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2020年2月29日 (土)

ことばと生活と新聞と(8)

新聞は校閲に力を注いでほしい


 小さなヘッドホンステレオが発売された1979年のことを書いた記事があります。

 僕が知っているステレオのラジカセは、百科辞典並みのごつさだった。技術の進歩が、音楽を外に持ち出せるようにしたのだ。 …(中略)…
 とはいえ、貧乏学生には高嶺の花。手にしたのは就職して数年後、ひとつのテレビコマーシャルがきっかけだった。湖のほとりで瞑想するように目をつぶり、ヘッドホンステレオから流れる曲に聴き入る一匹の猿。ナレーションが入る。
 「音が進化した。人はどうですか」
 「音は」ではなく「音が」。この違いをうまく言い表せないのだけれど、技術が文化や生活を変えうるという「希望」が、「が」という助詞に込められていたような気がしたのだ。
 猿は途中うっすらと目を開け、また閉じる。物言わぬ猿が、静かに未来を語り始めた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月25日・夕刊、3版、5ページ、「1987 瞑想する猿」、前田安正)

 この文章を読むと、いくつもの疑問が湧いてきます。
 ①この記事の欄外に「1987」という年号が書いてありますが、その年号は何を意味しているのでしょう。②粗っぽい表現を思わせる「百科辞典並みのごつさ」という言葉は、「大きさ」という言葉とどう違うのでしょうか。なぜこんな言葉を使ったのでしょうか。③「『音は』ではなく『音が』。この違い」を筆者はきちんと考えたのでしょうか。(「希望」という言葉で誤魔化してはいけないでしょう。)④「物言わぬ猿」はどんな未来を語り始めたというのでしょう。(それを書かないで、文章を終わりにするのは無責任です。)この文章の表題が「瞑想する猿」となっているのですが、何を目的にして、この文章は書かれたのでしょうか。
 こういうことを指摘して、わかりやすい文章に書き換えさせる役割を果たすのが、校閲の仕事でしょう。私はこのブログでも何回も指摘しましたが、最近の新聞はきちんとした校閲が行われていないように思います。
 この筆者が書いた夕刊コラムの致命的な間違いは、このブログでも指摘しました。そのコラムは後に、誤りを認めて書き換えられた文章が紙面に掲載されました。

 さて、このほど、「文章書くコツ伝授 / 元本社校閲センター長 神戸市職員研修」という見出しの記事が載りました。こんな内容です。

 神戸市職員研修所は19日、「わかりやすい文章の書き方」をテーマに、市職員対象の研修を市内で実施した。元朝日新聞東京本社校閲センター長の前田安正・朝日新聞メディアプロダクション校閲事業部長(64)が、参加した約80人に文章の構成の仕方や直し方などを教えた。
 同研修所が職員の文章力を向上させようと、「マジ文章書けないんだけど」(大和書房)の著書がある前田部長を講師に招いた。
 前田部長は講義の中で「言葉を記号として捉えるのではなく、『何のために書いているのか』を理解して文章を書いてほしい」と話した。 …(以下、略)…
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月20日・朝刊、「神戸」版、14版、24ページ、足立優心)

 市職員を対象にした、いわば内輪の催しを記事にするのは、自社の宣伝に過ぎないと思います。ただ、この記事でも書かれていますが、「『何のために書いているのか』を理解して文章を書いてほしい」ということこそ文章を書くときの基本です。新聞記事もまったく同様であるはずです。

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2020年2月28日 (金)

ことばと生活と新聞と(7)

同じ見出しや記事を2度も書いて恥ずかしくないのか


 夕刊は要らないということを新聞社が態度で示し始めている例を、具体的に記します。ただし、これは単なる一例に過ぎません。
 次のような見出しの記事が夕刊に載りました。

 籠池被告に懲役5年 / 森友補助金不正 / 妻は猶予付き懲役3年 一部無罪
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月19日・夕刊、3版、1ページ、見出し)

 そして、翌日の朝刊には、次のような見出しの記事が載りました。
 籠池被告に懲役5年 / 森友補助金不正 妻は執行猶予 / 大阪地裁判決
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月20日・朝刊、14版、1ページ、見出し)

 驚くべきことは、記事の書き出しが夕刊も朝刊も同じであるということです。200字程度はほぼそのままで、後に続く部分にも同じ表現があります。これは、朝刊の表現を変えるべきだとも思いますが、別の言い方をすれば、夕刊などは読まなくてよいということでもあります。
 1ページのトップ記事がこの有様ですから、他のページのニュースにも類することがしばしば現れます。先日の、熊本県のバス業者が連携した行動を取り始めたというニュースもそうですし、死亡記事などは何度も何度も、こういう書き方をしています。
 同じ記事を2度載せた場合、かつては大きなミスと感じてお詫び記事を出していたと思いますが、今は、ミスと感じていなくて、恥ずかしい気持ちのかけらもないようです。新聞社の心の持ち方が地に落ちてしまったと思います。これは一新聞社だけのことでしょうか。
 しかも、はっきりしていることは、大きなニュースのある日は別として、夕刊のニュースの数は驚くほど少ないのです。10本程度のニュースしか載っていない日があります。そんな日は1ページ目から「読み物」のパレードです。その「読み物」はその日に載せる必要がありません。いつ載せてもよいような記事(言い換えれば、載せなくてもよいような記事)が夕刊の1ページ目を闊歩しているのです。それを見ると、新聞が本来の役割を放棄しているように感じるのです。あるいは、夕刊なんて要らないということを新聞社自身が主張しているように思うのです。
 新聞は、政治・経済・社会のさまざまな問題について、遠慮のない批判をしています。しかし、自分のしていることについては批判の目が向けられていません。
 同じ日の夕刊「素粒子」欄には、厳しい批判の言葉が載っています。

 やっぱり口先だけだった。「政治家は自ら説明責任を果たすべきだ」の首相の決まり文句。ウソだというなら「説明するのはそちら側だ」と。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月19日・夕刊、3版、1ページ、「素粒子」)

 新聞は読者の意見に耳を傾けます、などという言葉は既に死語になったのでしょうか。他者に向けるのと同じ厳しさを、自社にも向けなくてはなりません。そうでなければ、読者はますます減っていくでしょう。
 これは大阪本社発行だけのことなのか、すべての本社が同じ有様なのかどうか、知りません。けれども、私たちは、選択の余地なく、大阪本社の新聞を読まされているのです。こんないい加減な夕刊は廃止すべきですし、廃止するなら急ぐべきだと思います。夕刊編集の信頼性だけでなく、新聞そのものの信頼性も失ってゆくでしょう。
 こういうことを新聞社に向かって言っても、姿勢が改まらないのなら、読者は確実に減っていくでしょう。子どものときから毎朝、毎晩親しんできた朝日新聞ですが、定期購読紙を変更するかどうか迷い始めています。もし、他紙も同様な傾向にあるのなら、新聞購読そのものを続けるかどうかの岐路に立っているということです。

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2020年2月27日 (木)

ことばと生活と新聞と(6)

新聞が朦朧とし始めている


 夕刊に出した記事をもう一度、翌日の朝刊に出すということがあります。かつてであれば「一部地域、既報」というような但し書きがありましたが、今では、そんな注記もなく同じ記事を載せています。
 新聞編集者は隅から隅まで目を光らせていると感じたのは、もはや昔話になりつつあります。わざと、こういう事態を招いておいて、「夕刊なんて要らない」という声が上がるのを待って、夕刊廃止にもっていこうとしているのではないかと勘繰りたくなります。ほんとうに夕刊の編集は軽視しているようです。朝・夕刊セット地域に住む読者としては、統合版で購読料の安い地域を羨ましく感じることがあります。
 そんなことを考えていたら、朝刊にもずさんな編集が見つかりました。
 「本社世論調査 質問と回答 ▼1面参照」という見出しの記事です。(朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月18日・朝刊、14版、4ページ)
 この日の1ページは、新型肺炎で国が受診の目安を決めたというニュース、「桜」夕食会の無記名領収書をホテルが否定したというニュース、国内GDPが年率で6.3%減になったというニュースの3本がすべてです。(朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月18日・朝刊、14版、1ページ)
 1ページには世論調査のニュースは載っていません。4ページの前記の世論調査の記事の隣りに「ポスト安倍 石破氏25% 小泉氏14%」という見出しの記事がありますが、それを指しているのでしょう。想像すると、もともと1ページに載せていた記事を4ページに移し、その隣りに「質問と回答」を載せたのでしょう。それにしても「▼1面参照」という文字を削除することを忘れるなどということを、昔の編集者はしなかったと思います。
 新聞の編集が朦朧とし始めているようです。人口に占める高齢者の割合が高くなって、認知症の人が多くなっています。まるで、新聞編集者にも認知症の人が多くなっているように感じます。朝刊の編集にも、夕刊の編集にも、セット版の編集にも、ぎくしゃくしたところが現れてきているようです。
新聞記事をインターネットで売るようになれば、そんな細かい配慮は要らなくなります。もはや新聞社内部はそんな空気になってしまっているのでしょうか。紙の新聞を信頼して、それを読み続けてきた読者にとっては、情けない現象が始まっていると感じられるのです。
 新聞社全体が朦朧としていますから、ブログにこのようなことを書いても何の反応もありませんし、私のこれまでの経験では、ブログの文章を新聞社に伝えても無視され続けるだけです。

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2020年2月26日 (水)

ことばと生活と新聞と(5)

