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2020年4月30日 (木)

ことばと生活と新聞と(69)

東京から一方的に流す情報ではなくて

 私たちは、新聞であれ放送であれ、東京発のニュースを受け取り続けています。大阪で発行される全国紙であっても、記事の大半は東京で作られています。放送のニュースも同じです。東京で書かれ編集された紙面を全国に流しているのが全国紙ですし、県域などで発行される新聞も、東京発の通信社記事を載せて、同じような傾向があります。地域の放送局であっとてもニュースは東京発です。
 政治や経済のニュースは東京発になるのは当然でしょうが、腹立たしいのは、それらのニュースが東京人の感覚で書かれ、編集されていることです。文化や生活に関することまで東京化されているのは苛立つことです。東京のことは詳しく伝えて、地方のことはおろそかにするというのが報道の常です。
 東京から流されるのは、政治・経済などの客観的事実だけに限り、それ以外は地域の感覚でニュースにまとめるということになれば嬉しいと思います。大阪発祥の朝日新聞ですら、今では東京感覚で編集されているように思いますから、東京からの脱皮が課題でしょう。
 さて、県域新聞などが手を携えて記事を書こうとすることが進められています。地域の取材については、全国紙とは違った手腕を持っていますから、それらの新聞が連携するのは望ましいことです。
 こんな記事を読みました。

 地方紙が互いの記事を交換したり、共同制作したりする動きが広がっている。部数が減るなか、新たなコストをかけずに記事の幅を広げる試みだ。地元のニュースは自社で取材し、それ以外は通信社から配信を受けるという従来の紙面づくりが変わりつつある。 …(中略)…
 地方紙は、海外発や東京発、全国的なテーマのニュースについては、各地に取材網を持つ通信社から配信を受けている。通信社を支えるのは地方紙などが払う分担金だが、各紙とも部数減で経営が苦しい。ある地方紙関係者は「分担金は年々、重荷になっている」と言い、地方紙連携が通信社に頼る割合を下げることにつながるとみる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月21日・朝刊、14版、25ページ、土屋亮)

 およそ20社から成る連携で、北海道新聞、河北新報、東京新聞、中日新聞、京都新聞、神戸新聞、、中国新聞、西日本新聞などの主要な新聞が参加しています。新聞社の経営コストに関わる問題から発した連携でもあるようですが、そんなことよりよりも、脱東京という点から望ましいことだと思います。通信社との関係が薄らぐことは、脱東京ということと軌を一にします。東京における政治・経済の取材については東京新聞(中日新聞東京本社)を中核におけば、成り立つでしょう。各紙が連携しつつ、地域色を薄めない編集を続ければ、全国紙3紙よりも魅力的な新聞になることでしょう。地元地域のニュースについては、全国紙などを寄せ付けない取材力をすべての新聞社がそなえていることと思われます。全国紙の地域版の貧弱さは情けない感じです。情報量の少なさは、県域紙に完全に水を空けられています

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2020年4月29日 (水)

ことばと生活と新聞と(68)

間違えた人は、習慣化して改める

 

 

 エレベーターなどの中にある「開」「閉」のボタンについて書かれた文章を読みました。直角二等辺三角形を2個を使って、真ん中に縦棒が描かれて、それを挟むように三角形が外向きに描かれたものと、内向きに描かれたものとを使って、それによって「開」「閉」を表すようになっています。全国どこにでもあって、知らない人はいないと思います。
 文章にはこんなことが書かれています。

 

この図形、どっちが「開」か「閉」か、私も時々分からなくなります。同じようなお客がほかにも多いでしょう。
 それぞれ、三角形の角の向きがドアの動く方向だと思われます。 …(中略)…
 この図形、改善の余地がないでしょうか。今回の写真のように、文字で説明してある例をよく見かけます。これでは本末転倒です。
 たとえば、両手を開いた形で「開」、両手を合わせた形で「閉」なんてどうでしょう。デザイナーの皆さま、いかが思われますか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月25日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 この文章は、ずいぶん個人的な意見を述べているように感じられます。
 図形でものごとを表すのは約束事です。地図の符号でも、学校のことを「文」という文字を使って表したり、郵便局を「テ」の文字を変形して表すことに文句を言えばきりがありません。「学」の文字を使え、「ユ」の文字にしろ、というような意見があっても不思議ではありません。
 しかも「開」「閉」ボタンは、こんな図形に決められていたわけではなく、工夫を重ねて行き着いた図形であると思います。それとは違った形があっても不思議ではありませんが、「両手を開いた形」「両手を合わせた形」と言われてもイメージがわきません。両手の形も様々でしょう。直角二等辺三角形と縦棒線を使った方がすっきりしています。「開」「閉」を逆に考えてしまう人は、そうでないように理解(訓練)すればよいのです。
 このようなことに異論を唱えようとすれば、いくらでも出てくるでしょう。漢字の「右」「左」を逆に理解しようとした子どもはいるでしょう。漢字の「上」「下」だって同様でしょう。「上」の文字は、横線の位置が下段にあるから「した」であり、「下」の文字は、横線の位置が上段にあるから「うえ」であると理解することだってあるはずです。それらの文字を使いながら、習慣として正しい使い方を身に付けていくのです。
 「開」「閉」の図形に「ひらく」「しめる(とじる)」という文字が添えられていることを「本末転倒」であると批判していますが、そうではないと思います。ごく僅かの人が間違えることがあるから、親切に文字を添えているのです。そのように文字を添えることはいくらでも例があります。トイレの便器にあるいろいろな図形は、図形に工夫がされていますが、文字が添えられています。使い慣れたら図形だけで用が足せますが、初めての人は、文字を見て操作すればよいのです。
 「開」「閉」の図形は、もはやポピュラーなものになっています。この文章は問題提起にはなっていないと思います。賛同する人はわずかでしょう。
 「街のB級言葉図鑑」は文字を写真に撮って意見を述べるコラムのはずです。今回は、文字のことではなく、図形を主役にしてしまっています。これこそ「本末転倒」です。

 

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2020年4月28日 (火)

ことばと生活と新聞と(67)

民放テレビの無神経さ、恐ろしさ


 永六輔さんの『ボケない知恵』(ゴマブックス)という本は、短い言葉をたくさん集めた本ですが、その中に、こんな言葉があります。

 「飢えた子どもたちのニュースのあとにペットフードのCMを流せる神経でないと、テレビなんかやってられませんよ」  (同書18ページ)

 この言葉は、はじめは風刺の効いた言葉として述べられたのかも知れません。けれども、今では現状を述べた言葉に過ぎなくなっています。恐ろしいことです。
 新型コロナウイルスの感染拡大について、医療現場の苦しさや、亡くなった方の葬り方の辛さなどのニュースに心を寄せてみていると、突然、がなり立てるような通販のCMが流れるなどということは茶飯事です。その無神経さは、たぶん、東日本大震災の頃とは雲泥の差があります。
 災害の内容の違いとか、被害人数の違いなどという要素もあるとは思いますが、そんなことよりもテレビ局の人間の堕落ぶりには唖然とします。そんなことを言うと、決まった反論が帰ってきます。民放テレビはCMが収入源だから、依頼があったものは放送しないわけにはいかない、と。
 こんな論理がまかり通るのなら、公共放送としての意味がありません。公共の電波を金儲け第一主義で使っているのです。それが1つの局だけのことであれば、その局を見ないですませることもできますが、すべての民放に共通することになっています。
 ニュースの途中をぶった切ってCMに切り替えます。そのCMの後でニュースの重要な内容が続くことを期待させるようなアナウンスをして、CMを何本も流したりしています。視聴者をもてあそぶ方法を工夫しているのです。放送をする側に立った優しい心などは、探しても見つからなくなりつつあります。
 民放の採用試験では、永さんの言葉にあるような「飢えた子どもたちのニュースのあとにペットフードのCMを流せる神経」の持ち主を合格者の条件にしているのかも知れません。そうでなくても、民放に入ろうとする人間は、もともと、そんな神経の持ち主であるようにも思われてきます。
 民放で人気が出たら、その局を飛び出して、もっと収入の多いところを目指すというような人間が何と多いことでしょう。社会の変質をテレビ局が率先しているようです。アナウンスの言葉を優しい言葉に変えても意味はありません。局全体の姿勢が、視聴者に寄り添ったものになるということは、期待しても無理なことであるのでしょうか。

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2020年4月27日 (月)

ことばと生活と新聞と(66)

読み方が2通りあっても構わない


 日本は「にっぽん」とも読みますし「にほん」とも読みます。工場は「こうじょう」の場合もありますし、「こうば」の場合もあります。どちらかに統一しようと頑固になる必要はありません。
 こんな文章を読みました。

 バスの前面に〈後のり〉と表示されていることがあります。「後方から乗ってください」ということですが、どう読めばいいのでしょう。あとのり? うしろのり? …(中略)…
 他の辞書では、「あとのり」で項目を立てています。「後ろ」でなく「後」と書いてあれば「あと」と読みたくなります。でも、後ろ側のことを「あと」とは言いにくい。
 担当編集者を通じて各バス会社に聞いてみると、どこも「うしろのり」「うしろおり」と言うそうです。〈後のり〉は、字数を節約するための表記なのでしょう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月21日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 私も、「後乗り」と書かれたバスに乗ったことがあります。読み方については「あとのり」なのか「うしろのり」なのか、どちらだろうかと思案しました。けれども、どちらであっても、意味を間違ってとらえることはありません。国語辞典編集者が、読み方を決める(限定する)必要はありません。バス会社が「うしろのり」と決めていても、人々が「あとのり」と言うならば、それはそれで、いっこうに構わないことです。
 読み方の揺れよりも、「後ろ側のことを『あと』とは言いにくい」という結論付けこそ疑問を感じます。「俺のあとに続け」「あとから、ついてこい」と言うことがあります。後ろ側という意味です。俺より前には出るな、後ろに続けという意味です。後ろ側のことを「あと」とも言うのです。
 逃げる者を後ろ側から追いかける「後追い」、荷車などを後ろ側から押して助ける「後押し」、前を向いたまま後ろ側に下がる「後ずさり」など、後ろ側のことを「あと」と言う例はあります。
 国語辞典に載っている項目は「あとのり」だというのも、おかしな理屈です。「あとのり」「うしろのり」の両方を項目にすべきです。国語辞典には、人々の言語生活に基づかない、編集者の独断ということもあるのです。
 日常生活では、「うしろ」を必ず「後ろ」と書くとは限りません。ワープロソフトでは「うしろ」と打つと「後」も「後ろ」もあらわれます。
 バスの表示は、人々にわかりやすいようにという意図で書かれているのです。「後ろのり」と表示すると戸惑いを感じる人もいることでしょう。「うしろ乗り」では「うしろ」を瞬間的にひとまとまりで捉えられるでしょうか。やっぱり「後のり」か「後乗り」がわかりやすい表示であるでしょう。

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2020年4月26日 (日)

ことばと生活と新聞と(65)

