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2020年5月31日 (日)

ことばと生活と新聞と(100)

「後悔していただく」という表現の違和感


 見出しを見た瞬間に、言葉に違和感を覚えた記事がありました。その見出しは、次のように書かれていました。

 「県境越えた人 後悔していただく」 / 岡山 PAで29日に来県者検温

 そして、記事にはこう書かれていました。

 岡山県は24日、兵庫県との県境に近い高速道路のパーキングエリア(PA)で29日、新型コロナウイルス対応のため来県者への検温をすると発表した。伊原木隆太知事は「大型連休中に県外から旅行客が多数来県されると困る。県境を越えて移動してきた人が、検温で後悔していただくことになれば」と主張した。
 (見出し・本文ともに 朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月25日・朝刊、14版、30ページ、吉川喬)

 「後悔していただく」という表現形式は、文法上の誤った言い方ではありません。「今回の費用は、あなたにお支払いいただきたいと思う」とか、「今日はご自宅にとどまっていただきたいとお願いする」とかの表現と同様のものですから、「…していただく」の形に違和感を覚える必要はないのです。
 けれども、「後悔していただく」はやっばり、すんなりとは受け入れられない言葉遣いです。「お支払いいただく」「とどまっていただく」は相手に、それを要求(希望)しているのですが、それは支払うとか、とどまるとかの行為です。
 「後悔していただく」というのは、心の中の有様を要求しているのですが、よくない行為をした人に向かって「反省していただきたい」と言うことはありますから、心の有様を要求することもあり得ると思います。
 けれども「後悔していただく」にはやっぱり違和感があります。それは何に由来するのか、自分でもよくわかりません。ただし、この「後悔していただく」という表現は、単に後悔することを求めているだけではないと思います。後悔して引き返していただきたいという要求だと思います。後悔すること(心の動き)と、引き返すこと(行動)とが連続したことになっているのです。言外に含んでいる意味が大きいように感じられ、それは言葉のまやかしのようにも思われるのです。
 見出しの表現では、県境を越えたことが後悔のきっかけとなるのですが、本文の表現では、検温が後悔のきっかけとなるようです。実際には、県境を越えようとするところで検温をされて、後悔させられるのです。それを「後悔していただく」とへりくだった表現をして、実際には引き返すことを求めているところが、納得した気持ちになれない言葉遣いなのです。現実問題としては、検温をして(熱が高くても、そうでなくても)県境を越えないようにと要望されるのでしょう。県境を越えることを「反省する」という段階をとびこえて、一挙に「後悔していただく」という高飛車な要求なのです。本人の心の動きとは関係なく、「後悔していただく」と強要されるところが、言葉遣いとしての違和感を覚える理由でしょう。
 クルマを運転することなどない私でも、こんな感想を持つのですから、運転者の中には反発を感じる人も多い言葉遣いではないでしょうか。
 「検温で後悔していただく」という表現は、検温を受けたら後悔せよ、後悔したら引き返せという文脈でしょう。けれども、検温のような〝手段〟などとは無関係に、「県境を越えようとする人は 引き返していただく」と述べる方がすっきりするのではないでしょうか。

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2020年5月30日 (土)

ことばと生活と新聞と(99)

「とにかく家に居よう」という言葉の柔らかさ


 新型コロナウイルス禍と関連してと言うより、以前から広く使われてきた言葉に「自粛」があります。上の位置に立つ者が下に向かって要請したりするときに使い勝手のよい言葉であったからだと思います。外出自粛を要請する、などという言葉はしょっちゅう見かけるようになっています。けれども、私は「自粛」という言葉が使われ始めた頃から違和感を持ち続けてきました。
 「自粛」とは、自分から進んで行いや態度を慎むことを表す言葉です。自粛した本人が、「私は……を自粛している」などと言ったり書いたりすることはほとんどないのです。「自粛」という言葉は歴として存在しますが、その言葉を表に出して言ったり書いたりすることはほとんど無いと言ってもよいと思うのです。「自粛」というのは奥ゆかしい言葉です。
 心の中では「私は……することを自粛しよう」と決意して、それを実行しても、その行為を口にして、自慢たらしく表現することなどはしないものです。自粛する主体は、自分(私)という個人であるか、自分を含む何人かの集団であるのかの、どちらかでしょう。第三者に向かってそうすることを求めたり、自分を含む不特定多数の集団(例えば、町民や市民など)にそうしなさいと呼びかけたりすれば、その時には既に「自粛」という言葉の意味をはみ出してしまうからです。
 新型コロナウイルス感染者の拡大に伴って、外出をしないでおこうと呼びかけることは正しい行為であると思いますが、それを「外出の自粛を求める」というような表現をすることは、正しい言葉遣いではないのです。「外出をしないように要請する」とか「自宅にとどまるように求める」とかの表現をすべきでしょう。本人が進んでそうしようと思っていない事柄、あるいは、そうしようということに気付いていない事柄を知らせて、そうさせようという力が働いているのですから「自粛」の範囲を超えています。
 この言葉の、このような使い方が広がっていけば、国語辞典には、「自粛」の意味に、「他からの力を働かせて、そのようにしなければならないという気持ちを生じさせることを、柔らかく表現しようとするときに使う言葉」とでもいう説明を追加しなければなりません。
 キャッチフレーズのようにして「外出を自粛しよう」などという呼びかけの言葉が横溢する中で、神戸の三宮の商店街に掲げられた大きなメッセージの言葉にはほっとさせられました。
 次のような記事に、そのメッセージの写真が載せられていました。

 新型コロナウイルス感染拡大により緊急事態宣言が全国に出され、外出自粛が求められる中、神戸市中央区の三宮センター街で21日、「とにかく家に居よう」と書かれたメッセージが大型ビジョンに映し出されていた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月22日・朝刊、14版、1ページ、小川智)

 私たちの身の回りには漢字の熟語があふれています。「新型」「感染」「拡大」「緊急」「事態」「宣言」「外出」「自粛」…など便利な言葉ですが、硬くて、押しつけがましい言葉ばかりです。そんなときに、訓読する熟語でなく、音読して、熟語ではない言葉で表現しているのに出会うと、ほっと一息つけられるような気持ちになります。大和言葉というような言い方に該当する言葉でなくても、日常の話し言葉にあらわれる平凡な言葉の方こそ、心の中にはしっかりと届くように思われるのです。
 コロナウイルス禍に出会って、心に届きやすい言葉と、そうでない言葉があるということに気付いたり、人の胸に伝わりやすい言葉を磨くことを考えたりする機会が深まれば嬉しいことであると思ったのでした。

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2020年5月29日 (金)

ことばと生活と新聞と(98)

「金帰」はいつから「火来」になっていたのか


 「金帰火来」自民は変わる? / 金曜に地元に帰り 火曜に国会へ来る / 党の生命線 自粛 / 「小さな声拾えぬ」 若手は「ウェブでも」

 このようなたくさんの言葉が見出しになっている記事を見ました。本文には次のようなことが書かれています。

 国会審議を終えた金曜夜に地元に帰って会合に顔を出し、火曜朝に国会に戻る。古くから永田町で「金帰火来」と呼ばれるこの慣行は、特に地方組織を重視する自民党にとって生命線とされてきた。新型コロナウイルスの感染拡大で地元活動も制限されるなか、伝統も変化を迫られている。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月24日・朝刊、14版、4ページ、河合達郎・西村圭史)

 見出しを見て、おや? と思いました。「金帰月来」という言葉は知っていますが、「金帰火来」というのは初めて見たような気がしたのです。記者は、見慣れない言葉だろうと思ったのでしょうか、見出しに注釈の言葉を書いています。「金帰火来」という言葉が使われているのは、引用した見出しと、引用した文章の中だけで、他には使われていません。
 私が知っている言葉「金帰月来」は、単身赴任の会社員が、金曜の夜遅くに自宅に向かい、土曜・日曜の2日間を自宅で過ごし、月曜の朝早く自宅を出て勤務先に戻るという意味でした。その「金帰月来」がいつの間にか「金帰火来」に変化しているのに驚いたのでした。
 しかもそれが国会議員の用語になっているということも知りませんでした。国会議員の場合は、いつも東京に住んでいる人も少なくないでしょう。選挙区に「帰る」のではなく「出かける」という感覚ではないでしょうか。東京に「来る」ではなく「帰る」という感覚の人も多いでしょう。「金出火帰」とでも言うのがよいかもしれません。
 単身赴任の人こそ「金帰月来」です。「火来」というような暢気な会社員はいないでしょう。国会議員の場合に限って、交通が便利になっても、月曜から火曜へと、時間の余裕が増えたということのようです。
 記事には「古くから永田町で『金帰火来』と呼ばれるこの慣行」とありますが、国語辞典には載っていないようです。いつ頃から「金帰月来」が使われ始め、いつ頃から「金帰火来」に変化したのでしょうか。古くは国会議員(あるいは自民党議員)専門の用語ではなかったはずですが、今では議員活動のことだけで使われる用語になってしまっているのでしょうか。興味のある言葉です。

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2020年5月28日 (木)

ことばと生活と新聞と(97)

「シャープなマスク」は、どんなマスク?


 「シャープなマスク ネット販売へ / きょうから1人1箱」という見出しのニュースがありました。次のような文章です。

 シャープは20日、三重県の自社工場で製造したマスクを21日午前10時からネットで販売すると発表した。 …(中略)…
 パナソニックも5月末から、岡山県の工場でマスクの生産を始める。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月21日・朝刊、14版、6ページ、森田岳穂)

 作られたマスクが、するどい(鋭敏な)ものであったり、鮮明なものであったりする品物でないことはすぐにわかります。
 「シャープな」という言葉は、日本語の文法でいうと形容動詞の連体形です。「な」という活用語尾は、「…である(ような)」という意味をあらわすのが本来の用法です。
 ところで、この用例の場合は「シャープ(が製造した)マスク」という意味になっています。そういう意味を表す用法だとして、「パナソニックなマスク」とか、「日立な冷蔵庫」とか「東芝な電気機関車」とかの言い方が成り立つのでしょうか。それは無理でしょう。日本語において「パナソニックだ」「日立だ」「東芝だ」という言葉を形容動詞として認めるわけにはいかないからです。けれども、新聞社は強引にそのような言葉遣いをして、それを広めようとすることもあるでしょう。特に見出しの言葉遣いは乱れていますから。
 「シャープな」という言い方は形容動詞の連体形としての使い方が成り立つのですが、しかし、「シャープ(が製造した)マスク」という意味で「シャープなマスク」と言うのは、言葉遣いの洒落であるとして見過ごすわけにはいかないような要素も含んでいるように感じるのです。「シャープのマスク ネット販売へ」という表現よりも気のきいた言い方になっているとは感じられないのです。
 新聞社は記事の内容に間違いがあればお詫び・訂正を載せます。記事の扱い方や、切り込み方がそれでよかったかどうかということは常に反省・検討を加えられていることでしょう。けれども、日本語の使い方がそれでよかったのかどうかという視点は、軽く扱われているように感じられてなりません。新聞紙面にあらわれた表現が望ましいものであったのかどうかということを検討したような記事にお目にかかることは、ほとんど皆無と言ってもよいでしょう。
 なお、この続報(マスクの販売方法を抽選に切り替えるというニュース)の見出しは、
 「シャープのマスク 抽選に / 27日サイト再開 まず3万箱販売」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月24日・朝刊、13版S、6ページ、森田岳穂)
になっています。「シャープな…」はあっと言う間に消えた表現でありました。

