、貨物用のホームには、いつも白い粉が落ちて残っていたように思う。近くの魚住町西岡に1926年(大正15年)創業の丸尾製粉(現在の社名は、丸尾カルシウム)があって、石灰岩を原料として炭酸カルシウム製品を作っていた。作られた製品の輸送に山陽電鉄の貨物電車も使われていたのだろうと思う。
 茶色の貨物電車は、その角張った車両に荷物を載せることができるが、無蓋の貨車を1~2両引っ張って走っていることもあった。貨物輸送が自動車に押されるようになって山陽電鉄の貨物輸送は1960年頃に全面的に廃止された。西江井ヶ島駅前には日本通運の取扱店もあったが、いつの間にか廃止された。西江井ヶ島駅の南側には、乗客用ホームに接して、山陽電鉄従業員用の5階建ての集合住宅が建てられたが、近年、取り壊された。

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2019年7月18日 (木)

ふるさと江井ヶ島(19)

でんしゃ【電車】


 1960年前後の頃は、現在とはまったく様子が違って、西江井ヶ島駅のあたりの山陽電気鉄道本線より北側は田圃と溜め池だけで、民家はほとんど無かった。西島の集落の北の外れに西江井ヶ島駅があるという感じであった。もちろん、それより北を走る国鉄(当時)山陽本線の蒸気運転の列車はよく見えた。
 山陽電鉄は、兵庫(神戸市)-明石間は兵庫電気軌道株式会社として開業し、明石-姫路間は明姫電気鉄道株式会社として開業(2年後に神戸姫路電気鉄道に改称)した。両者が宇治川電気(現在の関西電力)電鉄部となった時期があるが、1933年(昭和8年)に独立して山陽電気鉄道となった。
当初の社名からもわかるが、兵庫-明石間は道路併用区間もあり、駅間距離が短く、電圧は600ボルトになっていた。明石-姫路間は高速運転ができるように直線区間が長く、駅間距離も長く、電圧は1500ボルトになっていた。連結点の明石に2つの駅があった時代があるが、線路や電圧(1500ボルト化)を改めて、1928年(昭和3年)から兵庫-姫路間の直通運転を実現している。
 兵庫-明石間は既に開業100年を超えたが、明石-姫路間の開業は1923年(大正12年)8月19日である。筆者が子どもの頃には、2両連結の大型車や小型車が特急、急行、普通電車として走っていた。特急に使われた800型はロマンスシートをそなえた大型車で、子どもの頃には「新車」と呼んでいた。「新車」が時々は普通電車にも使われたが、その時は大喜びであった。急行に使われた車両のうち700番台は旧国鉄の63型と同型で、全国の私鉄に戦後の車両不足の緊急対策として導入されたが、標準軌の鉄道会社に導入されたのは山陽電鉄が唯一であった。この電車が普通電車に使われたときも喜んで乗った。
 市立の大久保中学校に通学した時代は、西江井ヶ島(または江井ヶ島)駅と中八木駅の間を電車通学した。自転車で通った友だちもあるが、電車通学の方が多かったように思う。「しんしゃ」というのは、その時代の呼び名で、子ども達だけの呼び名であったかもしれない。国鉄山陽本線の西明石-姫路間が電化されたのは中学生の頃であった。

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2019年7月17日 (水)

ふるさと江井ヶ島(18)

どっこいしょ


 「どっこいしょ」という言葉を聞くと、「あ よいよい こらこら…」と踊り出したくなるような気持ちになるが、実はそれとはまったく違った意味である。江井ヶ島の周辺は良い水の湧き出るところで、そのうちの、浅い井戸、地表に湧き出している井戸のことを「どっこいしょ」と言う。
 『明石のため池』(明石市教育委員会発行)に、「どっこんしょ」という項目があって、次のようなことが書かれている。

 「どっこんしょ」あるいは「どっこいしょ」と呼ばれる湧き水が、谷八木から二見までの海岸線や川沿いにあったことが、地元の年配の人たちの話によくでてきます。
 子どもの頃、海で魚を突くために、松陰から谷八木の海岸まで歩いていく途中、いつものように崖の下から湧き水が出ているところで休憩し、汗をかいた顔を洗うことにしていたそうです。また、海で魚を突いたり、泳いだりした後、今度は、海岸の砂浜にも湧き水が出ているところがあり、そこで真っ黒になった体を洗い、そして乾いた喉に冷たい水を流し込む。その水がなんともいえないほど、おいしかったそうです。
 戦前には、谷八木にこのような湧き水が10数ヶ所あったそうです。戦後には、大きな工場が大量に地下水を汲み上げるようになり、湧き水は次々に枯れてしまったそうです。

 大久保町の北の方にある松陰(ルビ=まつかげ)から、谷八木の海岸へ歩いて行った「年配の人」の体験談として語られているのであるが、湧き水は崖の下などにあったようである。
 筆者は、江井ヶ島に住み続けているのであるが、呼び名は「どっこいしょ」である。確かに崖のようなところにもあったとは思うが、大きな酒蔵などの中にも水が湧き出しているところがあって、石やコンクリートで囲ってあった。目の前へこんこんと湧き出してきて、もったいないのであるが、流れっぱなしになっていた。大量の地下水の汲み上げが原因で涸れていったのかもしれないが、今では「どっこいしょ」の存在は忘れ去られてしまっている。
 筆者の家には井戸があったが、井戸といってもせいぜい地表面から3メートル程度の深さの水面だった。水に恵まれていることと、江井ヶ島を中心とした地域の酒造りとは密接なつながりがある。