コンクリートの国、日本


 NHK総合テレビのニュースの始まりの画面が気になってしかたがありません。東京のコンクリートジャングルの映像が、毎日毎日、毎時間毎時間、流されるのです。違った場所があらわれる場合もありますが、やっぱりコンクリートの建造物に変わりはありません。こんなものを毎日見せつけようとする人間の心理が理解できません。東京に住んでいる人間にとっては、あのような風景が日本の典型と考えているのでしょうか。
 ニュースは東京で編集されるのですが、風景はもっと日本らしいものを選べないのでしょうか。日本は自然に恵まれた国です。北海道から沖縄まで、気候風土が異なります。海もあり山もあり田園風景もあります。ニュースの始まりの時間の映像は短いのですが、変化をつけていけば心穏やかに見ることができます。
 まるで東京が日本の中心であり、その画面を流すのが当然であるというような考えに固執しているように見えます。NHKは、東京と言うよりも、渋谷が日本の中心であるというような考え方です。総合テレビ夕刻の「シブ5時」という番組名にそれがあらわれています。
 コロナ疎開という言葉があるようです。普段は東京に住んで東京の恩恵に浴している人間が、何か不都合なことに遭遇すると、他人の迷惑などを考えずに、かつての故郷の地などへ避難することを指して使う言葉のようです。東京人の自分勝手な行為を苦々しく思っている人は多いでしょう。
 いま東京に住んでいる人たちの中には、日本の各地に生まれて、大人になる段階で勉学の地や就職の地として東京を選んだ人が多いようです。愛郷心を捨てて、自分の利益のために東京を選んだ人も多いことでしょう。自分にとって利益になりそうな、日本の経済や文化の中心地だからと選んだ東京ですから、状況が変化すれば、自分の利益のために東京を離れることなどは容易いことなのかもしれません。けれども、そんな考えをされたのでは、地方の人たちには迷惑です。
 全国に疎開しないまでも、緊急事態宣言の出ている休日に鎌倉や江ノ島の周辺に車が集中して、地元の人が迷惑をしたというニュースを見ました。都道府県を超えた移動は自粛してほしいと言われたら、近隣に人々が集まる。まったく自分のことしか考えていない人間が、このような緊急事態の時にもいるのだと知って驚きました。関西では考えられないことです。
 新型コロナウイルスの感染拡大は何としても阻止しなければなりません。東京の人たちは、東京を思う気持ちを強く持って、東京から逃げ出す(すなわち、感染を全国に広げる)ことをやめてほしいと思います。同時に、この際、長年続いてきた東京の一極集中ということが、大きな弊害を生んでいるのだということについても考えを深めてほしいと思います。

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2020年4月25日 (土)

ことばと生活と新聞と(64)

新聞の一般記事を宣伝に利用する


 言葉のコラムのはずですが、それが軌道を外して宣伝記事に成り下がっている文章を読みました。

 この冬、書店のエスカレーターの手すり横に、国語辞典『大辞林』第4版の広告が出ていました。「こんな細長い所に!」と驚きました。
 辞書は定期的に内容を一新します。これが「全面改訂」。説明をより丁寧にするなど、長年かけて全体に手を入れる大変な作業です。 …(中略)…
 『大辞林』は明治以降の言葉が得意です。夏目漱石の作品にもあるのに、他の辞書にないことばが、この辞書だけに載っていることもあります。私も推薦しておきます。 …(中略)…
 家にいる機会が多い今年の春。新しい国語辞典を買って眺めるのもいいですよ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月18日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「全面改訂」などという言葉は誰でも知っています。こんな言葉を事新しく紹介する必要は感じられません。
 ではなぜ、こんな話題を提供するのか。書店のエスカレーターの手すり横にあった、という理由です。けれども、これは全国の書店のあちこちで見られる現象なのでしょうか。そんなことはありません。「街のB級言葉図鑑」の特徴は、それが極めて特殊なものであっても、それを取り上げることです。これまでに話題とした言葉の中にも、そんなものがいくつもありました。そのような特殊なもの(とりわけ、東京でのひとつの事例)を取り上げられても、納得しない読者も大勢いることでしょう。
 そして、今回は、見事にそれを宣伝材料にしていることです。これは『大辞林』を買って眺めることをせよという宣伝です。広げて言うなら、他の国語辞典も買いなさい、私の編纂した国語辞典も、という色合いが感じられます。
 新聞は、一般記事と宣伝とを峻別すべきです。最近は、宣伝を目的にした一般記事が増えています。
 先日、「五島の椿プロジェクト」という全面記事が載りました。(朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月22日・朝刊、13版S、24ページ、曹喜郁) 形は一般の記事を装いつつ、宣伝に徹した記事です。記事の執筆者と写真の撮影者の名前が書かれています。ツバキが満開の福江島と東京・銀座の発表会を取材したという内容です。そして、椿サポーター・吉永小百合さんの紹介も書かれています。このページの下段は、大きな「五島の椿」の広告欄です。つまり、これは1ページ全体が、記事の体裁をつくろいつつ広告ページになっているのです。
 新聞は、何のためらいもなく、このような記事を載せる媒体になってしまっているのです。読者は騙されないようにしなければなりません。それこそが情報リテラシーというものです。

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2020年4月24日 (金)

ことばと生活と新聞と(63)

「うまい」を連発するテレビ番組のこと


 戦後すぐの、ものの乏しい時代に育ったからか、私は食べ物には好き嫌いがありません。好き嫌いなどには関係なく、何でも食べないと生きられなかったからかもしれません。美味しい・不味いということにも、うるさくはありません。同世代の人であっても、私と同じでない人も多いと思いますが、ともかく私は、そういうことなのです。
 世の中には、不味いものには手をつけないという人がいます。美食家という言葉もあります。美食という言葉は、どのような人たちが言い出した言葉なのでしょうか。いつ頃から使われ始めた言葉なのでしょうか。そのような人たちは、何と不幸な人なのだろうと私は思っています。
 食べるのなら美味しいものを食べたいという気持ちはありますが、不味いから食べないという気持ちにはなりません。口にするものを限定してしまうのは、寂しいことであろうなぁと同情します。
 私は好き嫌いは言いませんが、好きな食べ物はあります。好きか食べ物をたくさん食べたいとは思いますが、あまり好きでないものは食べたくないとは思いません。栄養がどうのこうのという理由ではありません。
さて、私は、テレビの食べ物番組にはうんざりしています。料理の手ほどきをする番組は有り難いと思いますし、ドラマの一部分としての食事場面はあってもよいと思います。
 グルメ番組で、材料を厳選するという方針で作っている番組があって、腹立たしく思うことがあります。自分は良い材料で美味いものを作る、良くない材料は自分は使わないから、他の人が買えばよいと言っているように感じられます。自己本位の極まりです。どのような材料でも、それを生かして料理するコツを教えるのが、本当の料理番組です。
 グルメという言葉を国語辞典で引くと、食通、美食家、と出ています。うんざりするのは、いわゆるグルメ番組と言われるものの、食べている場面の言葉です。他の人が作ってくれた食べ物を食べて、褒め言葉を流し続ける番組のことです。営業している店で食べ物を食べ散らかして、「うまい!」と叫んでいる番組があります。口に放り込んだ瞬間に「うまい!」と叫ぶ人間の感覚はどうなっているのかと思います。味わうということが欠如してしまっています。語彙の貧弱さも情けないと思いますが、食べている本人の感想に関係なく、褒め言葉を口に出させるのです。そのような言葉を吐くように仕向けられているか、本人がそう言わなければならないと思い込んでいるかの、どらかでしょう。単純な反応をして、つまりは視聴者を欺いているのです。言葉の意味で言うと「グルメ=美食家」だから、そんな番組に出ている人間は美食家でなければならないから、自分を美味いものを食べている人間と規定して、「うまい」「うまい」と連発しているのかもしれません。
 元の話題に返ります。美味い・不味いは人間の感覚として大切なものですが、それを露骨に口に出すことは、抑えるべきです。作ってくれた人に感謝して「美味しかったです」と言うことは必要です。けれども、食べる瞬間ごとに「うまい」「うまい」と言うのは、よほど気心の通じた間柄、例えば家族とか親友とかの場合でしょう。テレビに出ている人間が、大勢の視聴者に向かって「うまい」「うまい」を連発するのは、人を馬鹿にしている行為です。わずか2つか3つの言葉しか持たないような人間を、食べ物という広さ・深さのある番組に出演させてはいけません。「うまい」という言葉を使わなくても、その食べ物の特性を表現できる言葉をそなえた人を出演させてほしいと思います。

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2020年4月23日 (木)

ことばと生活と新聞と(62)

旧語辞典を作るべき時


 向田邦子さんに「七味とんがらし」という文章があって、その冒頭にこんなことが書いてあります。

 野球狂の友人がいる。勤め先で野球チームを作ったのだが、予算が足りず、人数分のグローブやミットが揃わなかった。
 「本革」という言葉が幅を利かせていた随分前のはなしである。
 色も材質も違う寄せ集めのオンボロで練習をしていたのだが、試合を前にチームの一人が耳寄りなニュースを聞いてきた。
 (向田邦子『海苔と卵と朝めし』、河出書房新社、2018年12月30日発行、40ページ)

 「本革」という言葉は、昔は輝かしく聞こえた言葉でした。小さな国語辞典で「本革」を引いても出てきません。「本」当の「革」のことだから、わかるでしょうという理屈ですませるような言葉ではないと思います。「本革」という言葉の持つ、いわば特別のものであるというような語感が大事なのです。終戦後すぐの時代においては、布を重ねて作ったようなものとは違う、誇らしさに満ちた言葉でした。グローブやミットだけではありません。ランドセルやバッグにしても、本革のものと他のものとは値打ちが違いました。それを手にしたときの喜び・嬉しさは格別のものでした。
 『広辞苑・第4版』には「本革」は載っています。けれども、そっけなく「合成ではない、本物の革。」と書いてあるだけです。ちょっとがっかりです。今の時代にとってはそんな語感でよいのかもしれませんが、かつては違っていたのです。
 別の言葉で言いましょう。「物干し台」「物干し場」「物干し屋根」などというときの「物干し」という言葉は、小さな国語辞典にも載っています。洗濯物などを日に当てて干すこと、また、そのための設備・場所のことです。けれども、50年前の家の建て方と今とでは違っています。「物干し台」は、今の「ベランダ」とは様子が違います。
 流行語のように、さっと使われはじめて、すぐに消える言葉。それは消えるに任せておいてよいでしょう。けれども、日常生活の中で長い間にわたって使われ続けていた言葉を、それと同じように扱ってはいけません。「たどん(炭団)」や「いっしょうます(一升升)」などはかろうじて国語辞典に残っているかもしれませんが、いずれは消える運命にある言葉かも知れません。そのような言葉はたくさんあります。
 そんな言葉が消えたらどうなるでしょうか。古語辞典というものがありますが、いま話題にしている言葉は古語ではありません。死語辞典と題した本もありますが、死語とは言いたくない言葉です。ぴったりふさわしい言葉はありませんが、「旧語」とでも言うような言葉です。
 死語辞典などというものを興味のままに作ることもよかろうと思います。けれども旧語辞典は興味で作るものではありません。きちんとした文化として残すべきものであると思います。いま、大和言葉に注目した本が幾つも出ています。確かに大和言葉の中にも、消えてしまうのが惜しいと思うようなものがあります。けれども、もっと人々に生活と結びついていた言葉で、消えてしまいそうな言葉にも注目して、記録しておきたいと思います。
 物の名前に関わる言葉だけではありません。外来語などが氾濫して古い日本語が片隅に追いやられ、そして忘れ去られようとしている今こそ、「旧語辞典」を作るべき時であると思うのです。

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2020年4月22日 (水)

