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2020年6月30日 (火)

ことばと生活と新聞と(130)

略語の意味の進化の例


 同じことを表現しても、使う言葉によってイメージが変化することがあります。その言葉がもともと持っていた語感が消えない場合もあるのです。
 こんな表現を目にしました。

 新型コロナウイルスの感染拡大後、家での食事が増える中、時短で作れる野菜たっぷりのレシピを、大阪府立大栄養療法学専攻の学生約20人が考案した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月25日・朝刊、14版、20ページ、「青鉛筆」)

 記事の文に「時短」という言葉が使われています。「時」は時間、「短」は短縮です。けれども、「時短」は単に時間短縮をあらわす言葉ではありませんでした。労働時間短縮という言葉を短く「時短」と言っていたはずです。そういう文脈の中で使われ続けてきた言葉です。
 大阪府立大栄養療法学専攻のホームページを見ると、このレシピが公開されていて、「手間をかけず時短調理につなげるため、どこの家庭でもよく使う野菜を中心に、調理済みの缶詰なども使ったメニューを考案」などという表現があって、「時短」が使われています。そして、電子レンジなどを使って短い時間で作れるように工夫した料理のレシピが31種、並んでいます。
 けれども、「短い時間で手際よく作れる野菜たっぷりのレシピ」という表現をすれば、料理を作る人の愛情も感じられるのですが、「時短で作れる野菜たっぷりのレシピ」という表現は、労働時間を短縮して作り上げる料理という感じで、工場生産か何かの意味がただよわないわけではありません。言葉がもたらすイメージとはそのようなものです。
 もともと労働時間短縮という意味を持っていた「時短」が、さまざまな事柄における時間短縮という意味に使われるようになったという、略語の意味の進化の一例ということになるでしょう。けれども、もともとの意味を浮かべ続けている人にとっては、料理の時間にまで使われるのは意外だと思われるに違いありません。
 料理の時間を短くすることの他に、今では、「目的地までの時短のために飛行機に乗る」とか、「富岳コンピュータが計算の時短に貢献する」とか、「飛び級進学で勉強の時短を図る」とかの言い方が認められるようになっているのでしょうか。

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2020年6月29日 (月)

ことばと生活と新聞と(129)

略称はどのように作られるのか


 鉄道会社の略称に近鉄(近畿日本鉄道)、相鉄(相模鉄道)、西鉄(西日本鉄道)などという「〇鉄」というのがあります。また、江ノ電(江ノ島電鉄)、広電(広島電鉄)などという「〇電」と呼ぶものがあります。
 兵庫県内にある準大手私鉄に山陽電気鉄道と神戸電鉄(古い名称は神戸電気鉄道)があります。神戸電鉄について、新聞記事などで昔は「神電」という呼び方が使われていた記憶がありますが、会社側がPR誌などで「神鉄」という呼称を使って今ではそれが一般の人たちにも定着しています。山陽電気鉄道の略称は昔も今も「山電」のままです。「〇電」に市街電車のイメージを持つのは私の思い過ごしかもしれませんが、姫路から神戸を経て大阪梅田まで15分おきに特急列車を運転している鉄道が「山電」というのは軽い感じがしないでもありません。(もっとも、国有化前の鉄道会社に山陽鉄道がありましたから、山陽電気鉄道を「山鉄」と呼ぶのには抵抗感があるとも言えます。)
 会社や団体などの略称はどのようにして定着していくのでしょうか。一般の人たちの呼び名が定着したり、会社・団体などが自分で呼ぶ名前が広がったりするのでしょう。
 けれども、もう一つ大きな力があります。報道機関が勝手に略称を作り上げるということです。特に、長い名前を短く言う場合に、報道機関が無理(無茶?)をすることがあります。話題になっている一般社団法人サービスデザイン推進協議会などという団体を、今のところ略称で呼んだりしていませんが、そのうちにおかしな呼称を付けるかもしれません。思いつくのは「サ推協」とか「サデ協」のようなものです。
 童謡の歌詞について書かれた記事の中に、農業・食品産業技術総合研究機構という団体名が書かれていました。会社名の短さに比べて、団体名にはやたら長いものがあります。そんな長い名称を記事の中で何度も書かねばならないというのは大変なことですが、ではどのような略称を使うのでしょうか。指示語で「この研究機構」などと言うことはできますが、報道機関は略称を使うのが好きです。
 この記事では、次のようになっていました。

 「ゆうやけこやけの あかとんぼ」(三木露風作詞「赤とんぼ」)、「うさぎおいし かのやま」(高野辰之作詞「故郷」)、「さくらさくら やよひのそらは」(日本童謡「さくらさくら」)……。学校で子どもに歌い継がれてきた童謡・唱歌には、自然豊かな日本の原風景のイメージがたびたび現れる。
 そんな歌に注目した農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)の研究チームが5月、研究成果を生態系に関する国際学術誌エコシステムサービス…(中略)…に発表した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月16日・夕刊、3版、1ページ、杉浦奈実)

 農業・食品産業技術総合研究機構のホームページを見ますと、「農研機構は、我が国の農業と食品産業の発展のため、基礎から応用まで幅広い分野で研究開発を行う機関です。」と書いてあります。
 「農業」の次に「・」がありますから、「農業」と「食品産業」とが対等になっているように思われます。そして、その「技術」を「総合研究」する「機構」のようです。
 「農食」という2文字を対等にする呼称がよいように思われますが、機構自身が「農研機構」という略称を使っているのですから、外部から意見を述べることはできません。
 ただし、それとは別に、このような略語の作り方について、新聞社はルールを設けているのかどうか、知りたいと思います。(今回の話題は機構自身が略称を作ったことですが、そうでない場合に新聞社が略称を作ることはいくらでもあるのです。)

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2020年6月28日 (日)

ことばと生活と新聞と(128)

「うまい」料理と「おいしい」料理


 私は、テレビの料理番組などで出演者が「うまい、うまい」と叫びながら食いついている姿を見ると、男女に関わらず、「おいしい」と言いなさいと言いたくなります。けれども、文章に書かれたものを読む場合は「うまい」であっても抵抗感は少ないのです。テレビの場合は無作法なしぐさが目についてしまいますが、書き言葉の場合は食べている姿は想像するしかなく、美しい動作を思い浮かべるからかもしれません。
 井上ひさしさんの連載広告文を集めた、「ことばの泉」という題名の文章がありますが、その中にこんなことが書かれていました。

 たとえば「うまい」と「おいしい」では、どこがどう違うのか。これまでの辞典は、〈「おいしい」は「うまい」より丁寧で、多く女性が用いる。〉と書くだけだったが、『大辞泉』(小学館)は一歩その先を行く。右のほかに、〈「うまい」には、上手だ、手際がよいの意があるが、「おいしい」はこの意では用いられない。また「おいしい話」には、利益になるという意がつよい。〉と、その使い分けをはっきりと示す。引いてよかったと表紙をなでたくなるのは、こういうときだ。
 (井上ひさし、『井上ひさし発掘エッセイコレクション 社会とことば』、岩波書店、2020年4月10日発行、134ページ)

 「うまい料理」には、美味しい料理という意味の他に、上手に作られた料理、手際よく準備された料理という意味が込められて表現されることがある、と考えられるのです。
 「おいしい料理」には、それを食べてもらって利益を得ることになる料理という意味が込められて表現されることがある、と考えられるのです。
 そうなると、「うまい料理」と「おいしい料理」は、場面によって使い分ける必要があるということにもなります。
 新型コロナウイルス感染症の拡大に伴って、店内で飲食させることをしていた店が、持ち帰り食の販売に乗り出しています。手際よく準備された「うまい」ものを販売して、利益を得る「おいしい」商品に舵を切っているのです。

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2020年6月27日 (土)

ことばと生活と新聞と(127)

「現場」ということばの嫌悪感


 こんな思いを持っているのは私だけかもしれません。けれども、やっぱり言わずにはおれないという気持ちが強いのです。話題にしたいのは平凡な言葉です。けれども、その言葉を使う際の意識が問題だと思うのです。それは「現場」という言葉です。日常の言葉としてはしょっちゅう使われています。
 例としての文章を引用しますが、これは一例に過ぎません。

 コロナ、コロナの単色だった暮らしにも、変化が訪れつつある。遊園地や動物園が再開したニュースが各地から届く。百貨店などが営業を始める一方、まだ自粛を求められている店がある。変化はいまだ、まだら模様である。
 まだらがいちばん気になるのは全国の教育現場であろう。教室にはビニールの幕、教員にはフェースガードと、再開準備を進める学校が首都圏にある。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月24日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 「現場」という言葉と対になる言葉はどんな言葉なのでしょうか。「現場」にいる人たちと対になる立場の人はどんな人なのでしょうか。その対語を提示することは難しいとは思います。言葉の問題ではなく、意識の問題であると思います。
 「現場」という言葉を使う人は、「現場」にいる人よりも上の位置にいる人たちのように感じられるのです。そのことが、「現場」という言葉への嫌悪感になっています。
 新聞のコラムは、学校の枠外にいる人が書いています。そして教育に懸命にいそしんでいる人たちの営みを「現場」と言っています。枠外から、学校を俯瞰して使っている言葉のように感じられます。上にいる立場はぬぐい去れません。
 この言葉に嫌悪感を抱くきっかけは、学校に勤めていたときに、「現場」とか「学校現場」とかの言葉を聞いたときです。私は自分が学校で生徒たちに対応しているところを現場という言葉で表現するとは思っていませんでした。誰がどのような場面で「現場」という言葉を発したのか、その記憶はさだかではありません。けれども、注意してみるとしばしば「現場」という言葉を聞くようになりました。「学校現場を指導する」とか「現場を視察する」とかの立場の人がいることがわかってきました。いうまでもなく教育委員会事務局に籍を置く人たちです。学校に勤めている自分たちが使わない言葉を、使う立場の人がいるということです。
 学校に勤めている人たちやそこでの教育活動を教育委員会の人たちが「現場」と言います。新聞社で机に向かっている人たちが学校教育にいそしんでいる場所を「現場」と言います。考え方は同じように思います。
 ただし、学校に務めている人たちで「現場」という言葉を使う人が皆無であるということではありません、教員が「現場」を使うことはあるでしょうが、私は使う気にはなりません。
 「現場」という言葉がなくなってほしいと言っているのではありません。「5年前に悲惨な事件が起きた現場」などという言い方は、「現場」という言葉の使い方としては自然なものです。事件が起きるまでは何でもない場所であったかもしれませんし、時が経てば忘れられていく場所であるかもしれません。そういう場所に「現場」という言葉を使うことに抵抗感はありません。特定するひとつの位置を示している言葉です。
 毎日毎日、一生懸命に働いている場所を医療現場だとか教育現場とか言う人の意識の中には、自分から離れた場所だという、突き放したような見方や、自分の位置より下にある場所だということが無意識に働いているように感じられてならないのです。

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2020年6月26日 (金)

ことばと生活と新聞と(126)

「枕ことば」の意味は、国語辞典で説明されているか


 「枕詞」は和歌の修辞技巧の一つとして万葉集の時代には既に多くが使われていました。枕詞は主として5音の言葉で、次に現れる言葉にかかっていく言葉です。例えば「ともしびの」は「明石」にかかる言葉です。同じようなものに「序詞」がありますが、これはもう少し長い言葉です。古語辞典には枕詞一覧表が載っていますが、序詞一覧表は載っていません。枕詞が誰でも同じような使い方をしたのに対して、序詞は歌人ひとりひとりが異なった言葉遣いを工夫して使ったからです。
 その「枕詞」(表記は「枕ことば」「まくら言葉」など)という言葉は、現代でも使われますが、上に述べたような意味とは違った使い方をされるのが普通です。
 例えば、次のような使い方です。

 「名品」とは何ぞや。重要文化財? 美術の教科書に載っていた? 「昭和チックで、権威主義的な言葉。何を『名品』とするかで時代は変わるし、人によっても違う」と兵庫県立美術館の西田桐子学芸員。「超・名品展」と銘打つ開館50周年記念展は、そんな枕ことばに対する一つのアンチテーゼのようだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月19日・夕刊、3版、3ページ、「蔵出し美術展」、田中ゑれ奈)