自分のことを表現する言葉


 現代は広告・宣伝の時代ですから、自分のことを偉そうに高めたり、尊大ぶったもの言いをしたりする人が目立ちます。謙譲という、奥ゆかしい態度を人々は忘れてしまったのでしょうか。そんなことはないと思いますが、そうでない人たちが増えてきたことは間違いありません。
 言葉の中には、自分のことを表現するために使うのは不謹慎だと思われるようなものもあります。例えば、「真摯な態度で対応してくださった」とか「誠実に相手のことを考えていただいた」とか言うのは、相手への気持ちが表現されています。「真摯」や「誠実」は相手のことを讃える言葉のはずです。その言葉を、自分の性格や行為を表すようにして使う人の気持ちが理解できません。
 多くの人がそのように感じているのでしょう。次のような文章がありました。

 おととい、きのうと国会の代表質問を聞き、安倍首相の相変わらずの答弁にげんなりした。桜を見る会も、カジノ疑惑も、答えるべきところを答えない。煙幕を張るための決まり文句だけは色々あって「真摯に反省」「誠実に対応」などが繰り出される。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月24日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 反省や対応が十分でないと思われるから質問が繰り返されるのですが、自分のことを「真摯に反省」「誠実に対応」などと表現して答弁する人は、日本語の使い方がわかっているようには思えません。「反省せよ」と迫られた人間が、「はい、私は真摯に反省しました」などと答えている姿を見ても、なにひとつ信用できないのが人間の本当の気持ちです。
 自己宣伝の言葉だけは、たくさん開発しているようです。吉田政権とか小泉政権という言葉は、周囲の人が使ってもおかしくはありませんが、自分のことを安倍政権などと繰り返し発言する人の気持ちはなかなか理解できません。権力という恐ろしいものを持っている人間が、それを自慢たらしく口にする気持ちにはおぞましさを感じるのです。
 議会は討論の場です。政治や経済などの専門用語が使われることは当然でしょうが、そうでない部分では、人々が使っている意味・用法に沿った言葉遣いをしてもらえないものでしょうか。

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2020年2月25日 (火)

ことばと生活と新聞と(4)

「みんな」とか「多くの」とは誰のことか


 小さな子どもが親にものをねだるときには、「みんなが持っているから、僕もほしい」と言うことがあります。「みんな」とは誰かと尋ねると、周囲の全員のことではなく、仲良くしているA君とB君のふたりのことであったりします。
 これと同様の表現を新聞がしたら困ります。けれども、書いている人は無意識のうちに行っているのかもしれませんが、そんな記事があります。
 「高校生は英語で自己表現したいんです」というのがメインの見出しになっている記事がありました。このような見出しを見ると、「みんな」とは書かれていなくても、ほぼ全員の気持ちであるのかと思います。高校生の時期を通過したのはずいぶん昔のことですが、そんなはずはないだろうと思うのです。長い間にわたって高校教員を経験した私には、高校生みんなが英語で自己表現したいという強い欲望を持っているとは思えません。英語の嫌いな高校生もいます。
 この記事は、英語民間試験見直しについて、東進ハイスクール講師という肩書きの人に聞いてまとめた記事です。見出しのもとになったと思われる表現を本文から探すと、次のような部分がありました。

 話して時の子どもたちの表情は生き生きしていますよ。多くの中高生は「英語がしゃべれるようになりたい」と言います。しゃべりたいんです。自己表現をしたいんです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月21日・朝刊、13版、19ページ、「揺れる大学入試」、語り手・安河内哲也、聞き手・山下知子)

 この「語り手」は、さすが予備校講師だけあって、高等学校の現実の姿をじゅうぶんご存じでないようで、「そもそも、多くの高校では、入試に出ないことは省かれてしまいます。」などということを平気で発言されています。こういう間違った指摘には、高校教員は腹を立てるのですが、新聞は平気で書きます。
 記事には学習指導要領のことも述べられていますが、指導要領の中身を十分ご存じかなと疑います。自分の予備校での授業をもとに、それを正規の高校の授業だと決め付けているようなところがあります。
 記事の「語り手」と「聞き手」の関係は推測するしかありませんので、正しく聞き取られているということにして、それを前提にして話を進めます。そうすると、問題は、記事の中身を正確に読み取っていない整理部記者に行き着きます。
見出しの「高校生は英語で自己表現したいんです」という場合の「自己表現」という言葉と、本文の「多くの中高生は『英語がしゃべれるようになりたい』と言います。しゃべりたいんです。自己表現をしたいんです。」という場合の「自己表現」という言葉とは、重さがまったく異なっています。
 見出しの「自己表現」は自分の思想・感情・自意識のようなものです。そうでなければ、英語民間試験見直しを論じる記事の主たる見出しにふさわしくありません。本文中の文章は、「英語でしゃべりたい」ということ、すなわち会話ができるということに過ぎません。
 しかも、見出しの言葉の重みは、自己表現したいという強い意欲のように聞こえます。本文中の言葉は、英語で会話をしたいという願望にすぎません。願望の場合は、結果としてできるかできないかはわかりません。それは「自己表現」などという立派な言葉に該当しません。
 このような軽い表現に過ぎないものを、見出しにして、英語民間試験見直しを論じても意味がありません。また、このような考えの人が、英語教育の在り方に関する有識者会議の委員であるということも驚きでした。

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2020年2月24日 (月)

ことばと生活と新聞と(3)

一般記事と宣伝・広告との区別がなくなりつつある


 一般の新聞は、記事と広告との区別がしっかりとできていると思い続けてきましたが、近頃はそれがあいまいになっていると思います。
 付録のようにして折り込まれるものには、その傾向が強いと思います。
 例えば、「我が子が伸びる熟選び」という題名がついた記事があります。リードには次のような文章が書いてあります。

 子どもを学習塾に行かせたほうがいいの? 行くならどんな規模、雰囲気? 学びをめぐる悩みは尽きません。専門家に熟選びのポイントを聞きました。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月9日・朝刊、「EduA」1ページ)

 「子どもを学習塾に行かせたほうがいいの?」という問いかけで始まっていますが、質問の答えを「はい」「いいえ」で進めていくと、結局は、大手進学塾、小規模進学塾、個別指導塾・家庭教師、通信教育・家庭学習、塾の公立中進学コース・学習教室など、の5つのうちのどれかにたどり着くようになってます。塾などに頼らないで自分で学習するというような結論はあり得ないのです。
 そもそも、月に2回ほど折り込まれるタブロイド判8ページの紙面には、塾ソムリエ、教育アドバイザー、国語教室主宰、ゼミ講師などという肩書きの人が登場して、自説を説得させようとしています。教育を商売にしている人たちばかりと言っても過言ではありません。公教育に携わっている人などは登場させません。いわば教育産業の宣伝を担っているのが「EduA」という紙面です。このタブロイドを始めてから20号近くになりますが、一貫してそういう姿勢です。
 教育というものをそのように認識しているのなら、新聞社としての姿勢が問題であると思います。宣伝・広告に徹しようとしているのなら、この紙面は宣伝であると書き記さなければなりません。
 新聞は、一般的には記事と広告とを区別しています。全面広告にはその旨が書かれます。けれども「EduA」にはそのような表示はありません。富裕層の保護者向けに、教育産業の宣伝・広告をして、それを一般の記事として読ませているのです。悪質な記事であると思います。
 けれども新聞本体はまだ、ましな方です。同じ新聞社が(たとえ分社化したとしても)週刊誌で大学合格者ランキングの記事を大々的に載せて、売り続けています。教育のあるべき姿などなどを本気になって考えたりはしていないのです。教育は出世するための手段であると考えるとともに、教育は企業の金儲けの手段だとするのが新聞社の考え方なのです。

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2020年2月23日 (日)

ことばと生活と新聞と(2)

市民向けにはわかりやすい言葉遣いで


 世の中には新しいものが次々と生まれています。新しいものには新しい名前が付けられるのは当然です。けれども、その付け方が問題です。外国語の真似をして無批判に外国語を取り入れることはしてほしくありません。
 新型コロナウイルスの感染が広がっています。その名称を新型コロナウイルスと言えば、その実態がわからなくても、言葉としては納得します。言葉に対して身構える必要はありません。それは日本語のひとつであると思います。
 私は先祖代々、明石市に住んでいます。市の広報紙の1ページに「SDGs未来安心都市・明石へ」という大きな見出しの記事が載りました。「明石市が目指すまちの姿 × SDGs」という大きな文字も書かれています。
 2ページには、「SDGsとは?」として、次のように書かれています。

 Sustainable Development Goals
 世界共通の17の目標
 国連サミットで世界が合意した2030年に向けての持続可能な開発目標
 (明石市役所「広報あかし」、2020年2月15日発行、2ページ)

 そして、記事のリード文は次のようになっています。

 これまで10年ごとに5次にわたり、市のまちづくりを総合的・計画的に進めるための指針となる総合計画を策定してきました。このたび、2021年度から始まる(仮称)あかしSDGs推進計画(第6次長期総合計画)の策定に向けた審議会が開催されました。学識者や各種団体の関係者、公募市民が議論を重ね、来年3月の策定を目指します。
 (明石市役所「広報あかし」、2020年2月15日発行、2~3ページ)

 ページの片隅には、こんな話題も掲載されています。

 SDGs調査で明石市が全国4位に
 1位・川越市(埼玉県)、2位・金沢市(石川県)、3位・西宮市(兵庫県)、4位・明石市(兵庫県)、5位・福岡市(福岡県)、《以下、略》
 市版SDGs調査とは?
 ㈱ブランド総合研究所が全国の政令指定都市・中核市・県庁所在市83市を対象に実施。幸福度や定住意欲度など106項目から地域の持続性を調査。 
 (明石市役所「広報あかし」、2020年2月15日発行、3ページ)

