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2019年8月31日 (土)

【掲載記事の一覧】

 このブログは2006年8月29日に開設しましたから、まる13年が過ぎました。1日の休載もなく、毎日書き続けてきました。
 現在までの掲載記事数は5900本を超えました。アクセス数も59万回を超えました。前にも書きましたが、平均すると、ひとつの記事を100人の方に見ていただいているという計算になります。
 1年以上にわたって書き続けた「言葉の移りゆき」は、昨日で一区切りとします。
「明石日常生活語辞典」は2605回に達しましたが、それも終了しました。
 これからしばらくは、方言について書くことにします。
 ブログをお読みくださってありがとうございます。
 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。
    gaact108@actv.zaq.ne.jp
 これまでにブログに連載した記事を、内容ごとに分類して、一覧を記します。掲載日をもとにして検索してください。

【日本語に関する記事】

◆言葉の移りゆき (1)~(468)
    [2018年4月18日 ~ 2019年8月31日]

◆日本語への信頼 (1)~(261)
    [2015年6月9日 ~ 2016年7月8日]

◆言葉カメラ (1)~(385)
    [2007年1月5日 ~ 2010年3月10日]

◆新・言葉カメラ (1)~(18)
    [2013年10月1日 ~ 2013年10月31日]

◆ところ変われば (1)~(4)
    [2017年3月1日 ~ 2017年5月4日]

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (1)~(29)
    [2007年1月1日 ~ 2009年6月4日]

◆現代の言葉について考える (1)~(7)
    [2007年7月1日 ~ 2007年7月7日]

◆文章の作成法 (1)~(7)
    [2012年7月2日 ~ 2012年7月8日]

◆自分を表現する文章を書くために (1)~(11)
    [2007年10月20日 ~ 2007年10月30日]

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (1)~(4)
   [2006年12月23日 ~ 2006年12月26日]

◆地名のウフフ (1)~(4)
    [2012年1月1日 ~ 2012年1月4日]


【兵庫県明石市などの方言に関する記事】

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 (1)~(2605)
    [2009年7月8日 ~ 2017年12月29日]

◆『明石日常生活語辞典』写真版 (1)~(4)
    [2010年9月10日 ~ 2011年9月13日]

◆じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-
                        (1)~(9)
    [2017年12月30日 ~ 2018年1月7日]

◆私の鉄道方言辞典 (1)~(17)
    [2007年9月13日 ~ 2007年9月29日]

◆暮らしに息づく郷土の方言 (1)~(10)
    [2007年8月11日 ~ 2007年8月20日]

◆兵庫県の方言 (1)~(4)
    [2006年10月12日 ~ 2006年10月15日]

◆姫路ことばの今昔 (1)~(12)
    [2007年9月1日 ~ 2007年9月12日]

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (1)~(42)
    [2007年2月1日 ~ 2007年5月7日]


【郷土(明石市の江井ヶ島)に関する記事】

◆名寸隅の船瀬があったところ (1)~(5)
    [2016年1月10日 ~ 2016年1月14日]

◆名寸隅の記 (1)~(138)
    [2012年9月20日 ~ 2013年9月5日]

◆朔日・名寸隅 (1)~(19)
    [2009年12月1日 ~ 2011年6月1日]

◆江井ヶ島と魚住の桜 (1)~(6)
    [2014年4月7日 ~ 2014年4月12日]

◆西島物語 (1)~(8)
    [2008年1月11日 ~ 2008年1月18日]

◆名寸隅舟人日記 (1)~(16)
    [2016年1月1日 ~ 2016年4月2日]

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]


【『おくのほそ道』に関する記事】

◆『おくのほそ道の旅』【集約版】 (1)~(16)
    [2018年3月18日 ~ 2018年4月2日]

◆『おくのほそ道』ドレミファそら日記【集約版】 (1)~(15)
    [2018年4月3日 ~ 2018年4月17日]

◆奥の細道を読む・歩く (1)~(292)
    [2016年9月1日 ~ 2018年3月17日]


【江戸時代の五街道に関する記事】

◆中山道をたどる (1)~(424)
    [2013年11月1日 ~ 2015年3月31日]

◆日光道中ひとり旅 (1)~(58)
    [2015年4月1日 ~ 2015年6月23日]

◆奥州道中10次 (1)~(35)
    [2015年10月12日 ~ 2015年11月21日]


【ウオーキングに関する記事】

◆放射状に歩く (1)~(139)
[2013年4月13日 ~ 2014年5月9日]

◆新西国霊場を訪ねる (1)~(21)
[2014年5月10日 ~ 2014年5月30日]

◆ことことてくてく (1)~(26)
    [2012年4月3日 ~ 2012年5月3日]

◆テクのろヂイ (1)~(40)
    [2009年1月11日 ~ 2009年6月30日]


【国語教育に関する記事】

◆国語教育を素朴に語る (1)~(51)
    [2006年8月29日 ~ 2007年12月12日]

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 (0)~(102)
    [2008年2月25日 ~ 2008年7月20日]

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日 ~ 2006年10月4日]

◆これからの国語科教育 (1)~(10)
    [2007年8月1日 ~ 2007年8月10日]

◆高校生に語りかけたこと (1)~(29)
    [2006年11月9日 ~ 2006年12月7日]

◆高校生に向かって書いたこと (1)~(15)
    [2006年12月8日 ~ 2006年12月22日]


【教員養成に関する記事】

◆教職課程での試み (1)~(24)
    [2008年9月1日 ~ 2008年9月24日]

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日 ~ 2006年10月11日]

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (1)~(18)
    [2006年10月16日 ~ 2006年11月2日]

◆教職をめざす若い人たちに (1)~(6)
    [2007年6月1日 ~ 2007年6月6日]


【花に関する記事】

◆写真特集・薔薇 (1)~(31)
    [2009年5月18日 ~ 2009年6月22日]

◆写真特集・さくら (1)~(71)
    [2007年4月7日 ~ 2009年5月8日]

◆写真特集・うめ (1)~(42)
    [2008年2月11日 ~ 2009年3月16日]

◆写真特集・きく (1)~(5)
    [2007年11月27日 ~ 2008年11月13日]

◆写真特集・紅葉黄葉 (1)~(19)
    [2007年12月1日 ~ 2008年12月15日]

◆写真特集・季節の花 (1)~(3)
    [2007年5月8日 ~ 2007年6月30日]


【鉄道に関する記事】

◆鉄道切符コレクション (1)~(24)
    [2007年7月8日 ~ 2007年7月31日]


【その他、いろいろ】

◆神戸圏の文学散歩 (1)~(5)
    [2006年12月27日 ~ 2006年12月31日]

◆百載一遇 (1)~(6)
    [2014年1月1日 ~ 2014年1月30日]

◆茜の空 (1)~(27)
    [2012年7月4日 ~ 2013年8月28日]

◆消えたもの惜別 (1)~(10)
    [2009年9月1日 ~ 2009年9月10日]

◆母なる言葉 (1)~(10)
    [2008年1月1日 ~ 2008年1月10日]

◆足下の観光案内 (1)~(12)
    [2008年11月14日 ~ 2008年11月25日]

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

◆小さなニュース [2008年2月28日]

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや (1)~(13)
    [2009年1月1日 ~ 2010年1月3日]

◆1年たちました (1)~(7)
    [2007年8月21日 ~ 2007年8月27日]

◆明石焼の歌 (1)~(3)
    [2007年8月28日 ~ 2007年8月30日]

◆失って考えること (1)~(6)
    [2012年9月14日 ~ 2012年9月19日]

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言葉の移りゆき(468)

文字言葉と音声言葉は、性質が異なる


 同じ日本語ですが、文字として書き表す場合は何度でも読み返して推敲できますが、音声で表現する場合は訂正しにくい場合が多くあります。文字は読み返して確認できますが。音声は発した自分でも何を言ったか正確に再現することが難しい場合があります。
 こんな文章を読みました。


 ことばって、伝わらないですね。こう言うと、多くの人は同意してくれます。
 「本当にそうですね。ことばって、伝わらないこともありますよね。」
 ほら、もうすでに伝わっていません。私は「ことばって、伝わらないですね」と言ったのです。でも、「伝わらないこともありますよね」と返されました。私は全否定の表現をしましたが、聞き手は部分否定と受け取ったようです。
 (飯間浩明『つまずきやすい日本語』、NHK出版、2019年4月30日発行、96ページ)

 私は方言を研究しています。方言研究は、話し言葉を対象にしています。日常的に使っている方言を、文字に表すことはあまりありません。
 ふだん話をしている場合は、「ことばって、伝わらないですね」という発言と「ことばって、伝わらないこともありますよね」という発言とを厳格に区別しているでしょうか。文字に記された場合は、その違いを意識しますが、会話をしている場合にそこまで意識して意味の違いを荒立てることはしないでしょう。こんなことを一つ一つ峻別していたら会話は成り立たなくなってしまいます。文字言葉と音声言葉は役割が異なると言ってもよいのではないでしょうか。
 この筆者が新聞に連載している「街のB級言葉図鑑」の中には、本来は音声言葉であるような宣伝文句を、たまたま文字で書かれているからという理由で、きちんとした文字言葉であると見なして、論じていることも多いように思います。

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2019年8月30日 (金)

言葉の移りゆき(467)