 この文章で使われている「枕ことば」の使い方は、どう解釈すればよいのでしょうか。「開館50年展」の枕ことばとして「超・名品展」という言葉が使われているという解釈ができそうですし、「名品」という言葉が枕ことばの意味を持っているという解釈もできそうです。
 国語辞典で「枕詞」の説明を見ると、次のようになっています。この文章の冒頭で述べたような意味(和歌の修辞)を、仮に〔A〕と書くことにします。
 『明鏡国語辞典』『現代国語例解辞典・第2版』『新明解国語辞典・第4版』『岩波国語辞典・第3版』には、〔A〕の意味だけが書かれています。
 『三省堂国語辞典・第5版』には〔A〕の他に、次のような説明があります。

  ②話のはじめに添えて言う決まり文句。

 また、『広辞苑・第4版』には〔A〕の他に、次のような説明があります。

  ②転じて、前おきのことば。
③ねものがたり。

 2つの国語辞典だけに「枕詞」の説明が載っているということは、ちょっともの足りない気持ちがします。現代語の文章にも使われる言葉ですから、国語辞典は、外来語の見出しを増やすことに努力するよりも、日本語の言葉の意味の記述を充実させる必要があります。
 ところで、「枕詞」は、落語のマクラとは性格が異なります。「話のはじめ」に出てくるとか、「前おきのことば」とかの説明は、少しおかしいと思います。
 上記の新聞記事は、文章の冒頭を引用しましたが、「枕詞」は話の初めに出てくるとは限りません。しかも、「決まり文句」ではありません。「商売の都市・大阪」とか「煙の都・大阪」とか「お笑いの町・大阪」とか言うことがありますが、「大阪」という言葉の前に置かれたのを「枕詞」と言ってよいでしょう。けれども、「大阪」の前に置く言葉は、文脈に沿っていろいろ言い換えられます。決まっているのではなく、無数の表現が可能です。
 枕詞とは、後ろに出てくる言葉をわかりやすくイメージさせたり、象徴的に説明したりする言葉です。修飾語の働きをしている言葉です。国語辞典には、そのような説明が必要なのではないでしょうか。
 引用した文章では、「『超・名品展』と銘打つ開館50周年記念展」という表現をしています。「名品」=重要文化財、美術教科書の掲載作品、というような考えを「枕詞」という言葉で表現し、開館50周年記念展は、そのような「枕詞」をうち砕く「超・名作」の作品展だと言おうとしているのでしょう。

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2020年6月25日 (木)

ことばと生活と新聞と(125)

「つなぐ」と「つなげる」は同じ意味か


 このコラム(111)回で「つなげる」という言葉を取り上げました。東日本の言い方が全国共通語に定着したという考え方に、反論するようなことを書きました。
 その「つなげる」という言葉について、「時間感覚の磨き方」という特集記事の中で、こんな表現を見つけました。

 毎日、簡単な日記を書き、週の終わりには科目ごとの達成状況も評価し、翌日・翌週につなげる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月14日・朝刊、「EduA」1ページ)

 中学生や高校生の学習状況について、指針を示したような書き方になっていますが、ここに書かれていることができる生徒は、ごく少数だろうと思います。2週間に1度ずつ配付される「EduA」という別刷りは、優秀な生徒や恵まれた家庭向けのもので、一般の生徒・家庭向けではありません。
 それはともかくとして、「つなげる」という言葉のことについて考えます。まず、「つなげる」という言葉を、国語辞典はどう扱っているかを列挙します。

『新明解国語辞典・第4版』
 (項目がありません。)
『三省堂国語辞典・第5版』
 つなぐ。
『現代国語例解辞典・第2版』
 つないだ状態にする。つないで一続きにする。
『岩波国語辞典・第3版』
 一つながりに結び合わせて長くする。つなぐ。
『広辞苑・第4版』
 切れ、または離れているものを続け合せる。つなぐ。
『明鏡国語辞典』
 〔一〕①結びつけて一続きにする。つなぐ。②つながるようにする。特に、何かと何かがあるかかわりをもってつながるようにする。
〔二〕〔「繋ぐ」の可能形〕つなぐことができる。

上に挙げた辞典のうち、『新明解国語辞典・第4版』はこの言葉を全国共通語と認めていないようです。この処置の仕方には納得します。
 『三省堂国語辞典・第5版』は実に粗っぽいやり方で、「つながる」=「つなぐ」と言っているだけで、言葉の説明にはなっていません。2つの言葉が意味・用法の上でまったく重なるなどということはあり得ません。
 『現代国語例解辞典・第2版』『岩波国語辞典・第3版』『広辞苑・第4版』は、「つなぐ」と同じ意味だということを説明していますが、東日本の言い方だということは書かれていません。
 特筆すべきは『明鏡国語辞典』です。「つなげる」という言葉を詳しく説明しており、〔一〕の②の意味や、〔二〕の意味は他の辞典には書かれていないことです。この辞典の説明にはじゅうぶん納得できます。
 上記の記事の「翌日・翌週につなげる」という表現の意味は、『明鏡』以外には書かれていないのです。国語辞典は、言葉の意味・用法をつぶさに説明しているように見えても、実際にはそうではないのです。
 さて、改めて「翌日・翌週につなげる」という表現を見てみます。この表現を「翌日・翌週につなぐ」と言い換えられるでしょうか。「翌日・翌週につなぐ」と言うと、今日の行動はそこでいったん途切れることになります。『明鏡』のいう「つながるようにする。特に、何か(=今日までの行動)と何か(=翌日・翌週の行動)があるかかわりをもってつながるようにする。」ということこそ大切なはずです。
 国語辞典の編纂者は、外来語や流行語や俗語などに注目することよりも、ごくありふれた言葉をきちんと説明することの方に、力を注いでくださることをお願いしたいと思います。
 引用した記事の文を「つなげる」を使わないで表現するとすれば、「翌日・翌週につながるようにする」「翌日・翌週につないでいく」などの言い方が考えられます。

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2020年6月24日 (水)

ことばと生活と新聞と(124)

エラそうに聞こえます


 「大学目薬」という名前の目薬があって、これはなじみの商標のようになっていますが、似たような例として、次の記事を見ました。

 「教授マウススプレー」という口腔ケア商品を、サプリ販売会社「ナチュレ・ホールディングス」(大阪市)が4日、通販サイトで発売した。
 効果は実証済み。口内菌には広島大の二川浩樹教授(口腔生物工学)、口臭には近畿大の野村正人名誉教授(天然物有機化学)の研究が生かされた。
 市場に出にくい大学の研究に利益を還元したいと、同社が販路を提供した。「学術的に保証された質の高さを実感して」と担当者。税込み2862円。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月6日・朝刊、14版、24ページ、「青鉛筆」)

 「市場に出にくい大学の研究に利益を還元」するという意図のようですが、「教授……」と名づけた商品を、消費者はどのように感じるでしょうか。売れてほしいとは思いますが、どのような売れ行きになるのか、結果を知りたいと思います。
 そんなふうに思うのは、理由がありまして、書名に『(大学)教授の……』とか『先生の……』と名づけたものが売り出されることがあります。「〇〇の権威者が書いた……」というような宣伝文句もありますが、ずばり書名に書かれると、私は買いたくなくなってしまいます。「大学の研究に利益を還元」するというような目的ではなく、その本を売らんがための名付けだと思うのです。まして、出版社が勝手に名づけたのではなく、著者の了解があってのことです。極端な場合は『リンボウ先生の……』というような名づけもあります。権威主義的であると思いますとともに、著者の思い上がりも感じて、私は内容に興味がある場合でも、買い求めるのは遠慮してしまいます。
 朝日新聞にも同じようなタイトルの連載記事があります。「千田先生のお城探訪」というのが地域版で続いています。「先生」の、髭を撫でている顔写真が毎回、載っていますが、読む気にはなれません。
 ついでに言うと、『あなたが知らない……』とか『読まないと損 ……』とかの書名にも、著者の思い上がりを感じます。読者の知らないことを著者は知っている、教えてやるから読め、と言わんばかりの書名です。そのような書名をシリーズにしている著者もいます。
 本を次々に書く人は、売れたらよい、そのための宣伝だと思っているのかもしれませんが、そのような書名を目にすると(書店で見ることもありますし、新聞広告で見ることもあります)、著者にちょっとした心の細やかさがそなわっておればよいのにと、残念な気持ちになることがあります。

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2020年6月23日 (火)

ことばと生活と新聞と(123)

読み方の改変も、地名の改変と同じである


 宮崎県の西都原(さいとばる)古墳群の名称をはじめとして、九州では「原」を「はる」と読む地名がたくさんあります。同じ宮崎県に航空自衛隊の新田原基地がありますが、「にゅうたばる」と読みます。「新」を「ニュー」と読むのは英語読みのように思われるかもしれませんが、「新田」を「にった」と読むのはごく普通です。新田原も「にったばる」と読むのは普通の読み方であり、「にったばる」が「にゅうたばる」となるのも日本語の発音として自然な変化であると思います。
 常用漢字の音訓表などのなかった時代に、文字の読み方がいくつかあっても不思議ではありませんし、風土記が編纂されるときよりも古くからある地名なら、後に文字を当てはめたに過ぎないのです。地名は文字も大事ですが、読み方はもっと大事です。もちろん、その読み方が時代を経て変遷してきていることは言うまでもありません。
 私は江戸時代の5街道をすべて端から端まで自分の足で歩きましたが、日光街道を歩いて徳次郎宿を通ったのは2015年5月のことでした。宿場の名前は「とくじら」ですが、交差点名の読み方には「Tokujiro」と書いてありました。江戸の昔から言い習わしてきた「とくじら」を現代風の「とくじろう」に改めたのは行政であろうと思い、残念な気持ちになりました。
 その徳次郎のことが、新聞に取り上げられていました。

 宇都宮市北西部に「徳次郎町」という地名がある。行政上の読み方は「とくじろう」だが、地元では昔から「とくじら」が常識だった。地元自治会は4月、「本来の読み方に戻してほしい」と、市に要望書を出した。あまり例のない読み方の変更はかなうのか。
 「『とくじら』じゃなきゃダメでしょ」。地元で生まれ育った会社社長斎藤光重さん(62)はそう言い切る。通った保育園、地域に残る戦国時代の城跡、高齢者施設、三つのバス停、商店の屋号--。至る所で昔ながらの呼び方が使われてきた。 …(中略)…
 昨秋、読み方の変更が可能なことがわかった。地元自治会が4月に要望書を提出。市は9年ぶりに市住居表示等審議会を設置することになった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月15日・夕刊、3版、7ページ、「地域発 栃木県から」、中村尚徳)

 行政が一方的に変更しておいて、元に戻すのは煩雑な手続きが必要だというようなことでは、筋が通りません。
 私の地元、明石市に「和坂」という地名があります。もともとは「かにがさか」と読み、地名の由来には古い言い伝えが残されています。
 今は、「かにがさか」と読む「和坂」の他に、「わさか」と読む「和坂」「和坂稲荷町」があります。同じ「和坂」が2つあるのは紛らわしいようですが、「かにがさか」と読む方はJR西明石駅と電車区の用地内のようで区分ははっきりしています。行政のやり方は、「かにがさか」という読み方を見えないようにして、一般の住宅のある地域の「わさか」という呼び名を広めようとしているのです。姑息なやり方のように思われます。
 けれども、読み方の場合はまだ軽症です。古くからある地名を消して、新しい名前に変えてしまうことが各地で行われました。現在も行われ続けています。これは文化の抹殺に等しい行為だと思います。

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2020年6月22日 (月)

ことばと生活と新聞と(122)

食べ物番組について思うこと


 川崎洋さん(1930年~2004年)はやさしい言葉で、美しい作品をお書きになる詩人でした。例えば、「美の遊び歌」という詩は、こんな面白い作品でした。

 〈美しい〉の中に / 恣意 / 気ままな基準によるということで
 〈美意識〉の中に / 四季 / その境目はあいまいになりつつあり
 〈美談〉の中に / 鼻(び) / 鼻もちならない例もあり
 〈美食家〉の中に / 職(しょく) / それを売り物にして稼いでいるむきもいて
 〈美少女〉の中に / 障子 / 純日本風な子は近頃少なくて

