« ことばと生活と新聞と(66) | トップページ | ことばと生活と新聞と(68) »

2020年4月28日 (火)

ことばと生活と新聞と(67)

民放テレビの無神経さ、恐ろしさ


 永六輔さんの『ボケない知恵』(ゴマブックス)という本は、短い言葉をたくさん集めた本ですが、その中に、こんな言葉があります。

 「飢えた子どもたちのニュースのあとにペットフードのCMを流せる神経でないと、テレビなんかやってられませんよ」  (同書18ページ)

 この言葉は、はじめは風刺の効いた言葉として述べられたのかも知れません。けれども、今では現状を述べた言葉に過ぎなくなっています。恐ろしいことです。
 新型コロナウイルスの感染拡大について、医療現場の苦しさや、亡くなった方の葬り方の辛さなどのニュースに心を寄せてみていると、突然、がなり立てるような通販のCMが流れるなどということは茶飯事です。その無神経さは、たぶん、東日本大震災の頃とは雲泥の差があります。
 災害の内容の違いとか、被害人数の違いなどという要素もあるとは思いますが、そんなことよりもテレビ局の人間の堕落ぶりには唖然とします。そんなことを言うと、決まった反論が帰ってきます。民放テレビはCMが収入源だから、依頼があったものは放送しないわけにはいかない、と。
 こんな論理がまかり通るのなら、公共放送としての意味がありません。公共の電波を金儲け第一主義で使っているのです。それが1つの局だけのことであれば、その局を見ないですませることもできますが、すべての民放に共通することになっています。
 ニュースの途中をぶった切ってCMに切り替えます。そのCMの後でニュースの重要な内容が続くことを期待させるようなアナウンスをして、CMを何本も流したりしています。視聴者をもてあそぶ方法を工夫しているのです。放送をする側に立った優しい心などは、探しても見つからなくなりつつあります。
 民放の採用試験では、永さんの言葉にあるような「飢えた子どもたちのニュースのあとにペットフードのCMを流せる神経」の持ち主を合格者の条件にしているのかも知れません。そうでなくても、民放に入ろうとする人間は、もともと、そんな神経の持ち主であるようにも思われてきます。
 民放で人気が出たら、その局を飛び出して、もっと収入の多いところを目指すというような人間が何と多いことでしょう。社会の変質をテレビ局が率先しているようです。アナウンスの言葉を優しい言葉に変えても意味はありません。局全体の姿勢が、視聴者に寄り添ったものになるということは、期待しても無理なことであるのでしょうか。

|

« ことばと生活と新聞と(66) | トップページ | ことばと生活と新聞と(68) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ことばと生活と新聞と(66) | トップページ | ことばと生活と新聞と(68) »