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2020年6月27日 (土)

ことばと生活と新聞と(127)

「現場」ということばの嫌悪感


 こんな思いを持っているのは私だけかもしれません。けれども、やっぱり言わずにはおれないという気持ちが強いのです。話題にしたいのは平凡な言葉です。けれども、その言葉を使う際の意識が問題だと思うのです。それは「現場」という言葉です。日常の言葉としてはしょっちゅう使われています。
 例としての文章を引用しますが、これは一例に過ぎません。

 コロナ、コロナの単色だった暮らしにも、変化が訪れつつある。遊園地や動物園が再開したニュースが各地から届く。百貨店などが営業を始める一方、まだ自粛を求められている店がある。変化はいまだ、まだら模様である。
 まだらがいちばん気になるのは全国の教育現場であろう。教室にはビニールの幕、教員にはフェースガードと、再開準備を進める学校が首都圏にある。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月24日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 「現場」という言葉と対になる言葉はどんな言葉なのでしょうか。「現場」にいる人たちと対になる立場の人はどんな人なのでしょうか。その対語を提示することは難しいとは思います。言葉の問題ではなく、意識の問題であると思います。
 「現場」という言葉を使う人は、「現場」にいる人よりも上の位置にいる人たちのように感じられるのです。そのことが、「現場」という言葉への嫌悪感になっています。
 新聞のコラムは、学校の枠外にいる人が書いています。そして教育に懸命にいそしんでいる人たちの営みを「現場」と言っています。枠外から、学校を俯瞰して使っている言葉のように感じられます。上にいる立場はぬぐい去れません。
 この言葉に嫌悪感を抱くきっかけは、学校に勤めていたときに、「現場」とか「学校現場」とかの言葉を聞いたときです。私は自分が学校で生徒たちに対応しているところを現場という言葉で表現するとは思っていませんでした。誰がどのような場面で「現場」という言葉を発したのか、その記憶はさだかではありません。けれども、注意してみるとしばしば「現場」という言葉を聞くようになりました。「学校現場を指導する」とか「現場を視察する」とかの立場の人がいることがわかってきました。いうまでもなく教育委員会事務局に籍を置く人たちです。学校に勤めている自分たちが使わない言葉を、使う立場の人がいるということです。
 学校に勤めている人たちやそこでの教育活動を教育委員会の人たちが「現場」と言います。新聞社で机に向かっている人たちが学校教育にいそしんでいる場所を「現場」と言います。考え方は同じように思います。
 ただし、学校に務めている人たちで「現場」という言葉を使う人が皆無であるということではありません、教員が「現場」を使うことはあるでしょうが、私は使う気にはなりません。
 「現場」という言葉がなくなってほしいと言っているのではありません。「5年前に悲惨な事件が起きた現場」などという言い方は、「現場」という言葉の使い方としては自然なものです。事件が起きるまでは何でもない場所であったかもしれませんし、時が経てば忘れられていく場所であるかもしれません。そういう場所に「現場」という言葉を使うことに抵抗感はありません。特定するひとつの位置を示している言葉です。
 毎日毎日、一生懸命に働いている場所を医療現場だとか教育現場とか言う人の意識の中には、自分から離れた場所だという、突き放したような見方や、自分の位置より下にある場所だということが無意識に働いているように感じられてならないのです。

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