 /を入れたところは、実際には改行されており、その3行と次の3行との間には1行の空白が設けられていましたが、ここではスペースを少なくして引用しました。
 おわかりのことと思いますが、「美(うつく)しい」という言葉の一部に「恣意(しい)」という発音が含まれているということに興味を持った詩です。5つのまとまり(連)はいずれも、そのような発想で書かれています。
 私は「〈美食家〉の中に / 職 / それを売り物にして稼いでいるむきもいて」というところに、深く同感します。美味いものだけを食い散らかしているタレントや料理人がいます。食べ物の中にはとりたてて美味くないものもありますが、それは誰が食べたらよいと考えているのでしょうか。食べ物を大切にしない〈美食家〉には腹立たしい思いがします。
 それとともに、そんな〈美食家〉を持ち上げるように書いている文章にも苛立たしさを覚えるのです。
 例えば、こんな記事がありました。

 宅配ピザの大手チェーンが販売している全42種のピザを、ファミレスなどのメニューを食べ尽くす番組企画の常連たち「ウワサオールスターズ」が、人気ランキングの順に次々と平らげていく。具だくさんのピザが画面いっぱいに並ぶさまは、まさに「飯テロ」番組だ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月12日・朝刊、14版、30ページ、「試写室」、大野拓生)

 「飯テロ」という語がどういう意味の言葉であるのかは知りませんが、次々に食べて、その感想の言葉を吐き続ける番組なのでしょう。こういう番組には人気ランキングなどという企画が付き物のようです。
 「ウワサのお客さま」という番組の紹介記事の一部分を引用したのですが、時間ごとの番組欄にも、過激と思われるような言葉が並んでいます。番組欄は通信社の配信をそのまま載せているのでしょうが、「試写室」という紹介記事は、自社の記者が書いたものでしょう。この番組を選んで紹介しようと判断したのも新聞社の方でしょう。
 番組の出演者だけでなく、記者もこの番組を「売り物」にしようという意図で文章を書いているようです。
 料理の材料の細かな紹介や、それがどのような心と技を込めて料理に仕立てられたのかというようなことを抜きにして、できあがった料理に食いついて、「美味い」「よし」「グー」などという平板な言葉を吐き続けるタレントが出演し、それをグルメ番組と称することが多くなっています。味や香りや舌触りなどを細かく、美しく語る言葉が欠如してしまっている人間が、騒ぎ合っているのです。
 新型コロナウイルスの感染で、私たちのこれまでの生き方を変えるように求められています。食い散らかして、表面的なおもしろさだけを売り物にする番組などは、根本から考え直すべきだと思います。もし、この番組が真面目に料理を良さを伝えようとしている番組であるのなら、そのような紹介の仕方を考えてほしいと思います。試写で番組を見ているのは、記事を書いた記者だけなのですから。

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2020年6月21日 (日)

ことばと生活と新聞と(121)

下品な言葉「ぶら下がり取材」


 ある職業の方々だけに通用する言葉というものがあります。業界の中だけで使うのなら便利な言葉でしょうが、外の世界の人には通用しないことがあります。一般に通用しなくても、業界内で便利な言葉ならどんどん使ってよいだろうと思います。
 そのような言葉を、外の世界の人向けに使うと、意味がわからなかったり、誤解を生じたりすることがあります。それから、もうひとつ考えておかなければならないのは、業界用語は能率よく伝えようとする目的の言葉が多いので、部外の人には下品に感じられるような言葉があります。
 まったく下品だなぁと思われる言葉が報道の世界にあるようです。こんな記事がありました。

 安倍晋三首相は21日、大阪、京都、兵庫3府県の緊急事態宣言の解除を決めたが、記者会見は開かなかった。7都府県に宣言を出した4月7日以降、全国拡大や39県の解除などの節目で4回会見し、質疑を合わせて1時間程度語ったが、この日は全体で約7分間の記者団の「ぶら下がり取材」の中で、約4分間話しただけだった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月22日・朝刊、14版、4ページ、岡村夏樹・山下龍一)

 記者が「ぶら下がり取材」という言葉を使い、この記事の見出しにも同様の言葉が使われました。次のように書かれていました。

 3府県解除 首相、会見せず / 緊急事態宣言 「ぶら下がり」のみ

 会場を設定しての記者会見ではなく、適当な場所で記者たちが群がってインタビューをしている場面をテレビ・ニュースなどで見ることがありますから、それを「ぶら下がり取材」と言っているのだろうということは理解できます。
 それを「ぶら下がり取材」と称するのは、報道関係者の間で使われている言葉だろうということも理解できます。けれども、その言葉を記事で使うのはどうかと思います。
 「ぶら下がる」という言葉は、上端で支えられて垂れ下がるという意味です。記者が押しかけていって、誰か一人に「ぶら下がる」と表現するのは、いかにも下品な言葉です。迷惑を考えないで、人につきまとっている印象です。本人にはぶら下げようという意思がないのに、記者が勝手にぶら下がってくるのです。
 正式の記者会見においても、自分の言葉で語ることがない首相ですから、「ぶら下がる」ことをして真意を聞いてみたいということは理解できますが、それを「ぶら下がり」と表現するのは下品です。河井夫妻が逮捕される前に、行きずりの場で記者が群がってインタビューをしようと試みていましたが、あのような場面のことも「ぶら下がり取材」と言うのでしょうか。
 「ぶら下がり取材」という言葉を使うのは、政治家が対象でしょうか。ノーベル賞の受賞者や、スポーツの選手や、犯罪で犯人と思われるような人や、一般の市民などにも、足を止めさせて取材をすれば「ぶら下がり取材」という言葉に該当するのでしょうか。狭い範囲の人たちの間で使われている言葉のようですから、その言葉の意味・用法がよくわかりません。記事に堂々と使うような言葉ではないでしょう。
 要するに「ぶら下がり」などという言葉を使う記者は、自分が、人にとっては迷惑な行為をしているということを、きちんと認めているということになるのです。人の迷惑などを考えていたら取材などはできないのかもしれませんが、「ぶら下がり取材」などという言葉を使うことは、取材相手の迷惑のことなどは眼中にないということを表明しているあらわれかもしれないと感じるのです。

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2020年6月20日 (土)

ことばと生活と新聞と(120)

コラムの文章末に注意


 文章表現の順序で気になるものがあります。理由や根拠を最後に(あるいは、後回しにして)述べるやり方です。
 文章を例示します。

 文字にすると「ツツピー、ツツピー」と書くらしい。シジュウカラのさえずりである。その弾むような声を聞くことが毎朝の楽しみになった。運がよければ、胸にネクタイ模様のある小さな姿を、電線の上に見ることもできる …(中略)…
 身近な音楽家をさがして、にわか探鳥家になるのも悪くない。16日まで愛鳥週間。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月13日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 文章の冒頭と末尾とを引用しました。どうして最後に「16日まで愛鳥週間。」と書くのでしょうか。読み始めたらすぐに、愛鳥週間にちなんだ話題だと気づく人は多いと思います。愛鳥週間ということをどうしても書こうとするならば、はじめの方に書くことが多いと思います。最後に書くのはどうも嫌味に見えます。この文章は愛鳥週間に関する話題なのですよ、みなさんは気づきましたか、というような響きが残ります。
 これは新聞記者特有の文体であるように思います。新聞のコラムなどにこういう書き方の文章を見かけることが、時々あります。
 ニュースでも、「AからBへの贈賄の事実が判明した」というような内容のことを詳しく書き連ねておいてから、そのあとで「捜査関係者への取材でわかった」ということを書くことがあります。捜査関係者への取材によって贈賄の事実が明らかになったという順序で、文章を書かないのはなぜなのでしょうか。新聞の文章は読みやすい形で書かれています。だから、自然な順序で書き進めていく方がよいと思うのです。
 新聞記者の書く文章は、事実を伝えるものや、軽いエッセイが大多数だと思いますが、新聞記者スタイルの文章というものがあるように思えるのです。先輩から後輩へ伝授されているのかもしれません。
 落語のオチのような働きにはならないような言葉を最後に書くと、ちょっとガッカリした気持ちで文章を読み終わることになるように思うのです。

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2020年6月19日 (金)

ことばと生活と新聞と(119)

「時間の嵩」を失う現代人


 新型コロナウイルスの感染拡大という状況の中で、仕事や人間関係や教育などを含めて、広い分野にわたってオンラインという言葉がもてはやされています。
 リモートワークによって生産性を落とさないようにしよう、ふだんの生活は不自由になってもオンラインで人間関係を確保しよう、児童・生徒・学生のひとりひとりに機器が行きわたるようにしよう、などということが言われています。
 現在の状況下においては、いずれも、やむを得ないことであると思います。けれども、コロナ禍をきっかけに生活の有様を変えてしまおうとしても、それはうまくいくのでしょうか。学校の9月入学(新学期)にしても、その場の思いつきに過ぎませんでした。リモートワークで働くことで、働く喜びは得られるのでしょうか。オンライン飲み会のようなものは一時しのぎのことに過ぎないでしょう。教育は人と人とが体と心をつきあわせて成り立つものです。
 人間関係をますます希薄なものにしていって、人々の暮らしは成り立つのでしょうか。生きる喜びは得られるのでしょうか。コロナ禍を契機に、人々がこれまでに失ってしまっているものを発見して、見直すことは大切なことであると思います。
 「会えない今 手紙書こう」という見出しの記事がありました。メールやSNSですぐさま連絡を取り合えるのは、そんなに喜ばしいことでしょうか。緊急の連絡には大きな役割を発揮してくれますが、大切なことが忘れられてしまっているかもしれません。
 この記事から、一部を引用します。

 大型連休も、感染拡大を避けるため、家族の元に戻らない単身赴任者や、実家に帰省しない人が多かった。会いたい人に会えない。そんな時こそ、手紙を書いてみては--。 …(中略)…
 「会えない相手に、会いたいと思って、ゆったりとした時間の中で書くのが手紙。今の私たちに必要なのは、そんな豊かな時間かも知れません」。夏目漱石ら文豪の手紙を研究している中川越さん(65)は話す。 …(中略)…
 メールやSNSと違って、手紙には、マテリアル(物質)を通して、人と人との心が通い合うことの妙味がある、と語る。
 「便箋を探し、手紙を書いて、切手を貼り、ポストまで行く。その時間のカサが真心として届けられ、その相手は、それを確かな重さと肌触りとぬくもりのある分身として受け取ることができるように思います」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月8日・夕刊、3版、7ページ、斉藤佑介)

 この記事に書かれていることは、隅から隅まで大賛成です。オンラインと手紙の違いは、この記事に書かれている言葉を使えば、「時間のカサ」が大きく異なるということでしょう。パソコンを叩くだけで用が済むということを、能率的だと誤解してはいけません。簡単に用が済むということは、相手も簡単に受け取っているということです。わからなければ何度でも発信・受信を繰り返すことができますが、人間関係は、あるいは心の中の動きは、軽いものになってしまいます。
 私たちの世代は、若い頃に「文通」ということをしました。国内の友との場合もあり、海外文通もありました。大人になってからも手紙でのやり取りに慣れていました。一刻を争うようなときの通信は、電話や電報でした。けれども、それは高額なものでした。
 手紙を書いたときは何度も読み返して投函しました。大事なことを書き忘れたら、そのやりとりで改めて何日もの日数が必要になるからです。自分の心の中を何度も往復させながら書く手紙はまさに「時間のカサ」のたまものであったのです。
 コロナ禍に際して言われたことに、この際に読書をしようということもありました。インターネットで簡単に情報を得ることに慣れてしまっている人たちは、ゆったりとした時間を読書にあてるという習慣を思い出したでしょうか。これも「時間のカサ」の、もう一つの側面です。
 記事の中に、ただひとつ気になる言葉がありました。「マテリアル(物質)」です。これは便箋や切手などのことを指しているのでしょうか。それとも別の意味が込められているのでしょうか。中川越さんの言葉の中にあったのかもしれませんが、この記事には不釣り合いな言葉のように感じました。

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2020年6月18日 (木)

ことばと生活と新聞と(118)

カタカナ言葉の多寡による、文章の印象


 近頃の文章は、新聞も含めて、かつて漢字で書くことが多かった言葉をひらがな書きにする度合いが高まっているように思います。それとともに、外来語などのカタカナ書きの言葉も増えています。けれども、ひらがな書きの増加とカタカナ書きの増加とは、文章を読むときの印象としては、同じようには感じられないものがあります。
 36人の短い文章を集めた本の中に、江國香織さんの「九州@東京」という文章があって、次のような言葉で始まっていました。