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2019年7月16日 (火)

ふるさと江井ヶ島(17)

ためいけ【溜め池】


 兵庫県の溜め池の数は全国で最多である。播磨平野や淡路島は雨が少なく、灌漑用の溜め池が必要である。
 『明石のため池』(明石市教育委員会発行)という本の後ろの方に、30ページ近くにわたって「ため池データベース」というのがあって、明石市内にある111か所の溜め池の写真とともに、所在地、堤高、堤長、貯水量、満水面積や、管理している水利組合やため池協議会の名が書かれている。
 桜の名所でもある明石公園には剛ノ池という、春は花に埋まる池があるが、この池の満水面積は31720平方メートルである。剛ノ池は有名な池であっても、大きな池の部類には入らないようである。
 明石市大久保町の大字名としての江井島と西島にある池は、次の通りである。
   皿池  堤長1940メートル 満水面積107150平方メートル
   谷池  堤長1456メートル 満水面積 69990平方メートル
   切池  堤長 313メートル 満水面積 8350平方メートル
   下切池 堤長 296メートル 満水面積 6750平方メートル
   納戸池 堤長 430メートル 満水面積 19130平方メートル
   上池  堤長 560メートル 満水面積 19220平方メートル
   新池  堤長 275メートル 満水面積 17920平方メートル
   皿池  堤長 300メートル 満水面積 19710平方メートル
   大池  堤長 954メートル 満水面積 54250平方メートル
 はじめの2つの池の管理は江井ヶ島土地改良区、あとの7つの池の管理は西島水利組合である。はじめの2つの池は圧倒的に大きい池である。
 皿池という名の池が2つあるが、池の底が周囲の田んぼと変わらないような、底の浅い池を皿池と言うから、皿池という名の池はあちこちに存在する。
 これらのため池は、鳥をはじめとする動物や、水生植物にとっての生活環境を提供していて、貴重な存在になっている。特に、直径2メートルほどの大きな葉を持つオニバスのあるところとして、全国的に知られている。

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2019年7月15日 (月)

ふるさと江井ヶ島(16)

スタンプ

 山陽電気鉄道は、かつて、すべての駅に観光用のスタンプを設置していたことがあり、そのスタンプを集めるという催しも行っていた。
 駅のスタンプは、かつての国鉄がディスカバー・ジャパンを合い言葉に旅行意欲を喚起しようとして、全国的にスタンプを整備し、ブームとなったことがある。
 ところで、山陽電鉄のスタンプはその時が最初というわけではない。それより前にも、主要駅や、観光客が主体となる駅にはスタンプがあった。
 すべての駅に設置されたスタンプは既に姿を消してしまっている。山陽電鉄は全駅自動改札を推し進めて、その結果として主要駅以外は無人化されたから、今ではスタンプを置いても管理が行き届かなくなることだろう。
 さて、昭和の終わり頃のスタンプの印影はと言えば、西江井ヶ島駅のスタンプには、日本酒の酒蔵とウイスキー蒸留所が描かれ、蒸留所の空には風見鶏の姿がある。さらに、魚住城跡の標柱があり、沖には淡路の島影が見える。
 一方、魚住駅のスタンプには、藤の花で有名な中尾・住吉神社と、牡丹で知られる薬師院(通称はボタン寺)が描かれている。海に向かって開放的な風景が広がるのが住吉神社である。
 魚住駅は、JRの駅名と区別するために、正確には山陽魚住駅と言う。この魚住駅は、西江井ヶ島駅と同時に開設された。終戦直前の1945年(昭和20年)7月20日から営業を休止したが、2年後の1947年(昭和22年)11月15日に再開している。いずれにしても、国鉄(現・JR西日本)魚住駅の開設よりは古い。

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2019年7月14日 (日)

ふるさと江井ヶ島(15)

しろ【城】


 兵庫県の城の代表格は世界遺産でもある国宝・姫路城であり、明石市の城と言えば明石城で、あたり一帯は兵庫県立明石公園になっている。ところで、江井ヶ島にも城があった。魚住城である。今、魚住城跡には明石市教育委員会が説明板を設置しており、次のように書かれている。

 一 魚住城は南北朝時代に赤松氏の一族である魚住長範によって魚住町中尾に築かれた。
 一 天正六年(一五七八)、魚住頼治は毛利軍が三木城へ兵糧を運ぶ基地として西嶋の丘に柵を巡らし新しい城を構えた。天正八年(一五八〇)に、三木城の廃城とともに廃絶した。
 一 平成十年の発掘調査で魚住城の堀割の一部と考えられる遺構が見つかり、ここに城があったことが確認された。