ことばと生活と新聞と(61)

短い言葉を作りたがる人


 忙しい時代を生きているという意識からでしょうか、言葉をとかく短くしようとする人がいます。私が初めて聞いたとき何のことかわからなかった言葉があります。「へーろく」「へーしち」という言葉です。わかれば何でもない言葉です。平成6年、平成7年を短く、平6、平7と言ったのですが、昭和生まれの私は、「しょーはち」などと言ったことはなく、聞いたこともないように思います。ちょっとした驚きでした。
 新聞に関わる人は、とにかく短く言いたがるようです。コラム欄で、そのような提案をしているのがあって、驚きました。新型コロナウイルスの感染拡大に伴って広がっているテレワークについて書かれた文章です。

 むろん仕事の性質上、テレワークに適さない職種はあまたある。それでもこの先、テレワークの世界的潮流が元に戻ることはあるまい。将来、会議の定義が変わり、遠く隔たった場所からそれぞれが議論に加わるのが当たり前の時代になるだろう。そのときは「遠議」または「隔議」とでも呼ばれるのだろうか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月9日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 「呼ばれるのだろうか」と言っていますが、それに先がけて「遠議」や「隔議」という言葉を言いふらしているのは、コラムの筆者です。人々が使ってもいない言葉を先がけて言おうとするのは報道に携わる人の癖のようです。
 「えんぎ」も「かくぎ」も同音異義語があって、望ましい言葉ではありません。新聞は放送と違って、文字さえ異なっておれば新しい言葉を使ってもよいと考えているのかもしれません。放送では発音が同じ言葉を紛らわしく使うことはないでしょう。
 さて、こんな文章を読みました。「出入り禁止の言葉たち」という項目で「就活」という言葉を取り上げて述べている箇所です。

 この略語には抵抗があり、「就職活動」と書いています。「就活」から派生した「婚活」や「終活」という言葉を新聞紙面で見かける昨今、わが抵抗も〝蟷螂の斧〟かも知れません。 …(中略)…
 国文学者の池田彌三郎さんは「卒論」という言い方を嫌いました。〈いやなことばだ。そつろんとは、なんだかそそっかしい論文みたいな感じがする〉と、『暮らしの中の日本語』(ちくま文庫)に書いています。急に意識を失って倒れることを「卒倒」というように、漢字の「卒」には「にわかに」の意味があります。にわか造りの、急ごしらえの論文のように感じたのでしょう …(中略)…
 文章を書くとは、誇り高き独裁君主の仕事です。気心の知れた腹心の言葉たちだけを召し出し、気心の知れない言葉たちには所払いを言い渡し、一から十まで自分の気に入ったように組み立てて書く。「就活」や「卒論」が世間でいかに幅を利かせていようとも、気心の知れないうちは大事な仕事を手伝わせるわけにはいきません。
 (竹内政明『「編集手帳」の文章術』、文春新書、2013年1月20日発行、85ページ~86ページ)

 同じようなコラムの筆者でありながら、ずいぶんと違う意見だと思います。筆者の世代が違うのかも知れませんが、それよりも言葉に対する姿勢が異なっています。私が朝ごとに読むのは「天声人語」です。「編集手帳」は時々しか読みません。
 「天声人語」は大学入試に使われることが多いということを自慢する前に、文章に対するきちんとした方向性を持ってほしいと願っています。

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2020年4月21日 (火)

ことばと生活と新聞と(60)

後まで残る言葉、残らない言葉


 不幸なことでしょうが、「新型コロナウイルス」という言葉は、日本語の中にいつまでも残り続けるものになるでしょう。盛んに使われている「ロックダウン」「オーバーシュート」「クラスター」などという言葉は、国語辞典に載ることになるのかどうか、疑問です。
 やむを得ず印象に残り続ける言葉はありますが、日常の言葉として取り入れよう(あるいは、残そう)とするか否かは、人々の言語感覚によると思われます。新聞や放送が盛んに使ったから後々まで残るというようなものではありません。大勢の人たちが使おうとしない言葉は、残っていきません。
 こんな文章を読みました。

 日本語には、時代の中で生み出されたものの、まだ熟成されず、地に足がついていない言葉がたくさんあります。こういう言葉のなかには、日常の会話ではさかんに使われていても、俳句の五七五に入れてみると、まったくなじまず、はじき出されてしまうものがある。まだ人のこころをとらえる本当の強さを獲得していないのです。
 (金子兜太『私はどうも死ぬ気がしない』、幻冬舎、2014年10月25日発行、21ページ~22ページ)

 これは「俳句の五七五に入れてみる」ことを念頭に置いて述べているのですが、もっと広く考えてもよいように思います。日常会話や新聞・放送などの言葉として盛んに使われていても、文章を書くときには使う気になれない言葉のことです。使う気になれない、と言っても、個人的な嗜好のことではありません。
 ちょっと改まった場面では口に出したくないような言葉遣い、文章表現では書きたくないような言葉遣いのことです。そのような、話し言葉の世界だけで使われるような言葉の大部分は、いずれは消えていく運命にあるのだろうと思います。流行語とか新語とか俗語とか言われるものは、そういう動きを見せることでしょう。流行語大賞というような催し物を行う意義がよくわかりません。
 新聞や放送で使われる言葉は、新しい事象を表す場合は新しい言葉を用いないと表現できないと思います。けれども、必ずしもそうでない場合にも、不用意に、新しい言葉や人々に耳慣れない言葉などを使うことが多いように思います。放送は話し言葉ですし、新聞も半ば話し言葉に近い表現です。
 放送の場合は基本的に消えてなくなるものですが、新聞は文字として残ります。それがその時代の言葉の有様を記録したものとしての資料にはなりますが、後の時代にまで残っていくことがない言葉があるということを如実に示す資料にもなることでしょう。

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2020年4月20日 (月)

ことばと生活と新聞と(59)

駅名を長くする競争


 阪急電鉄に「関大前」という駅があります。関西大学を短く言ったものです。同じ阪急は最近、石橋駅を「石橋阪大前」に変えました。大阪大学のキャンパスが近いからです。阪神電鉄も最近、鳴尾駅を「鳴尾・武庫川女子大前」に変えました。
 大学名を駅名に取り入れることはJRも行っていますが、次のような記事がありました。

 京福電鉄(京都市)は20日、北野線の「等持院」駅を「等持院・立命館大学衣笠キャンパス前」に改称する。音読数(26字)で日本一長い駅名となる。
 文字数も17文字で、「富山トヨペット本社前(五福末広町)」や「東京ディズニーランド・ステーション」などと並んで1位タイという。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月20日・朝刊、14版、34ページ、「青鉛筆」)

 何でも一番が注目されるという意識からでしょうが、長い駅名の競争が繰り広げられてきて、1位は次々と入れ替わってきました。京福電鉄の改称も、その競争に加わったということです。あちこちにキャンパスがある大学でも「〇〇大学前」とするのが普通です。「衣笠キャンパス」などというものを駅名に取り入れたのは長くしようという意図でしかありません。「〇大(略称)」よりも「〇〇大」よりも長い「〇〇大学」にして、キャンパス名まで取り入れたのです。「富山トヨペット本社前(五福末広町)」も「本社」という文字を加えて多くしているように思われます。
 もっと多くする方法は、考えればいくらでもあります。「富山トヨペット株式会社本社前(五福末広町)」などとすればよいのです。「東京ディズニーランド・ステーション」も「とうきょう……」とすれば文字数は増えます。それにしても、そんなにまでする必要はあるのでしょうか。かえって品位が失われてしまいます。
 ここに使われている駅名に共通することは、地名ではなく、企業などの名前を使っているということです。駅の名前は、本来は地名にすべきでしょう。地名を加えていても、企業などの名称で文字数を増やそうという魂胆は目に余ります。
 地名で長くするのなら、受け入れましょう。「上京区寺町通今出川上る二筋目東入三栄町」(架空の地名ではありません。京都にはこんな地名もあるのです)などという駅名ができたら面白いとは思います。けれども、そんなことを真剣に考える人はいないでしょう。
 企業名などで長くするのはやめてほしいと思います。「南阿蘇水の生まれる里白水高原」という南阿蘇鉄道の駅名は詩情があります。この駅が日本一長い駅名であった時もありました。
 以上のようなことを申しながら、これらの長い駅名は、新聞の見出しなどにあらわれる、ぶった切りの言葉よりは上品に聞こえます。ひとつひとつの言葉を大切にしているように感じられて、好感を持てるのです。この連載で何度も書いてきましたが、新聞の見出しは、効率を考えて言葉を短くすることしか考えていないからです。新聞が行っている、日本語のぶった切りは、日本語を壊す働きをしています。

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2020年4月19日 (日)

ことばと生活と新聞と(58)

「先取り」とは、どうすることか


 「先取り」という言葉があります。相手や周りの人より先に、ものを取ったり、ことを行ったりすることです。何かが広く行われる(または、そうならない)前にそれを行うことでもあります。「時代を先取りした企画」などという使い方をします。
 教育に、先取りという行為はあるのでしょうか。こんな表現がありました。

 小学校3・4年生で外国語活動が始まり、5・6年生からは「教科」になりました。英語の能力を伸ばすコツは。「先取り」よりも「動機付け」にありそうです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月12日・朝刊、「EduA」1ページ)

 この場合の「先取り」の意味が理解できません。リード文に「先取り」は使われていますが、このページ全体の中には、他に「先取り」という言葉は出てきません。何かを決め付ける言葉として使われているようです。次のページには、こんな表現がありました。

 小学校の英語は、単に中学校英語の先取りではありません。幼稚園児から大学院生までの各課程で指導経験を持つ昭和女子大学付属小学校の小泉清裕校長は、小学校の英語力を伸ばすコツは「感性と知性に訴えること」と「聞く」ことだといいます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月12日・朝刊、「EduA」2ページ)

 塾などで勝手に小学校1・2年生から教えはじめたら「先取り」でしょうが、小学校の3・4年生の教育課程の中にきちんと位置づけられているのですから、「先取り」などという言葉には該当しません。
 「先取り」と言えば、この「EduA」という紙面が、小学生を中学受験という場面に誘い込もうとする意図で編集されています。受験地獄の先取りです。そういう世界へ親を引っ張り込もうという意図が強く働いている紙面構成です。

 0歳~未就学児 遊びを通じて、自然と学べる ワールドワイズキッズ(ベネッセ)
 小学校低学年 多読で「読む」「聞く」を磨く オックスフォード・リーディング・ツリー(オックスフォード大学出版局)
 小学校中学年 タブレットで4技能を伸ばす 小学生タブレットコース(Z会)
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月12日・朝刊、「EduA」3ページ、高田英、記事の小見出し)

 これは広告ではありません。本文記事が広告と化しています。そして、これこそ異常な「先取り」です。外国語活動が始まる小学校中学年に、4技能を伸ばすなどという言葉でけしかけています。

 中学受験に失敗、傷ついた息子 親としてどう向き合えばよいのか
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月12日・朝刊、「EduA」3ページ、「お悩み相談室」、清水章広、見出し)

 全国の大多数の子どもたちは公立中学校へ進みます。私立中学校の受験に失敗するのはごくごく少人数です。こんな記事を大げさに掲げるのはおかしいのです。回答者は教育アドバイザーという肩書きになっています。
 そして、記事は次々と展開します。(記事内容は省略。)