 記事をすべて読んでも「SDGs」という言葉の意味を納得することはできません。仮に納得できる段階になっても、その内容をなぜ「SDGs」などという言葉で表現しなければならないのかということを得心するわけにはいかないでしょう。
 市民の一人一人が読むように作られている広報紙です。「SDGs」などという咀嚼できない言葉を使わずに、もっとわかりやすい言葉を使えないのでしょうか。国連サミットで示された考えを、日本語で表現できないのでしょうか。日本語はそんな劣った言語ではないと信じています。この3ページにわたる記事を読んでも、具体的なイメージが浮かんでこないのです。
 もちろん「SDGs」は日刊新聞でも目にします。日刊新聞の場合も同じなのですが、文字数を減らすという能率化のために、カタカナ語やアルファベット略語を使うことが増えています。新型コロナウイルスについても略語が使われることになるかもしれません。言葉を仕事にしている新聞社や、市民に広報する務めのある市役所は、外国語をそのまま取り入れるということは慎重にしなければなりません。

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2020年2月22日 (土)

ことばと生活と新聞と(1)

新聞への信頼感と、新聞離れ


 いかに時代が変化しようと、新聞と放送を比べると、私は報道機関としては新聞の方を信頼しています。放送とりわけテレビは、中学生の頃から見るようになり、大学生の頃からドラマやニュースなどに親しむ度合いが少しずつ増えていきました。
 今でも記憶しているのですが、勤め始めた頃は、朝のテレビ放送が始まるのは、せいぜい6時頃からだったように思います。6時30分頃に家を出るという生活の中では、朝のニュースを見ようとしても放送されていませんでした。
 東京のホテルニュージャパンで火災があった時は、テレビスイッチを入れた時に、早い時間帯にその実況がされていて、びっくりした記憶があります。特別の放送でした。
 ニュースの放送時間が増え、ワイドショーでニュース関連の話題を、まるで垂れ流しているような時代になっても、私は新聞の方を信頼しています。テレビは新参者で、新聞(社)に育てられたものという認識が抜けないからかもしれません。
 もちろん災害の時などのテレビやラジオの力は大きいということは理解しています。けれども、放送に接するだけで済ませることはできず、新聞で確かめたいと思うのです。まして、テレビやラジオでの論評は一時的、表面的に終わることが多く、新聞の方に大きな信頼を置いています。
 そうではありますが、次のようなことが起こっています。
私の友人に、新聞を読まなくなったという人がいます。私たちの世代には、新聞を定期購読しない人はいませんが、新聞が来ても読まなくなったというのです。奥さんはよく読むのだそうですが、彼は読まないのだそうです。彼はテレビ漬けの生活をしているわけではありません。テレビも見ないが、新聞も読まないという生活なのです。
 私も新聞をあまり熱心に読まなくなったように思います。新聞を読む時間が少なくなりました。テレビはせいぜいニュースを見る程度で、それ以外に見る番組は多くはありません。
 なぜ新聞を読む時間が少なくなったのかを考えてみると、ぜひ読まなければならない内容が少なくなったからです。世の中に、どうしても読んでおかなければならないほどの記事はあまりありません。首相という立場の人がヤジを飛ばして問題になったとしても、その経緯や問題の結末がどうなるのか、与野党議員の小さな戦いであるに過ぎません。公文書破棄の問題は、腐った政治家や官僚の問題でありますが、詳しく知ったとて一個人が施す手だてはありません。言葉の重みを理解していないような政治家が国会で論戦を繰り広げても、逐一的に経過を読んでみようとは思わなくなりつつあります。
 現段階では新型コロナウイルスがどう感染していくのかという大問題がありますが、せいぜいそれぐらいが、新聞を読むときの関心事です。
 新聞記事の量は増えても、昔に比べると、熱中して読む記事は減ってしまいました。私が年齢を重ねてきたということも理由の一つでしょうが、そればかりではありません。軽薄な記事が増加していることは厳然とした事実です。「ことば」が軽くなっているのです。
 私は「ことば」には強い関心を持っています。生活と言葉との関係については、これまでのブログにも書いてきましたが、タイトルを改めて書き続けることにします。

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2020年2月21日 (金)

兵庫県の方言(7)

方言の記録について


 最後に、方言を記録することについて、お願いをしたいと思います。
 昭和の終わりの頃、文化庁が「各地方言収集緊急調査」というものを、すべての都道府県で行いました。兵庫県の調査は5人で行いましたが、私は神戸市兵庫区の和田岬地域を担当しました。
 方言が失われていくことを懸念して、文化庁は「緊急調査」という名前で、各地の方言を記録したのです。あれから35年ほどの年月が流れましたが、あの時だけが「緊急」であったはずがありません。それ以後、このような規模の調査は行われておりません。30年、40年、50年という間隔で見ると、先ほど申したように、方言は確実に変化しているのです。
 私は、ひとりでも多くの方が、方言に関心をお持ちになって、方言を記録することに協力していただけたらと願っております。
 方言を記録すると言っても、何も難しいことではありません。
 方言を記録する方法の一つは、気付いた方言を書き留めるということです。書き留めておくだけでも価値がありますが、できればそれを冊子にして残せば、価値が高まります。何人かの方で力を合わせて、地域の方言についての冊子を作るのは貴重なことです。
 方言を記録する方法のもう一つは、普段の会話を録音することです。私が兵庫県明石の会話を録音した、最も古いものはちょうど前回の東京オリンピックの年、1964年のものですから、五十数年前のものです。今、聞いてみると、言葉遣いに隔世の感があります。録音を残しておくだけでも資料としての価値があるのです。
 録音する会話の内容は、ごく普通の日常的な話でよいのです。何人かの人が集まって、自分たちが子どもの頃はこんな遊びをしていたとか、ここ数年で町や村の様子がずいぶん変化してきたとか、昔に比べて衣・食・住がどう変わったかとか、話題は何でも良いのです。わいわいと、とりとめの無いような話であって、よいのです。目的は、言葉遣いの記録なのですから、気軽に会話をして残しておくだけでも大きな価値があるのです。
 ぜひ、方言の記録を行ってくださいますように、お願いをします。

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2020年2月20日 (木)

兵庫県の方言(6)

語法について


兵庫県の方言の特徴の4つ目。文法とか語法とか言われているものについてお話しします。
 「流行語」という言い方があるように、単語には、はやり廃りなどもあって、かなりのスピードで変化を遂げることがあります。一方、身についたアクセントはなかなか変えられません。
 それに対して、文法の変化の速度は遅いと考えられますが、それでも、30年、50年という間隔で見ると、文法も変わってきています。
 「もしナニナニであったら」という言い方を考えてみましょう。「もしナニナニであったら」、仮定の表現は、私が小学生ぐらいの頃は、明石に住んでいる私の身の回りには、動詞や形容詞などの未然形を使って仮定表現をする言い方が残っていました。
 「明日(あした) 雨が降ったら、運動会は中止だ。」と言う場合に、「明日 雨が 降ら、運動会は中止や。」というような言い方がありました。もちろん他の言い方もできるのですが、「明日 雨が 降ら、運動会は中止や。」とも言っていました。今は使わなくなってしまっています。
 これは動詞の場合ですが、形容詞の場合はこんな言い方をしました。
 「竹が長くて 困るのならば 2つに切れ」というような場合、「竹が 長けら、2つに切れ。」と言っていました。「長けら 切れ」。このような、活用する言葉の未然形を使って表現するというやり方は、ほとんど姿を消してしまいました。文法が変化しているのです。
 敬語は、播磨の地域では「言(ゆ)ーとってや」というように「てや」を使うのが普通でした。けれども、今では大阪や阪神間を中心に広がっている「言(ゆ)ーてはる」という「はる」の勢力が広がってきています。
 助詞や助動詞についても変化が見られます。「降ろと降ろまいと 遠足に行く」「降っても降らなくても 遠足に行く。」というときに「降ろと降ろまいと」と言う「まい」。
 「お前が悪いんやさかい 弁償せえ。」というときの「さかい」などは使われる度合いが下降線をたどっているようです。
 「走るのは しとみない」。走ることは したくない、という意味の「とみない」なども、やはり使われなくなりつつあります。

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2020年2月19日 (水)

兵庫県の方言(5)