 別所長治は、織田信長に叛いて毛利元就についたが、別所を攻める羽柴秀吉軍と三木合戦になった。別所氏についた魚住氏が、兵糧攻めにあっている友軍に兵糧物資を輸送するための補給基地としたのが魚住城である。
 江井ヶ島は前面に海があるが、山らしいものはない。魚住城は平城である。海路からの交通には恵まれているが、北に離れた三木城にどのように兵糧を運んだのだろうか。子供の頃には「魚住城から三木までトンネルが掘られていて、物資を運んだのだ」という説がまことしやかに流布しており、江井ヶ嶋酒造株式会社の敷地の西側、断崖のようになっているところがトンネルの入り口だという者もいたが、これは大人たちも信じている説だったのだろうか。今ではそんなことを信じている人はいない。
 説明板が設置されているのは住宅地の真ん中で、小さな児童公園になっているところであるが、筆者の記憶では、ずっと以前は、この地点より少し南の坂道に「魚住城跡」という木柱が立っていたように思う。発掘調査によって堀割の一部が発見されて、遺構の位置がずらされたのかもしれない。

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2019年7月13日 (土)

ふるさと江井ヶ島(14)

しょうわ【昭和】


 赤根川の河口の西側にあり、のちに白鶴酒造江井ヶ島支店となるのが昭和酒造株式会社である。白鶴酒造江井ヶ島支店となってからも、この酒蔵を「しょうわ」と呼ぶ続ける人がいた。
 白鶴酒造の『白鶴二百三十年の歩み』の巻末年表に次のようなことが書いてある。

 1927年(昭和2年)8月2日  昭和酒造株式会社設立(江井ヶ島)
 1947年(昭和22年)9月1日 嘉納合名会社、昭和酒造株式会社 合併
白鶴酒造株式会社に改称  資本金三六五万円
 昭和酒造というのが嘉納(白鶴)の子会社であるのか、別の資本かは明確ではないが、2社が合併して白鶴酒造になったという。その昭和酒造を引き継いだのが白鶴酒造の江井ヶ島支店の酒蔵であった。
 社史を読むと、昭和酒造がその当時の白鶴酒造のピンチを救ったというような記述もあった。

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2019年7月12日 (金)

言葉の移りゆき(435)

「完璧すぎる」というのは、どういう状況か


 「完璧」という言葉はありますが、完璧にものごとを運ぶことは、現実にはほとんどあり得ないことでしょう。完璧だと断じることには主観の問題も関わることです。
 スポーツの実況放送で、「完璧な投球で、バッターは手も足も出なかった」とか、「完璧なバッティングで、外野スタンドにホームランを打ち込んだ」とか言うことがありますが、どういう状況であれば「完璧」と言えるのかということに、基準があろうはずはありません。
 ところで、「完璧だ」というのと、「完璧すぎる」というのとでは、どちらが精度が高いのでしょうか。そもそも「完璧すぎる」という言い方は成り立つのでしょうか。
 小惑星探査機「はやぶさ2」が、小惑星「リュウグウ」に着陸したというニュースがありましたが、それを報じる記事にこんな表現がありました。


 砂や石を舞い上がらせるための弾丸を発射できたことも確認でき、採取に成功したとみられる。久保田孝・研究総主幹は「リハーサルじゃないかと思うほど、完璧すぎるぐらい完璧に動いてくれた」と話した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月11日・夕刊、3版、1ページ、「テレビのおとも」、西森路代)

 実は、この記事は夕刊のトップニュースで、次のような見出しが付いていました。
 〈「はやぶさ2 再着陸成功 / 小惑星リュウグウ 地下の砂採取か / 「完璧すぎる」〉

 本文で書かれている「完璧すぎるぐらい完璧に動いてくれた」という表現を、短く言えば「完璧すぎる」になるのか、という疑問を持ちました。
 この表現では、「完璧」よりも「完璧すぎる」の方が精度は高いように思われます。けれども、「完璧すぎるぐらい完璧に動いてくれた」という表現では、「完璧すぎるぐらい」というのは修飾語に過ぎないと思います。
 リュウグウは直径約900メートルの小惑星だそうですから、それに着陸するのは至難のことでしょう。わずかの誤差でも生じたら、着陸はできないでしょう。だから、その着陸成功を「完璧」と表現するのは当然だと思います。「完璧すぎるぐらい完璧に動いてくれた」という喜びの言葉には実感がこもっています。
 それを報じる新聞見出しの「完璧すぎる」は、ちょっと行き過ぎではないかと感じたのです。

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ふるさと江井ヶ島(13)

しま【島】


 江井ヶ島の地名を大別すると「〇江井」と「〇島」とがあり、それに「東」「西」が付く。東から順に、東江井、西江井、東島、西島である。東江井は日常的には「ひがしえ(東江)」と言い、西江井も「にしえ(西江)」と言っている。普段の発音では東江が「ひがっせ」、西江が「にっせ」となることもある。
 江井ヶ島の地名の由来は、上記のこととは別に、魚のエイと結びつけた話などが流布している。江井ヶ島海水浴場の傍に「江井島」を説明した石碑が建っていて、そこに彫られている文章は次のようになっている。