 ゆうべ〝博多うどん酒場〟という惹句のついた店に入った。場所は東京都渋谷区。賑やかで活気があり、壁いちめんに品書きが貼られている。おきゅうととかまぼこのバター焼きをつまみにビールをのみながら、私はおお! と思った。おお! 東京にいるのに九州に来たみたいだ、と。かまぼこのバター焼きというものを私ははじめてたべたのだが、とてもおいしいものだった。縁がピンクのかまぼこであるところにも、風情を感じた。
 (『ちょこっと、つまみ』、河出書房新社、2020年3月30日発行、90ページ)

 この文章も、ひらがな書きが多い文章です。飲むとか食べるとかをはじめ、漢字で書いてもよいと思われる言葉がいくつもあります。
 それとともに、キャッチフレーズという言葉が主流を占める時代に「惹句」が使われ、メニューは「品書き」です。こういう文章に出会うと、カタカナの言葉を無制限に使おうとはしていないということに気づきます。バター、ビールなどはもう日常語です。ピンクは「桃色」と書くことはできますが、これももう日常語です。ほとんど誰でも使うような言葉はカタカナ言葉のまま使うとしても、普通の日本語で表現できる言葉はカタカナ語を使わなくてもよいように思うのです。そのようにして書かれた文章が少なくなると、カタカナ言葉の少ない文章には気品のようなものが感じられるようになるかもしれません。
 私自身も、「複写」のことはコピーと言い、「試合」のことはゲームと言うことが多くなっています。コピーやゲームは、もはや日常語になってしまっていますが、複写や試合と言っても通用します。
 私のこのブログの文章も、できるだけカタカナの言葉を使わないようにしていますが、「できるだけ」という程度です。もはや日本語の中に位置を占めるようになっているカタカナ言葉を、わざわざ避けようとはしていません。
 けれども、知っている外来語を無制限に使おうという姿勢で書いた文章と、それを抑えようとした文章とは、読んでみると印象が異なります。次々とカタカナの言葉が出てくる文章は、凝縮度に欠けるような気がします。ひらがな書きの多い文章の柔らかさと、カタカナ書きの多い文章の機械的な印象とは、明らかに異なったものであると感じられるのです。

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2020年6月17日 (水)

ことばと生活と新聞と(117)

おかしな理屈


 政治家たちは、自分に都合のよいような理屈を作り上げたり、質問には正面から答えなかったりするようなことを繰り返していますから、国民がそのような理屈や話し方をもてあそんでも仕方のないことなのでしょうか。
 謝罪という行為についても、「私に責任がある」とか「申し訳ない」とか言いながらも、その後の姿勢を改めなかったり、責任の取り方を明らかにしなかったりすることをしています。それが国民にも伝播しています。
 こんな記事がありました。

 お笑い芸人の岡村隆史さんがパーソナリティーを務める「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン(ANN)」(ニッポン放送)は14日深夜の放送で、今後は相方の矢部浩之さんを加えた「ナインティナインのANN」として番組を継続すると発表した。
 岡村さんは4月23日深夜の放送で「コロナが明けたら可愛い人が風俗嬢をする」などと発言し批判を浴び、番組で謝罪していた。 …(中略)…
 スタッフの話し合いで矢部さんの合流が決まり、提案を受けた岡村さんが「今の時代のラジオに変えていくにはそれしかない」と判断。岡村さん自ら矢部さんに電話で打診し、快諾されたという。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月15日・夕刊、3版、8ページ)

 発言を「謝罪」したとありますが、頭を下げたり、「すみません」と言ったりすることで、「謝罪」が成り立つのでしょうか。それならば「謝罪」は実に簡単な行為だと思います。政治家が行う「発言の取り消し」よりはましですが、良くないことを言った場合は頭を下げればよいということになってしまいます。まったく理屈が通っていません。
 放送局も安易な姿勢を取っています。「今後は相方の矢部浩之さんを加え …(中略)…番組を継続する」というのは、例えば、聴取率が落ちたから番組を改編するというのと変わりがありません。「岡村さん自ら矢部さんに電話で打診し、快諾された」というのは子供の使いの約束のように聞こえます。放送局に責任感が感じられません。タレントの発言だから仕方がない、その程度のことで人々は了解するだろうと甘く見ているのでしょう。

 話は変わります。「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン(ANN)」という表記は「オールナイトニッポン」を短く「ANN」と表記するということでしょうが、「ナインティナインのANN」という表記を「ナインティナインのオールナイトニッポン」と読めというのは強引な要求ではないでしょうか。「ナインティナインのエーエヌエヌ」と読むのが普通ではないでしょうか。何でもアルファベット略語に変えてしまうというのは勝手な要求です。
 毎日のように記事に登場する「世界保健機関(WHO)」という言葉は、2度目からは「WHO」という簡単な表記になります。その記事では「WHO」という文字を見るたびに「世界保健機関」と読み替えて読むことはしないでしょう。「ダブリュエイチオー」と読んでいるはずです。
 放送の世界では、ANNというアルファベット略語は別の意味として定着しています。テレビ朝日系列26局のANNニュースというのがあります。アルファベット2文字や3文字の略語は組み合わせ数に限界があるのですが、それでもどんどんアルファベット略語を作るという行為は拡大していくのでしょうか。これは新聞社が繰り広げている「おかしな理屈」だと思います。短く表現すればよいという姿勢は改めるべきです。

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2020年6月16日 (火)

ことばと生活と新聞と(116)

無意味のマスクと、無目的・無制限・無計画の博物館

 

 

 小さな小さなアベノマスクが、やっと6月14日午前、郵便局のタウンプラスで届きました。粗品のような簡単なものを1世帯2枚ずつ配って何千億円もかかるとは驚きです。リーフレットには、「3つの密を避けましょう! ①換気の悪い密閉空間 ②多数が集まる密集場所 ③間近で会話や発声をする密接場面」と書いてあります。
 さて、はっとさせられる文章に出会いました。

 

 博物館には、〝役に立つ〟とは正反対の〝三つの無〟という理念が根付いている。無目的・無制限・無計画だ。「研究には使わないから」「もう収蔵する場所がないから」「今は忙しいから」--。今の人間の都合で博物館に収める標本を制限してはならない、という戒めのような言葉だ。
 博物館の仕事は、標本を収集・保管し、未来に残していくことにある。未来の人々が必要とするものを、今の私たちが想像することはできない。百年後の人々に「この記録が残されていてよかった」と思ってもらうためには、あらゆるものを無尽蔵に集め続けるしかないのだ。
 研究だって同じだ。将来どんな研究が重要になるかを知ることはできない。誰にでも価値がわかる重要そうな研究ばかりになってしまえば、いつの間にか、未曾有の事態に立ち向かえる科学者が絶滅してしまうことになるかもしれない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月13日・朝刊、13版S、23ページ、「郡司芽久のキリン解体新書」)

 

 私たちの現在の生活にとって重要なのは「3つの密」ですが、長い目で人間の営みを見るなら「3つの無」が大切であるというのです。
 現在の生活にとっては「無目的・無制限・無計画」なものは弊害があるでしょうが、それは「今の人間の都合」でしかありません。「未来の人々が必要とするものを、今の私たちが想像することはできない」「将来どんな研究が重要になるかを知ることはできない」という指摘には同感します。博物館は、これまでの人間にとって重要だと思うものを収蔵していると思っていましたから、「あらゆるものを無尽蔵に集め続ける」という姿勢には、目を開かれる思いがしました。
 話題は狭くなりますが、言葉に関することも同じであると思います。私が書いているこのブログ記事は、現在の私の興味に沿って書いているに過ぎません。お読みくださる方々にとっては、価値の薄いことを書いていると思われるものがあるにしても、百年後の人たちにとっては、昔こんなことを考えていた人がいるのだというふうに思ってもらえるかも知れません。
 私は昨年秋に『明石日常生活語辞典』を刊行しました。この本の中で私は書いているのですが、この辞典は現在役立つというよりは五十年後、百年後に、資料として参考にしていただければ嬉しいと思って刊行しました。現在、蔵書としていただいている公立図書館・大学図書館の数は少ないのですが、それでも東京および近辺の図書館では、国立国会図書館、国立国語研究所、東京都立図書館、神奈川県立図書館、早稲田大学、学習院大学、東洋大学、國學院大学、専修大学、文教大学、跡見学園女子大学などの蔵書になっています。関西ではもっと多くの図書館で収蔵いただいています。こんな本は役立つのだろうかと思われても、後世の人の興味・関心を引けば嬉しいと思っています。
 さて、はじめの話題に戻ります。新型コロナウイルスの感染拡大に伴って配付されたアベノマスクも博物館に収蔵すべきものの一つでしょう。それが計画されてから実際に配付されるまでにどれくらいの時間がかかったのか、その品物は現実に役立つものであったのかということの記録とともに収蔵しておくべきでしょう。優れた判断であったか否かは後世の人が判断すればよいのですが、後世でなくても、現時点でも評価が下されつつあります。

 

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2020年6月15日 (月)

ことばと生活と新聞と(115)

「以上」という言葉の無機質さ


 物事を確認して復唱することは大切なことです。食べ物を注文したときに、間違ったものを出されたら困りますから、店員さんがきちんと確認してくれると嬉しくなります。
 けれども、そんなとき、「〇〇と、□□と、◇◇ですね。以上で、間違いありませんか。」などと言われると、あまり気持ちよくはありません。「そうです。間違いありません。」などと答えますが…。
 気持ちよくないのは「以上」という言葉です。物品には違いないのですが、食べ物に関することです。無造作に確認をしている言葉遣いだという印象はぬぐい去れません。「〇〇と、□□と、◇◇ですね。しばらくお待ちください。」という言葉遣いの方が印象は良いように思われます。
 これは、食べ物に限るのかと言うと、そうでもないような気もします。いくつかの文房具を注文した場合にも、「A、B、C…、以上を承りました。」と言われたら、もうすこし場面にふさわしい言葉はないのだろうかと思います。こちらの頼んでいることを、「以上」と一括されることに、少し不愉快さを感じるのです。
 関連したことを申します。ときどき見かける看板ですが、関西では、「丼物一式」とか「麺類一式」とかの言葉があります。いろいろな丼や、いろいろな麺類をお出しできますという気持ちはわかりますが、「一式」と言ってほしくないと思うのです。文房具一式とか寝具一式とかの言い方はよろしいでしょうが、食べ物を「一式」とは言わないでほしいのです。
 食べ物のチェーン店などの接客用語についての指摘は、ずっと以前から続いていますが、改善されたようには感じられません。「こちらがカレーライスになります」だの、「1000円からお預かりします」だのという言葉は、簡単に改められるはずですが、いっこうに改善されていません。
 こういうことについては、あちこちで指摘する文章を読みます。けれども、食事時に、店員さんに向かって直接に指摘することをしないから、改まらないのかもしれません。それ以前の問題としては、店が作っている接客マニュアルなどに例示してある言い方を改めなければならないのでしょうが、それができていないようにも思います。

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2020年6月14日 (日)

ことばと生活と新聞と(114)

「ご安心」と「ご安全」


 「皆さまの安全・安心のために、私たちは力いっぱい努力をいたします」というように、「安全」と「安心」を並べた表現が多くなっております。言いたい気持ちはわかります。けれども、「安全」と「安心」は並列できる言葉なのでしょうか。
 人々の「安全」のために努力するということはわかります。けれども「安心」する度合いはひとりひとり異なりますから、「安心」をすべての人に保障することなどは無理でしょう。「安全」は客観的な度合いであり、「安心」は心の状態なのです。
 「ご安全」という言葉について書かれたコラムがありました。