「倶楽部」「画廊」「荒れる源」


 外来語をそのままカタカタ書きにして表記しようとするのが現在の風潮です。クラブを「倶楽部」という文字にあてたり、ギャラリーを「画廊」と書いたりするのは、楽しいことではありませんか。かつては、外来語を自然な言葉として日本語の中に取り入れようとしたのです。
 こんな記事を読みながら、考えました。


 食物アレルギーがある子どもでも安心して給食が食べられるよう、大阪府箕面市が1月から、少中学校全20校約1万2千人分の給食のおかずに卵、乳、小麦などの代表的なアレルギー源を使うのをやめた。 …(中略)…
 「低アレルゲン献立」と名付けた給食を導入したきっかけは、東京都調布市の小学校で2012年、誤ってチーズ入りチヂミを食べた児童が亡くなった事故だ。 …(中略)…
 卵抜きや小麦抜きなど、何種類もの「除去おかず」を作っていたが、対象外のおかずを誤って食べるリスクもあった。おかずは数種類のアレルギー源を抜いた1種類に統一した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月24日・夕刊、3版、7ページ、柳谷政人)

 この記事の見出しは、「安心 給食 おいしいね / 箕面市 低アレルゲン献立 / 卵・乳など7品目除く」となっています。

 記事の文章には、「アレルギー源」とか「低アレルゲン」という言葉が見られます。文字数削減に目の色を変える新聞のことですから、そのうちに、「アレル源」とか「アレル減」とかの言葉が現れるかもしれません。
 もしそういう表現をするのなら「アレル」の部分も日本語化して「(体内の)荒れる源」とか「荒れる減(の献立)」とかにするのもよいのではないかと思います。

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2019年8月29日 (木)

言葉の移りゆき(466)

「京滋」という地名


 府県名や都市名を2つあるいは3つ、結びつけた言い方は広く行われています。関西には、京阪神や阪奈和や、京阪、阪神、神明、明姫、阪和などという呼び方が広く行われています。
 こんな記事を見ました。


 京都と滋賀は、府県庁所在地が電車で10分。唯一無二の関係だ。だからって「京滋」とまとめます? 読み方は「けいじ」。じ、じ、けいじですよ!
 阪神や京阪、京浜など、都市を結ぶ時に1文字を並べるが、京滋は府県同士。京滋バイバスは有名だが、始点は大津市。東海や山陰といったまとまり感もない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月30日・夕刊、3版、2ページ、「まだまだ勝手に関西遺産」、中塚久美子)

 全国高校野球は、現在は各都道府県から代表校が出場しますが、ずっと昔は、2県で1代表という時代もありました。そんな時代の地域名で、私の頭に残っているのに、山静(山梨と静岡)、三岐(三重と岐阜)、紀和(紀伊・和歌山と、大和・奈良)、京滋などです。現在は山静という結びつきはないでしょうが、三岐というのは三岐鉄道などという社名に残っています。
 鉄道で言うと、江若鉄道(近江と若狭)、京福電鉄(京都と福井)や、越美南線・北線(福井・越前と岐阜・美濃)などの地名もありましたが、それは沿線の地名であって、府県全体を総括した地名ではありませんでした。
 そのように考えると、府県をまとめた「京滋」は、「京阪神の3府県」(京都府・大阪府・兵庫県)などという言い方と似ています。
 この記事は、「京滋」という呼び方を「関西遺産」、すなわち関西特有の言い方のように考えているようですが、そうとは言えない面もあると思います。
 今はどうかも知れませんが、かつて、千葉と茨城をまとめて「ちばらぎ」と言うのを聞いた(文字表記も見た)ことがありますが、今はどうなっているのでしょうか。

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2019年8月28日 (水)

言葉の移りゆき(465)

宣伝チラシ化する新聞


 教育を行う中心的な機関は学校です。ところが、新聞などが教育や指導を論じるときに、学校関係者などを抜きにしてしまうことが多くなっています。


 2学期になると、入試までのカウントダウンが始まります。学校行事の傍ら、塾に模試に過去問対策……。限られた時間をどう使えばよいのでしょうか。専門家3人に聞きました。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月25日・朝刊、EduA1ページ)

「学校行事の傍ら、塾に模試に過去問対策……。」という言葉は、学校での指導を中心に考えていないことは明らかです。社説などでは教育の根本原理などを論じておきながら、具体的な内容になると学校無視の論調です。
 このページには、大学受験、高校受験、中学受験について、月ごとのスケジュール表が載せられています。
 その「専門家3人」は、次のページで紹介されていますが、こんな肩書きです。

 中学受験カウンセラー・(A)さん
 学習アドバイザー・(B)さん
 子ども4人を東大理Ⅲに合格させた・(C)さん

 もちろん、(A)(B)(C)にはきちんと名前が書かれています。私は知りませんが、有名人なのでしょう。
 この紙面には連載として「国語のチカラ」というのがあって、国語教室(東京都)主宰という肩書きの(D)さんの考えが披瀝されています。私の専門は国語教育ですが、(D)さんの考えは、国語という教科の根本的な指導に関わることではなく、要するにテストの得点を上げることに重点が置かれています。
 これらの紙面に書かれていることは、要するに学校教育が目指していることとは違って、得点を上げる、合格するという一点に絞られていると思います。
 3人の考えを元にして作った、月ごとのスケジュールは、個人的な嗜好に過ぎないと思いますが、そういうものを大きく宣伝しているのです。
 言い訳の言葉が聞こえてきます。「これはあくまで3人の方々の意見を参考にして作ったまでです。受験生は利用できると思われる部分を活用してくださればよいのです。」と。
 毎日のように折り込まれる学習塾などの宣伝チラシと変わらないようなものを、新聞が紙面の一部として(別刷りで)配付しているのです。
 新聞の紙面の全体的な信頼性などは考えずに(言い換えれば、教育の根本のことは考えずに)、教育というものを話題にしてチラシを作っているようなものであると思います。
 大学受験のことを一見、正面から論じる一方で、大学の合格者の人数を報道して週刊誌の売り上げを伸ばそうと考えている新聞社ですから、何の不思議もないことではありますが……。

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2019年8月27日 (火)

言葉の移りゆき(464)

清音に濁点を付ける書き方は「すぐれた発明」か

 「あ」という発音は、人によりさまざまです。まったく同じ発音をする人はいないでしょう。その発音の異なりを文字で表現することなどは不可能です。
 こんな文章を読みました。


 栃木・鬼怒川温泉に立つ野外看板です。〈あ゛~〉と大きな字で書いてあります。お風呂でくつろいだときに出る「あー」という声。これを濁点によって表しています。 …(中略)…
 「あ」にもいろいろな音色があります。普通の「あ」は声帯を閉じて、ぶるぶる震わせて発音します。一方、お風呂でリラックスしたときの「あ」は、声帯を少し緩ませて発音します。これが「あ゛」です。
 あるいは、いわゆるダミ声を「あ゛」で表す場合もあります。驚いたり困ったりしたとき、思わず声帯を緊張させて発音するのが「あ゛」です。同様に「え゛っ」もダミ声の発音と考えられます。 …(中略)…
 日本語に新しい音が誕生したように見えます。でも、実際は、昔からあったダミ声などの音を、濁点によって明示したのです。「あ゛」は、表記上のすぐれた発明でした。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月24日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「あ」に濁点を付けた文字は、ワープロソフトにはありません。「あ゛」という2文字分で書きますが、新聞は1字分の文字を作っています。
 昔は鼻濁音が広く行われていました。鼻濁音を「か゜」「き゜」「く゜」「け゜」「こ゜」のように(これも1字分で)半濁音で書くという習慣がありました。
 私は鬼怒川温泉の野外看板にどのような文字が使われていたとしても構わないことだと思います。それは、広告の文字の工夫です。
 問題は、それを「表記上のすぐれた発明」だとする意識です。引用した文章に納得した人はどの程度いたのでしょうか。何でも数値化するのが得意な新聞社ですから、この記事についてのアンケートを実施してほしいと思います。
 「お風呂でリラックスしたときの『あ』は、声帯を少し緩ませて発音します。これが『あ゛』です。」などというのは、まったく個人的な判断に過ぎません。「いわゆるダミ声を『あ゛』で表す場合もあります。驚いたり困ったりしたとき、思わず声帯を緊張させて発音するのが『あ゛』です。」というのも、個人的な判断に過ぎません。まるで「あ゛」という表記が広く行われているような書きぶりです。
 こんなことを言われても、千差万別の「あ」の発音を、「あ」と「あ゛」の表記に分けることはできません。
 これが文学者の意見であるのなら、面白い意見だと思います。けれども、国語辞典編纂者からこんな考えを聞くと、国語辞典を信頼する気持ちが抜け落ちてしまいそうな気持ちになります。「街のB級言葉図鑑」の連載内容は、個人的な考えに基づく内容が多かったと思いますが、今回はその極端な現れであると思います。
 読者からはいろいろな意見が届いていることだろうと思います。そんな読者の意見を無視して、今後も連載は続いていくのでしょうか。

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2019年8月26日 (月)

言葉の移りゆき(463)

見出しのカギカッコ(「 」)の中に、句点(。)を付ける


 珍しい新聞見出しを見ました。引用のカギカッコ(「 」)の中に読点(、)があるのはよく見ますが、句点(。)を入れるのは、よほど長い見出しでなければ、見かけることはありません。短い見出しで、このような書き方であると、どういう意味であるのか、理解に戸惑ってしまいます。
韓国が日本との軍事情報包括保護協定を破棄すると決めたというニュースに関わる記事です。