 むかし、江井島一帯は「嶋(ルビ=しま)」と呼ばれていました。この「嶋」に港をつくった行基(ルビ=ぎょうき)というお坊さんが、海上安全の祈とうをしている時、港の中にタタミ二枚ほどもある大きな「エイ」が入ってきました。村びとたちは、気味悪がってエイを追い払おうとしましたが、いっこうに去ろうとしません。行基がエイに酒を飲ませてやると、エイは、満足そうに沖へ帰っていきました。このことがあってから、だれいうとなく、「エイが向ってくる嶋-?向島(ルビ=えいがしま)」と呼ばれるようになったということです。
 また、江井島一帯はむかしから「西灘(ルビ=にしなだ)の寺水」と呼ばれる良い水の出るところとして知られています。そこで、「ええ水が出る井戸のある嶋」がつまって「江井島」になったともいわれています。

 江井ヶ島のことを「島」と呼ぶ言い方は、現在にも残っている。江井ヶ島の海岸でエイが釣れた経験はあるから、「エイが向ってくる嶋=?向島」という説は突飛ではないかもしれないが、「行基がエイに酒を飲ませてやると、エイは、満足そうに沖へ帰っていきました」というのはおとぎ話のように聞こえないでもない。東島の古刹・長楽寺に残る「長楽寺縁起」にこの話が書かれているようである。
 上記の話が長楽寺の創基の時期からの言い伝えとすると、「播磨風土記」などが作られた時代と大きく異ならない。風土記の地名伝承は、現代から見ると信憑性に乏しいような話もあるが、昔の人たちのものの考え方や感性に基づいて考えられたものであるとすると、一笑に付すようなことをしなくてもよいのではないかと思う。

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2019年7月11日 (木)

ふるさと江井ヶ島(12)

じしん【地震】


 筆者は第2次世界大戦中に生まれて、それ以来、ずっと同じところに住んでいる。当然のことであるが、1946年(昭和21年)12月21日に起きた昭和南海地震はかすかな記憶が残っている。けれども、地震だ!と言って家族みんなが驚いたというような程度であって、恐い思いをした記憶はない。戦後に鳥取で地震があったとか、福井で地震があったとかも聞いたが、わがことのようには思っていなかった。
 子どもの頃の、自宅近くの海岸は、まったく無防備な状態であったと言ってもよい。浸食は進んでいたが、道路のすぐそばまで砂浜があった。海岸にゴミが捨てられたり、海岸でゴミを燃やしたりしていたから、きれいな海岸とは言えなかったが、魚釣りも海水浴もした。裸で家を飛び出して、すぐ海に飛び込めた。
 台風の後、自宅近くの海岸のコンクリート道路がみごとに破壊されてしまっていた風景は目に焼きついている。荒波は遠慮なく海岸に襲いかかっていたように思う。
 和歌山で大水害があったときは、海岸に材木類が流れ着いてきて、大人たちが海岸に上げていたことがあった。調べてみると、1953年(昭和28年)7月のことのようである。
 要するに、幼かった頃に恐いと思っていたのは台風や暴風雨であって、地震ではなかったのである。

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2019年7月10日 (水)

ふるさと江井ヶ島(11)

さかぐら【酒蔵、酒倉】


 神戸市の灘区や東灘区で「灘の酒蔵探訪」という行事が、秋に行われている。酒蔵の公開はこの時期に限ったものではなく、ほとんどの酒蔵が一年中、見学者を受け入れているが、スタンプ・ラリーが秋の行事になっているのである。
 灘の酒蔵を見学しても、その蔵の中にあるものは、筆者にとっては、さして珍しいものではない。子どもの頃、江井ヶ島のあちこちにあった酒蔵の中をうろちょろしたことがある。寒い頃の風物詩だったと思うが、あちこちの広場(酒蔵の敷地内)では大きな桶が横に向けられて、並べてあった。この大桶は仕込みや酒の貯蔵のために使うものであるが、洗って干してあったのである。木でできた桶で、竹のタガがはめられていた。直径は子どもの背丈以上である。その大きな桶の中に腰を下ろして日向ぼっこをしたり、中で遊んだり、桶に上っていって桶にまたがったりした。転がして、少し位置を移動させるという悪戯もしたように思う。今にして思えば、不思議なことなのであるが、酒蔵の人から注意を受けたことはあるかもしれないが、怒鳴られたり追い出されたりという記憶はない。蔵人(ルビ=くらびと)と呼ばれる人たちは、冬季に丹波(ルビ=たんば)の方から来るのであるが、通年の従業員はたいてい地元の人であったというのが理由であったのかもしれない。酒蔵の中を徘徊できたのも、同じ理由からであろう。大桶は乾燥させるのが目的で、少しぐらい汚れても、次に使う時にきれいに洗浄したのであろう。

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2019年7月 9日 (火)

ふるさと江井ヶ島(10)

こどもぎんこう(子供銀行)