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2020年5月27日 (水)

ことばと生活と新聞と(96)

地位や立場で人間は自己規制できない


 人はひとりひとり異なる存在であって、他の人と同じである人はひとりもいません。文字通り「かけがえのない」存在です。「余人をもって代えがたい」存在なのです。
 その「余人をもって代えがたい」という言葉は文学的な表現に過ぎなくて、現実に使われる言葉であるとは思っていませんでした。今年になって、その言葉が政治用語として使われましたが、このような言葉で表現される人間像は想像もできませんでした。他の人とは格段に違った人のことを、そのように言っているようですが、具体的なイメージはわきませんでした。そして、その「余人をもって代えがたい」人の後継者が、いとも簡単に決まるというのは、さらに驚きでした。
検察庁の黒川検事長がコロナ禍の自粛要請の中で、賭け麻雀をしていたことが明らかになりました。それについて書かれたコラムは、人々の胸の中をすっきりと表現した文章になっていました。コラムの末尾を引用します。

 命をかけて必死で働いている病院関係者の方々、誰の面会も許されず、病院でなくなった方もいるだろう、先行きが見えず自殺した方もいた。そんな状況の中で、悪いことを追及すべき立場の人間がなぜ、麻雀ができるのか教えて欲しい。事実を正しく報道すべき新聞社の方がなぜ? 怒りを通り越してなんだか恐怖さえ感じてしまった。それでも、小さな声をあげてゆきたい。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月22日・夕刊、3版、2ページ、「まういいか」、大竹しのぶ)

 名もない人が一生懸命に自分の職務を忠実に遂行しようと努力しています。大半の国民はそんな生活を続けているのです。そんなことに気付かない、ごく一部の人間がとんでもないことをしでかすのです。地位の高低や、その人の置かれた立場は全く関係がありません。平気で、自分の思いのままの行動をしてしまうのです。世の中には、ごくわずかながら、そんな人がいるのです。
 今回の事件を受けて、新聞社の社員に関することで、岡本順・朝日新聞社執行役員広報担当という名で、次のようなコメントが掲載されました。

 社員が社内でのヒアリングに対し、検事長との麻雀で現金を賭けていたことを認めました。新型コロナ感染防止の緊急事態宣言中であったこととあわせて社員の行動として極めて不適切であり、皆様に不快な思いをさせ、ご迷惑をおかけしたことを重ねておわびします。
 取材活動ではない、個人的な行動ではありますが、さらに調査を尽くし、社内法規に照らして適切に対応します。また、その結果を今後の社員教育に生かしてまいります。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月22日・朝刊、14版、1ページ)

 これは、忙しい中で書かれたもののようで、コメントとしての体裁が整っていません。前半部分は2文から成り立っていますが、1文目は「社員が……認めました」という事実です。2文目はこのような謝罪文の常套的表現を踏んでいるだけで誠意が感じられません。「新型コロナ感染防止の緊急事態宣言中であったこととあわせて」などという言葉は不要です。どんな場合であれ「社員の行動として極めて不適切」です。言葉を連ねて、印象を和らげようとしています。「皆様に不快な思いをさせ、ご迷惑をおかけしたことを重ねておわびします」というのは、ありきたりの表現です。「重ねておわびします」という言い方は、何に何が重なったと言うのでしょう。言葉が丁重になっているだけで、心持ちが伝わりません。
 コメントの後半も2文です。「取材活動ではない、個人的な行動ではありますが、」という言葉の真意がつかめません。新聞社の社員だけではありません。検事長も、職務に関わることではない、個人的な行動なのです。「個人的な行動」という弁明で、責任を社員個人に限定しようとする意図がうかがえます。「さらに調査を尽くし、社内法規に照らして適切に対応します」も、「その結果を今後の社員教育に生かしてまいります」も、事実にフタをしようとする意図が丸見えです。調査結果を読者にきちんと伝えるということを約束しているわけではありません。読者に対する謝罪コメントは、今回のものだけでお終いになる可能性もあるでしょう。
 結局、このコメントは、政治家が国民に向かって述べるような弁解と少しも変わっておりません。正義の味方のようなふりをして、威勢のよい言葉を振りかざす新聞社の姿勢は全く影を潜めているのです。
検事長については、ふだんの勤務状況、言動、人柄などがいろいろと報道されていますから、ある程度の察しがつきます。
 けれども、新聞社の社員については、個人名を隠して報道しています。この社員がこれまでどういう活動をして、この社員が書いたどのような文章を、読者が読まされてきたのかは、明らかにしていません。それを明らかにすることは新聞社としての基本的な責任でもあると思います。
 このような事件に新聞社の関係者が関わっているということは驚きでした。新聞社はそんな方法も取りながら取材を続けているのでしょう。個人的な結びつきということで一蹴してしまえない、恐ろしい世界であるようにも感じました。

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2020年5月26日 (火)

ことばと生活と新聞と(95)

「200字まとめ作文」とは何か


 日常生活においては、文章でもスピーチでも、制限が設けられます。文章なら、例えば600字以内でお願いしますとか、スピーチなら例えば3分以内でお願いしますとかの制限です。紙面全体の編集をしている人にとっては、ある一人から1500字も2000字もの文章を提出されたら困ります。守るべきです。会合の司会進行に当たっている人にとっては。ある一人のスピーチが10分にもなったら困ります。要請されたらその通りになるように努めるべきです。
 けれども、600字以内というのであるから50字で出しておこうという人もいますし、20秒でスピーチを終える人もいます。これも、要請されたことをわきまえない人のすることです。ものには程度ということがあります。
 教育の場面で言うと、作文の字数制限ということがあります。例えば一例を引用します。
 「清水章弘さんの200字まとめ作文」というタイトルの記事があります。趣旨として、次のように書かれています。

 これからの学びでは、異なる視点の文章を読み比べ、自分の意見をまとめる力が求められます。多様な論者3人の意見を掲載する朝日新聞オピニオン面の企画「耕論」を活用し、ニュースを多面的・多角的にとらえ、関連記事を読んで興味・関心の幅を広げましょう。共感する論者1人を見つけて、自分の意見を加えて200字にまとめ、記述力を高めましょう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月24日・朝刊、「EduA」7ページ、「清水章弘さんの200字まとめ作文」)

 「異なる視点の文章を読み比べ、自分の意見をまとめる」ことは大切なことです。言葉の指導の大きなテーマです。けれども、実際の指導はどうなっているのかと思って読み進めると、驚くような展開になっていました。
 この紙面では「高校3年生・男子の作例」というのが紹介されています。「耕論」のページには1000字以上の文章が載っています。その主張に、自分の意見を加えて、200字にまとめるということを、高校生ができると考えているのでしょうか。もちろん、そのようなことは高等学校の国語科の大きな指導の内容になります。問題点は、それを200字にまとめよという、暴挙のような指導です。
 「高校3年生・男子の作例」は実際の高校生が書いた文章なのか、筆者が作り上げた文章なのか、わかりませんが、その内容は新聞に掲載された文章(このページに掲載されているもの)を読んで書いたものとは思えません。文章の一端にすら触れていません。普段の自分の思いをまとめた文章になっています。
 筆者の意見をきちんと理解させた上で、自分の考えをまとめさせるというのが出題の意図ではありませんか。「作例」はそういうものになっておりません。こういうものを模範的な(あるいは、標準的な)作文として提示してはいけません。この作例に対して述べられている「よく書けています」、「好印象を受けました」、「表現の工夫も見られます」という褒め言葉がうつろに響きます。自画自賛の趣を感じます。
 筆者の意見を理解して、自分の考えをまとめることを、200字でせよというのは無理な注文です。できるはずのないことを要求して、筆者の意見などは読まずに自分の意見を述べさせて、「共感する論者1人を見つけて、自分の意見を加えて200字にまとめ」ることができたのだと思わせる指導そのものが間違っているのです。こういう指導では、相手の意見に耳を傾けるという指導にはなっていません。200字でそんなことができると考えて、高校生にさせたことがおかしいのです。
 いったい、生徒を指導する際に、字数制限はどういう意味があるのでしょうか。端的に言えば「200字」がどれほど重要なことなのでしょうか。採点の際には、200字と指定したのであるから、150字より短くなってはいけないとか、200字をたとえ1字でも越えてはならないというような基準を設けることがありますが、そんなことは重要なことでしょうか。そもそも、200字というのは出題者が勝手に決めたことに過ぎません。
 入試問題でも何でもよろしいが字数制限の文字数はさまざまです。200字も、500字も、1000字も、2000字も出題者の意図に過ぎません。時には、解答用紙のスペースで880字以内などという半端なものもあります。
 入試問題に答える場合は、評価してもらうために、指示されたとおりに書かざるを得ませんが、出題者の勝手な判断に従わなければならない解答者を可哀想だと思うこともあります。
 高校生に普段から200字というような短い文章を書かせ続けることには弊害があります。200字程度で書くことは小学生でも行います。内容の程度差はありますが、そんな短い文章を書かせることだけで終始しないでください。200字で書く練習を続けたから、200字以外の文章が書けなくなるとは思いません。けれども、文章は短くてもよいのだという先入観だけは確実に生まれてくるでしょう。
 このページに載せられていることは、高等学校の国語教育の現場とはかけ離れています。高等学校の教室では200字というような制限文字数に対応するための指導もしていますが、そんな程度のことを国語教育の表現指導でいつも行っているわけではありません。高等学校の学習指導要領をよくお読みください。国語教育がどのように行われているかということを認識した上で、役に立つ指導法を披瀝していただきたいと思います。
 もちろん「EduA」というページは、教育を本質的に考える企画ではありません。私立中・高校入学の宣伝企画であり、朝日新聞の記事を読ませるための宣伝企画です。けれども、小学校、中学校、高等学校の学習指導要領を無視して、受験指導一色になってよいとは思いません。

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2020年5月25日 (月)

ことばと生活と新聞と(94)

これは「3密語」なのでしょう


 一時的に使われてすぐに消えていく言葉を「流行語」と言い、ごく近い人たちの間でしか通用しない言葉を「隠語」と言います。言葉の中には、それよりももっと狭い範囲でしか通用しなくて、生まれてすぐに消えていくものがあります。そんなものは記録しておく価値もありません。けれども、そういう言葉を堂々と書き連ねる文章もあります。今はやりの言葉になぞらえて言うと「3密語」とでも言っておけばよい言葉です。ごくごく僅かの人たちでしか通用しない言葉です。
 こんな文章がありました。

 いつもはナレーションの壇蜜がサウナを愛でる。いっしょに愛でるのはサウナー(サウナ愛好家)のさうな姫と、おのののかの今夜は女性スペシャル。
 まずは男子禁制の「ルビーパレス」(東京・大久保)へ。石に水をかけて水蒸気を発生させる「ロウリュサウナ」で熱風を受けとめた3人は全身玉の汗。そして水風呂に入って休憩。この〈サウナ室→水風呂→休憩〉をセットにして繰り返し、リラックス状態に到達することを「ととのう」という。渋谷の「改良湯」へとハシゴした3人はすっかりととのった。壇蜜からは世界平和?を願う言葉も出て、お顔も菩薩のよう。
 今は3密(密閉、密集、密接)を避けるため、サウナーには受難の時だが、せめて今宵はいっしょにととのいたい。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月14日・朝刊、14版、30ページ、「試写室」、都築和人)