 「仲良く。願うだけ」 大阪の韓国人ら
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月23日・夕刊、3版、1ページ、見出し)

 意味はわからないわけではありません。「仲良く」と「願う」の言葉の関係もわかります。「仲良くと願うだけだ」という意味でしょう。けれども、その言葉の間に句点(。)を置くのは不自然です。
 この見出しと関係がありそうな本文を探すと、次のような表現があります。


 JR鶴橋駅近くでカバン店を営む韓国人男性(36)は …(中略)… 「私たち商売人は仲良くなってほしいと願うだけ。関係悪化が長引いているから心配だ」と話した。

 記事は正しい言葉遣いであるのに、見出しがおかしい表現になっていることが、最近は目につきます。新聞は時間と競走しながら紙面を作っていることはわかりますが、おかしな日本語表現だけは避けてほしいと思います。

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2019年8月25日 (日)

言葉の移りゆき(462)

「都道府県代表」という偽り


 甲子園の全国高校野球選手権大会が終わりました。優勝した履正社高校、準優勝の星稜高校、おめでとうございます。
 出場校はそれぞれの都道府県の代表校でした。かつて、熊本県代表になった学校は、熊本県出身者がひとりもいない(あるいは、ひとりしかいない、であったかもしれません)という状況で、これで県代表と言えるのかと話題になったことがありました。新聞には、各都道府県の予選出場校数が書かれたりします。そして、その校数を元に北海道や東京は2地区に分けられていると思います。「都道府県代表」という言葉が空転しているのです。
 毎年のことですが、有力な私立高校は、全国から選手を集めているという記事が、繰り返して出ます。新聞は、それを当然のように書いています。履正社高校の選手も大阪府出身とほぼ同数の兵庫県出身者がいると書かれていました。私立高校には学区がありませんから、入学生がどこからであろうと問題はありません。しかし、それがそのまま、スポーツ大会の都道府県代表になるというのは疑問です。
 全国から選手を集めている学校は、そのような学校が集まっての予選会をすべきでしょう。第101回大会の代表校のうち、公立校は10校に満ちませんが、それらの学校こそが真の都道府県代表です。(私立高校の中でも、県内出身者が大半を占めている学校があるかもしれません。) ベンチ入りする人数の過半数が他の都道府県出身者である学校は、それらの学校を集めて予選を行い、「全国区」とか「首都圏区」「関西区」とかの代表にすればよいのです。
 高校スポーツは教育の一環です。強くするためには方法を選ばないということには賛成できません。地元の生徒を集めて、スポーツで鍛錬するという基本線を忘れないようにすべきだと思います。「都道府県代表」という言葉を、その言葉どおりに守るのも、スポーツの精神の一つであると思います。
 上記のようにしても、履正社高校、星稜高校の優勝、準優勝は変わらなかったでしょう。けれども、都道府県代表にはもっと多くの公立学校が加わっていたはずです。
 全国高校野球大会は、新聞社や有力高校の宣伝媒体ではありません。地元を重視した教育の要素を深めてほしいと思うのです。

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2019年8月24日 (土)

言葉の移りゆき(461)

手帳にメモをする記者


 取材をしている相手がじっと考え込んで何も言葉を発しないのを、そのままカメラを回し続けているドキュメンタリー番組があります。ドラマでは、このような場面はありません。効率よく場面を切り取って、次の場面へと展開していきます。
 ドラマで、刑事が被疑者に向かって警察手帳を見せる場面があります。さっと見せてさっと引っ込める。相手は何も確認できない素早さです。現実にはありえないと思われるような場面を、しばしば見せられます。刑事が何かを書き付けるのは手帳です。ほんとうにそうなのだろうかと思います。
 視聴者にそれで納得させられるのなら、型にはまった仕草で描こうとしているのです。
 こんな文章を読みました。


 気になっていることがある。テレビドラマに「記者」が登場すると、必ずと言っていいほど手帳にメモしていることだ。私は十数年間、記者を続けているが、現場で手帳にメモしている記者なんて見たことがない。どの記者も、大抵使うのは大学ノートだ。小さな手帳ではすぐに書ききれなくなり、仕事にならない。
 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年6月19日・夕刊、5ページ、「ザッピング」、小林祥晃)

 そのような仕草だけではありません。言葉遣いも型にはまったものが使われることが多いと思います。「増収を目指して、田の草取りに励むお百姓さん」、「新しい味を作り出して、提供しようとしている食堂の店主」、「挫折から奮起して、新しい事業に意欲的に取り組もうとしている若者」……。実際がどうであろうと、そのような言葉で報じようとする記事や番組もあります。
 ドキュメンタリー番組では、次にどのような言葉が発せられるのか、息を呑むように注目することがあります。ドラマにはそのような場面がありません。どのように展開し、どのような結末を迎えるのかということに関心は持ちますが、次の一言や行動をじっと待つ時間がありません。そんな待ち時間が惜しい、というふうに、型にはまった仕草や言葉で展開していってしまうのです。

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2019年8月23日 (金)

言葉の移りゆき(460)

歯止めが利かなくなる外来語の「意味」


 商品の宣伝のために、外来語の意味がつぎつぎと拡大して使われることがあります。その宣伝文句を見て、新聞・雑誌・放送などがそのまま使うことがあります。そうすると、一般の人は、そういう意味で使ってよいのだという意識を持って使うことになります。
 一例として、「クラフト」という言葉があります。クラフトとは、工芸とか工芸品という意味です。手仕事によって作られるものです。
 商品の宣伝文句として「手作り」という言葉が使われますが、本当に一つ一つ手作りしているのか疑わしいものにも、この言葉が使われます。手作りハムだの手作り豆腐だの、店頭にはこの言葉があふれています。食べ物は工芸品ではありませんが、クラフトビールなどという言葉が氾濫しています。大手メーカーによるのではない「地ビール」をクラフトビールと置き換えているのでしょう。
 この言葉を好意的に見たのが、次の記事です。


 「クラフトビール」に、「クラフトジン」。お酒に親しくない方も耳にしませんか。「クラフト」は、辞書では「手仕事による製作」で、「ペーパークラフト」など工作や手芸の分野で使われましたが、最近では「職人技」に加えて「個性」も感じさせる言葉となっています。 …(中略)…
 最近では「クラフト調味料」という言葉も出現。みそや醤油といった発酵食品は、地域や、醸造する蔵、さらには樽や桶の一つ一つにすみ着いた菌の違いが、味の差となるそうです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年12月5日・朝刊、10版、13ページ、「ことばの広場 校閲センターから」、薬師知美)

 言葉の一つ一つについて、意味が拡大使用されることを望ましくないと考えることもありますし、その程度の拡大は許容してもよいと考えることもあります。その考えは、一つ一つの言葉によって異なりますし、同じ言葉についても人によって考えが異なることもあります。
 言葉の意味や使用範囲は変化するものであることは認めなければなりませんが、無秩序に広がって、歯止めが利かなくなることには賛成できません。しかも、一般の人々の感覚の変化ではなく、宣伝文句などによって拡大されていくことは望ましいことではありません。

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2019年8月22日 (木)

言葉の移りゆき(459)

「環境」を「包装」する


 私たちは地球という自然環境に住まわせてもらっているのですから、その自然環境を大切に扱わなければなりません。「自然保護」などという言葉も使われますが、人間の力で自然を保護するなどと言うのは、思い上がりに過ぎないでしょう。
 今年の猛暑も人間の生活が引き起こしている現象かもしれませんから、自然環境への配慮が足りないことを猛省しなければならないでしょう。
 ところで、「おにぎり全品、環境包装 / セブン、植物性プラ採用」という見出しの記事がありました。本文は次のようになっています。


 コンビニエンスストア最大手のセブン-イレブン・ジャパンは7月中をメドに、おにぎり全品の包装を植物由来の原料を配合したバイオマスプラスチック素材に切り替える。石油由来の素材を減らし、プラスチック使用量を削減する。プラスチック製品の規制が強まるなか、コンビニ主力商品の環境対応の強化で、消費財の脱石油素材の動きが広がりそうだ。 …(中略)…
 消費財では日清食品がカップ麺の容器、ファミリーマートがサラダ容器の一部で植物性プラを使うなど消費者が求める環境配慮への対応を進めている。
 (日本経済新聞・東京本社発行、2019年6月24日・朝刊、13版、1ページ)

 本文で「環境」という言葉が使われているのは、「環境対応の強化」と「環境配慮への対応」の2箇所です。「環境包装」という言葉はありません。「環境対応を強化した包装」、「環境配慮に対応した包装」が「環境対応」という言葉になったのでしょうが、ちょっと行き過ぎのように感じられます。
 この言い方を拡大すれば、環境に配慮した生活は「環境生活」になりますし、(老朽化したビルなどを)環境に配慮しながら破壊することは「環境破壊」になりかねません。

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2019年8月21日 (水)

言葉の移りゆき(458)


シロクマと、真っ白な制服


 毎年、その時期になると必ずそれが報道されたり、その写真が掲載されたりすることがあります。
 5月15日に開催される京都の葵祭りは1000年以上の歴史を持つものですから、それが報道されるのは当然でしょう。
 けれども、他の方法もあるのに、同じ記事や写真が繰り返されることもあります。新聞社もそれを自覚していますが、改まらないことがあります。こんな記事がありました。