 戦後の一時代、「こども銀行」というのがあった。現在では、中学校や高校で模擬的に株式の売買をさせたりして金融の仕組みを知るという教育もあるようだが、「こども銀行」は、児童が銀行などと連絡して自主的に運営していた貯蓄制度である。すべての学校で行っていたのか、そうでないのかは知らない。1か月に1度か2度、「貯金の日」があったように思う。高学年になったとき、その貯金の係になる児童もいた。
 こども向けの専用の通帳が作られて、口座番号がつけられていた。簡単な記号や数字であったが、ある友だちに「B-29」の番号が割り当てられて、みんながオオーという声を上げた記憶がある。終戦から年月が経っていない頃のことで、戦闘機の型番と一致したのである。
 たぶん、児童がお金を運んだのではなく、銀行の方から取りに来てもらっていたのだろうと思う。小学校の職員室にあった電話機で、取っ手をグルグル回して電話局(江井ヶ島郵便局の中にあった)にかけて、電話番号を告げて神戸銀行江井ヶ島支店につないでもらって、銀行の方と話をした記憶がある。銀行との連絡も児童にさせていたのである。お金が集まったから取りに来てくださいというような内容を告げたのだろう。

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2019年7月 8日 (月)

ふるさと江井ヶ島(9)

こうか【校歌】


 筆者が小学生であった頃から今まで、江井島小学校の校歌は変わることなく歌い継がれている。1番の歌詞は、次のとおりである。

 波静かなる 瀬戸の内
 明石の浦の 磯づたい
 遠き祖先の 築きけん
 船瀬の跡さえ なお残る
 家並みにぎわう わが郷土
 ああ江井島 我らの誇り

 波穏やかな瀬戸内海の明石海岸にある江井ヶ島は、遠い遠い昔から祖先の人たちが生活を続けて、古い港も残っている。多くの人たちが甍を並べて住んでいる江井ヶ島は何と誇らしいところである。この校歌を歌えば、そのようなイメージが小学生の頭の中にも浮かんでくるのである。
 この校歌は、格調が高いけれども、どちらかと言えば難解である。古語が散りばめられ、古典文法に沿った言葉遣いになっている。例えば、過去の推量を表す古典の助動詞「けん」の正確な意味は、小学生にはとうていわからないだろう。「船瀬」は小学生が使うような国語辞典には載っていない。
 けれども、年配の卒業生でも歌詞は正確に口に出るから、言葉が身についてしまっている。現代語として使われにくい「船瀬」が船着き場であるということは小学生でも察しがつきそうである。「家並みにぎわう わが郷土」という誇らしさを支えにして、大声で歌う。むしろ、年齢を経るにつれて、校歌の意味がすこしずつ正確にわかるようになって、ますます愛着のある歌に感じられるのである。
 江井島小学校の校歌の2番の歌詞は、次のとおりである。

 名も美しき 赤根川
 流れをはるか 尋ぬれば
 明治四年に 創(はじ)まれり
 「精於萬(よろずにくわし)」と 横書きの
 文字珍しき わが校舎
 ああ江井島 我らの誇り

 赤根川は小さな川であるが、「茜」という言葉と発音が同じで、優雅な響きを持っている。「川」との縁語で「流れ」が使われているが、その「流れ」は川の流れから歴史の流れに置き換えられて、学校の歴史が詠まれていく。明治4年は郷学校の発足で、翌5年に小学校になった。けれども古い方の年号を出発点と見なしたのだろう。我が国最初の近代的学校制度を定めた教育法令である学制は、1872年(明治5年)8月に公布されている。
 当初の校名は江井島という地名ではなく貫道小学校である。儒教などの影響が強かったのだろう。「貫道」は、諸橋轍次著『大漢和辞典』によると「道理をよく悟る」という意味である。「貫道之器」という言葉もあって、それは文章のことを言う。文章は道をあらわし述べるものであるからである。
「精於萬(よろずにくわし)」というのは扁額に書かれている言葉であるから横に長いのである。右から左に向かって一文字ずつ書かれている。今は江井島小学校の体育館に掲げられている。「精」にはいろいろな意味があるが、明らかで詳しい、つまびらかである、こまかいという意味がある。また、正しい、美しいという意味もある。「萬」とは何かといえば、やはり、人たる道のことを言っているのではなかろうかと推察する。
 江井島小学校の校歌の3番の歌詞は、次のとおりである。

 未来(すえ)栄えゆく 人の世の
 礎(いしずえ)となる 良き子らよ
 広き世界を 結ぶべき
 平和の心を 高めんと
 いま誓い合う わが校歌
 ああ江井島 我らの誇り

