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2019年7月14日 (日)

ふるさと江井ヶ島(15)

しろ【城】


 兵庫県の城の代表格は世界遺産でもある国宝・姫路城であり、明石市の城と言えば明石城で、あたり一帯は兵庫県立明石公園になっている。ところで、江井ヶ島にも城があった。魚住城である。今、魚住城跡には明石市教育委員会が説明板を設置しており、次のように書かれている。

 一 魚住城は南北朝時代に赤松氏の一族である魚住長範によって魚住町中尾に築かれた。
 一 天正六年(一五七八)、魚住頼治は毛利軍が三木城へ兵糧を運ぶ基地として西嶋の丘に柵を巡らし新しい城を構えた。天正八年(一五八〇)に、三木城の廃城とともに廃絶した。
 一 平成十年の発掘調査で魚住城の堀割の一部と考えられる遺構が見つかり、ここに城があったことが確認された。

 別所長治は、織田信長に叛いて毛利元就についたが、別所を攻める羽柴秀吉軍と三木合戦になった。別所氏についた魚住氏が、兵糧攻めにあっている友軍に兵糧物資を輸送するための補給基地としたのが魚住城である。
 江井ヶ島は前面に海があるが、山らしいものはない。魚住城は平城である。海路からの交通には恵まれているが、北に離れた三木城にどのように兵糧を運んだのだろうか。子供の頃には「魚住城から三木までトンネルが掘られていて、物資を運んだのだ」という説がまことしやかに流布しており、江井ヶ嶋酒造株式会社の敷地の西側、断崖のようになっているところがトンネルの入り口だという者もいたが、これは大人たちも信じている説だったのだろうか。今ではそんなことを信じている人はいない。
 説明板が設置されているのは住宅地の真ん中で、小さな児童公園になっているところであるが、筆者の記憶では、ずっと以前は、この地点より少し南の坂道に「魚住城跡」という木柱が立っていたように思う。発掘調査によって堀割の一部が発見されて、遺構の位置がずらされたのかもしれない。

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