 見出しは「女性サウナーがととのう」となっています。「ととのう」をこのような意味で使うのは、誰かが勝手に使い出したもので、すぐに消えてしまうことでしょう。密接につながった人たちの間だけで、一時的に通用する言葉でしょう。放送や新聞に関わる人の中には、そんな言葉を使って、それが広がればよいと考えて、無責任に言い広める人もいるのでしょう。「3密語」で終わってしまっても、それはそれでよいと考えている人がすることなのでしょう。

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2020年5月24日 (日)

ことばと生活と新聞と(93)

「発令」を避ける思惑


 緊急事態宣言の「発出」については、この連載の(52)回に書きましたが、発令か発出かということについて書かれた記事がありましたので、改めて書くことにします。

 新型コロナウイルスの感染拡大防止をめざして政府が出した緊急事態宣言は「発出」なのか、「発令」なのか--。国や各自治体の言葉使いが分かれている。辞書などを読むと「出」にはフラットな語感、「令」には上意下達の趣も漂う。混在する表現に、宣言をめぐる微妙な立ち位置の違いも垣間見える。 …(中略)…
 ハッシュツ。広辞苑第7版(岩波書店)は「あらわれること、あらわすこと、おこすこと」とし、新明解国語辞典第7版(三省堂)には「役所などから通達などを出すこと」と説明。辞書ごとに解釈が異なる。 …(中略)…
 内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室の担当者は「『発出』も『発令』も法令上の表現ではない」と説明する。宣言の根拠となる特措法の条文には「(政府対策本部長=首相は)宣言をし……」「宣言がされたときは……」などとあるだけだ。 …(中略)…
 コラムニストの小田嶋隆さんは「発令」を使うべきだとの立場だ。緊急事態宣言がひとりでに出てきたような語感になり、宣言を出す主体の責任の所在があいまいになる--と考えるからだ。 …(中略)…
 自治体は「発令」を使っているところが少なくない。兵庫県では主に「発令」という言葉を使っている。県のホームページでは「緊急事態宣言が発令されました」。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月15日・夕刊、3版、9ページ、笹山大志)

 この記事の見出しは、
緊急事態宣言の表現に違い / 発令 自治体「県民になじみ」 / 発出 政府、 命令長を避ける? / 覚悟のなさ表れか
となっています。
 「発出」という言葉は場違いな表現ではないと思いますが、政府(首相)が責任を持って出し、覚悟を決めて政策を遂行するのなら「発令」の方が引き締まると思います。一律10万円給付のことで予算案を改めたり、マスクの配付もまだ国民のごく一部にしか行きわたっていないことなど、政府のいい加減さが目につきます。責任や覚悟の欠如が、他人事のような「発出」という言葉にあらわれていることを痛感するようになりました。
 本当は、「発出」「発令」のどちらを使おうと、大きな差はありません。けれども意図的に「発出」を使ったのだと聞かされたり、政策の無力さを感じたりすると、わざと「発出」という使い慣れない言葉を用いたのではないかと勘繰りたくもなります。
 「発令」という言葉が気になるのなら、元号に「令和」という文字を使ったことの方こそ、もっと気にすべきだと思います。提案者はともかくとして、「令和」を選んだのは誰であるかということは明確になっているのですから。
 なお、「特措法の条文には『宣言をし……』『宣言がされたときは……』などとあるだけだ。」という記事の文章に注目すれば、「発令」「発出」などの言葉を使う必要はなく、「緊急事態宣言をした」と言えばよいのです。
 報道関係者が「する」「出す」のような和語を使うことに満足せず、「発令する」「発出する」のような漢語を使う癖になっているところこそ改めるべきだと思います。新聞や放送の文字遣いがやさしくなり、外来語を使うことも少なくしていけば、政府や自治体の発表する言葉もやさしくなっていくのではないでしょうか。

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2020年5月23日 (土)

ことばと生活と新聞と(92)

「文化住宅」は、東京での使い方だけが正規のものであると言えるのか


 大正から昭和にかけて使われたという「文化住宅」という言葉は、例えば『広辞苑・第4版』では次のように説明されています。

 ①大正後半期から昭和前半期にかけて建てられた、生活上、簡易・便利な新形式の住宅のこと。
 ②住宅形式の俗称の一。分譲・賃貸の目的で建てられ、木造二階建てで規模が小さく、多く相接して建てられる。

 この説明に異議はありません。新聞コラムにある「『文化住宅』『文化包丁』など『文化』ということばが威力を持ちました」という説明のうち、「文化住宅」は「文化」ということばが威力を持ったとは言いにくいと思います。威力を持った言葉が「文化包丁」以外にあれば、例示してほしいと思います。「文化映画」や「文化人」という言葉がそれに該当するとは思えません。「デラックス」や「プレミアム」に比べたら、訴える力の弱い言葉であると思います。
 こんな文章があります。

 関西では、木造賃貸アパートのことを俗に「文化住宅」って言いますよね。 …(中略)…
 文化住宅の家主さん数人に聞いてみると、建てたのは1950年代半ばからという。 …(中略)…
 なぜ「文化」と名づけたのか。「当時のアパートは、設備が共用。それに比べれば文化的な暮らしができるからかな」と家主さん。いまもあって「近所づきあいがしやすい」と人気は高いそうだ。 …(中略)…
 往時は大阪府だけで30万戸とされ、豊中、門真、寝屋川などに多かった。62年11月6日付朝日新聞では入居心得を特集したほど。 …(中略)…
 関東で文化住宅とは、和洋折衷住宅を指す。22年に東京・上野で開かれた平和記念東京博覧会に出品された住宅群がそのはしり。当時もてはやされた文化という言葉をもじったという。
 大阪教育大教授の岸本幸臣さん(64)=住居学=は、関西と関東で文化住宅のイメージが違うことを、こんなたとえ話でしてくれた。
 関西の大工さん「いま、文化住宅、施工してますわ」
 関東の大工さん「そりゃハイカラな仕事ですな」
 関西の大工さん「??」。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2004年7月2日・夕刊、3版、3ページ、「ほんま?関西伝説」、藤井匠)

 この「文化住宅」を『三省堂国語辞典・第5版』は次のように説明しています。

 ①(西洋ふうの)しゃれた感じの、便利な小住宅。
 ②〔方〕〔大阪などで〕二階だてで玄関つきの、木造アパート。

 東京集まっている国語辞典の編纂者たちには、強い思い込みがあります。その言葉の意味や用法が、地域によって異なる場合は、東京での使い方が正統的な使い方であると判断して、東京以外での使い方を〔方〕=「方言」と断じようとするのです。意味・用法等が2つ以上に分かれている場合、(1)どちらが古くからの使い方であるのか、とか、(2)どちらの使い方の頻度が多いのか、とかの観点を無視して、東京以外での意味・用法を「方言」と見なしてしまうことです。そんな思い込みだけで、国語辞典を作ることは避けてほしいと願っております。
 「文化住宅」という言葉は、大阪だけで使われている言葉ではありません。関西一円に残り続けている言葉であろうと思います。意味の説明も、『広辞苑』では木造二階建て(一戸建て)に思われますが、『三省堂国語辞典』は二階建てアパート(集合住宅)を意味しているように見えます。新語をどしどし取り入れることも大事でしょうが、古くから使われている言葉を正しく説明をしておくことも大事なことです。

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2020年5月22日 (金)

ことばと生活と新聞と(91)

「プレミアム」という言葉


 新型コロナウイルスとの戦いの初期段階で、隅田川の屋形船での会合をめぐって東京都が発表したことが社会に誤解をもたらしたという、詳しい記事が新聞紙面の2ページ分を使って書かれました。
 その記事には「プレミアムA 東京100days」という題目が付けられていますが、この題目について、同じページで次のように説明してあります。

 よりすぐりのニュースやルポルタージュを、紙面とデジタルを駆使して伝える「プレミアムA」。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月17日・朝刊、14版、1ページ)

 この文で見る限り、「プレミアム」と名付けた理由にあたる説明は、「よりすぐりの」ということであるようです。「よりすぐり」というのは、言うまでもなく、「多くの中から、特にすぐれているとして選び出されたもの」というような意味でしょう。
 ところで、「プレミアム」という言葉の意味は、概して、〈額面以上の価格で発行されたり売買されたときの、額面を超えた金額〉とか、〈入場券などを正規の額以上で売買するときの、上乗せされた金額〉とかの意味です。「すぐれたもの」という意味は比喩表現などとして付け加えられた意味でしょう。
 言葉のコラムで、この「プレミアム」を話題にしている文章がありました。

 NHKラジオの朝の番組で8年続いた「すっぴん!」が3月で終了します。私も何度か呼ばれ、ことばについてのトークを楽しみました。
 ある回では、時代のバスワード(強い印象のあることば)を取り上げました。たとえば、1970年代の広告に〈欧米のおくさまのように〉とあります。「欧米の奥様」が主婦の手本だった時代です。
 50年代から60年代には「デラックス」がパスワードで、多くの商品名に使われました。さらに古く、大正から昭和初期には「文化住宅」「文化包丁」など「文化」ということばが威力を持ちました。
 そんな話をしたら、担当の藤井彩子アナウンサーが「今なら『プレミアム』ですかね」。言われて初めて気づきました。商品名以外にも、「プレミアムトーク」「プレミアムドラマ」など、多いですね。
 「プレミアム」には「高級な」のほかに「賞品」「景品」などの意味もあります。プラスアルファのお得感が好まれるのでしょうか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月7日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 記事に添えられて、「プレミアムな体験を レンタカーで気軽に。」という文字が書かれた写真が載せられていました。
 「プレミアムトーク」にしろ、「プレミアムドラマ」にしろ、「プレミアムな体験」にしろ、何がどうプレミアムなのかという実感はわきません。言葉だけをもてはやしている感じです。それはちょうど、「きちんと説明します」「わかりやすく解説します」「納得していただけるようにお伝えします」などという政府発表の言葉と同様で、何の具体性も届けてくれない言葉です。宣伝文句に使われているに過ぎないのです。
 なお、上記引用文で話題になっている「文化住宅」については、次回に書くことにします。

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2020年5月21日 (木)

ことばと生活と新聞と(90)

虚偽の言葉に辞書編集者が加担する

 アナゴを上手に料理して、工夫してウナギに見せかけて売ったら、それは明らかに犯罪でしょう。値段がいくらであっても許されることではありません。細く小さいウナギ、小形のウナギを「めそ」と言いますが、小さいアナゴを「めそ」と言って売るのは同じことでしょう。
 言葉を拾い上げる人は、そんなことも肯定的に扱い、その用例を見つけたことに至上の喜びを感じているようです。
 こんな文章がありました。