 3番もすこし堅い言葉が使われているが、ここには江井ヶ島の地域独特の内容は歌われていない。「すえ」は末であるから、小学生にも、将来のことだと理解できるだろう。「いしずえ」の意味も成長するにつれて理解できるようになるだろう。
 ところで、この校歌がいつ制定されたかということについてであるが、筆者が小学生であった頃には、ずっと昔から歌われ続けてきた校歌であると思っていた。小学生にとっては古めかしい言葉が並んでいると感じることも、ひとつの理由であったかもしれない。
 江井島小学校の『百年のあゆみ』という冊子に、「百年のあゆみ」を略記した数ページがあるが、それを見ると、1952年(昭和27年)9月に「新作校歌発表音楽会を開催」とある。できてから星霜を経てきた校歌であるが、それでも、筆者が小学校に入学したときには旧の校歌が歌われていたことになる。4年生のときから歌われ始めたということになるのであるが、そのような「新しくできた校歌を歌い始めた」という印象はなかった。それ以前の校歌は頭の中のどこを探しても浮かんでこないのである。
 このような格調の高い校歌の作詞者は阪口保さんである。阪口さんは、1897年(明治30年)三重県の生まれで、1989年(平成元年)に92歳で没している。歌詞からも推察できるが、阪口さんは万葉集の研究者である。阪口さんは、旧制中学校を卒業した後、高等女学校の教員等をしながら、高等学校(旧制)教員国語科の免許を得ている。姫路高等女学校(後の姫路東高等学校)、加古川高等女学校(後の加古川西高等学校)を経て、戦後は神戸山手短期大学の教授を長く務め、同短大の名物教師として学長の地位まで上り詰めた。後には神戸市外国語大学でも教えた。独学で万葉研究を続け、『万葉集大和地理辞典』『万葉林散策』などの著書の他、『万葉地理研究・兵庫編』などの共著がある。歌人としても知られた阪口さんは、兵庫県歌人クラブの代表を長く務め、兵庫県文化賞も受賞している。歌集には『羈旅陳思』などがある。
 万葉の時代からの故地である名寸隅(江井ヶ島)と、万葉学者・歌人の発想とが結びついて江井島小学校校歌は生まれている。万葉の故地にふさわしい校歌の作詞者と言えるだろう。阪口さん55歳のときの作品である。
 校歌の作曲者は野村退蔵さんで、明石市立二見小学校の校長を務めた人である。野村さんは、地域の古謡や遊び歌などを情熱的に採譜した人だと言われている。
 言葉は万葉と結びつき、メロディは地域の古くからの歌心に裏打ちされているのが江井島小学校の校歌であると言ってもよいだろう。

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2019年7月 7日 (日)

ふるさと江井ヶ島(8)

ぎんこう【銀行】


 小学校の時には「こども銀行」という制度があったが、集まったお金を預けるのは、神戸銀行江井ヶ島支店である。神戸銀行は、太陽神戸銀行→太陽神戸三井銀行→さくら銀行→三井住友銀行と変遷するが、神戸銀行の時代でも有力な都市銀行であった。
 神戸銀行は1936年(昭和11年)に、当時の兵庫県内に本店をもっていた銀行のうち、資本金や預金高が大きく、堅実な業績を示していた神戸岡崎・五十六・西宮・灘商業・姫路・高砂・三十八の7つの銀行が合併して設立されたそうである。合併前の江井ヶ島支店は、明石市に本店を置いていた五十六銀行のものかもしれない。
 江井ヶ島支店は黒っぽい、風格のある建物であった。子どもから見れば店内の天井は高く見えた。昭和40年ごろ、神戸銀行の時代に江井ヶ島支店は廃止となった。その建物は地元の明石信用金庫が江井ヶ島支店として継承したが、しばらく経ってから別の場所に移転し、古い建物は取り壊された。
 江井ヶ島のようなところに都市銀行の支店があった理由は明確である。酒造業などで全国と取引のあった事業所が存在した江井ヶ島には銀行が必要であったのである。

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2019年7月 6日 (土)

ふるさと江井ヶ島(7)

きゅうしょく【給食】


 筆者にとって給食の思い出はいっぱいあるが、1年生のときから給食が始まっていたのかどうか、記憶はあいまいである。
 江井島小学校は、昭和24年の10月に学校給食指定校となり、11月に給食物資保管倉庫が完成し、12月から学校給食の充実が図られたようであるが、その内容は、いも汁、シチュー、みそ汁、肉汁、ミルクとなっていて簡素な感じがする。
 メニューはしだいに変化していったはずであるが、思い出したことがある。ある時期までは、ご飯を家から持っていって、おかずだけが給食であったという記憶がある。それがどのぐらいの期間続いたのか、記憶は薄らいでいる。また、コッペパンが給食に出ていた時期もある。たぶん、卒業するまではコッペパンが続いたのだろうと思う。パンは貴重品であるから、欠席した者には、近くの友達が自宅にパンを届けることをした。
 給食用の食器は、円くて背丈のある金属製のもので、ふた、おかず入れ、ご飯入れの3つを組み合わせたものだった。毎日、持っていって、持ち帰った。
 戦後の学校給食について語られるとき、脱脂粉乳をはじめとして、食べる気持ちが起こらないものが多かったという話がよく出てくる。けれども、学校給食がまずくて食べられなかったという記憶はなく、むしろ給食は楽しみであった。シチューというものを初めて食べたのは給食であった。脱脂粉乳が混じっていたかどうか知らないが、あの味と香りは好まれていた。
 あの給食を誰が作っていたのか、ということになると、しだいに専任の人になったと思うが、江井島小学校では、一時期、保護者が調理の当番をしていた。学校で母に出会って、今日は給食の当番で来ている日なんだと思ったことがあった。

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2019年7月 5日 (金)

ふるさと江井ヶ島(6)

