« 言葉の移りゆき(446) | トップページ | 言葉の移りゆき(448) »

2019年8月10日 (土)

言葉の移りゆき(447)

「あおりの文化」は排除すべきだ


 ときどき、テレビ番組の「嘘」が問題になることがあります。自然な取材を装いながら、実際には「やらせ」があったりしています。
 けれども、このように現実を脚色して放送することは、日常茶飯事として行われています。これも「嘘」であると思いますが、改まるどころか、ますます増大しています。NHKとて例外ではありません。
 どうして、このような状態に対して非難する姿勢(自己批判)がないのかと思っていましたが、同じような考えの方の文章を読みました。


 いわゆる「あおり系」「あおりの文化」が嫌いで、テレビのバラエティー番組で観客の笑い声を入れたり、司会者がはしゃいだり、若者が通りでふざけている感じがあまり好きじゃない。
 (毎日新聞・大阪本社発行、2019年6月19日・夕刊、3ページ、「美とあそぶ」、吉村萬壱)

 この文章では、司会者がはしゃいだり、若者が通りでふざけたりしていることも述べられていますが、そんな場面は低俗であっても、事実をそのまま放送しているのでしょう。けれども、観客の笑い声を入れるのは虚偽であり、事実の歪曲です。これは、してはいけないことであるのですが、放送局には、その認識がありません。
 例えば新聞に載せられる写真で、そこに居合わせた人の人数が1人であるのに、それを数人に作り替えて掲載するのに等しい行為です。新聞はそんなことはしていません。テレビは、写っていないところに大勢がいて、一斉に笑い声を出しているという「嘘」を作り上げています。たとえバラエティー番組であっても、してはいけないことです。
 現在は、ニュース番組もバラエティー化していて、作為的な画面を作ったりしています。事件の現場に居合わせた人がいたということが未確認であっても、ドラマ仕立てでニュースの一場面を作り上げたりしています。事実と「嘘」との間が、曖昧になってしまっています。
 このような作為は、観客の笑い声を挿入するというような行為から出発して、ますますエスカレートしています。テレビ番組制作者が、「嘘」を作るということに不感症になってしまっているのです。
 面白ければそれでよいのだ、という姿勢から抜け出さなくては、テレビの将来が恐ろしい世界になってしまうように思います。

|

« 言葉の移りゆき(446) | トップページ | 言葉の移りゆき(448) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 言葉の移りゆき(446) | トップページ | 言葉の移りゆき(448) »