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2020年3月31日 (火)

【掲載記事の一覧】

 新型コロナウイルスの感染が広がって、世界がたいへんな状況になっています。
年が改まってからは、「生きる折々」45回、「兵庫県の方言」7回の連載をして、現在は「ことばと生活と新聞と」を連載しています。
 ブログの掲載記事数は6147本になりました。
 ブログをお読みくださってありがとうございます。
 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。
    gaact108@actv.zaq.ne.jp
 これまでにブログに連載した記事を、内容ごとに分類して、一覧を記します。掲載日をもとにして検索してください。

【兵庫県明石市などの方言に関する記事】

◆明石日常生活語辞典・追記 (1)~(111)
    [2019年9月9日 ~ 2019年12月31日]

◆明石日常生活語辞典の刊行について (1)~(8)
    [2019年9月1日 ~ 2019年9月8日]

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 (1)~(2605)
    [2009年7月8日 ~ 2017年12月29日]

◆『明石日常生活語辞典』写真版 (1)~(4)
    [2010年9月10日 ~ 2011年9月13日]

◆「入口」はどこまで続くか (1)~(3)
    [2019年11月28日 ~ 2019年11月30日]

◆じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-
                        (1)~(9)
    [2017年12月30日 ~ 2018年1月7日]

◆私の鉄道方言辞典 (1)~(17)
    [2007年9月13日 ~ 2007年9月29日]

◆暮らしに息づく郷土の方言 (1)~(10)
    [2007年8月11日 ~ 2007年8月20日]

◆兵庫県の方言 (1)~(7)
    [2020年2月15日 ~ 2020年2月21日]

◆兵庫県の方言(旧) (1)~(4)
    [2006年10月12日 ~ 2006年10月15日]

◆姫路ことばの今昔 (1)~(12)
    [2007年9月1日 ~ 2007年9月12日]

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (1)~(42)
    [2007年2月1日 ~ 2007年5月7日]


【日本語に関する記事】

◆ことばと生活と新聞と (1)~(39)~連載中
    [2020年2月22日 ~ 連載中]

◆言葉の移りゆき (1)~(468)
    [2018年4月18日 ~ 2019年8月31日]

◆日本語への信頼 (1)~(261)
    [2015年6月9日 ~ 2016年7月8日]

◆言葉カメラ (1)~(385)
    [2007年1月5日 ~ 2010年3月10日]

◆新・言葉カメラ (1)~(18)
    [2013年10月1日 ~ 2013年10月31日]

◆ところ変われば (1)~(4)
    [2017年3月1日 ~ 2017年5月4日]

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (1)~(29)
    [2007年1月1日 ~ 2009年6月4日]

◆現代の言葉について考える (1)~(7)
    [2007年7月1日 ~ 2007年7月7日]

◆文章の作成法 (1)~(7)
    [2012年7月2日 ~ 2012年7月8日]

◆自分を表現する文章を書くために (1)~(11)
    [2007年10月20日 ~ 2007年10月30日]

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (1)~(4)
   [2006年12月23日 ~ 2006年12月26日]

◆地名のウフフ (1)~(4)
    [2012年1月1日 ~ 2012年1月4日]


【郷土(明石市の江井ヶ島)に関する記事】

◆名寸隅の船瀬があったところ (1)~(5)
    [2016年1月10日 ~ 2016年1月14日]

◆名寸隅の記 (1)~(138)
    [2012年9月20日 ~ 2013年9月5日]

◆朔日・名寸隅 (1)~(19)
    [2009年12月1日 ~ 2011年6月1日]

◆江井ヶ島と魚住の桜 (1)~(6)
    [2014年4月7日 ~ 2014年4月12日]

◆西島物語 (1)~(8)
    [2008年1月11日 ~ 2008年1月18日]

◆名寸隅舟人日記 (1)~(16)
    [2016年1月1日 ~ 2016年4月2日]

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]


【『おくのほそ道』に関する記事】

◆『おくのほそ道の旅』【集約版】 (1)~(16)
    [2018年3月18日 ~ 2018年4月2日]

◆『おくのほそ道』ドレミファそら日記【集約版】 (1)~(15)
    [2018年4月3日 ~ 2018年4月17日]

◆奥の細道を読む・歩く (1)~(292)
    [2016年9月1日 ~ 2018年3月17日]


【江戸時代の五街道に関する記事】

◆中山道をたどる (1)~(424)
    [2013年11月1日 ~ 2015年3月31日]

◆日光道中ひとり旅 (1)~(58)
    [2015年4月1日 ~ 2015年6月23日]

◆奥州道中10次 (1)~(35)
    [2015年10月12日 ~ 2015年11月21日]


【ウオーキングに関する記事】

◆放射状に歩く (1)~(139)
[2013年4月13日 ~ 2014年5月9日]

◆新西国霊場を訪ねる (1)~(21)
[2014年5月10日 ~ 2014年5月30日]

◆ことことてくてく (1)~(26)
    [2012年4月3日 ~ 2012年5月3日]

◆テクのろヂイ (1)~(40)
    [2009年1月11日 ~ 2009年6月30日]


【国語教育に関する記事】

◆国語教育を素朴に語る (1)~(51)
    [2006年8月29日 ~ 2007年12月12日]

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 (0)~(102)
    [2008年2月25日 ~ 2008年7月20日]

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日 ~ 2006年10月4日]

◆これからの国語科教育 (1)~(10)
    [2007年8月1日 ~ 2007年8月10日]

◆高校生に語りかけたこと (1)~(29)
    [2006年11月9日 ~ 2006年12月7日]

◆高校生に向かって書いたこと (1)~(15)
    [2006年12月8日 ~ 2006年12月22日]


【教員養成に関する記事】

◆教職課程での試み (1)~(24)
    [2008年9月1日 ~ 2008年9月24日]

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日 ~ 2006年10月11日]

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (1)~(18)
    [2006年10月16日 ~ 2006年11月2日]

◆教職をめざす若い人たちに (1)~(6)
    [2007年6月1日 ~ 2007年6月6日]


【花に関する記事】

◆写真特集・薔薇 (1)~(31)
    [2009年5月18日 ~ 2009年6月22日]

◆写真特集・さくら (1)~(71)
    [2007年4月7日 ~ 2009年5月8日]

◆写真特集・うめ (1)~(42)
    [2008年2月11日 ~ 2009年3月16日]

◆写真特集・きく (1)~(5)
    [2007年11月27日 ~ 2008年11月13日]

◆写真特集・紅葉黄葉 (1)~(19)
    [2007年12月1日 ~ 2008年12月15日]

◆写真特集・季節の花 (1)~(3)
    [2007年5月8日 ~ 2007年6月30日]


【鉄道に関する記事】

◆鉄道切符コレクション (1)~(24)
    [2007年7月8日 ~ 2007年7月31日]


【その他、いろいろ】

◆生きる折々 (1)~(45)
    [2020年1月1日 ~ 2020年2月14日]

◆神戸圏の文学散歩 (1)~(5)
    [2006年12月27日 ~ 2006年12月31日]

◆百載一遇 (1)~(6)
    [2014年1月1日 ~ 2014年1月30日]

◆茜の空 (1)~(27)
    [2012年7月4日 ~ 2013年8月28日]

◆消えたもの惜別 (1)~(10)
    [2009年9月1日 ~ 2009年9月10日]

◆母なる言葉 (1)~(10)
    [2008年1月1日 ~ 2008年1月10日]

◆足下の観光案内 (1)~(12)
    [2008年11月14日 ~ 2008年11月25日]

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

◆小さなニュース [2008年2月28日]

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや (1)~(13)
    [2009年1月1日 ~ 2010年1月3日]

◆1年たちました (1)~(7)
    [2007年8月21日 ~ 2007年8月27日]

◆明石焼の歌 (1)~(3)
    [2007年8月28日 ~ 2007年8月30日]

◆失って考えること (1)~(6)
    [2012年9月14日 ~ 2012年9月19日]

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ことばと生活と新聞と(39)

新聞が日本語を守らなけれぱ


 前回の話題の続きです。典型的な報道があります。小池東京都知事が緊急記者会見で「感染爆発 重大局面」と書いたボードを掲げて説明したときのことです。そのボードには、小さな文字で「オーバーシュート重大局面」と添え書きがされています。それを報じる記事は次のようになっています。

 小池知事は会見で、「オーバーシュート(患者の爆発的急増)を防ぐためには、都民のみなさまのご協力が何よりも重要」「何もしないでこのままの推移が続けばロックダウン(都市の封鎖)を招く」と述べた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月26日・朝刊、14版、1ページ)

 当日のテレビ・ニュースを見ても、都知事は「感染爆発」という言葉を主体にして使っていました。ところが新聞は、外来語を主たる言葉に置き換えてしまっています。新聞が外来語優先の舵取りをしているのです。
 同じ日の記事に、こんなことが書いてありました。

 河野太郎防衛相が、政府が新型コロナウイルス対応で横文字の専門用語を多用しているとして批判している。外国要人との会談では通訳を介さず、得意の英語で直接やりとりすることもある河野氏だが、カタカナ語の連発には苦言を呈した。
 河野氏は22日、自身のツイッターで「クラスター」を「集団感染」、「オーバーシュート」を「感染爆発」、「ロックダウン」を「都市封鎖」と列挙し、「なんでカタカナ?」とつぶやいた。
 河野氏は24日の記者会見でも「日本語で言えることをわざわざカタカタで言う必要があるのか」と持論を展開。「分かりやすく説明するのが大事だ」と、厚生労働省に対して言い換えを求める意向も示した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月26日・朝刊、14版、4ページ、山下龍一)

 私も、この意見に賛成です。多くの人が抱いている気持ちだと思います。記事では「厚生労働省に対して言い換えを求める意向も示した。」とありますが、それとともに、私は新聞社に対しても同じことを求めたいと思います。政治家や経済人や芸能人やスポーツマンなどが述べた言葉をそのまま載せないで、きれいな日本語に改めて、記事の文章を作り上げるべきだと思います。それが、文章の専門家としての記者の役割です。
 「クラスター」と「集団感染」、「オーバーシュート」と「感染爆発」、「ロックダウン」と「都市封鎖」は、文字数としてはカタカナ語の方が多くなっています。
 文字数に制限のある見出しでは、長いカタカナ語を使わないという頑なさ、そして、記事ではカタカナ語を主にして記事を書き進めるという、まとまりのなさです。
 そのニュースが出始めたときには、とっさのことでカタカナ語を使うことがあるでしょう。けれども、そのカタカナ語よりもふさわしい日本語を見つけ出した段階からは、日本語を使うという方向に切り替えるべきできないでしょうか。
 次回に書く話題と重なるのですが、「クラスター発生」を「クラ発生」と書いたり、「オーバーシュート」を「オーシュ」と書いたり、「東京ロックダウン」を「東京ロク」「東京ロダ」と書いたりするような、新聞見出しが現れないことを祈っております。

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2020年3月30日 (月)

ことばと生活と新聞と(38)