かまくら


 1931年(昭和6年)4月18日、兵庫県明石市(当時は、まだ明石郡大久保町)の西八木海岸で、直良信夫氏が、古い人骨の一部を発見した。明石原人、明石人、西八木人骨などとも呼ばれる化石人骨は、第2次大戦中の1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲によって現物が焼失してしまう。数奇な運命をたどった人骨である。
 明石原人は現代的であるとして、原人ではなく縄文時代以降の新人であるという説が強まったが、1985年(昭和60年)には国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の春成秀爾助教授(当時)が中心になって、西八木海岸で発掘調査を行った。西八木海岸は江井ヶ島のすぐ東隣である。
 春成秀爾さんは、その著書『「明石原人」とは何であったか』(日本放送出版協会)で、明石原人の発掘、評価、再検討の道筋をたどって書いているが、その中に次のような記述がある。

 発掘基地は、現場から西一キロの明石市江井ヶ島にある「かまくら旅館」にした。初めは、現場近くの公共施設を借りて自炊するつもりだった。しかし、人数も多いし、期間も長い。困っていると、織田健一が、知合いの同旅館に声をかけてくれ、二つ返事で引き受けてもらった。乏しい予算しかない発掘調査団が、宿泊をのぞめる旅館ではなかった。ところが観光シーズンの端境期であったことと、地元のPRになる名誉なことだからと、経営者が破格の値で引き受けてくれた。聞けば若主人は、私とは中学、高校とも数年後輩であった。昔、明石に住んでいた人間が明石で仕事をするということが、すべてをうまく運ばせたのであった。数多くの発掘をこなしてきたというある大学院生は、毎日毎日、海の幸のご馳走に、「こんな極楽みたいな現場は初めて」と感想をもらした。

 春成秀爾さん、織田健一さん、筆者は、中学校、高等学校の同級生である。「かまくら旅館」の経営者は橘田さん(地元では「きった」と、促音で発音する)であるが、中学、高校の後輩ということが文章に書かれている。「海の幸のご馳走」という言葉があるが、当時は、漁協も今のように海苔養殖に傾斜しておらず、魚の水揚げも多かったと思われる。
 江井ヶ島は景勝の地であるが、交通事情の進化で、宿泊客が少なくなったからであろうか、明石市西部で随一の本格的な観光旅館であった「かまくら」は既に営業をやめてしまっている。

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2019年7月 4日 (木)

ふるさと江井ヶ島(5)

かぶしき【株式】


 江井ヶ島では、戦後(昭和20~30年代)の頃までは、江井ヶ嶋酒造株式会社のことを「かぶしき」と呼んでいた。それ以前から、この言葉は長く使われていたのだろう。株式会社という組織が珍しかった時代に設立されたので、社名を言うまでもなく、「かぶしき」と言えば、この会社のことであると了解されたのであろう。
 西宮市から神戸市に至る灘五郷に対して、明石市を中心とした酒造地帯を西灘と呼ぶことがある。江井ヶ嶋酒造は、地域の酒造家が合同して、明治初年に株式会社として設立したものである。
 日経ビジネス(編)『会社の寿命 盛者必衰の理』(新潮文庫)の巻末に「日本の会社ベスト100の変遷」という資料が掲載されている。明治29年(上期)の総資産額によるデータが掲載されているが、その80位に「江井ヶ島酒造」の名があがっている。この年トップの「鐘淵紡績」の総資産額が3284千円であるのに対して、「江井ヶ島酒造」は213千円となっている。
 江井ヶ嶋酒造は、日本酒のメーカーのように考えられているが、実際には各種の酒類を醸造する総合的な会社である。このような会社は兵庫県内では唯一で、全国的に見ても珍しいと思われる。
 『江井ヶ嶋酒造株式会社百年史』の巻末にある「年表」によれば、江井ヶ嶋酒造株式会社の発起人会が開催され、会社設立願書が知事に宛てて提出されたのは1888年(明治21年)のことで、この年の6月11日に設立の許可が出ている。資本金3万円で会社が設立された。1888年は神戸-姫路間の山陽鉄道(後に国有化)が開通した年で、翌1889年には大日本帝国憲法が公布されている。
 日本初の株式会社は、国立銀行条例に基づき1873年(明治6年)7月20日に設立された第一国立銀行だと言われている。また、一般的な会社法規である商法に基づき設立された日本で最初の株式会社は、1893年(明治26年)に設立された日本郵船だとも言われている。
 この会社を「かぶしき」と呼ぶのは、周辺を探しても株式会社など無かった時代の、郷土自慢の誇らしさが詰まった言葉であったと思う。江井ヶ島に有力な銀行の支店があったことは何の不思議もない。
 江井ヶ嶋酒造株式会社は、その時から、ただの一度も社名を変更することなく、また、本社所在地を他の土地に移すことなく、今日まで続いている。
 『江井ヶ嶋酒造株式会社百年史』、主要製品として、次のものが挙げられている。右側は商品名。
  清  酒   神鷹、日本魂
  合成清酒  百合正宗
  焼  酎   白玉焼酎、むぎ焼酎福寿天泉
  味  醂   白玉本みりん
  ウイスキー  ホワイトオークウイスキー
  ブランデー  シャルマンブランデー
  果 実 酒   シャルマンワイン、白玉ワイン
  リキュール  白玉梅酒
  雑  酒 福建老酒
 言うまでもないことであるが、同じ商品名のもとに、さまざまな等級や容量のものが作られている。日本酒の銘柄はかつて日本魂(ルビ=やまとだましい)が中心であったが、現在は、東京方面で人気のあった神鷹(ルビ=かみたか)を中心的な銘柄として推進している。
 若山牧水に「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ」という歌があるが、酒と「白玉」という言葉の関連性は深く、焼酎、味醂、ワイン、梅酒にこの言葉を用いている。