 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月12日・朝刊、「EduA」4ページ、「親子で挑戦 中学入試数学」、安浪京子)

 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月12日・朝刊、「EduA」5ページ、「国語のチカラ」、南雲ゆりか)

 数学の担当者の肩書きは算数研究家であり、国語担当者は南雲国語教室(東京都)主宰となっています。
 6ページは大学に関する話題になっていますが、7ページは再び、主として小学生向けの200字オピニオンの書き方の指導と、「家族のとなりに新聞を」と題するNIEコーディネーターの文章です。8ページは全面広告です。
 月に2回、折り込まれる「EduA」という紙面は、国立・私立中学受験という意図が強く出ている企画です。教育を正面から考える企画とはほど遠く、何とか中学合格を果たそうとする記事であふれています。首都圏を中心にした私立中学校を応援しようというの意図が濃厚にあらわれていて、大多数の読者とは無縁の企画です。
1ページの片隅に、次のような挨拶が載っています。

 ■編集長が交代しました
 4月1日付で市川裕一が就任しました。さらにパワーアップして2020教育改革や子どもの学び、成長に役立つ情報をお届けします。引き続きご愛読ください。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月12日・朝刊、「EduA」1ページ)

 「さらにパワーアップ」とは、ますます中学受験の記事に拍車がかかるということでしょうか。「2020教育改革や子どもの学び、成長に役立つ情報」と書いてありますが、すべての子どもに役立つ企画を願わずにはおれません。「EduA」という別刷りが始まってほぼ1年、私立中学応援の記事にあふれた紙面を見て、配られるたびに不愉快な思いになっている人も多いことでしょう。

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2020年4月18日 (土)

ことばと生活と新聞と(57)

「いずれにいたしましても」という言葉の無責任さ


 記者会見などを見ていると、ときどき、「いずれにいたしましても」という言葉を聞きます。この言葉を耳にすると、その言葉が発せられる段階よりも前に述べられていることは、全く意味のない内容のように聞こえます。これは話し言葉としての使い方であって、書き言葉にあらわれることは少ないと思います。
 しばしば耳にすると思われるのは官房長官という人の会見です。他の人に比べて多いのかどうかはわかりませんが、この人の語り口が、投げやりのように聞こえて、強く耳に残るからかもしれません。
 この言葉はさまざまな場面で使われますが、極端な場合、「いずれにいたしましても、具体的なことはこれから詳しく検討したいと思います。」などという言葉を聞くと、これまで何も検討していなかったのだということが理解できますし、それを誤魔化すためにいろいろな言葉を並べあげていたのだということが明らかです。
 この言葉を取り上げたコラムがありました。

 自治体関係者の間でひそかに回し読みされている本があると聞きました。「公務員の議会答弁術」(学陽書房)。「どんな場面も切り抜ける」という文言や用法が紹介されています。
 ページをめくると、やっぱりありました。「いずれにいたしましても」。答えるべき内容がなく、前置きをいろいろ並べて時間を稼ぐ場合に使う、と筆者で現役公務員の森下寿さん(ペンネーム、50代)は手ほどきします。議会答弁書の作成を長く担当した経験から、「答える側には使い勝手がよいかもしれませんが、聞く方は耳障りですよね」とも言います。 …(中略)…
 最後に結論を言うときの枕ことばですが、核心をぼかす、かわす言葉としての印象も強いです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月11日・朝刊、13版S、11ページ、「ことばサプリ」、中村純)

 この文章を読んでびっくりしました。議会の答弁を一生懸命に作り続けている人がいること、そして、その人たちが「いずれにいたしましても」を重宝な言葉として使い続けていたことです。そうすると、答弁をしたり会見をしたりする人たちが、この言葉を使う機会は、ますます増えていくでしょう。
 コラムの中に、富山県議会が「いずれにいたしましても」の言い回しを自粛するように県執行部に求め、使用頻度を10分の1に減らしたということが書かれていました。求められた方が県執行部というのですから、答弁の原稿は「いずれにいたしましても」に塗り込められたものであったのでしょう。答弁はそういう原稿を棒読みして行われていたということです。国政にかかわる官房長官が多用してもおかしくはないのかもしれません。
コラムに書かれていることのうち、「最後に結論を言うときの枕ことばです」という表現には賛成できません。結論など何もないときの弁解語のようなものではないでしょうか。「核心をぼかす、かわす言葉」として使っているのですから。
 会見や答弁の中で、この言葉を聞いたときには、その会見・答弁の全体がうそっぱちらしく聞こえるということに変わりはありません。

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2020年4月17日 (金)

ことばと生活と新聞と(56)

社会は無名の人が支えている


 新型コロナウイルスの感染拡大のニュースに毎日のように登場するのは首相、担当大臣、都道府県知事などです。ニュースにしばしば出てくるのは当然のことで、しっかり対応していただきたいと願わずにはおれません。それとともに、このような大きな出来事になると、医療・介護や教育や行政などの立場で尽力しておられる方々もニュースにあらわれてきます。行政のリーダーたちには間違いのない指揮をしてほしいと思いますが、それぞれの現場で力を尽くしておられる方々には感謝したいと思います。自分の任務をまっとうして頑張っておられる方々のことをもっと報道してほしいと思いますが、そのような方々を取材すると、かえって迷惑をかけることになるのかもしれません。
 コロナ禍とは関係はありませんが、こんな文章を目にしました。

 「無名の運命のなかで、自分の筋を貫き通して、歴史にものこらないで死んでいった者の生き方に、ぼくは加担したいんだよ。」
               岡本太郎
 「尊敬する人」といえばなぜみなすぐに権勢を誇った人を挙げるのだろうと、芸術家は言う。成功者といっても、彼を取り巻く「いろいろな状況が押しあげた」だけ。歴史には、成功しないと知りつつ「命を賭けて筋を通した」無名の人が埋もれているはずで、そこをしっかり見ようと。『太郎に訊け! 岡本太郎流爆発人生相談』から。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月9日・朝刊、14版、1ページ、「折々のことば」、鷲田清一)

 社会のトップに立つ人たちのことは、新聞・放送では大きく取り上げられます。政治・経済・文化・スポーツなど、すべての分野にわたって、いわば一握り(僅か)の人たちのことは詳しく詳しく報道されます。そして、それらの人たちから漏れた人たちのことは報道の対象から外されていきます。素晴らしい手腕を発揮している人たちであっても、トップの範囲に入らない人たちに対しては、報道は冷淡です。まして、ごくごく普通に生活している人たち(人口の大部分)は、自分に与えられた任務に注力した生活をして、それなりの業績を上げていたとしても、報道で取り上げられることはありません。報道というのはそういう冷淡さを持っているでしょう。
 政治や経済はもちろん、スポーツでも芸術でも、同じ有名人だけがしばしば取り上げられます。報道する側に立てば、予備知識があって取り上げやすい人であれば、インタビューをしたり記事に書いたりしやすいのでしょう。また、無名の人を取り上げても面白い記事は書けないという先入観があるのかもしれません。
 ニュース記事を見ていると、この問題ならば、あの人に聞いてみようという予備知識(予断)があるのかもしれないと思います。またあの人のコメントを載せていると思うようなことが、しばしばあります。そうすることによって、記事の色合いに新鮮さがなくなるということも生じています。
 社会は無名の人たちが支えています。ひとつの新聞に載る人名は、1年間に、どれくらいの人数になるのでしょうか。仮に延べ人数が数万人であるとしても、この世に生きている人たちのうちの1%にも足りないでしょう。逆に何度も(場合によっては、毎日)取り上げられる人もいることでしょう。報道に携わる人は、しかたがないと諦めないで、無名の人をひとりでも多く取り上げて、その人の生きてきた道筋を読者に知らせてほしいと思います。
 私たちも、有名人を見る目を変える必要があります。「尊敬する人」は、本当は有名人でなく、身近な無名の人を思い浮かべることが多いのではないでしょうか。ところが質問されたら、とっさに有名人をあげてしまうというような心の持ち方をしているのかもしれません。新聞やテレビに引き寄せられてしまうような心の動きを私たちはしているのでしょう。

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2020年4月16日 (木)

ことばと生活と新聞と(55)

同じ文章を2度載せる安易さ


 「つまらないものですが…」という言葉は、謙遜の気持ちを添えて相手に贈る言葉だと思っていましたが、地域によって受け取り方が違うようです。こんな文章を読みました。

 結婚後、尾道で妻の恭子さんが菓子折を持って「つまらないものですが」と近所に挨拶に行ったら、「どうして、あんた、つまらんもん持ってきた」「ええもん持ってきさんしゃい」と追い返されてしまったんです。儒教の精神が育たないところだから、つまらんもんといったら、本当につまらんもんを持ってきたと思われてしまいます。
 (大林宣彦『戦争などいらない-未来を紡ぐ映画を』、平凡社、2018年11月9日発行、54ページ)

 尾道を舞台にした映画をたくさん作った大林宣彦さんが亡くなりました。もちろん新聞は大きく扱うことになります。
 4月11日の夕刊の見出しを引用します。

 平和な未来 映画に託して / 大林宣彦さん死去 / 尾道に情熱 / ヒロシマ 原体験に
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月11日・夕刊、3版、1ページ、見出し)

 夕刊1ページには他のニュースはなく、この記事ひとつだけです。この扱いに異存はありません。
 さて、翌日の朝刊ではやはり1ページのニュースとなっています。

 大林宣彦監督 死去 / 82歳 「時をかける少女」「転校生」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月12日・朝刊、14版、1ページ、見出し)

 同じニュースを2度にわたって報道することを、かつての新聞はしていませんでした。今は、同じニュースを載せるという安易さに変化してしまっています。
 しかも、驚くのはそれだけではありません。11日夕刊の文章の冒頭部からの50行余りを、1字1句も変えることなく、そのまま12日朝刊に使っています。しかも1ページの記事はそれでおしまいです。まったく同じ文章を2度、読まされるのです。あまりにも酷いことです。新聞記者には倫理観が喪失してしまっています。
 この記事に始まったことではありませんが、今回は堕落の極みのように感じました。
 早く夕刊を廃止しましょう。こんな新聞作りにつきあうことはできません。朝刊と夕刊とを合わせて売ることは止めてください。夕刊がほしい場合は新聞スタンドで買うことにしましょう。同じ記事を配達することを止めてください。朝刊だけで結構です。朝刊は統合版にして、夕刊は1部売りにしましょう。
 夕刊を廃止しようという世論を高めるために、わざと問題のある編集をしているのなら、もうそろそろ、その実験は終わってもよいでしょう。早く夕刊廃止に踏み切りましょう。
 「つまらないものですが…」という言葉の受け取り方は、地域によって、あるいは時代によって変化をするのでしょう。新聞の夕刊も、そろそろ変化する時代を迎えているようです。

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2020年4月15日 (水)

ことばと生活と新聞と(54)

翻訳の言葉


 映画の字幕は1行14文字、1秒4文字が目安だそうです。こんな記事を読みました。

 「『確固たる経験を持ってる』」 → 「『経験がとても豊富なの』などこなれた訳に」
 「『絶対にどこかにいる』」 → 「(もっと)臨場感を」→「『消えるなんてあり得ねえ』はいかがでしょう」
 東北新社の字幕課で昨年10月、こんなやり取りがメールで飛び交った。同社配給のフランス映画「レ・ミゼラブル」について宮坂愛さん(42)が訳した字幕に、字幕演出を担う高橋澄課長(47)が磨きをかけていく。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月9日・朝刊、13版、26ページ、「at work 映画配給」、藤えりか)