語彙について


 兵庫県の方言の特徴の3つ目。語彙のことをお話しします。
 語彙というのは、単語の集まりです。単語の全体のことを「語彙」と言いますが、ここでは、いくつかの単語を例にしてお話しします。
 私が姫路の高等学校に勤めていたとき、生徒から「先生、いつ、はろてくれるん?」と尋ねられて、びっくりしたことがあります。
 「はろてくれる?」。えっ、何?、この生徒からお金か何かを借りたことがあったかなぁ、ということが、一瞬、頭をよぎりました。
 その生徒が、この間の試験の結果が心配だというようなことを言い出して、「はらう」という言葉が、答案を返却するという意味であることがわかりました。
 その後、多くの生徒の口から「試験、はよ、はろてほしいなー」などという言葉を聞きました。多くの生徒が、答案を返却するという意味で、「払う」を使っていたのです。
 「払う」というのは全国共通語です。けれども、私は、明石に住んでいますから、「払う」という言葉の、このような使い方に出会ったのは初めてでした。姫路の前に勤めたのは加古川市内の高等学校ですが、加古川の生徒もこのような意味での「払う」は使っていませんでした。
 場所がちょっと違えば、言葉の使い方が違ってくることがあるというのを実感しました。
 もっとも、言葉の使い方は、時代の流れに沿って変化していきます。今でも姫路で「答案を はらう」という言葉遣いをしているのかどうかは、知りません
 方言というのはおもしろいものです。私たちが方言だと思っていても、意外にも全国に広く通用する言葉があります。
 例えば、「べっちょない」という言葉があります。この言葉を、私たちは地元の言葉であると意識しているように思います。
 「昨日 駅の階段で こけたけど、 べっちょなかってん。」などと言うときの、「べっちょない」です。確かに、「べっちょない」という発音、発音の崩し方は、関西の言葉の特徴のように思います。
 けれども、「べっちょない」は、漢字で書けば、命に別状がない、という文字です。全国には、似たような発音で、似たように言葉があります。発音は方言としての特徴を持っていますが、ちょっと説明すれば、他の地域の方にも納得してもらえる言葉です。
 「べっちょない」という言葉と似た言葉に、「だんない」とか「だんだい」とかいう言葉があるのをご存じでしょうか。「だんない」「だんだい」も、大丈夫だ、心配は要らない、というような意味です。「ガラスを めんだんかいな。だんない だんない。心配せんとき。」などと言います。
 面白いことに、「だんない」は、「ドンマイ」という言葉に、発音がよく似ています。「ドンマイ」というのは、英語の「ドント・マインド」に由来する言葉です。スポーツなどで失敗をした仲間などを励ます言葉です。気にするな、心配しなくてよい、と言っているのです。
 「だんない」と「ドンマイ」。「だんない 心配せんとき」「ドンマイ ドンマイ 心配は要らん」発音が似ていて、ほぼ同じような意味を表すのは面白いことです。
 方言であると意識していないのに、その意味がわからないと、問い返される言葉もあります。一例を挙げます。先ほどの「めぐ」という言葉です。
 固いボールを窓ガラスなどに当てて、ガラスを壊すことがあります。「ガラスを めんで 怒られた。」と言います。「めぐ」という動詞を使います。これは他動詞です。
 「台風で ガラスが めげて 後始末をした。」という場合は、「めげる」という動詞を使っています。これは自動詞です。
 全国共通語をおさめた国語辞典を引くと、「めげる」という言葉は載っています。けれども、それは、試合に負けて、やる気が「めげる」と言うように、気持ちを表す言葉です。ものを壊すことを「めぐ」とは言うのは、方言(俚言)です。
 「めぐ」や「めげる」は、全国どこでも通用する言葉だと思っておられる方がいらっしゃるかもしれませんが、そうではないのです。
 疲れたというような意味を表す「しんどい」は、元は関西の方言(俚言)です。それが、今では全国で通用するようになりました。
 けれども、何かの仕事を頼まれたときに、「それは しんどいなー。よー せんわ。」というような、難しいとか、能力に叶わないというような意味は、まだ全国に広がっていないかもしれません。
 関西で広く使われている「なおす」という言葉。「机のヒキダシになおす」というような、しまっておく、収納する、という意味は、東京の人には理解できないようです。「その携帯ラジオ そんなとこに ほっとかんと ちゃんと なおしといて。」と言ったら、修繕するという意味に誤解されることになるでしょう。

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2020年2月18日 (火)

兵庫県の方言(4)

アクセントについて


 次に、兵庫県の方言の特徴の2つ目。アクセントのことをお話しします。
 テレビやラジオのニュースなどを聞いているときに、東京アクセントと関西アクセントの違いを意識しないでおられるのは、単語としてのアクセントが強調されないで、全体の抑揚、イントネーションの中でアクセントが緩和されて聞こえてくるからです。けれども、区切って、丁寧に発音するのを聞くと、地名でもアクセントの違いが強調されます。鉄道の不通区間を知らせる場合などに、「姫路」という一拍目が高いアクセントを聞くことがあります。普段、私たちが「姫路」と発音している平板なものとは違いますから、違和感を持つことがあります。
 阪神間や播磨地域は関西アクセントです。京阪アクセントとも言います。ところが、兵庫県は全地域が関西アクセントかというと、実はそうではありません。兵庫県内でも但馬の地域は東京アクセントです。また、隣りの県では岡山や鳥取は東京アクセントです。関西アクセントのただ中にいる人は、関西アクセントの地域が広いように思っていますが、実際にはそうではないのです。
 ところで、関西でも、同じ言葉を、違ったアクセントで話していることに気付かれたことはありますか。
 「その映画は 前に 見た」と言うときの「前に」というアクセントと、「もー少し 前に 進んでください」と言うときの「前に」というアクセントとは、違っています。「前に 見た」と、「前に 進む」。私たちは同じ言葉であっても、無意識のうちにアクセントを使い分けているのです。

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2020年2月17日 (月)

兵庫県の方言(3)

音韻について

 

 

 はじめに音韻についてお話しします。音韻、すなわち発音のことです。
 掃除をするときに雑巾を使います。その雑巾を、例えば播磨地域に住む人が、「どうきん」と発音することがあります。サ行の「さしすせそ」を濁音にした「ざじずぜぞ」と、タ行の濁音「だぢづでど」と、ラ行の「らりるれろ」とが、時に混同する現象が起きているのです。もっとも、そのような発音の混同は関西に広がっていて、大阪では、淀川のことを「よろがわ」と言う人もいます。大阪には、「よろがわ(淀川)の水を飲んで、腹ららくらり(だだ下り)や」という言い方があると言います。
 もっとも、東京には、東京の発音の特徴的な傾向はあるわけで、東京駅の近くの日比谷(ひびや)という地名も、NHKのある渋谷(しぶや)という地名も、「しびや」のような発音になってしまって、2つの地名を発音し分けるのが難しい人がいるようです。落語などを聞いていると、炭火を挟む「ひばし(火箸)」のことを「しばし」と言ったりしています。
 さて、「えー えーを こーた。」という言葉を聞いて、どういうことかおわかりになりますか。関西では、一拍音、一音の言葉の発音が伸びて、長音(延ばす発音)になるという現象があります。
 「えー えーを こーた。」というのは、はじめの「えー」は(良い)、次の「えーを」は(絵画を)、それを「こーた」(買った)、ということですね。
 「かー(蚊)に 刺された。」とか、「は(歯)ーが 痛いさかい 歯医者さんへ 行く。」というように、一拍音が長くなるというのは関西方言の大きな特徴です。
 それから、兵庫県を含めて関西には、鼻濁音の現象が残っています。鼻にかかった「か゜・き゜・く゜・け゜・こ゜」のような発音です。鼻濁音は美しいと意識されていましたから、鼻濁音が関西に残っているのは嬉しいことです。
 「かか゜く(科学)か゜ 発達する。」とか「蝶や か゜ー(蛾)か゜ 飛んでくる。」というような発音です。
 次に、新幹線の駅がある西明石が「にっしゃかし」という発音になり、山陽線にある駅名の土山が「つっちゃま」になり、市の名前の芦屋が「あっしゃ」になるという発音変化があります。結論だけを申します。これは、二拍目より後ろにイ段かウ段の音があり、その次に母音「ア・イ・ウ・エ・オ」や、ヤ行の「ヤ・ユ・ヨ」や、ワ行の「ワ」が来る場合、二拍の発音が結びついて「キャ・キュ・キョ」などの拗音の一拍となって、減った一拍を「ン」という撥音(はねる音)、または「ッ」という促音(つまる音)で補うという現象です。西明石=(にっしゃかし)、福知山=(ふくっちゃま)、石山=(いっしゃま)などの発音です。
 固有名詞だけではありません。日曜日を「にっちょーび」と言ったり、「花火を打ち上げる」を「うっちゃげる(打ち上げる)」と言ったりします。このような発音の変化は意外に多いのです。

 

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2020年2月16日 (日)

兵庫県の方言(2)

「やさしい」言葉としての方言


 それでは、兵庫県の方言の特徴などについて述べますが、難しい理論のようなものはなるべく避けて、できるだけ具体的な例で、お話をします。方言の良さや面白さについて理解していただけば嬉しいと思います。
 私は、生まれてからずっと、兵庫県の明石で暮らしています。アクセントは関西アクセントが身に付いていて、東京アクセントで話せといわれたら困ってしまいます。一つ一つの言葉(単語)は一見、共通語のように聞こえるかもしれませんが、共通語のように見える言葉も、方言の体系の中にある言葉の一つ一つなのです。
 例えば、部屋の中にある椅子を指さして、 「これを何と言いますか。方言で言ってみてください。」 と言われても、 共通語と同じように「いす(椅子)」としか言えません。「つくえ(机)」も「いす」も、「そら(空)」も「うみ(海)」も「みず(水)」も、共通語と同じ言葉を使っているのです。
 けれども、同じ言葉であれば、方言と共通語は、完全に意味や使い方が一致するかと言えば、そうであるとは言い切れません。
 一例として、「やま(山)」という言葉について考えてみます。「やま」という言葉は、共通語と同じような意味を表すとともに、木が群がって生えているようなところ、林や森というようなところ、という意味でも使っている地域があるのです。
 このような意味を含んでいる「やま」という言葉も、共通語とほとんど同じ意味を表している「そら」という言葉も、方言の中にある言葉なのです。
 大雑把な言い方をするなら、「方言」というのは、特定の地域社会、例えば兵庫県なら兵庫県という地域で、使われる言葉の全体のことです。一つの国語、すなわち日本語が地域によって異なる発音や、アクセントや、単語や、文法などを持っているとき、それぞれの地域の言葉の姿の全体を、方言と言うのです。
 「方言」という言葉とは違う、別の言葉を、一つ紹介します。共通語とは違って、その地域でだけ使われる、特有の言葉がありますが、それを「俚言(りげん)」と言います。その土地特有の言葉を俚言と言いますが、日本各地で作られている方言集は、正確に言えば、俚言を集めたものを「方言集」と言っているのです。
 それでは、ここから、しばらく、兵庫県の方言はどのような特徴を持っているかということについてお話しします。その一端を述べるにとどまることをお許しください。
 4つに分けて、①発音、②アクセント、③単語、④文法、についてお話しします。

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2020年2月15日 (土)

兵庫県の方言(1)