日本語を、カタカナ語から守ろう


 世界中にはたくさんの言語がありますが、自国語を使って学問の世界に分け入ることができる言語は少ないと言われています。
 明治時代に、外国語をそのまま取り入れないで、日本語で表す言葉を作り上げていった先人たちに感謝の思いを持ちます。そのような努力が、学問に通用する言葉としての日本語を作り上げていったのです。
 朝日新聞の夕刊題字の下にある「素粒子」欄にこんなことが書いてありました。(3月23日) 「カタカナ解説に戸惑う。オーバーシュート、ロックダウン、クラスターって、何だ。」
 全世界に広がる新型コロナウイルスの感染拡大の報道に新しい言葉が次々に出てきます。新聞を作っている人たちも、新しい言葉に戸惑っているのかもしれませんが、読者はなおさらです。新聞などにこれほど使われるのですから、これらの言葉を日本語の表記に改めることなどはしないでしょう。
 自然科学、人文科学、社会科学の学問の中でも、自然科学にはカタカナ語が多く使われています。そして、今では人文科学や社会科学でもカタカナ語が増えています。いったんカタカナ語を使い始めると、それを日本語で言い換えることなどはしなくなるでしょう。そして、時が流れるにしたがって、日本語は学問をするにはふさわしくない言語ということになってしまいかねません。
 オーバーシュートとはどういうことか、その言葉についての解説を読まなければわかりません。オーバーシュートという言葉に素晴らしい表現力があるとは思われません。日本語で表現しようとすれば可能だと思います。ところが、安易に外国語を取り入れて、カタカナ語で表現するという方法をとっているのです。ロックダウンも、クラスターも同じです。クラスターについては小規模感染集団というような書き方がされる場合もありますし、オーバーシュート(感染爆発)もロックダウン(都市封鎖)も言い換えはできるのです。
 使い続けると、そのカタカナ語が日本語の中で市民権を確立してしまいます。表現力のある日本語を踏みにじる行為です。ニュース報道などにおいては、瞬間的にそのカタカナ語を使うことがあっても仕方がありませんが、いつまでもカタカナ語を使い続けないでほしいと思います。
 どのような言葉を使って、どのように書いているか、という表面的なことを見るだけでも、その文章を書いた人の姿勢がわかります。例えば、「小規模感染集団(クラスター)」という書き方はやむを得ないとしても、「クラスター(小規模感染集団)」という逆転した書き方は避けるべきではないかと思うのです。報道に携わる人が日本語を大切にしないなら、読者である市民たちに日本語をいつくしむ心は育っていかないでしょう。

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2020年3月29日 (日)

ことばと生活と新聞と(37)

文末の「わ」という助詞


 終助詞の「わ」という言葉は、「素晴らしいわ。」などという使い方がされる言葉です。この「わ」について書いてある、おもしろい文章に出会いました。

 買い物をしている時は、なぜか女言葉を使いたくなる。値段の安い商品などを見ると、「安い」ではなく、
「安いわ」
 と言いたい衝動に駆られるのである。我ながら少々気味悪いのだが、こう言ったほうが感情を的確に表現できるような気がするのだ。
 なぜだろうか。あらためて調べてみると、実は「安いわ」の「わ」は一人称、つまり「私」を意味しているそうなのである。民俗学者の柳田國男によると、明治の頃に外国語の影響を受けて主語を文頭に置くことにこだわるがあまり、「わ」が一人称であることが忘れ去られてしまったらしい。
 「安いわ」とは「安いと私は思う」の意。「安い」というと市場評価のようでエラそうだが、「安いわ」は個人的な価値判断で、こちらのほうが実際の購買につながる。
 (中央公論新社(編)「考えるマナー」、中公文庫、2017年1月25日発行、108~109ページ、「買い物のマナー」、高橋秀実)

 「安いわ」と「わ」が付くと、個人的な価値判断を示すということは納得させられます。終助詞の「わ」に、軽い主張や詠嘆の意味があるからです。この終助詞の「わ」が、一人称の「我」や「吾」にあたるというのは興味深い指摘です。けれども、それが文末に来て「と私は(思う)」という働きをする終助詞になるというのは、にわかには信じられないことです。ただ、「わ」に、「と私は(思う)」というニュアンスが伴うことだけは強く納得します。
 大野晋(編)『古典基礎語辞典』の「わ【我・吾】」の説明には、「一人称代名詞。男女に関係なく用いる。上代では、助詞ガ・ニ・ハ・モなどを伴うが、中古に入ると、ほとんどガを伴う例だけになる。」と書かれています。
 代名詞の「我」「吾」と、終助詞の「わ」を結びつけることは難しいと思いますが、現代語の女性語と見なされる「わ」は、なんとも興味深い言葉に思われてきます。

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2020年3月28日 (土)

ことばと生活と新聞と(36)

中学生にも笑われそうな、NHKの番組タイトル名


 10年をはるかに越えて、何代かの執筆者によって受け継がれている話題が「天声人語」にあります。毎年の、年初め頃に載る「現代学生百人一首」のことです。引用されて歌は毎年異なっていますが、文章のトーンはまったく同じです。
 今年の文章を引用します。

 毎冬この時期、東洋大学から「現代学生百人一首」が届く。33回目となる今回は、小学生から大学生まで6万を超す応募があった。 …(中略)…
 SNSなしでは友情も育みにくい時代を生きる。〈「おつ」「おけ」「り」スマホの会話単語だけそんなにみんな忙しいのか〉中2関谷咲。「おつ」はお疲れさま、「おけ」はOK、「り」は了解。そこまで言葉を削って、浮いた時間を何に使うの?
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月15日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 このコンクールについてだけは毎年、文章を書いて紹介をしなければならないという取り決めのようなものがありそうに思えます。
 それにしても「SNSなしでは友情も育みにくい時代を生きる。」という断定には違和感を覚えます。いつから、そんな「時代」になったのでしょうか。たかだかここ10年ほどのことではありませんか。そして、そんな「時代」がこれからも続くと言うのでしょうか。この無批判ぶりには驚きます。
 さて、〈「おつ」「おけ」「り」スマホの会話単語だけそんなにみんな忙しいのか〉という歌は、中学2年生の意識としては、筋が通っていると思います。略した言葉遣いは自分たちで考えたというよりは、大人の真似でしょう。「そんなにみんな忙しいのか」という言葉は、中学生に向けられたというよりは大人に向けられたものでしょう。
 短い言葉で表すのは、新聞の見出しの傍若無人な短縮形も悪影響の源ですし、放送にあらわれる言葉も例外ではありません。
 かつてのNHKが日本語に果たした役割は大きなものでした。ラジオが共通語(標準語)の普及に大きな貢献をしたと思います。NHKにはそのような自負があったと思います。
 けれども、今のNHKは日本語を壊す働きを顕著に見せています。「あさイチ」「シブ5時」「サラメシ」「マイあさ」「ごごラジ」などなど、テレビやラジオの番組名を4音で表すことを行っています。「シブ5時」にいたっては、渋谷が日本全国を動かしているような命名で、6時(18時)台になっても、この言葉のままです。乱暴きわまりない言葉遣いです。「サラメシ」はサラリーマンの昼飯ということでしょう。定着した番組となれば「サラメシ」と言うことは良いでしょうが、新番組でも何でもかでも4音で名付けるという、無神経さには驚きます。
 民間放送にも同様の傾向がないわけではありません。けれども民放は企業活動ですから、何を言っても聞き入れる姿勢などはないでしょう。けれどもNHKのやり方は、改めてほしいと思います。「おつ」はお疲れさま、「おけ」はOK、というのと、少しも変わらない言い方であることに気付いていないのでしょうか。そのうちに「ラジオ深夜便」というラジオ番組は「ラジしん」に変わっていくのかもしれません。
 NHKの番組を作っている人たちが、他の番組名を真似て4音のタイトルを広げていったとは思われません。そんな単純なことでは大人げないことです。そうではなくて、誰か高い位置にある人物が、そんな番組タイトル名を増やせという指示を出しているに違いありません。ばかげた、恥ずかしい指示です。NHKには、日本語を大切にするという誇りを取り戻してほしいと思います。

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2020年3月27日 (金)

ことばと生活と新聞と(35)

コロナ禍で、生き方の根本を考える


 新型コロナウイルス禍の拡大によって、経済活動の縮小や教育活動の一時停止などさまざまな現象が生じてます。ウイルス禍は早く終息してほしいと思いますが、今回の事態は私たちの生き方を根本から考え直す機会にもなっています。
 事態が収まったら元に戻ってしまうのが、現代の報道の姿勢です。人間の生き方を変えるような大変な事態に陥ることは、望ましいことではありません。けれども大震災が人々の生き方を根本から考えさせ、変化をもたらした事柄があることは間違いありません。今回のコロナ禍も人間の生き方や経済活動に大きな影響を与える問題です。
 世の中にはジャーナリストを自称する人が大勢います。政治・経済・文化などの表面的な事象を論じるのではなく、哲学、生き方に示唆を与える論評をする義務があると思います。新聞も当然その責務を担っています。民間放送のテレビは騒ぎ立てるだけでその力量を持ち合わせておりませんが、NHKも新聞と同じように、人々が思索を深めるための提言をしてほしいと思います。
 観光業、飲食業、製造業をはじめすべての産業に大きな打撃を与えています。全国一斉の休校措置がとられることなどは予想していませんでした。それぞれの産業にとってはたいへんな事態になっていると思います。国内外を問わず、人の行き来が頻繁に行われている時代になりましたから、水際対策もたいへんなこともよくわかります。国政についての考えも反省すべきですが、私たち一人一人の生き方も考え直す必要があります。カジノで金儲けをしようという政策も改めて検討することが必要ですし、国外に依存するような産業構造ももう一度考えてみる必要もあるでしょう。
 これは一過性の問題ではなく、政治・経済・文化などのすべてを含めて、一人一人の生き方の根本に関わることであると思います。
 日本に来る外国人が1000万人になった、2000万人になったと喜んでいたのがウソのようです。つい先日まで、大阪の電車の終電を遅らせたら経済活動が活発になるかという実験をするなどと言っておりました。人間の生き方に関わることを考えるのではなく、金儲けだけが頭の中にある人がいるのです。
 終電を遅らせて運転するなどということは、深夜営業をしている人たちに役立ち、遅くまで娯楽を求める人たちには歓迎されるでしょうが、そういう生活が広がることを望ましいことではないと考えている人たちも大勢いることでしょう。
 どういう生き方、生活スタイルを求めるかということよりも、金儲け主義にかなうかどうかというようなことが、大手を振っていたように思います。刹那的な人生観に立ったような姿勢ではなく、もっと根本からの生き方を考えるような報道姿勢を持ってほしいと思います。
 テレビ番組のコメンテーターの中には、毎日毎日テレビに出て、薄っぺらい言葉を吐き続けている人がいます。すべての分野に底深い考えを持っている人などはほとんどいません。ましてや芸能やスポーツで名を売っている人だから出演させているという安易さは改めるべきでしょう。
 新聞や放送が社会をリードしていくという考えを持っているのなら、もっときちんとした報道姿勢を持たなくてはなりません。

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2020年3月26日 (木)

ことばと生活と新聞と(34)

「解」という言葉は、重いか軽いか


 「解」という言葉は、問題の答えという意味です。テストの問題の答えを「解」というのは、自然な使い方ですが、この言葉の使用範囲はどのあたりまで広がっているのでしょうか。
 新型コロナウイルスと世界のことを論じた新聞の社説の末尾の段落は、次のように書かれていました。

 とりわけ、米欧日と中国の責任は重い。十分に説明もない制限措置で国同士の分断を深めるようでは、世界の長期的な安定は損なわれるだろう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月19日・朝刊、13版S、12ページ、社説)

 この文章の見出しは「『鎖国』は解にはならぬ」となっていました。この文章の中には「解」という言葉は使われていませんでした。
そして、同じ日のもうひとつの社説は原発事故賠償を論じたものですが、末尾の段落は、次のように書かれていました。

 解を見いだすのは容易ではない。だからといってこの不正義を放置して良いはずがない。賠償問題で被災者の労力と時間をこれ以上奪わぬよう、知恵を出し、工夫を重ねる必要がある。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月19日・朝刊、13版S、12ページ、社説)

 「解」という言葉に注目して新聞を読んできたわけではありませんから、「解」が紙面にどの程度あらわれているのか知りません。けれども、ニュース面にこの言葉を見るのは珍しいのではないでしょうか。
 意見を述べるような表現の中で「解」という言葉があらわれることが多いのでしょうが、この「解」という言葉は重い言葉なのでしょうか、そうでもないのでしょうか。
 社説で論じられる問題は、たいせつな事柄であることはわかります。けれども、それを論じた答えが「解」であるのなら、文章上の答えに過ぎません。前者の社説では、「『鎖国』は解にはならぬ」と述べつつ、それ以上の問題解決策は提示されていません。後者の社説でも、「解を見いだすのは容易ではない。」と述べて、解決策の提案はありません。要するに、その文章上の結末を「解」という言葉で表すなら、文末の軽い言葉に聞こえます。社説として問題(課題)設定をして、その答えを仮に「解」と言っているように聞こえるのです。軽く聞こえてしまいます。
 ひとつの大問題の最終的な解決策を「解」と表現するのなら、その言葉の意味は重いのですが、そういう使い方もあるのでしょうか。
 そもそも、この「解」という使い方は、個人的な癖とか、新聞社としての癖のようなものなのでしょうか。それとも、もっと広がっている使い方なのでしょうか。言葉の注目点がひとつ増えました。

