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2019年8月 6日 (火)

言葉の移りゆき(443)

こんなものを「情熱」とは呼べない


 制作する側は一生懸命になっていますが、見る側は白けてしまう番組というものがあります。ここに紹介されている番組を見たことはありませんが、紹介記事を読んで、唖然としました。こんな文章です。


 毎週脱帽する。街角で会った一般人の自宅にタクシー代などを払う条件でついていき、その人の人生を聞き込む。東京系の「家、ついて行ってイイですか?」だ。 …(中略)…
 この日の放送では家までついて行ったものの、話を結局聞き出せなかった模様も珍しく紹介された。よくあることだという。そもそもロケ自体を断られることも多いだろう。毎週ドラマチックな内容を複数放送するためにかけている手間、時間、人員。何げなく見てきたが、表には見えない情熱が支えているのだと感じさせられた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年6月21日・朝刊、14版、19ページ、「記者レビュー」、黒田健朗)

 最大級の褒め言葉の羅列です。見出しには〈「家について行く」情熱〉と書いてあります。
 この記事の筆者は、テレビ番組制作者と同化してしまっています。そういう目で見ると、番組制作が「情熱」とうつるのでしょう。恐ろしいことです。
 番組制作の姿勢として、これほど迷惑なことはないでしょう。「街角で会った一般人の自宅に……ついてい」くという行為を、自然なことであると考えるほど、現代人はテレビ局の行為を認めて(許して)いるのでしょうか。そのようには信じられません。
 筆者は、その番組作りは制作者の「情熱」によって支えられていると言っていますが、それは迷惑行為を浄化する働きをしているようです。「情熱」という綺麗な言葉で押し隠してしまっていると思います。
 そもそも「街角で会った一般人の自宅に……ついていき」ということが、実際に行われているのでしょうか。たまたま街角で出会った人がすべて、人を感動させる物語を持っているとは思えません。声をかけられた人が、簡単に取材受け入れのサインを出すとは思われません。
 予めさまざまなことをして、対象となる人物を探し出して、対象者を決めておいてから、たまたま街角で出会ったようなふりをしているのなら、それは演出ではなくて、虚偽です。人生の出来事などを話してテレビに映し出されることを、人は簡単に受け入れるでしょうか。熟慮した後に判断することだと思います。
 ある人のたどってきた経験や考え方・感じ方などに焦点を当てた番組が、人々の心を打つことはわかっています。けれども、それを、「家、ついて行ってイイですか?」という娯楽作品の乗りで作ってよいとは思いません。それを賞賛する記事にも、間違った視点が含まれているように思います。

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