「やさしい」言葉としての方言


 私たちはふだん、方言を使って話をしています。私は、方言丸出しやなぁと言われることがありますが、私にとっては、それが自然な話し方なのです。
 関西に住んでいる私たちが、他の地域の方言を聞くと、難しくてよくわからないと思うことがあります。例えば、東北地方の方言や、鹿児島県の方言などを聞くと、何を言っているのか わからないということがあります。
 けれども、なぜそのような言い方になっているのかということを理解すると、それぞれの地域の言葉は、意外に納得しやすいのです。方言は、基本的にとても易しい言葉であると考えてよろしいでしょう。
 さて、方言についてお話しする前に、ちょっと話を広げて、「言葉」というものについて考えることから始めたいと思います。
 言葉を使って、私たちは、「話す」、「聞く」、「書く」、「読む」ということをしています。口で話し、耳で聞くのは音声言語であり、話し言葉です。文字に書き、それを読むのは文字言語であり、書き言葉です。
 方言というのは、一般に話し言葉の世界です。方言を文字で書くと違和感を覚えるという方がおられます。何かの意見を主張するような文章の場合に、方言を交えて書くのはあまりよくないと考えることもあります。そんな風に感じたり考えたりする理由は、方言が、日常的な、話し言葉の世界のものであるからです。
 言葉は、自分と他の人とをつなぐものです。伝達、コミュニケーションのために、言葉が使われるのです。言葉は、相手に伝わってはじめて、その役割を果たしたことになります。相手に言葉が届いていても、言いたいことが相手に伝わらなければ、言葉の目的を達したことにはなりません。
 私たちは、自分が他人を知るために言葉を使い、自分を他人に知らせるために言葉を使っています。もちろん言葉以外のもので思想や感情を知らせることもあります。絵画や音楽などを仲立ちにして表現や理解も行っています。けれども、言葉は、伝達手段の中でもとりわけ重要な働きをしています。
 私は、表現するときの基本は、「やさしい」ということにある、と考えています。
 言葉は、平易な言葉、「易しい」言葉でないと相手に伝わりません。自分だけわかっていて、相手にはわからないというような言葉は避けるべきでしょう。
 そして、もうひとつ。言葉は、相手に対する心遣いをそなえていなければなりません。相手に対する「優しい」心が大切です。
 実は、方言は平易な、「易しい」言葉の集まりであるとともに、相手に心配りをした、相手に伝わりやすい、「優しさ」をそなえた言葉であるのです。

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2020年2月14日 (金)

生きる折々(45)

倫理観が欠如している


 「経済を発展させるのは『弱い人』、あるいは私たちの中にある『弱さ』である。」
 これは経済学史家の堂目卓生さんの著書の中にある言葉だそうです。新聞で紹介されていましたが、細かな意味合いはわかりません。学者の言葉ですから深い意味合いが込められているのかもしれません。
 新型コロナウイルスの感染に関わる問題で、世界中でマスクが不足しているそうです。商売をする人はたくさん貯め込んで、高値で売りさばいているかもしれないという懸念もあるようです。人の弱みにつけ込んで利益を得ようとする人間は昔もいたでしょうが、現在は露骨になっているのでしょう。法律に触れなければどんなことをしても咎められないというのは、住みやすい社会と言えるでしょうか。
 新聞や放送には倫理観が大きく不足していると感じます。法律違反のようなことは大きく報道します。それは当然でしょう。けれども、倫理的に問題があるというようなことは、法律的に違反であるということが明らかにならなければ咎め立てをしないのが、今の報道機関の姿勢です。あくどい金儲けをしても、法律が見逃しているようなことには、報道機関も同調して見逃しているように思います。個人についてのことだけではありません。国が行っていることについても同様だと感じています。
 オリンピックを開催すればどれだけの経済効果があるとか言われ、IRのことも経済的見地から議論をされます。経済という言葉は、もともとの経国済民などという考え方を離れてしまい、金儲けをしたい人にどれほどの効果があるかという観点が重視されているようです。選挙資金を特定の人に1億5000万円も与えても、それ以上の効果があると考えるから、そういうことをするのでしょう。明らかに法律違反だという結論が出ると、大きな声で報道しますが、法網を微妙にかいくぐったことになる場合は、報道機関は声を出しません。仕方がないと諦めているのでしょうか。
 考えなければならないことは、私たちが生きる上で、何を規範にしているかということです。報道機関の基準は法律のようです。法律で咎められない限りは、間違っていないという考えのようです。倫理という基準などかなぐり捨ててしまっているように感じるのです。
 はじめに挙げた堂目さんの言葉の深い意味はわかりません。けれども、経済は「弱い人」に寄り添うものでなければなりませんし、人間の弱さを補うものとして科学技術も発展してきたでしょう。
 政治も経済も科学技術も、政治家や商売人や技術者の個人の利益のために使われては困りますが、今の社会はそのような様相を強めているのではないでしょうか。悲しいことです。
 間違いを認める謙虚さが、人間には必要です。言葉をもてあそんで相手を言い負かしたりしても、いつかは間違いであったことが露呈します。人間として正しいことは何か、ということは幼い子どもにもわかっています。大の大人が言葉を上手に使っても、正しいこととそうでないことの違いはわかります。
 新聞や放送は、子どもにでもわかるような言葉で意見を述べてみましょう。政治家も商売人も技術者も同様に、です。法律などを正面に出さなくても、正しく生きることは論じられるのです。

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2020年2月13日 (木)

生きる折々(44)

見はるかす風景は、半世紀で変化してしまった

 『歌風土記 兵庫縣』は、巻頭に「およそ、想の赴く、脚がはこぶ随時随処、縣内の風物によせる感懐をうたひあげよう」という言葉があるように、歌人の富田砕花さんが終戦後に兵庫県の摂津・播磨・丹波・但馬・淡路を行脚して作られた396首が収められています。
 その中に「明石高等学校附近」という詞書きが添えられている一首があります。こんな歌です。
どこまでも起き伏しつづく低山を夕靄のむかうに見はるかす丘
 昭和33年(1958年)に高校生となった私は、まさにそんな風景だと思うようなところに位置する県立明石高等学校へ通いました。東の方に須磨の鉢伏山などが望めるところ、北にも低い山が見えますが、南は明石海峡が広がっています。学校のあるところは海岸よりは少し高くなった丘ですが、当時は幹線道路も舗装ができていなくて、小型のバスは砂煙を巻き上げて走りました。
 学校から東の方はゆるやかな谷のようになっていましたが、家は建っていませんでした。今から思うと、まさにこの歌のような風景が広がっていました。
 現在はと言うと、谷のように感じたところもぎっしりと家が建ち並び、明石・神戸市境のあたりは、大規模な明石舞子団地になっています。
 高等学校を卒業して50年経ったときに、私たちの回生の卒業生は、高校時代の思い出や、卒業後のこと、近年の様子などを思い思いに綴った文章を160ページ余りの書物に収めて刊行しました。私もその時、編集を担当しましたが、書名をどうしようかとなったときに、思わず提案したのが「見はるかす明高時代」というタイトルでした。
 見はるかすという言葉は、富田さんの歌は、ずっと遠くまで眺めやるという意味で使われています。まさに高校時代にそのような風景を目にしていたのです。
 それに加えて、遠くまで眺めるという意味を、時間的な経過の意味を込めて、50年前の高校時代を眺めて、さらに近景(その後の時間の推移)をも眺めるという意味を込めて提案しました。
 この本の表紙には、高校のあるあたりから淡路島を指呼の間に眺める風景のモノクロ写真が使われています。これも、見はるかす風景です。書名にふさわしい写真です。
 けれども、同じ場所に行っても、今ではこの風景は失われています。かつて田園風景が広がっていたところに、ぎっしりと高低でこぼこの建築物が並んでいます。
 生活の進展に沿って、私たちの住むところの風景が変わるのは仕方のないことでしょう。刻々の変化は小さなものですが、人生の初めの頃の風景と、人生が終わりに近づいたときの風景の違いは、かつてはこんなに大きなものではなかったでしょう。この大きな違いが人々の心に大きな傷を刻み続けていると言っても、それは決して誇大な言葉ではないだろうと思います。

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2020年2月12日 (水)

生きる折々(43)

手紙・葉書は人柄を伝える


 私は、多くの人に読まれる文章も書きますし、多くの人の前で話をすることもあります。多くの人を相手にして書いたり話したりする場合は、みんなにわかるようにしなければならないと考えますから、内容に抽象度が増したり、一般化したようなことになる場合があります。それからもうひとつ、自分の立場などを考えて、いわば格好をつけたような話になることがあります。今は職業がありませんが、かつての仕事のことを考えたら言わない方がよいというような場合があります。意識する、しないにかかわらず、そういう内容は避けているでしょう。
 一方、日常生活では、手紙や葉書を書く場合がありますし、一人の人に向かって話す場合もあります。その場合は、特定の一人の人が相手ですから、その人にわかるような内容でよいということになるとともに、話に出してもよいと判断したら、多くの人向けの話では出していないようなことも表現します。多くの人に向かっては書いたり話したりできないような内容を、書いたり話したりすることがあるというのは、二重人格のようにも見えますが、そこまで大げさなことではないようにも思います。相手との関係で話題を選んだり、相手との人間関係に基づいた話し方をしていることになります。
 ほんとうは、多くの人向けの場合も、特定の一人向けの場合も、同じように表現できればよいのでしょうが、そうはいかない部分があるように思います。
 この度、『樹木希林さんからの手紙』(主婦の友社)という本を読みました。何通もの手紙の実物が公開されています。手紙は個人的なものだと言っても、公開されるとなると、多くの人向けに書いたものに等しいようになってしまいます。個人あてに書かれたものを公開するとなると、慎重な検討がなされたのちに、公開を判断したのでしょう。書いた本人も、公開されることを意識して書いたわけではないと思います。
 公開された樹木希林さんの手紙(私信)は、生のままの本人の気持ちが表現されたもので、読む人(一般読者)の心を打ちます。樹木さんが多くの人向けに書いた文章と、個人あてに書いたものとが、等質の文章として伝わってくるのです。多くの人向けの文章と個人あての手紙とを、意識して分けて書いているようには思えないのです。これはなかなか、できることではないと思います。
 樹木さんの手紙からは、自分が有名人だという意識が感じられませんし、市井の一人である相手の人に向かって、身構えるようなところがありません。この本はNHKテレビで放送された番組をもとに作られています。樹木さんの逝去後、本人の文章が載っている何冊かの本を読みましたが、この本は樹木さんの人柄をきちんと伝える本だと思います。
 私も手紙や葉書を何日かに1通は出しています。私の私信が公開されることはありえませんが、相手の心を打つものになっているだろうかということをふりかえる気持ちにさせられます。