 集団内では当たり前の習慣が、外部の人から見るともの珍しい、ということがあります。業界特有の挨拶なんかもそうです。
 山口県徳山の工場に〈今日も一日「ご安全に!」〉という看板が掲げてありました。一般に「安全」には「ご」をつけないので、珍しい使い方と言えるでしょう。 …(中略)…
 安全確認が最重要の職場では、「ご安全に」は広まるべくして広まったのでしょう。「安全第一」では少し硬い。「お大事に」のような柔らかさを持たせた言い方です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年2月22日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「一般に『安全』には『ご』をつけないので、珍しい使い方と言える」ということについて考えてみます。「どうぞご安心ください」のような言い方は広く行われていますから、「安心」に「ご」はつけられますが、「安全」に「ご」はつけにくいということになります。このことは、「安全」と「安心」は同列に扱えない言葉だということのひとつの理由づけになります。
 ところで、上記の引用文にある「安全第一」や「お大事に」は、「ご安全に」と重なり合う言葉でしょうか。「安全第一」は職場全体を覆う方針のようなものですが、「ご安全に」は働く者同士が声をかけあう言葉のように聞こえます。「お大事に」は病気や怪我をした人をいたわるような響きがありますから、日常の職場でかけあう言葉ではないでしょう。「今日も一日、安全に気をつけて働きましょう」というような気持ちを、短く、「ご安全に」という言葉で表したのでしょう。
 そして、この「ご安全に」は仲間内の挨拶言葉から離れて、多くの人々向けに交わされる言葉になっても不思議でないように思われます。新型コロナウイルスに苦しめられている人たちがお互いにかけあう言葉として、「ご安全に」という言葉が広がってもよいようにも思われます。
 ところで、「一般に『安全』には『ご』をつけないので、珍しい使い方」だと判断する理由はどういうことなのでしょうか。似たような傾向を持つ言葉で考えると、「ご健康」「ご安産」などは「ご」をつけても違和感はありません。「ご安全」という言葉があまり使われてこなかったから、珍しいと感じただけなのかもしれません。
 挨拶言葉という観点に立てば、「ご安全に」以外にも、仲間内だけで使われている言葉が、他にもいろいろあるかもしれません。それらは、普通の言葉のルールに従わない場合もあることでしょう。

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2020年6月13日 (土)

ことばと生活と新聞と(113)

「一定の」というのは僅少のことだ


 政府の官房長官などの記者会見を聞いていると、「一定の賛同が得られた」などという表現に出会うことがあります。この言い方を聞くと、「80%の議員の賛同があった」とか「4割程度の賛成があった」とか言うよりも、もっと数値が低いのを隠して、言葉でごまかしているような印象があります。
 この「一定」という言葉に注目したコラムがありました。題目は「一定評価したい」であり、見出しには〈「基本、」と同様 どんどん副詞化〉とあります。

 政策などについて、「一定評価したい」などという言い回しを目にすることがあります。「一定の評価をしたい」または「一定程度評価したい」というのが自然な気がします。
 似たような言葉に「基本」「原則」などがあります。これらも「基本的に」「原則として」というのが一般的だったものが、「基本、家にいます」「原則、認められない」のように、文全体に副詞的にかかる使い方が広まっています。 …(中略)…
 小木曾さんによると、「ある程度」という副詞的表現が広く使われ日常語化していったために、その改まった言い換えとして「一定程度」という表現が使われるようになり、そこから「程度」がとれた「一定」だけで副詞的用法をもつに至ったと考えられるそうです。 …(中略)…
 新聞でも「原則」「基本」などについては副詞的な用法も使われるようになっています。「一定」も今後書き言葉にまで広がるのか注目していきたいと思います。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月9日・朝刊、13版S、11ページ、「ことばサプリ」、竹下円)

 この「一定」という言葉について「副詞化」とか「副詞的用法」と言っていますが、それは正しいのでしょうか。
 「基本、家にいます」という例文は、「私は日曜日には、基本、家にいません」と言えます。「原則、認められない」という例文は、「崩し字の書き方はいろいろありますが、どの書き方も、原則、認められる」と言うこともできます。それに対して、「一定(程度)評価したい」という言い方を打ち消しにして、「一定(程度)評価しない」などという言い方はできないように思います。つまり「一定」は、「程度」や「評価」のような名詞を修飾する働きをしているのであって、それは「基本」や「原則」とは異なる働きをしているのです。つまり、「一定」は副詞的な働きをしているのではなく、連体詞と同じ働きをしているのです。(「一定」は、「評価したい」という用言的な部分にかかるのではなく、「評価」だけにかかっていく言葉です。)
 次に、「『ある程度』という副詞的表現が広く使われ日常語化していったために、その改まった言い換えとして『一定程度』という表現が使われるようになり、そこから『程度』がとれた『一定』だけで副詞的用法をもつに至ったと考えられる」という説明にも疑問があります。
 「ある程度」という言葉には、数値の膨らみがあります。信頼感の持てる数値のように聞こえます。それに対して、「一定程度」という言葉は、「その改まった言い換え」などではなく、異なった程度を表す言葉でしょう。数値を隠して、逃れやすくしておこうという意図が感じられます。この言葉は、政府の会見などで耳にするのが多いからかもしれません。そもそも、信頼できる論文などで「一定程度」などという言葉を使うことはありません。(「ある程度」という言葉も、気楽に使う日常用語に過ぎません。)
 「一定程度」というのは、現在の内閣特有の表現であり、僅かばかりの数字を大きく見せかけるための言葉遣いのように見えるのです。「一定」が書き言葉などに広がってほしいとは思いません。

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2020年6月12日 (金)

ことばと生活と新聞と(112)

「降り場」は全国どこにでもある  -東京人の言語感覚-


 バスの停留所(乗り場)は、乗降客が少ないところでは同じ場所で降りることも乗ることも行われています。けれども、ターミナル駅前を発着点とするところでは、到着したバスの乗客をすべて降ろしてから、バスを移動させて、新しい乗客を乗せます。降り場と乗り場とが少し離れた場所に設定されているのです。到着したバスの乗客をすべて降ろしてから、同じ場所で新しい乗客を乗せるようなことは効率のよいことではありません。タクシーの同じです。降り場で下ろしてから、乗り場で新しい乗客で乗せるのです。大きな駅の前では、その降り場と乗り場とが別々の場所に設けられているのが普通です。全国どこでも、大きな駅の周辺などではそのようになっていると思います。
 次のような文章を読んだとき、私は、書かれている内容が信じられませんでした。

 京都市営バスの停留所で〈おりば〉という文字を初めて見かけたのは1999年のこと。珍しいと思って写真を撮ったのがこれです。
 終点で、降りる人しかいない停留所でした。降車場ということですね。地元の人には普通の言い方かもしれませんが、東京の私の住む周辺では、今も目にしません。気をつけて見ているつもりなのですが。
 「おりば」はその後も京都でしか見かけなかったので、一種の関西方言かな、と思っていました。ところが、最近になって、別の土地で立て続けに実例を目撃しました。
 ひとつは岐阜駅前。〈タクシーおりば〉という新しい標柱が立っていました。あるいは、北海道の富良野駅前。〈タクシー 一般車両 おりば〉という標識がありました。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年9月7日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 すべての停留所が「降り場」と「乗り場」に分かれているわけではありませんが、大きな駅前ではきちんと区別されています。停留所の表示などに書かれているのよりは格段に大きな文字で「バス 降り場ば」と書かれているところもたくさんあります。
 降り場という表示がなくても、到着したバスの乗客がすべて降りる場所があるとすれば、それは降り場です。「降り場」という表示があるかないかということとは別です。降り場はあるのです。「ここは降り場やさかい、ここからはバスに乗られへん。乗り場はどこやろう」などという会話は日常茶飯のことです。
 本文に書かれている、「地元の人には普通の言い方かもしれませんが、東京の私の住む周辺では、今も目にしません。」というのは、東京人の勝手な判断に基づく表現です。本当はそうでないかもしれません。筆者だけが気づいていないことかもしれません。
 「降り場」を「関西方言」と書くのは、やはり東京人の勝手なものの見方です。全国のあちらこちらにあるのに、東京では言わないということです。「降り場」という表現がないというということが「東京方言」の特徴ということになるでしょう。
 「乗り場」という言葉が国語辞典に載っているのに対して、「降り場」が乗っていないのは辞書編纂者の怠慢です。「降り場」という項目が載っていなくても不便はないだろうというのは弁解に過ぎません。日本語に「降り場」という言葉があるのなら乗せるべきです。「乗る」と対になる言葉の「降りる」は辞典に載っていなくてもわかるだろうという理屈と同じです。
そもそも「降り場」という言葉を筆者が1999年に発見したというのは、私にとっては、驚き以外の何ものでもありません。ずっと昔から使われていた言葉(しかも外来語ではなく、純粋な日本語)を知らなかったというだけのことです。
 前回のコラム(111)回にも書きましたが、これも「東京人の国語辞典編纂者」そのものの姿勢です。
 いろいろな表現の場で、いわゆる差別的な表現などは避けようという気運が高まっています。男女差別、人種差別、部落差別などなど、広い分野にわたって努力が続けられています。けれども、方言に関しては、そのような思いやりがありません。東京にないものは地方の方言だという考えが、国語辞典編纂者に強く残っているのです。これは歴然とした言語による差別意識に他なりません。東京中心意識を捨てて、国語辞典の編纂は行うべきでしょう。

 「降り場」という言葉が国語辞典に載せられていないことを確認する作業をしていましたら、面白い項目を見つけました。『三省堂国語辞典・第5版』に「おりのり〔降り乗り〕」という項目があって、次のように説明されていました。

 (乗り物に)乗っている人が降りてから乗ること。

 余計なお世話だと言いたくなりました。「降り乗り」の説明は、乗り物から降りることと乗り物に乗ること、でよいではありませんか。乗降のルールを説明することが国語辞典の役割ではないように思うのです。「降り乗り」という言葉はどこまで普及しているのでしょうか。普通は「乗り降り」を使います。
 「降り乗り」を国語辞典に載せるより先に「降り場」を載せるべきだと思います。

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2020年6月11日 (木)

ことばと生活と新聞と(111)

「つなげていこう」は、東京人の感覚の押し売り


 「読む」の可能動詞は「読める」で、「走る」の可能動詞は「走れる」です。同様に、「つなげる」というのは「つなぐ」の可能動詞です。
 その「つなげる」という言葉を、「東日本の言い方が定着」という見出しで説明したコラム記事がありました。

 東京五輪・パラリンピック直前の風景と言えるでしょう。通りに沿って、のぼり旗が立っています。〈みんなの輝き、つなげていこう〉
 「つなげる」は、ひと頃よく批判されました。「ひもをつなげる」でなく「ひもをつなぐ」と言うべきだ、というのです。「つなげる」では「つなぐことが可能だ」の意味になってしまう、と。 …(中略)…
 元は東日本の言い方で、西日本の人はなじみがなかったかもしれません。
 「つなげる」については、すでに1950年代に指摘があり、とりわけ80年代以降によく議論されました。やがてこの言い方も定着し、五輪のキャッチフレーズに使われるまでになったわけです。
 ただし、「つなげる」は「つなぐ」とは少し語感が違います。次世代に「つなぐ」よりも、次世代に「つなげる」ほうが難しいのです。単につなぐのでなく、努力してつなぐ感じです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月18日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 東日本の言い方が、今では全国に通用する共通語に定着したというのは、強引な結論だと思います。
 まず、文末に書かれている「『つなげる』は『つなぐ』とは少し語感が違います。次世代に『つなぐ』よりも、次世代に『つなげる』ほうが難しいのです。単につなぐのでなく、努力してつなぐ感じです。」ということについて述べます。それは当然のことです。
 はじめにも書いたように「つなげる」は可能動詞です。「次世代につなげる」というのは、次世代につなぐことが可能であるかどうか、可能になるように努めるという意味ですから、「努力してつなぐ感じです。」というのは当然です。そう言うことが可能なら、「つなぐ」と「つなげる」の意味を同一視することは誤りなのです。
 さて、次に、残念なことですが、のぼり旗の写真の撮影場所が書かれていません。関西では見たことがありませんから、東京の近辺での撮影だろうと推測します。のぼり旗が首都圏対象のものならば、東日本の言い方を使ったに過ぎません。仮にこの言葉ののぼり旗を全国に配付したとしても、作ったのは東京の人間でしょう。「つなげる」という東日本の言い方が全国に定着したという理由にはなりません。
 以前にも書いたことがありますが、もう一度書くことにします。国語辞典は東京人が作って全国向けに販売しています。東京人という言葉は、東京生まれの人間という意味ではありません。全国のどこの出身者であれ、東京で仕事をするようになって、東京が日本の中心だという意識を強めることになり、東京の言葉が全国共通語の中核をなすものだという感覚に陥ってしまうのです。そんな東京人の感覚だけで、日本語の姿を解釈されたら困ります。
 「つなげる」という言葉に違和感を持つ人がいても、それは地方に住む人の感覚だと判断して、東京人の考えを押し通そうとします。東京の言葉は、全国から見れば方言の一つに過ぎないのだというような感覚は喪失してしまっているようです。
 そして、五輪ののぼり旗に使われるようになったから、それは共通語として定着したなどという錯覚を持ってしまうのです。「やがてこの言い方も定着し、五輪のキャッチフレーズに使われるまでになったわけです。」などと断言してよいのでしょうか。
 私たちは、国語辞典によって、東京人の感覚を押しつけられていることがあるのだということを認識して、時には警戒する必要もあるようです。
 新聞記事についても、東京人の言語感覚で書かれた文章が、全国に向けて発信されているということに気を付けなくてはなりません。