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2020年3月25日 (水)

ことばと生活と新聞と(33)

人間が言葉を持ってしまったこと


 悲しげに鳴いている犬に向かって、その理由を尋ねても犬は答えてくれませんから、人が推測してやるしかありません。何百年も生き抜いてきた大きな杉の木が倒れてしまっても、杉の木自身はその原因を自分で語ることはできません。花が楽しげに咲き誇ってい.のを見て、本当に楽しいのかと問いかけても答えてくれません。
 人間には言葉があるのですが、動植物には言葉がありません。そのことを、人間の超越した力であると言う人がいます。
 自然は、時に大きな音を出して人間を驚かせます。動物も声を出し、植物も音を立てることはあります。けれども基本的に、動物や植物は静かな中で生活をしています。人間だけがやかましい話し声を発したり、人工的な音を作り出したりしています。
 人間は静かな中では生きていけないのか、と思うことがあります。そんなはずはありません。動物や植物は音が無くても生き続けています。人間にもできないはずはありません。
 人間は言葉を持ってしまいました。一人一人の人間にとっては、生まれたときから周囲の言葉を覚え、それを使いこなすようになりました。ものを感じたり、考えたりするときに言葉を使っています。言葉がなかったら不自由だろうと考えるのは、言葉を持ってしまったからであるのかもしれません。言葉がないことは想像できないように思われますが、自分の身が動物や植物になったように考えると、生きていけないはずはないと思います。
 新聞で谷川俊太郎さんの「静かな犬」という詩を読みました。その一節(二つの連)に、次のような語句があります。

  静かな犬は
  もの問いたげに私を見上げる
  恨みや諦めの色のない目
  私より上等な魂

  いのちはすべて自然の無言に抱かれ
  生きて滅ぶ
  言葉を持ってしまったヒトだけが
  こうして自然に逆らっている

 この詩から考え始めると、考えるべきことは無限に広がっていくように思います。けれども、それはやっぱり、人間が言葉を持ってしまったからのことなのです。考えることは理屈に支配されていきます。
 例えば、人間は自分のしたことを正当化して、あれこれと言葉で説明します。そのことによって自分の存在感を高めたり、自分を美しく見せようとします。そういうものに塗り固められているのが自分という人間であるのかもしれません。
 動物や植物は、自分のことを説明したり、存在感を際立たせたりするようなことはしません。けれども、まちがいなくその場所で、しっかり存在しているのです。言葉を発しなくても、強く訴えかけているのです。

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2020年3月24日 (火)

ことばと生活と新聞と(32)

貸し出し図書の「福袋」


 私は興味を持ちませんが、正月にデパートなどが売り出す「福袋」が人気だそうです。それを真似たものとして明石市立図書館などが同じ季節に、貸し出し図書の「福袋」を作っておりました。私は利用しませんでしたが、その「福袋」図書を借り出している人を見かけました。
 時期や目的は違いますが、同じような「福袋」を作っているというニュースを読みました。

 新型コロナウイルスの影響で、各地で図書館の休館が相次ぐ中、奈良県の生駒市図書館が、司書が選んだお薦めの本2~3冊を詰めた「福袋」の貸し出しサービスを実施している。来館者の滞在時間を短くし、感染リスクを抑える工夫で、「自分では選ばない本に出会える」と好評という。
 福袋は、「小学校低学年」「高学年」「中学生」「一般」の4酒類。長編を中心に「じっくり時間をかけて読む本」が入っている。中身が見えないように包装した20セットを毎朝用意し、貸し出しが多い日は補充している。
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年3月17日・夕刊、3版、11ページ)

 本は他人から勧められて読むことがありますが、そうでなければ、紹介記事を見ることぐらいがヒントになります。それ以外は自分が選ぶことになります。この記事のように、何が入っているのかわからないものを差し出されて、それを読むというのは面白い試みです。しかも、司書のメガネにかなう本です。もちろん、読まないで(あるいは、読みかけて投げ出してしまって)返す本もあるでしょうが、それは仕方のないことです。
 人は、自分の好みを大切にしています。それが個性というものでしょう。けれども、他人から推薦された本が面白いと感じて、本好きになっていく人も増えていくかもしれません。図書館活動の一環として広がっていけばよいと思います。
 新聞記事では、「長編を中心に『じっくり時間をかけて読む本』が入っている」とありますから、文学作品に限られているのかもしれません。文学が中心になることは理解できますが、もっと分野を広げて「動物に関する本」「花に関する本」「言葉についての本」「音楽の本」……などとしてもよいのかもしれません。それぞれの分野で「福袋」を作ることができると思います。
 新型コロナウイルスによる休校が続いています。その間の過ごし方として、学校から宿題が出されたことでしょう。体を動かすことも大事です。NHK教育テレビは子ども向けのコンテンツを放送しています。急に起こった休校措置で対応ができなかったかもしれませんが、じっくりと読書に取り組むということを課した学校はどれほどあったのでしょうか。
 外出がしにくくなった時期の格好の過ごし方として、読書生活の充実を考えることに気付いてほしいと思います。テレビや情報機器に飽きても、読書に飽きることは少ないはずだと思います。あるいは、これを機会に読書を習慣づける努力をしてもよいのではないでしょうか。コロナ禍は早く終息してほしいと思いますが、自分の精神生活を振り返るチャンスにもなる期間です。

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2020年3月23日 (月)

ことばと生活と新聞と(31)

「お早うお帰り」の温かみ


 コラム「天声人語」に、中高生から募った「私の折々のことばコンテスト」に応募された言葉のことが載っていました。広島に住んでいると思われる中学2年生の応募作です。家族が出かける時に、祖父は「行って帰り」という言葉を口にして送り出すというのです。原爆が落ちた時、姉がなかなか帰ってこなかった経験のある祖父の言葉だと言います。
 この言葉は、応募者の祖父が常に口にしていた言葉のようですが、その地域にこのような言い回しがあるのか、個人的な言葉なのかはわかりません。
さて、私が自分たちの住む地域の言葉として、耳にしていたのは「お早うお帰り」という言葉です。父・母の言葉ではなく、祖母が口にしていた言葉です。初めて聞いたときには、これから出かけるのに、早く帰るようにと言うのは、押しつけがましい感じを受けました。ゆっくりしておいで、と言うのが思いやりではないかと思ったものでした。
 この言葉の温かみは、自分が年齢を重ねるにつれて深まっていきました。再び顔を合わせるまでは心配をし続けているのだという思いが、このような言葉になっているのだと思います。
 自分に孫がいる年齢になりました。出かける孫に向かって、「早う戻れよ」と声をかけることもあります。孫は、うるさいなぁと顔をしかめているかもしれませんが、たとえ近くに出かけるような時であっても、還ってくるまで心配だという思いを持つのはすべての人に共通することだろうと思います。
帰ってきた顔を見て、よかった、よかった、無事で帰ってきて、と声に出すことはしないまでも、ちょっとした言葉やしぐさで人の心は結ばれているものであると思うのです。

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2020年3月22日 (日)

ことばと生活と新聞と(30)

「未利用」という言葉の使い方


 郵便切手は手紙や葉書などに貼って使用するものですが、歴史的意義や美術的価値などのあるのが多いという理由で、それを集めて楽しむ人が多くいます。その切手は、まだ郵便物に貼っていない「未使用」のものもあれば、既に使った「使用済み」のものもあります。古い切手を集めたカタログには、未使用と使用済みに分けて価値が載せられています。
 さて、話題が変わりますが、「未使用の口座に手数料 / マイナス金利4年 / 収益悪化 地銀や信金、導入次々」という見出しの記事がありました。記事には次のようなことが書いてあります。

 未利用の預金口座に手数料を課す金融機関が23あり、過半数は昨秋以降に導入したことが朝日新聞の取材でわかった。日本銀行がマイナス金利政策を始めてから今月で4年。長引く低金利で銀行の収益はじわじわと悪化し、顧客にも負担を求める動きが広がる。 …(中略)…
 未利用口座は犯罪の温床になるため、不正防止を理由に挙げる金融機関もある。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月24日・朝刊、14版、1ページ、湯地正裕)

 記事には、「未利用口座に手数料を課す金融機関」という表が添えられ、その表の説明として、「表記の時期以降に新規開設され、出入金が2年以上ない普通口座(残高1万円未満)が対象で、西京銀行のみ5年以上。」と書いてあります。
 「未利用口座」という言葉は、銀行が使っている表現なのか、新聞社が使ったのかはわかりませんが、「未利用」という言葉遣いはおかしいと思います。口座を開設して1度も入出金がないのが、本当の意味での「未利用口座」ですが、犯罪目的であっても、そんな口座はあり得ないでしょう。
 かつて「休眠口座」という言葉が使われたことがあります。しばしば使用されたけれども、その後は長期にわたって入出金がない口座のことです。たぶん、その言葉との違いを強調するために作られた言葉でしょうが、言葉遣いとしては「未利用口座」と表現するのはおかしいと思います。こんな言葉を使わなくても、記事からは、どういう口座のことを指しているのかは理解できます。
 何でもかんでも、漢字で数文字の言葉にしようとすることが行われています。それによって伝達能力を高めようとしているのでしょう。けれども、意味が微妙に異なる言葉遣いをすると、間違って理解するという弊害も生じてきます。「未利用口座」というのは、間違ったことを想起させない言葉遣いを選ぶべきでしょう。すこし長い言い回しであっても、正しい表現である言葉を選ぶべきでしょう。

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2020年3月21日 (土)

ことばと生活と新聞と(29)

図書館の、あってほしい姿


 図書館は人々にとって重要な施設です。けれども、それは、家計の図書購入費を軽減するという目的だけであってはならないと思います。図書館には、他の施設が担うことができない役割を持っていると思います。
 図書館のことを連載した記事がありました。調布市立図書館(東京都)に取材した記事ですが、ここには映画に関する資料が集められていると言います。

 熱心に資料を集めた理由は、ほかにもある。売れ筋の本をそろえて貸し出しを増やすだけでは、出版産業を脅かす「無料貸本屋」だと批判を受けかねない。図書館が存在意義を示すには、専門性と地域色を強める必要があるのだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年12月16日・朝刊、13版S、21ページ、「at work 図書館①」、内藤尚志)

 職員は班ごとに週1回集まる。出版取次会社の推薦をもとに購入候補のリストをつくり、1点ずつ買うか否か議論する。 …(中略)…
 小説投稿サイトの普及もあって「だれもが作家になれる時代になった」。だからこそ、関心の幅を広く持ち続けたいと思う。「読まれる本だけではなく、資料として価値がある本もきちんと拾いたい。図書館には書店とは違う役割がある。」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月13日・朝刊、13版、29ページ、「at work 図書館③」、内藤尚志)