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2020年2月11日 (火)

生きる折々(42)

俳句の面白さを感じ始めた


 『俳句、やめられません』(小学館)という岸本葉子さんの本を読んで、俳句を作ることは面白いなぁと思うようになりました。岸本さんは、その句を読んだときに眼前に情景が広がるような作品であるべきだと言います。抽象的なものを詠んだら、他の人が読んだときに面白く感じないだろうという意見です。それから、季語にはしっかりとした意味合いが込められているのだから、その込められた意味を詠み加える必要はないと言います。わずか十七音ですから、その通りだと思います。けれどもそのような考えには、はっとさせられました。実作をする場合の心の動かし方などについても、わかりやすく説明がしてありますから、作ってみたいという気持ちに向かって誘導されていくような、楽しい本です。
 引き続いて、『俳句で夜遊び、はじめました』(朔出版)を読み始めています。夜に開催される句会のことから話が始まっています。句会というのは楽しいものだと実感させられます。騒がしい飲み屋の一角で句会が開かれるなどという情景は、何と楽しいことかと思います。
 実は私、句会というものには2、3回出たことがあります。けれども、初心者にはなかなか緊張するもので、その後は、出席することを渋っています。下手な作品を出すことを恐れているということもあります。
 その句会は退職教員の会です。高等学校では国語を教えましたから、俳諧の時代のものも現代俳句も、毎年、授業をしています。けれども教科書に掲載されている俳句は評価の定まったものばかりで、そんな作品に近づけるわけはありませんから、自分で作ることは敬遠してきました。授業はできても、実作はできません。
 けれども、岸本さんの本は、句作の苦しみも書かれていますが、心わくわくするようなことが書かれているのです。実感がこもった文章ですから、つい引き込まれていきます。自分も作ってみたい、作れそうだという気持ちにさせられます。
 俳句を作っている人の中には、高度な世界を作り上げている方もいるでしょうが、生活の楽しみのひとつとして取り組んでいる人もいるでしょう。私も、楽しみながら作ってみて、かっこうが少し整ってきたら、句会に出てみようかと思うようになりました。句会は希望して申し出れば会員になれるのですが、しばらく作ってみてから、句会に出ることを考えてみようかと思っています。

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2020年2月10日 (月)

生きる折々(41)

熱心な受講者に支えられた文学講座


 私は10年ほど前から、一般市民向けの古典文学講座を担当して、月に1回ずつ講義をしています。1年間(12回)で1作品を読むのですが、作品は受講される方々の希望に沿って選びます。それを選ぶ段階では、うまく講義ができる作品に決まるかどうか、ちょっと緊張するのですが、選ばれた作品を拒否(辞退)することなく続けてこられました。たぶん、受講者がお選びになる作品が、私の能力を大きく超えないものであったのでしょう。
 これまでに読んできたのは、万葉集、播磨国風土記、源氏物語、枕草子、大鏡、宇治拾遺物語、徒然草、方丈記、雨月物語、奥の細道です。これらの作品の中で、1年間で全編を読み通せたのは、播磨国風土記、方丈記、奥の細道です。他の作品は、その一部を選んで読み進めました。
 万葉集はずっと以前に、兵庫県内が詠まれた作品に限って読んだのですが、今年度は全体から選んで読み進めています。
 この講座は、もとは兵庫県学校厚生会という団体が開催していました。いろいろな講座を学校厚生会の建物の中で開いていました。その建物の老朽化に伴って取り壊すことになり、講座をすべて廃止することになったのです。
 廃止が決まったときに、文学講座を続けてほしいという声が強く出て、自主運営で継続しようということになりました。神戸新聞明石総局の小さな部屋を借りて、講座を継続することになったのです。自主運営になってからも7年ほどが経ったと思います。
 もともとは学校厚生会の大きな部屋を使っていましたから、多いときは30人を超えていたように思います。自主運営になるときに、人数がかなり減りました。今は最大でも十数人しか着席できない部屋です。
 実は、新たな受講者が加わっていただくことは稀です。顔ぶれは10年ほど前からの受講者のままで、体調がよくないので受講できなくなったとおっしゃる方が減っていったのです。減ることはあっても増えることは珍しいのです。それでも現在、10人を超えていますから、4月からの新年度も続けようということになっています。
 私は大学で10年間ほど講義をしました。大学は、教員を目指す者を対象にした講義が大半でしたから、不真面目な学生はほとんどいませんでした。
 けれども、この古典文学講座を受講していただいている方々の熱心さには頭が下がります。月に1回、話を聞くためにおいでになることが、ひとつの生活のアクセントのようになっているようにも思われます。
 実は私も高齢者の一人ですが、この講座を続けることができるのは嬉しいことなのです。毎月、開催日の1週間ほど前から、配付資料を作って、講座の準備をすることは、私にとっても生活のリズムを作ってくれているように感じています。

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2020年2月 9日 (日)

生きる折々(40)

「首府」と「首都」


 大阪府や大阪市を「大阪都」にしようという構想が進んでいます。関西に住んでいると、大阪府の住民でなくても、そんなこんなのニュースが次々と伝えられるのです。今年は2度目の住民投票が行われる予定だと言います。
 今の大阪市の区域を4区に分けるということや、行政を改変するという具体的なことが提示されたりしているようです。部外者が意見を述べることは差し控えますが、これが実現すると、現在の大阪府全体が「大阪都」になるのでしょう。金剛山のふもとの南河内郡の千早赤阪村も「都」に属することになるのでしょう。そんなに簡単に呼称を改めてはいけないと思いますが、東京都にも檜原村や小笠原村などがありますから、釣り合いがとれるのでしょうか。
 それにしても「大阪府」よりも「大阪都」の方が格が上だというような感覚があるのでしょうか。県というところに住んでいる私には、理解できないことです。いや、そういうことではなく、東京都と同じような自治体になるためですと言われそうですが、それは大阪府という呼称のままでも、できることではないのでしょうか。
 こんなことを言うのはワケがあります。遠藤周作『最後の花時計』(文藝春秋)というエッセイ集を読んでいたら、「首府」という言葉が使われていました。1993年から1995年にかけて新聞連載した文章をまとめた本です。そうだった、と思い出しました。
 小学生、中学生の頃、各国の首府の名前を覚えることに熱心になっていたことがあります。学校の勉強でもあったのですが、子どもたちのクイズ遊びの様相も帯びていました。日本地図を広げて、小さな地名を挙げて、それがどこにあるのか探させるというようなこともしていました。お陰で地理が大好きな少年少女が何人も生まれました。
 子どもの頃は、それぞれの国の政治の中心都市を表す言葉は「首府」でした。東京は、日本の首府でした。終戦から10年ほど経っていた、私たちの少年少女時代は、「首都」とは言わなかったと思います。首都という言葉がなかったわけではないでしょうが、首府を使うのが普通であったように思います。
 その後、いつの間にか「首都」が優勢になっていったのですが、頭の片隅に残っていた言葉が「首府」であり、遠藤周作さんの文章を読んで、呼び覚まされた思いになりました。
 「首都」の方が「首府」よりも立派に聞こえるのでしょうか。大阪都は大阪府よりも進化した自治体に見えるのでしょうか。
 そういえば、都道府県庁に近づけて、市庁とか町庁とか呼んだり、地方自治体の部や課のことを、局と呼んだりすることが広がってきているように思います。

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2020年2月 8日 (土)

生きる折々(39)

「来ない」を、方言でどう言うか


 『ごめんやす「おおさか弁」』(リバティ書房)という本は、朝日新聞大阪本社社会部(編)となっています。その中に「けえへん」と題する文章があります。筆者は、劇団「そとばこまち」の座長(当時)です。引用します。

 つい先日、何の意識もせずに「きいひんの?」という言葉を使ったところ、
「あれ? 生瀬さんは、京都の人ですか」
と質問されたことがありました。
「いえ、西宮で生まれたんですが……」
と答えると、その人は
「大阪弁は『けぇへん』が本当なんですよ」
と笑顔で言葉を続けられたのです。
「あぁ、そうなんですか」
と単純に納得はしたものの、その親切な人が言った「本当」という言葉が心にひっかかったまま、その場を離れることになりました。
 数日後、神戸の友人に
「生瀬はこうへんの?」
と話しかけられ、私はすかさず
「大阪弁では『けぇへん』ちゅうねんで」
と答えました。が、その友人に
「あっそ、まあどっちでもええやん」
とあっさりと返されてしまいました。

 実はこの本は1994年の発行ですから、今から四半世紀前です。それぐらいの間隔があると、言葉が変化してもおかしくはありません。
 私は今、「来ない」にあたる表現をする場合は、「けぇへん」「こうへん」の他に「きやへん」や「こん」も使います。どの言い方が多いのか、自分を振り返ってみましたところ、「けぇへん」「きやへん」かなぁという程度の答えしかありません。「きいひん」は確かに京都的ですからあまり使いません。「こうへん」は子どもっぽく感じて、使うのを押さえるような意識があります。
 ところで、2019年10月10日の神戸新聞に、甲南大学の都染直也教授を紹介した記事があり、「来ない」の話題も出ていました。引用します。

