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2020年4月14日 (火)

ことばと生活と新聞と(53)

知ってもらうことと、納得(同感)してもらうこと


 胸に響く言葉を読みました。次のようなことが書かれていました。

 「落語ってのはな、年寄りも子どもも若い人も、同じように笑い、涙するものだ。人の考えを押しつけるのは落語ではない」
               五代目・柳家小さん
 噺家の柳家さん喬は、師匠・小さんのこの教えを胸にこれまでやってきたという。ある日、「お前の話はムダが多い。それじゃあ何も伝わらない」とも言われた。たしかに山の美しさといっても人それぞれに思いは違う。それで事細かな描写はやめて、「ごらんよ、きれいな山だねえ」と話すようにした。『柳家さん喬 大人の落語』から。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月30日・朝刊、14版、1ページ、「折々のことば」、鷲田清一)

 学術論文のようなものは別ですが、それ以外の文章や話の大半は、相手の心に響くかどうかということが大切だと思います。
 私たちは、何かの意見を述べる場合、自分の考えを相手(あるいは多くの人たち)に納得してもらいたいと考えます。文章の指南本などには、いかに論理を組み立てて、どのような順番で、どんな言葉を用いて述べればよいかというようなことが書かれています。そのようなことが大切な事柄であるということは言うまでもありません。けれども、その指南に沿って書いたからといって、相手に納得してもらえるとは限りません。
 意見を述べるとしても、自分の言いたいことを事細かに述べればよいということではないと思います。相手がどのように思っているか、どのように感じているかということを考えないで、自分の言いたいことを述べても逆効果になることがあります。
 論理的な文章や話であっても、言葉の隙間にゆとりを持たせておかなくてはなりません。落語と、論理的な文章や話とは、同じではありませんが、共通するところが大きいと思います。落語で笑ってもらうということは、論理的な文章や話では納得(同感)してもらうということにあたります。最後の目的地までがんじがらめで進めていったのでは、最終目的は達成できないということになりかねません。
 現代の政治家の討論を聞いていると、相手をうち負かすことだけを考えて、あるいは、自分を弁解することばかり考えて、抽象的な言葉を並べていると思われることがあります。いくら理路整然と述べて相手を言い負かしたとしても、(あるいは、逃げおおせたとしても)、それを聞いている人が納得できるかどうかは別問題です。相手(国民)の心と通じ合うものがなければ、言葉を発しただけで、何の役にも立っていないと思います。
昔の政治家は、ちょっと違っていたと思います。討論のあと(議事録など)を繰り返して読んでみたいと思うようなものこそ、価値ある討論です。今の国会の議論(特に答弁)は、ばからしくて読む気にもなりません。
 同じ噺であっても繰り返して聞いてみたいと思う落語の方が、言葉としての価値は高いようです。

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