 それぞれの図書館が「専門性と地域色」を強めるということには賛成です。ただ、すべての図書館が「専門性」を持てるかどうかは疑問があります。けれども、「地域色」はぜひ備えてほしいと思います。地域の歴史や文化などに関することは、その地域に住む人たちがそれぞれに関心を持っています。何かを調べたいと思うときに役立つ図書館であってほしいのです。地域に関する本は、近刊であれば買い求めることができます。けれども、何十年か前に出版された本で、手に入らないものもあります。そういう本を地元の図書館が所蔵し、それを見ることができるとしたら、その図書館の利用価値は高いものになります。
 記事の中で、気になることがあります。図書館の選書が「出版取次会社の推薦をもとに購入候補のリストをつくり、」検討されているという点です。取次会社の思惑に支配されてはいないとは思いますが、会社の営業に左右されてはいけません。地域にふさわしい本、地域に必要な本を選んでほしいと思います。
 その「地域色」について、図書館に改善してほしいことがあります。大多数の図書館が、地域性のある本を「禁帯出」に指定していることです。これは、図書館の精神に反すると思います。地域性のある本こそ、積極的に利用してもらうよう努力をすべきです。館内で見るだけでなく、貸し出しをすべきです。
 「禁帯出」にしている理由は理解できます。地域にとって大切な本ですから、紛失を恐れているのです。無くなったとき、再び購入することができないかもしれないと危惧しているのです。
 「地域色」を考えると、そのような本は2冊ずつ購入してほしいと思います。ベストセラーの文学書を何冊も購入する代わりに、地域出版物こそを複数購入すべきです。1冊は大切に保管し、他の1冊を自由に貸し出すようにすればよいのです。
 公立図書館の図書購入予算が潤沢でないことはわかっています。けれども、地元の図書館にしかない本を求めて利用している住民も多いのです。それぞれの都道府県、市町村の図書館が地域性に立脚した図書館であってほしいと願っています。

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2020年3月20日 (金)

ことばと生活と新聞と(28)

教育で金儲けをするということ


 教育というものを金儲けの材料にするということは止めてもらいたいと思っています。塾や予備校や、教育コンサルタントとかいう職業も含めて、正規の学校教育を支えているように見えながらも、自分たちにとって都合のよい部分をかすめ取っているようなところがあることは否定できないと思っています。本当の意味での教育に携わろうとするのなら公立学校の他に私立学校というものがあるのですから、そのような携わり方もできるはずです。教育の本質を考えないで、金儲けの材料としているだけなのです。
 学校教育を批判し、公立学校を批判した上で、自分の行おうとしている方法を宣伝するという人間が、教育の世界にいてほしいとは思いません。前回述べた「EduA」の紙面は、何だか教育の世界の上澄みの、都合のよい部分だけをかすめ取っているような気がします。そして、教育を金儲けの材料とする人たちを支える紙面になっています。
 ここ何十年かの日本の社会は、金銭至上主義に陥っており、教育もその中に引き入れられてしまっているのです。教育を市場と見なして、そこで金儲けをすることに何の痛みも感じないような人間が現出し、新聞もそんな人間を支えているのです。
 だから、本当の意味での教育の中枢にいるべきはずの人たちの考え方をも狂わせてしまうのです。
 こんな記事がありました。

 来年1月に実施される大学入学共通テストで導入予定だった国語の記述式問題について、問題作成に関わった複数の委員が、民間の出版社が出した記述式に対応する例題集の作成に関わっていたことがわかった。文部科学省は「社会的な疑念を抱かれる行為」として、共通テストを運営する大学入試センターに適切な対応を求める。
 例題集は、昨年8月に大手教科書会社が出版。主に先生向けで、10の例題を取り上げて解答と解説などが掲載されている。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月18日・朝刊、14版、26ページ、矢島大輔・山下知子・氏岡真弓)

 共通テストの記述式問題は、昨年12月に見送りが決まりましたが、この問題は忘れ去ってよいことではありません。
 共通テストの作問委員は大学教授らから選ばれていたということですが、守秘義務が課せられています。関わっていた委員は、昨年10月に辞任を申し出て、センターが今年1月に受理したと、記事には書かれています。
 これは試験の公平性を根本からゆるがす問題です。大手教科書会社も、複数の委員も、自己の利益(つきつめれば、金儲け)に傾き、教育の在り方などには思いを馳せていなかったのです。
 このような問題は、すぐさま関係会社の名前や、委員の氏名を公表するような措置をとるべきです。うやむやに過ごせば、同じようなことが起きる可能性もあるでしょう。どうしてそのような措置が取れないのでしょうか。センターが今年になって辞任を受理したというのも納得できないことです。
 金にまみれた教育から脱するために、新聞社もきちんとした姿勢で報道し論評する姿勢を持ってほしいと思います。

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2020年3月19日 (木)

ことばと生活と新聞と(27)

首都圏向けの教育の話題を、全国に配る


 この連載の(3)回でも書きましたが、教育というものを本質的にとらえないで、金儲けの対象として提示して、読者をそのような世界に引き込もうとするようなことが企画されています。
 「お受験」「御三家」「付属校」「難関私立校」などという言葉を使って、そういうコースを進むようにするのが、子どもの教育の筋道であるかのように思わせるのです。
 「わが子の受験適齢期」と題する記事のリード文は次のように書かれています。

 高校受験か、中学受験か、それとも……。大都市圏では中学受験熱が高まるなか、「教育費」「完全一貫校」「付属校」などをキーワードに、改めてわが子の適齢期を考えてみましょう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月8日・朝刊、「EduA」1ページ)

 このリード文は何が言いたいのでしょうか。「高校受験か、中学受験か、それとも……。」と言っていますが、「それとも……。」って何でしょう。小学校受験という意味なのでしょうか。親にとっては脅し文句のように聞こえかねないでしょう。「大都市圏では中学受験熱が高まる」と書いていますが、大都市圏のうちでも、首都圏のことを指しているのでしょう。東京の人間に向かって言っているようなことを、全国に配付されても意味がありません。
 このページでは、A・お受験、B・中学から付属校、C・「御三家」→東大、D・公立一貫校→国立大、E・公立校→国立大、F・高校から付属校、G・難関私立高→東大、の7つのコースに分けています。まるで、東大、国立大、私大(付属校を持つ私大)が、目指すべき学校のすべてであるかのような、偏見ぶりです。差別丸出しの紙面になっています。
 この7つのコースについて、「入学金・授業料などの計」と「塾・予備校費用の計」とを書き、その合計金額が書かれています。例えばAコースでは、1942万円+300万円で2242万円という数字が書かれています。Eコースは「公立高→国立大」ですが、407万円+395万円で802万円です。
 7つのコースすべてに、「塾・予備校費用の計」の金額が提示されているのです。つまり、塾や予備校に行くことが当然であるということを示しています。家庭の状況に基づく教育格差ということが問題になっています。新聞でもそういうことを書きながら、別のページでは、まったく異なることを平気で書き連ねています。
 そもそも「EduA」という企画紙面は、記事の形を取りながら、塾や予備校などの関係者に書かせている文章が大半を占めています。こういう紙面づくりをして、やましいと考えていない新聞社の姿勢は大問題です。全国にはいろいろな土地が広がり、さまざまな生活が営まれているということが、まったく視野に入っていません。
 首都圏向けに作った新聞を、そのまま全国に配るという安易な姿勢には、腹立たしさが禁じ得ません。

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2020年3月18日 (水)

ことばと生活と新聞と(26)

「ある日」と「とある日」とはどう異なるのか


 新聞のコラムで、「とある休日のわたし」という題名の文章を読みました。文章の冒頭も「とある休日」で始まっていました。

 とある休日。昼過ぎまでゆっくり眠り、目覚めてしばらくは暖かい毛布の中でごろごろ。みた夢のことを考える。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月14日・朝刊、13版、23ページ、「オトナになった女子たちへ」、益田ミリ)

 「ある休日」という言葉ではなく、「とある休日」と表現したのはどういうことなのでしょう。見出しも、文章の冒頭もなのです。「ある」を使わずに、「とある」を使うことには、それなりの理由があるのだろうと、妙に気がかりになりました。
 具体的な書き方をすると「休日の〇月〇日」です。それを「先月下旬の休日」とすると、少しおぼろな表現になります。さらにぼやかすと「ある休日」になるでしょう。それをさらに「とある休日」にすると、どんな感じが出るのでしょう。
 「とある」を国語辞典で見ると、『明鏡国語辞典』は「たまたま行きあった場所である。また、偶然そうなった日時である意を表す。」と説明しています。小型の国語辞典では、これが最も詳しい説明です。
 『現代国語例解辞典・第2版』は「偶然目についた、という気持ちをこめ、連体詞『ある』と同じように用いる。」と説明していますが、この場合は「休日」のような日時を表すこともあるということは説明されていません。
 『三省堂国語辞典・第5版』は「そのへんに ある。」という説明で、やはり日時を表すという説明がありません。
 『新明解国語辞典・第4版』は「〔ちょうど差しかかった〕ある」という説明で、用例から判断すると、日時のことは念頭にないようです。
 『岩波国語辞典・第3版』は「或(あ)る。さる。」という言葉の置き換えで終わっています。やはり用例から判断すると、日時のことは念頭にないようです。
 このような国語辞典の説明は、不完全であると思います。他の辞典がそのように書いているから、その程度の説明でよいだろうと、互いに引っ張り合っているような印象です。もう一歩、踏み込んだ説明をしなくてはなりません。その際、「ある」と「とある」はどう違うのかという説明もしてほしいと思います。
 中村明『日本語 語感の辞典』に書かれている、「偶然の出合いというちょっとした感動をこめて使う表現であり、予定していた場所や人の移動に関係のない建物などには用いない。」という説明がヒントになると思います。

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2020年3月17日 (火)

ことばと生活と新聞と(25)

「開館」⇔「休館」という対比はおかしくない


 この連載の(13)回で、学校の休校の話題を取り上げて、休校しないことを「開校」と表現するのはおかしいと書きました。
 各地の図書館も開くか開くまいかという決断を迫られたようです。私がよく利用する図書館のうち、兵庫県立、神戸市立は休館しています。明石市立、播磨町立は休館していません。県立(所在地は明石市内)は県内に感染者が出たから、神戸市立も神戸市内に感染者が出たからという理由でしょう。明石市内、播磨町内には感染者がいません。
 各地の図書館の対応の仕方を扱った記事の見出しが、次のように書かれていました。

 悩む図書館 / 開館 名前と連絡先記入■いす撤去 / 休館 コロナ対策「仕方ないけど」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月6日・夕刊、3版、11ページ、見出し)

 この記事には「開館」「休館」という言葉が何度も出てきます。「開館」という言葉には抵抗感はありません。
 開館には、館と名のつく施設が開設されることと、その施設のその日の業務が始まることという2つの意味があります。
 開校には、学校という施設が開設されることという意味だけがあって、学校のその日の活動が始まることという意味はないと考えられるのです。
 なぜその違いがあるのかと問われても、きちんとは答えられません。多くの人がそのような使い方をしている、多くの人がそのような違いを感じている、としか言いようがありません。
 言葉というものは、そんなものではないでしょうか。なじみの使い方があるかないかということが判断の分かれ道になってもおかしくはないでしょう。
 ところで、記事には、大阪府吹田市と箕面市は、感染者が判明した翌日から休館することにしたと書かれています。その人たちが市内の図書館を利用していたかどうかに関わらず、そのような判断を下すことには、割り切れないような気持ちも残りますが、お役所の判断はそのようなことなのでしょう。

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2020年3月16日 (月)

ことばと生活と新聞と(24)

高校入試の出典の変化


 新型コロナウイルスで休校措置が続いていますが、入学試験をやめるわけにはいきません。兵庫県の公立高校の入学試験は3月12日に実施されました。翌日の新聞には試験問題がそのまま掲載されました。
 国語の問題を見ると、しばらく前に比べると、ずいぶん高校入試も変化したなぁと感じます。難易度をどのように考えて、設問を作成しているのかということに関しても、昔と違うと感じます。
 国語は全5問です。1番は学校新聞の記事を提示して、それについて考えさせる問題です。資料を読んで考えさせるという問題は、現在では定位置を得ているように感じます。
 2番は漢文で、出典は胱定向『権子』です。3番は古文で、源俊頼『俊頼髄脳』です。ポピュラーな出典を避け続けていると、高校の授業でも扱わないような出典に行き着いてしまいます。兵庫県の場合は、古文・漢文の出典はそういう傾向になっていると思います。それぞれが短い文章で、設問は難しくありませんから、出典にする文章を易しい作品にするのがよいと思います。高校教育の導入になるような作品を選んではいかがでしょうか。
 4番は現代文の文学的作品で、出典は谷津矢車『廉太郎ノオト』です。5番は現代文の論理的文章です。
 5番の問題として提示されている文章の、最初の部分を引用します。