 記録的な日照不足となった梅雨が明けると夏本番。漫画のように「ソラ、またやってきた!」とポーズをとるわけはないが、猛暑にうだるシロクマが毎年のように新聞に登場してきたのは事実だ。
 朝日新聞への初登場は1903(明治36)年8月15日。上野動物園で「北極グリンランド産の白熊」が「炎暑に苦しむ」とある。 …(中略)…
 昭和に入ると、写真でも登場。28(昭和3)年6月15日には、上野動物園の「大暑がりのシロクマさん」の写真が掲載された。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月27日・朝刊、be3ページ、「サザエさんをさがして」)

 関西では、元旦の記事として写真入りで報じられるのが、京都・八坂神社の「をけら詣で」です。大晦日から元旦にかけて、神社の篝火を、参拝者が火縄に移して、消えないようにくるくる回しながら持ち帰るのです。この写真を、朝日新聞をはじめ、全国紙も地方紙も写真入りで掲載します。葵祭りと同じような行事だと言えばそれまでですが、各紙が同じ歩調をとるのは珍しいことです。それが東京本社発行の紙面にまで反映されているのかどうかは知りません。
 シロクマと同じようなことも行われています。毎年、冬服から夏服への衣更えが行われるとき、写真が撮られて、朝日新聞の夕刊紙面に掲載されるのは、神戸の松蔭女子学院中学校・高等学校の女生徒たちの写真です。全身真っ白の制服が心地よく感じられるのでしょうが、夕刊写真の定番になっています。新聞社は、他の学校のことは考えずに松蔭女子学院の制服に心を奪われるのでしょう。似たような制服の学校もないわけではないでしょうが、松蔭の白い夏服はシロクマのように扱われているのです。

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2019年8月20日 (火)

言葉の移りゆき(457)

「!」と「?」の共存


 作家の故・井上ひさしは、日本語の文章に「!」という符号を使うことを嫌ったようです。ところが、現在の文章には「!」を2度重ねた符号もよく見かけます。
 さらに、宣伝文句などには、「!」と「?」とを並べた符号もあります。効果を狙おうと思いつつ、符号の過多で何の効果も見せない場合もあります。
 「!」と「!」とか、「!」と「?」とかの二重の符号は、新聞記事には似つかわしくないと思っていました。けれども、今ではそんなことには抵抗もなく使っている新聞があります。見出しで、このような使い方をされると、新聞もチラシの宣伝文句のような記事を書いているのかと思ってしまいます。しかも、スポーツ面や芸能面ではなく、堅いはずの経済面に現れているのです。
 こんな見出しの記事がありました。


 老後2千万円もいらない!? / セミナー盛況 金融機関も試算 / 75歳以上 食事・外出減る / 1515万円で十分 分析も
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月30日・朝刊、14版、6ページ、見出し)

 老後に2千万円が必要だとして資産形成を促した金融庁の審議会の報告書が出たことを機に、ほんとうに老後資金はいくら必要なのかという話題がにぎわっています。2千万円という数字が適切なものであるのかという議論も盛んです。
 パソコンでは、!?を2文字として打つことになってしまいますが、新聞では2つの符号を1文字としています。
 さて、この見出しの1行目は横書きなのですが、この符号はどういう意味なのでしょうか。「老後2千万円もいらない」に「!」と「?」が付いています。強調しておいて疑問を投げかけているのです。この強調と疑問は、同時に起こる思いなのでしょうか。それとも「!」の後に「?」の気持ちが生じているのでしょうか。
 私はこの見出しを、「老後2千万円もいらない!」というのは「?」(本当)か、という意味に解釈しましたが、それで正しいのでしょうか。「1515万円で十分」だという分析もあるということは記事に書いてありますが、その試算が正しいというようには断言されていません。要するに、記事全体として、一定の結論を述べるわけにはいかなくて、符号を並べてお茶を濁しているのです。
 符号で誤魔化すような記事は、大きな問題点を、抱えていると思います。

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2019年8月19日 (月)

言葉の移りゆき(456)

「目が離せない」という言葉


 「目が離せない」という言葉は、「幼い子どもからは、始終、目が離せないからたいへんだ」というような使い方をして、いつも注意や監督をして、見守っていかなければならないという意味です。
 この言葉は、近頃は、宣伝用語として使われることが多くなったように思います。「この商品からは目が離せない」という言葉は、注目させて、購入させようという意図が強い言葉だと思います。
 「目が離せない」は、それを表現している人の思いを述べる言葉だと思いますが、他の人の行動を促す言葉に変化しようとしているのです。
 こんな記事がありました。


 お金は誰のものになるのか。そもそも夫はどうして殺されたのか-。行く末が気になる一方、「あなたたちは闘うの」と3人をあおるハウスの管理人役、夏木マリの快演からも目が離せない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月4日・朝刊、14版、28ページ、「試写室」、黒田健朗)

 あるテレビドラマを紹介する記事の結末の部分です。「目が離せない」は、筆者の思いを述べているだけでなく、ドラマのPRの言葉になっています。商品のPRと同じ働きをしています。しかも、自分の作った商品でないものをPRしようとしています。
 「目が離せない」は、対象物に注意したり監督したりする意味を離れて、対象物を売り込む意味に変化しているのです。

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2019年8月18日 (日)

言葉の移りゆき(455)

「多目的」には、いくつ目的があるのか

 初めて「多目的トイレ」というのを見たとき、その意味がわかりませんでした。トイレは大便・小便の用をたすところですが、多目的トイレは従来のものより広く作られているようです。車椅子で入れるようになっていると思ったのですが、それなら「車椅子用トイレ」と言えばよいことで、それ以外のどんな目的を持ったものであるのか、わからなかったのです。
 こんな文章を読みました。


 鉄道の駅がバリアフリーを推進していて、エレベーターが設置されることが多くなった。トイレも車椅子で入れるような広いトイレが設置されている。赤ん坊のオムツを取り替えることもできる。大変便利である。
 で、そういうトイレにも名前を付けなければならなくて、ある私鉄が付けた名前が、多目的トイレという。
 多目的トイレ。何だか変ではなかろうか。オムツを取り替えるのは、確かにトイレ本来の目的とは異なる。だから多目的であるという。下校した高校生たちが、制服から私服に着替えて街に繰り出す。そういうためにも確かに使える、しかし、それで「多目的」であろうか。
 (金田一秀穂『金田一秀穂の心地よい日本語』、KADOKAWA、2016年3月24日発行、57ページ)

 「多目的」という言葉は、今では「多目的ホール」とか「多目的広場」とかの使い方もされています。
 「多目的」の「多」という言葉は、3つや4つの数字だけではない、もっと多くを思わせます。「多目的ホール」や「多目的広場」はどういう目的にでも使えそうです。実際にそういう使われ方をしているのなら、言葉どおりでしょう。
 けれども「多目的トイレ」は違うはずです。そのトイレを使ってできる事柄は限られているでしょう。バリアフリーということの宣伝にはなるでしょうが、大袈裟な言葉であることは否定できません。まして、車椅子やオムツ以外の、勝手な用途に使われたら、名付け方が良くなかったと言わなければなりません。
 今日の私の文章も「多目的」でいきます。金田一秀穂著、『金田一秀穂の心地よい日本語』という書名は、ちょっとくどいように思います。最近はこういう書名が増える傾向を感じます。短い書名の方が印象に残ります。

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2019年8月17日 (土)

言葉の移りゆき(454)

短く言うことが礼儀ではない


 固有名詞を短く言うことが、報道機関では、当たり前のことのように行われています。人名を短く言ったり、2人の名前を合わせて短く言うことは、親しみを込めたと言うよりも、失礼な言い方であると感じることがあります。
 会社名や機関名なども同様な言い方をされています。見出しには文字数の制約がありますが、その制約のない文章の中でも短く言おうとしています。
 その文章の中で何度も繰り返されるものは略して言うこともあってよいでしょうが、長い記事の中でわずか2度ほどしか現れないものを、略して言う必要はないと思います。次に引用するのが、その例です。


 過去の災害について記された古文書の知見を防災に役立てる研究で、読み解くのが難しい「くずし字」で書かれた古文書をインターネットで公開し、市民が協力して読解する取り組みが成果を上げている。 …(中略)…
 東大地震研で20日に開かれたシンポジウム。国立歴史民俗博物館(民博)の橋本雄太助教(人文情報学)が期待を込めて言った。 …(中略)…
 この取り組みは民博と東大、京都大が2017年に始めたプロジェクト「みんなで翻刻」。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月25日・朝刊、13版、26ページ、小林舞子)

 長い記事の中で2度しか現れない国立歴史民俗博物館という名称を、2文字に略すことはほとんど意味がありません。略さないで、きちんとその名称を記すことこそ、礼儀に叶ったやり方です。
 そして、翌日、略称について、その訂正記事を出すのは何とも無様です。


 25日付科学面「防災へ みんなで古文書読み解く」の記事で、国立歴史民俗博物館の略称が「民博」とあるのは「歴博」の誤りでした。民博は国立民族学博物館の略称でした。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月26日・朝刊、14版、30ページ、「訂正して、おわびします」)