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2019年7月 3日 (水)

ふるさと江井ヶ島(4)

えいがしま【江井ヶ島】


 「えいがしま」という地名の文字遣いについては、行政上は「江井島」を使うが、「江井ヶ島」も駅名や郵便局名をはじめとして多く使われている。
 本来は江井ヶ島であるが、今では江井島が優勢である。兵庫県内には「ヶ」を入れない尼崎(ルビ=あまがさき)市という表記があるが、関東では「ヶ」を入れた神奈川県茅ヶ崎(ルビ=ちがさき)市や茨城県龍ヶ崎(ルビ=りゅうがさき)市がある。山の名前では、全国的に槍ヶ岳、駒ヶ岳、笠ヶ岳など「ヶ」を入れた表記が優勢である。
 古くから使われ続けている名称には「ヶ」を入れたのが残っている。山陽電気鉄道・本線には「江井ヶ島」駅と「西江井ヶ島」駅がある。
 1951年(昭和26年)に旧・明石市と、大久保町・魚住村・二見町の西部3町村の合併時に始まった明石市営バスは、2012年には民営に完全移行して、現在は神姫バスと山陽バスが市内の路線を継承している。それとは別に、「Taco(たこ)バス」と呼ばれるコミュニティバス(民営で受託)がある。バスのルート名のひとつを「江井ヶ島ルート」と言うが、バス停名は「江井島港」となっていて、表記が混在している。
 行政は、明石市立江井島小学校・江井島中学校や江井島保育所をはじめとしてすべて「江井島」に統一している。小学校の名前は、戦後の昭和20年代から既に「江井島」であった。会社・商店などの名前には両方があるが、「神鷹」の銘柄等で知られる老舗酒造メーカーは「江井ヶ嶋酒造」という文字遣いである。

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2019年7月 2日 (火)

ふるさと江井ヶ島(3)

うんどうかい【運動会】


 終戦から数年経った頃に小学校に入学した筆者は、明石市立江井島小学校の秋の運動会のときに次のような歌を歌った。

屏風ヶ浦の 秋たけて
 海にも波の 花が咲き
 野には千草の 色萌えて
 眺め優れし わが庭よ

 「江井ヶ島から東に続く屏風ヶ浦海岸がすっかり秋になって、海上の波はまるで花が咲き乱れているようだ。海だけではなく野原にもいろいろな花が咲き乱れていて、素晴らしい眺めである。小学校の校庭はそんなところにあるのだ」という意味である。
 この内容では校区の様子や校庭を賛えるのようであるが、その校庭で繰り広げられる運動会を喜び合う歌であり、気持ちを鼓舞する歌でもある。
 筆者が小学生の頃の運動会は9月に実施しないで、10月であった。運動会の日の楽しみである弁当と結びつくのは、栗や梨などの季節感であった。じゅうぶんに秋らしくなってから運動会が開かれていたのである。
 この歌はメロディが印象的で、今でも秋になったら思い出すし、歌うこともできる。けれども、記憶にあるのは、この1番の歌詞だけである。
 江井島小学校の『百年のあゆみ』には、この歌が紹介されている。そこには2番も3番の載っているが、2番や3番を歌った記憶は残っていない。
 2番と3番の歌詞は次のとおりである。

 空いと清く 気は澄みて
 スプーンレースに かけくらべ
 ダルマ送りに 綱引きと
 我らが胸は さやかなり

 いざ皆来たれ 我が友よ
 日ごろ鍛えし この腕を
 示さん時は 今なるぞ
 あわれ楽しき 運動会

 小学生の時代は、子どもたちがいろんな遊びを始めるときに、「戦闘ー開始ーっ!」と言って始めることをしていた。終戦後の日も浅い頃には、その言葉の意味の重さなどおかまいなしに、この言葉を使っていたように思う。この歌の3番の歌詞にもそのような気配を感じる。

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2019年7月 1日 (月)

ふるさと江井ヶ島(2)

あなもん【穴門】


 鉄道線路の下を潜るトンネルで、内側には赤レンガなどが張られ、形はアーチ式である。人だけが通って、車が通るようにはできていない。
 阪神間にも明石にも同様のものがある。谷崎潤一郎の『細雪』の中には「マンボウ」という言葉が使われているが、「あなもん」と同じもののことを指しているようである。また、鉄道以外でも、高くなっている道路の下や、農業用水路の下を潜るものも、狭く細いものであれば「あなもん」と言っておかしくないと思われる。「あなもん」は、文字通り穴のような感じがして、閉塞感があり、狭く鬱陶しい通り道である。
 神戸市中央区の元町駅前に穴門商店街がある。JR山陽本線(神戸線)の南側であるが、昔は今のような高架線のガードでなくて、線路の下が穴門のようになっていたのかもしれない。

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