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2020年6月 2日 (火)

ことばと生活と新聞と(102)

外来語に懐手をしているように見える新聞社の姿勢


 外来語や、まだ外来語とも言えないカタカナ語に対して、新聞社が取っている姿勢は、まるで懐手をして眺めているだけであるように思えます。
 こんな読者投稿を読みました。

 「一般的でないカタカナの外来語を、紙面で安易に使わないでほしい」との声が読者から届く(16日 本紙)とありました。
 最近「ソーシャルディスタンス」「クラスター」などカタカナ語が多すぎると私も感じています。新型コロナウイルスの感染が拡大してからは目に余ります。 …(中略)…
 「フィジカルディスタンス」「ロードマップ」と新たな言葉が続々。こうなると、日々「自作カタカナ用語辞典」を改訂しなければいけないのかとも感じています。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月28日・朝刊、13版S、8ページ、「声」、小田清子)

 この投稿を載せたことには意味がありますが、新聞社にとっては、載せたという事実しか残っていないだろうと思います。つまり、新聞社は外来語やカタカタ語に対する姿勢を改めようとしているわけではありません。「外来語を慎重に使いたい」という姿勢は新聞社にもあるようですが、実態はと言えば、まったくそのようにはなっていません。紙面全体を点検して、外来語の濫用に歯止めをかける役割を果たすのは校閲部だと思います。その役割を発揮していただかなくてはなりませんが、そのような働きをしているようには思えません。
 読者がカタカナ用語辞典を自作しなければならないほど、読者に負担を強いているのです。そのことは、新聞はわかりやすくものごとを伝えるという役割を放棄しているということに他なりません。読者がわかりにくいと感じているのなら、新聞社はカタカナ用語辞典を作って読者に配付しようと考えるかもしれませんが、読者はそんなことを求めているわけではありません。カタカナ用語辞典など使う必要のないような言葉遣いで、わかりやすい文章を書かなければいけません。
 それは、高齢者への対応であると考えてはいけません。若年層の新聞離れとも関係がないわけではありません。若い人たちが新聞を読まなくなっているのは、パソコンやスマホでニュースが手に入るということだけではないでしょう。新聞の記事の書き方に馴染めなくなっているという要素もあるでしょう。誰にも理解してもらえる文章を書かなければなりません。学校でNIEによる指導を行っても、新聞を身近なものに感じてもらえない(新聞の購読者が減少する)のであれば、一過性の指導に過ぎないことになります。
 新聞が外来語を話題にするのは、文化庁や国語審議会などについてのニュースを報じるときだけです。自社の紙面の外来語の問題点などを反省して改めようとする記事などは見たことがありません。外来語が多くなったのは、社会に問題があって、新聞社が書く記事とは関係がないというような姿勢です。はじめに書いた「懐手」というのはそういう意味です。外来語が多くなったのは新聞のせいではないというような、自己反省のない紙面が作られています。
 新型コロナウイルス禍にともなう一過性のカタカナ用語は仕方がないと思います。「ソーシャルディスタンス」「クラスター」「フィジカルディスタンス」などの言葉は、コロナ禍の収束とともに消える言葉であるのなら、我慢をしましょう。けれども、これを機会にカタカナ語が増えてしまうのなら、それを抑制する手だても必要でしょう。
 抑制する手だては、難しいことではありません。ふさわしい日本語に置き換えて表現する努力をすればよいのです。カタカナ語をそのまま受け売りして紙面に書き連ねることをやめればよいのです。それをしないで、黙って傍観していたら、ますますカタカナ語が増殖していくでしょう。
 こんなことを書き連ねても、新聞社は読者の意見を無視し続けるでしょう。新聞社は読者の意見に耳を傾けているという素振りを見せていますが、現実は大きく異なっています。本当に耳を傾けていたら、外来語やカタカナ語の氾濫に抑制力を発揮すべきですが、そんな事実はありません。
 新聞は、ジャーナリズムの働きを大きな声で宣伝する前に、使う言葉の点検から始めるべきです。新聞はそんな簡単なことを忘れ続けているようです。

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