 略称などを書く必要がないのに、書いて間違いをしでかしているのです。記者のミスでもありますが、ここでも、校閲の力が働いていないと感じます。校閲とは、書かれたものを辿って読むだけの仕事ではありません。「略称一覧」か何かの資料と照らし合わさなければ、間違いを見つけることはできません。社内に、校閲の仕方が徹底しているようには思えません。
 「訂正して、おわびします」に書かれていることは、間違いの一部に過ぎないということは、新聞を丁寧に読んでいる人にはじゅうぶんわかっていることなのです。

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2019年8月16日 (金)

言葉の移りゆき(453)

趣旨が一貫しないコラムの続出


 かつて「天声人語」は高等学校などの国語の授業で教材として盛んに使われました。NIEなどという言葉すらなかった時代に、私も高等学校の国語の教材としてずいぶん活用しました。
 担当する筆者が変わったのだから仕方のないことなのですが、いまの「天声人語」は教材に適しているとは思えません。文章の初めのマクラの部分だけに注力して、その後に続く文章の趣旨が分裂しているようなものを読まされるのは困ったものです。教材には使えないでしょう。
 例えば、こんな文章がありました。


 江戸は八百八町だが、大阪は八百八橋といわれるほど橋が多い。その多くを町人が架けたというのが大阪人の自慢である。行政が形づくった東京と違い、大阪は民間の手によるまち。お上、何するものぞの気風がある …(中略)…
 阪急電車の梅田駅を見れば実感できる。JR大阪駅と至近なのに完全に独立したターミナル駅で、かつてはアーチ型の天井で知られた。阪神電鉄とともに大阪駅ではなく地名の「梅田駅」を」名乗ってきた
 それが10月からは「大阪梅田駅」に変更されることになった。同じところなのに駅名が違うのは紛らわしいとの指摘は以前からあったが、決め手になったのは外国人観光客の増加という。インバウンドの魔法である
 外国人でなくても大阪初心者は梅田ってどこ、キタとミナミって駅はあるの、と迷う。そこもまた、このまちならではの味わいだと思っていた。駅名まで変えなくても……とは、よそ者の勝手な言い分か。河原町駅も「京都河原町駅」に変更される
 各地に外国語表示が増えるのは大いに結構。でも土産物店に忍者グッズがやたら増えたり、外国人にはカジノが必要だと力んだりするのは、どうだろう。「そんなに無理せんでも」と言いたくなる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月1日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 ▼印によって段落分けがされていますが、そのうち2番目の段落を除いて、全てを引用しました。(2番目の段落は、説明的な役割で、論旨に影響はありません。)
 文頭から、5番目の段落に至るまでは、論旨は一貫していると思います。ところが最終段落にいたって、趣旨は混乱します。要らないことを急に付け加えた感じです。
 考えようによっては、5番目の段落まではマクラで、最終段落に書いていることが、最も言いたいことなのかという疑問も生じます。
 外国語表示のこと、土産物店のグッズ、カジノのことは、突然現れるのです。筆者は何を考えて、この文章を書いたのだろうという疑念が大きくなります。
 最近の「天声人語」は、このような傾向が強くなっています。マクラが全体の半分以上を占めて、言いたいことが脈絡無く、押し込められているような文章が多くなっているのです。
 こういう「天声人語」に対して、社内では何の反応もないのでしょうか。校閲と同じような現象が起きているのではないかと、私は推測しています。「天声人語」の筆者に向かって、今回の文章はよくないということを言える人がいなくなっているのでしょう。
 かつての筆力に相当するものを持っている筆者がいなくなったのかもしれませんが、その筆者の周辺にいる人が、文章の中身を吟味してきちんと意見を告げる態勢がなくなってしまったのでしょう。責任を持って文章を校閲できる人がいなくなったのでしょう。
 1ページの看板コラムがこの状況では、他の記事に欠陥が見つかるのも当然でしょう。

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2019年8月15日 (木)

言葉の移りゆき(452)

記事の内容が校閲の対象となっていない

 ここに述べる事柄も、校閲と関わる問題点です。記事に書かれていないことを、編集部門の人が論評しても、読者は唖然とするしかないでしょう。
 8月9日の長崎原爆の日に関わる報道です。

 「人の手」で造られ「人の上」に落とされた。だからこそ「人の意志」で無くせる。長崎市長の平和宣言に頷く。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月9日・夕刊、3版、1ページ、「素粒子」)

 長崎市長の言葉に注目しました。記事を読んで、その言葉を確かめようとしましたが、見当たりませんでした。記事は次のように書かれていました。

 田上市長は平和宣言で、「積み重ねてきた人類の努力の成果が次々と壊され、核兵器が使われる危険性が高まっている」と指摘。「唯一の戦争被爆国の責任」として日本政府に核兵器禁止条約への署名、批准を迫った。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月9日・夕刊、3版、1ページ、田中瞳子)

 「素粒子」に書かれている発言は、記事には書かれていません。「素粒子」の筆者は、記事にどのようなことが書かれているのかということを確認したり調整したりすることなく、文章を書いたのでしょう。校閲部門の人も、記事に触れられているかどうかの確認をしなかったのでしょう。暢気な校閲です。
 この、「人の手」で造られ…の言葉が記事になったのは、翌日の朝刊です。

 田上市長は平和宣言で初めて被爆者の詩を引用し、「原爆は人の手によってつくられ、人の上に落とされた。だからこそ人の意志によってなくすことができる」と言及。核軍縮と逆行する国際情勢に危機感を示した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月10日・朝刊、14版、1ページ、田中瞳子)

 この記事を読んで私が感じたことは、「人の手」でつくられ…の言葉は、市長の言葉ではなく被爆者の詩の引用であるのかということでした、この文をそのように解釈したのです。
 後のページに「長崎平和宣言(全文)」という記事がありました。平和宣言では冒頭に、「目を閉じて聴いてください。」という言葉で始まる詩が置かれています。詩の最終行「どんなことがあっても……」という言葉の次は、こんな言葉が続いています。

 これは、1945年8月9日午前11時2分、17歳の時に原子爆弾により家族を失い、自らも大けがを負った女性がつづつた詩です。自分だけではなく、世界の誰にも、二度とこの経験をさせてはならない、という強い思いが、そこにはあります。
 原爆は「人の手」によってつくられ、「人の上」に落とされました。だからこそ「人の意志」によって、無くすことができます。そして、その意志が生まれる場所は、間違いなく、私たち一人ひとりの心の中です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年8月10日・朝刊、14版、29ページ)

 これを読むと、「人の手」でつくられ…の言葉は、詩の中の言葉の引用ではなく、市長自身の言葉であることがわかります。この日の1ページの記事の文章は、間違った表現ではありませんが、意味を誤解される要素を持っていたのです。これも、校閲で気づけば、改めることはできたでしょう。校閲の関係者が丁寧に文章を検討すれば、誤読が少なくなるのです。

 さて、最後に一言。
 こういう指摘を繰り返しても新聞社には反省の色はありません。前回に触れた、校閲部門の人が書いた文章の大きな誤り記事については、、記事は訂正されました。私にも連絡はありました。
 私はこのブログの記事を新聞社に送っています。新聞社は、前記の致命的なミス以外は、ほとんど全部、指摘を「無視」する姿勢で貫いています。読者の指摘に謙虚に対応する、というのはキャッチフレーズとして成り立っても、現実はまったく異なった姿勢で、新聞社は動いているのです。

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2019年8月14日 (水)

言葉の移りゆき(451)

中学生でもわかる間違い -校閲の機能不全-


 「公立的に運用する」とか「緊密に強調する」とかの表現は、ありえません。そんなことは中学生でもわかることです。そんな基礎的な間違いをして、記事を訂正するというのは大新聞として屈辱的なことであるということが認識できているのでしょうか。
こんな訂正記事が、同じ日に2つ並びました。同じ日の記事についての訂正です。


 ▼9日付総合3面「ルポ現在地2019参院選③公文書」の記事で、公文書管理法第1条の文書管理の目的を説明したくだりに「行政が適正かつ公立的に運営されるようにする」とあるのは、「行政が適正かつ効率的に運営されるようにする」の誤りでした。
 ▼9日付総合4面「韓国大統領、対抗措置示唆」の記事で、韓国外交省の関係者が記者団に説明したくだりで、国際社会と緊密に「強調し」とあるのは「協調し」の誤りでした。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月10日・朝刊、14版、30ページ、「訂正して、おわびします」)

 記事を書いた人は、「効率的に運用する」や「緊密に協調する」という表現をしようとしていたと理解できます。パソコンの変換ミスでしょう。ここまでは、よくあることであると思います。
 記事を書いた人は、当然、文章の点検をしたでしょう。その際にこの単純ミスを見落としてしまったのでしょう。よくないことですが、人間のなすことにはうっかりミスもありますから、こういうこともあるのでしょう。
 問題はその次です。新聞社として情けないことをしでかしたのです。新聞社には校閲部門がありますが、この人たちが機能をまったく果たしていないのです。これは新聞社として致命的なことです。
 私は、校閲のミスのことをこれまでも指摘してきました。校閲部門の高い位置にある人が書いた文章が、私の指摘で書き直されたことがありました。この連載を読み返していただけば、それがどのようなものであったかは理解できるでしょう。
 新聞社によって校閲部門の質は異なっているようです。毎日新聞社の校閲部門の質の高さについて、かつて述べたことがあります。朝日新聞社の校閲部門は、記事内容に間違いがないかどうかを調べることはおろか、ありふれた表現の間違いすら指摘できない状態を露呈してしまったと思います。
 中学生にもわかるような誤りを見過ごしてしまう校閲部門の非力さを徹底的に反省し、校閲部門を建て直さなければなりません。NIEなどということを声高に宣伝する資格はないと思います。