 例えば兵庫と中国地方で「来ない(コナイ)」の言い方を検証したところ、中国地方は「コン」でほぼ統一されているのに対し、兵庫県南部は西から東へ「コーヘン」「キヤヘン」「ケーヘン」などと変化。「兵庫は中国地方と比べて人の動きが激しいため、方言の変化が多様なのでは」と都染さん。一方、兵庫でも若い世代は市町に関係なくほぼ「コーヘン」だった。

 交通が便利になって、通勤範囲も広がってきますと、言葉も交流していきます。かつては京都言葉、大阪言葉、神戸言葉の特徴をはっきりと意識していたとしても、しだいにその枠組みも崩れていっているのでしょう。
 私がまとめた「明石日常生活語辞典」は、明石ではこんな言葉を使っている(または、使っていた)という記録に過ぎません。他の地域とは違った異なった特徴があると言えるかどうかはわかりません。こんな言葉があるということの記録ですが、何十年か後に、その土地の言葉と比べあってみると、言葉が変化していることに気付くでしょう。そのような資料の働きを持っているのだと思っています。

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2020年2月 7日 (金)

生きる折々(38)

ほんとうは無職なのですが…


 新聞社から取材を受けるということは、時たましかありませんが、そんな時には、職業を尋ねられます。記者には、だいたいどういう人間であるのかということはわかっているのですが、職業をどう書こうかという確認の意味が込められているようです。
 私は、現在はもちろん無職です。けれども、無職の人が本を出版したなどという書き方はできないようです。これまでの経歴を確かめられることもあります。
 これまでの私の職名を並べると、公立学校を退職するまでは、教諭、指導主事、教頭、校長です。その後は、大学教授、大学非常勤講師、大学非常勤職員というところです。
 記者が、どれを書いておこうかと尋ねると、私はどれでもよいと答えます。現在は無職ですから、無職でよいではないかと思います。昔の職名を書く必要はないではないかとも思いますが、こだわりはありません。
 昔の職名を書くときに、考え方は2通りあると思います。ひとつの考え方は、最も後のものを書くという考えです。その場合は、元大学教授です。人生の大半は公立学校教員として過ごしましたが、それに注目するのなら、元高等学校長です。
 もうひとつの考え方は、それらの職名のうち、いちばん長く属していた職名を使うことです。その場合は高等学校教諭です。
 私は経歴を話した後に、どの職名を紙面に書かれても異存はありませんが、面白いことに、高等学校元教諭という書き方をされることが多いのです。何の違和感もありません。記者もたぶん、最も長い間の職名を選んでいるのだろうと思うのです。
 記事を見た旧知の人から、最後は大学に勤めたのに高校教諭という紹介であったのは良かった、という感想を聞いたことがあります。私が選んだのではありませんが、他人にもそういう思いがあるのだなぁと感じました。
 もうひとつ別のことを書きます。無職とは書けないから、方言研究家とか言語研究者ではどうですかと言われたこともあります。けれども、それは職業ではありません。どんな職業であっても、併せて、方言研究家や言語研究者を名乗ることはできますから、あいまいな呼称だと思います。今では自分のことを勝手な言葉で名乗る人が多くなっています。教員を退職してすぐに、教育コンサルタントなどと名乗り始めた人を知っています。家庭教育コンサルタントとか大学進学指導コンサルタントとか人生相談専門員とか、何とでも称することができます。新聞を見ていたら、そんな職業があるのかと思うような勝手な名乗りがあふれています。新聞も、本人が申告したまま、その名称を使うということは止めた方がよいと思います。

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2020年2月 6日 (木)

生きる折々(37)

「つのる」という言葉


 募っているけれど募集はしていない、というおかしな日本語を使う人が、日本という国の首相の座にいます。日本語を正しく理解し、正しく使わなければならない人が、そのようにはなっていないのです。
 だからというわけではないかもしれませんが、高等学校の国語科の指導内容を変えなければならないと考えている人たちがいるようです。日本語の運用能力を高める指導をしなければならないから、文学教材を減らしても仕方がないという考えです。心の教育よりも、目先の能力を高めなければならない、というほど日本人の日本語能力は落ちてしまっていると考えているようです。首相の座にいる人すら、自己弁解のためには日本語の意味を強引に変えようとしているのですから、これはゆゆしき問題です。
 言葉が異なれば、意味や語感が異なるのはあたりまえのことです。「募る」と「募集する」とは、意味はほとんど同じでも、その言葉から受ける印象は同じではありません。けれども、「募っているけれど募集はしていない」というように、「募る」と「募集する」とを区分けすることはできません。こんな発言を許しておいてよいはずはありません。日本語の破壊行為です。
 「つのる」という言葉には、大きく分けて2つの意味があります。①招き集める。広く呼びかけて集める。②勢いなどがますます激しくなる。この2つです。①の意味では「募集する」と同じ意味合いです。
 「つのる」という言葉のもう一つの意味を、一国の首相は実践しようとしているようです。自分が主張すれば(言い募れば)、みんなが聞くはずだ、という気持ちを込めて、みんなに納得させようとする姿勢です。首相のこういう姿勢が、ますます激しくなっているのです。
 「募っているけれど募集はしていない」という言葉の意味は、次のように理解することができるようです。私(首相)の反論はますます激しくなっているけれども(すなわち、言い募っているけれど)、観光ツアーに参加する人を集めて「桜を見る会」に送り込んではいない(すなわち、募集はしていない)と主張しているのだ、という意味です。
 こんなことでも考えなければ、馬鹿げた発言を楽しむことはできません。
 政治のリーダーは、日本語を正しく使うリーダーでなくてはなりません。そうでなくては国会論戦などしても何の価値もないことになってしまいます。私たちは、正しい日本語を使う人たちを国会に送り込まなければなりません。おかしな日本語の使い手を絶滅危惧種にしてしまうような努力をしなければなりません。
 このことは、主張が右寄りであるか左寄りであるかということとはまったく関係のない話なのです。

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2020年2月 5日 (水)

生きる折々(36)

「普通」と、「超」など


 私は、昔々の学生時代に、広島大学で行われる国語学などの学会に出席するために、夜行の客車列車である「ななうら」に乗ったことがあります。長距離を走る準急でした。その「ななうら」は遠い昔に廃止になり、現在のJRには準急という種別はありません。
 それだけでなく、急行という種別もないように思います。ローカル線にも特急が走り、特急の本数は格段に増えています。
 言葉の上で考えると、特急は特別急行であり、準急は準急行です。急行のことを普通急行と呼んだこともあったように思います。急行がなくなれば、その言葉から派生する特急も準急もなくなると思いますが、現実は、特急だけがますます増殖しています。急行という種別がなくなったのであれば、現在の特急をすべて、急行と言い改めることもできるはずですが、それでは格好が悪いのでしょう。けれども、走る列車は特急(特別急行)と普通だけという線があるのは、何かおかしな気持ちがします。
 私鉄の方では急行はたくさん走っていて、急行、準急、区間急行、通勤急行、快速急行などの呼び方があって、急行は花盛りです。
 さて、話題が変わります。このごろ、「普通におもしろい」という言い方があるそうですが、「普通におもしろい」というのは、どういう程度を表しているのでしょうか。単に「おもしろい」と言うのとどう違うのでしょうか。普通急行を急行と言う呼称に従えば、「普通におもしろい」は「おもしろい」とだけ言えばよいはずですが…。
 おもしろいという判断基準で大きく分けると、「おもしろい」と「おもしろくない」の2つです。けれども、「おもしろい」という方を段階に分けて、「おもしろい」の前に、いろいろな言葉を付けるのです。たいそうおもしろい、特別おもしろい、超おもしろい、ウルトラおもしろい、などです。
 おもしろさをいくつかに分けようという意識よりも、おもしろいという言葉をどう強調しようかと考えて、超だのウルトラだのと付けているのでしょう。
 速く走る列車も、急行⇒特別急行⇒(特急)⇒超特急という経過をたどり、そのうちウルトラ特急だのという呼称も現れるかもしれません。
 誇張表現はとどまるところがありません。もっともっと誇張してみようという気持ちになるでしょう。そして使い古された言葉は捨て去られ、また別の誇張表現が使われるようになるでしょう。
 その場合、はっきり言えることは、旧来の日本語から望ましい言葉を探そうとするよりも、外来語を適当に使っておこうなどという姿勢になって、日本語を忘れたり壊したりする働きが加速していくということです。
 日本語の良さ、面白さがわからない人間が増えれば、日本語を守っていこうという姿勢が力を弱めることになるでしょう。

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2020年2月 4日 (火)

生きる折々(35)