 人間が思考するというのは、情報と知識を照らし合わせたり繋ぎ合わせたりして何らかの意味合いを紡ぎ出す行為であるが、そうした情報および知識という思考の材料は「言葉」になっていてこそ思考の材料たり得るのである。
 したがって、論理的思考を良く行うためには、考える対象の意味内容を適切に言語化することが必要不可欠となるのである。
 適切な言語化の第一歩は、思考の対象としようとする事象(モノやコトや様子)を正確に表す言葉を探し、選択することである。
 たとえば眼前一面に咲いている黄色い花に対して、(〝菜の花〟という言葉ではなく)〝花〟という言葉を選択して認識してしまったとしても、それは目の前の黄色い花を表す言葉として間違いではない(〝木の実〟とか〝ドーナツ〟とかを選ぶと間違いである)が、〝菜の花〟という言葉と比べると正確性に劣る。〝花〟というだけでは、その植物が食べられるかどうかや、脂を搾れるかどうかは分からないし、チョウチョが飛んでくるだろうことは想起できたとしても、それがアゲハチョウなのかモンシロチョウなのかは分からない。
(以下、省略)

 言葉について考えさせることは、国語教育にとっては大切なことです。けれども、この文章は中学校卒業時期の生徒に理解できるのでしょうか。明らかに大人向けに書かれた文章です。本文中の「繋ぐ」「紡ぐ」「懐っこい」「誤謬」という言葉にはルビが付され、「命題」「A≠B」「誤謬」には注が施されています。
 さて、上に引用した文章の3番目の段落の「適切な言語化の第一歩」に傍線①が施され、「問四」として、次のように問いかけられています。

 問四 傍線部①の具体的な説明として最も適切なものを、次のア~エから一つ選んで、その符号を書きなさい。
 ア 目の前で咲いている菜の花を見て、「花」、「黄色い花」といった言葉を思い浮かべること。
 イ 目の前で咲いている菜の花を見て、「菜の花」という言葉でそれを認識すること。
 ウ 目の前で咲いている菜の花を見て、「この菜の花は食用だ。」と思うこと。
エ 目の前で咲いている菜の花を見て、「この菜の花はおひたしにしたらおいしいだろう」と考えること。

 このア~エの選択肢はすべて「目の前で咲いている菜の花を見て、」で始まっています。試験中の受験生には不親切です。前半の言葉をすべて割愛して、設問を次のように改めてはどうでしょうか。

 問四 傍線部①は「目の前で咲いている菜の花を見て」どうすることを「言語化の第一歩」だと言っているのですか。最も適切なものを、次のア~エから一つ選んで、その符号を書きなさい。
 ア 「花」、「黄色い花」といった言葉を思い浮かべること。
 イ 「菜の花」という言葉でそれを認識すること。
 ウ 「この菜の花は食用だ。」と思うこと。
エ 「この菜の花はおひたしにしたらおいしいだろう」と考えること。

 迷うのは「ア」と「イ」でしょう。「ウ」や「エ」を選ぶ生徒はごく少ないでしょう。
 実はこの問題の答えは、大人にとっては簡単です。「ア 言葉を思い浮かべる」、「イ 言葉でそれを認識する」、「ウ 思う」、「エ 考える」という動詞を比べたら、「言語化」は「認識」以外に結びつかないのです。結論が明確であるのに、選択肢をあれこれ作って受験生を惑わせているのです。このことはすなわち、大人にはすぐ理解できるが、中学校卒業時期にふさわしい文章として書かれていないということでもあるのです。
 出典は、波頭亮『論理的思考のコアスキル』です。ちくま新書の一冊ですが、筆者は経営コンサルティング会社の社長のようです。
 言葉について考えさせられる文章を読むことは大事なことです。そして、そのような書物はいくらでもあります。どうしてこの一冊を選んだのかということは、教育委員会で改めて再検証してもよいのではないでしょうか。

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2020年3月15日 (日)

ことばと生活と新聞と(23)

「ホッチキス」という言葉


会合などで参加者に渡す資料が何枚かにわたる場合は、それをまとめて綴じることをします。部数が多いときは流れ作業のようにして能率を上げたいと思うのですが、あわてて綴じ方を失敗することがあります。そんなとき、「どっ畜生(ちきしょー)」などという声を上げることがあります。ホッチキスがきちんと働いてくれなかったのに苛立って、あげている声です。もちろん、ホッチキスを「どっちきしょー」という類似する音で表現しているのです。ふざけて、「どっちきしょーを貸してんか。」などと言って、物の名前として使うこともあります。
 そのホッチキスですが、私は「ホチキス」という発音をすることがありませんし、周りの人も同様であるように思います。その「ホチキス」という言葉を『明鏡国語辞典』で引いてみました。「ホッチキス」という見出しはなくて、「ホチキス」だけが載っています。

 コの字形の針を紙に打ち込み、内側に折り曲げてとじ合わせる器具。ステープラー。ホッチキス。▼アメリカの発明家ホッチキスの名に由来する商標名。

 ホッチキスさんに由来する器具の名前がホチキスだという説明です。商標名だというのなら、「味の素」などと同じで、NHKなどではステープラーと表現しているのでしょう。
 けれども、こういう身近なものの場合は、それにまつわる言葉遣いも様々であるように感じます。(私はホッチキスと言っていますから、ここから後はその名称を使います。)
 ホッチキスを使って、まとめて綴じることを、私は、ホッチキスで「とじる」、「とめる」と言います。ホッチキスを「うつ」というような言い方はしません。
 ホッチキスの針のことは、「はり」と言うこともありますが、それよりも、「たま(弾?)」と言う方が多いと思います。「たまが切れてもた。入れるさかい、待っといて。」と言ったりするのですが、それは何本も連なったものを意味することが多く、1本の場合は「はりが折れたさかい、やり直す」と言ったりしています。時には、「しん(芯?)」と言うこともあります。器具の中に入れるものというイメージで「シャープペンシルのしん」などという言い方と共通するのかもしれません。
 このような言葉遣いは、方言と言ってよいのかもしれませんが、仲間内での使い方に影響されているのかもしれません。
 傷口を押さえる小さな絆創膏の名前なども、地域やグループによって呼び方が異なるということもあります。私の近くでは、この場合は「サビオ」とか「救急バン」とか言って、商標名に傾斜していますが、誤解が生じることはありません。

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2020年3月14日 (土)

ことばと生活と新聞と(22)

「だいじょうぶ」という言葉


 例えばどこかの食堂で昼食を食べているときに、親切なウエイトレスがまわってきて、「お水、だいじょうぶですか。」などと言われることがあります。水の減り具合に気を留めてくれていることを嬉しいと感じつつも、言葉遣いにはなじめません。
 この言葉のごく普通の使い方で考えると、グラスの水の中に塵が浮かんでいたりすると「だいじょうぶではない」ということになります。グラスにひびが入って水が漏れ出しているようなときも、「だいじょうぶでない」ということになります。
 たぶん、この言葉は「お水は(注ぎ足さなくても)、よろしいか。」という言葉遣いを、もう一段と高めた表現だと思って使っているのではないかと思います。
 注文をしたときに、その品目を並べて、「以上で、だいじょうぶてすか。」と確認されることもあります。あなたの方こそ、しっかり聞いてくれましたか、だいじょうぶですか、と言いたくなります。
 「だいじょうぶ」は接客用語に限らず、若い人たちが自分の状況を表す言葉としても使っています。「ちょっとお金を貸してほしいのだけれど、だいじょうぶ?」「うん、5千円ぐらいまでだとだいじょうぶだよ。」というような使い方です。
 こんな文章を読みました。お断りの言葉としての「だいじょうぶ」についてです。

 こんな自分はだいじょうぶなんだろうか。毎日やたらに「だいじょうぶ」を連発中だ。
 はじめて寄ったパン屋で。
「スタンプカードをおつくりしましょうか?」
「だいじょうぶです」
 コンサート会場の受付で。
「来月からメールでイベントのご案内を送ります」
「あ、だいじょうぶです」
 とにかく便利である。なにがどうだいじょうぶなのかまるで意味不明なのに、気分だけはちゃんと伝達される点がすこぶる重宝。また、「だいじょうぶ」は明言を避ける方便である。すっきり拒否してもなん支障もないくせに、ここはひとつ穏便にスルー。ようするに曖昧と逃げ腰の所産で、丁寧なわけでもなんでもない。つねづね自分でもたいへん情けない。お断りのマナーとして、どうなのか。 …(中略)…
 その場その場に見合う言葉をあてがうのを面倒くさがっているだけなんですね、たぶん。意を尽くしてちゃんと応じればすむものを、やわらかなニュアンスの一語を発見して、すっかり横着になってしまった。
 (中央公論新社(編)「考えるマナー」、中公文庫、2017年1月25日発行、86~87ページ、「お断りのマナー」、平松洋子)

 平松さんが書いている、「その場その場に見合う言葉をあてがうのを面倒くさがって」使っているという指摘には同感します。
 いろいろな言葉で言い分けられるのに、特定の一つの言葉を使うのです。一つの言葉ですから、しばしば耳にします。強調されて印象に残ります。そうすると、それを真似る人が増えて、流行語のようになります。
 そのような言葉遣いですから、いつまでも続かないと思います。語彙不足、表現力不足が生んだ現象だということに気付けば、衰えていくことになると思いますが、それに気付くかどうかが問題であるのでしょう。

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2020年3月13日 (金)

ことばと生活と新聞と(21)

一刻も早く、夕刊の廃止を


 徳島新聞が夕刊を廃止するというニュースが載っていました。地方新聞だけではなく、産経新聞も東京本社発行のものは夕刊を廃止しています。他の新聞社も一刻も早く、夕刊を廃止するのがよいと思います。
 私の本当の気持ちは、夕刊を廃止してほしいとは思いません。けれども、新聞社のやり方が、実におざなりになってしまっています。本気で夕刊を作っているようには思えないのです。
 昔は、同じ記事を2度にわたって載せるなどということは恥ずかしいことでした。間違って2度載せたりすると、お詫びの記事が載っていたという記憶があります。あるいは、2度載せをするときには「一部地域、既報」と書いていました。現在は、そのような良識はまったく、ありません。
 夕刊廃止は既定の方針であり、夕刊は片手間で作っているという有様であるように感じられます。こんなことならば、一刻も早く、夕刊廃止を実現すべきです。あるいは、読者に向かって「統合版(朝刊のみの配達)の注文も認める」と言うべきです。朝・夕刊セット販売の価値は失せてしまっています。
 夕刊には、本気でニュースを報道しようという姿勢が失せてしまっています。ニュース発生の時刻によって朝刊より早くなることはありますから、夕刊には載せますが、翌日の朝刊に同じ記事を載せるというやり方になっています。しかも、夕刊に載せるニュース記事の本数は極端に少ないのです。
 例えば、3月3日の夕刊1ページのニュースは次の2本です。(ページの下の方に「NEWSダイジェスト」という欄があって、3つの記事が載っています。)その2本の記事の見出しは次の通りです。

 河井夫妻秘書ら逮捕 / 運動員買収容疑で広島地検 / 昨年の参院選 疑惑次々
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月3日・夕刊、3版、1ページ、見出し)

 朝日新聞社社主 / 村山美知子氏 死去
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月3日・夕刊、3版、1ページ、見出し)

 翌3月4日の朝刊1ページのニュースは、上記2本と、「新型コロナ 野党に協力要請」と「原爆展 外務省が後援断る」の2本です。夕刊既報のニュースの見出しは次のようになっていて、時間の発展性のない見出しです。

 河井夫妻秘書ら逮捕 / 広島地検 運動員を買収容疑 / 案里議員 連座制の可能性 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月4日・朝刊、14版、1ページ、見出し)

 村山美知子氏 死去 / 朝日新聞社社主 芸術振興に尽力
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月4日・朝刊、14版、1ページ、見出し)