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2019年8月13日 (火)

言葉の移りゆき(450)

真似をして使う方がよろしいようで……


 幾つかのことを並べあげるときに、「あと」という言葉を使うことは、従来は行われていませんでした。今では、放送などで聞いていると、かなりの地位の人も使っているようです。耳障りな言葉の一つです。
 似たような例について書かれた文章を読みました。


 「こちらにサインの方をお願いいたします」「お砂糖の方はご利用ですか」のように、世の中には「方」という言葉があふれている。「方」には多くの用法があるが、これらは「物事をぼかして言う用法」、つまり婉曲の用法だ。
 この「方」は本来、「お体の方はいかがですか」のように、遠回しな言い方が礼儀の上で好ましい場合に使われる。だが現実には冒頭のように、別になくてもよさそうな場面で使われることが多い。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月10日・朝刊、13版S、28ページ、「川添愛の言葉スムージー」、川添愛)

 ここに書かれていることは、まったくその通りだと思います。けれども、どうしてそんなにしばしば使われるのかということになると、「方」も「あと」と同じではないかと思います。
 短い名詞などを挙げて、「のぞみ号は、神戸や大阪、あと岡山、広島、あと小倉に停まります。」などと言って、「あと」という言葉でつないでいく言い方があり、長い文を「あと」でつなぐやり方もあります。
 そのような言い方をしている人を真似て、使うようになって、ぐんぐん広まっていったのだろうと思います。話し言葉の場合は、人真似がしばしば行われます。どこが発祥かわからないが、広がっていく速度ははやいように思います。

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2019年8月12日 (月)

言葉の移りゆき(449)

図や写真でなく、言葉で伝える


 テレビの時代です。けれども、画面で伝えることによって、言葉の力が弱くなっているという現象が起こっているように思います。
 グルメ番組花盛りです。テレビの場合は、食べているものも映し出されますから、「うーん」とか「うまい!」とかの言葉だけを吐いていても、番組は成り立ちます。そんな出演者が多いことも事実です。
 ラジオでは、それは成り立ちません。どんな材料を使って、どのように作り上げられた料理で、どんな味や香りがして、食べた人はどのような感想を持つのかを伝えなければなりません。
 料理の番組に限りません。テレビの出演者は、言葉の力が弱くても、他の要素に支えられて、なんとか成り立っているのです。もちろん、テレビ出演者の中には、すばらしい言葉の力をお持ちの方もおられますが、画面に支えられているだけの人もいます。
 こんな文章を読みました。ドイツ人のリュディ君という人のことを述べています。


 ドイツの形態学は昔から定評がある。動物の構造を、ものすごく細かくていねいに観察し、その結果を黒インクを使って、きわめて美しく、詳細で正確、それでいて分かりやすい図として描く。彼の博士論文を見せてもらったが、電子顕微鏡写真の他に、彼が描いたたくさんの図があり、その美しさに舌をまいた。 …(中略)…
 ところがである。聞いてみると、写真も図もグラフも一切なし。発表会会場には、映像機器を持ち込むことは許されず、黒板も使用できない。ただしゃべるだけ。彼の研究は形の記載なのである。百聞は一見にしかずで、形を分からせるには見せるのが一番の近道なのだが、それは許されないのだという。
 (本川達雄『おまけの人生』、阪急コミュニケーションズ、2005年6月19日発行、113~114ページ)

 後半は、博士論文発表会のことを述べています。写真も図もグラフも一切なしで、研究内容を発表するのだと言います。
 自分が食べている献立を言葉だけで説明するのはたいへんでしょうが、この研究発表に比べたら、かなり易しいことでしょう。テレビで伝えることに比べたら、ラジオで伝えることの方が、うんと、言葉の力が必要でしょう。
 鉄道紀行文で有名な故・宮脇俊三さんは、旅行記で写真を使うことを排除し、文章で説明し続けました。言葉だけで伝えることこそが、ほんとうの言葉職人だというわけです。報道関係者や学者にとっても、それは重要なことだと言えるのでしょう。

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2019年8月11日 (日)

言葉の移りゆき(448)

まったく意味のない顔


 こういうことを何という言葉で表現するのかは知りません。けれども、テレビではしょっちゅう現れて、目障りです。民放が興味本位で始めたのでしょうが、NHKもその真似をしています。
 集合写真を撮ったときにたまたま欠席していた人の写真を、片隅に四角く区切って載せることがあります。あのやり方をテレビ画面で日常的に行っているのです。
 一例を挙げます。NHK総合テレビの「シブ5時」という番組で 画面がある状況を映し続けているのに、その時の司会進行者の顔を画面に出し続けています。何秒か置きに、顔が変わります。珍しい顔ではありません。毎日、見ている顔です。見る必要のない顔を入れ替えて出し続けることに、どんな意味があるのでしょうか。
 時々その顔が何かのコメントをつぶやくこともありますが、たいていは顔だけを映し続けます。視聴者が見ているのは中央の画面です。けれども、次々と切り替わりますから、隅っこの部分も気になります。視聴者の注意力を妨げる役割を果たしているのです。
 番組制作者の意図を優先して、視聴者のことなどは考えていないのです。しかも、その制作者の意図も不明です。

 ついでに、もう一つ、気になることを申します。
 気象や災害などで緊急に知らせる必要があるときに、画面の上部や左側を区切って文字を流すことがあります。緊急の場合には役立ちます。けれども、その状態をいつまでも続けるのは問題です。ドラマの周りに文字が流れ続けていると、やはり集中力をそがれます。両方を気にしなければならないからです。
 ほんとうに緊急事態であるのなら、ドラマの放送を中止して、その気象・災害の報道に切り替えるべきです。さほど緊急でないのなら、ドラマだけの放送を続けるべきです。二兎を追うことが視聴者のためにならないことを認識すべきです。
テレビは少しでも多くの情報を流すことに意味があるのではありません。テレビ局に必要なのは、判断力と集中力であると思います。

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2019年8月10日 (土)

言葉の移りゆき(447)

「あおりの文化」は排除すべきだ


 ときどき、テレビ番組の「嘘」が問題になることがあります。自然な取材を装いながら、実際には「やらせ」があったりしています。
 けれども、このように現実を脚色して放送することは、日常茶飯事として行われています。これも「嘘」であると思いますが、改まるどころか、ますます増大しています。NHKとて例外ではありません。
 どうして、このような状態に対して非難する姿勢(自己批判)がないのかと思っていましたが、同じような考えの方の文章を読みました。


 いわゆる「あおり系」「あおりの文化」が嫌いで、テレビのバラエティー番組で観客の笑い声を入れたり、司会者がはしゃいだり、若者が通りでふざけている感じがあまり好きじゃない。
 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年6月19日・夕刊、3ページ、「美とあそぶ」、吉村萬壱)

 この文章では、司会者がはしゃいだり、若者が通りでふざけたりしていることも述べられていますが、そんな場面は低俗であっても、事実をそのまま放送しているのでしょう。けれども、観客の笑い声を入れるのは虚偽であり、事実の歪曲です。これは、してはいけないことであるのですが、放送局には、その認識がありません。
 例えば新聞に載せられる写真で、そこに居合わせた人の人数が1人であるのに、それを数人に作り替えて掲載するのに等しい行為です。新聞はそんなことはしていません。テレビは、写っていないところに大勢がいて、一斉に笑い声を出しているという「嘘」を作り上げています。たとえバラエティー番組であっても、してはいけないことです。
 現在は、ニュース番組もバラエティー化していて、作為的な画面を作ったりしています。事件の現場に居合わせた人がいたということが未確認であっても、ドラマ仕立てでニュースの一場面を作り上げたりしています。事実と「嘘」との間が、曖昧になってしまっています。
 このような作為は、観客の笑い声を挿入するというような行為から出発して、ますますエスカレートしています。テレビ番組制作者が、「嘘」を作るということに不感症になってしまっているのです。
 面白ければそれでよいのだ、という姿勢から抜け出さなくては、テレビの将来が恐ろしい世界になってしまうように思います。

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2019年8月 9日 (金)

言葉の移りゆき(446)

「店前」は「みせさき」と読むべきか


 文章を読んでいると、その文章の筆者の考えに釣り込まれて、信じてしまいそうなことがあります。写真まで添えられると、その効果は増大します。今回は、「店前」という熟語をどう読むかという話題です。
 こんなふうに書かれていました。


