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2020年6月11日 (木)

ことばと生活と新聞と(111)

「つなげていこう」は、東京人の感覚の押し売り


 「読む」の可能動詞は「読める」で、「走る」の可能動詞は「走れる」です。同様に、「つなげる」というのは「つなぐ」の可能動詞です。
 その「つなげる」という言葉を、「東日本の言い方が定着」という見出しで説明したコラム記事がありました。

 東京五輪・パラリンピック直前の風景と言えるでしょう。通りに沿って、のぼり旗が立っています。〈みんなの輝き、つなげていこう〉
 「つなげる」は、ひと頃よく批判されました。「ひもをつなげる」でなく「ひもをつなぐ」と言うべきだ、というのです。「つなげる」では「つなぐことが可能だ」の意味になってしまう、と。 …(中略)…
 元は東日本の言い方で、西日本の人はなじみがなかったかもしれません。
 「つなげる」については、すでに1950年代に指摘があり、とりわけ80年代以降によく議論されました。やがてこの言い方も定着し、五輪のキャッチフレーズに使われるまでになったわけです。
 ただし、「つなげる」は「つなぐ」とは少し語感が違います。次世代に「つなぐ」よりも、次世代に「つなげる」ほうが難しいのです。単につなぐのでなく、努力してつなぐ感じです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年1月18日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 東日本の言い方が、今では全国に通用する共通語に定着したというのは、強引な結論だと思います。
 まず、文末に書かれている「『つなげる』は『つなぐ』とは少し語感が違います。次世代に『つなぐ』よりも、次世代に『つなげる』ほうが難しいのです。単につなぐのでなく、努力してつなぐ感じです。」ということについて述べます。それは当然のことです。
 はじめにも書いたように「つなげる」は可能動詞です。「次世代につなげる」というのは、次世代につなぐことが可能であるかどうか、可能になるように努めるという意味ですから、「努力してつなぐ感じです。」というのは当然です。そう言うことが可能なら、「つなぐ」と「つなげる」の意味を同一視することは誤りなのです。
 さて、次に、残念なことですが、のぼり旗の写真の撮影場所が書かれていません。関西では見たことがありませんから、東京の近辺での撮影だろうと推測します。のぼり旗が首都圏対象のものならば、東日本の言い方を使ったに過ぎません。仮にこの言葉ののぼり旗を全国に配付したとしても、作ったのは東京の人間でしょう。「つなげる」という東日本の言い方が全国に定着したという理由にはなりません。
 以前にも書いたことがありますが、もう一度書くことにします。国語辞典は東京人が作って全国向けに販売しています。東京人という言葉は、東京生まれの人間という意味ではありません。全国のどこの出身者であれ、東京で仕事をするようになって、東京が日本の中心だという意識を強めることになり、東京の言葉が全国共通語の中核をなすものだという感覚に陥ってしまうのです。そんな東京人の感覚だけで、日本語の姿を解釈されたら困ります。
 「つなげる」という言葉に違和感を持つ人がいても、それは地方に住む人の感覚だと判断して、東京人の考えを押し通そうとします。東京の言葉は、全国から見れば方言の一つに過ぎないのだというような感覚は喪失してしまっているようです。
 そして、五輪ののぼり旗に使われるようになったから、それは共通語として定着したなどという錯覚を持ってしまうのです。「やがてこの言い方も定着し、五輪のキャッチフレーズに使われるまでになったわけです。」などと断言してよいのでしょうか。
 私たちは、国語辞典によって、東京人の感覚を押しつけられていることがあるのだということを認識して、時には警戒する必要もあるようです。
 新聞記事についても、東京人の言語感覚で書かれた文章が、全国に向けて発信されているということに気を付けなくてはなりません。

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