 河井議員のニュースは夕刊から少しだけ発展した書き方になっています。村山氏のニュースは、最初の11行はまったく同一の文章であり、その後ろの部分は少し書き換えられていますが内容に変化はありません。
 ここ何か月間にわたって、このような記事を読まされています。新聞としての姿勢が地に堕ちた感じです。繰り返して言います。一刻も早く夕刊を廃止してください。信頼できる新聞編集を復活してください。新聞は繰り返して配られるビラとは異なる存在であるはずです。

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2020年3月12日 (木)

ことばと生活と新聞と(20)

拗音は「ひねる音」であるのか


 発音がしにくい言葉を変化させて、発音をしやすくするというのは自然なことです。キャ・キュ・キョ、シャ・シュ・ショなどの拗音は、他の音と結びついて、発音がしにくくなることがあります。「フィギュア」を話題にした、こんな文章がありました。

 大学の売店で、学内にある銅像のミニチュアを販売しています。〈銅像フィギア〉の文字が見えます。
 人気キャラクターなどの精巧な人形のことは「フィギュア」と言います。 …(中略)…
 ただ、外国語とカタカナ語の発音には、往々にして開きがあります。昔、下着の「シュミーズ」は「シミーズ」とも言いました。「フィギア」もこれと同じで、ひねる音(拗音)を言いやすくしたのです。 …(中略)…
 私の携わる『三省堂国語辞典』では、「フィギュア」の項目で、別形として「フィギア」も示しています。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月15日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「外国語とカタカナ語の発音には、往々にして開きがあります」と書いてありますが、外国語やカタカナ語に限りません。ごく普通の日本語であっても、発音がしにくい言葉は拗音を省く(あるいは、落としてしまう)ことがあります。
 「手術」という言葉を発音しにくいと感じている人がいるでしょう。短い単語の中に拗音が2回も使われています。日常の生活では、「しゅじゅつ」を、「しゅじつ」と言ったり「しじゅつ」と言ったりしているのを聞くことがあります。極端な場合は「しじつ」です。
 ただし「手術」を仮名書きで「しゅじつ」などと書くことはありません。外来語のカタカナ表記の場合は、拗音を省くことがきちんと書き表されるということになるのです。

 さて、上に引用した文章には問題点があります。
 拗音は「ひねる音」でしょうか。国語教育に携わる者にとっては、こういうことを新聞で書かれると困ります。子どもたちは活字を、新聞を信頼しています。NIEなどということを主張されている新聞社としては、筆者が間違ったことを書いたとしたら、新聞社の方でチェックしないといけません。
 たとえば「促音」は、語中にあって一拍分だけ息を止めたように聞こえる音で、それを、つまる感じを持つ音と言ってもおかしくはありません。けれども、「拗音」のことを「ひねる音」だと認識している人はいるのでしょうか。私はそんなふうには感じませんし、そんなことを説明している文章にお目にかかることはありません。どういうことを「ひねる」と表現しているのか、理解に苦しみます。
 もうひとつの問題点は、こんな書き方をすることによって、「拗」という文字を「ひねる」と読むという誤解を生む可能性が生じます。
 「拗」という文字は一般に、ねじれる、すねる、と読みます。「ひねる」という言葉を漢字で書くと一般に、「捻」の文字を使います。
 子どもたちに、「拗音とは、ひねる音のこと」という誤った認識を植えつけて、さらに、「拗という文字は、ひねると読む」という誤った読み方を知らせるようなことはやめてほしいと思います。
 この記事は、きちんと訂正記事を書くべきだと思います。けれども、新聞社の常として、小さな間違いには頬被りして、知らん顔をするという習癖が存在することも確かです。そもそも、こういうことを指摘しても、何の返事もないというのが新聞社の偉大なる慣行です。

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2020年3月11日 (水)

ことばと生活と新聞と(19)

「ひったくり」は、大阪の「代名詞」か


 「代名詞」というのは、もともとは品詞を表す言葉です。それが日常の言葉としては、意味を広げて使っています。「形容詞」という言葉も同様ですが、今回は「代名詞」に限って考えます。
 こんな記事がありました。

 大阪名物「ひったくり」--。たこ焼きとともに長年、大阪の代名詞と言われた犯罪が急減している。昨年の大阪府内のひったくりの認知件数は9年ぶりに全国ワーストを脱し、2000年のピーク時より1万件以上減った。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月6日・夕刊、3版◎、11ページ、光墨祥吾)

 見出し(カット)には「大阪名物 ひったくりワースト」という大きな幟の絵が配され、「ワースト」の部分に「×」印が入れられています。大阪の代名詞といわれたものがなくなるのを残念に思っているような雰囲気が漂っています。
 ところで、この「代名詞」という言葉の使い方は、一般的な用法なのでしょうか。
 小型の国語辞典では、次のように説明しています。(品詞としての説明の部分を除いて、引用します。)

『三省堂国語辞典・第5版』
 同類を代表する・もの(ことば)。「小野小町は美人の -」

『新明解国語辞典・第4版』
 …といえばまずそのものが思い出される代表例。「日本の『汽車の時間』はかって正確の - だったが」

『現代国語例解辞典・第2版』
 その語、その事物を想起させるに足るもの。「小町は美人の代名詞だ」

『明鏡国語辞典』
 あるものの性質・状態などを代表的に言い表す語。「働き蜂はサラリーマンの - だ」

『岩波国語辞典・第3版』
 代表的・典型的なもの。そのものをよく表している例。

 国語辞典に載せられている用例は、大きく分けると2つになると思います。
①「美人はたくさんいるけれども、その代表は小野小町だ」「正確なものはいろいろあるけれども、典型的なものは汽車の時間だ」という例示。
②「サラリーマンはまるで働き蜂のようなものだ」というような強い比喩。
 引用した新聞の用例を、この①②にあてはめると、次のようになるでしょう。①に沿う解釈の場合は、「大阪の特徴はいろいろあるが、その代表は『ひったくり』だ」。②に沿う解釈の場合は、「大阪はまるで『ひったくり』の町だ」。どちらも、大阪をこき下ろす意味が強くなります。地元の人は腹を立てることでしょう。そもそも「ひったくり」を大阪名物とか、大阪の代名詞と表現するのは、報道関係の人たちだけでしょう。
 このように考えると、新聞記事の「代名詞」は、望ましい使い方であるようには思えません。しかも、「代名詞」の使い方の傾向としては、良いもの(例えば、美人とか、正確さとか)について言うことが多いという点も、意にとめておくべきでしょう。

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2020年3月10日 (火)

ことばと生活と新聞と(18)

「にわかファン」は、いつまで続く?


 言葉には、あるニュアンスが伴うことがあります。特別な理由もない場合もありますが、きちんとした理由が考えられる場合もあります。
 「にわかファン」という言葉について説明をしたコラムがありましたが、肝心な事柄が抜け落ちているように感じました。
 コラムは次のように書かれていました。

 「にわかファン」。ファンになって日が浅い人を揶揄する意味でこう呼ぶことがあります。
 「にわか」自体の意味は「急に変化が現れるさま」(広辞苑)。これが「にわかファン」となるとなぜネガティブな意味をもつのでしょう。 …(中略)…
 ところが昨年のラグビーワールドカップ(W杯)日本大会では、この「にわかファン」が盛り上がりに大きく貢献し、この言葉は新語・流行語大賞にもノミネートされました。 …(中略)…
 「にわかファン」を軽く見たりのけ者にしたりせず、むしろ温かく迎え入れる。W杯をラグビー界では、そんな空気が育っているようです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月8日・朝刊、13版S、13ページ、「ことばサプリ」、田辺詩織)

 「にわかファン」という言葉がネガティブな意味を持つことについて、本文中では、米川明彦教授の「話し手の立場によって変わる」という考えだけが紹介されていますが、それは広く言うと、どんな言葉に関しても言えることです。「にわかファン」のネガティブな意味は、説明されておりません。
 「にわかファン」が揶揄的であり、ネガティブな意味を持つ言葉であるということに異議はありません。けれども、本当に「にわかファン」である人々であるのなら、「温かく迎え入れる」ことをしても、持続性のないファンであるというように感じられるのです。
 この記事で抜け落ちていることがあります。国語辞典ではほとんど説明していませんが、「にわか」という言葉は、「急に変化が現れる」ことだけを言う言葉ではありません。むしろ「急に変化が現れて、すぐに元に戻ってしまう」ことを表す言葉です。
 「にわかファン」が揶揄的な意味を持つのは、いつまでもファンとして続いていくのではない(つまり、しばらくしたら止めてしまう) という意味をにおわせているからです。
 「にわか雨」は、突然降り出してすぐ止む雨のことです。突然降り出した雨であっても、長く降り続くようになったら、それを「にわか雨」とは言いません。急にファンになっても、いつまでもファンを続けたら「にわかファン」ではありません。
 揶揄する様子を感じたり、ネガティブな意味を意識したりするのには、きちんとした理由があるのです。「話し手の立場によって変わる」という考え方は、訂正するのがよいように思います。

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2020年3月 9日 (月)

ことばと生活と新聞と(17)

予想数値は信頼できるのか


 万国博覧会開催とか鉄道線路新規開業とか、何か新しいことが行われるときには、「経済効果、何億円」というような報道があります。主催者(当事者)側の予想もありますし、関西では、決まったように某大学教授の名前が出ることもあります。
 経済効果という場合は、一つの内容がいくつもの項目に重ねて計上されることがあるから、数値はあてにならない、と聞いたことがあります。大きな数字を出して、その効果を強調するという意図が働くこともあるのでしょう。
 催し物などが終わったときには、何年も前に出された「経済効果、何億円」という数字は忘れているでしょうから、大げさな数字であったとしても、責任を追及されることはないのでしょう。計算する方法に乗っ取ってやっているのでしょうが、その方法が正しいかどうかはわかりません。
 いい加減な、口から出任せで言ったとは思いませんが、後になって、発表していた数値を検証するような報道に出くわすことは、ほとんどありません。「経済効果、何億円」というような報道は、やめてほしいと思います。関係者に必要な数字であるのなら、関係者だけにとどめて、参考にすればよいことです。
 プロ野球の今シーズンの順位はどうなるかというような予想は、遊び半分のものでしょうが、野球専門家のような人もあたることはありませんから、経済効果の予想も似たようなもの、遊びの要素の加わったものと見るのがよいのではないでしょうか。
 人口予想というものも、当たらないことがあるようです。こんな記事がありました。

 全国屈指の高級住宅地として知られる芦屋市の人口は2015年がピークとなり、その後は減少局面に入ったことがわかった。市が15年に公表した人口推計では25年まで増え続けるとしていたが、人口減少は当時の想定より10年早くなった。 …(中略)…
 市の人口は15年までは増加傾向で、15年10月の国勢調査では9万5350人だった。16年から減少傾向に入り、昨年11月に市が公表した人口推計によると、18年は9万4751人。今後も減り続け、33年に9万人を割り込み、63年には6万4778人になる見込みという。15年に公表した推計では、人口のピークは25年の9万6051人としていた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月8日・朝刊、「神戸」版、14版、29ページ、松永和彦)

 人口のピークを2025年としていた想定が、10年も早くなってしまったという記事です。人口ですから、きちんとした数字が確定します。経済効果というような曖昧なものとは違うのです。人口ですらこのような状態ですから、それよりももっと変化要素の多い経済効果の数字などというものは当てになりません。宣伝効果を狙って発表しているのかもしれませんが、大げさに報道する価値はないでしょう。そういう報道に接するときは、眉に唾をつけて聞く必要があると思います。

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2020年3月 8日 (日)

ことばと生活と新聞と(16)