 観光地のみやげ物店。何か食べながら店をのぞくお客が多いらしく、注意書きが出ています。〈店前での飲食はご遠慮ください〉。
 もっともだと、と思いつつ、私は例によって細かいところに注意が向きます。「店前」は何と読むのか。「みせまえ」? 「てんぜん」? …(中略)…
 「店前」は、ちょっと古風な人なら「みせさき」、若い人なら「みせまえ」と読むのではないでしょうか。読み方で年が分かる、とまでは言えないかもしれませんが。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月6日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 常用漢字の音訓表にあろうとなかろうと、「前」の文字を「さき」と読むことは知っています。「弘前」などの地名もよく知られています。
 けれども、この注意書きを書いた人は、「みせさき」と読ませようとして書いたのでしょうか。場合によっては「みせさき」と読むこともできる、という程度の判断しかできません。
 この文章は、書かれた文字の読み方を推測しているのです。逆に、「みせさき」という言葉を、一般にどういう漢字で表すかということを無視しています。
 「みせさき」という言葉に、国語辞典は、どのような文字をあてているでしょうか。小型の国語辞典の『三省堂国語辞典・第5版』は、「店先」だけです。「店前」という文字は書いていません。中型の『広辞苑』には「店先」と「見世先」が、大型の『日本国語大辞典』には「店先」だけが載っています。いずれも、「店前」はありません。
 この文章の見出しは「読み方で年が分かる…?」となっていますが、そんな判断はできないでしょう。国語辞典にこの用字が載っていない限り、そんな判断は乱暴すぎると思います。

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2019年8月 8日 (木)

言葉の移りゆき(445)

一部の人の使う言葉を煽り立てないように


 「暑すぎるから、今日は何もする気が起こりません」というような酷暑が続く季節になりました。
 鮨が好きで好きでたまらない人の前に、3人前が出されたら「多くて嬉しい」と言うでしょうが、10人前を食べろと言われたら「多すぎて食べられません」ということになるでしょう
 「すぎる」という表現は、「悲しすぎて、涙も出ません」とか、「映画を見すぎて、目が疲れた」とか、度を越して、望ましくなくなったときに使う言葉だと考えてよいでしょう。
 こんな文章を読みました。


 コンビニエンスストアの店頭に、飲料の広告が出ていました。〈コクすぎて、/余韻すぎて、/うれしい!〉。ここに出てくる「すぎる」の使い方は新しいですね。
 従来の文に翻訳すると、「とてもコクがあって、とても余韻があって、うれしい」。でも、これでは、人目を引く広告になりません。 …(中略)…
 さらには、「イベントに行きたかったすぎる」という例も。行けなくてとても悔しい気持ちを表そうとしています。「すぎる」は、程度の激しさを表すことばとして、表現の自由度を広げてきたのです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月29日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 この文章の結論として述べられている「『すぎる』は、程度の激しさを表すことばとして、表現の自由度を広げてきた」ということでしょうが、異議を唱えたいと思います。
 「すぎる」は、「暑すぎる」とか「多すぎる」とか、望ましくない場合に使われるのが多い言葉でした。それが、望ましい場合の強調表現として使われるようになってきたということでしょう。そんな有様を「表現の自由度を広げてきた」と賞賛すべきなのでしょうか。
 「〈コクすぎて、/余韻すぎて、/うれしい!〉。ここに出てくる「すぎる」の使い方は新しい」というのは、その通りだと思います。名詞に直接「すぎる」を付ける乱暴さは確かに「新しい」のです。これまでの語法を破っています。「新しい」という褒め言葉ではなくて「間違っている」と言いたくなります。従来の文に「翻訳」が必要な表現を、「人目を引く広告」と称えるのは問題です。
 「イベントに行きたかったすぎる」というような表現は、広く行われているのでしょうか。ごく一部の人たちが使っている表現を採り上げて、全国に読者がいる新聞に書くのはどうでしょうか。まるで煽り立てているような印象すら感じてしまいます。
 辞典編纂者が言っているのだという理由付けで、一般の人たちが疑問を感じなくなってしまうでしょう。そんな言葉を平気で紹介しないようにしてほしいと思うのです。

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2019年8月 7日 (水)

言葉の移りゆき(444)

「世相が軽くなる」とは?


 「重い」の反対語は「軽い」です。けれども、「世相」が重いとか、軽いとか言うのは、どういう意味なのでしょうか。理解ができません。こんな文章に書かれていました。


 きょうは戦後歌謡界の巨星、美空ひばりの命日である--と書いても、若者のなかには曲を知らない人が少なくないだろう。亡くなったのは平成が始まった年だった。30年のうちに、この歌姫が体現した昭和の哀歓は少しずつ記憶から遠のき、世相は軽くなったのだ。
 (日本経済新聞・東京本社発行、2019年6月24日・朝刊、13版、1ページ、「春秋」)

 「この歌姫が体現した昭和の哀歓は少しずつ記憶から遠のき」という表現は理解できます。ところが「世相は軽くなったのだ」という表現は、どういうことを述べようとしているのか、私には理解不能です。
 「世相」とは、世の中の有様とか、社会の風潮とかいう意味です。「現代の世相を反映している」というような言い方をしますが、世相が軽くなる、または重くなる、という表現となると、わけがわからないのです。
 「記憶から遠のいた」ということを、「世相が軽くなった」と言っているようには思えませんから、いろいろ考えてみましたが、結局、わけがわかりません。
 せいぜい考えられることは、そのような世の中でなくなったとか、社会の風潮が変化したとかいう意味ぐらいですが、それならば「世相が軽くなる」という言い方では表現できないだろうと思います。
 新聞人特有の言い方なのか、経済人特有の言い方なのかしりませんが、少なくとも、日本語の自然な表現ではないということだけは言えると思います。

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2019年8月 6日 (火)

言葉の移りゆき(443)

こんなものを「情熱」とは呼べない


 制作する側は一生懸命になっていますが、見る側は白けてしまう番組というものがあります。ここに紹介されている番組を見たことはありませんが、紹介記事を読んで、唖然としました。こんな文章です。


 毎週脱帽する。街角で会った一般人の自宅にタクシー代などを払う条件でついていき、その人の人生を聞き込む。東京系の「家、ついて行ってイイですか?」だ。 …(中略)…
 この日の放送では家までついて行ったものの、話を結局聞き出せなかった模様も珍しく紹介された。よくあることだという。そもそもロケ自体を断られることも多いだろう。毎週ドラマチックな内容を複数放送するためにかけている手間、時間、人員。何げなく見てきたが、表には見えない情熱が支えているのだと感じさせられた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月21日・朝刊、14版、19ページ、「記者レビュー」、黒田健朗)

 最大級の褒め言葉の羅列です。見出しには〈「家について行く」情熱〉と書いてあります。
 この記事の筆者は、テレビ番組制作者と同化してしまっています。そういう目で見ると、番組制作が「情熱」とうつるのでしょう。恐ろしいことです。
 番組制作の姿勢として、これほど迷惑なことはないでしょう。「街角で会った一般人の自宅に……ついてい」くという行為を、自然なことであると考えるほど、現代人はテレビ局の行為を認めて(許して)いるのでしょうか。そのようには信じられません。
 筆者は、その番組作りは制作者の「情熱」によって支えられていると言っていますが、それは迷惑行為を浄化する働きをしているようです。「情熱」という綺麗な言葉で押し隠してしまっていると思います。
 そもそも「街角で会った一般人の自宅に……ついていき」ということが、実際に行われているのでしょうか。たまたま街角で出会った人がすべて、人を感動させる物語を持っているとは思えません。声をかけられた人が、簡単に取材受け入れのサインを出すとは思われません。
 予めさまざまなことをして、対象となる人物を探し出して、対象者を決めておいてから、たまたま街角で出会ったようなふりをしているのなら、それは演出ではなくて、虚偽です。人生の出来事などを話してテレビに映し出されることを、人は簡単に受け入れるでしょうか。熟慮した後に判断することだと思います。
 ある人のたどってきた経験や考え方・感じ方などに焦点を当てた番組が、人々の心を打つことはわかっています。けれども、それを、「家、ついて行ってイイですか?」という娯楽作品の乗りで作ってよいとは思いません。それを賞賛する記事にも、間違った視点が含まれているように思います。

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2019年8月 5日 (月)

言葉の移りゆき(442)

中味を表さない名前


 コンビニなどのレシートを見て、何を買ったのか確認しようとして、「ホッカイドウコンブノダシノ」などという言葉で途切れて、金額が印字されていることがあります。北海道産の昆布でダシをとったラーメンのことかと、気づくまでにしばらくの時間が必要なことがあります。
 修飾語が長くて、肝心な品名が隠されてしまっているのです。例えば、チョコレートという名前の前に、いろんな言葉が書かれていて、それを忠実に入力すると、こんなことになってしまうのです。店の側からすると、いろいろなチョコレートを売っていますから、それを区別する必要があるのでしょうか。
 こんな文章を読みました。


 食べ物の名前が長くなったなあ。
 と、コンビニの棚の前で思う。「なんとかにこだわった」「どこそこ産の」「なにダシ仕立ての」「一日分の野菜が取れる」「まるごと」「もちもち」「行列ができる」。多種多様な(と言いつつパターン化した)修飾語が、複数組み合わさってラベルに並んでいる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年10月15日・夕刊、3版、5ページ、「季節の地図」、柴崎友香)

 消費者の側からすると、「どこそこ産の」というのは必要な情報かもしれません。「一日分の野菜が取れる」とか「なにダシ仕立ての」とかも、役に立つことかもしれません。けれども、「なんとかにこだわった」というのは生産者の勝手な姿勢が述べられているだけであったり、「行列ができる」と言われても信じられない気持ちになることがあります。「まるごと」「もちもち」などは、使い古された言葉が並んでいるだけの印象でしょう。
 商品名が、商品名にとどまらず、宣伝文句と化しているのです。短く、気のきいた言葉で名付けるのではなく、だらだらした言葉を付けられると、いらだちすら覚えます。
 こういう名前の商品を見ると、これまでとは違った商品だから買い求めようと思う気持ちと、わけがわからないもののように見えるから敬遠しようと思う気持ちとで、揺らぐことがあります。名前を付ける側も、そのあたりの心理を勉強すべきであると思われます。短い方がよいのは、スピーチだけのことではありません。