 映画は芸術作品です。物語の流れの中で、適切な言葉を選んで翻訳し、字幕を作る人たちの苦労がわかるように思います。
 私たちは、日常生活の中で翻訳の恩恵を受けています。書物などの翻訳は、翻訳者の個性が出て、全体の色合いに影響することがあるでしょうが、それは大きな魅力です。
 日常生活の中で受けている恩恵は、新聞や放送のニュースなどに出てくる言葉の翻訳です。ニュースと映画などとの大きな違いは、客観報道と芸術作品との違いです。
 テレビのニュースを見ていて、ときどき気になることがあります。くだけた話し言葉のような翻訳を見ると、本当にそのように言ったのかなと疑問を抱くことがあります。「(相手は)わかっちゃいないはずだよ」というような字幕が出ると、「(相手は)わかっているはずはありません」という言葉とは同じような内容のことを言っていても、その言葉を発した本人の気持ちは同じではないと思うのです。ときどき、違和感のある翻訳に出会いますが、ニュースなどの場合は、話している本人の気持ちに沿った翻訳をしてほしいと思います。
 別のことを申します。翻訳に日本語で使われる故事成語のようなものが使われることがあります。画面に出ている外国人は、その故事成語に当たる表現を本当にしたのだろうかと思うことがあります。翻訳する人が故事成語に飛びついて、厳密さを欠きながらも選んだ言葉ではないのかと思うことがあります。「一石二鳥」とか「三鳥」とかの言葉や、「立つ鳥跡を濁さず」とかの言葉が現れたりすると、ほんとうに日本人と同じような感覚で発した言葉であったのだろうかと首を傾げることがあります。
 新聞記事の場合は、なまなましい本人の姿が現れませんから、読者が判断をする要素が減っているのですが、やはり正確な翻訳をお願いしたいと思うのです。

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2020年4月14日 (火)

ことばと生活と新聞と(53)

知ってもらうことと、納得(同感)してもらうこと


 胸に響く言葉を読みました。次のようなことが書かれていました。

 「落語ってのはな、年寄りも子どもも若い人も、同じように笑い、涙するものだ。人の考えを押しつけるのは落語ではない」
               五代目・柳家小さん
 噺家の柳家さん喬は、師匠・小さんのこの教えを胸にこれまでやってきたという。ある日、「お前の話はムダが多い。それじゃあ何も伝わらない」とも言われた。たしかに山の美しさといっても人それぞれに思いは違う。それで事細かな描写はやめて、「ごらんよ、きれいな山だねえ」と話すようにした。『柳家さん喬 大人の落語』から。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月30日・朝刊、14版、1ページ、「折々のことば」、鷲田清一)

 学術論文のようなものは別ですが、それ以外の文章や話の大半は、相手の心に響くかどうかということが大切だと思います。
 私たちは、何かの意見を述べる場合、自分の考えを相手(あるいは多くの人たち)に納得してもらいたいと考えます。文章の指南本などには、いかに論理を組み立てて、どのような順番で、どんな言葉を用いて述べればよいかというようなことが書かれています。そのようなことが大切な事柄であるということは言うまでもありません。けれども、その指南に沿って書いたからといって、相手に納得してもらえるとは限りません。
 意見を述べるとしても、自分の言いたいことを事細かに述べればよいということではないと思います。相手がどのように思っているか、どのように感じているかということを考えないで、自分の言いたいことを述べても逆効果になることがあります。
 論理的な文章や話であっても、言葉の隙間にゆとりを持たせておかなくてはなりません。落語と、論理的な文章や話とは、同じではありませんが、共通するところが大きいと思います。落語で笑ってもらうということは、論理的な文章や話では納得(同感)してもらうということにあたります。最後の目的地までがんじがらめで進めていったのでは、最終目的は達成できないということになりかねません。
 現代の政治家の討論を聞いていると、相手をうち負かすことだけを考えて、あるいは、自分を弁解することばかり考えて、抽象的な言葉を並べていると思われることがあります。いくら理路整然と述べて相手を言い負かしたとしても、(あるいは、逃げおおせたとしても)、それを聞いている人が納得できるかどうかは別問題です。相手(国民)の心と通じ合うものがなければ、言葉を発しただけで、何の役にも立っていないと思います。
昔の政治家は、ちょっと違っていたと思います。討論のあと(議事録など)を繰り返して読んでみたいと思うようなものこそ、価値ある討論です。今の国会の議論(特に答弁)は、ばからしくて読む気にもなりません。
 同じ噺であっても繰り返して聞いてみたいと思う落語の方が、言葉としての価値は高いようです。

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2020年4月13日 (月)

ことばと生活と新聞と(52)

「発出」という言葉


 かつて、「暴風雨警報が発令された」という表現をしばしば耳にしていたと思います。気象庁(気象台)が「発令」という言い方をしていたのか、新聞・放送がそのような言葉遣いをしていたのか、それはわかりません。
 「発令」という言葉は、暴風雨警報のようなものには違和感はありませんでしたが、強風注意報のような、軽い程度のものに使うのは大げさな表現のように思いました。「発令」ではなく、もっと軽い言葉はないのかと思っていました。
 今では「暴風雨警報」も「強風注意報」も「光化学スモッグ情報」も、「出た(出した)」という表現が多くなっているように思います。けれども逆に、重大なものも軽微なものも一括して「出た(出した)」と表現するのは安易であるように思います。
 さて今回の新型コロナウイルス汚染拡大については、首相は会見で「緊急事態宣言を発出する」という言葉遣いを何度もしていました。私にとって「発出する」は耳慣れない言葉ですが、「発令する」の大げさな感じはなくて、好ましく聞こえました。これは政治・法律に関わる言葉なのかどうか知りませんが、「発令する」よりはよいと思います。「出す」よりは、ちょっと形の整った言葉のように思われます。
 「令」の文字にはいろいろな意味がありますが、まず思い浮かべるのは「命令」です。私には、「令和」という元号にはいまだに馴染めない気持ちがあります。気象に関わるものには「発令」はふさわしくなく、せいぜい「避難命令(避難勧告)が発令された」あたりが納得できる表現の範囲です。
 新聞は、引用文としては「発出」を使う可能性はあるでしょうが、一般には「出す」や「発令する」を使っています。

 安倍晋三首相は7日夕、新型コロナウイルス対応の特別措置法に基づく緊急事態宣言を東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に出し、すみやかに公示して発効させる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月7日・夕刊、3版、1ページ)

 安倍首相は7日夕、新型コロナウイルスの感染者急増をうけて、東京都など7都府県を対象に緊急事態宣言を発令する。
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年4月7日・夕刊、3版、1ページ)

 当然のことですが、朝日新聞は同じページの記事の中では、「宣言を出すための手続きに着手した。」「政府は、宣言を出すにあたり、」という表現をしています。
 読売新聞は同じページの記事の中では、「2012年の特措法成立後、発の発令となる。」「同日夕に政府対策本部で宣言を発令。」「宣言を発令するよう提言していた。」「首相が緊急事態宣言を発令する際に諮問を受け、」という表現をしています。

 さて、そこで「発出」という言葉についてですが、小型の国語辞典には載っていません。今後、日常生活でも使われるようになるのであれば、国語辞典には載せなくてはなりません。
 『広辞苑・第4版』には載っていますが、簡単すぎるようです。

 ①あらわれること。あらわすこと。おこすこと。
 ②出発に同じ。

 ①は、広すぎる説明のように思われます。何についても、あらわれたり、あらわしたり、おこしたりする場合に使える言葉であるとは考えられません。「一匹の猫が発出した(あらわれた)」、「みんなの前に姿を発出した(あらわした)」、「凶悪な事件を発出した(おこした)」というような表現が、それそれ可能であるのか、そうでないのかということが分かりません。そういうことも含めて、国語辞典の説明が必要になってくるでしょう。
②については、「午後7時に東京駅から新幹線で発出した」というような表現が可能なのでしょう。
 今回の「緊急事態宣言を発出する」のような例をもとにするなら、「発出」の意味として、法令・宣言・考えなどを広く告げること、というような説明が成り立つのかもしれません。

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2020年4月12日 (日)

ことばと生活と新聞と(51)

「かつて知られた都市」は、今は知られていないのか


 不思議な訂正記事が載っていました。それを引用します。

 3月30日付「しつもん!ドラえもん 3625 とき編」で、世界の標準時についての質問をどの都市で「決まるかな」としたのは「決まっていたかな」の誤りでした。31日付同欄3626の質問で、日本の標準時が決まる場所として「知られる都市は」としたのは「かつて知られた都市は」の誤りでした。答えで「世界の標準時は英国のグリニッジ天文台で決まり、東西に15度離れるごとに1時間の時差ができる」としたのは、「かつて世界の標準時は英国のグリニッジ天文台を通る子午線で決まり、東西に15度離れるごとに1時間の時差ができるとされた」の誤りでした。標準時はもともと子午線を基準に決めていましたが、いまは原子時計が刻む時刻をもとに決めるため、説明として不正確でした。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月4日・朝刊、14版、26ページ、「訂正して、おわびします」)

 世界の標準時について、児童・生徒が使う教科書ではどのような説明になっているのかは知りません。グリニッジとか明石市とかの記述はされていないのでしょうか。
 訂正記事によれば、世界の標準時は「原子時計が刻む時刻をもとに決める」となっています。そうするとグリニッジや明石市についてはいっさい考える必要がないということでしょうか。
 もしそうであるのなら、3625と3626の質問自体が意味のないものになります。それは、時刻に関する質問ではなく、かつての事柄(すなわち、歴史)に関する質問になります。今となっては記憶しておく必要はないのですが、かつて知られていた都市はどこですか、という質問ですから、歴史に過ぎません。
 そもそも、今は関係ないことになっていますが、「かつて知られていた都市はどこですか」の「かつて」というのは何年前のことでしょうか。児童・生徒たちが生まれる前に既にそのような考え方になっていたのなら、そんな質問自体が不適切です。
 質問・答えの記事を書いた人自身が間違っていたというような「しつもん」はきちんと取り消すべきでしょう。「訂正」の言葉遣いで誤魔化してはいけません。「決まっていた」とか「かつて」という言葉は、政治家の答弁のような、インチキな言葉に聞こえます。子どもたちにそんな言い抜けの言葉遣いを教えてはいけません。
 最大の疑問は、標準時は原子時計が刻む時刻をもとに決めるということになっているから、新聞は今、明石市や東経135度を、日本の標準時と結びつけたような記事を書くことは、まったくないと言えるのでしょうか。原子時計のことは大切ですが、現在でも、日本の標準時と明石市とを結びつけて述べてもよいのではないでしょうか。質問をそのように工夫してほしいと思います。

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2020年4月11日 (土)

ことばと生活と新聞と(50)

新聞におけるBPO


 この連載の(45)回と(46)回で、新聞の偏った記事のことを書きました。塾における指導を正統な教育であるかのように述べて、あおりたてるような内容でした。
 その後に、「これ、広告?番組? BPOがメス」という見出しの、こんな記事を読みました。