首都圏の大学を減らそう


 私が大学を受験したのは1961年(昭和36年)のことですが、その時、何かの新聞記事にあった見出しの文字が印象に残っています。「大学に行ける者は10人に1人もいない」という言葉です。これは、その当時の、例えば18歳人口と、大学の入学定員とを比べて計算した数字であったのでしょう。大学の数も少なくて、進学するのは簡単ではない時代でした。勉学費用を捻出するための経済的な苦しみもありました。
 旧制中学校の伝統を引き継いだ(新制)高等学校であっても、高等学校を卒業して就職した人もたくさんいた時代です。もちろん(新制)中学校を卒業して就職した同級生も大勢いました。中学校卒業で、大企業に就職することも珍しくなく、社内に職業人を育てる学校を持っていた会社もありました。年若くして社会の荒波にもまれていった状況は、現在の若者とは違っていたと思います。
 あれからほぼ60年経って、2世代の後、孫の時代になりました。2020年の大学の入学定員と、受験人口の数字が報道されていました。受験人口70万2000人、大学入学定員69万3000人だそうです。希望すれば誰もが大学に入れます。若者の学歴が高くなるのは良いことでしょうが、学ぶ意欲や学力のある者が大学に進んでいるのかどうかということとは別問題です。若者が一人前になる年齢が遅くなっている、親を頼りにしている時期が長引いていると言えるでしょう。学力のない大学生が多すぎるという現状も報道されています。そして、全入のような大学に入れるなら、大都市の大学(もっと言えば、首都圏の大学)を選ぼうという風潮も見て取れます。
 実際には、大学の淘汰が行われて、経営が立ちゆかなくなる大学も出ています。大都市の大規模大学の定員をますます増やすという政策も見られますから、企業の動向と似たような傾向が見られます。大企業優先の政策と同じやり方です。今後は、大都市に立地する大規模大学が存続し、地方の大学や、規模の小さな大学が消えてゆくのかもしれません。
 世界を相手にして存在価値を発揮できる大学を作るという方針に異存はありません。けれども、それは世界に通用する大企業を作るということと同様の政策のように見えてきます。つまりは、東京の一極集中をますます加速させるということと軌を一にしています。大学の設置数、学生数においても首都圏の肥大化は進んでいるのです。
 志願者の集中する大学が首都圏に分布し、全国の若い学生を首都圏に集めたら、その卒業生は卒業後も首都圏に住むことが多くなるでしょう。「東京、何するものぞ」という意気のある若者を育てなければ、日本の将来は危ういでしょう。そのためには、東京以外の主要な拠点が、学生の集まるところにならなければいけません。首都圏の大学を減らしていくことが日本の将来の利益になるのです。
 地方の大学が淘汰されることは目に見えています。けれども、同時に、首都圏の大学の定員を大幅に減らす政策をとる必要があると思います。

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2020年2月 3日 (月)

生きる折々(34)

便利な言葉を使う人


 新聞のコラム「天声人語」の筆者は言葉の専門家だけあって、なかなか表現が鋭いと思います。こんな文章がありました。(1月24日付け)


 おととい、きのうと国会の代表質問を聞き、安倍首相の相変わらずの答弁にげんなりした。桜を見る会も、カジノ疑惑も、答えるべきところを答えない。煙幕を張るための決まり文句だけは色々あって「真摯に反省」「誠実に対応」などが繰り出される
 「可能な限り説明してきた」というのもある。可能な範囲が狭すぎないか。一方で憲法改正については饒舌だ。首相の立場で答えるのは控えたいと言ってから「その上で」とつなげて、持論を展開する
 なるほどこれは便利な言葉で「君を叱るつもりは全くない。その上で」と叱ったり、「私は自慢などしない。その上で」と自慢したりと応用がききそうだ。そんなことをつらつら考えるくらい退屈な答弁が続く

 言葉は修飾語と被修飾語とで成り立つ部分があります。追及する側は、反省や対応や説明を求めているのですが、「反省する」「対応する」「説明する」を修飾する言葉が抽象語の「真摯に」「誠実に」「可能な限り」であって、イメージをまったく作り上げることができないのです。すなわち、反省や対応や説明が行われたという納得は得られないのです。質問した側は、こんな答弁で納得してはいけないのですが、それ以上の追及をあきらめてしまうのが政治の世界の常のようです。言葉が相互に行き来をしていないのです。
 こんな議論でおしまいになるのなら、国会という場は、形だけの議論をしているということになります。「誠実に対応」していないからこんな答弁になるのですし、「真摯に反省」などはしていないことは明白です。「可能な限り説明してきた」という弁解は、言葉として成り立ちません。説明が足りない、もっと詳しく説明せよ、と求められたら、求めに応じて説明すべきです。「可能な限り説明してきた、(これ以上の説明は要らない)」というのは、説明を求められた側が口にする台詞ではありません。これも、言葉が相互に行き来をしていないということの現れです。
 いくら長い時間をかけて議論をしても、これでは不毛の議論です。日本語の使い方、日本語の論理がわかっていない人が答弁をしているからです。もちろん、そんな馬鹿げた言葉遣いができるのは、議員数で圧倒している安心感が後ろにあるからです。どんな答弁をしても自分たちが倒れることはないとないと思っているからです。危機感を持って答弁しなければならないような情勢になってこない限りは、人を馬鹿にした答弁は続くことでしょう。
 馬鹿正直に発言やヤジを飛ばして失敗をするのは副総理とか、一部の議員です。首相が差別発言などをしないのは、なかなか心得て発言をしているからであると、その点は褒めてあげてもよいだろうと思います。

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2020年2月 2日 (日)

生きる折々(33)

金儲けのための終電延長


 世の中はすべて金儲けという目的のために動いているのでしょうか。オリンピックしかり、IRしかりです。オリンピックは金儲けの大きな流れの中で、かつての秋空のもとでの美しい祭典とは無縁の、酷暑の開催になりました。観光政策のためにIRがあると言っても、結局は金儲けのためです。儲けるために大義名分を作っているだけです。
 オリンピックの報道はとっくに、スポーツ精神とか、参加することに意味があるという言葉は消え失せています。IRについては、賭け事の是非などにはフタをして、金儲けに走ろうとしています。なさけない世の中になったものです。
 国土交通省が、大阪の中心を南北に結ぶ大阪メトロ御堂筋線で終電を約2時間遅くする実証実験を行ったそうです。そのことを報じる新聞記事の見出しが「終電延長 もうかる?」となっていました。金儲けに関わることを政府が行って、報道機関もその流れに乗ったことを書いているのです。記事の内容にも、いつもより遅くまで飲める、とか、この後もバーで飲みます、とかというコメントが紹介されています。飲み屋が儲かるとか、飲める時間が長くなるとかということが、観光政策という言葉を使うことによって正当化されているのです。
 こういう記事になると、貧困の問題や治安の問題などには目が向かず、夜の生活の魅力などということが強調されるのです。「住んでいる人が夜を楽しむことから、観光客が求めるコンテンツが生まれてくるはずだ」などという、大学教授のコメントなどが載せられているのです。
 経済という言葉が経国済民に由来するなどということは彼方に忘れられ、人間の生き方や心の問題などとは関係なく、金儲けの話に終始しているのが、政府の姿勢であって、報道機関はそれを無批判に報じているのです。
 教育の問題も、それとは無関係ではありません。心や倫理に関わる教育のことなどは忘れ去って、ランクを作ってその高い学校に入るのが価値あることのように言いふらしています。どんなランクの大学に入ったら収入はどれぐらいの会社に就職できるとか、そのためには塾に通わす費用はどれくらい必要だとか、大新聞がそんな記事を載せ続けています。
 考えてみれば、新聞は大きな広告を載せて稼ぎ、放送もコマーシャルで稼ぎます。広告主と同じような感覚で、金儲けの話を無批判に載せる習慣が身についているようです。スポーツや芸能の価値もすべて金に換算してしまっています。
 メトロの話に戻りますと、欧米では24時間営業の路線もあるそうです。欧米の真似をするのが良いことであるかどうか、深く考えることなく真似をしたがる人間が、日本にはいます。終電時間を早めることは話題にならないのです。人間の生き方・あり方を深く考えないような人間が、社会のリーダーになってはいけないと思うのです。

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2020年2月 1日 (土)

生きる折々(32)

数値が価値を決めるわけではない


 前回の話の続きです。「明石日常生活語辞典」についての新聞記事の見出しのトップは「明石の日常語1万5463 辞典に」です。単位は付けられていませんが、本文には「1万5463語を掲載した」となっています。見出しの数という数え方と、語の数という数え方とは少し違うと思います。正確には、見出し数と言うべきです。けれども、訂正してほしいとは思いません。一般の方々から見れば、たいした違いではないでしょう。
 私がこの辞典を作ったとき、見出しの個数が幾つになっているのかはわかりませんでした。見出しは、例えば「きたな(汚)い」という言葉を、普段の日常生活では「きたない」の他に「きちゃない」とも言いますし、「き」の部分を省いて、「たない」とか「ちゃない」と言うこともあります。それらの「きたない」「きちゃない」「たない」「ちゃない」をすべて見出しにしました。見出しがなければ、それらの言葉の存在が忘れ去られてしまうからです。場合によれば、「ちゃない」という言葉が記録されているかどうかを調べるために、その見出しで引くこともあるでしょう。
 けれども、これらの言葉はもともとは同じ言葉から出発しています。4語というように数えてよいのかどうか、疑問が残ります。辞典を引きやすいように、似たような発音でもそれぞれ別の見出しを立てています。見出しの数を増やすためではなく、引きやすくするためです。見出しの数を増やすために、似たような発音を別見出しにしたと受け取られたら心外です。私は、数値は出すまいと考えていました。
 最終的に「明石日常生活語辞典」にはどれくらいの見出しができたのか、私はひとつひとつ数えるような時間の余裕はありませんでしたが、初校の刷り上がりを見たときに、平均すれば1ページに20ほどの見出しがあるだろうから、700ページとして1万4000ぐらいの見出しになるのだろうかと考えていました。その程度の認識でよいし、そんな数字を口にする必要はないと思っていました。
 出版社はいとも簡単に数えてくれました。そして教えられた数字が1万5463の見出しであるということでした。そして、その数字を案内リーフレットに書くことになってしまいました。そして新聞記事にも、その数字がとりあげられたというわけです。(ただし、本書にはどこにも、そんな数値は書いておりません。)
 私はブログにいろいろな文章を連載しておりますが、そんな文章の中にも、報道機関が、数値のことに執着して取り上げたり、その数値をランキングにしたりすることについて、批判的なことを書いてきました。新聞やテレビが、数値を大きくとりあげたりランキングを作ることを日常的に行っているという報道姿勢に同感できないのです。数字の多寡が価値を決めるというような、誤った認識を植えつけていると思うからです。スポーツ選手の報酬の数字が大きな見出しで報道されるのなどは、その一例です。
 「明石日常生活語辞典」についても、項目数を参考程度に報じることはかまいませんが、記事の見出しにするほどのものではないと思っています。数字が価値を決めるのではないのです。

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