 人気のアナゴ専門店の看板に〈めそ 1、800円〉と見慣れないことば。「めそ」って何だろうと思ったら、下に説明がありました。アナゴの小ぶりの成魚で、小骨が気にならず、柔らかいとのこと。
 大きな国語辞典に「めそ」の項目はありますが、細く小さいウナギ、小形のウナギとあるだけで、アナゴについては言及がありません。私は新情報を得たことになります。 …(中略)…
 取り繕うようですが、アナゴの「めそ」はおいしく、とても満足したことを付け加えておきます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月16日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「めそ」を食べて「おいしく、とても満足した」というのは、言葉の使い方とは何の関係もありません。
 文章中に、「細く小さいウナギ、小形のウナギとあるだけで、アナゴについては言及がありません」と書いていますが、それは当然でしょう。アナゴのことを「めそ」と言うことなどは誰も考えなかったのです。このアナゴ専門店の良心は、下に説明を書いていたことですが、それでも、アナゴを「めそ」と称したのはよくない行為です。ウナギ専門店で、細く小さなアナゴを「めそ」と言って売れば、歴とした犯罪になります。
 『日本方言大辞典』には、関東から中部地方にかけて、この言葉が使われていることが記載されています。語の形も「めそ」「めそうなぎ」だけでなく、めそっこうなぎ、めめそ、めそっこ、めそろ、めそろく、めせ、めっせー、めせん、めっせん、めせら、めせれっこ、めせろ、めせろく、めせろっこ、めすら、めしら、めしろっこ、などの言葉も並べあげられています。
 これは、人気のアナゴ専門店だからと言っても、許される行為ではありません。世間で広く使われている言葉を悪用した行為であるかもしれないのです。国語辞典編纂者がそんなことに便乗してはいけません。
 たった1例だけ見つけて、それを「私は新情報を得たことになります」と、大発見にあたるように書くのはこの筆者の特徴ですが、この記事は虚偽を宣伝しているようなものです。国語辞典編纂者の姿勢としては、幾つもの例を収集した後にこそ、その報告文を書くべきです。たった1例だけを取り上げて、得意な顔を見せないでください。「街のB級言葉図鑑」には近頃、このような荒っぽい文章が増えてきました。種切れが近づいているのでしょうか。
 はっきり申しましょう。この記事は取り消すべきです。お詫びの言葉が必要であることは言うまでもありません。私は「街のB級言葉図鑑」で取り上げられた言葉について、感想や批判を何度も書いてきました。その度に新聞社にも送り続けてきましたが、馬耳東風でした。筆者が何を書こうと勝手であるという姿勢で貫かれているように思えます。

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2020年5月20日 (水)

ことばと生活と新聞と(89)

「2名様」とは言ってほしくない


 友達と2人で喫茶店とか食堂に入ると、「2名様ですか」と言われることがあります。2人であることは見ればわかるだろうにと思います。後から誰かが現れて3人や4人になるのだったら、それにふさわしい席を用意しなければならないと配慮してくれているのだろうかとは思います。けれども、そんな場合は、自分の方から、「後から1人来ますから、3人の席にしてください」と頼むのが普通です。
 「2名様」という言い方が多くて、「おふたり様」という言い方を聞くことは多くないように感じています。
 私はこの「〇名様」という言葉を聞くのが嫌です。「〇人様」と言ってほしいと思っているのです。そんなことは気にしない、同じことではないかと言う人もいますが、私は、ずいぶん違うように思っているのです。「様」が付いていますが、「〇名」は見下げた感じが拭えません。
 「おひとり」「おふたり」と数えるのは敬意を込めた言い方です。「おさんにん」とは言いますが、4人になるとちょっと困ります。「おひとかた」「おふたかた」とも言いますが、これも3人以上になると困ります。このような言い方で多人数でも通用する言い方があればよいのですが、それは無理でしょう。
 「〇人様」には違和感がありませんが、私は「〇名様」に拒否反応があります。
 何人もの名前を並べあげて、「以上15名、代表〇〇〇〇」というような言い方をすることがあります。単に人数を数えるとか、名前を並べあげるとかの働きをして、敬意を省略した言い方のように感じられます。店先で「〇名様」と言ってほしくないと思っているのです。
 チェーンの店では接客マニア.のようなものがあって、言い方を指導しているのかもしれませんが、それなら「〇人様」に改めてほしいと思います。けれども、「〇名様」を聞くのはチェーン店だけではありませんから、これは社会に既に広がっている言葉遣いであるのかもしれません。

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2020年5月19日 (火)

ことばと生活と新聞と(88)

外来語で長く表示して、それを短くちょん切る


 日本語で短く表現できるのに、わざと外来語で表記するということが行われています。そして、その外来語表記を短くちょん切るということを新聞は日常茶飯事としています。嘆かわしいことを新聞が率先して行っているのです。
 一例を引用します。

 「ゲーム依存層」「条例にについて」--。子どものゲーム利用時間を定めた香川県ネット・ゲーム依存症対策条例へのパブリックコメント(意見公募)で、賛成意見の中には、同じ誤字のものが複数あった。朝日新聞が情報公開請求で入手した文書でわかった。
 条例は議員提案で成立し、1日に施行された。パブコメは2月6日までの15日間実施され、2269件の賛成意見や、401件の反対意見が寄せられた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月16日・朝刊、14版、25ページ、平岡春人・長妻昭明)

 僅かこれだけの長さの文章に、「パブリックコメント」「意見公募」「パブコメ」という3種の言葉が使われています。この3つの言葉が同じものを表していることは誤解なく伝わりますが、どうして3種の言葉を使う必要があるのでしょうか。
「意見公募」という言葉で表現できるものをわざわざ「パブリックコメント」と言わなければならないのでしょうか。新聞は文字数を短くしたいという欲求があって、それを「パブコメ」と言っているのです。
 「意見公募」と「パブリックコメント」との間に語感などの違いはあるのでしょうか。条例制定に関して県民の意見を聞いたということですから、「意見公募」でじゅうぶんです。「パブリックコメント」という言葉は新聞社が選んだ言葉なのか、香川県が使ったのをそのまま使ったのかはわかりません。たぶん、後者であろうと思います。けれども、「パブコメ」は新聞社がちょん切った言葉でしょう。
 国や地方自治体が使う言葉に外来語が多すぎるということが指摘されています。「意見公募」と言うと、旧来のやり方のように見えます。「パブリックコメント」と言うと、何か新しいやり方が加わったように聞こえます。けれども、それは単に印象の違いだけでしょう。
 もし、外国で行っている「パブリックコメント」というものが、国内で行われていた旧来のものとは違った要素が含まれていて、そのことを明確に示すなら「パブリックコメント」という言葉には意味があります。けれども、そうでないのなら「意見公募」でじゅうぶんです。
 「意見公募」は、条例制定までの日程の一つとして設けられているもので、その意見が条例内容を左右する力などになってはいないでしょう。けれども、それが近代的・民主的なものであるという印象を与えるためにカタカナ外来語を使ったに過ぎないでしょう。自治体の政策です。
 新聞社は地方自治体が使う言葉をそのまま受け売りのように使う必要はないと思います。そのまま使うことによって、批判力のない記事のように見えてしまうこともあります。

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2020年5月18日 (月)

ことばと生活と新聞と(87)

「舶来」も「洋行」も「上京」もなくなる言葉?


 戦後すぐの昭和20年代の頃は「舶来」という言葉が輝いていました。舶来の時計を持っているというのは、一つの誇らしいことであったようです。「舶来」という言葉は、品物だけでなく、斬新なものの考え方を「舶来の考え」などというように、比喩の表現としても使っていました。
 時は流れて、優れた国産品が作られるようになると、時計も服飾品も電化製品も何もかも、舶来という輝きが失われていきました。店の看板などに「舶来」という言葉が残っていると、置き忘れたもののように感じられるのです。
こんな文章がありました。

 シャッターの下りた店の目立つ商店街を歩いていました。そこに、文字の消えかけたこんな看板が。
 〈舶来有名ブランドの店〉
 「舶来」。最近あまりお目にかからなくなったことばです。
 『三省堂国語辞典』第7版を引くと、「舶来」とは〈①外国から船で(持って)来ること。②外国製(品)〉とあります。そのとおりですが、ことばのニュアンスを十分に伝えていない気もします。 …(中略)…
 単に外国製品というだけでなく、欧米の憧れの高級品、というニュアンスを含んだことばでした。 …(中略)…
 そう言えば、「洋行帰り」ということばも聞かなくなりました。海外渡航が特別だった時台は、もうはるか昔です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月11日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 書かれている内容に同感です。「舶来」という言葉の輝かしさはなくなりました。「外国製品」という言葉は単に生産地を表現する言葉に過ぎません。海外に出かけることは「洋行」というような大げさなものではなくなりました。「外国旅行」と言えばよくなりました。
 外国だけではありません。日本国内も同様です。首都・東京へ出かけることを、晴れがましく「上京」と言いました。京都へ行くことは「上洛」です。新型コロナ感染拡大で、都道府県を超えた移動は自粛してほしいと言われる時代です。東京や京都へ出かけることはちょっとした移動に過ぎません。「舶来」も「洋行」も、「上京」も「上洛」も、数十年後には日常語ではなくなっていることでしょう。
 それと引き換えに、日本全国どこへ行っても似たような都市風景になってしまっているでしょう。同じように、世界の都市も似たような風貌を持つものになってしまっているかもしれません。
 言葉の変化は、文化の変化であるとともに、人々の心の中の変化でもあるのです。言葉が消えていくのは、「ニュアンス」が失われたというようなことではなく、人々の心が奥底から変わっていってしまうことであるのかもしません。

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2020年5月17日 (日)

ことばと生活と新聞と(86)

右肩上がりなど続くはずはない


 地球の歴史は、何千年という単位で見ても、何万年という単位で見ても、何億年という単位で見ても、右肩上がりというような形で進展してきたものではありません。
 けれども、その地球上に住んでいる人たちは、主として経済的な観点から、右肩上がりの発展ということに価値を置いてきたように思います。それはここしばらくの間のことかもしれません。千年前の地球上の人たちは、そんな価値観を持っていなかったかもしれませんが、今の人たちは、右肩上がりが当然であり、そうならなければならないと考えているようです。大きな誤解だと思いますが、政治・経済などの世界はそんな考えに支配されてしまっているようです。
 日本の人口は何千万人という時代が続いたと思いますが、1億をかなり超えていても人口減少を懸念しています。主として経済的な面からの議論です。貧しくなってもいいではないですか。ゆったりと穏やかな気持ちで人生を過ごしていけばよいのです。
 今回の新型コロナウイルスの災難は、右肩上がりの、経済優先の(金儲け一辺倒の)考えに大きなブレーキを与え、人間の生き方を考え直す課題を与えてくれているように思います。最近の社会で形成されてきた価値観や生き方の類型を脱して、もっとシンプルな生き方を選ぶようにということを教えてくれているように思います。
 けれども、そんな課題が与えられた時は、これまでにもありましたが、人間は(あるいは、日本人は)考えたことをすぐに忘れてしまうという習性を持っているようです。
 倉本聰さんの本を読んでいて、こんな言葉に出会いました。福島原発事故について書かれたものです。

 「覚悟」という言葉を今考える。
 我々はこの不幸な大事故後の人間生活のあり方について、大きな岐路に立たされている。
 一つの道は、これまで通り、経済優先の便利にしてリッチな社会を望む道である。 …(中略)…
今一つの道は今を反省し、現在享受している便利さを捨てて、多少過去へと戻る道である。 …(中略)…
 以上二つの選択の道を宮津市の講演会場で問うてみた。
 その日の講演会場は800の客席が満員。1階が一般市民。2階が全て高校生だった。まず一般市民にのみ問うてみた。
 何と90%が、過去へ戻る道。
 一寸驚いた。
 次に高校生たちに問うてみた。一般市民が首をめぐらし、2階席を仰ぎ見た。
 70%が、今の便利を続ける道。30%が便利を捨てる道。静かなどよめきが一般市民から起きた。
 (倉本聰、『ヒトに問う』、双葉社、2013年11月10日発行、24ページ~26ページ)

