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2020年4月 5日 (日)

ことばと生活と新聞と(44)

自発、やめられない?


 自発という言葉は、2通りの意味を持っています。ひとつは、他からの働きかけではなく、自分から進んで行うという意味であり、もうひとつは、他からの働きかけには関係なく、自然に(ひとりでに)起こるという意味です。明らかに異なる内容と思われるのに、同じ言葉で表すのはよくないことと思います。
 文法でこの言葉を使う場合は、後ろの方の意味です。
 新聞の、言葉に関するコラムで、次のようなことが書かれていました。

 「高齢化という課題が突きつけられている」「今後の成り行きが注目される」。新聞記事に時々顔を出す「れる・られる」。「誰が」や「誰に」が具体的に想像できず、何かひとごとのような、自然の成り行きに任せるような印象を受けないでしょうか。 …(中略)…
 「受け身の形を使った『私』を消す表現(自発構文)が好まれる文化があるからだと思います」と静岡大学の原沢伊都夫教授(日本語学)は説明します。「『私は富士山を見た』より、主語の隠れた『富士山が見えた』の方がしっくりする。人間中心ではなく、自然の中で影響を受けて生かされているという世界観の反映です。英語など多くの欧米語にはない発想でしょう」
 文法的にいえば、自発に加え、可能・受け身・尊敬という意味も表す「られる文」。これを「~である」「~できる」の形にかえて広報文などを書く試みがあります。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月15日・朝刊、13版S、11ページ、「ことばサプリ」、丹羽のり子)

 このコラムの見出しは「受け身 やめられない?」となっていますが、この話題は「受け身」のことではないでしょう。「自発 やめられない?」と書く方が正確なのではないでしょうか。もうひとつの見出しは「『私』を消す意識の現れか」となっていますが、この見出しには異存はありません。
 原沢伊都夫教授の説明のように、富士山に関する例文では、人間中心ではなく、自然の中で影響を受けて生かされているという世界観の反映だと言ってよいでしょう。けれども、新聞記事で目にするのはそんな文章ではありません。「高齢化という課題が突きつけられている」などという表現の場合はどうなのでしょうか。「人間中心ではなく…」という説明は成り立ちません。社会の中で影響を受けて(=他人の考え方などに流されて)、生かされている(=ものを考えている)という世界観(=生き方)を表しているということになるのでしょう。
 新聞記事の結びの言葉として多用される「今後の成り行きが注目される」は「成り注」とも呼ばれて、文章の無責任さが批判されました。けれども、この文を、「今後の成り行きを注目する」と書けば、記者は渦中にいないという感じになって、無責任さに変化はありません。そもそも「今後の成り行き」に対して何の提言もせず「注目」するだけでは役に立たないということなのです。
 ひとつひとつの問題に対して、しっかりとした自己の意見を持つことによって、あいまいな表現が姿を消すことになるでしょう。はじめに挙げた「自発」の2つの意味のうち、前の方の意味での「自発」こそが求められているのです。

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