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2019年8月 4日 (日)

言葉の移りゆき(441)

「令和」の「令」の文字


 「平成」の伸びやかさに比べて、「令和」の堅い印象について、いろいろな意見が述べられていますが、一つの時代を表す言葉として使われ続けることになるのでしょう。
 こんな文章がありました。


 「令」は、明朝体などの活字では最後が縦棒になりますが、手書きでは「マ」のように点を打つ形が一般的です。小学校の教科書でも「令」の下側は「マ」の形です。
 一方、官房長官が公式発表した楷書の「令」は、活字と同じく最後が縦棒になっていました。もちろん、こう書いてもよく、書き取りのテストでもマルになりますが、普通は「マ」のように書きます。
 ところが、今では、街で見かける手書きの「令和」の「令」のほとんどが、最後を縦棒にしています。公式発表の文字が美しかったため、誰もがそれを手本にしているのでしょう。下側を「マ」にしている手書きの実例はきわめて少数です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月15日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 私は、新元号発表のとき、まず「レイワ」という発音を聞き違和感を抱き、次に官房長官が掲げる文字を見ても、それは消えませんでした。「令」に美しいという意味があることはわかっていますが、そんな使い方よりも、命令、律令、法令など、熟語の後半の文字として使われることが大半であるからです。「令」の文字の最後が「マ」であれば、文字としても不安定な形に見えます。縦棒にして、やっと落ち着いた形になります。縦棒は苦肉の策と思われます。
 けれども、手書きは「マ」です。縦棒を間違いとは言いませんが、縦棒で書くのは「令和」だけではないでしょうか。命令の「令」を縦棒で書くことなどは、現在のところ、皆無(もしくは、稀)ではないでしょうか。
 明朝体は活字に過ぎません。手書きとは別ものです。財前謙さん編著の『手書きのための漢字字典』(明治書院)では、「令」の文字の縦棒に×印を入れています。当然でしょう。
 「令」の文字の縦棒を認めるならば、「冷」「零」「齢」「玲」「鈴」などの文字も同じようになります。そのような文字まで、縦棒で書く人は増えていくでしょうか。そうは思えません。
 活字と手書きは別物です。例えば「衣」という文字は6画です。活字通りに書いて7画とするのは間違いです。私は、教科書体の活字が広がってほしいと思いますが、急には無理でしょう。それなら、手書きと活字は別物だという考え方が浸透していくことを期待するしかありません。

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2019年8月 3日 (土)

言葉の移りゆき(440)

「バウムクーヘン」と「神戸」


 神戸は洋菓子の町です。バウムクーヘンも神戸の名物です。けれども、これから述べるのはお菓子の話ではありません。こんな文章を読みました。


 空港の売店で見かけた看板です。〈ひとくちバーム〉。自然すぎて、担当編集者も、どこが注目点なのかピンとこない様子でした。
 「バーム」は略語ですね。ドイツ語に近い発音では「バウムクーヘン」。バウムは木、クーヘンは菓子です。木の年輪のように層になった菓子なので、この名があります。
 これを日本語では「バームクーヘン」とも言います。略して「バーム」。日本語での言い方であり、誤りではありませんが、元のドイツ語からは距離が生じています。
 「ハウス」は「ハース」と言わないのに、「バウム」が「バーム」になるのは不思議です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月1日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 外来語は、原語の発音を無視するわけにはいきませんが、日本語のカタカナ書きをする場合にはかなり鷹揚になっていると思います。そんなことがあるから「マシーン」と「ミシン」の意味するものが異なったものを指すことにもなるのです。
 〈ドイツ語に近い発音では「バウムクーヘン」〉というのは、原語を知っている人の意見であり、たいていの人は。原語でどういう発音であるのかということなどには拘泥しないで使っているはずです。
 日本語としての原則を作るなら話は別です。「神戸」は「コウベ」という仮名書きになるから、「バウムクーヘン」も「バウム……」と書くというような原則です。後の部分も「……クウヘン」と書くというような原則です。もともと日本語には長音(ー)の表記はしない習慣がありましたから、「ウイスキイ」とか「ビイル」と書けばよいのです。
 「東京」は「トウキョウ」と書いて、実際の発音は「トーキョー」です。大阪は「オオサカ」と書いて、発音は「オーサカ」です。神戸は「コウベ」と書いて、発音は「コーベ」です。ドイツ語の発音を問題にするよりも、日本語の表記の原則に従うのが良いでしょう。
 けれども、現実の問題としては、私は、細かい原則を作る必要はないと思います。「バウムクウヘン」でも「バームクーヘン」でも良いと思います。それなりの時間を経て、どちらかの表記に落ち着いていくでしょう。「ハウス」を「ハース」と書いた時代もあったかもしれません。〈「ハウス」は「ハース」と言わないのに、「バウム」が「バーム」になるのは不思議〉というのは了見が狭すぎるのではないでしょうか。
 国語辞典にはたくさんの見出し語を並べるわけにはいきません。「バウムクーヘン」を見出し語にしたからといって、「バームクーヘン」という言葉は存在しないなどと言う人は現れないでしょう。
 そんなことよりも、この文章に添えられている「ひとくちバーム」という言葉の方がわかりにくいと思います。「バウムクーヘン」を短く「バーム」と言い、それに「ひとくち」を付けた言葉、「ひとくちバーム」はどんな菓子なのか、即座に理解できる人は少ないのではないでしょうか。

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2019年8月 2日 (金)

言葉の移りゆき(439)

「言及」という言葉の使い方


 言葉は、その言葉の持つ意味とともに、用法も大切です。政治家などは自分勝手な言葉遣いをすることがありますが、一般の人々においては、あるいは教育の世界では、正しい言葉遣いが求められます。
 こんな文章を読みました。


 梅雨の訪れとともに、千葉県の銚子漁港には年間を通じ最も脂がのったマイワシがやってくる。旬は6月末から7月半ば。地元では「入梅いわし」と呼ぶ
 銚子市水産課に聞くと、江戸後期の文献でも言及されているという。「銚子では誰もが知っている言葉です」と長谷川政代さん(61)。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月12日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 コラムの文章の冒頭の部分ですが、「銚子漁港には年間を通じ最も脂がのったマイワシがやってくる」という表現は正しいのでしょうか。まるで銚子漁港を目指してマイワシが自分の意思で押し寄せる印象ですが、実際はそんなことはありますまい。周囲で獲ったマイワシの水揚げが銚子漁港ということでしょう。
 ところで、2番目の段落で使われている「言及」というのは、どういう意味でしょうか。「入梅いわし」という呼び方が、江戸後期の文献に見えるという意味でしょう。
 「言及」という言葉の意味は、例えば『チャレンジ小学国語辞典・第4版』には、次のように書かれています。

 話を進めて、あることについても意見や考えを述べること。例「インタビューの中で、政治の問題点について言及する。」

 言及というのは、話題がある事柄に及ぶことを表す言葉です。何らかの話のまとまりがある場合に使います。文献の中に、呼び方が紹介されているというような場合に、「言及」という言葉を使うのはふさわしくありません。
 入試問題に使ったり、問題集の例文に引用したりする場合は、言葉遣いを厳密に検討するでしょう。そうした場合、この文章は、難点を含むということになってしまうでしょう。

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2019年8月 1日 (木)

言葉の移りゆき(438)

メディアの人たちの感覚


 メディアに携わる人たちの感覚と、一般の人たちの感覚とが大きくかけ離れつつある、ということを感じています。新聞や放送で生活している人たちは、自負を持っておられるようですが、それが一般人の考えや思いとは別の方向に向かっているようなところがあるのです。
メディアの関係者にもそれを自覚しておられる人があるようです。こんな文章を読みました。


 ほんとうの日本人とはだれか。
 国籍が日本の人? 否。国籍を得ても、外国出身者は差別される。稀勢の里の昇進で19年ぶりの「日本出身」横綱と、わざわざ発明した苦しい形容でメディアが驚喜した。日本人らしい容姿か? 否。日本語が不得手な女子テニスの大坂なおみに、「日本語で答えて」と会見で迫るのも、わたしたちだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月3日・夕刊、3版◎、7ページ、「現場へ! ほんとうの日本人①」、近藤康太郎)

 正直に、「わざわざ発明した苦しい形容でメディアが驚喜した」と書いています。言葉を作り出すのはメディアです。望ましい言葉も、そうでない言葉も、連日のように作り出しています。そして、「日本出身」という、がんじがらめの言葉を使って、そうでない人たちと厳格に区別しようとする姿勢を持つのもメディアの人たちです。
 「『日本語で答えて』と会見で迫るのも、わたしたちだ」と言っていますが、「わたしたち」とは一般の人たちではありません。一握りのメディアの関係者です。一般の人たちが「会見で迫」ったりはできないからです。
 この文章の筆者には「編集委員」という肩書きが記されています。新聞社を代表するような人の感覚がこのようであるのならば、一般の記者たちはなおさらであると思います。

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