 高校生が「今の便利」や発展を求めるのは当然でしょうが、一般市民の大多数が「過去へ戻る道」を選んだということに、私は頷きました。そうであってほしい、そういう生き方をしたいと思いました。これが関西の宮津という町の人たちであるというのは嬉しいことでした。東京在住の一般市民に尋ねたら、もっと違った結果であるでしょう。東京を賄う原発を東京以外の場所に作っているのですから、生き方の姿勢も違うだろうと推測するのです。
 新型コロナウイルス感染拡大に伴って都道府県を超える移動の自粛が要請されています。5月12日に水戸の偕楽園が久しぶりに開園したというニュースをテレビで見ました。入園した婦人を映して、「どちらから来られましたか」という問いかけに「神奈川県から」と答えていました。自粛などお構いなしに行動する人と、それを映して放送するテレビ局の行動に、何の反省心も感じられませんでした。個人の勝手であり、放送する側の勝手であるという様子でした。
 ちょっとした不便さに耐える力をなくしたり、周囲の人の言葉に耳を傾けなくなったりしたら、ぎすぎすした生き方になります。個人の判断というのと、手前勝手というのとは異なるものです。
 しばらく力を合わせて辛抱した後に、小さな喜びがおとずれてくるというのは嬉しいことではありませんか。人生の喜び、生きがいというのはそういうものではないでしょうか。コロナ禍を機会に、生き方を考え直したいと思います。そして、それが一過性のものとして忘れ去られないようにと願っています。右肩上がりや金儲け第一というような指標をきっぱりと忘れ去って…。

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2020年5月16日 (土)

ことばと生活と新聞と(85)

「前広に検討する」という表現の二重性


 新型コロナウイルス感染拡大で教育機関の休校状態が続いています。にわかに学校制度の改変のことが話題になりましたが、それは政治レベルのことで、学校教育の実際の姿を深く知っていない人たちの議論のようにも見えます。日本教育学会も稚拙な改変に大きな疑問を投げかけています。
 だいたい、首相の演説や答弁は、いつも決まり切った言葉の羅列です。「しっかりと確保する」という言葉を聞いても、どのような確保の仕方であるのかわかりません。「最大限の努力」も中身の乏しい言葉です。「拙速な議論は避け」てどのように議論を深めるのか、イメージはわきません。
 とりわけ、9月入学が話題になって、「前広に検討していく」という言葉が登場しています。「前広に9月入学を検討する」という表現を何度も聞きました。これも言葉をセットにして使っているようです。
 新聞に載っている「会見要旨」を引用します。

 【学校の9月入学】
 --9月入学の是非をどう考えているのか。
 首相 子どもの学びの場をしっかりと確保していく。大きな差が出ないように最大限の努力をしなければいけない。9月入学は有力な選択肢の一つだ。前広に検討していきたいが拙速な議論は避けなければいけない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月15日・朝刊、14版、23ページ、「安倍首相 会見要旨」)

 「前広に検討する」という言葉を初めて聞いたときは、これからゆっくりと時間をかけて、さまざまな視野から考えを深めていく、というような意味だろうと感じました。「前広」という言葉が辞書でどのように説明されているのかどうか知りませんが、そのような語感を持っている言葉だろうと思ったのでした。
 私自身が使うことなどはない言葉ですが、小さな国語辞典にも載っているのだろうと思っていました。ところが、『明鏡国語辞典』『岩波国語辞典・第3版』『新明解国語辞典・第4版』『現代国語例解辞典・第2版』には載っていませんでした。
 『三省堂国語辞典・第5版』には、次のように書かれていました。
   まえびろに〔前広に〕 (副)〔方〕まえもって。あらかじめ。
 〔方〕というのは、方言という意味です。
 『広辞苑・第4版』には、次のように書かれていました。
   まえびろ【前広】 以前。まえかた。
   まえびろに【前広に】 〔副〕あらかじめ。前以て。
 これらの辞書に書かれている意味で解釈すると、「前広に検討していく」とは、9月入学を最終的に決めるに当たって、前もって(予め)方向性を決めて検討していく、という意味になりそうです。これからゆっくりと時間をかけて、さまざまな視野から考えを深めていく、というような方法とは正反対の、結論は決めているのだが、前もって検討するような姿勢だけは見せる、というような意味になりそうです。
 方言という注記もありますから、『日本方言大辞典』を見ると、次のように書かれていました。
まえびろ【前広】①田作業の時に付けるわら製の前垂れ。新潟県佐渡
②烏賊漁の時、ひざの上を覆うとま。島根県隠岐島
          ③前もって。あらかじめ。新潟県。兵庫県淡路島。長崎県壱岐島
 ③の新潟県には用例が書かれています。「まえびろにお話があれば又何とか方法もあったのですが」という用例です。早急に決めてしまって後になったら話を聞かないという、どこかの内閣がやりそうな方法と酷似しています。
 「前広」という言葉は、将来の姿勢(これから検討するということ)を示す言葉ではなく、既に方向性を持たせてしまっている場合に使われる言葉のようです。「前広に」という首相の言葉は、一見開かれた姿勢を見せるようにしながら、決めたら最後まで動かないという、二重の意味を持つ言葉であるようです。
 取材している記者の方々は、首相の言葉だからそのまま伝えるということではなく、それはどういう意味を持つ言葉であるのかということを吟味し、時には首相に質問をしてただすという姿勢も必要ではないでしょうか。

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2020年5月15日 (金)

ことばと生活と新聞と(84)

画面上部の流れる情報はキャッチできるか


 新型コロナウイルスの感染拡大に関連して、多くの情報が伝えられています。ニュースとして伝えられる他に、NHK総合テレビでは、画面左端と上部にその情報が文字として書かれています。
 自然災害が起きたときなどにも、このような情報はありましたから、その手法は当然のこととして行われています。そうするのが便利だと考えているようです。
 ところで、この情報は視聴者にきちんと伝わっているのでしょうか。はなはだ疑問があります。テレビの画面の大きさに関係なく、その時に流されている番組と、上部の情報の両方に注意を注ぐことは不可能です。例えば、ニュースの番組のときは、そのニュースの内容に注目していますから、上部の情報を見る気持ちは起こりません。たとえニュースの内容が新型コロナに関することであり、上部に流れている情報が同じく新型コロナの関することであってもです。
 画面の左端(縦書き)の文字は大きく、同じ文字が長く表示されていますから、瞬時に文字を認識できます。画面の上部(横書き)の文字は小さく、しかも、刻々と文字は流れて、次々に新しい情報に変わっていきます。たまたま、ある瞬間に、自分に必要な情報が流れていると思ったときには注目しますが、流れる文字を次々と見続けることはありません。画面の番組に注目するのです。
 なぜ、このような文字情報を流し続けるのでしょうか。そのような情報も流したということを証拠立てておかなくてはならないのでしょうか。そもそも、番組の画面を狭めて、こんな情報を流し続けていることに、苛立たしさを感じている視聴者も多いことと思います。ただし、緊急の情報はその限りではありません。地域的な情報であっても、緊急のものは画面上部に流せばよいと思います。いつもいつも流し続けていると、見る気持ちが起こらず、大事な情報も見落とすことになります。
 画面上部に流していた情報は、例えば2~3分間の番組にすればよいのです。NHKテレビは、番組のCM時間が増えています。その番組CMを割愛して、情報(主として地域に密着した情報)を伝えればよいのです。NHK側の都合ではなく、視聴者の側に立った画面作成をしてほしいと思います。いつになったら、こんな左端や上部が消えて、すがすがしい画面を見ることができるようになるのでしょうか。
 話題は変わりますが、関連して言っておきたいことがあります。ニュースの画面でも、その他の番組でも、画面の片隅に小さな長方形を作って、その時の出演者の顔を、ひとりずつ(あるいは複数人を)出していることがあります。その四角の人物を次々に変えていくこともあります。画面に食い込むように、人の顔を出すのはやめてほしいと思います。どうして、あのようなことをしなければならないのでしょうか。これも放送局の都合であって、視聴者のためではないと思います。視聴者は煩わしく感じているのですから。
 昔々、大勢が集合した写真に、その時に欠席した人の顔を四角で区切って載せるという習慣がありました。あれを思わせます。あるいは、故人を加えて写真を作っていたことも思い出します。不愉快です。海外ニュースなどでスタジオと海外を結ぶような番組では、そのようにする理由が納得できます。けれども、娯楽番組のようなもので、スタジオにいる人の顔を次々と映し出して、笑っている顔やうつむいている顔や渋い顔つきを映し出すのはどんな意味があるのでしょうか。止めてほしいと思います。

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2020年5月14日 (木)

ことばと生活と新聞と(83)

「死活」は「問題」と結びつく


 新型コロナウイルスの感染拡大のニュースにしばしばあらわれる言葉に「死活」があります。死活とは、死ぬことと生きること、ですが、死ぬか生きるかということ、でもあります。
 新型コロナウイルスに感染して命を落としている人がありますから、まさに死活に関わることですが、ニュースにあらわれるのは、マスクが足りないことや、消毒液が足りないことなどに関しても使われています。同時にこの言葉は、人の命に関わることだけでなく、営業を続けられるかどうかというようなことにも使われています。一例を挙げます。

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、家庭や職場向けの手指用アルコール消毒液が品薄になっている。 …〔中略〕…
 ドラッグストアやネット通販でも品切れ状態が続き、「机や調理器具の消毒ができなければ、店の死活問題だ」と話す。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月10日・朝刊、14版、6ページ、井東礁・江口英佑)

 この「死活」という言葉は、どのような言葉と結びついて使われているのかということに注目すると、意外に狭いのです。一般的に、「死活だ」というような使い方はしません。せいぜい「死活にかかわる」という言い方があるぐらいで、たいていは「死活(の)問題だ」という使い方です。小型の国語辞典でも、用例としてはほとんどが「死活問題」を挙げています。
 いろいろな言葉と結びついて自在に使われる言葉がある反面、たいていの場合は特定の言葉と結びついて使われる言葉もあるのです。言葉にも人間と同じように内向性や外向性があるのかもしれません。
 ところで、「死活」と似た言葉に「生死」があります。生死も、生きることと死ぬこと、という意味ですが、同時に、生きているか死んでいるかということ、という意味でも使われます。
 「死活」と「生死」は同じような意味をあらわしているようには見えます。けれども、「店の死活問題だ」とは言っても、「店の生死問題だ」とは言いません。「店の生死に関わることだ」とは言えそうです。「生死を共にする」とは言えても、「死活を共にする」とは言えません。言葉は文脈の中で使える・使えないということがありますから、辞書的意味に加えて、用例として成り立つかどうかということが大切なのです。

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2020年5月13日 (水)

ことばと生活と新聞と(82)

「振幅」と「振れ幅」


 「あの人は、ものを考えるときの振幅が大きい」などと聞くと、おおよその様子は理解できます。そして私は、その「振幅」を比喩としての言葉ではなく、直接的な表現と理解します。
 ところが「振幅」という言葉を国語辞典で見ると、例えば『明鏡国語辞典』は、「物体が振動しているとき、振動の中心から極点までの距離。振動の幅の半分。ふりはば。」と説明しています。この言葉は狭い意味で使われており、はじめに挙げた例文は、比喩的表現ということになりそうです。
 さて、「振れ幅飯」と題する文章を読みました。文章の最初と最後に「振れ幅」という言葉が出てきます。