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2020年6月10日 (水)

ことばと生活と新聞と(110)

「責任」は感じるだけでよいものか


 「責任」という言葉が、政治の世界で大変革を遂げているようです。それを端的に指摘する言葉があります。

 「ある」と言いながら取らぬ首相の責任。失政や失言を「誤解」とごまかす閣僚ら。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月25日・夕刊、3版、1ページ、「素粒子」)

「責任」という言葉は、例えば『明鏡国語辞典』では次のように説明されています。

 ①まかされていて、しなければならない任務。
 ②ある行為の結果として負わなくてはならない責めや償い。
 ▼法律では、法に基づく不利益や制裁を負わされることをいう。

 言うまでもないことですが、多くの日本人は、「責任」を国語辞典にあるような意味で使っています。「責任を果たす」「責任を取る」ということは、口先だけで、「私に責任がある」などと言って済まされることではないと、誰もが思っています。責めや償いが伴うもののはずです。ところが政治の世界では、様子が異なっているのです。責めや償いを受けないように、口先だけでごまかして、うやむやにしてしまうことが日常的に行われています。
 そういう人たちにとって、「責任」という言葉は、次のように変化しているようです。

 ①まかされていて、しなければならない任務を、自分が行ったように見せかけながら、他の人に委ねて行わせるようにすること。(すなわち、「責任転嫁」と同じ意味。)
 ②ある行為の結果として負わなくてはならない責めや償いを、弁舌たくましくして、その責めや償いが必要でないように見せかけること。(すなわち、「責任逃れ」と同じ意味。)

 「責任」という言葉は、その言葉だけでは意味を持たず、他の言葉と結びついた使い方になってしまっているようです。アベノミックスなどという言葉を使い続けて、新しい言葉として定着させようとした人は、これまでにきちんとした意味で使われていた言葉の意味・用法を変えるということまでしているようです。もちろん改善・改良ではなく、逆の方向です。この内閣が退陣した後には、日本語の大掃除(修復)が必要なことは言うまでもありません。

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2020年6月 9日 (火)

ことばと生活と新聞と(109)

「突然ですが」という常套句


 毎週金曜日、NHK総合テレビの正午のニュースが終わると、その時刻から始まる番組はBS番組の宣伝の色合いを持ったものです。NHKにも自己宣伝の番組が増えてきています。
 その0時20分になると、「突然ですが…」という声とともに、「突然ですが」という大きな文字が画面に出ます。突然ですがクイズにお答えください、という趣旨で番組が始まるのです。初めて見たときは、番組が突然、クイズの出題で始まるのに驚きましたが、その時は1回限りの趣向なのだろうと思いました。
 けれども、毎週毎週、変わりばえがなく、「突然ですが…」という同じやり方で番組が始まるのには辟易としてきました。視聴者の立場で番組の内容を反省するという姿勢が、この番組の場合には欠如しています。
 テレビというものは、視聴者の心理などには関係なく、突然、画面が切り替わっていきます。ニュースの中に突然、コマーシャルが割り込んで、長々と宣伝した後で、先ほどと同じ画面を再び繰り返した上で、ニュースを続ける、などということは日常茶飯事です。
 突然のように視聴者をかき回すテレビですから、突然の仕業に腹を立てていたら、テレビを見ることはできません。
 その「突然ですが」という言葉は、突然現れた言葉かと思っていたら、そうでもないことがわかってきました。「突然ですが」を番組名にしたものまであるのです。

 突然ですが占ってもいいですか? ★カンテレ 夜10・10
 街で声をかけた一般人を占っていく番組。今夜は3人の占師が登場する。 …(中略)…
 番組冒頭に「番組内での占い師の発言はあくまで占いに基づくもので過去または現在の事実とは異なることがあります」と流れる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年4月29日・朝刊、14版、26ページ、「試写室」、黒田健朗)

 最近は、各局ともに、街角で突然声をかけて番組の中に引き入れるような、失礼な番組が増えました。しかも「突然」、それを行うのです。「突然ですが」ということが日常的に行われるようになったのです。番組制作者は、そういう方法を、倫理観など関係なしに行っているのです。
 テレビ番組は限定された人間が出演や制作にあたっていますから、出演者は「関係者」です。世の中の大半を占める「一般人」は、番組制作とは無関係です。だから、わざわざ「一般人」などという言葉が使われるのです。芸能人が「一般人」と結婚すれば、この言葉が新聞にも現れます。
 番組冒頭に流れる言葉が記事で紹介されています。この言葉に準じて、こんなことも言えるように思います。「番組内でのコマーシャルの言葉は、あくまで宣伝目的に基づくもので、この商品の過去または現在の事実とは異なることがあります」。
 このことを、視聴者は肝に銘じて画面を見ているのです。過去または現在の事実とは異なる内容を、きれいな言葉で包んで述べるのがコマーシャルというものです。
 一歩進めて言うと、テレビの番組の大半もそういうものであると言っても、あながち間違いでもないような気もします。

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2020年6月 8日 (月)

ことばと生活と新聞と(108)

どうして〈当たり前の言葉遣い〉ができないのか


 ピーナッツと南京豆と落花生は、場合に応じて使い分けられているように思いますが、入り乱れた使い方をしても、別に困ることはありません。さつまいもと甘藷、じゃがいもと馬鈴薯、キャベツと甘藍なども、よく聞く言い方と、そうでない言い方という差はありますが、2通りの言い方があっても日常生活で困ることはありません。
 ところが、気になる場合は気になるもので、じゃがいもと馬鈴薯について書かれた文章がありました。

 ある日ふと、疑問に出合うことがあります。ポテトチップスを2袋食べた後、健康志向の私は原材料名をみました。一つは「じゃがいも」、もう一つは「馬鈴薯」。なぜ?
 じやがいもと書いているのは、日本のポテチのシェアで7割強を誇るカルビー。広報に聞いてみると、「当初は馬鈴薯でしたが、20年ほど前に一般的なじゃがいも名に変えました」と説明してくれました。
 一方、馬鈴薯と書くのは1967年、日本で初めてポテチの量産化に成功した湖池屋です。広報に聞くと、「発売当初からこのままです。役所などでは馬鈴薯がよく使われますので」。 …(中略)…
 農林水産省に聞いてみました。「省内では白書を含めて馬鈴薯を使います。特に法律などで決められているわけではないのですが……。一般的にはじゃがいもですよね。」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年3月28日・朝刊、13版S、13ページ、「ことばサプリ」、坂上武司)

 私の勝手な解釈を申します。日常生活の話し言葉では、さつまいも、じゃがいも、キャベツを使うのが多いのではないでしょうか。書類などに書く場合は、漢字で、甘藷、馬鈴薯、甘藍と書く方が引き締まる感じがするでしょう。
 ポテトチップスの袋に書いてある原材料名は、どちらに近いかと考えてみます。日常的な食べ物ですから、日常的な話し言葉で言えばよいでしょう。けれども、同時にそれは、文書として書いているのですから漢字表記の方がふさわしいと言えます。農林水産省は文章に書く言葉として馬鈴薯を使っているのでしょう。

 さて、私の話はこれでお終いではありません。新聞記事に沿った書き方をしてみましょう。
 ある時ふと、疑問に出合うことがあります。ポテトチップスについて書かれた文章を読んで、言葉に関心のある私はその書き方をみました。一つは「ポテトチップス」、もう一つは「ポテチ」。なぜ?
 この記事の題名も、「ポテチの原材料表記」と書かれています。本文中の初めは「ポテトチップス」、その後は「ポテチ」です。どうして「ポテトチップス」という丁寧な(と言うよりは、ごく当たり前の)言い方ができないのでしょうか。
 文字数を減らすということが最大の目的で、日本語をかき乱すことなどは眼中にないようです。そもそも「ポテチ」という言葉は美しい言葉でしょうか。私にはそうは感じられません。けれども新聞や放送が「ポテチ」という言葉を使い続けると、それが定着してしまいます。
 新聞社の校閲センターの方は、国語辞典をご覧になっていますか。「ポテトチップス」は載っているでしょうが、「ポテチ」を載せているのはどれぐらいありますか。少ないはずです。国語辞典は、一般的に受け入れられている言葉が載せられているはずです。国語辞典で確かめることもしないで、短く言うことばかり気にしていると、日本語の美しさは失われていきます。校閲の仕事は、美しい日本語を守り、育てていくことも、その仕事の一つだと私は思っているのですが…。
 このようなことを話題にした記事も、時には書いてほしいものだと、私は願っているのです。

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2020年6月 7日 (日)

ことばと生活と新聞と(107)

「秘伝」と「角打ち」  -惰性的な新聞用語-

 新型コロナウイルスの感染不安が、外食の風景に異変を起こしているというニュース記事に、こんな表現がありました。

 大阪・ミナミにある老舗串カツ店「だるま道頓堀店」。5月中旬、1カ月ぶりに営業再開した店のカウンターから、秘伝のソースが入った銀色の缶容器が消えた。代わりにあるのはソース入りボトル。間隔を空けて座った客が、ボトルのソースを串カツに直接かけたり、皿に注いだりしていた。 …(中略)…
 酒屋で飲酒できる「角打ち」も、狭いスペースに客が密集することが多い業態だ。酒屋「いまでや」は、3月末から千葉県や東京都内3店舗での角打ちを休止していたが、5月下旬、JR千葉駅構内の店舗で再開。
 【添えられた写真の説明文】 串カツ店「だるま」の道頓堀店では、卓上にボトルに入った秘伝ソースが置かれている=大阪市中央区
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月3日・夕刊、3版、6ページ、添田樹紀・林幹益)

 大阪本社で書かれた記事と、東京本社で書かれた記事とを合わせたようになっていて、2人の記者名が書かれています。
 「老舗」というのはどれぐらいの歴史を持つものに与えられる称号かということは、ここでは話題から外します。
 「秘伝のソース」という言葉が、本文と写真説明で使われています。どのようなものを「秘伝の」と言うのでしょうか。すべての店のソースの味は異なりますから、すべての店が「秘伝の」ということなのでしょうか。美味しくても「秘伝」、美味しくなくても「秘伝」です。つまり、ソースはすべての店で「秘伝」です。ということは、「秘伝」という最上級のような褒め言葉は、全く意味を持たないことになります。ほんとうに「秘伝」という言葉を使って称えるものならば、その味か製造法の一端でも紹介しなければなりません。
 たぶん、このような表現をしたのは、記者が、食べ物には「秘伝の」という修飾語を付ければ美味しそうに見えるという感覚で、ためらいもなく、惰性的にこの言葉を使ったのだろうと思います。「老舗の店」「伝統の味」「昔から変わらぬ製造方法」「秘伝の料理」などというのは、具体的な説明を抜きにして、簡便な表現法として好まれるのでしょうが、読者には何も伝わってこないことが多いのです。
 話は変わって、「角打ち」という言葉を初めて聞きました。「酒屋で飲酒できる」という説明がついていますから、意味は理解できます。この記事が東京本社管内に掲載されるのであれば、それで問題はありません。けれども、関西の人たちは「立ち呑み」という言葉に慣れていて、「角打ち」はよその言葉のように聞こえます。
 「角打ち」は小型の国語辞典には載っていないように思いますが、もし載せるとしたら、堂々と全国共通語のような書き方で説明するのが、辞典編纂者たちの姿勢です。東京周辺で使っていたら全国共通語であり、関西で使っていたら関西方言であるという判断をするのです。東京方言などと書かれている説明はほとんど見たことがありません。それが辞典編纂者の思い込みです。
 言葉の、間違った中央集権思想です。東京にいる新聞記者にもそのような思い込みが伝わってしまって、このような表現が記事に現れたのではないでしょうか。

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2020年6月 6日 (土)

ことばと生活と新聞と(106)