 放送内容に問題があったかどうかを調べる「放送倫理・番組向上機構」(BPO)放送倫理検証委員会が昨年10月に下したある決定が、「パンドラの箱を開けた」と放送界で話題になった。どういうことか。
 それは昨春に長野放送が放送した30分番組「働き方改革から始まる未来」だ。長野県内の社会保険労務士法人を取り上げたもので、同法人が制作会社に制作を依頼し、長野放送は完成VTRをそのまま放送した。 …(中略)…
 「放送なのか長尺の広告なのか」。視聴者の指摘を受けて調査した検証委は、番組はPR色が強いとして、「視聴者が広告放送であるとの疑いや誤解を抱くのも無理はない」と指摘した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月8日・朝刊、13版S、26ページ、西村綾華)

 新聞界にBPOのような機構があるのかどうか知りません。けれども新聞記事は、きちんと検討してから紙面に出さなければなりません。
 仮にBPOに相当するようなものがなくても、新聞社内できちんと検討して、判断をすべきですが、そういうことが行われていないように感じます。記事の内容が正統なものであるかどうかを、社外の第三者に判断してもらうというのは情けないことです。社内で責任を持たなければなりません。私は朝日新聞社の校閲分野が弱いということを何度も書いてきましたが、教育に関する記事はとりわけ問題をはらんでいると思います。
 民放の場合は、仮にそのような番組であっても、納得せざるをえないとも思います。視聴料は無料です。新聞の場合は違います。購読料を取りながら、広告欄でないところの記事に、広告的要素が強ければ大きな問題です。
 (45)回と(46)回で取り上げた記事は、特定の塾などを宣伝するものではありません。けれども、その業界を賛美して、その業界の宣伝になっていることは言うまでもありません。そもそも、教育の亜流の位置にある受験産業に頼ることを勧めるような記事は、宣伝記事以外の何ものでもありません。月に2回、付録として配付される「EduA」の紙面は、業界の宣伝紙のような色合いになっています。
 教育に関する記事の執筆者として塾や私立学校の関係者を重んじていることはおかしいと思います。教育に関するニュース報道の場合も、塾や予備校の関係者などのコメントを多く載せています。新聞社と受験産業との癒着は相当強いように思います。それが「週刊朝日」の露骨な教育記事にも反映されているのでしょう。
 小学校・中学校・高等学校の教育の大部分は公立学校が担っています。そのことを忘れて、私立有名校、塾、予備校や、それを賛美する書き手(教育ジャーナリストなどという言葉を臆面もなく吐く人もいます)に傾斜していったのでは、新聞社の体面が保てないはずです。

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2020年4月10日 (金)

ことばと生活と新聞と(49)

「自分のこと」と「自分ごと」と「私ごと」


 明治時代に言文一致運動というものがありました。現代は言文一致の時代と言ってよいでしょう。けれども、話すときと書くときとに全く同じ言葉を使うとは限りません。国語辞典には話し言葉のうち、くだけた表現が載っていない場合があります。
 「他人ごと」を「ひとごと」と言わずに「たにんごと」と言う人が増えています。そして、「他人ごと」の対語として「自分ごと」と言う人がいます。私も聞いたことがあります。
 「自分ごと」という言葉を扱ったコラムに、こんなことが書いてありました。

 最近、「自分に関係があること」の意味で「自分ごと」という言葉を見聞きすることが増えています。 …(中略)…
 秋月高太郎・尚絅学院大学教授(言語学)は、一見似たような「私ごと」や「我がこと」があるのに、なぜ「自分ごと」が生まれたのかに着目します。「私」や「我(われ)」は古風で格式張った印象があるため自称詞として使いづらく、また「私ごとではございますが」のように「私ごと」は控えめ・消極的な文脈で使われる機会が多く、「自分ごと」のように積極的な意味で使われる場合にはなじまないのでは、とみます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月29日・朝刊、13版、11ページ、「ことばサプリ」、米田千佐子)

 上に書かれていることのうち、「『私』」や『我』は古風で格式張った印象がある」ということには同意できません。「私(わたくし、わたし)」は日常語ですし、「我々」や「我が国」という言い方も聞き慣れています。「わがこと」という言い方も廃れてしまっているわけではありません。
 「私ごと」は消極的な文脈で、「自分ごと」は積極的な意味で使われていると書かれていますが、消極的・積極的という意味がよくわかりません。「私ごと」は話し相手とは一応とぎれた内容(あなたとは関係のない事柄)であって、「自分ごと」は話し相手とつながっている関係の中で、自分に関わることを述べているように思います。
 冒頭に書いたことに戻りますが、「自分ごと」を話し言葉として使っても、文章で書くときには「自分のこと」と書く人が多いのではないでしょうか。「私ごと」とは冠婚葬祭や病気などに関わるときに使われることが多いと思われますから、使う場は限られているように思います。
 このコラムの見出しは「自己を強く意識 前向きに主張」となっています。「自分ごと」はそのような意識で使われることはあるでしょうが、もっと安易に「他人ごと」の対語として軽く使っている場合が多いのではないかと思います。自己を強く意識するのなら「自分のこと」というように、「の」を加える方が強調されると思います。

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2020年4月 9日 (木)

ことばと生活と新聞と(48)

「ゴリゴリ」と「ガリガリ」


 まず、新聞コラムを引用します。

 「ゴリゴリの理系」「ゴリゴリの佐賀弁」「ゴリゴリの少女漫画」。「著しい」に似た意味で、ゴリゴリが使われる例を見聞きします。
 明治大学教授の小野正弘さんによると「濁音で始まる和語は通常あまりよいニュアンスは伴わない」そうです。「無理やりに、または力任せに押し通すさま」(岩波国語辞典)、「かたくなで頑迷なさま」(日本国語大辞典)と、辞典では批判的な意味をもって紹介されています。
 ですが、「ゴリゴリの理系」などは不快な意味で使われておらず、むしろ肯定的に使われています。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月1日・朝刊、13版S、9ページ、「ことばサプリ」、武長佑輔)

 「著しい」に似た意味で「ゴリゴリ」が使われているということは知りませんでした。
 見聞きしたことがありませんから、どのようなニュアンスが込められているのか判断できないのですが、「ゴリゴリの理系」「ゴリゴリの佐賀弁」「ゴリゴリの少女漫画」が肯定的に使われているという、その「肯定」の度合いがよくわかりません。
 このコラムを読んだときに、私がすぐに思い浮かべたのは、「ガリガリ」という言葉でした。「ガリガリ勉強する」⇒「ガリ勉」というふうに使う、「ガリガリ」です。これを代入すると、「ガリガリの理系」「ガリガリの関西弁」「ガリガリの推理小説」という言葉遣いができます。このような言い方は、私が小さかった頃は、地域語として使っていたように思います。意味は、「著しい」という意味もありますが、「ひたすら。もっぱら」という意味の方が強いかもしれません。
 「ガリガリ」という言葉は「我利」に通じますから、「ガリ勉」も、「ガリガリの理系」「ガリガリの関西弁」「ガリガリの推理小説」も、他人がどう考えようとも、もっぱら一つの方向に進めているという印象が伴います。その意味では、少しは批判的な語意もあったのかもしれません。なにしろ、濁音で始まる和語ですから。
 擬音語・擬態語などの使用は印象に左右されますから、「ゴリゴリ」が、不快な意味ではなく、むしろ肯定的に、使われることでしっかりとした地位を得ていくのかどうかわかりません。印象が悪ければ使われなくなるのです。そういう意味では、まだ、流行語の位置にあるのではないでしょうか。私は、肯定的な意味を持つ言葉として定着していくのは難しいのではないかと考えています。

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2020年4月 8日 (水)

ことばと生活と新聞と(47)

教育には成功談や美談はない


 井上ひさしさんに「シベールのラスク」という文章があります。その文章は『ふふふふ』(講談社、2009年12月17日発行)という本に収められています。
1966年(昭和41年)の秋に、25歳の熊谷さんが山形市内に小さな洋菓子店を出しました。曲折がありましたが、バターの味を利かせた、歯ごたえのよいラスクが、ゆっくりと保守的な食生活へ食い込んでいき、蔵王の麓に新しい工場を建てるまでになりました。
 そして、創業者利益を地元に還元するために財団を作り、その財団が体育館(劇場にもなる)と図書館を作り運営することにしたと言います。
 以下に、井上さんの文章を引用します。

 「二十万円の元手で始めた店が、地元のみなさんや県内外のお客さまのおかげで持ちこたえ、そして大きくなった。これまで買い支えてくださった方々にそのご恩をお返しするために、どなたでも入ることのできる図書館と体育館と劇場をつくることにしました」
これが筆者が直に聞いた熊谷さんの談話である。いい話はテレビや週刊誌や新聞に載りにくい。わたしたちが日ごろ見聞きするニュースは「自分のことだけを考えて自滅していく人たち」のことばかりだ。もちろんいわゆる美談美談した美談にも閉口である。(同書、188ページ~189ページ)

 教育産業という産業があるそうです。教育を商売とする人たちの心の中を推し量ることは、私にはできません。教育は商売ではありません。この連載の(45)回と(46)回に書いたのは、私の頭の中にはない世界のことですが、現実にはそんなことを自慢たらしく文章に書く人がいるのです。
 新聞が取り上げるのは、多少とも金儲けに関わりを持った話が多いようです。教育に関することも、その例外ではないようです。教育産業で大儲けをした人の話や、有名大学に大勢入学させたと自慢している人の話などが、新聞には都合のよい話題のようです。「自分のことだけを考えて」いる人が、新聞にとっては好都合の人のようです。「いい話はテレビや週刊誌や新聞に載りにくい」という井上さんの意見には同感します。
 新型コロナウイルスの感染拡大に立ち向かっている医師や看護士などの方々の様子の一端は記事になっています。けれどもそれは大勢の方々の努力の一部が記事になっているだけです。学校教育に携わっている人たち(とりわけ、大多数の子どもたちを相手に奮闘している公立学校の教員や職員のこと)や、公務員のことなども大きな記事にはなりにくいようです。
 医療従事者や、学校教育従事者、公務員などは、きちんと仕事をこなしていって当たり前の世界です。そのような仕事には成功談や美談はありません。美談や成功談を求めて仕事をしているわけではありません。
 それに対して、受験産業には成功談が付き物です。成功談を宣伝材料にするために、成功談を作り上げています。ちょうど今ごろ、新聞の広告欄にも、チラシ広告にも、有名大学合格者の顔写真が並べられます。それを自分たちの教育産業の手柄として宣伝します。そういう風潮を断ち切る努力をするのが新聞の務めだと思いますが、新聞は逆の立場をとっています。
 もう一度言っておきます。(46)回に取り上げた「塾が教えない中学受験必笑法」という文章を、新聞社は取り下げる処置をすべきだと思います。恥ずかしい文章です。

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2020年4月 7日 (火)

ことばと生活と新聞と(46)

塾や親を総動員しなければならない教育・指導


 新型コロナウイルス感染拡大の状況下で、学校の休業が続いています。教員は過酷な状況の中で、施設管理や児童・生徒指導はもちろん、学習指導への対応も求められています。
 そんな中で、ある国立大学の付属学校で、インターネットで家庭と学校を結んだ学習指導のことが、テレビニュースで紹介されていました。そのような授業を工夫して指導に当たられている教員の方々には敬意を表します。けれども、インターネットなどを利用した指導を行うためには機器などが必要ですから、すべての学校で行えるものではありません。学校教育は本来、すべての児童・生徒に同じような環境が与えられるべきですが、現実はほど遠いものでしょう。