 食事の喜びとは贅沢な食事をたくさん食べることだと考える人が多いと思います。でも本当の喜びは食事の「多様性」と「振れ幅」にある、と思います。 …(中略)…
 多様な人生を書くことが仕事である作家は、どんな食事でも喜んで食べられるものです。粗食や不味い食事があって初めて美食の本当の価値がわかるのです。振れ幅の大きい食事というと私はこの時のスペインの食事を思い出すのです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月11日・朝刊、be7ページ、「作家の口福」、海堂尊)

スペインの思い出というのは、「ソパ・デ・アホ」(ニンニクスープ)という名の、薄い薄いコンソメスープもどきですが、温かいだけが救いのスープの味がなぜか忘れられないと書いてあります。海堂さんの書かれている文章の全体は引用できませんが、この文章で書かれている内容は冒頭の一文に集約されていて、私も同感します。
 さて、「振幅」という漢語を、「振れ幅」という和語の読み方にした言葉を見かけることは、皆無に近いと思いますし、話し言葉の中でもほとんど使わないと思います。けれども、国語辞典の説明の狭さからすれば、このような使い方もあってよいのかなぁと思います。本来は「振れ幅」という言葉があって、後に「振幅」という漢語(もしかしたら、学術用語?)が生まれたのかもしれません。
 ただ、「振幅」は「振れ幅」の他に「振り幅」とも読めます。自動詞としての働きと、他動詞としての働きです。『明鏡国語辞典』は「ふりはば」と書いています。
 ついでながら、小さな国語辞典では「振幅」は載せていますが、「振れ幅」や「振り幅」を載せることは省略してしまっています。料理の名前のようなカタカナ語を腐心して集めて載せようとすることよりも、こんな言葉に注目することの方を、国語辞典の本来の方針にすべきであると思います。
 「振幅」と「振り幅」との関係は、例えば、「借金」と「借り金」、「防止」と「防ぎ止め」、「疑問」と「疑い問い」というようなものに似ています。私たちは、言葉数を節約して使おうとして、文字数の少ない漢語をよく使います。そして「振れ幅」のような言葉遣いに出会ったときに、かえって新鮮な気持ちになったりするのです。

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2020年5月12日 (火)

ことばと生活と新聞と(81)

現代人の思い上がり


 「資源」というのは、自然から得られて、産業の材料・原料として用いられる物質のことを意味する言葉です。具体的には鉱物、森林、水力など、いろいろなものがあります。金属などを鉱物資源と呼ぶことはおかしくはないと思います。一方で、観光資源などという言葉もありますから、人々が長年にわたって築き上げてきた文化の結晶も「資源」と考えているようです。何によらず金儲け(産業)の対象となるものは「資源」と言っているようです。
 命あるもの(動物)も、人間は勝手に「資源」と考えてしまって、魚なども水産資源と考えています。牛や豚なども畜産資源なのでしょう。そのような言葉で呼んで、人間以外のものをすべて金儲けの対象としてしまっているのです。人間は自己本位の、思い上がりのかたまりなのでしょう。
 その一例として、こんな記事があります。

 水産資源を枯渇させない「持続可能な漁業」は待ったなし。では、どのような漁獲量なら、将来にわたり水産資源を減らさず利用し続けられるのか。持続可能な水産物に関するコンサルタント「シーフードレガシー」社長の花岡和佳男さんは「客観的データに基づいて水産資源を管理していくことが重要です」と話します。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月1日・朝刊、be5ページ、「はてなスコープ」、神田明美)

 見出しは「持続可能な漁業へ / 科学的データで資源管理」となっています。この記事を書いた記者を咎めるつもりはありません。私たちが、恩恵を受けている動物や植物などを含めてすべてのものを、利用価値のある「資源」と見ていることが、正しい認識であるのだろうかという疑問です。現代人の思い上がりのように思われます。命あるものも産業の対象に過ぎないと思い込んでいるのは正しい認識なのでしょうか。命あるものの集まりであるものを水産資源と称し、それを科学的データで管理すると言うのです。
 私たちは自然の中の存在の一つとして、自然の中で生きることをさせてもらっているのです。その自然を、まるで人間の手でどうにでもなるというように思い間違えているのではないでしょうか。漁業は人間の力によって「持続可能」なものになるのでしょうか。
 人間は、自然によって、持続が可能なようにしてもらっているのです。人間が自然からの恩恵を受けているというような敬虔さが感じられない言葉を、えらそうな語気で使ってはいけないでしょう。
 新型コロナウイルスも自然の中のひとつのものでしょう。災害への対応策は必要ですが、科学の力によってそれを「征服」したとか「制圧」したとか言うものではないでしょう。科学万能、金儲け至上主義の中にあって、私たちはものの見方を軌道修正すべきであるように思われるのです。たぶん、それは、言葉遣いの誤りというようなことではなく、ものの見方の大きな誤解であるように思うのです。
 現今の医療関係者のご努力には頭が下がります。感謝の思いでいっぱいです。けれども、この社会をおおっているような科学万能、金儲け至上主義のような考えには、そろそろ見切りをつけなければならないと思います。人間の生き方や、社会の在り方に大きな示唆を与えるような哲学が必要であると思います。

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2020年5月11日 (月)

ことばと生活と新聞と(80)

生活スタイルを考え直すとき


 新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため、緊急事態宣言のもとで様々な取り組みがなされています。テレビ・新聞などは、観光地のひっそりとした様子や、夜の町の閑散とした有様などを毎日、報じています。
 経済優先という社会活動の中で、この機会に考え直してもよいのではないかと思うことがたくさんあります。例えば、生産コストを削減するために海外に工場を設けたり、海外生産品を輸入することに頼っていたりしたことが、反省させられています。国内の生産現場に海外の人材を多く採用しようとしたことや、観光収入を外国人に依存しようとしたことも、今後は姿を変えていくかもしれません。新型コロナ禍に見舞われる以前と同じような状態に戻らなくなる事柄もいろいろ、出現するでしょう。
 私たちの生活の様子も、これからは変化をさせていくべき事柄もいろいろあるように思います。
 一例を挙げます。今年の1月頃の大阪の様子を報じた記事があります。欧米にならって、日本でも夜を楽しめる観光都市をつくれないかと考えて、国土交通省が大阪メトロで、終電を約2時間遅くする実証実験をしたというニュースです。新聞の見出しだけを記します。

 大阪メトロ御堂筋線 終電2時間延長実験 / 「長く遊べた」◇2時台ほぼ満席車両も
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月25日・夕刊、3版、7ページ、見出し)

 終電延長 効果は? / 御堂筋線で実証実験
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年1月25日・夕刊、3版、9ページ、見出し)

 終電延長 もうかる? / 午前2時台まで大阪メトロで実験 / バーは繁盛 タクシーは危機感 / 求められる夜の魅力
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月26日・朝刊、14版、29ページ、見出し)

 「効果は?」という問いかけの「効果」は経済効果のことです。「もうかる?」という大きな見出しがそれを誇張しています。「求められる夜の魅力」という見出しは、ある大学教授の談話の見出しですが、観光客が求めるコンテンツが大切だと述べています。
 これらの記事には、終電を遅くすることによって私たちの生活に悪影響がもたらされるというようなことは書かれていないのです。経済優先(金儲け主義)であって、人々の心の豊かさを考えてのことであるようには思えません。
 この記事から2か月後の、日本全体の様子は一変してしまいました。外国の例に誘われて終電延長を考えたりすることは、社会や個人にとって大事なことであったのだろうかと思われるのです。
 社会の様子を、遅くまで電車を走らせることによって、夜を楽しむ催しも充実する、経済効果も期待できる、というような論調だけで考えてよいことだとは思えません。私たちの生活スタイルはそんなことで左右されるとは思えません。
 自然災害や原発の問題、そして今回のコロナ禍のような問題が大きな問題となったときだけ、辛抱して時の過ぎるのを待つというような考え方が蔓延しては困ります。今回のコロナ禍は望ましい状況ではありませんが、こんな時こそ、私たちの生き方を根本から考え直す機会だと思います。働き方や暮らし方を含めて、一人一人が考え直すときだと思います。都会的な生きるスタイルを、全国民に押し広げようとしてはいけません。
 医療、介護、交通・運輸、流通などさまざまな分野で苦労されている方々が多いのですが、それらの方々を支えようという動きも強く現れています。そういうことに思いを巡らすと、私たちは自分の生活姿勢について考えを深めて、社会の風潮や政治・経済の状況だけに押し流されまいとする心強さも必要になってきていると思うのです。

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2020年5月10日 (日)

ことばと生活と新聞と(79)

苦手な言葉「ちなみに」


 幸いなことに、私は今まで、事故や事件の現場に出くわすことがほとんどありませんでした。災害現場や交通事故のようす、火災現場や傷害事件などというものに直接遭遇したことがないばかりか、その発生直後に現場に近づくということも、あまり経験していません。阪神淡路大震災のときは、震源地の淡路・野島のあたりが播磨灘を隔ててはるかに見える位置にありましたが、私の住んでいるあたりは家屋の倒壊のようなことはありませんでした。神戸市内の現場を見たのは後片づけも進んでいた、1か月以上後でした。
 世間で普通に行われていることに出くわすことに、私は出くわすことがほとんどありません。新聞や放送は世論調査をやっていますが、1年ほど前に1回だけ、世論調査の電話がかかってきましたが、すべて録音で行われていて、簡単に数字ボタンを押すだけで終わりました。どこの社の調査かということも告げられませんでしたから、あれは本当に世論調査であったのか、疑問がないわけではありません。また、選挙の投票の時、出口調査をしているのを見たことがありますが、私に声がかかることはありませんでした。
 世論調査に関する記事があって、それを読むと、実際にはオペレーターが有権者に対応して、質問に答えてもらうようにしている様子が書かれていました。答えようとしない人の気持ちをほぐす言葉があるということが書かれていました。

 女性は一転して、回答を始めた。そのきっかけは、「たとえば」という何げない言葉だった。
 オペレーターにとっての「魔法の言葉」があると言うのは、この会社でオペレーターの指導役を務める成田一貴さん(27)。「『たとえば』や『ちなみに』は、雰囲気を切り替える効果がある。相手との間合いが大事です」と話す。
 突然の電話に戸惑う相手には、どう対応するのか。それぞれのオペレーターが「会話術」を持っているという。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月21日・夕刊、3版、7ページ、高橋肇一・植木映子・磯辺佳孝)

 オペレーターからかかってくる世論調査に、一度は遭遇してみたいという気持ちになりました。
 ところで「『たとえば』や『ちなみに』は、雰囲気を切り替える効果がある。」と書かれていて、それもそうだと思います。けれども、私は「ちなみに」という言葉が苦手です。自分では使うことがありませんし、他の人から「ちなみに」という言葉を聞くと、どういう意味で使っているのかと疑問に思います。
 「ちなみに」は、「因む」という動詞から派生した接続詞ですから、本来は硬い言葉だと思います。日常の言葉の中に「ちなみに」が現れるのは、ちぐはぐな感じがします。
 私が「ちなみに」という言葉を聞いたときに思い浮かべるのは、話の本筋には関係がなく、ついでに参考として言い添えるときに使う言葉のように思います。「ついでに言うと」、というような語感です。だから、「ちなみに」を何度も使う話し手がいると、話の本筋を逸らして、余計な話でごまかしているような印象を受けるのです。
「ちなみに」の代替語は「参考として言うと」というような言葉でしょうが、それを連続して口にする場面は実際にはほとんど、あり得ないでしょう。「ちなみに」を口癖にすることは慎んでもらいたいと、私は思っています。

