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2020年4月21日 (火)

ことばと生活と新聞と(60)

後まで残る言葉、残らない言葉


 不幸なことでしょうが、「新型コロナウイルス」という言葉は、日本語の中にいつまでも残り続けるものになるでしょう。盛んに使われている「ロックダウン」「オーバーシュート」「クラスター」などという言葉は、国語辞典に載ることになるのかどうか、疑問です。
 やむを得ず印象に残り続ける言葉はありますが、日常の言葉として取り入れよう(あるいは、残そう)とするか否かは、人々の言語感覚によると思われます。新聞や放送が盛んに使ったから後々まで残るというようなものではありません。大勢の人たちが使おうとしない言葉は、残っていきません。
 こんな文章を読みました。

 日本語には、時代の中で生み出されたものの、まだ熟成されず、地に足がついていない言葉がたくさんあります。こういう言葉のなかには、日常の会話ではさかんに使われていても、俳句の五七五に入れてみると、まったくなじまず、はじき出されてしまうものがある。まだ人のこころをとらえる本当の強さを獲得していないのです。
 (金子兜太『私はどうも死ぬ気がしない』、幻冬舎、2014年10月25日発行、21ページ~22ページ)

 これは「俳句の五七五に入れてみる」ことを念頭に置いて述べているのですが、もっと広く考えてもよいように思います。日常会話や新聞・放送などの言葉として盛んに使われていても、文章を書くときには使う気になれない言葉のことです。使う気になれない、と言っても、個人的な嗜好のことではありません。
 ちょっと改まった場面では口に出したくないような言葉遣い、文章表現では書きたくないような言葉遣いのことです。そのような、話し言葉の世界だけで使われるような言葉の大部分は、いずれは消えていく運命にあるのだろうと思います。流行語とか新語とか俗語とか言われるものは、そういう動きを見せることでしょう。流行語大賞というような催し物を行う意義がよくわかりません。
 新聞や放送で使われる言葉は、新しい事象を表す場合は新しい言葉を用いないと表現できないと思います。けれども、必ずしもそうでない場合にも、不用意に、新しい言葉や人々に耳慣れない言葉などを使うことが多いように思います。放送は話し言葉ですし、新聞も半ば話し言葉に近い表現です。
 放送の場合は基本的に消えてなくなるものですが、新聞は文字として残ります。それがその時代の言葉の有様を記録したものとしての資料にはなりますが、後の時代にまで残っていくことがない言葉があるということを如実に示す資料にもなることでしょう。

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