関西というのはどの地域か -国語辞典は間違っている-


 小学校から高等学校の頃まで、私は、近畿地方というのは京都・大阪・兵庫・滋賀・奈良・和歌山・三重の7府県であると教わりました。学習用の地図もそのようになっていました。現在の新聞記事などでは、近畿の2府4県という言い方が広く行われていて、三重県が除外されています。
 三重県は東海地方に含まれるようですが、それは国の行政機関の管轄などによるものでしょうか。天気予報などで、北陸3県とか東海3県とかの言葉を聞くことがあります。北陸3県は福井・石川・富山のことでしょうが、東海3県とはどこなのでしょうか。三重・岐阜・愛知・静岡というと4県になりますが、東海3県はそのうちのどこを除外しているのでしょうか。よくわからない言葉遣いです。
 いずれにしても、近畿地方というのは、いくつかの府県をまとめた言い方です。それに対して、関西というのは府県単位のことではないと思います。いったい、近畿と関西とはどちらの方が広い範囲を指す言葉なのでしょうか。関西に対立する言葉は関東です。
 私の思い込み(勝手な思い込みかもしれませんが…)は、近畿よりも関西の方が広い地域を指しているということでした。大雑把な言い方をすれば、関西とは、近畿2府4県を含めて、その東西に広がっていると思っています。東は名古屋のあたりまでを関西に含めてもよいし、西の方は山陽の岡山、四国の徳島・香川の各県のあたりまでが関西だと言ってもよいと思います。
 NHKの放送の場合、全国ニュースと区切って地域ニュースを放送するときに、「大阪(のスタジオ)から、関西のニュースをお伝えします」と言っています。「近畿のニュース」と言うことがないわけではありませんが、そのような言い方は少ないように思います。ニュースの対象エリアは、近畿2府4県の他に徳島・三重・福井(嶺南地域)も加わります。それは、天気予報についても同じ広がりで放送しています。徳島・三重・福井にまで大阪局の電波が届いているのでしょうか。
 さて、ここから述べることは、私にとっては大きな驚きでした。わかりきったような言葉を国語辞典で引くことはまれですが、引いてみると、意外なことが書いてありました。「関西」について説明されている部分を引用します。

『三省堂国語辞典・第5版』
 京都・大阪(を中心とした)地方。上方。
『新明解国語辞典・第4版』
 〔昔、逢坂山の関から西の地方、の意〕京都や大阪(を中心とした)地方。
『現代国語例解辞典・第2版』
 京阪地方。
『明鏡国語辞典』
 京都・大阪・神戸を中心とする一帯。京阪神地方。
『岩波国語辞典・第3版』
 京都・大阪およびその近県一帯の地域。

 狭く書いてあるのは「京都・大阪地方」「京阪地方」で、それより広く「京阪神地方」に広げているのもありますが、「京都・大阪およびその近県一帯」というのは少数意見です。神戸や奈良は関西に含まれないという説明をしているような国語辞典があるのです。
 『広辞苑・第4版』は、4項目にわたって説明がありますが、最終的には、「現今では東京地方を関東と称するのに対して京阪神地方をいう。」と言っています。「東京地方」という言い方は関東1都6県の「関東」と同じなのでしょうか。疑問あり、です。
 これらの国語辞典の説明では、近畿6府県と徳島・三重・福井を合わせた地域を「関西」と呼んでいるNHKの言い方はおかしいということになります。
 朝日新聞などの紙面を見ても、関西とは近畿地方一円のことを指して使っています。いまどき、関西とは京阪地域のことだと考えている人はいないでしょう。
 これは、国語辞典の方が間違っていると考えるべきでしょう。国語辞典を編集している人たちが、首都圏に住む人間としての感覚で説明をしていて、関西人の感覚とは大きくずれていると言うべきでしょう。これらの国語辞典は、他の国語辞典がそのように書いているからと思って、それを真似合って、安心してしまっているのでしょう。間違いに気付けば、すぐに改めるべきです。国語辞典は改訂のたびに、説明の誤りに気付いて改めることをしています。けれども、「関西」の意味の誤りに気付かないというのは、なんとも驚くべきことであると思います。関西人は鷹揚な性格ですから、東京人が間違った使い方をしていることを正面から指摘しなかったのでしょう。
 この問題をきっかけに、国語辞典編纂者は、東京人としての感覚を反省すべきでしょう。東京人の感覚が全国すべてに通用すると考えてはいけません。他の言葉にも、このような感覚が反映されているかもしれないのです。

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2020年3月 7日 (土)

ことばと生活と新聞と(15)

書いた文章、口にした言葉について弁解をしない


 「天声人語」にこんな文章が書かれていました。

 思想家の内田樹さんは、自分の書いたものがどう引用されても文句を言わないのだという。なかでも入学試験や模擬試験で使われるのを歓迎している。受験生は眼光紙背に徹するように読み、作者の「言いたいこと」を熟慮しなければならないからだ。
 「僕としては、そんなに真剣に自分の書いたものを読んでくれる読者は求めて得がたいと思う」と『街場のメディア論』で述べている。たしかに普段の読書とは段違いの集中力で臨むのが入試である。美しい文章、深みのある文章に出会った時の印象もそれだけ強くなる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月21日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 私は文章を読む速度がそんなに速くはありません。けれども、ゆっくりと文章の一字一句をきちんと読んでいるかと言えば、そうでもありません。
 ときどきは、いいかげんな読み方をしたなと反省して、少し前から読み返すこともしますが、一つの文章を何度も読み返すことはしていません。
 高等学校の教壇に立って国語を教えていた頃は、同じ文章を何度も何度も読み返しました。三度や五度でなく、もっと多く読み返したこともあります。教えるためには必要なことであったのです。「眼光紙背に徹する」とは言えませんが、読み返すたびに、新しいことに気付かされました。
 読み返すことの利点はわかっているのですが、現在の私は、気楽な読書をしているように思います。反省の弁ではありません。そんな読み方でよかろうと、高齢者としての読書を楽しんでいるのです。
 けれども、大学受験生がしているような、あるいは、国語教員がしているような、繰り返し読むと言うことを、若い人にはして欲しいと思います。
 繰り返し読むことによって、その文章が、繰り返し読むことにたえられる文章であるか、そうでない文章であるかということも、わかってきます。内田樹さんは、書いた文章に自身がおありだから、「自分の書いたものがどう引用されても文句を言わない」という態度をとることができるのだと思います。
 本来は、自分が書いた文章、自分が口にした言葉は、そうあるべきだと思います。後になって、弁解をしたり、解釈を変えたりすると、言葉の価値が下がってしまいます。どこかの国の首相も、内田さんの考えに沿うべきでしょう。
 さて、蛇足をひとつ。私が書いた文章も、ただの一回だけですが、大学入試で使われたことがあります。北海道教育大学の入試です。入試が終わってから、日本著作権教育研究会からの連絡があって、知りました。光栄なことですが、私が書いた文章が、どのような問題の素材として使われたとしても、意見を言う立場にないと思います。筆者の手を離れているのですから。
 時々、入試問題に使われた作家が、「自分が設問を解いても、正解にはならなかった」というようなことを述べているのを読むことがありますが、それは仕方のないことでしょう。自分の思いと同じものを、受験生や出題者に求めても、得られないことはあるでしょう。内田さんのように、「そんなに真剣に自分の書いたものを読んでくれる読者」がいるということを喜ぶべきでしょう。
 ただ一度のことでしたが、日本著作権教育研究会からは毎年、欠かさず年賀状が届きます。再び、私の文章が入試問題に使われることはあるのかどうかわかりませんが、あれば嬉しいと思っています。

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2020年3月 6日 (金)

ことばと生活と新聞と(14)

放送は、新聞の見出しの真似はできない


 近頃は、テレビのニュースの言葉がおかしくなっているように思います。ニュースの項目を、例えば、「焼け跡から2人の遺体が発見されました」とか、「80歳がブレーキとアクセルを踏み間違えたことが原因です」とかいう言葉で始めることが増えています。民放のニュースに多く見られるのですが、NHKでも皆無であるとは言えません。
 このような表現は視聴者を戸惑わせます。第一声の「焼け跡から2人の遺体が発見されました」という言葉を聞いたとき、火事のニュースだろうということはわかりますが、どこで起こった出来事か、どんな状況のことなのかということはわかりません。もちろん、すぐ後でそのようなことは述べられるのですが、それなら、なぜ、「焼け跡から2人の遺体が発見されました」という言葉を冒頭に持ってくるのかが疑問です。冒頭の文は、不完全な表現であると思います。
 なぜ、そのような言い方をするのでしょうか。私は、新聞の見出しの真似をテレビがし始めたのだと思います。新聞はその記事の中の最も重要な内容を見出しにします。「焼け跡に2人の死者」などという言葉です。この表現を見たときには何の不審感も抱きません。すぐ後の文章もほぼ同時に目に入って、火事の場所も納得できるのです。写真が載せられている場合は、見出しや記事よりも写真の方を先に見ているかもしれません。
 一瞬のうちにニュース紙面の全体を目にすることができる新聞に対して、テレビは言葉を順にアナウンスしなければなりません。どこで何が起こったのかという情報を後回しにして、被害を先に報じるという、おかしなニュースの第一声は、新聞とテレビの違いということを理解していない者の仕業であるのです。
 このようなアナウンスは、これまでにはほとんどなかったように思います。ちゃんと理解が行き届いていたのです。近頃、そんな基本的なこともわかっていない人が、ニュースの原稿を書き始めたということだろうと思います。
 ついでに言いますと、ニュースで、事件の経緯や現場を再現するという映像は、やめるべきです。どのような間取りの部屋で、誰と誰とが、どんな凶器を使って、どのような状況で事件を起こした、というようなことを再現すべきではありません。凶器と同じ物(と推定できる物)を買い求めてきて映像に出したとしても、それは凶器ではありません。再現といっても、それは事実ではありません。作り事です。視聴者に誤った認識を与える可能性があります。テレビ局の誰もが見ていない事件現場を再現するのは、歪められた報道であると思います。そんな基本のこともわかっていないテレビ関係者によってニュースが作られてはいけません。

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2020年3月 5日 (木)

ことばと生活と新聞と(13)

「休校しない」ことを、どう表現するか


 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、全国すべての小・中・高等学校と特別支援学校について、3月2日から臨時休校するようにという要請が、首相からありました。理由はわかりますが、あまりにも唐突なことで、戸惑いの声が上がりました。
 それに対して、学校を設置する都道府県や市町村は対応に追われたのですが、開始の3月2日では無理だとして、3日開始としたところもありますし、休校はしないと決めたところみあります。兵庫県内では、小野市が休校しないと決めました。
 このニュースを伝える新聞から引用します。

 国の要請に従わず、独自の対応を取る自治体もある。
 岡山県井原市教育委員会は市内13の小学校を休校とせず、通常通り開校する。27日夜に市長らを交えて開いた会議で決めた。 …(中略)…
 岡山県美作市も市内の小中学校について、ひとまず6日までは通常通り開校する方針を決めた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月28日・夕刊、3版、1ページ)

 新聞や放送には「休校」という言葉が頻出しましたが、その言葉に違和感はありません。けれども、休校しない学校のことはどう表現すべきなのでしょうか。上記の記事で使っている「開校」という言葉は、井原市や美作市の教育委員会などが使った言葉なのか、記者がそのように書いたのかの判別はできませんが、用語としては適切ではないと思います。
 「休校」という言葉があれば、それと反対の意味の言葉があれば便利です。けれども、「休校」に対立する意味の言葉はないでしょう。せいぜい「休校しない」とか、「平常通りの授業を続ける」ということでしょう。
 「開校」は「閉校」に対する言葉です。開校とは、学校を新しく開設するという意味です。その学校がなくなるのが「閉校」です。
 今回の要請では、小学校などの教育活動は行わなくても、学童保育のようなことは行ってほしいというような、感染拡大策に反するようなことも要請しており、一貫性が欠ける面があります。
 けれども、教育活動を休止することを「休校」と言っておるようですから、その要請に応じないのを「開校」と言うのは、言葉遣いとしては正しくないと思います。「開校」というのは文字数が少なくて便利ですが、ここはやはり、「休校しない」とか「授業を継続する」とか言うしかないように思います。

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2020年3月 4日 (水)

ことばと生活と新聞と(12)

「忖度する主体性」について


 忖度という言葉は古くから使われていますが、政治や社会の問題と関連づけて、にわかに多用されるようになった言葉です。醜い政治状況を語るにふさわしい言葉でしょうが、その同じ言葉を使って教育のことを論じてほしくないと思います。
 忖度とは、他人の心のうちを推し量るという意味です。
 他人の気持ちを推し量って、その他人(たち)の望んでいることを実現させてあげる、という意味だと考えるのは行き過ぎです。
 前回と同じ文章の中から引用します。