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2020年5月 9日 (土)

ことばと生活と新聞と(78)

長続きしない言葉遣いを称賛しないように


 街角にある、「ゆ」という一文字だけが大きく書かれた看板は、そこに銭湯があるということを知らせてくれます。「ゆ」は略語ではなく、「湯」を表しています。「う」という看板は「鰻」のことを表していますが、こちらは略語と言ってよいでしょう。どちらも、長い時間をかけて、人々に了解されるようになった言葉遣いです。
 言葉は短ければよいというものではありませんが、老若男女の人々に、言葉としての了解が行きわたれば、短い言葉も生命力を持つことになります。
 次のようなコラムを読んで、考えさせられました。

 私たちの身の回りには様々な略語がありますが、1文字の略語があると聞けば皆さんも驚きませんか。
 その代表的なものに「り」があります。これは「了解」を省略したもの。最近、若者を中心にメッセージなどで広まっています。 …(中略)…
 他にも「マジ?」を「マ?」と省略するそうです。 …(中略)…
 1文字という究極の略語。「マ?」と思うような若者たちの創造的な表現に、今後も注目していきたいです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月25日・朝刊、13版S、11ページ、「ことばサプリ」、本田隼人)

 「り」が「了解」という意味でやりとりされるのは、一時的なことでしょう。若者すべてが使っている言葉でもないでしょう。使う人が若者(の一部)で、スマホのメッセージなどという限られた場面で使われているものが、拡大して定着していくと考えているのでしょうか。面白い使い方が、瞬間的にあらわれているというに過ぎないでしょう。
 言葉の現象として記録することは大事なことかもしれませんが、このような言葉は称賛する価値があるのでしょうか。話し言葉の一現象に過ぎなくて、すぐに新鮮味が失せてしまうに違いありません。

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2020年5月 8日 (金)

ことばと生活と新聞と(77)

「便所紙」と「トイレ紙」のイメージのつながり


 ずっとずっと昔、用便を済ませた後で使う紙のことを「便所紙(べんじょがみ)」と言っていました。新聞紙をいくつかに切った紙などが便所の片隅に置かれていることがありました。「便所紙」と、現在の「トイレットペーバー」とは、格段に異なる品物と言ってよいでしょう。
 以前にトイレットペーパーが売り切れて大騒ぎになったことがあります。新型コロナウイルス感染の状況の中でも似たようなことが起こりそうになりました。そのことについての記事がありました。

 スーパーやドラッグストアでトイレットペーバー(トイレ紙)が売り切れた騒動は、新型コロナウイルスの不安によるうわさがきっかけとされる。騒動の直後に供給力も在庫も十分と安心情報が流れ、うわさはデマだとされたのに、買いだめが続いた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月25日・朝刊、be4ページ、「be report」、辻岡大助)

 「トイレットペーパー」という言葉は、ロール状になった品物のことを指す言葉であろうと思います。つまり、「トイレット」と「ペーパー」に分けられる言葉ではなく、ひとまとまりの言葉であると思います。
 新聞に書かれている「トイレットペーバー(トイレ紙)」という表記は、「トイレットペーバー」という文字数の長い語を「トイレ紙」というように縮めるために書かれているのです。
 この記事は、新聞1ページの半分ほどの広さの記事ですが、記事の中には「トイレットペーバー」が2度、「トイレ紙」が10度、使われています。「トイレットペーバー」という言葉は引用文(つまり、誰かが口にした言葉)で使われていますが、「トイレ紙」は記者がつづめた言葉です。しかも、見出しも「トイレ紙騒動の心理学」となっています。
 人々が「トイレ紙」という言葉を使うことはあるのでしょうか。「トイレットペーバー」と言うのが普通であり、「トイレ紙」を使うことはほとんどないだろうと思います。「トイレがみ」や「トイレし」という発音を耳にした経験はありません。文字数を少なくするという効果だけを考えて、こんな表記にすることはやめるべきだと思います。
 「トイレ紙」という言葉は、はじめに書いた「便所紙」という言葉に重なって、品物自体が異なる印象になって、イメージのよくない言葉遣いのように感じられるのです。
 新聞が、言葉を乱れさせる先頭に立つことは、慎むべきことであると思います。

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2020年5月 7日 (木)

ことばと生活と新聞と(76)

早く「しゅうそく」してほしい新型コロナウイルス


 緊急事態宣言が延長されて当分は新型コロナウイルスとの戦いが続きそうです。一日も早く「しゅうそく」してほしいと願っていますが、簡単にはおさまらないようです。
 その「しゅうそく」という言葉ですが、私は新型コロナが話題になり始めた頃から、「この新型コロナ禍が終息したら、お会いしましょう」とか、「早く終息してほしいと願っています」とかの言葉を、葉書や手紙に書きました。ここまで深刻な状況にならなかった段階では、遠からず終息の日が来ると思っていたからです。
 けれども、この戦いがなかりの長丁場になるのではないかと思い始めた頃から、「収束」の文字が使われていることに気付きました。終息と収束。同じような意味に使ってもおかしくはないでしょうが、「終息」に至らなくても、ある程度落ち着いてくれば「収束」という言葉に当たるのだろうと思います。それが、私の語感です。
 もともとの意味からすれば、「終息」は息が止まる(息を止める)ことです。「収束」は乱れを収める(乱れが収まる)ことです。終息する、終息させる、収束する、収束させる、のいずれもが使えるように思われる言葉ですが、「終息」は自動詞としての使い方が、「収束」は他動詞としての使い方が多いのではないかと思います。
 私の思いとしては、新型コロナウイルス感染は、早く完全に「終息」してほしいと思いますが、そこに至らなくても、ある程度「収束」して、日常生活の様子が回復すればありがたいと思っているのです。
ただ、現状のように、「終息」「収束」をほぼ同じような意味として使い、両方の文字遣いがあってもおかしくはないと思います。
 話は変わりますが、パチンコ店の一部店舗で営業が続けられていることについて、営業を止めるように「要請」しても応じない場合に「指示」が出されました。法律では、指示に従わなくても罰則はないということですから、要請と指示とに何ら効力の違いがないということが明らかになりました。店が閉まっていたら来ないけれども、開いていたら来てしまう(開いている店の名前が、報道によってわかったから、遠くからやってきた)、という来店者のコメントが報道されました。それが報道者の姿勢として正しいのであるのか(現状を報道しておけばよいという姿勢は正しいのか)ということが気になりました。

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2020年5月 6日 (水)

ことばと生活と新聞と(75)

たった一つを取り上げる


 見坊豪紀さんは言葉を採集して膨大な資料を作られました。見坊さんの本を読んでいると頭の下がる思いがします。新しい表現を見つけると一つ一つ資料として蓄積されていきました。けれども、見坊さんはたった一つだけ資料として発見されたものを、得意げに文章に書かれるというようなことはなさいませんでした。同じような表現が重なって現れる姿を認めると、それについて考察を深めていかれました。
 次のような文章とは、ずいぶんと姿勢が異なっているように思います。

 レストランで知らない料理の名前を見つけるのが楽しみです。ある日、こんなメニューに出会いました。
 〈海老のアメリケーヌソース バターライス添え〉
 写真ではエビが赤いどろっとしたソースに浸っています。これが「アメリケーヌソース」。トマトなどの野菜に、いためたエビの殻などを加え、煮てこしたソースです。
 「アメリケーヌ」はフランス語で「アメリカの」。それならアメリカ発祥の料理かと思ったら、実はフランス料理です。料理人がアメリカにいたことがあるからだ、とも。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月28日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 ある路地で〈建設作業員〔略〕ご用立て致します〉という看板を見かけました。「作業員の人材を紹介します」ということですが、「用立てる」は人に使えるのでしょうか。 …(中略)…
 「用立てる」の実例を見ると、「軍資金を用立てる」のように、お金に使う例が圧倒的です。それで、「人を用立てる」と言うと、こなれない感じが残ります。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月4日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「アメリケーヌソース」という例がいくつも見られ、「人を用立てる」という使い方が広がっているのなら、話題として取り上げればよいでしょう。たった一つの例を見つけたからといって、多数の読者を持つ新聞に、写真入りで紹介するのは好ましいことではありません。この連載コラムにはそのような傾向が強いものが、これまでにもたくさん取り上げられていました。
 たとえ文章のどこかに、批判的なコメントを加えるとしても、その話題を取り上げるということで既に、ある種の肯定的な姿勢が出てしまいます。子どもたちが読めば、新聞が取り上げていた表現だから、使ってもよいのではないかと考えることにもなるでしょう。筆者個人の思いで書くのではなく、読者への影響も考えるべきであると思います。

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2020年5月 5日 (火)

ことばと生活と新聞と(74)

詩情豊かな天気情報を


 昭和30年代や40年代の頃の天気予報は、当たらないことも多く、それを不満に思うことはありませんでした。また間違えたなぁ、という程度の感想しか持ちませんでした。それがしだいに進歩して、今では天気予報が外れることは少なくなりました。ありがたいと思うと同時に、「予報に反して、今日は晴れて儲けものをした」というようなことはなくなりました。細分化された地域に応じた予報も出て、週間天気予報などの確率も高まりました。
 ところで、私は、気象予報士という資格を持った人が社会的に果たしている役割が、いまだにわかりません。テレビやラジオでは気象予報士が天気予報などを知らせていますが、アナウンサーが天気予報の原稿を読むことも行われています。天気予報士という言葉からは、予報士自身が独自の予報を出してもよいのではないかと思いますが、予報士によって予報内容が変わっているとは思えません。
 テレビでは気象予報士が一般ニュースのアナウンスまで担当していることがありますが、それはアナウンサーに近い役割のようです。気象予報士という資格があるから与えられている役割でもないようです。放送局にとっては、一定期間だけの契約をするという有利な条件で出演させることができるから、もてはやしているのでしょうか。
 話題は変わりますが、こんな記事を読みました。100年以上続いてきた目視観測が終了することになって、気象台は機械で自動観測をして記録する天気と大気現象は、晴れ、曇り、雨、雪、みぞれ、霧、もや、煙霧、雷の9項目になったというニュースです。

 「快晴」や「ひょう」などなじみのある天気や大気現象の表記を見なくなったことにお気づきだろうか。全国45カ所の地方気象台などが、100年以上も続いていた人の目による観測を終えたためだ。 …(中略)…
 衛星では上層雲の下にある雲の量は捉えられない。降水や大気中を飛散する粒の大きさも機械では判別が難しい。人の目だからこそ判別できた「快晴」や「ひょう」「にじ」などなじみある天気や大気現象の表記は目視観測の終了に伴い、気象庁の記録から消えることになった。「晴れ」や「雨」など9項目の表記に集約され、「快晴」は単に「晴れ」と記録するようになった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月3日・朝刊、14版、23ページ、金山隆之介)