価値が下がり続ける言葉


 言葉は使い続けられることによって、その言葉の持つ意味が変化することがあります。昔はそういうことは少なかったのかもしれませんが、現在ではマスコミで酷使されて価値が下がっている言葉もあります。
 ちょっとだけ熱心に取材しただけなのに「密着取材」、他のマスコミと比べて少しだけ視点が違っていただけなのに「独占取材」、わすかに詳しく述べただけなのに「とことん解説」、別に急いでほしくもない話題なのに「緊急報告」、何でもない内容を言葉だけ飾って「超スクープ」…、まだまだいくらでもあります。
 新聞のテレビ欄は普通の記事のはずですが、テレビ局の受け売りの言葉をそのまま、新聞は何の反省もなしに掲載しています。馬鹿げた言葉であっても新聞が掲載してくれるということがわかっていますから、テレビ局は言いたい放題です。
 料理番組とかグルメ番組とかの中でも、使う言葉は言いたい放題です。「秘伝のたれ」「製法特許の作り方」など、ウソ偽りにあふれた言葉を使い続けています。料理を作る人は「名人」「達人」「熟練者」です。そんな特別な人間が毎日、次々と登場するはずはありませんのに…。
 こんな新聞記事を見ました。

 外出自粛が続く中、家で楽しく過ごしてもらおうと、ホテルニューオータニ大阪(大阪市)が「門外不出のホテルレシピ」をサイトで公開中だ。31日まで。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月5日・朝刊、14版、26ページ、「青鉛筆」)

 あきれてしまいます。「門外不出」という言葉の意味すら理解しないで、宣伝文句のように使っているのです。「門外不出」のものや「秘伝」のものは、公開しないからこそ「門外不出」であり「秘伝」なのです。
 普通に考えれば、門外不出として、あるいは、秘伝として申し伝えて行くものは、黙って静かに次代に伝えていくのです。「これは門外不出のものだ」とか「これは秘伝の作り方だ」などと口にするはずはありません。
 こんな言葉遣いを、社会の公器と自負し、ジャーナリズムと自賛するテレビや新聞が使い続けるから、ホテルも宣伝文句に使おうとするのです。日本語のわからない人間が放送や新聞の現場に立ってもらったら困ります。報道の世界は、大げさな宣伝文句だけをしゃべることができるが、冷静にものごとを伝える力に欠ける人間が増え続けているように感じているのです。自己反省が必要です。

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2020年6月 5日 (金)

ことばと生活と新聞と(105)

和製英語とは何か


 新型コロナウイルスの感染拡大によって、今年のゴールデンウィークは例年とは違った様子になりました。ゴールデンウィークという言葉の華やかさとは裏腹に自宅に閉じこもる生活になりました。
 そのゴールデンウィークという言葉について書かれているコラムがありました。

 「黄金時代」に「黄金世代」「黄金比」……。黄金の輝かしい響きは、どこか人をわくわくさせます。これらはみな、英語でもgoldenで表されることば。黄金へのポジティブな印象は、海を隔てても共有されているようです。
 でも、海外にはない「黄金」もあります。黄金週間(ゴールデンウィーク)はその一つ。1950年代に日本の映画界が、盆や正月以上に客が増える春の連休中に大作を封切るようになり、キャンペーンで使われ始めたと言われています。日本の祝日でできている連休のため、海外にゴールデンウィークはありません。一種の和製英語と言えます。 …(中略)…
 NHKではこのことばを使わずに「大型連休」などと表現しているそうです。朝日新聞では特に決まりはありませんが、本文で「春の大型連休」と書いて、見出しは「GW」とするようなケースもあります。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月2日・朝刊、13版S、9ページ、「ことばサプリ」、森本類)

 この文章に関して、私が考えていることを述べます。
 世の中には、外来語と外国語を同一視している人がいます。日本語の文章の中に外来語が出てくる場合に、それを原語に近い発音をして、学のあるところを見せようとする人がいますが、それは間違っています。外来語は、外国語に由来する言葉ですが、日本語の発音に直した言葉です。日本語の文章の中で使われる外来語は、もとの原語ての発音がどうであれ、日本語の発音やアクセントで発音される言葉なのです。
 ゴールデンウィークやナイターという言葉などを「和製英語」と呼ぶことがありますが、正しい呼び方ではないと思います。日本で英語の単語を作ったのであれば和製英語ですが、日本語の文章の中で使われる外来語を、原語とは違う形で作ったものです。原語にはない外来語を和製しているのです。
 NHKは徹底して、ゴールデンウィークという言葉を使わないようにしているようです。あるアナウンサーが何げなくゴールデンウィークという言葉を使い、それに気付いてすぐに黄金週間と言い直したことがありました。広く行きわたっている言葉ですから、かたくなに禁止しようとしていることに、かえって違和感を覚えました。
 ゴールデンウィークやナイターという言葉は、広く使われていますから、外来語の一種でしょうが、日本語としての地位も確立しています。そんな言葉を排除しようなどとは思いません。
 けれども、日本で作ったゴールデンウィークという言葉を「GW」などというアルファベット略号で表すことは望ましいことではありません。新聞見出しの言葉の乱れについては、ブログで何度も指摘してきたとおりです。
 私は、名詞にあたるものを外来語で表現することは仕方がない場合も多いと思っています。けれども、用言(動詞、形容詞、形容動詞)は外来語をできるだけ使わないで、本来の日本語を使うように努めるべきだと思っています。例えば、「黄金へのポジティブな印象」という表現の「ポジティブ」は、日本語で言い換えればどう表現するのがよいのでしょうか。ポジティブを国語辞典で引くと、「肯定的な」「積極的な」という言葉で説明されていますが、そんな言葉で置き換えるよりも、「心引かれる」「心躍る」「わくわくするような」などという言葉で表現する方が、心に届くと思います。筆者は、ポジティブという言葉にどのような意味を込めて使ったのだろうかと首を傾げるのです。

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2020年6月 4日 (木)

ことばと生活と新聞と(104)

外国語と外来語とカタカナ語


 私は英語が得意ではありませんし、今さら上達しようという気持ちもありません。けれども、若い人たちにとって、英語を含めた外国語教育は必要なことだと思っています。
 そうは言っても、英語の表現を日本語の中に取り入れることが良いことだとは思っていません。日本語は十分な表現力をそなえた言葉ですから、外国語の力に助けられながら発展していく言葉であるとは思いません。外国語の表現をそのまま日本語の中に取り込んでほしいとは思いませんし、カタカナ語の氾濫も防がなくてはなりません。日本語の中で十分に消化された外来語だけを少しずつ増やしていけばよいのです。
 もちろんカタカナ語(外来語として認められない言葉)として使っているうちに、外来語として認められることになるわけですから、カタカナ語が皆無になるわけではありません。しかし、カタカナ語を氾濫させることへの防止策が必要です。
 新聞社はカタカナ語の防止策への手だてを設けていないばかりか、どんどんカタカナ語やアルファベット略語を増やそうとしています。それが国際化のために役立つと誤解しているのかもしれません。
 テレビ番組の紹介欄に、こんな記事がありました。日本語が外国語からまったく無防備にさらされているというか、日本語の英語化を喜んでいる人たちがいるというか、なんとも侘びしい世の中になりつつあります。

 世界にいいね! つぶやき英語 ★Eテレ 夜9・30
 英語番組はあまたあれど、SNSで無限に増える略語や新語を教えてくれるのは出色。「DYK」とはDid You Kow(知ってた?)のこと。「IRL」とはIn Real Life(実生活)のこと。見終わったら、SNSを開いて海外投稿をチェックしたくなる番組だ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月29日・朝刊、14版、28ページ、「試写室」、守真弓)

 「SNSで無限に増える略語や新語」を追いかけなければならないのが、人間のなすべきことであるのなら、実に情けないことです。それを「無限に増える」として傍観していてはいけないでしょう。また、それを追いかけさせるように仕向けることもやめてほしいと思います。
 「見終わったら、SNSを開いて海外投稿をチェックしたくなる番組だ。」と書いていますが、英語表現の中でそれを使うように仕向けているわけではないでしょう。日本語の文章の中でも、そんなアルファベット略語を使うことを勧めているのでしょう。
 仮に外来語を日本語の文章の中に使って通用する場合であっても、日本語にふさわしい言葉があれば、それを使うのが通常の表現方法でしょう。まして、まだ外来語として認められないカタカナ語を使う場合は、きちんと説明して使うべきでしょう。
 このようなアルファベット略語の「DYK」や「IRL」という言葉は、賞味期限が長いものなのでしょうか。新聞や放送がそういう言葉を称賛する姿勢を持ってはいけません。この記事は、番組の紹介があまりにも興味本位に書かれています。現在でも、意味のよくわからないアルファベット略語が氾濫しています。そんな言葉がもっともっと増えていくことに拍手をしているような記事です。

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2020年6月 3日 (水)

ことばと生活と新聞と(103)

ほんとうの言文一致をめざして


 山口仲美さんの『日本語の歴史』は、わかりやすくて楽しい本です。文字を中心にして奈良時代が語られ、文章を中心に平安時代が語られ、文法を中心にして鎌倉・室町時代が語られ、音韻・語彙を中心に江戸時代が語られています、そして、言文一致をテーマに明治以降が語られています。おもしろい読み物です。
 巻末に「日本語をいつくしむ」という章があり、日本語の現在の姿をたたえるとともに、言文一致のことについて、次のように述べられています。

 日本語の歴史をたどってくると、現代の私たちは、過去の人々の大変な努力を知らずに享受していたことに気づいたと思います。最もすばらしい過去からの贈り物は、日本語の文章です。漢字かな交じり文を採用し、言文一致を完成させてあるのです。 …(中略)…
 でも、油断をすると、書き言葉はつねに話し言葉から離れようとします。第Ⅴ章でも述べましたが、書き言葉は、話し言葉と違って、目に見える形で存在しますので、保守的です。古い形をいつまでも保ち続ける性質があります。絶えず変化していく話し言葉についてゆけないのです。そのため用心していないと、話し言葉との間に大きなズレを生じ、話し言葉とは違った書き言葉独自の体系を作ってしまいます。そうなると、私たちはもう一度そのズレを修正するために言文一致運動を展開しなければならなくなります。
 (山口仲美、『日本語の歴史』、岩波新書、2006年5月19日発行、209ページ~211ページ)

 ここに書かれていることに、同感です。私たちは、日常の言葉を使って、自分の感じたこと、考えたことなどを、他人に伝えることができます。先人の努力のお陰です。
 もちろん、硬い言葉を使った文章や、必要に応じて専門用語をたくさん使った文章が書かれることはあるでしょう。けれども、日常レベルの文章はわかりやすく書かれています。
 言文一致を身に付けて表現活動を行っているものの一つに新聞があります。新聞は1945年の敗戦時までは、文語の表現も使われていましたが、現在は、話し言葉をそのまま文字にかえたような言葉遣いで書かれています。
 明治以降の言文一致に向けたさまざまな営みの結果、私たちは、自分たちが読むものも、自分が書くものも、言文一致の表現で用を足すことができるようになっているのです。
 私は、新聞の文章は、それをそのまま朗読しても、じゅうぶんに用を足せる文章になっていると思います。
 ただ、新聞の文章の中には、朗読に耐えられない文章や、言文一致を逸脱した文章も現れているように思います。
 たとえば、その一例です。

在宅医療現場での医師のアシスタントで、「やまと診療所」独自の肩書きであるPAのストーリーを続けたい。佐々木優(34)はPA4年目。前職は、熱帯魚ショップの店員である。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月27日・夕刊、3版、5ページ、「現場へ!」、中島隆)

 これは冒頭の文章ですが、この記事には、この後、「PA」という言葉が5回使われています。けれども、この夕刊の文章(「『やまと診療所』の物語」の第2回)だけを見ている限りでは、PAが何であるのかはわかりません。
 前日の記事の冒頭は、次のように書かれています。

 東京の板橋区を拠点に、在宅医療をする「やまと診療所」。ここには、こんな肩書きのスタッフが30人ほどいる。
 「在宅医療PA」--。
 PAは「Physician Assistant」の略。米国で集中治療室などでの医療行為を行える国家資格だ。その呼び名を、在宅医療現場での医師のアシスタントに転用した。やまと診療所にしかない肩書きだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月26日・夕刊、3版、5ページ、「現場へ!」、中島隆)