 「ただでさえ『同調圧力』が強い中で、先生が求める方向や、多くの生徒の『空気』を読んで積極的に発言する生徒が『主体的だ』と評価されるのなら、それは『忖度する主体性』にしかならない」
 私自身は、「詰め込み教育」の比重は減らすべきだと思う。一方で、入試で「主体性」をまともに評価できる態勢は整っていない。「主体性」の評価軸が、「批判的思考力」でなく、「忖度する主体性」に傾いてしまうと、弊害の方が大きくなるだろう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月1日・朝刊、13版S、9ページ、「多事奏論」、山脇岳志)

 引用した前半の「 」内は、オックスフォード大学教授の苅谷剛彦さんの言葉だそうです。引用した後半は、前回も引用しました。前半と後半は一続きの文章で、筆者の結論にあたるものと思われます。
 「忖度する主体性」とはどういう意味でしょうか。主体的に他人(たち)の心のうちを推し量るというのなら、よくないことではないはずです。弊害という批判は当たらないと思います。
 引用した文章における「忖度する主体性」という言葉は、どうやら、他人(たち)の気持ちを推し量って、その他人(たち)の望んでいる方向へ、自分を変化させていくという意味で使っているように思われます。「先生が求める方向や、多くの生徒の空気を読んで」発言するような生徒のことを述べているように思われるのです。
 現代の教育をそんなふうに見てよいのでしょうか。教員は、そんな生徒を育てようとして、教育をしているのでしょうか。高校教育の現場を知らない記者や学者の見方であるのかもしれません。
 考えるべきことは、大学入試問題の正解というものを、大学が公にしないことではないでしょうか。国語の入試問題で、文章の解釈を求める問題であっても、正解を発表しないのです。例えば「自分の意見を述べよ」というような問題であれば、どういう解答に高い評価を与えるのかということを公にしないで、受験生に答えを書かせるというのは大問題です。(現実問題としては、こんな意見なら何点を与えるなどという基準などは作りようがないでしょう。)同様に、文章の上手・下手を点数化することも可能なのでしょうか。
 高等学校の教員は、こういう設問ならば、このように答えておくのが無難だろう(つまり、高い得点になるだろう)というような指導をしがちになります。つまり、高校生の本当の思いとは違っていても、このように書いておいたらどうだろうかというような指導をしてしまうのです。生徒が入試に合格してほしいから、採点者の心を忖度しようとしているのです。高校生という弱者と、大学教員(採点者)という強者の関係です。高校教員はそれを前提にして、指導をしていることになります。その状況を「忖度する主体性」というような言葉で批判してほしくないと思います。
 大学が入試問題の正解を、自信を持って公表しない限りは、「忖度する主体性」などという批判をすべきでないと思います。

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2020年3月 3日 (火)

ことばと生活と新聞と(11)

詰め込み教育とは何か


 教育を論じるときに「詰め込み型」の授業というものが話題になります。そして、それはよくないものと判断されます。知識を無理に覚えるという意味のようです。そもそも「詰め込み」という言葉自体が、よいイメージを伴った言葉とは言えませんから、教育の内容や方法を非難するときには、使い勝手のよい言葉になります。
 一方で、文章の書き方や、社会のルールや法規などを知らない青少年がいるとき、どうして基本的なことが身に付いていないのかなどと言って、しっかりした教育ができていないと言うことがあります。
 人間には、ある段階で徹底的に身に付けさせる事柄があると思いますが、そういうものを「詰め込み」と言って排除することはできません。
 さて、大学入試改革について論じた文章の中に、次のような言葉がありました。文章全体の論旨とは関わりなく、「詰め込み型」という表現について、考えることにします。

 「このままでは、主体的・対話的な教育をやっても、有名大学への合格者を増やすことにつながらないため、高校では、『詰め込み型』の授業が主流になる」と予想する。 …(中略)…
 私自身は、「詰め込み教育」の比重は減らすべきだと思う。一方で、入試で「主体性」をまともに評価できる態勢は整っていない。「主体性」の評価軸が、「批判的思考力」でなく、「忖度する主体性」に傾いてしまうと、弊害の方が大きくなるだろう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月1日・朝刊、13版S、9ページ、「多事奏論」、山脇岳志)

 引用した前半の「 」内は、岡山理科大学付属中・高校長の田原誠さんの言葉だそうです。「主体的・対話的な教育をやっても、有名大学への合格者を増やすことにつながらない」という部分が気になります。高等学校は、「有名」大学への合格者のみを増やすために指導を続けているわけではありません。大学入試改革は「有名」大学の入試を改めようとするものではなく、「すべての」大学のやり方を変えようとするものでしょう。
 主体的・対話的な教育というものをこういう論法で否定してよいのでしょうか。新聞社の編集委員が、そのような考えの上に立って、論を進めてよいのでしょうか。
 引用した後半部は、筆者の結論にあたるものと思われますが、高校教育を批判すれば大学入試改革ができると考えてはなりません。「『詰め込み教育』の比重は減らす」といくら強調したとしても、大学入試改革の妙案が浮かんでくるわけではありません。この文章は、大学入試改革の提案にはなっていないのです。
 高校教育の現場を知らない記者や政治家が述べる議論を、高校教育に携わっている教員は、自分たちが行っている教育を(そして、その授業を受けている高校生たちを)、弄ばれている気持ちになってもおかしくはありません。
 上記の記事の中で述べられていること(「忖度する主体性」)に関して、学校教育に携わる(あるいは、携わった)者として反省すべき事柄があるのですが、それは次回に述べることにします。

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2020年3月 2日 (月)

ことばと生活と新聞と(10)

新聞は読者の方を向いているか


 前回に引用した記事の続きです。

 30年を超す記者生活の中で、私にも新聞脳はしみこんでいるはずです。でも「読者の目線」にこだわるパブリックエディターとしては、長年のスタイルに安住するわけにはいきません。 …(中略)…
 読者のみなさんからいただく声も新聞脳を溶かします。
 大切なのはこれから。勉強会はゴールではなく始まりなのです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月21日・朝刊、13版S、13ページ、「パブリックエディターから 新聞と読者のあいだで」、山之上玲子)

 引用した文章は、記事の書き方を変えようという意欲にあふれているように感じます。けれども、読者が求めているのはそういうことでしょうか。文章の書き方を新聞が変えていけばよいということではないでしょう。
 前回にも書いたように、新聞の文章が、一般の文章(例えば、新書版の本に書かれているような文章)から離れて、荒っぽい書き方になってしまっていることを反省しなければならないでしょう。もっとゆったりした文章にしてください。体言止めの多用、尻切れトンボの文、「 」の使い方がきちんとしていない文章、カタカナ語・略語・隠語などのあふれている文章、などなどです。
 さて、もうひとつ、大事なことがあります。「読者のみなさんからいただく声も新聞脳を溶かします。」という言葉の空虚さです。新聞社は、読者の声を大切にしていないということを私は実感しています。私はこれまでブログに書いた文章を100以上にわたって、新聞社に送りました。はっきり言って、まったく無視です。
 例外は、記事の表現の誤りを指摘したことだけです。誰が見てもおかしい誤りですから、記事は訂正されました。無視できなかったのです。
 それ以外は、まったくの無視です。指摘してくれてありがとうというような返事すらありませんでした。いかにも読者のためという顔を見せながら、そんな読者の意見など無視していることはよくわかりました。他の新聞社も同様であるのかどうかは知りませんが…。
 新聞は、一般の人たちよりも上のレベルに立っているという意識で、記事を書いています。建前でものを言っています。人々に向かって、こうあるべきだということを述べ、よくないと思うことを強く批判します。けれども、自分たちの行動のことを反省したりはしません。このことが、掲載されている記事の信憑性を下げているということに気付いていないようです。
 「読者のみなさんからいただく声も新聞脳を溶かします。」という発言が空虚に聞こえます。それは、その文章を書いた筆者に問題があるのではありません。新聞社の組織全体の問題です。ほんとうに「読者のみなさんからいただく声」を新聞の作成に生かしているようには思えません。一つ一つの声に反応しないでおいて、読者を大切にしているという言葉だけを発してはなりません。
 小さな商店の主さんが、買い物に来る人たちと交流をするように、新聞を作る人たちも読者と声を交わさなければなりません。新聞社がいくら大きな組織であっても、考え方は同じでなければなりません。パブリックエディターというのはそういう部署かもしれませんが、そこから新聞社全体に声が届かなくては意味がありません。大きな組織の全体に、読者の声が届くように組織を改編していく必要があると思います。
 読者の思いを書き届ける宛先(メールアドレスなど)も明示しないような新聞は、開かれた新聞とは言えません。読者の方を向いて新聞を作っている、と自信を持って言えるようにしなければなりません。

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2020年3月 1日 (日)

ことばと生活と新聞と(9)

新聞はゆったりと、わかりやすい文章で


 私たちは、ともすれば先入観にとらわれたり、これまでの慣習に流されたりすることがあります。ときどきは自分を振り返って点検する必要があります。それは個人でもそうですし、大きな組織でも同じでしょう。
 「しみついた『新聞脳』を溶かす」という文章を読みました。新聞社も同じ反省をしているようです。経済部の野沢哲也部長代理が講師を務めた社内勉強会のことが書かれていました。
 その文章の中から一部を引用します。

 先日、20代の会社員の方からご意見が届きました。
 「記事の内容が頭に入ってこないことが多々ある。難しい用語と格闘してまで新聞を読解するメリットは何かと考えてしまう」
 読み手に努力や我慢を強いるような新聞を、作り手はどうやって変えていけばいいでしょうか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月21日・朝刊、13版S、13ページ、「パブリックエディターから 新聞と読者のあいだで」、山之上玲子)

 この記事はこれでお終いではありませんが、いったんここで区切って、私の意見を述べます。
 いったい新聞は、どれぐらいの学力の人を対象に考えて、記事を書いているのでしょうか。政治や経済や社会のこと、芸術やスポーツのことには、それぞれ各分野の基礎的な知識がなくては記事を理解できないでしょう。
 けれども、そのことをいったん離れて言うと、新聞記事は中学3年生で理解できる程度の文章で書かれていると聞いたことがあります。高校や大学を卒業し会社員になっている人の「頭に入ってこない」文章とは、どういう文章なのでしょうか。
 実は私も同じように感じることがあります。例えば中学校や高等学校で勉強する国語教科書に載せられているような文章で書かれていないというのが、一つの理由だと思います。表現を短く切り刻んだり、途中でチョン切った文章、隠語や英字略語やカタカナ語があふれている文章、スペースの都合でもとの長い記事の後ろを省略して論理が通らなくなっている文章などです。それに見出し語の短さが文章の趣旨を表していないこともあります。
 私が感じている大きな疑問点は、新聞記事の文章を短くする必要はあるのだろうかということです。スポーツにだけはやたらページ数を使い、大きな写真を載せています。はじめから試合場にいて、記事を書くのですから、ある意味ではラクな仕事です。始まる前から文章を考えておくこともできるでしょう。
 それに対して、地域のページや社会面はやたら窮屈です。記事の数が少ないと思います。その狭い社会面にまでスポーツ記事の続きを載せたりしています。夏になったら高校野球の記事が全紙面にあふれます。腹立たしく感じることもあります。
 わかりやすい記事を書くためには、それにふさわしいスペースと字数が必要です。読者にわかってもらおうという姿勢が感じられる文章を書いてほしいと願っています。
 新聞は読み捨てるのがもったいない、と感じられる文章があふれていたら、私たちは新聞を大切にするでしょう。記事を書く側が、どうせ読み捨てられるのだというような気持ちで書いていたのでは、価値のある文章は生まれないことになるでしょう。
 大げさな言葉で感動を売り込む必要はありません。(スポーツ面はそのような言葉であふれています。)ごく当たり前の言葉を使って、ゆったりとした気持ちで書かれた文章が、人の心を打つことが多いのです。

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