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2019年7月 5日 (金)

ふるさと江井ヶ島(6)

かまくら


 1931年(昭和6年)4月18日、兵庫県明石市(当時は、まだ明石郡大久保町)の西八木海岸で、直良信夫氏が、古い人骨の一部を発見した。明石原人、明石人、西八木人骨などとも呼ばれる化石人骨は、第2次大戦中の1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲によって現物が焼失してしまう。数奇な運命をたどった人骨である。
 明石原人は現代的であるとして、原人ではなく縄文時代以降の新人であるという説が強まったが、1985年(昭和60年)には国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の春成秀爾助教授(当時)が中心になって、西八木海岸で発掘調査を行った。西八木海岸は江井ヶ島のすぐ東隣である。
 春成秀爾さんは、その著書『「明石原人」とは何であったか』(日本放送出版協会)で、明石原人の発掘、評価、再検討の道筋をたどって書いているが、その中に次のような記述がある。

 発掘基地は、現場から西一キロの明石市江井ヶ島にある「かまくら旅館」にした。初めは、現場近くの公共施設を借りて自炊するつもりだった。しかし、人数も多いし、期間も長い。困っていると、織田健一が、知合いの同旅館に声をかけてくれ、二つ返事で引き受けてもらった。乏しい予算しかない発掘調査団が、宿泊をのぞめる旅館ではなかった。ところが観光シーズンの端境期であったことと、地元のPRになる名誉なことだからと、経営者が破格の値で引き受けてくれた。聞けば若主人は、私とは中学、高校とも数年後輩であった。昔、明石に住んでいた人間が明石で仕事をするということが、すべてをうまく運ばせたのであった。数多くの発掘をこなしてきたというある大学院生は、毎日毎日、海の幸のご馳走に、「こんな極楽みたいな現場は初めて」と感想をもらした。

 春成秀爾さん、織田健一さん、筆者は、中学校、高等学校の同級生である。「かまくら旅館」の経営者は橘田さん(地元では「きった」と、促音で発音する)であるが、中学、高校の後輩ということが文章に書かれている。「海の幸のご馳走」という言葉があるが、当時は、漁協も今のように海苔養殖に傾斜しておらず、魚の水揚げも多かったと思われる。
 江井ヶ島は景勝の地であるが、交通事情の進化で、宿泊客が少なくなったからであろうか、明石市西部で随一の本格的な観光旅館であった「かまくら」は既に営業をやめてしまっている。

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