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2020年2月25日 (火)

ことばと生活と新聞と(4)

「みんな」とか「多くの」とは誰のことか


 小さな子どもが親にものをねだるときには、「みんなが持っているから、僕もほしい」と言うことがあります。「みんな」とは誰かと尋ねると、周囲の全員のことではなく、仲良くしているA君とB君のふたりのことであったりします。
 これと同様の表現を新聞がしたら困ります。けれども、書いている人は無意識のうちに行っているのかもしれませんが、そんな記事があります。
 「高校生は英語で自己表現したいんです」というのがメインの見出しになっている記事がありました。このような見出しを見ると、「みんな」とは書かれていなくても、ほぼ全員の気持ちであるのかと思います。高校生の時期を通過したのはずいぶん昔のことですが、そんなはずはないだろうと思うのです。長い間にわたって高校教員を経験した私には、高校生みんなが英語で自己表現したいという強い欲望を持っているとは思えません。英語の嫌いな高校生もいます。
 この記事は、英語民間試験見直しについて、東進ハイスクール講師という肩書きの人に聞いてまとめた記事です。見出しのもとになったと思われる表現を本文から探すと、次のような部分がありました。

 話して時の子どもたちの表情は生き生きしていますよ。多くの中高生は「英語がしゃべれるようになりたい」と言います。しゃべりたいんです。自己表現をしたいんです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月21日・朝刊、13版、19ページ、「揺れる大学入試」、語り手・安河内哲也、聞き手・山下知子)

 この「語り手」は、さすが予備校講師だけあって、高等学校の現実の姿をじゅうぶんご存じでないようで、「そもそも、多くの高校では、入試に出ないことは省かれてしまいます。」などということを平気で発言されています。こういう間違った指摘には、高校教員は腹を立てるのですが、新聞は平気で書きます。
 記事には学習指導要領のことも述べられていますが、指導要領の中身を十分ご存じかなと疑います。自分の予備校での授業をもとに、それを正規の高校の授業だと決め付けているようなところがあります。
 記事の「語り手」と「聞き手」の関係は推測するしかありませんので、正しく聞き取られているということにして、それを前提にして話を進めます。そうすると、問題は、記事の中身を正確に読み取っていない整理部記者に行き着きます。
見出しの「高校生は英語で自己表現したいんです」という場合の「自己表現」という言葉と、本文の「多くの中高生は『英語がしゃべれるようになりたい』と言います。しゃべりたいんです。自己表現をしたいんです。」という場合の「自己表現」という言葉とは、重さがまったく異なっています。
 見出しの「自己表現」は自分の思想・感情・自意識のようなものです。そうでなければ、英語民間試験見直しを論じる記事の主たる見出しにふさわしくありません。本文中の文章は、「英語でしゃべりたい」ということ、すなわち会話ができるということに過ぎません。
 しかも、見出しの言葉の重みは、自己表現したいという強い意欲のように聞こえます。本文中の言葉は、英語で会話をしたいという願望にすぎません。願望の場合は、結果としてできるかできないかはわかりません。それは「自己表現」などという立派な言葉に該当しません。
 このような軽い表現に過ぎないものを、見出しにして、英語民間試験見直しを論じても意味がありません。また、このような考えの人が、英語教育の在り方に関する有識者会議の委員であるということも驚きでした。

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