 そういうことであるのならば、ここからは気象予報士の出番ではないでしょうか。9項目だけではなく、薄曇り、あられ、ふぶき、霜、黄砂、竜巻、彩雲、などの従来からの言葉を縦横に駆使して、詩情豊かな天気情報を伝えてほしいと思います。雲の様子も、雨の降り方も、日本には美しい言葉がいっぱいあるのですから。形式的な天気予報であるのなら、だれが原稿を読んでも同じです。これからは、気象予報士の個性的な存在価値がためされるときになるのではないでしょうか。

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2020年5月 4日 (月)

ことばと生活と新聞と(73)

文章内容の軽重


 引用文から始めます。同じようなことが書かれていることに注目してください。

 ラジオ深夜便 ★NHK① 夜11・05
 ライフスタイルは「令和つれづれ草」と題し、元新聞記者の稲垣えみ子さんの出演で送る。ほかに、明日の日の出などのコーナーを届ける。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月2日・朝刊、14版、14ページ、「きょうの番組から」)

 関西発ラジオ深夜便 ★NHK① 夜11・05
 日本列島くらしのたよりは、奈良県広陵町の話題を届ける。ほかに、明日の日の出などのコーナーを送る。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月3日・朝刊、14版、19ページ、「きょうの番組から」)

 ラジオ深夜便 ★NHK① 夜11・05
 深夜便ビギナーズは「春といえば…」と題して、藤井隆の出演で送る。ほかに、明日の日の出などのコーナーを届ける。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月11日・朝刊、14版、25ページ、「きょうの番組から」)

 ラジオ深夜便 ★NHK① 夜11・05
 深夜便ビギナーズは「春といえば…」と題し、早見優の出演で送る。ほかに、明日の日の出などのコーナーを届ける。アンカーは後藤繁栄。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月18日・朝刊、14版、17ページ、「きょうの番組から」)

 NHKの「ラジオ深夜便」は夜11時05分から翌朝5時までの長時間番組です。この番組は、よく知られたラジオ番組で、聴取者も多いのでしょうか、このような紹介が新聞にはよく載せられます。私もよく聞く番組です。1か月に10回近く、番組紹介の欄に載せられます。
 「明日の日の出などのコーナーを届ける。」という案内が繰り返されていますが、これは午後11時55分過ぎから、わずか2分程度で告げられるものです。札幌から那覇までの11都市の、翌日の日の出時刻を知らせるのです。6時間番組のわずか2分程度、何の新鮮味もない情報です。このようなものを、どうして番組の看板のように知らせるのでしょうか。
 ラジオ・テレビの番組内容は、新聞社で書いているものではありません。通信社から送られてくるものをそのまま記事にしているに過ぎません。通信社の原稿も惰性で書かれたように思われますが、それにしても、新聞社は黙ってそれを活字にすればよいということではないでしょう。ちょっとぐらいは、記事の中身を吟味する必要があります。無責任きわまりない編集のしかたです。6時間番組の中身はしっかりした内容になっています。その内容の軽重も考えずに、こんな記事を載せ続けているのです。
 このことから類推されることは、新聞記事には内容の軽重も考えずに書かれているものが、他にもたくさんあるのだろうということです。例えば新型コロナウイルスの緊急事態宣言が全国に出されたことについて、主婦、学生、商店主、企業経営者などのコメントなどが掲載されることがあります。たぶん、2~3人に取材して、そのコメントの意義の深さなどに関係なく、適当に載せているのではないかということを感じてしまいます。どんなに小さな記事であっても、きちんと検討してから、記事として掲載すべきです。
 こんな馬鹿げたごとに気付かないで新聞を作り上げてほしくないと、読者としてはお願いしたいと思います。そもそも、こういうことを書いても無視して、姿勢を改めようとしないのが新聞社というものであることはわかっているのですが。

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2020年5月 3日 (日)

ことばと生活と新聞と(72)

間(あいだ)をあけて、間(ま)延びして


 コラム「天声人語」の題字は、横書きされた4文字を線で囲っています。見慣れたものが、ある日、突然、いつもより横に長く伸びて、間延びしてしまっている姿を見ました。その理由は、次のように説明されています。

 「離れることがつながり続ける最良の方法」。コカ・コーラは広告で商標の文字間を大きく空けた。ベンツやマクドナルドも同様の工夫をロゴに施し、対人距離を取るように訴える
 ご覧の通り、当欄も本日は、文字間を広げた題字に替えてみた。地球規模の呼びかけに賛同しての初の試みで、本文は16字短く。書き写していただく際、不都合が生じるとは思いますが、何とぞご了承下さい。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月21日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 コカ・コーラやベンツやマクドナルドの行ったことと歩調を合わせて、地球規模のことをしたような書き方ですが、題字の変更は何の新鮮味もなく、違和感だけです。翌日からの題字は元に戻りましたから、落ち着きを取り戻しました。
 間延びをした題字も気になりますが、「書き写していただく際、不都合が生じる」という気負い立った言葉は、それ以上に気になります。「天声人語」の質の低下は、これまでに何度となく指摘してきました。それでも、書き写しノートを売らんがために、こんな言葉を書いているのが滑稽です。
 さて、同じ日に、まったく同じような意図で作られた見出しが載っていました。

 傍聴席「3密」回避 / 広島地裁 窓も開放
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月21日・朝刊、14版、27ページ、見出し)

 河井案里参院議員の選挙運動をめぐり、公設秘書が公職選挙法違反罪に問われた事件の初公判を報じる記事の見出しです。
 縦書きの見出しは、□□□□□□□という四角で囲まれ、一番上の四角の中に「傍」の文字、真ん中の四角の中に「聴」の文字、一番下の四角の中に「席」の文字が入れられています。法廷では2席ずつ間隔を空けて着席させたということでしょうが、こんな書き方をしてもらわなくても、状況は分かります。「天声人語」と軌を一にする、間延びのした書き方になっています。似たような紙面構成を、同じ日に見せられたように感じました。
 新聞は、言葉が命です。レイアウトを考えるよりも、言葉でしっかり伝えていただければ、その方がうんと嬉しいのです。

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2020年5月 2日 (土)

ことばと生活と新聞と(71)

日本語を壊すNHKのやり方


 NHKのEテレの番組紹介で「先人たちの底力 知恵泉」というタイトルの番組が紹介されています。その「知恵泉」には振り仮名で「ちえいず」と書かれています。(朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月21日・朝刊、14版、28ページ)

 人名などで、漢字の本来の読み仮名をすべて使わないことはあります。
 けれども「知恵泉」を「ちえいず」と読ませようとするのは、NHKの悪知恵が頭をもたげてきて、4音の言葉を作ろうという魂胆であるように思います。何でもかでも4音のタイトルにしてしまおうという悪習は止まるところがありません。
 NHKラジオ第一放送の朝一番の番組は「マイあさ!」です。ラジオを聴いていると、感嘆符が付いていることはわかりませんが、新聞にはそのように書いてあります。もともとは「毎朝ラジオ」と言っていたように思いますが、いつからか4音の「マイあさ」になっています。
 同じくラジオ第一放送の午後の番組に「武内陶子のごごカフェ」というのがあります。普通に言えば「午後のカフェ」でしょうが、新聞には「ごごカフェ」となっています。これも4音が目的です。「マイあさ」や「ごご」という仮名書きは、明らかに音数のみにこだわった命名です。そんなに4音にこだわりながら、「武内陶子の…」という言葉を冠する意図が理解できません。知られた人の名前を冠しての名付けです。「鶴瓶の…」などというのと同列です。「鶴瓶の家族に乾杯」もいずれ、「かぞカン」などという名前になるのかも知れません。
 共通語(標準語)を全国に行きわたらせるのにNHKラジオは大きな役割を果たしました。日本語に対して重要な役割を果たしました。当時の関係者は、日本語に愛情を持っていたのだと思います。
 そして、今は、NHKは日本語を壊す役割を果たそうとしています。番組名は、その番組の中核をなす言葉です。4音にこだわり続けて、日本語の美しさを破壊しようというのは、NHKの誰の意図によるのでしょうか。
 NHKのこのような愚行を批判する人はいないのでしょうか。ラジオやテレビが日本語を破壊した結果、日本人の、言葉に対する感覚が麻痺してしまったのでしょうか。情けないことです。

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2020年5月 1日 (金)

ことばと生活と新聞と(70)

「たたずむ」という言葉の主語


 まず、国語辞典に説明されている内容を並べあげます。これは「たたずむ」という言葉の説明です。

『三省堂国語辞典・第5版』
 (特別にすることもなく)しばらく立つ。「町かどに -」
『岩波国語辞典・第3版』
 しばらく一か所に立ち止まる。
『新明解国語辞典・第4版』
 立ち去ることが出来ないで、そこにしばらく居る。
『明鏡国語辞典』
 ある場所にしばらく立ち止まる「その横に、大学の制服を着た青年が人待ち顔に - んでいる」
『現代国語例解辞典・第2版』
 そこにじっと立っている。「門辺にたたずむ」

 これらの説明に共通すること、それは、「たたずむ」の主語は「人が…」であるということです。広げて「動物が…」ということもあるのかもしれません。けれども、「動かない物体が…」という主語はあり得ないように思います。
 次のような文章を目にしたとき、強い違和感を覚えました。

 上越新幹線の燕三条駅から南に約10キロ。新潟県三条市の水田地帯を抜けると、里山を背にしたコンクリート打ちっ放しの建物がたたずむ。鍛造の鉄で爪切りをつくる「諏訪田製作所」の工場だ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月30日・朝刊、14版、7ページ、「けいざい+」、高木真也)

 人や動物ではないものが「たたずむ」、しかも、優雅な建物ではなく「コンクリート打ちっ放しの建物」という無機質なものが「たたずむ」という表現です。このような表現が増えつつあることは感じていましたが、新聞記事でお目にかかるとは思ってもいませんでした。擬人法と言える表現ではありません。
 「たたずむ」に、継続を表す助動詞「ふ」(古語)を続けると、「たたずまふ」となります。その「たたずまふ」の連用形は「たたずまひ」で、名詞としての使われることもあります。現代語でも使われる「たたずまい」を上記の国語辞典で引くと、次のように説明されています。

『三省堂国語辞典・第5版』
 ①〔その場のありさまから感じ取れる〕ようす。「おちついた庭の -」 ②〔おもむきのある〕すがた。「雲の -」
『岩波国語辞典・第3版』
立っている様子。転じて、ものの姿。ありさま。「庭の -」
『新明解国語辞典・第4版』
 自然物によってかもし出される雰囲気。「静かな - を見せる」
『明鏡国語辞典』
そこにあるものの様子。そのものがかもし出す雰囲気。「閑静な - の家」
『現代国語例解辞典・第2版』
 自然の雰囲気。そこにある物の様子。有様。「野山(家)のたたずまい」

 「たたずまい」は、人や動物についての様子にも使われますが、国語辞典の書かれている用例は、自然物にまで拡大されています。構造物にも使われますが、風情に欠ける「コンクリート打ちっ放しの建物」について、「たたずまい」と言うことはないだろうと思います。
 それが誤用であっても、訂正をしない限り、新聞での誤用はきちんとした用例に認識されてしまいます。子どもたちが見れば、正しい使い方であると信じてしまうのです。活字の力は恐ろしいということを、記事を書く人は心してほしいと思います。新聞をNIEに使ってほしいと言う前に、きちんとした日本語で表現してほしいと願います。

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