 疑問点は3つ、あります。
 ①1日目の新聞を読まなければわからない言葉を、2日目に何の説明もなく使うのは、かまわないことなのでしょうか。

②米国で国家資格である名称を、日本で勝手に使うことはかまわないのでしょうか。(新聞が追認しているような書き方になっています。)

 ③PAという略称は、原語で「Physician Assistant」という形を示しているだけです。日本語に直して書くという意思はないようです。(「この診療所ではPAと呼んでいますが、医療助手のことです。」というような書き方はできないのでしょうか。)
 このことに関しては、同じ日の夕刊の記事の中に次のような文があります。

 足利さんはスライド屋根の観測室をベニヤ板や繊維強化プラスチック(FRP)で一から手作りし、4月に完成した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月26日・夕刊、3版、5ページ、「地域発 鳥取県から」、斉藤智子)

繊維強化プラスチックという言葉が、なぜ「FRP」という略語になるのかという説明がありません。「PA」も「FRP」も、その言葉を使わなければならない必然性がありません。(「FRP」については、この記事では、他に使われている箇所がありません。)要するに、アルファベット略語を使う必要があるのだろうかという疑問です。
 このような言葉(外来語とは言えません。単なるカタカナ語、アルファベット略語です)を多用して文章を書くということによって、朗読に耐えられない文章、目で見ることによって用を足すような文章を作ってしまっているのです。
 新聞には、きちんとした文章もたくさん掲載されています。けれども、記者の書くニュース記事や解説などの文章には、このような表現が多く見られるのです。日本語を大切にするという基本的な姿勢を失わないようにと、お願いしたいと思います。

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2020年6月 2日 (火)

ことばと生活と新聞と(102)

外来語に懐手をしているように見える新聞社の姿勢


 外来語や、まだ外来語とも言えないカタカナ語に対して、新聞社が取っている姿勢は、まるで懐手をして眺めているだけであるように思えます。
 こんな読者投稿を読みました。

 「一般的でないカタカナの外来語を、紙面で安易に使わないでほしい」との声が読者から届く(16日 本紙)とありました。
 最近「ソーシャルディスタンス」「クラスター」などカタカナ語が多すぎると私も感じています。新型コロナウイルスの感染が拡大してからは目に余ります。 …(中略)…
 「フィジカルディスタンス」「ロードマップ」と新たな言葉が続々。こうなると、日々「自作カタカナ用語辞典」を改訂しなければいけないのかとも感じています。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月28日・朝刊、13版S、8ページ、「声」、小田清子)

 この投稿を載せたことには意味がありますが、新聞社にとっては、載せたという事実しか残っていないだろうと思います。つまり、新聞社は外来語やカタカタ語に対する姿勢を改めようとしているわけではありません。「外来語を慎重に使いたい」という姿勢は新聞社にもあるようですが、実態はと言えば、まったくそのようにはなっていません。紙面全体を点検して、外来語の濫用に歯止めをかける役割を果たすのは校閲部だと思います。その役割を発揮していただかなくてはなりませんが、そのような働きをしているようには思えません。
 読者がカタカナ用語辞典を自作しなければならないほど、読者に負担を強いているのです。そのことは、新聞はわかりやすくものごとを伝えるという役割を放棄しているということに他なりません。読者がわかりにくいと感じているのなら、新聞社はカタカナ用語辞典を作って読者に配付しようと考えるかもしれませんが、読者はそんなことを求めているわけではありません。カタカナ用語辞典など使う必要のないような言葉遣いで、わかりやすい文章を書かなければいけません。
 それは、高齢者への対応であると考えてはいけません。若年層の新聞離れとも関係がないわけではありません。若い人たちが新聞を読まなくなっているのは、パソコンやスマホでニュースが手に入るということだけではないでしょう。新聞の記事の書き方に馴染めなくなっているという要素もあるでしょう。誰にも理解してもらえる文章を書かなければなりません。学校でNIEによる指導を行っても、新聞を身近なものに感じてもらえない(新聞の購読者が減少する)のであれば、一過性の指導に過ぎないことになります。
 新聞が外来語を話題にするのは、文化庁や国語審議会などについてのニュースを報じるときだけです。自社の紙面の外来語の問題点などを反省して改めようとする記事などは見たことがありません。外来語が多くなったのは、社会に問題があって、新聞社が書く記事とは関係がないというような姿勢です。はじめに書いた「懐手」というのはそういう意味です。外来語が多くなったのは新聞のせいではないというような、自己反省のない紙面が作られています。
 新型コロナウイルス禍にともなう一過性のカタカナ用語は仕方がないと思います。「ソーシャルディスタンス」「クラスター」「フィジカルディスタンス」などの言葉は、コロナ禍の収束とともに消える言葉であるのなら、我慢をしましょう。けれども、これを機会にカタカナ語が増えてしまうのなら、それを抑制する手だても必要でしょう。
 抑制する手だては、難しいことではありません。ふさわしい日本語に置き換えて表現する努力をすればよいのです。カタカナ語をそのまま受け売りして紙面に書き連ねることをやめればよいのです。それをしないで、黙って傍観していたら、ますますカタカナ語が増殖していくでしょう。
 こんなことを書き連ねても、新聞社は読者の意見を無視し続けるでしょう。新聞社は読者の意見に耳を傾けているという素振りを見せていますが、現実は大きく異なっています。本当に耳を傾けていたら、外来語やカタカナ語の氾濫に抑制力を発揮すべきですが、そんな事実はありません。
 新聞は、ジャーナリズムの働きを大きな声で宣伝する前に、使う言葉の点検から始めるべきです。新聞はそんな簡単なことを忘れ続けているようです。

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2020年6月 1日 (月)

ことばと生活と新聞と(101)

言い分けて使う言葉と、使い分けずに用いる言葉


 言葉は、それを使う人(表現者、話し手、書き手)から、それを受け取る人(理解者、聞き手、読み手)に正しく伝わらなければなりません。難しい言葉や知らない言葉がたくさん使われていたら、間違った受け取り方が生じてしまいます。言葉を使って表現する人は、それを受け取る人がいることを忘れて、自分勝手な表現をしてはいけません。
 日本語の文章の中に外来語を使うことは、現在では皆無にすることはできませんが、なるべく少なくするように努めてほしいと思います。私は、このブログでは、外来語をできるだけ少なく使うようにしています。ブログだけではなく、その他の場合も同様です。
 こんな文章を読みました。

 多くの読者の方から、一般的でないカタカナの外来語を、紙面で安易に使わないでほしい、との声が届きます。意味がわからないカタカナ語がたくさん載っている新聞を読むために、辞書が手放せない--こんなトラブルを避けるためにも、外来語を慎重に使いたいと考えています。
 悩ましいのは、専門用語や資料から引用した外来語表記をそのまま使うようなケース。その場合、例えば「クラスター(感染者集団)」と、後ろに説明を加えるなど、理解の助けになるよう工夫しています。
 一方、改めて説明するのが不要なほど日本に深く定着している外来語もあります。たとえば「いざこざ。紛争。事故」(岩波国語辞典)という意味で使われる、英語由来の外来語「トラブル」がその一つです。
 金愛蘭・日本大学准教授(日本語学)は、毎日新聞の記事を1950年からほぼ10年ごとにデータベース化し、外来語の使用実態を調べています。調査によると、トラブルという語は60年ごろから少しずつ現れ、80年以降急カーブを描いて登場する頻度が増えているそうです。
 また、当初は「個人間や組織間でのもめごと」を指すことが多かったのですが、近年は「機器のトラブル(故障)」「センター試験会場でのトラブル(混乱)」「お肌のトラブル(悩み)」など、意味や用法に広がりが見られると分析します。
 金さんは新聞報道で「事件」や「衝突」と端的に書くと、実際の出来事より強い印象を読者に与えるおそれがある、ともいいます。
 「それに対してトラブルは、事態がどんな段階にあっても使えるあいまいさが特徴。『深刻な事態や、そこにつながる可能性がある不正常な状態』を幅広く指すので、使い勝手が良く好んで使われるのでは」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月16日・朝刊、13版S、11ページ、「ことばサプリ」、市原俊介)

 あまりにも気になることばかり書かれていましたので、全文を引用しました。このコラムの題目は「トラブル」という語になっています。そして見出しは「意味合いに幅 使い勝手よく」となっています。
 「使い勝手」とは、書き手・話し手の都合が優先されたような感じが強く出ています。読み手・聞き手のことも考えて、言葉は使わなければなりません。
 上の引用文のそれぞれの段落について、私が思ったことを書きます。
 第1段落の末尾にある「外来語を慎重に使いたい」というのは、この文章の筆者の考えとしては納得しますが、新聞の紙面は、まったく、そのようにはなっていません。校閲センターというのは、新聞の紙面全体に影響力を持つ部署かどうかはわかりませんが、記者たちを厳しく指導する姿勢を持たなければなりません。それが欠如していれば、外来語の氾濫に歯止めがかけられません。【このことについては、次回のブログで書くことにします。】
 第2段落に例示されている「クラスター(感染者集団)」という表記は、考え方を逆にしなければなりません。外来語を従属的に扱って、「感染者集団(クラスター)」とすべきでしょう。医療従事者や政治家たちが「クラスター」という言葉を使っていても、「感染者集団」(あるいは「感染集団」)という言葉で読者には伝わります。「クラスター」という言葉を使わないようにしても、伝達は成り立つでしょう。新聞社は一つ一つの言葉について、この言葉はなるべく使わないようにしようという姿勢(方針)がなければ、どんどん使い続けることになるでしょう。カタカナ語を使わなくても(日本語で表現しても)通じる場合は、カタカナ語を使わない方針を徹底すべきです。なお、「クラスター」は外来語とは言えません。飛び入りのカタカナ語に過ぎません。
 第3段落に例示されている「トラブル」は、確かに「改めて説明するのが不要なほど日本に深く定着している」と言えるでしょう。けれども、だから「トラブル」はどしどし使うべきだという姿勢にならないでください。「いざこざ」と言える場合は「いざこざ」を、「紛争」と言える場合は「紛争」を、「事故」と言える場合は「事故」を使ってください。その方がわかりやすい文章になるはずです。
 第4段落で述べられている、「80年以降急カーブを描いて登場する頻度が増えている」という実態は理解しますが、だから使用頻度をこれからも高めようという姿勢がよいわけではありません。外来語の使用を抑えようということもしなければ、日本語にカタカナ表記の言葉がますます増えていくことになるでしょう。
 第5段落に書かれているように、「トラブル」は「個人間や組織間でのもめごと」を指すことが多かった言葉です。悪印象の強い言葉でした。けれども現在の使い方は、あいまいさが強まっています。「機器のトラブル」は生産者側に問題があるのか、使用者の扱いがよくないのか、区別がつきません。「センター試験会場でのトラブル」という表現は、その原因・理由も確認しないで、記者が混乱の有無だけを記事に書いているような感じです。軽い文章になってしまっているのです。悩みのことを「お肌のトラブル」などと表現すれば、「心のトラブル」「学習内容のトラブル」などなど、「トラブル」の使用範囲に制約が無くなってしまいます。安易な表現姿勢です。
 第6段落では、「事件」や「衝突」と端的に書くと、実際の出来事より強い印象を読者に与えるおそれがある、と書かれています。だから「トラブル」の方がよいという論理は納得できません。「トラブル」という言葉を、ものごとをあいまいに表現する方法の一つと捉えているようです。「事件」や「衝突」以外に、日本語にはたくさんの言葉があります。和語の系列では「闘い」「戦い」「争い」「もめごと」「いがみあい」「ごたごた」など、漢語の系列では「混乱」「抗争」「反乱」「応戦」など、いろいろな言い方ができます。そんな言葉で使い分けることこそ、日本語の豊かさなのです。そもそも、外来語としての「トラブル」という言葉は、大規模な「事件」や「衝突」などには使われません。個人の間のちょっとした争いや、業務上の混乱などに使われる言葉のはずです。
 第7段落は、新聞特有の書き方になっています。引用文で一段落を構成し、文末は尻切れトンボの表現です。「…と述べた。」というような述語のない、おかしな日本語で、新聞以外にはあまり現れない表現です。「トラブル」という言葉は「事態がどんな段階にあっても使えるあいまいさが特徴」と述べています。こんないい加減な言葉こそ、日本語の中から追放すべきではないのでしょうか。単に「使い勝手が良く好んで使われる」というのが言葉の生命力ではありません。

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