 さて、前回の続きです。前回に書いたことは酷いものでしたが、今回は同じ筆者による、もっともっと酷い内容です。新聞が、このような文章を掲載してよいのでしょうか。唖然としております。
 文章を引用します。

 塾で出される宿題をぜんぶやる必要はないという話は、中学受験生の親ならもうみんなが知っていることだと思います。 …(中略)…
 山ほど出された宿題の中から、わが子にとって優先順位の高いものを取捨選択しなければいけないという意味ですから。そして子ども自身が適切に判断できることなどは稀。つまり親が、わが子の学習状況を把握して毎度判断しなければいけないということです。 …(中略)… 私もときどきパラパラめくってみますけど、正直言ってぜんぶやるのはそれこそ無理です(笑)。
 そこで流行っているのが、いわゆる一般的な中学受験大手塾とは別に、塾の課題をこなすための指導をしてくれる個別指導塾に通ったり、家庭での学習を中学受験専用のプロ家庭教師に見てもらったりというスタイルです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月4日・朝刊、13版、21ページ、「塾が教えない中学受験必笑法」、おおたとしまさ)

 文章はまだまだ、この筆者独特の考えを展開して続いていきますが、わずかこれだけの引用文だけでも、問題が山積しています。
 子どもが消化しきれないほどの分量を課題として出すのが塾の教師であり、それを取捨選択する役割を親が担うべきだということが書かれています。大人が「正直言ってぜんぶやるのはそれこそ無理です」というのは笑い話ではありません。異常です。その異常さを当然のこととして書いている人間の心の中はどうなっているのでしょうか。
 けれども、驚きはそれだけではありません。塾とは別に、個別指導塾に通わせろ、家庭でプロ家庭教師に見てもらえと言います。こんな人間が、自分のことを「教育ジャーナリスト」と称しているのです。
 まったく教育という仕事とは無縁の、商業主義で教えている人間がいるということは、子どもにとっては脅威だと思います。本文中の言葉で言えば、中学受験大手塾であり、個別指導塾であり、中学受験専用のプロ家庭教師であり、この文章の筆者です。中学受験を金儲けの対象にしている人たちです。
 教育や指導がどうあるべきかということを忘れて、テストの点数だけを上げるようにけしかけるのが「教育ジャーナリスト」という者の役割のようです。そして、新聞社はそういう人間を支援しているようです。
 子どもたち自身に、何をなすべきかを考えさせて、選ばせて、自分の頭を動かして課題に取り組むようにさせるのが教育というものでしょう。そのようなことをまったく考えないような人間に指導されて、テストの成績だけを上げて、中学校に進んでいく子どもたちが可哀想です。
 けれども、そういう子どもは、一流の高校、大学を経て、一流の企業や官公庁に就職するのでしょう。他人を押しのけ、自己の論理でものごとを考えて進んでいくのでしょう。他人を思いやる気持ちなどが生まれなくても当然かもしれません。
 新聞社は、このような原稿のチェックをしているとは思えません。あおり立てるような文章は、誰に役立っているのでしょうか。内容をチェックをして掲載を認めたというのなら、この新聞社には教育に対する認識が誤っています。
 新聞社は、掲載記事に責任を持たなければなりません。パブリックエディター制度があることを宣伝していますが、それが機能していないのでしょう。新聞社に意見を書き送っても全く無視の姿勢を貫いていますから、機能していないことは明らかです。
 新聞には「お詫びと訂正」の欄があります。文字や数字の書き誤りなどはたいしたことではありません。こういう文章を平気で載せたことこそ「お詫び」すべきです。

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2020年4月 6日 (月)

ことばと生活と新聞と(45)

5万人弱がほんとうの中学生なのか


 中学校は言うまでもなく義務教育です。私立・国立の中学校もありますが、そんなものは例外的な存在でしかありません。けれども、それこそが正統な中学校であると言わんばかりの記事があります。宣伝広告ではなく、きちんとした記事です。どうして、こんなものを掲載する必要があるのでしょうか。
 ジャーナリストというのは自称すればよいもののようですが、教育ジャーナリストというのはどういうことをする人間のことでしょうか。私立・国立中学校への受験を手助けするような文章を書く人間をジャーナリストと言えるのでしょうか。
 こんな文章がありました。

 2020年の中学受験が終わりました。首都圏模試センターの推計によると今年の私立・国立中学受験者総数は前年比104・7%、2200人増の4万9400人でした。私立・国立中学の受験者総数に対する募集人数総数は96%と、久々に合格率が100%を割り込みました。つまり全入時代が終わったということです。 …(中略)…
 第一志望校以外に進むことになった多くの子どもたちはもちろん、第一志望校に進むことになった子どもたちにも、中学受験の締めくくりとして、少しでも「ほろ苦さ」を知ってほしいと私は思います。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月7日・朝刊、13版、17ページ、「塾が教えない中学受験必笑法」、おおたとしまさ)

 筆者の肩書きは、見出し部分に「教育ジャーナリスト」と書いてあります。世の中には、「〇〇が教えない」とか「私だけが知っている」とかの宣伝文句で人を引きつけようとする手法があります。そういう場合はたいてい、実質のない。言葉だけの飾りであることが多いのです。教育の本質を論じるわけでもなく、受験の仕方などの手ほどきをする人もジャーナリストなのでしょうか。
 「首都圏模試センターの推計によると」とありますが、そのセンターというのは公的なものではないでしょう。首都圏の私立・国立中学こそが選ばれた学校のように聞こえます。全国にある公立中学校のことなど眼中にない文章です。首都圏の5万人弱の合格者がほんとうの中学生だと言わんばかりの文章です。全国の公立学校の抱える問題などには知らんぷりの姿勢です。
 これが高校や大学受験に関する文章なら、わからないでもありません。けれども、中学受験をこのようにけしかけなければならない理由は何なのでしょうか。それは、この教育ジャーナリストが収入を得るための手段であるからかもしれません。「全入時代が終わった」ことを喜んでいるようです。受験の「ほろ苦さ」は大人に言われなくても、子どもたちは身にしみて感じているはずです。
 そして、新聞社がこのような宣伝文章を、正規の記事の一つにするのはなぜでしょう。あまりにも安易な取り扱いです。
 このような紙面制作が、日曜日に配達される「EduA」という付録と通じ合っていることは自明のことです。真剣な記事と宣伝記事との違いがなくなってきているのが、現在の新聞であると思います。

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2020年4月 5日 (日)

ことばと生活と新聞と(44)

自発、やめられない?


 自発という言葉は、2通りの意味を持っています。ひとつは、他からの働きかけではなく、自分から進んで行うという意味であり、もうひとつは、他からの働きかけには関係なく、自然に(ひとりでに)起こるという意味です。明らかに異なる内容と思われるのに、同じ言葉で表すのはよくないことと思います。
 文法でこの言葉を使う場合は、後ろの方の意味です。
 新聞の、言葉に関するコラムで、次のようなことが書かれていました。

 「高齢化という課題が突きつけられている」「今後の成り行きが注目される」。新聞記事に時々顔を出す「れる・られる」。「誰が」や「誰に」が具体的に想像できず、何かひとごとのような、自然の成り行きに任せるような印象を受けないでしょうか。 …(中略)…
 「受け身の形を使った『私』を消す表現(自発構文)が好まれる文化があるからだと思います」と静岡大学の原沢伊都夫教授(日本語学)は説明します。「『私は富士山を見た』より、主語の隠れた『富士山が見えた』の方がしっくりする。人間中心ではなく、自然の中で影響を受けて生かされているという世界観の反映です。英語など多くの欧米語にはない発想でしょう」
 文法的にいえば、自発に加え、可能・受け身・尊敬という意味も表す「られる文」。これを「~である」「~できる」の形にかえて広報文などを書く試みがあります。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月15日・朝刊、13版S、11ページ、「ことばサプリ」、丹羽のり子)

 このコラムの見出しは「受け身 やめられない?」となっていますが、この話題は「受け身」のことではないでしょう。「自発 やめられない?」と書く方が正確なのではないでしょうか。もうひとつの見出しは「『私』を消す意識の現れか」となっていますが、この見出しには異存はありません。
 原沢伊都夫教授の説明のように、富士山に関する例文では、人間中心ではなく、自然の中で影響を受けて生かされているという世界観の反映だと言ってよいでしょう。けれども、新聞記事で目にするのはそんな文章ではありません。「高齢化という課題が突きつけられている」などという表現の場合はどうなのでしょうか。「人間中心ではなく…」という説明は成り立ちません。社会の中で影響を受けて(=他人の考え方などに流されて)、生かされている(=ものを考えている)という世界観(=生き方)を表しているということになるのでしょう。
 新聞記事の結びの言葉として多用される「今後の成り行きが注目される」は「成り注」とも呼ばれて、文章の無責任さが批判されました。けれども、この文を、「今後の成り行きを注目する」と書けば、記者は渦中にいないという感じになって、無責任さに変化はありません。そもそも「今後の成り行き」に対して何の提言もせず「注目」するだけでは役に立たないということなのです。
 ひとつひとつの問題に対して、しっかりとした自己の意見を持つことによって、あいまいな表現が姿を消すことになるでしょう。はじめに挙げた「自発」の2つの意味のうち、前の方の意味での「自発」こそが求められているのです。

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2020年4月 4日 (土)

ことばと生活と新聞と(43)

「数」は、どういう数字を表すか


 1度ならず2度にわたって、すなわち二重に驚いたことがあります。数分とか数日とかいう場合の「数」という言葉についてです。
 まず、こんな文章で驚きました。

 五歳になる息子から「数時間って何時間」という質問を受けた。
考えたこともなかったが、ここは人生の先輩として、明快な答えを出したいと思った。で、「三時間」と答えた。
 誰かに「数時間後にもう一度来てください」と言われたとする。それは決して「一時間後」ではない。一時間後に行ったらたぶん「早い!」と言われる。「数時間」なのだから最短でも「二時間後」。だが「二時間」でもない気がする。それなら相手は「二時間後」とはっきり明示するはず。十時間以上でもない。十時間を超えるとそれは「数時間」ではなく「十数時間」。となると三時間から九時間の間。そう考えていくと四時間でもないように思えてきた。「数時間」にはもう少し短いイメージがある。 …(中略)… 感覚的な考察によって、僕は「数時間」を「三時間」と定めた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月27日・夕刊、3版、4ページ、「三谷幸喜のありふれた生活」)

 驚いたというのは、私にとって「数時間」は「三時間」ではないからです。小学校の時代か中学校の時代か、定かではありません。父母に教えられたのか、学校で教えられたのか、本で読んだのか、まったく記憶はありません。けれども、私の頭の中にしっかりと刻印されているのは、「数時間」は5時間前後、「数日間」は5日前後、ということです。「数」は5という数字とその前後を指すということです。詳しく言うと、「数日間」は4日間・5日間・6日間のいずれかです。3日間や7日間が「数日間」になったりしません。「千数百年間」というと、1400年間から1600年間のあたりを指すということです。そして、私は「数」という言葉をそういう意味で使い、他の人の言葉をそういう意味で理解してきました。10歳前後の頃から「数十年」以上経った現在まで、そういう理解で、他の人との間で何の行き違いも生じなかったと思っているのです。
 だから、上に引用した文章を読んだとき、ずいぶん違和感を覚えたのです。
 そうなると、国語辞典の出番です。引いてみると、こんなふうに説明されていました。(他の説明は省いて、いま話題としている事柄についての説明の部分を引用します。)

『広辞苑・第4版』
 二~三あるいは五~六の少ない数を漠然と示す語。
『現代国語例解辞典・第2版』
 二、三か五、六ぐらいの数量を漠然という。
『三省堂国語辞典・第5版』
 三か四、五か六ぐらいの。
『明鏡国語辞典』
 三、四から五、六ほどのかずを表す。
『岩波国語辞典・第3版』
 三、四の。五、六の。
『新明解国語辞典・第4版』
 (説明が書かれていません。)

 国語辞典を見て驚いたのは、私の頭の中にあったものと一致するのがなかったいうことです。それは、私の頭の中が間違っていたということなのでしょうが、驚くことは、どの辞典も数値を二分していることです。「三か四」と「五か六」と分けているのですが、それは結局は「三から六まで」ということではないのでしょうか。3と6では数値は2倍になります。それは数字としては広すぎないでしょうか。
 『広辞苑』と『現代国語例解辞典』は、「二~三」「五~六」として、4を省いているのですが、どんな意味があるのでしょうか。2と6では数値は3倍になります。あまりにも広すぎます。例えば「数世紀」は2世紀(200年)を意味したり、6世紀(600年)を意味したりしてしまいます。「数秒」や「数分」とは違って、あまりにも大きな差です。
 そんな場合はあいまいな表現を避けて「500年」などと表現すればよいのですが、けれども現実には「数世紀にわたって〇〇文化が栄えた」などという表現を見ることがあります。
 たぶん、この「数」という言葉の説明も、国語辞典の編纂者は、他の辞典がこのように説明しているから、自分たちの辞典も同じようにしておこうという寄りかかり合いをしているように感じられてなりません。
 私の感覚をもう一度、書いておきます。「数」という言葉には「二」や「三」という数字は含まれないということです。私が書くなら、「数」は「五を中心にして、その前後を含んだかず」ということです。

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2020年4月 3日 (金)

ことばと生活と新聞と(42)

東京人にとっては、東京が万事だ


 多くの情報は、東京から地方へ送られます。多くの情報の作り手は、東京に住む人たちです。地方に住む人たちを見下げているとは思いませんが、情報の送り手たちは自分が東京に住んでいることを忘れています。別の言い方をすれば、東京の情報が全国の人たちに通用すると思って発信を続けているのではないかと思うのです。
 例えばこんな文章があります。

 今年の桜は受難を強いられている。飲んで騒いでの花見がなくなり、ゆるりと歩いて眺めてくれるかと思いきや、ところによっては、立ち入りすら禁止されてしまった。きのうはきのうで、関東など季節外れの雪に見舞われた
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月30日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 何ということもない文章かもしれません。けれども、この文章を読んだ段階では、関西はまだ桜は咲き始めたばかりです。満開は何日か後でしょう。東北地方では更に先のことになるでしょう。「飲んで騒いでの花見がなくなり」と言っていますが、それは東京近辺でのことです。まだ飲んで騒ぐ時期にはなっていません。「ところによっては、立ち入りすら禁止されてしまった」とは上野公園のことを思い浮かべて文章を綴っているのでしょう。東京人にとっては、東京のありさまが万事なのです。
 新聞だけでなくテレビも同じです。NHK総合テレビの朝、6時台から7時台のニュースに「1分天気」というコーナーがあります。毎朝、東京(渋谷)の様子だけが映され、その日に着るものに気を使いながら、今日は天気がよいとか、傘を忘れないよう持っていくようにとか言っています。どうしてあんなものを全国に流す必要があるのでしょうか。
 情報発信者が東京人ばかりだから、首都から流すものが全国に役立つと思っているのでしょう。役立つことも多いでしょうが、地方に住む人たちの心にかなっていないものも多いということには思い至らないのでしょう。
 新聞の記事を書く人も、放送の番組を作る人も、東京の出身者ばかりではないでしょう。ところが東京に着任した途端、日本の中心地のメンバーになったという自負心(あるいは、思い上がり)から、そのような情報発信者になってしまうのかもしれません。
 本当は地方在住の記者がもっと記事を書くべきです。地方版の記事だけを書くのが地方支局の記者の務めであってはなりません。NHKは地方制作の番組を日常的に伝国に流すべきです。東京が全国を牛耳ることをやめるべきです。東京の一極集中に批判的な意見を述べながらも、新聞・放送は脱却する姿勢の片鱗も見せていません。
 それをしないから、東京勤務になった者が、東京の感覚を身に付けて、東京発信の情報を全国に流し続けるのです。
 読者や視聴者から特段の抗議がないからといって安心してはいけません。新聞もテレビも東京から流れてくるものだから仕方がない、と諦めている人が、全国にはたくさんいるということを忘れてはいけないと思います。

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2020年4月 2日 (木)

ことばと生活と新聞と(41)

新聞はどちらを向いている?


 新聞は多くの読者に向けてメッセージを発しています。ちょっとした言葉遣いであっても、新聞社の姿勢や方向性が現れます。新聞は世論を喚起するはずですが、現在の新聞はその姿勢を失っているのではないでしょうか。
 新型コロナウイルスの感染拡大が続く中で、不要不急の外出自粛が要請されました。実際に街の中はどうなったのかという取材は必要ですが、それをどのように書いて紙面に反映させるのかということは大事です。人出が少なくなったことに不満感を抱いているような記事があちらこちらにありました。3月29日(日曜日)の朝刊から拾い上げます。

①寂しい週末
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月29日・朝刊、14版、1ページ、見出し)

 見出しはただ一つですから、「寂しい」という言葉が強調されています。縦9センチ、横12センチほどの写真の説明は「人通りがまばらな戎橋」です。人がまばらな様子を望ましい風景ととらえていないようです。経済(金儲け)という視点からの表現なのでしょうか。もっと寂しくならないと、感染を止めることはできないかもしれません。

②都会 消えたにぎわい / 「客足戻るのか」「今は予防優先」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月29日・朝刊、14版、2ページ、「時時刻刻」、見出し)

 2ページの見出しも、1ページの「寂しい」と同じような色合いです。「予防優先」が後ろに下げられています。「にぎわい」「客足」という言葉が、「予防」の前に立ちふさがっています。経済(金儲け)も大事でしょうが、今は「予防」に徹すべきだという姿勢を持てないのでしょうか。
 本文の文章の冒頭は、「新型コロナウイルスの感染が広がる中、『外出自粛要請』の週末が28日、始まった。東京や大阪など各地で街はにぎわいを失った。」となっています。みんなが自粛要請を守って外出を控えたからよかった、というようなことは書かれていません。

③自粛の街 だから でも / 声に濃淡「緊張足りない」「知らなかった」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月29日・朝刊、14版、31ページ、見出し)

 社会面の大きな見出しです。「自粛の街 …… でも」という言葉は、あえて外出をするという意志を表しています。不要不急でもない外出を肯定したり、「知らなかった」という言葉を認めて報道したりする前に、新聞は、外出自粛要請が出ていることをきちんと知らせる努力をすべきでしょう。感染者数の増加の数字を載せながらも、紙面づくりの姿勢は、あらぬ方を向いているようにも感じられます。
 店に空席が多いというようなことを毎日のように報道しています。やっぱり金儲け主義が前面に出ています。感染防止に向けて人々の心構えを喚起するような紙面になっていません。大阪の紙面だからこのような状態なのでしょうか。東京も同じなのでしょうか。経済のことも重要です。けれども、命を守るということを後回しにしてよいはずはありません。
 新聞は、事実を報道するということを理由にして、実際は社会の傍観者になってしまっているようです。これが3月下旬の状況です。感染者が急激に増加しないことを祈りますが、もし、大変な状況に変化していけば、新聞は平気で人々を非難することを始めることでしょう。

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2020年4月 1日 (水)

ことばと生活と新聞と(40)

汚らしいカタカナ語のぶった切り


 今回は新聞見出しの汚らしさの話題です。たった1日分の新聞見出し、仮に3月24日に限っても、次のような状態になっています。

①日本郵便の内部通報者捜し / 「コンプラ担当から電話で情報受けた」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月24日・朝刊、14版、6ページ、見出し)

 本文では、「この局長がコンプライアンス(法令や社会規範の順守)の担当役員から通報情報の一部を得ていたことがわかった。」と書かれています。日本語で表現できるものをカタカナ語で書き、さらにそのカタカナ語をぶった切るという荒々しさです。

②ドラレコ 自分の運転見直しも
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月24日・朝刊、13版S、11ページ、「声」欄、見出し)

 投書者の本文は、「還暦を過ぎて少しずつ車の運転に自信を失いつつあり、以前からドライブレコーダー(ドラレコ)を取り付けたいと思っていた。」とあります。筆者はきちんとドライブレコーダーと書いているのを、わざわざ(ドラレコ)と短縮形にしたのは新聞社ではないのでしょうか。

③告知に「ステマ」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月24日・朝刊、14版、31ページ、見出し)

 インターネット上で話題になった4コマ漫画についての記事です。いくつかの見出しのうちの一つです。
 本文は、「『ワニはステマ(ステルスマーケティング)』『怒濤のメディア展開されると覚めた目で見てしまう』などと、一転して否定意見が相次いだ。」とありますが、理解できそうにない文章でした。

④大会ボラ「早く決めて」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月24日・朝刊、14版、33ページ、見出し)

 東京オリンピックの延期が取りざたされている最中の記事の見出しです。ボランティアのことを「ボラ」と表現したであろうことは推測できますが、どんな言葉でも短くしてやろうとする露骨な一例です。

⑤米オリパラ委が五輪延期を要請
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月24日・夕刊、3版、1ページ、見出し)

 これも、オリンピックやパラリンピックが話題になっている時期ですから、意味はわかります。けれども、本文ではこんな言い方はできないのに、見出しは実に荒々しいと思います。

⑥オタ芸 極めれば アート
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月24日・夕刊、3版、6ページ、見出し)

 記事にはわざわざ解説欄を設けて、「オタ芸」のことを「『アイドルオタクの芸』の略で、ヲタ芸とも書かれる。 …(以下略)…」という16行にわたる説明をしています。
 以上の6例とも、美しい日本語で表現しようという姿勢が全く見られません。これは、この特定の日だけのことではありません。日本を代表する日刊新聞も、日本語を大切にしようとする気持ちが喪失しているようです。
 もうひとつ、同じ日にこんな見出しがありました。

⑦JAL、CAパンプス履かなくてOK
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月24日・朝刊、14版、7ページ、見出し)

 本文には、「日本航空が4月から女性客室乗務員(CA)らの靴の規定を見直すことが23日、明らかになった。これまで3-4センチのヒールのあるパンプス(足の甲があいた靴)を着用するルールだったが、4月からは高さ0センチでも可能とし、ローファーなども認める。」とあります。アルファベット略語を3つ、外来語を1つ入れて、日本語は「履かなくて」だけです。「はかなくて」という言葉には、日本語が「はかな(儚)くて」という意味が掛けられているのでしょうか。
 このような新聞をNIEで使ったら、新聞がこんな書き方をしているのだから、これが正しい日本語の表記だと思われてしまいます。情けない話です。

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